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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第六章 『記憶の回廊』

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第六章16 『咀嚼の残滓』



 ――何かが壊れていく音を、意識だけが延々と聞き続けていた。

 骨が噛み砕かれ、脳漿が押し潰され、眼球がひび割れて中の水が溢れ出す。
 頭蓋、砕かれているのは頭の骨だ。その内側に詰まっている、大事なものが根こそぎ鋭い牙の力に押し負け、ぐちゃぐちゃになっていくのがわかる。

 灰色の脳髄と脳漿がずぶりとこぼれ、前頭部に溜まっていたわけのわからない黄色い体液と混ざり合い、細い網目のような血管が千切れて赤い鮮血が流れ出す。
 それら全部が一切合財一緒になって、意識と記憶は肉の色をした反吐に化ける。

 痛み、痛みはある。息苦しさもある。
 まるで、割れるように軋む頭の痛み――そう考えて、意識が苦笑した。

 割れるように痛い、なんて話じゃない。
 すでに割れるどころか、大事なものは全部砕け散ってしまった後だ。おまけに痛みを感じる部分だってとうに潰れているのに、今さら何を言い出すのか。

 記憶を溜め込む脳が流れ出し、考えるための器官は潰れ、そもそも生命の維持に必要な部分が根こそぎ失われて、そうなったらどうなるか知っているだろうか。

 そうなってしまえば、人間は『死』を迎えるのだ。
 だから、当然、自分も――。


「――ルス。バルス。しっかりしなさい」

 茫洋とした意識の首根っこが掴まれ、無理やりに明るい場所へ連れ出される。
 戻った最初に感じたのは、耳元で聞こえる誰かの切羽詰った声だった。声には音の震えだけではなく、軽くではあるが頬を叩かれる感触も伴っていて。

「バルス、いい加減に起きないと、瞼を焼き切るわよ」

「――っ」

 寝起きの頭に恐ろしい発言を聞かされて、意識が急速に浮上する。
 声に呼ばれるままに暗黒の世界を抜け、意識は水面に顔を出すような形で息苦しい環境を抜けた。そして、焼き切る前に瞼を開けると、

「――バルス、起きたの?」

「――――」

 すぐ眼前に、薄紅の瞳を細めるラムの顔があった。
 息遣いが届き、少し顎を持ち上げれば唇の触れ合いそうな至近距離だ。無論、そんな色めいた事情があってのことではない。ラムがこうまで顔を寄せているのは、そうでもしなければ互いの顔の細部が見えないほど周囲が暗いから、それだけだ。

 目の前のラムを意識すると、遅れて知覚は尻の下の感触などを拾い始める。細かい砂の粒子の上に体が転がり、スバルは砂海に大の字になっていた。
 一息、スバルの口から呼吸が漏れると、ラムはスバルの瞳の奥を覗き込むようにしばし見つめ、それからゆっくりとカンテラを片手に体を離した。オレンジ色の光が彼女の手の中で闇を切り裂き、スバルは自分が未だ、砂の迷宮に囚われたままになっていることを――否、『死に戻り』したことを理解した。

「俺、は……」

 暗がりのあたりを見回し、スバルは時間をかけて何があったかを思い出す。
 『死』の瞬間の衝撃は常に鮮烈で、記憶を揺すぶる感覚は一向に慣れる気配がない。記憶野の中で地震に呑まれ、確かな『死』を思い出すために翻弄される感覚を味わいながら、スバルは最期の時に指先をかけ、思い出した。

「――――」

 脳裏に凄まじい勢いで蘇るのは、カンテラに照らされるラムの憎悪の形相だ。
 そして、彼女との罵り合いを発端とした、何の意味も意義も見当たらない殺し合いと、その惨たらしい末路。

「うぶ……っ」

「バルス?」

 訝しげな顔をするラムの前で、スバルは思わず口に手を当てた。
 それは数十秒前、ラムと殺し合った事実を思い出しての悲鳴――ではなく、そうなったラムの向かえた凄惨な最期を思い出したことの、嘔吐感だ。

「うっ、え……げぇっ」

 スバルにとって、自分の『死』はすでに両手の指で足りないほど経験している。
 そうして『死に戻り』する世界の中、エミリアやベアトリスといった身内が失われた経験だって、自分の『死』とほとんど同じだけ味わっているのは事実だ。

 だが、スバルにとって『死』は決して慣れるものではない。
 それは自分も同じだし、自分以外の誰かの『死』も等しく同じである。自分が死ぬことには恐れがあるし、身内に死なれるのは考えるだけで心が引き裂かれる。

 ――ましてや、前回のラムの惨たらしい死に様は初めて味わう衝撃だった。

 腹を裂かれ、首を断たれ、無残に全身を傷付けられ、惨殺される姿を見てきた。
 いずれの死に方も苦悶と悲嘆に満ち溢れたもので、死に方を並べて比較するほど悪趣味なことはスバルにはできない。
 だが、ああして頭部を潰され、中身を咀嚼され、損壊されたのは初めてのことだ。

 ラムの端正な造りの顔が、容赦なく牙にかかって潰れるのを見た。
 それも、スバルにとっては最も信を置いている存在の一つでもある、パトラッシュの手で行われた惨劇だ。

「……ぉ、げぇ。げほっ、がほっ」

 思い出すまい、と必死になることは、思い出すのと何ら変わらない。
 ラムの惨い最期を忘れようとすればするほど、スバルの脳裏には地竜の口内に残った桃色の髪の毛と頭部の残骸が鮮明に浮かび上がるのだ。

 結果、込み上げてくる嘔吐感を消化できず、スバルは砂に向かってえずく。
 しかし、喉と胃袋は『死に戻り』の衝撃から立ち直りきっておらず、痙攣するばかりでスバルの意思に従おうとしてくれない。

「げほっ、えほっ……!

「……目覚めたかと思ったらいきなりそれ? 情けないわね」

 地面に手をつき、必死に胃の中身を吐き出そうとするが何も出てこない。口の中は渇ききり、涎の一滴も流れ出てこないのだから驚きだ。
 カンテラを片手にこちらを見るラムの表情は見えないが、懸命になって喘ぐスバルに彼女が呆れているのはその声音から十分に伝わってきた。

 自然、その冷たい態度に『死』の直前の出来事が回想される。
 あの理由もなく湧き上がった殺意に繋がる激情と、その激情を噴出させる発端となった罵り合い――それに駆り立てた衝動が胸の中で喚き、怖くなる。
 だが、

「――噛むんじゃないわよ」

「――っ」

 一言、そう前置きしたラムがスバルの傍らに腰を下ろし、その頤を持ち上げた。
 跪いていたスバルがとっさのことに驚くと、ラムはそんなスバルの反応を意に介さずに口を開かせ、心底つまらなそうな顔のまま――自分の白い指を、スバルの喉の奥へと突っ込んだ。

「……!? ぉ、えぉっ」

「バルスの不器用は筋金入りだと知っていたけど、ここまでだと赤ん坊同然ね」

 他人の指に喉を犯され、スバルの食道が乱暴に凌辱される。
 すると、それまで嘔吐の邪魔をしていた胃袋や喉は新たな驚きを受け入れ、今度は一致団結して胃液と唾液を押し出すために必死に働き始めた。
 そのまま涙目になり、スバルは嘔吐感に任せるままに砂の上にそれをぶちまける。胃液と水分を吐いただけだが、それでも嘔吐の前よりずっと楽になった。

「えほ、げほっ……はぁ、ふ……悪ぃ、もう、大丈夫……っ」

「そう? 満足できたみたいでよかったでちゅね」

「お前な……」

 袖で口元を拭うスバルに、ラムが肩をすくめながら幼児言葉で返す。
 その態度に思うところはあるものの、赤ん坊レベルの粗相をしでかしたのは事実だ。反論する余地などないし、今もラムの掌はスバルの背中を優しく撫でている。
 わかりづらく、辛辣な心遣いだ。

「手、もういいって。それより、ここは……」

「結界が解けて、砂海が目の前で割れたことは覚えているでしょう? そこに竜車ごと呑み込まれて、投げ出された結果がここよ」

 ラムの配慮を振り切り、スバルが周りを見ながらそう言った。それに対する彼女の受け答えを聞いて、スバルは『死に戻り』地点の継続に安堵と不安のどちらを抱けばいいのか判断に迷う。
 ただ、いずれにせよ、行動は早々に起こさなくてはならない。
 その判断に従い、言葉を続けようとして――、

『地下で目を覚まして、バルスはレムのことを心配した? エミリア様のことは? ベアトリス様のことは? 見当たらない誰かのことを、ちゃんと心配した?』

「――ぅ」

 脳裏に蘇ったのは、ひどく鋭く心を抉ったラムの言葉の刃だった。
 前回の終局を招いた不和――味方同士で殺し合ったあの状況は、明らかに異常だ。
 自分のことに違いないが、回想した自分が正常な精神状態にあったとは到底思えない。そもそも、切っ掛けが異常だ。虫の居所が悪かった程度のことが積み重なって、罵り合いから殺し合いになるなど、あまりに馬鹿げている。

「バルス?」

 言葉が出てこないスバルの様子に、ラムが首を傾ける。
 前回のことは、異常な事態が招いた不和だ。だから当然、あんな状態で発されたラムの言葉に不安がる価値はない。――ただ、全て嘘と言い切るのも不自然だ。
 通常ではありえないほど増幅されていたことは事実でも、スバルがラムに感じた不満や憤りは偽物ではない。何もかもが嘘だったわけではないのだ。

 ならば、エミリアたちを心配しないスバルの態度に、ラムが言葉にし難い不快感を抱いたことは事実なのだろう。その感情に配慮するなら、スバルはここで形だけでもエミリアたちの心配をすべきだ。
 実際、心配しているのだから、そう振る舞うのは嘘でもなんでもない。
 ただ、心配したところで何も得られないと、それがわかっているだけで。

「――――」

 今さら、本当に今さら、スバルは欺瞞に気付いて言葉に詰まった。
 それが不和を避けるために必要とわかっていて、それでも欺瞞を口にしてラムを欺くことを心が躊躇った。打算で仲間を心配し、仲間を欺く――嫌気が差す。
 当然、呑み込まなくてはならない躊躇いだ。それが理由で不興を買うなど、それこそ何の意味もないことなのだから。

「その……みんなは……」

「――そんなに自分を責めても無駄よ。誰の責任か、なんて追及することに意味なんてないわ。そんな時間の無駄より、優先すべきことがあるはずだわ」

 しかし、スバルが心配する言葉を口にする前に、ラムの方がスバルの感情に勝手な帰結を得た。というより、深刻な顔をするスバルの表情を読み違えたというべきか。
 ラムの洞察力からすれば珍しい事態だ。時に人の心を見透かしたような言動をする彼女の誤りは、内心、彼女がそれだけ焦っている証拠でもある。

「ただでさえ、バルスがゲロ吐いていた時間を無駄にしているんだから」

 もちろん、ラムはそんな自分の心の荒れ模様を見せるような真似は決してしない。
 その強がりとも頑固とも言い切れないラムの姿勢に、スバルはなんと言っていいのか判断に迷った。結局、何も言えないままラムの方が先に動く。
 彼女はスバルの口に突っ込んだ指を拭うと、カンテラを迷宮の奥へ向けた。

「グズグズしていられないわ。レムと……それに、エミリア様たちと合流しないと」

「わ、かってる……その、ここにいるのは?」

「ラムとバルスを除けば……ちょうど、戻ってきたところのようね」

 ラムの背中に取り繕うように確認して、彼女の言葉と視線を辿って奥を見る。
 迷宮の向こうからやってくるのは、ゆらゆらと明かりを揺らすアナスタシアとパトラッシュだ。闇に溶ける漆黒の地竜を遠目に見て、スバルの眼球が微かに震える。

 ちらちらとオレンジの光に照らされる、その凛々しくも凶暴で美しい顔立ち。
 閉ざされた口の中に並ぶ、刃と見紛う牙の列が、少女の頭部を噛み砕き、そして立て続けにスバル自身さえも――。

 あんなこと、普通に起こるはずがないのに。

「馬鹿か、俺は……いや、馬鹿だ俺は」

 小刻みに震え出す奥歯を噛みしめ、スバルは自分の弱気を押し殺そうとする。
 あの異常な不和の中、向けられた殺意が本物であったはずがない。パトラッシュに殺されたことは、スバルにとっても癒えない傷として心に刻み込まれた。
 それでも、スバルは自分を殺した存在と向き合うことを繰り返してきたはずだ。

「そうだよ。レムだってラムだって、最初は……さ」

 今しがた、温もりを覗かせたラムだって。
 あれだけスバルを献身的に支え、許してくれたレムだって。
 最初の関係は最悪だったし、命を狙われたことも、奪われたこともあったのだ。

 それと比べれば、本意ではなかった先の出来事など、可愛いものだ。

「そうだ。そうだろ。……そのはず、なんだ」

 自分の肩を抱き、スバルはまるで寒さを堪えるように肌を擦る。
 砂海の地下、砂と闇に支配されるこの場所は確かに寒い。しかし、寒気を感じる理由は決して、外気のそれとは原因を異にしている。

「――ナツキくん、目覚めたみたいやね」

「――おかげさまで。それで、見回ってきてどうでしたか?」

 正面、ラムとアナスタシアが言葉を交わしている。
 この砂の迷宮の攻略方針と、今しがた得てきた情報のすり合わせを行っているはずだ。本来、スバルはそこに混ざり、伝えなくてはならないことが多くある。
 それなのに、今は心を落ち着けることを優先しなくては、膝が動かない。

 『死に戻り』したことで、『死』の直前の出来事や影響は置き去りにしたはずだ。
 それなのに、消そうとしても恐怖は浮かび、あの瞬間の激情は蘇る。

 スバルは延々と、その感情を押し退けるために抗い続けた。

「――――」

 そんなスバルの様子を、漆黒の地竜はただ寂しげに見守っているのだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――『死に戻り』したはずのスバルの心が、元に戻りきれていない。

 そんな一部の事情を除けば、四人の地下迷宮探索の内容はほとんど同一だ。
 自分たち以外の仲間の姿を求めて、スバルを先頭にした集団は冷たい闇の中をゆっくりと進む。カンテラで通路を照らし、道端に倒れている影がないか目を凝らしながら、その歩みは遅々として、もどかしいほどだ。

「――――」

 本音を語れば、スバルはこの道中の確認作業を省略してしまいたい。
 すでにスバルにとって、このあたりは二度通った道のりだ。見渡せる範囲にエミリアたちが転がっているはずがない。かといって、それを後ろの二人に訴えかけることに意味はないし、見落としがあると言われれば抗弁は不可能だ。

 結果、ただでさえ落ち着かず、もどかしい行軍はペースの上がらないまま、スバルの焦燥感だけを募らせる時間が刻々と過ぎていく。

「他のみんなも無事やとええけど……うちらの場合、パトラッシュちゃんがおる分だけギリギリ運が良かった方かもしれんし」

「――――」

「足がない場合のこと考えたら、砂海の中なんて地獄やもん。不安はやっぱり、普通に戦力不足なことやろなぁ……」

「――――」

「最悪、うちも切り札出すんは躊躇わんようにするけど、程々にせんと後がないから怖いんよ。せやから、二人のこと頼らせてな?」

「――――」

「……ちょぉ、ナツキくんもラムさんも話聞いてる? さっきからずーっと、うちが一人で喋っとるやないの」

 探索の道中、ずっと喋っていたアナスタシアが膨れる気配。相槌も入らない環境に不服を申し立てる彼女に、スバルは足を止めて振り返った。
 それから竜上にいるアナスタシアを照らし、鼻から呆れた息を抜いて、

「ようもまぁ、喋る内容が尽きずに続けられるもんだな。……今は他の奴らを見つけるために必死になるべきとこだろ。無駄口叩いてる暇なんてねぇよ」

「無駄口やなんてとんでもやないの。うちはちゃぁんと今後の方針に関係あるお話してますぅ。それに、お喋りが尽きないんは普段はナツキくんの役目やん。今に限って静かぁにされたら、女の子二人……んーん、四人が不安になるやないの」

「四人、ね」

 唇を曲げるスバルに、口の減らないアナスタシアがそう応戦する。
 二人ならカウントはラムとアナスタシアだが、四人と言い直したのなら襟ドナとパトラッシュを加えた結果だろう。厳密にはアナスタシア=襟ドナ状態なので、三人と言い換えるべき場面だが――そもそも、訂正する問題でもない。

「――――」

 頬を膨らませるアナスタシアに、スバルは黒瞳を細めて考え込む。
 本物のアナスタシアは休眠中で、今は襟ドナが装っているだけ。にしても、その振る舞いもだいぶ馴染んできて、まるで溶け合っているかのようだ。
 主導権を握っているのがどちらでも、彼女の表情や言動から内心を見透かすことができないのは、残念ながら変わらないのだが。

 ――前回、殺し合いに陥った不和の中、結末の凄惨さでラムとパトラッシュのことばかりが意識にあるが、アナスタシアの態度にも違和感はあった。

 ラムの敵意とパトラッシュの害意、明白におかしくなった二人はわかりやすい。
 だが、アナスタシアのそれは一見して狂気に陥ったか判断しづらく、最後の瞬間まで彼女の心がどんな色になっていたのかはわからないままだった。

 無論、地力の差でアナスタシアはラムに殺されたが、非常用持ち出し袋の中のナイフを隠し持ったり、取り成すように見せかけて隙を窺うなど、その狡猾さはどこまでも油断ならない。
 常日頃、意識していなければどこで寝首を掻かれてもおかしくは――。

「……なんだってそうやって」

 ――敵対することばかり、ずっと考えているのだろうか。

「――ッ」

 通路の正面を向き、スバルはラムたちに見えない位置で自分の頬を殴る。
 手加減抜きの一発に口の中が切れ、鋭い痛みと血の味を舌先に感じた。そうして自分自身を痛めつけて、混濁する意識の矯正を行う。

 ラムやアナスタシア、彼女らが異常なのではない。
 現時点で異常性を手放せていないのは、他でもないスバルの方だ。

「すげぇな。自分で自分がおかしいのがわかるって、ゾッとしねぇ」

 自分が狂っているのか、相手が狂っているのか。
 自分以外の何もかもが間違っていると、そう驕ったことがスバルにはあった。
 究極的には当然、それは全て誤りである。迷走するスバル自身、傲慢に己が正しいと決めつけ、周囲を否定して回った馬鹿な経験をしただけだ。
 最後には自分が間違っていたのだと、最初からわかりきっていたことを指摘され、それを認めることができた。だから、それは正しく、鮮やかな記憶だ。

 だが、現状のスバルはその自分の異常性を、正常さの中で認識している。
 その上でその異常性を飼い馴らせていないのだから、それはひたすらに恐ろしい。

 この境地に、スバルは覚えと心当たりがある。
 この荒涼とした心の感覚と、どこまでも孤独に狂っていく飢餓的な狂気。

 これは狂人、ペテルギウス・ロマネコンティの至っていた地平だ。
 自らの狂気を自覚して、異常性を正常に認識する、あの狂人の見た景色だ。

「バルス、どうかしたの?」

 嫌な共感性を味わいながら、震えるスバルの背中にラムの声がかかった。
 スバルは涎に混じる血を飲み下し、それから何事もない素振りで二人に振り返る。

「いや、なんでもね。靴の中に砂が入って気持ち悪いだけ」

「……別にバルスの一人が黙ったぐらいで、ラムの心に影響があるなんてことは微塵もないけど、アナスタシア様の言葉にも一理あるわ」

「ってーと?」

「黙り込んで、は別にしても、何かを抱え込んで女を不安にさせるものじゃないわ。そうさせたくないなら、もっとうまく隠すようになさい」

「――――」

 ぴしゃりと言われて、スバルは再び唇をへの字に曲げた。
 ラムの言葉の意味は明白で、勘違いのしようがない。そうすると、ラムの言葉がアナスタシアのわかりづらい配慮の翻訳であったことにも気付ける。
 まるで見透かされているようで、心がささくれ立った。

「漠然としたもんだよ。話してわかるとは思えない」

「バルスの発言の意味がわからないなんて今さらだわ。そのことを心配するなら、もっと日頃から配慮するべきね」

「ラムさんって、ナツキくん相手やとホントに容赦ないなぁ」

 舌打ちするスバルの言葉に、ラムは相変わらずの舌鋒をぶつけてくる。その毒のあまりの濃さと鋭さに、アナスタシアの方が苦笑するほどだ。
 そのアナスタシアの穏やかな制止に、ラムはしかし肩をすくめて、

「ご安心ください。バルスは喜んでいます。苦難を喜ぶ変態なので」

「何の話? ねえ、俺の何を見た上での判定なの? あんまり自由にサンドバッグにするなよ? 知ってる? 打っていいのは打たれる覚悟のある奴だけだよ?」

「ハッ」

 小馬鹿にするように鼻を鳴らすラムの態度は、ほぼほぼ普段の彼女そのものだ。
 スバルの心持ちと違い、すでに平静を取り戻せている彼女が羨ましくもあり、妬ましくも憎たらしくもあって、そう考える自分に嫌気が差した。

 ただ、それでも普段の軽口を交わしていれば、不穏の影の色は薄められる。それは紛れもなく、スバルが彼女らとの日常の中で作り上げた光明そのものだった。

「説明しづらいのをどうにか説明すると……ちょっと今、被害妄想が激しい」

「――――」

 改めて言葉にすると、想像以上にフワッとした内容になってしまった。
 それを受け、ラムやアナスタシアが唇をへの字にするのも頷けようものだ。

「――――」

 ちらと見れば、パトラッシュまでもなんだか呆れているように見える。
 賢く、物事の道理の何たるかを弁えているパトラッシュにとって、今のスバルの不甲斐なさは目も当てられまい。いっそ、スバルのことなど見限って、適当な主と鞍替えしてやった方がよほど彼女のためになろう。
 実際、ラムやアナスタシアの方がパトラッシュを上手く扱える気がする。そのために邪魔だと思うなら、スバルに牙を剥くのも自然で――、

「ストップ、ストップだ……」

「聞こえ方の間抜けさに比べて、深刻なんやーってことはわかったわ」

 パトラッシュと見つめ合い、徐々に剣呑になるスバルをアナスタシアがそう評する。客観的におかしい、と認められると安堵と不安が同時に湧く。
 ようは彼女らの選択肢の中に、スバルを排除するというものが生まれたわけだ。そうなる前にこそ、いっそ――。

「俺、超めんどくせぇ」

「これ、もしかして本気でふん縛って運んだ方が楽なんとちゃう?」

 顔を赤くしたり青くしたり、一人で百面相するスバルにアナスタシアが匙を投げた。そのアナスタシアの判定にラムは「だけど」と思わしげに眉を寄せる。

「そうやってバルスの四肢をもいでも、根本的な解決にはなりません」

「あまり強い言葉を使うなよ。俺という敵を作るぞ」

「大した脅威じゃないけど、ラムもエミリア様やベアトリス様を敵に回すのは御免被りたいわね。……レムにも顔向けできなくなるし」

 考え込むラムに対して、スバルは敵意を抱かないように苦心する。
 そんな風に自分の感情と戦う一方、不思議に思っていることが実はあった。

 それは本当に今さら、この状況で考えるべきことではない。
 ただ、このプレアデス監視塔攻略の旅に出て、砂の迷宮で二度の『死に戻り』を経た今、表出する疑問であった。

 ――レムについて、ラムがやけに敏感に反応するのが気にかかるのだ。

「――――」

 もちろんスバルにとって、ラムがレムのことを気にかけるのは良い兆候だ。
 スバル以外の誰の記憶にも残っていないレムにとって、彼女と双方向に絆を結んでいるのはスバルしかいない。それはある種、特別感をスバルにもたらしてくれこそするものの、物理的な意味では何の意味をもたらすものでもない。

 そのレムの孤立した事情に、ラムは限りなく親身に近付こうとしている。
 無論、レムの記憶が彼女の中に残っていないのは、この一年で嫌というほど思い知らされた事実だ。ただその一方で、ラムが自分と瓜二つのレムという少女の存在を、『スバルから知らされた真実』以上に重く受け止めていることも間違いない。

 そしてどうやらその感情は、スバルが『想像を超えたと想像していた』以上の実感をラムにもたらしているらしい。
 そのことは先の迷宮の不和――その切っ掛けとなった、スバルの配慮に欠けた言動への爆発からも窺える。

 思い出したわけではない。なのに、思い出したのに匹敵するラムの想い。
 彼女は情が、おそらくスバルの考える以上に深い。
 ――ただ、本当にそれだけなのだろうか。

「……いやらしい」

「いや、いやらしくねぇよ。そんな目じゃねぇよ。それこそ被害妄想だよ!」

「自分を棚に上げてそれ? これはもう駄目ね」

「俺が棚に上がってるとしたら、お前は神棚に自分から上がって見下ろしてるよ?」

 そうして、普段と関係は変わっていないのだと、軽口を交わす間は安心できる。
 仮に即座に気分が入れ替わり、温かな感情が冷たい害意に変わるとしても。
 その間だけは、誰かを憎まずいられるのだ。

「ナツキくんの動向には注意するとして……原因は、あれかなぁ」

「アナスタシア様もお気付きですか」

「そりゃ、ナツキくんがこうまであからさまに影響受けるとそう思うわ」

 疑心暗鬼と被害妄想に侵されるスバルの事情に、ラムとアナスタシアが心当たりがある様子で顔を見合わせる。というより、スバルも原因だけならわかっている。
 二人の洞察力と、警戒心ならばそれはなおさらだ。ああして会話しながらも、スバルの一挙一動に注意深く気を払っているのが忌々しいほどわかる。

「忌々しいって……アホか」

「何か言った?」

「自分の馬鹿さ加減にな。それで、心当たりって?」

 自分の感性に首をひねっていると、ラムとアナスタシアにも首をひねられる。それからスバルの質問に、二人は揃って正面を指差した。
 その動きにつられて前を見れば、なるほど彼女らの言いたいこともわかる。

 ――目の前に、あの分かれ道が姿を現したのだ。

「さっきから嫌ぁな風が流れてくるんは感じてたけど……原因がわかったわ」

「この悪い風が不和を呼ぶ。メィリィの話だと、バルスの体臭は魔獣を呼び寄せるそうだし、元々、相性が悪い……いえ、良いのかしらね」

「これ、この嫌な感じがなんだかわかるのか?」

「バルスの現状と、バルスの体臭と、掛け合わせると答えは一つよ」

「体臭って何度も言うな」

 過去二回は単純に『嫌な感じ』というところで全会一致した内容。そこにスバルの体質と現状が絡み合うことで違う見解が生まれる。

 ラムとアナスタシアは顔を見合わせ、それから頷き合うと同時に、

「瘴気」

「魔女の、あれか。となると、この先にいるのって……」

「確信はないけど、元々、砂丘の奥に『魔女の祠』があるのは周知の事実。ああして砂海が解けた以上、何かの間違いで繋がっても……」

「とんだ近道になった、言うことなんかなぁ。それで、やけど」

 精神を掻き乱し、殺し合いを呼ぶほどの不和を生んだ原因を瘴気と断定。
 その上でおぞましき存在の可能性を言葉にし、アナスタシアが苦笑いしながら道を指差す。

 二手に分かれる分かれ道、右からは瘴気が漂い、左にはケンタウロスの巣。
 無論、左の道に潜む脅威については、この後でうまく話すつもりではあるが――今優先すべきことは、どちらへ進むか。

「で、どっちに進むんが正解やと思う?」

 アナスタシアの問いかけに、スバルとラムは顔を見合わせる。
 そして、寸分の狂いもなく声を合わせ、言った。

「――左」

 そういうことになった。
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