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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第五章 『歴史を刻む星々』

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第五章73 『テレシア・ヴァン・アストレア』


 ――実は一目惚れだったんですなんて知ったら、あなたはどのぐらい驚いてくれましたか?





※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 テレシア・ヴァン・アストレアに『剣聖の加護』が宿ったのは、彼女が十二歳のときのことだった。

 それは唐突に、何の予兆もなく彼女の人生を大きく揺るがす出来事だった。
 普段通りの日常の中、それはふいに彼女の下へ舞い降りたのだ。

「――? ひょっとして、私が選ばれた?」

 真面目に、そんな感覚でテレシアは加護を授かった。
 そしてその事実をテレシアは、しばらく自分の中で秘密にし続けることになる。



 ――アストレア家は代々、『剣聖』を輩出し続けた剣の名家だ。

 初代『剣聖』レイド・アストレアが、数百年前に成し遂げた偉業の結果として、アストレア家の剣は親竜王国ルグニカに欠かせない存在として認められてきた。
 その因習は何百年も経過した、テレシアの時代にも脈々と受け継がれている。

 そのため、アストレア家に生まれたものは皆、『剣聖の加護』の有無に関わらず、剣に携わる生涯を歩むことが半ば定められていた。
 テレシアの父はもちろん、二人の兄と末の弟なども同じだ。剣才や加護の有無とは別に、物心ついたときから剣に親しむのはアストレアの伝統であった。

 そんな養育が当たり前のアストレア家に生まれて、では女児であったテレシアはどう育ったかというと――これがまったく、剣とは無縁の日々を過ごしていた。

 無論、アストレア家に生まれついた以上、男女問わず、剣は持たされる。
 テレシアも兄弟たちと同様に、厳しい指導を受けながら剣を振るわされる日々はあった。あったのだが、これがまったく、テレシアには見るべき剣才がなかった。
 というよりも、剣と向き合う姿勢が欠片も存在しなかったというべきだ。

 多くの少女がそうであるように、テレシアは剣に何ら興味がなかった。
 扱いが上手い下手の問題ではない。やらされているだけの剣術、身の入らない修練と反抗的な態度。それらが続けば、両親が彼女に剣を振らせ続ける意義を見出せなくなるのも当然の話だ。

 ――『剣聖の加護』は、剣神の寵愛に与るだけの価値を示せてこそ賜れる。

 代々、アストレア家の人間だけが継承することができる『剣聖の加護』。いまだその詳細の明かされていない加護について、少なくとも当時はそう考えられていた。
 剣に真摯に向き合い、その剣才を認められてこそ加護は授かることができる。

 女児であり、剣に興味がなく、そっぽを向き続ける長女。
 テレシアが早々に『剣聖』の可能性を見限られ、自由に身勝手を許されるようになったのは必然の流れだった。

 剣の稽古から、半ば無理矢理に自由をもぎ取ったテレシアであったが、彼女にだってそれなりの言い分がある。
 もちろん、これっぽっちも『剣聖』に興味がなく、剣に打ち込む意義を見出せなかったことも稽古に身が入らなかった原因ではあるが、最大の要因は別だ。

 ――テレシアには生まれ持った加護、『死神の加護』の自覚があった。

 自分が他人に負わせた傷は、決して癒えることなく血を流し続ける。
 他者の命を奪うことに、ただひたすらに特化したその力を自覚したとき、幼いテレシアの中に宿ったのは、自分の掌が生み出す結果への恐怖だった。

 剣の稽古など、その恐怖を助長させる最たるものだ。
 たとえ稽古だろうと修練だろうと、テレシアの制御できない加護は機会を選ばない。ひっかき傷程度でも、一生癒えない傷であれば笑うことなどできはしない。
 ましてや剣で作った傷など、些細な事故で命を奪いかねないのだから。

 故に剣の稽古から解放されて、人知れずテレシアは安堵していた。

 人を傷付けずに生きることは、意識して過ごせば実は非常に難しいことだ。
 意識的に、能動的に他者を傷付けようとしなくとも、不慮の事故や無意識の行いは誰にでもいつでも起こり得る。落とした皿の破片で指先を切らせたとして、それに加護の力が働かないなどとどうして確かめられる。

 まだ幼かったテレシアという少女は、人との関わりを無意識に避けていた。
 触れることがなければ、近付くことがなければ、人を傷付ける心配もない。自然と彼女は人目を避けて、花と過ごすことが多くなっていった。
 剣を捨てる自由を得た彼女は、屋敷の庭園に自分だけの花壇を作り上げ、そこで季節の花々を育て、愛でることを慈しむ少女となった。

 必死の形相で剣を振り、痛ましいほどの修練を繰り返す兄弟たち。
 そんな彼らの姿に疎外感や、申し訳なさを覚えなかったわけではない。ただ、加護のことを伝えることもできず、彼女の話し相手は自身の育てた花々だけだった。

「いつか、こんな私でも、誰かと一緒に過ごせるようになるのかな……」

 悩み、惑い、そんな想いを打ち明けられるのも、風に花弁を揺らす花々だけ。
 これもまた多くの人間がそうであるように、テレシアもまた他者を愛し、誰かに愛されることを望む平凡な少女であった。
 ただ、兄弟たちや親の志に背き、誰かを傷付けて奪いかねない加護を自覚する自分に、誰かと隣り合う資格があるのか、そう自問自答する日々は尽きなかった。

 ――テレシアの下に剣神の寵愛が降り注いだのは、そんな日々の最中だ。

「――? ひょっとして、私が選ばれた?」

 突然に、その自覚がテレシアを襲った。
 それは『死神の加護』の自覚よりも、はるかな違和感として彼女にのしかかる。
 当然だ。生まれつきの加護は、彼女にとって目が見えること、耳が聞こえることのようにあって当たり前の機能でしかない。
 新たに加護を授かるという変事は、それこそ唐突に翼が生えたようなものだ。本来はなかった新しい機能が、突然に芽生えるなど違和感以外のなんで歓迎できる。

 ――剣を、握ってはならない。

 テレシアは新たな加護に、嫌悪感と嘔吐感を覚えながらそう思考していた。
 かつて、無理矢理に剣を振らされていた時間が思い出される。あのとき、自分が如何に無駄で、無意味で、無為で、無用の行いをしていたのか如実にわかった。
 最善の、最適の、最良の、最上の、剣の振り方が本能で理解できる。

 人を殺すことに特化した自分が、人を殺すための技術を完全に理解した。

「――ッ」

 それは恐怖だった。それは絶望だった。それは、世界の終わる日だった。
 ただの少女である皮を被り、ただの少女であるふりをし続けられる時間が終わってしまい、少女の姿をした死神であることを痛感してしまった。

 テレシアは授かった加護のことを、誰にも言わなかった。
 『死神の加護』のことも、『剣聖の加護』のことも、永遠に隠して、心の中に仕舞い込んで、自分が殺戮するための化け物であることを封じ込めようとした。

 具合が悪いと訴え、屋敷の、自室に閉じこもった。
 自分の花壇を手入れすることすら忘れて、テレシアは自分の殻にこもった。眠る以外のことはしないで、いつか息苦しさに顔を上げたとき、全てが夢であればいいのだと子どもじみた夢想を描いて、殻に閉じこもり続けた。
 だがそれは所詮、嫌なものから目を背ける子どもの浅知恵に過ぎない。

 ――テレシアが『剣聖の加護』を継いだことは、すぐに明らかになった。


「兄さん。……次の『剣聖』は、あなたの娘だ。この子だよ」

 アストレア本家――テレシアの生家であり、『剣聖』の家系の総本山。
 その屋敷へ足を運び、寝台で丸くなるテレシアを次の『剣聖』だと暴いたのは、テレシアの先代の『剣聖』である叔父だった。

 『剣聖の加護』は代々、アストレア家にのみ継承される特別な加護だ。
 その加護はある日、唐突に当代の『剣聖』から次代の『剣聖』へと継承される。そして継承が終われば、『剣聖』は役目から解放され、加護を失う。
 当代の『剣聖』が加護をなくせば、次代の『剣聖』が誰であるのか、王国を挙げて捜索が行われるのは当然のことだ。
 そして先代の『剣聖』には、新しい『剣聖』が誰なのか一目でわかる。

 テレシアの閉じこもる日々は、そうして終わりを告げた。


「剣を持ちなさい、テレシア」

 痩せこけ、髪も肌のボロボロの状態で、テレシアは庭へと連れ出された。
 素足で、寝間着姿のままで、意識は夢と現をさまよっている有様で、それでも叔父は乱暴に彼女を庭へ引きずり出し、無理矢理に木剣を握らせた。

 細くなった指先で、テレシアは嫌々と何度も首を横に振った。
 しかし、嫌がる彼女の訴えを誰も聞かない。叔父は木剣を何度も握り直させ、諦めたように柄を握るテレシアの背を押し出し、前を向かせた。

 テレシアの正面には、四つ上の長兄が立っていた。
 優しげな、人の好い顔立ちをした長兄は、戸惑った顔をしていた。目の前で起きている出来事を受け止められず、困惑しているのが一目でわかる。

 ――隙だらけだ。

 そう考えた自分に、テレシアは愕然とした。
 驚愕に心を衝撃が突き抜け、テレシアは言葉が出ず、目を見開いたままでいる。

 そんなテレシアの様子を無視して、叔父は低い声で長兄に声を投げつける。
 長兄にも木剣を構えさせ、テレシアと真っ向から打ち合えと。その木剣で妹を殴り倒して、自分の剣才を証明してみせろと。

 できるわけがない、と長兄は叫んだ。
 優しい兄だった。剣の修練に一生懸命で、アストレア家の在り方に何の疑問も持っていなかったけれど、妹のテレシアには優しいだけの兄だった。
 傷付けるのが怖くて、自分からは触れられなかったけれど、大きな体の兄に抱き上げられるのは好きだった。優しい、優しい、兄だった。

 この臆病者め、と兄を罵る叔父の声が響いた。
 先代『剣聖』の侮蔑に、その背中に憧れていた長兄がひどく傷付いた顔をした。長兄が、次兄が、弟が、誰に憧れて剣を振り続けたかテレシアは知っている。
 そんな人に罵られて、長兄は大いに傷付いた。この騒ぎに連れ出されて、庭の端で同じものを見せられている次兄と弟も、同じだけ傷付いた顔をしていた。

 やがて、長兄は傷付いた顔をしたまま、悲壮な覚悟を瞳に宿した。
 真っ直ぐ、振り続けてきた剣力の全てを傾けて、正眼に木剣が構えられる。

 揺れる先端と、長兄の鋭い視線で、テレシアは悟る。
 兄はテレシアを傷付けないように、自分の握る木剣を叩き落とそうとしている。構えと、視線と、体中の剣気がそう言っているのがわかるのだ。

 兄ほどの技量があれば、格下の相手にそうすることは難しくない。
 剣才を証明し、テレシアから剣を奪うには十分だった。

「――――」

 叔父の掛け声があり、当事者の誰も望んでいない決闘が火蓋を切った。

 長兄が気合いを叫び、研ぎ澄まされた剣気がテレシアに突き刺さる。
 相手を委縮させ、挙動を制するだけの力がある剣気だ。剣を振り上げることさえしなければ、木剣を叩き落とすことなど容易い。

 この戦いは初めから、目論見からして誤っているのだ。
 テレシアには戦う理由がなく、兄にもテレシアを傷付ける理由がない。両者の利害が一致しているのに、争いなど起きるはずがない。
 ないのに――、

「――そこまで」

 遠く、跳ね上がった木剣が真っ直ぐ剣先から庭に突き立ち、声がかかる。
 神妙な叔父の声に我に返れば、テレシアの手の中で木剣は正面へ伸び上がり、呆然となった兄の喉笛に剣先を突き付けていた。

 ――振り下ろされる兄の剣撃を巻き取り、木剣を奪ったことを思い出す。

 あとは喉に剣先を突き付け、いつでも殺せると力の差を示した。
 長兄はあまりの出来事に、その場に膝をついてしまう。それを見届け、テレシアは唇を震わせながら振り返り、決闘を見ていた次兄と弟を、両親を見た。

 全員が愕然と、信じられない顔で結果を見届けていた。

「次代の『剣聖』はテレシアだ。やはり、間違いない」

 そう言った、叔父の声だけがやけにむなしく聞こえた。

「ぁ……あ、ぁ……」

 テレシアは木剣を取り落とし、自分の手を見つめて、その手で自らの赤い髪を掻き毟った。血が出るほど掻き毟って、獣のような声を上げて、絶叫した。

 絶叫して、半狂乱になって、血を吐くほどに悔やんで、後悔して。
 テレシアは、『剣聖』になった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 兄弟たちが剣に捧げた時間を、テレシアの剣才は容赦なく踏みにじった。
 修練の時間の多寡など、圧倒的な剣才の前には何の意味もない。

 『剣聖』になったテレシアの目には、兄弟たちの剣の欠点が透けて見える。あれだけ時間を費やして、そんな欠点も見えていないのかと考える自分に愕然とする。
 それと同時に、あれだけはっきりとテレシアとの差を見せつけられても、剣に打ち込み続ける兄弟たちがひどく哀れだった。

 長兄にも、次兄にも、弟にも、剣以外に情熱を傾けられるものはないのだ。
 アストレア家に生まれて、剣の誉れたる名家に育って、剣にその人生の大半を捧げ尽くしてきたのだから、その頂を妹に、姉に奪われても進み続けるしかない。
 絶対に、あの域に辿り着けないと、わかっていても。

 ――なんて、馬鹿なんだろう。

 そう思ってしまう。
 自分の好きなことをすればいいのに。もう、剣のことなんてどうでもいいのに。
 テレシアにはもう許されないのだから、自分の好きな世界を生きたらいいのに。

「テレシア様、支度が整いました。そろそろ、出発しましょう」

 自室の窓から庭を見下ろし、剣を振る兄弟を眺めていたテレシアに声がかかる。
 振り向けば、そこにいたのは美しい金髪を短く切り揃えた、同年代の少女だ。

 彼女はキャロル・レメンディス――優秀な騎士の家系であるレメンディス家の人間であり、卓越した剣技を認められ、年齢が近しいとしてテレシアの付き人を任じられた人物でもある。

 実際、彼女の剣士としての実力は優秀だ。
 声高に比較することはしたくないが、その剣力は兄たちにも匹敵するだろう。
 生真面目な性格で、剣術に一辺倒で、同じ女子としては不安になってしまうが。

「ええ、いきましょ。今日はお城の人たちの教導よね」

「はい。城の皆も、テレシア様にご指導いただけるとあって期待しています。無論、私もそれは同じ気持ちでいますが」

「……キャロルはもう十分、強いと思うんだけど」

「とんでもありません。私など、テレシア様の足下にも及びませんよ」

 まるで自分を卑下するように、キャロルは己の実力をそんな風に評する。
 テレシアとしては甚だ不本意な評価だ。なにせテレシアはこれまで一度も、キャロルの前で剣を握ったことがない。否、それどころの話ではない。

 テレシアが最後に剣を握ったのは、長兄と木剣で果たし合ったあの日が最後だ。
 それから二年以上、テレシアは剣に触れてもいない。

 それでも『剣聖』としてのお役目は回ってくる。
 自分が『剣聖』であることだけは隠しようのない事実。アストレア家全体に迷惑をかけるわけにもいかず、唯々諾々とその役回りだけには従っている始末だった。

「見るべきものが見ればわかります。たとえその姿を見たことがなくても、テレシア様が剣を握られれば、それこそ誰も及びつかない力を発揮されるだろうと」

 確信めいたキャロルの言葉に苦笑する。
 そんな彼女と連れ立って、テレシアはお役目である兵士の教導などに足を運ぶ。教導といっても大それたことは何もしていない。

 武器を構え、普段通りの練兵を行う彼らの悪い部分を指摘して回るだけだ。
 『剣聖の加護』の恐ろしいところは、およそ戦闘における本能の全てを補ってくれるところだろう。それは何も剣技に限った話ではない。槍だろうと斧だろうと、戦技に関わることであれば、テレシアにはその良し悪しの全てがわかった。

 その一つ一つを指摘してやれば、兵士たちの動きは見違えるほどに変わる。
 それでもテレシアから見れば、欠点だらけの挙動には違いないのだが、そんなささやかな変化であっても、才無きものにとっては大いなる違いなのだ。
 感謝され、尊敬されることに、テレシアは居心地の悪さを感じていた。

 今すぐ、逃げ出してしまいたい。
 こんな場所から、望まぬ力を望まれる場所から、遠ざかってしまいたい。

 『剣聖の加護』を授かったときと同じように、テレシアは境遇に絶望する。
 部屋に閉じこもって、自分の殻にこもって、運命という波風が収まってくれることに期待しようとしてしまう。

 ――その他力本願の、責任逃れの、罰が当たったのかもしれない。


 親竜王国ルグニカで、大規模な亜人の連合との衝突が発生。
 それはあっという間に、王国内に色濃く残り続けていた亜人蔑視の因習と深く結び付き、国内にいた亜人たちの長年の不満とも絡み合って燃え上がる。

 王国最大にして最悪の内戦、『亜人戦争』が勃発したのだ。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 王国の東部を発端としたこの内戦は、日毎にその深刻さを増していった。
 当初は小勢の亜人ごとき、あっさりと鎮圧されるものかと思われたが、王国は水面下で繋がる亜人たちの関係性の深さを侮っていた。

 その上、どうやら亜人たちの間には、繋がりを持たなかったそれぞれの種族の橋渡し役を務めた存在がいたらしく、内戦の火の手は瞬く間に各地へ広がっていく。
 燃え上がる戦乱の渦は止まることなく王国に蔓延し、その火消しに一年を費やして何の成果も上がらなかったとき、ようやく未曾有の事態であると王国は認めた。

「当代の『剣聖』であるテレシア・ヴァン・アストレアに告ぐ。内戦の鎮圧に奮戦する騎士や兵たちと同様に、卿にも戦果を期待する」

 これまでにない戦力を投入し、王国全体の問題と受け止めた上級貴族たちが、『剣聖』という最強の存在を温存しておくはずもなかった。
 当然のようにテレシアにも、内戦への参戦を要求する報せがもたらされた。

 ――くるべきときがきてしまったのだと、テレシアはかつてない絶望を得た。

 これまでのように、自身のわがままで剣を握らずにおれた日々とは違う。
 求められるのは『剣聖』としての知識を振るうことではなく、『剣聖』としての剣力を振るうことなのだ。

 剣を、握らないわけにはいかなかった。
 代々『剣聖』にのみ持つことが許される龍剣レイドを、このとき初めてテレシアも持たされることとなった。

「だが、その剣は抜くべきとき以外には抜けない。それ以外の剣を持つ必要があるだろう。自分に見合ったものを見繕うといい」

 わかったように助言してくれたのは、先代の『剣聖』である叔父だった。
 かつて龍剣を腰に携えていた叔父は、その剣が気紛れであることを知っている。叔父の助言に従い、テレシアは一振りの長剣――付き人であるキャロルも愛用するそれが、自分にとっても相性がいいだろうと一目で見抜き、それを選んだ。

 ――テレシアの初陣には、キャロルも、そして叔父や兄弟たちも同行した。

 テレシアにとっての初陣、晴れの舞台であるなどとまでは言わない。
 それにしても、目を離すわけにはいかない出来事には違いない。当代のアストレア家の剣を、王国中に知らしめる絶好の機会なのだ。

 テレシア自身の心の在り方と無関係に、周囲は勝手に盛り上がっていく。
 『剣聖』がいれば負けるはずがないと、誰もが勝手に期待をかけている。

 周囲から浴びせられる、その無神経な信頼に、テレシアは怯えていた。
 普段のように、誰にもそれを明かせず、心の奥底に仕舞い込んだまま、テレシアはただひたすらに、初陣を前に震えていた。
 そして、そんな彼女に――、

「怖いのか、テレシア?」

 そう、優しく声をかけてくれたのは、他でもない、長兄だった。
 その優しい兄の語りかけに、天幕の中で初陣を待っていたテレシアは唖然となる。

 意識的に、テレシアは兄との接触を避けてきた。
 否、接触を避けたのはなにも長兄だけではない。次兄とも、弟とも、それこそ両親や叔父とも、接触することを避けてきた。

 優しく、大好きだった兄と言葉を交わすのは、ほとんどこれが二年ぶりだ。

 何を言えばいいのかわからず、テレシアは俯き続けるしかなかった。
 しかし、そんな情けない顔をしたテレシアの隣に腰掛け、兄はそっと彼女を抱き寄せて、頭を撫でてくれた。
 その以前と変わらぬ兄の掌に、テレシアは愕然とする。

「お前が、俺や弟たちに負い目を持ってるのはわかってるつもりだ。俺だってお前にあんな風に負けて、何も思わなかったわけじゃないさ。だけど……」

 そこで言葉を切って、兄は薄く微笑んでみせた。
 それはテレシアが何度も見上げた、兄の微笑みそのものだった。

「お前は俺の大事な妹なんだ。そのお前が嫌だって、怖いって思うんなら……俺はお前を守ってやらなきゃいけない。俺は、お前の兄貴なんだから」

「に、兄さん……」

 涙が溢れた。弱音なんて、こぼしていけない。
 誰よりも、他でもない、自分が負かしてしまった兄にだけは聞かせてはいけない。そう思い込んできたのに、その兄にそれを否定されてしまった。

「お前に負けて、悔しかったし、やめようと思ったことだってあったさ。けど、それでもやっぱり、俺は剣が好きだったんだよ。この家に生まれて、弟たちがいて、妹のお前がいて、感謝してる。剣に、感謝してる」

「――――」

「だから俺は、剣を振っててよかったんだ」

 なんて、馬鹿なことを考えていたんだろうと、テレシアは自分の愚かさを悟った。
 自分に負けたあとも、剣の鍛錬に臨む兄たちを見ていて、兄たちにはその道しかないのだと、他を知らないから、仕方なく剣を振っているのだと、それに縋り付いているのだと、そう思い込んで、見下してきた。
 好きなことをすればいいのにと、自分の尺度で勝手に兄を推し量った。

 見上げるべき、尊敬すべき、大好きだった兄を、剣才だけで馬鹿にした。
 誰が馬鹿だ。自分の方がずっと馬鹿だ。そして、剣神こそがもっとも馬鹿だ。

 どうして、こんなに自分を愛する人間に、その寵愛を注がないのだ。
 どうして、剣にそっぽを向き続ける、自分のような人間を祝福する。

 兄や、兄のような人たちにこそ、その祝福が降り注ぐべきだったのに。

「お前は、戦う必要なんてないんだよ。――だってお前は、虫も殺せないような優しい子なんだから」

 『死神の加護』の力を恐れて、誰も何にも、傷付けないよう過ごしてきた。
 兄の理解は少し違う形だけど、兄はそんな妹の在り方を知っていてくれて。

 それがあんまり嬉しくて、この数年で、もっとも心が震えたから。
 甘えてしまった。兄に泣いて縋って、全部任せてしまった。


 ――そのテレシアの初陣で、兄は本陣を守って死んだ。


 テレシアは剣を、一度も振らなかった。振れなかった。

 そしてそれからまた数年、テレシアは一度も、剣になど触れなかった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――亜人戦争が始まって五年、テレシアは十九歳になっていた。

 『剣聖の加護』は変わらず、テレシアの中で静かに息づいている。
 しかし肝心のテレシアは、その力を振るう機会を逸し続け、悪化の一途を辿る内戦に関わることなく、ただ漫然と日々を過ごしていた。

 テレシアが戦うことのできなかった初陣。
 『剣聖』の奮戦を期待する戦線は総崩れとなり、その最中に長兄は戦死した。テレシアは兄の死に衝撃を受け、その後も剣に触れることはできなくなった。
 そんな当代の『剣聖』の不名誉な初陣の事実は、完全に公に伏せられた。『剣聖』の存在は王国にとって精神的な支柱でもある。それが初陣で泣き喚き、兄を死なせて殻にこもったなどと、知られるわけにはいかなかった。

 故にテレシアの不名誉は、公に知られずに記録から抹消された。
 そうして『剣聖』としての役割を果たせず、閉じこもるテレシアに代わって、アストレア家の名に恥じない戦いをしようと、次兄や弟も戦場へ飛び込み、死んだ。

 優しくて、どんな願い事でも困った顔で聞いてくれる長兄も。
 少し意地悪で、だけど仲直りするときはいつも先に謝ってくれる次兄も。
 怖がりで泣き虫で、いつも自分の後ろをついて歩いていた可愛い弟も。

 戦えないテレシアの代わりに戦って、みんな命を落とした。

「――無理ばかりさせたね。悪かった、テレシア」

 先代『剣聖』として、その存在で全軍を鼓舞して回った叔父も、戦死した。
 転戦に次ぐ転戦を繰り返し、負傷を押して、最後には撤退する友軍の殿を務めて、壮絶な戦死を遂げたとのことだった。

 叔父に対しては、恨む気持ちがないわけではない。
 叔父が言い出さなければ、テレシアが『剣聖の加護』を継承したことは誰にもわからなかったかもしれない。そのことがばれなければ、今回の内戦で兄弟たちが決死の覚悟を発揮することもなくなり、命を落とすことはなかったかもしれない。

 そう思えば、恨む気持ちはある。あるけれど、そうでない気持ちもある。
 叔父は叔父で、きっと『剣聖』の称号の重さを誰より理解していたのだ。先代『剣聖』なのだから当然、テレシアと同じだけのものを叔父も求められていただろう。
 王国にとっても、テレシアにとっても、『剣聖』の名が上手く機能するように、あの人なりに良かれと思って行動していたはずだ。

 それがうまくいかなかったから、最後に会ったときの別れの言葉がある。
 あの一言でテレシアは、叔父を恨むことができなくなってしまった。

 ならば誰を恨めばいいのかといえば、それはもう、自分しかいないのだろう。
 『剣聖』なんて称号を継いだくせに、泣き喚くばかりの弱い自分を。

「テレシア様はいつか必ず立たれる御方です。今はまだ、その時でないだけ」

 兄弟や叔父、度重なる血縁の死に打ちのめされるテレシアを、付き人であるキャロルは決して見捨てようとしなかった。
 初陣の敗退で無様をさらし、その後も子どもじみたわがままで機会を逃し、今も一人きりで殻に閉じこもるテレシアを、キャロルは信じようとする。

 近頃は、テレシアに下される王城からの指示すら、代わりに引き受けて、自らを危険にさらしている節すらあった。
 ただ、キャロルがそんな危ない橋を渡っていると知っていても、テレシアはその気持ちに応えてやることができなかった。

 人を殺す才能に、これでもかと恵まれた自分。
 そんな自分が、人を殺すことができないことに悩む日がくるなど考えたこともなかった。戦う理由なんて、どこにもない。戦うことなんて、できない。



「――――」

 キャロルの監視が外れると、テレシアはふらふら屋敷を出て、王都を歩き始める。
 内戦が収まることなく五年、王都からも以前のような活気は薄れて、どことなく陰気な雰囲気が漂っている。明るい話題がなければ、人々の表情にも晴れやかな兆しは訪れない。自然と、人の多い場所を避け、テレシアは一人を求める。

 最近、テレシアが好んで足を運ぶのは、王都の端にある未整理の区画だ。
 内戦の始まりと同時に、開発を途中で投げ出された区画だった。かろうじて道といえる道や、廃墟も同然の建物の隙間を抜けて、奥にある場所へ向かう。

 かすかに開けた、広場ともいえない空間がテレシアはお気に入りだった。
 特に心が弾むわけではない。ただぼんやりと、その荒れ果てた中に存在する空虚な空間が、自分の心の在り様と一致している気がして落ち着くだけだ。

 朝の、皮肉なぐらい清涼な空気の中、テレシアは広場の奥へ向かう。
 どこへ繋がるわけでもない石段に腰を下ろして、その向こう側を覗き込むと、そこには一面、黄色い花が咲き乱れる花畑があった。

 差し込む日差しと、花の生育に不必要に適した土。
 誰もこない秘密の場所をいいことに、テレシアはそこに花の種をまいた。屋敷で、すっかり枯れてしまった花畑を手入れする気力はなかった。
 ただ、気紛れにまいた花の種の結果を見届ける、そのぐらいの気持ちはあって。

「水もあげてないのに……こんなに育って」

 花々は、強い。
 テレシアが自分の弱さを見つめ続ける間にも、花々は空だけを目指して、その花弁を広げ、美しく咲き誇る。
 かつてはその美しさに憧れ、今はその強さに憧憬を抱く。

 込み上げてくるものがあって、泣きそうになった。
 思わず熱くなる目頭に手を当てて、涙を流すことを堪えようと必死になる。


 ――刺々しい気配が近付いてきたのは、そんなときだった。


「あら、ごめんなさい」

 テレシアの朝の聖域に、無粋に割り込んできたのは剣呑な気配の人物だ。
 危うく涙を見られるところだったと、テレシアは殊更、強がるようにそんな風な言葉を作った。そして、広場に立った相手を見る。

 見て、呆然とさせられた。
 短めの茶髪、整っているのに刺々しい目つき。しなやかで、鍛え上げられた細身の体と、その全身から溢れ出している肌をひりつかせるような鬼気。
 決して友好的ではないその態度に、驚かされるものがあったのは事実。
 だが、このとき、テレシアを驚かせたのはそんな些末なことではない。

 ――テレシアにはその青年が、一本の抜き身の剣に見えた。

 熱を持ち、鍛え上げられた一振りの鋼が、自分を睨みつけている。
 そんな錯覚に、テレシアの鼓動はかすかに乱れた。自分の胸に手を当てて、いったい何事が起きたのかと、テレシアは疑問に思う。

 ただ、その鼓動の乱れを青年に悟られたくない、そう思った。
 だからそれを隠すために、テレシアは言葉を作る。

「こんな朝早くにここにくる人がいるのね。こんなところで――」

「――――」

 ずいぶんなご挨拶だった。

 友好的に話しかけるテレシアに、青年は目を細めると、鋭く尖った剣気を叩きつけてきたのだ。脅しとは思えないほど、色濃く、練り込まれた剣気。
 おそらくはテレシアを疎ましく思い、退けようという意思の表れだ。

 途端に、面白くなくなった。
 そっちがその気でくるのなら、テレシアの方だって遠慮はしない。自信満々のその剣気、通じなかったと凹ませてやる。

「……どうかしたの? 怖い顔をして」

 テレシアの言葉に、青年は肩透かしを味わったような顔をした。
 それきり、彼はテレシアが剣気に関しても、そもそも戦いに関してもてんで素人だと判断したようだ。実際、それは間違っていない。

 テレシアには実戦の経験も、剣を振り続けてきた実績もない。
 戦えば誰よりも強いはずの、素人同然の小娘なのだから。

「女が、こんな朝っぱらからこんなとこで何してやがんだよ」

 荒っぽい、無作法な言葉で青年は応じた。
 初めて聞いた青年の声は、不機嫌ではあったけど、聞き取りやすい声で。

 ――またかすかに、鼓動が乱れたのを感じた。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 その後も、テレシアと青年との出会いはたびたび繰り返された。

 どうやら青年は、決まった休日にあの広場へ足を運んでいるようだ。
 彼はテレシアの存在を邪魔に思ってはいるようだが、それでも無理矢理に追い出そうとはしなかった。近付く方が厄介だと、そう思ったのかもしれない。

 あの黄色い花畑を見るために、テレシアは広場へと足を運ぶ。
 青年が先にきていることもあれば、テレシアが先に到着することもある。テレシアが段差に腰掛け、花畑を眺める傍らで、青年は拵えの立派な剣を振り、懸命に剣の修練に打ち込むのが、その場所で二人が過ごすときのお約束となった。

「――――」

 横目でちらりと、青年の剣舞を見やる。
 思わず、感慨の吐息が漏れそうになった。他者の剣技を見て、テレシアがこんな風に感じることは非常に珍しい――否、初めてのことかもしれない。

 最初は、剣を握る青年の姿に嫌悪感を覚えた。
 それは青年が悪いというより、テレシアの心構えの問題だ。『剣聖』としての役割から逃げて、逃げた先でも剣を握る誰かと顔を合わせる。
 せっかく得たはずの、居心地のいい逃げ場所からも追いやられる。そんな情けない不安は、青年の剣舞を初めて見た日から掻き消えた。

 青年の振るう剣は、お世辞にも洗練されたものではない。
 『剣聖の加護』を持つテレシアから見れば、わかりやすい欠点はいくつもある。他人の剣の欠点、そのあまりの多さに嫌気が差すのもテレシアの悪い癖なのだが、青年の剣には欠点を感じながらも、それを補って余りある情熱があった。

 テレシアの兄弟も、剣に全てを捧げていたはずだ。
 そんな兄や弟たちの剣にすら、テレシアは嫌な感情を抱かずにはいれなかった。

 それなのに、青年の剣に同じだけのものを感じないのは何故なのか。
 その答えはきっと、呆れるぐらい単純だ。

「バカみたい……」

 ――青年の剣には、不純物が一切ない。

 剣に全てを注ぎ込み、捧げる。
 言葉で言えば簡単な話で、兄弟たちもそうしていたとこれまでテレシアは思っていたけれど、とんでもない。

 本当に、剣だけしかない、そんな青年の情熱がここにある。
 彼には剣しかない。剣しか、愛していない。剣しか愛せない、一振りの鋼だ。

「……バカ、みたい」

 横目に青年の剣舞を見守りながら、テレシアは自分の頬が熱くなるのを感じた。
 テレシアは『剣聖』だ。剣神の寵愛を一身に浴びて、剣の頂に立たされた存在。

 彼が一心不乱に目指す先に、自分の存在があるのだ。
 それは錯覚に違いないけれど、彼に求められている気がした。

 『剣聖』のテレシアには、剣のことは見れば全てがわかる。
 どんな宝剣も、魔剣も、ナマクラも、あるいは龍剣すらも、本質が見える。自在に扱うことができる。テレシアの手の中で、裸にならない鋼はない。

 彼だけだ。
 テレシアの自由にならない、一振りの鋼は彼だけだった。

 剣なのに、『剣聖』の自分にも果てが見えない。
 だからきっと、自分はこんなにも、彼が気になっているに違いない。



「ヴィルヘルム・トリアスだ」

 青年――ヴィルヘルムと名前を交換したのは、出会ってから三ヶ月後のことだ。

 それまでに何度も顔を合わせていたのに、一度も二人は名前を求めなかった。
 本当は何度も、テレシアは機会を待っていたのだが、ヴィルヘルムがその願いにことごとく気付かなかった。やっと名前の交換ができたのも、業を煮やしたテレシアが自然な流れで名乗って、ヴィルヘルムにも名乗り返すよう促したからだ。

「今までは花女って頭で呼んでた」

 なんて失礼な奴なのだろう、この男。
 思いやりは欠片もないし、自分のことばっかりで構おうとしないし、ちょっと話して満足したら勝手に帰ってしまうし、テレシアの心は振り回されてばかりだ。

「花は、好き?」

「いや、嫌いだな」

 とっておきの、テレシアの花畑を見せたときですらこの返答だ。
 相手を喜ばせたり、機嫌を取るための発言などが一切できないに違いない。
 そのことに憤りを感じながらも、『でも、だからこそ、こんな剣みたいな人になるんだし……』と思って引っ込めてしまうあたり、どうしようもない。

 思い通りにならない剣の存在に、『剣聖』など大したことでもないと、そう救われているような自分がいることに、この頃のテレシアは気付いていなかった。


「――どうして、剣を振るの?」

 名前を交換して以来、ぽつぽつと交わす言葉の種類が増えた。
 花の話と、四方山話をして別れる。そんないつものやり取りに違和を差し込んだのは、きっとその日の不機嫌が原因だったのだろう。

 亜人戦争の戦況がまたしても傾き、苦戦していることはテレシアも聞いていた。
 王国の各地に潜伏し、破壊工作を行う亜人の中核が特に手強いらしく、その中には超常の力を操る『魔女』の存在まで確認されているなどと聞く。

 ふと、不安になったのだ。
 ヴィルヘルムが王国の兵士であることは、とうに彼の口から聞かされている。それでなくても卓越した剣士だ。おまけに彼はひどく、血に飢えた目をしている。
 内戦に揺れる王国、その兵士はまさに適役――とはいえ、彼とて決して無敵の存在などではない。いつか、彼がこの朝の広場に訪れなくなるかもしれない。
 その不安が、テレシアにそんな質問をさせた。

 剣舞を終えて、汗だくのヴィルヘルムはテレシアの目を真っ直ぐ見る。それから彼はしばし考えてから、何を馬鹿なことをとでも言いたげに肩をすくめて、

「俺には、これしかないからだ」

 そう、一振りの鋼らしい返事をした。
 それはまさに、テレシアにとって望んだままの返事であったはずなのに。

 不安と寂しさに胸を掻き毟られる感覚を、テレシアは自覚していた。


「花は、好きになった?」

「いや、嫌いだ」

「どうして剣を振るの?」

「俺には、それしかないからだ」

 いつしか、そのやり取りだけは欠かさず繰り返されるお約束になった。
 テレシアは繰り返すその問いかけに、どんな答えを求めているのか自分でもわかっていない。返事が変わらないことに安堵していいのか、それとも変わらず鋼でい続ける彼に変化を期待すべきなのか、何もわからない。

 わからないことをわからないまま、無責任にそのままにするのがテレシアだ。
 『剣聖』の称号を預かったまま、兄弟たちを死地に送り出し、キャロルに役目を押し付けて、こうして無為な時間を過ごし続けているように。

 だから変化はいつだって、テレシアを置き去りにして訪れるのだ。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 広場に先に到着するのは、大体はテレシアの方だった。
 以前は不定期だったヴィルヘルムの来訪も、今ではすっかり把握して、出会ったときの言葉や交わす会話の内容も準備は万端だ。

 彼の存在に甘えていることを、テレシアもそろそろ自覚していた。
 ヴィルヘルムと言葉を交わすことで、剣に全てを捧ぐ彼を見つめることで、テレシアは自分の『剣聖』の重みを、一時的にも忘れることができる。
 『剣聖』であるから彼に惹きつけられ、『剣聖』であることなどくだらないと彼に言われているようで救われる。

 自分が『剣聖』でいたいのか、いたくないのか、それすらも不誠実だ。
 答えの出ないぬるま湯に、延々と浸かり続ける罪悪感。
 それすらも、彼の存在は忘れさせてくれて。

「――ヴィルヘルム」

 相変わらず、わかりやすいぐらいの気配の接近に、テレシアは振り返った。
 広場の入り口に、剣の青年が立っている。

 思わず笑みが生まれて、テレシアは彼に微笑みかけた。

「――――」

 感情の決壊が突然に訪れたのは、そのときだった。

 目を見開き、唇をわななかせ、震える掌で顔を覆うヴィルヘルム。そんな彼の劇的な反応にテレシアもまた驚き、衝撃を味わった。
 自分の何が誤っていたのかと、テレシアは顔を覆う彼に駆け寄る。ただ、なんと言葉をかければいいのかがわからない。

 テレシアはこれまで、他者を傷付けまいと極力関わりを断ってきた。
 だから誰かの心を傷付けてしまったときも、その対処法など何も知らない。

 絶望する。何も知らず、知ろうとしてこなかった自分に。
 目の前で打ちのめされるヴィルヘルムに、何も言えない自分に。

「ヴィルヘルム……」

 何を言えばいいのかもわからないまま、テレシアの指はヴィルヘルムへ伸びた。自分から他者に触れることなど、いったいどのぐらいぶりだっただろうか。
 傷付けることが怖くて、誰にも触れられなくて。

 なのにこのとき、触れずに彼に遠ざかられることの方がずっと怖くて。
 テレシアはヴィルヘルムの、顔を覆ったその手へと指で触れた。そしてひどく心細げに震えて、信じられないほど熱い感覚を味わって、気付いた。

 剣は、鋼は、凄まじい熱を浴びて、その中で打たれてより強い鋼へ変わる。
 ヴィルヘルムは一振りの剣であったが、それは完成された剣ではなかった。

 そして今、ヴィルヘルムは熱を持ち、鋼として打たれて変わる途中なのだ。
 そのために鋼を打つ役目が、今、テレシアに求められている。

 ――剣が相手ならば、『剣聖』である自分にはわかるはずだ。

 この人のことならば、この剣のことならば、理解したいと、思えるはずだ。

「花は、好きになった?」

 自然と、いつもの問いかけが出た。
 あるいは余所から二人を見るものがいれば、なんと間抜けな慰めなのだと思ったかもしれない。けれど、二人の間だけは、それでよかった。

「……嫌いじゃ、ない」

 そしていつもの問いかけに、いつもと違う返事があった。
 そのことに、以前のテレシアはこう思っていた。

 いつか、ヴィルヘルムの答えが変わってしまったとき、テレシアはまたしても失望と落胆と、取り残される恐怖を味わうのではないのかと。

 そんなことはなかった。ただ、変わる彼が愛おしかった。
 変わり、強くなろうとする鋼が、ただ一振りの剣が、愛おしい。

「どうして、剣を振るの?」

 だからきっと、この問いかけにも別の答えがある。
 そしてその答えはひょっとしたら、テレシアに救いをもたらす答えで――、

「俺にはこれしか……守る方法を思いつかなかったからだ」

 剣しかないのだと、ヴィルヘルムは答えた。
 そう、剣しかないのだ、この人は。

 そんな人だから、いいのだ。この人が。



 ――それきり、お決まりのやり取りは、もう二人の間には必要なかった。

 でもそれは、広場で二人が言葉を交わす機会を失ったという意味ではない。
 むしろ、言葉を交わすという意味だけに限れば、その機会は以前より増えた。

 剣を振るために広場を訪れていたヴィルヘルムが、剣を振るうよりもテレシアと会話することを優先してくれるようになった。
 花畑を一望できる段差に腰掛けながら、話題に乏しいヴィルヘルムの言葉に耳を傾ける。取り留めもない下手くそな話術、だけど声を聞いているだけで心地よい。

「叙勲の話が出て、騎士になった」

 その日の話題の切り出し方と、妙に熱のこもった彼の視線。
 人付き合いが苦手で、他者と距離を取り続けてきたテレシアではあったが、勇気を振り絞った青年の、そんな言葉の意味がわからないほど馬鹿ではない。

 ただの平民が、戦場での働きで騎士として認められるなど異例のことだ。
 剣鬼ヴィルヘルム・トリアスが、この亜人戦争でどれだけの功績を挙げてきたか、不甲斐ない『剣聖』には痛いほどわかった。
 その上で騎士の栄誉を受けた彼が、何のためにそんな地位を得たのかも。

「そう、おめでとう。一歩、夢に近付いたじゃない」

 その真意がわかっていたから、テレシアはわざと気のない態度でそう応じた。
 気を抜けば、一瞬で赤面することは免れない。全神経を自制に費やして、テレシアは肩透かしを食った顔のヴィルヘルムへ笑いかける。

「夢?」

「守るために剣を握ったんでしょう? 騎士は、誰かを守る人のことですもの」

 テレシアの返事に、ヴィルヘルムはすぐにかしこまった顔で頷いた。
 普段はひねくれているくせに、時々、子どもみたいに素直なところもあって。

 ――彼の守りたいものの中に、自分の存在があればいい。

 半ば確信があるくせに、そうやって保険を掛ける自分が、嫌いだった。
 きっと、想いは通じ合っていると思っているくせに、行動しない自分が本当に本当に馬鹿で、嫌で、救えなくて、だからまた、テレシアは間違えた。

 思えば自分は一度も、正しいことができていないと、そう思わされるほどに。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 故郷を焼かれたヴィルヘルムが、単身で戦場へと身を投じた。

 息を切らしたキャロルが、剣鬼の思わぬ独断専行を報告してきたとき、テレシアは全身の血が熱を失い、その場に膝から崩れ落ちそうになった。
 顔を蒼白にするテレシアに、キャロルが慌てるのがわかる。わかるが、何の気力も湧いてこない。それだけ、絶望的な状況だとわかっていた。

「――――」

 床を睨みつけるテレシアの耳に、やけに場違いな誰かの声が聞こえる。
 キャロルではない。家中の誰かでも。でも、それは親しげで、ずっとテレシアの身近にいた誰かの声のようで、それでテレシアは気付く。

 それが寵愛を無下にしてきた自分を嘲笑う、剣神の笑い声なのだと。

「――いかなきゃ」

 剣神の笑い声を聞きながら、テレシアはゆっくりと立ち上がった。
 今も、嘲笑はテレシアの小さな頭蓋の中で響き続けている。しかし、剣神に嘲笑われるままに、全てを手放すことなどしてはならない。

 兄に全部預けて、死なせてしまった。
 次兄にも弟にも、叔父にも責任を押し付けて、死なせてしまった。

 だけど、彼だけは――ヴィルヘルムだけは、渡さない。
 あの剣は、あの鋼は、あの人だけは、私だけのものなのだから。

「キャロル、支度を」

「テレシア様……? ですが、お体の具合が……」

「――支度を」

 テレシアの身を案じるキャロルが、二度目の指示を聞いて背筋を正した。それからすぐに彼女は動くと、テレシアのための準備をすぐに整えた。
 初陣以来、一度も身に着けていなかった戦装束と、血を知らない長剣を。

「今度こそ、私は間違わない」

 掴んだ長剣にそう誓い、テレシアはキャロルを急がせて竜車に飛び乗った。
 ヴィルヘルムの救援に向かう竜車は、テレシアの想像以上の数があった。彼と同じ部隊の人間や、彼に救われたことがあると恩義を語るもの、大勢がいた。

 抜き身の剣であった、あの刺々しいばかりの青年はどこにもいない。
 今や青年はその輝きと切れ味で、多くを惹きつける宝剣となった。


 ――ヴィルヘルムの故郷の戦線は、もはや完全に崩壊していた。

 絶叫と怒号が飛び交い、血臭と焦げ臭さが満ちる戦場。
 あまりにも凄惨な状況に、テレシアの胸が悪くなる。幾度も、戦場に立つ自分の姿を夢想したことはあった。だが、現実は想像の惨たらしさなど易々と塗り潰す。
 傷付け合い、命を奪い合い、血と死が蔓延る戦場で、覚悟など無価値だ。

「とにかく、ヴィルヘルムを探せ!」

 声を上げたのは、叩き上げの一軍を率いるボルドー・ツェルゲフだ。彼の怒声のような指示に、岩のような鎧を着込んだ一団が一斉に動き出す。

「テレシア様! 私たちは……」

 指示を求めるキャロルの声が聞こえたが、テレシアはそれを聞いていない。
 ボルドーの部下たちが、彼の故郷を荒らす敵兵と激突する。その凄まじいぶつかり合いの中に、かすかに彼を感じた。

「テレシア様!?」

 気付いた瞬間、足が動いた。
 戦士の入り乱れる戦場を、テレシアの足は微塵の躊躇もなく走破する。どこを通ればいいのか、見るまでもなくわかった。

 土を踏み、屍の山を横切り、怒号と断末魔が重なり合う現場へ向かう。
 そして一際、血臭の色濃い場所に辿り着いて、テレシアは見た。

 今まさに、倒れるヴィルヘルムへ大剣を振り上げる緑色の亜人がいる。
 血塗れの顔で、その大剣を見上げるヴィルヘルム。彼の唇が動いた。掠れた、弱弱しい声で、何事か呟く。

「死にたく、ない……」

「――――」


 大丈夫。


 大丈夫、だから。


「――――」

 もう、何も聞こえない。
 テレシアは最後に聞こえた、ヴィルヘルムの囁きだけを反芻する。

 手にした長剣を振り切った。軽い。
 音もなく、それどころか衝撃すらもなく、亜人の首が易々と刎ねられた。

 大剣を担ったまま倒れる巨体を、ヴィルヘルムに当てないように蹴倒す。それと同時にテレシアの細身に、四方八方から敵意と殺意の弾丸が押し寄せた。
 その全ての軌道が見える。読める。肌に感じる。

 身を躱し、テレシアは目に見えた不思議な線を剣でなぞる。
 いつの間に現れたのか、不可思議な白い線がいくつも空中に浮いている。もっと不思議なのは、その線を剣でなぞればいいのだと、本能が知っていたことだ。

 なぞる、なぞる、白い線の上を剣を滑らせる。
 剣風が吹き荒び、線の上にあった亜人たちの体が次々と両断されていく。

 四肢を断ち、首を刎ね、腹部を突き刺し、命を刈り取る。
 『剣聖の加護』が、『死神の加護』が、ついに機会を得て爆発する。

 手首を失えば、傷は塞がらない。
 腹部を貫かれれば、血は止まらない。
 浅く刻まれた傷すらも、痛みは永遠に蝕み続ける。

「――――」

 ちらと、目の端にヴィルヘルムが抱き起こされるのが見えた。
 盾を構えた青年と、その傍らに立っているのはキャロルだ。彼女たちは呆然としたヴィルヘルムを担ぐと、この戦域を離脱しようとする。

 そう、それでいい。
 早くこんな場所から、ヴィルヘルムを連れ出していって。

「テレシア様……っ」

 キャロルが、剣を振るうテレシアを見て、首から下げたペンダントを握りしめる。祈るようなその仕草に、テレシアは小さく笑いそうになった。

 そうだね、キャロルの言った通りだったね。
 私はやっぱり、誰よりも強くて、誰よりも殺すのが上手で。

 ――もっと早く、こんなこと気付いていればよかったのに。

「――――」

 もがいて、この場に居残ろうとするヴィルヘルムを、青年が必死に連れ出す。
 土を掻いて抵抗するヴィルヘルムも、満身創痍でそれには敵わない。

 彼の気配が遠ざかる。そのことに、安堵する。
 安堵しながら剣を振って、一つ、二つ、三つの命を奪う。簡単に、容易く。

 斬って、斬って、斬り刻んで、怒号と断末魔で押し流して。
 いつまでもうるさい、剣の神様の声を押し流して。

 ただ彼の、必死に生にしがみつこうとした、あの声だけ聞かせて。
 私がこうして戦うための理由を、どうか刻み込んで。


 お願いだから、私の剣がヴィルヘルムを救うんだって、信じさせて――。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 戦いは終わった。
 テレシアが戦場に飛び込んだ目的は果たされ、ヴィルヘルムは生還した。

 ただし、故郷を守るために戦ったヴィルヘルムの目的は達されなかった。
 彼の故郷は焼かれ、生家すらも失い、彼は一人きりになった。

 怒りのままに、剣を振るったヴィルヘルムの戦果は三百以上。
 一つの戦場で、一人の剣士が挙げる首級としては望外の、尋常ならざる数字だ。

 ――それだけに、千を超える首を並べたテレシアの剣才は常軌を逸していた。

 『剣聖』の存在、ここに在り――。
 不名誉な初陣のことが隠されて、『剣聖』テレシアの初陣はこのときがそうであると歴史には記されることになった。

 戦い自体は敗戦に違いなかったが、それでも圧倒的な剣力は証明したのだ。
 テレシア・ヴァン・アストレアの名は、広く王国に知れ渡り、戦場で戦い続ける戦士たちの士気を強く鼓舞した。
 それは当然、あの剣鬼の青年の耳にも入ったはずだ。


「屈辱だ」

 再会の約束はなかった。
 それでも、二人は互いに、広場へ行けば会えるという確信があった。

 そして事実、それは叶った。
 広場へやってきたヴィルヘルムは、テレシアへ目掛けて剣を振り下ろした。

 その軌道に手を差し込み、指先二本で受け止める。
 最適な角度と、最適な力加減と、その全てがテレシアにはわかった。
 剣撃を止められたヴィルヘルムが、荒々しく唇を歪めて言い放ったのが、その再会には似つかわしくない、激情に塗れた言葉だった。

「――そう」

「俺を、笑っていたのか」

「――――」

「答えろよ、テレシア……いや、剣聖!!」

 そんなつもりはない。
 ただ、そんな弁明に何の意味があるのかといえば、それもない。

 テレシアがある種、ヴィルヘルムの剣舞を見下していたのは事実だ。彼の欠点を見抜き、それを伝えることもせず、仕舞い込んでいたのは事実だ。
 そうした真意がなんであるかなど、言って聞かせても意味などない。

「――――」

 飛びかかってくるヴィルヘルムの足を払い、乱暴にひっくり返らせる。躍起になった顔で彼が迫るが、そのことごとくをテレシアは回避、反撃した。
 やがて戦いは一方的になり、テレシアの手には彼が使い古した宝剣がある。文字通り、柄に彼の血がにじむ努力の跡が垣間見える宝剣――それを振り切り、ヴィルヘルムの胴体を目掛けて白い線を滑らせた。
 剣の腹が彼の胴体を薙ぎ払い、息を詰まらせるヴィルヘルムが倒れ込む。

「もう、ここにはこないわ」

 憎悪と、憐憫と、ひたすらの負の想念で、彼に見られることに耐えられない。
 テレシアは首を振り、幾度も選んできた選択肢、逃げることを選ぶ。

「そんな、顔をして……剣なんて、持ってるんじゃねえ」

 口惜しげに、土に顔をつけたヴィルヘルムが必死に絞り出す。
 剣の美しさと気高さを、誰よりも信奉し、信じてきたのが彼だ。そんな彼の全てを足蹴にし、踏みにじるのが自分の力だ。

「私は、剣聖だから。その理由がわからないでいたけど、わかったから」

 生まれついて持っていた『死神の加護』も。
 求めていないのに与えられた『剣聖の加護』も。
 何のために自分の下にあるのか、やっと折り合いを付けられそうだから。

「理由……」

「誰かを守るために剣を振る。それ、いいと思うわ」

 誰かを守るために、剣を振るう。
 そんな単純なことに、もっと早く気付けていたらよかった。
 それに気付けていても、守りたい誰かを選べなかったかもしれないけど。
 今なら、選べる。

 ――ヴィルヘルムを、守ろう。

 この力で、忌まわしき殺戮の力で、守れる限り、ヴィルヘルムを守ろう。
 彼を守って、家族を、キャロルを守って、もっと大勢を守って、そうして王国なんて大きなものまで守ってしまって、立派な『剣聖』になろう。

 私が、一番強いのだから。『剣聖』は、最強なのだから。
 彼の想いを踏みにじって、彼の信じたものを裏切って、それでも『剣聖』であることだけは捨てられないのだから。

「待って、いろ、テレシア……」

 もう、交わす言葉はない。
 これが最後になると思いながら、踏み出したテレシアの背に声が届いた。

「――――」

 足を止めそうになる。その感情を、必死で堪えた。
 必死で堪えるテレシアの耳に、それでもヴィルヘルムの声は届く。

「俺が、お前から剣を奪ってやる。与えられた加護も役割も、知ったことか……剣を振ることを……刃の美しさを、舐めるなよ、剣聖」

「――――」

 奪ってやると、そう言われた。
 剣神の笑い声が、またしても頭蓋の中で響き渡る。

 そんな無謀を謳った青二才を、嘲笑うように。
 そんな儚い希望に心を揺らされた愛し子を、嘲笑うように。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――内戦の終結には、それから二年の月日が必要だった。

 ヴィルヘルムとの別離以来、テレシアはあらゆる戦場に身を投じた。
 そしてひたすらに獅子奮迅の働きを繰り返し、亜人連合の戦力を一挙に減らすことに貢献する。

 連合も、屋台骨となっていた大人物を失い、その基盤が揺らいでいた。
 王国から差し伸べた和平の申し出に、彼らが応じたのも仕方なしといえよう。

 そうして王国最大の内戦である『亜人戦争』は、その内戦の最中の凄惨さとは打って変わって、始まったときと同様に呆気なく終わりを迎えたのだった。

「終わ……った?」

 次の戦いに、次の次の戦いに、終わりの見えない戦いに、挑む覚悟を決めていた。
 だから唐突にもたらされた終わりの報告に、テレシアは足下を見失った。

「はい、終わりました。内戦は終結です。――テレシア様の、功績ですよ」

 ふらつくテレシアを抱き留めて、キャロルが無邪気にそんな風に言った。
 近頃、こうして柔らかい表情を見せることも多くなったキャロルは、戸惑うテレシアをしっかりと支えて、その背中を優しく撫でてくれる。

「功績なんて……」

 そんな風に言われてもピンとこない。
 テレシアはただひたすらに、斬り続けていただけだ。結果的にそれが誰かを守ることに繋がると信じて。
 一人で勝手に軍を抜けて、どこかへ行ってしまった青年を救えると信じて。

 そんな自覚のないテレシアの行いは、しかしキャロルの言った通り、王国にとって最大の貢献であったと称賛されることになる。
 自分のための式典が開かれて、礼装と儀礼用の剣を手にしながら、テレシアは最初から最後まで、自分が夢の中を歩いているような気持ちが晴れなかった。

 否、夢だというのなら、テレシアはずっと夢の中を歩き続けている。
 『剣聖の加護』を授かり、初めて剣神の存在を身近に感じたときから、テレシアの心はずっと、その大いなる存在が見せる夢の中にあったのだ。

 だからこれも夢。決して晴れることのない、剣神の愛が見せる夢。
 だからもし仮に、この夢から解放されるときがあるとすれば――。

「――――」

 どよめきが、式典に沸いていた人々の熱狂を切り裂いた。
 ふらりと、誰の制止の声にもかからず、その存在は式典会場に踏み込んだ。

 その手には抜き身の剣が、朽ちてボロボロになった、錆だらけの剣がある。
 褐色の薄汚れた上着を羽織り、見える肌の色も不衛生な汚れに塗れていた。だが、その姿に眉をひそめるより早く、誰もが本能的に感じるものがある。

 ――その存在から放たれる、圧倒的な鬼気。
 ――否、剣気を。

「――――」

 無言で構えるその存在に、テレシアもまた儀礼用の剣で向かい合った。
 不逞の輩を取り囲もうとする衛兵たちを、同じ壇上に立っていた国王が制止する。そのことに感謝した。これで、決して邪魔は入らない。

 ここにいる『剣鬼』との逢瀬を、誰にも邪魔されずに済むのだ。

 ――合図はなかった。

 だが、示し合わせたように、二人の刃は同時に走り、甲高い音を立てた。
 ナマクラ同然の鋼が、儀礼用とはいえ紛うことなき聖剣と正面からぶつかる。煌めきが乱舞し、斬撃は風を破り、二つの影が踊るように壇上で交わった。

「――――」

 剣を振りながら、テレシアは驚嘆していた。心が弾み、鼓動が高鳴る。
 テレシアの目には相変わらず、戦いの中に浮かぶ白線が見える。その線を通せばいいのだと、その白線をなぞれば殺せると、そんな剣神の誘導が見える。

 その剣神が作り上げる、剣の頂が見せる勝利の道筋を、剣鬼の剣はただの研鑽と狂おしいほどの熱情だけで突破する。

 浮かび上がる白線が、まるで見えているかのように錆びた剣に切り裂かれる。
 無数に浮かぶ白線、そのことごとくを迎撃し、剣鬼は雄叫びを上げて、決して届くはずのない剣の頂へと踏み込もうとする。

 胸が高鳴る。何度も、何度も、打ち合うたびに。
 剣を重ね合うたびに、白線を千切られるたびに、視線が絡み合うたびに。

 目の前にいる、剣の鬼に恋をする。
 何度も、何度も、何度でも、『剣聖』はこの『剣鬼』に恋をする。
 愛おしい、愛おしいのだ。愛おしくてたまらない。

 ――この人が、愛おしくてたまらないのだ。

「――っ」

 式典を無茶苦茶にして、これだけ大勢の人たちが見守る中で、自分は何をやっているんだろうと、テレシアは可笑しくてたまらなくなる。
 頬が熱い。胸が高鳴る。一合ごとに、愛おしさが募っていく。

 本当なら今すぐ、剣を手放して、その胸に飛び込んでしまいたい。
 奪うも何もない。とっくのとうに、それこそ出会った最初のときから、あなたの姿に胸の高鳴りを覚えたときから、ずっと、私は――。

「――――」

 向き合うことを拒み、またしても楽な方へ逃げようとする選択肢が潰される。
 剣神の叱咤する声ではなく、目の前の鬼の眼光が、全霊でそれを否定する。

 自分の力で奪うのだと、他の誰の手も、お前の手すらも借りはしないと。
 自分だけの力で、自らの執念で、剣に捧げ尽くした全てで、剣神から女を奪う。

 いったいどれほど、どれだけの時間を。
 いったい何回、何百回、何万回、何億回、自分のことを思ってくれていたのか。

 剣戟が交錯し、鍔迫り合い、切っ先が閃き、幾度も打ち合う。
 そして、剣神の怒声とともに振り切られた一撃が――、

「――――」

 赤茶けた刃がへし折られて、先端がくるくると飛んで壇上を跳ねた。
 それを為したのは、紛れもなく全霊を込めた『剣聖』の一撃だ。

 乾坤一擲の、これ以上ないほど、『剣聖』の力を込めた一撃だった。
 だが、

「俺の」

「――――」

「俺の、勝ちだ」

 宝剣は、テレシアの手から奪われていた。
 衝撃に痺れる掌があり、背後に宝剣が高い音を立てて落ちる。そしてテレシアの白い喉元には、半ばで折れたナマクラの先端が突き付けられていた。

 美しく飾り立てられた『剣聖』が、泥臭く鍛え上げられた『剣鬼』に、負けた。
 それは宝剣がナマクラに敗北し、『剣聖』という幻想が打ち破られた瞬間だ。

「俺より弱いお前に、剣を持つ理由はもうない」

 かけられる声。
 思えば彼のぶっきらぼうな声を聞くのも、ずいぶんと久しぶりで。
 それなのに最初の言葉が、そんなだなんて。

「私が、剣を持たないなら……誰が」

「お前が剣を振る理由は俺が継ぐ。お前は、俺が剣を振る理由になればいい」

 彼が剣を振る理由は、何かを守るため。
 そんな理由にお前がなれと、そう言いながら彼は上着のフードを脱いだ。

 汚れた仏頂面が自分を睨んでいて、テレシアは首を横に振る。
 奪うとか、守ってやるとか、格好いいことを言いにきたくせに、本当に女心がわかっていない。剣だから、仕方ないけど。

「ひどい人。人の覚悟も決意も全部、無駄にして」

「それも全部、俺が継ぐさ。お前は剣を握っていたことなんて忘れて呑気に……そうだな。花でも育てながら、俺の後ろで安穏と暮らしていればいい」

 ああ、それはなんて、なんて――。

「あなたの剣に、守られながら?」

「そうだ」

「守ってくれるの?」

「そうだ」

 大切なものの中に自分を数えて、そして、愛おしさに応えてくれるなら。

 テレシアは剣鬼の、ヴィルヘルムの言葉に微笑んだ。
 それから首に突き付けられる剣に触れて、一歩、前に出る。

 触れた刀身越しに、ヴィルヘルムの二年間を感じた。
 その間、ずっと自分のことを思ってくれていたのならと、胸が熱くなる。
 堪え難い感情が込み上げて、テレシアの眦を涙が満たした。それはゆっくりと溢れ出して、微笑むテレシアの頬を伝って落ちていく。

「花は、好き?」

「嫌いじゃなくなった」

「どうして、剣を振るの?」

「お前を守るために」

 我慢の限界だった。
 剣を手放した瞬間から、剣神の声などもう聞こえない。

 ヴィルヘルムしか見えない。
 ヴィルヘルムしか感じない。
 ヴィルヘルムしかいない。

 彼の胸にそっと寄り添い、かすかに首を上へ向ける。
 目を閉じるテレシアの唇に、ヴィルヘルムの唇が重なった。柔らかく、熱い感触に愛おしさが込み上げ、テレシアの世界が一変する。

 頬を染めて、目の前の愛おしい男を見た。
 ヴィルヘルムは何も言わず、静かに言葉を待っている。
 その態度が可笑しい。待っているのは自分の方だ。それがわかっていないみたいだから、また以前のように自分から、

「私のことを、愛してる?」

「――わかれ」

 ぶっきらぼうな返事で、顔を背けられた。
 その答えに目を丸くした途端、二人きりだった世界に音が飛び込んでくる。観衆にかけられていた時間の静止が解けて、衛兵が大勢、こちらへ向かってきた。
 そこにはヴィルヘルムをよく知る、そんな顔ぶれの姿があって。

「やれやれ」

 そんな彼らの方を見て、どこか安堵した顔をするヴィルヘルムに頬を膨らませる。
 目の前に自分がいるのに、余所を見るとは何事なのか。
 まだ、言うべき言葉も聞かされていないのに。

「言葉にしてほしいことだってあるのよ」

「あー」

 頬を掻いて、ヴィルヘルムは誤魔化すみたいに首を巡らせる。しかし、やがてテレシアの視線に屈したように吐息し、ふいに細い腰を抱き寄せた。
 そして驚くテレシアの耳にそっと顔を寄せて、

「いつか、気が向いたときにな」

 ――その気が向いたときに出会うのに、長い時間が必要な気がする。

 そんな不満を覚えながらも、でもいつか訪れるその日を待ち遠しく感じて。
 テレシアは惚れた弱味だからと、愛しい人の言葉を許したのだった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――その後も、振り返れば色々なことがあった。

 式典に切り込んで、主役を奪うだなんて前代未聞の暴挙をやらかしたヴィルヘルムを婿に迎えるのに一悶着。
 『剣聖』を辞めることになったテレシアに代わり、ボルドーらの推薦もあって近衛騎士団にヴィルヘルムが入団したりで一悶着。
 生涯、テレシアに仕えると断言していたキャロルが、ヴィルヘルムの戦友と恋仲になって、結婚するだのしないだので一悶着。
 戦場で大規模な武勲を挙げすぎたボルドーが、重要な国政を取りまとめる議会に席を用意されて一悶着。

 色々、本当に色々あって、楽しい日々だった。


「愛してるわ、ヴィルヘルム。あなたは?」

「――――」

 結局、一度もその先の言葉は言ってくれたことがない。それでも言葉の代わりに行動で示してはくれたけれど。
 それで誤魔化されるのは優しい女か、相手の男に首っ丈の女だけ――テレシアは両方だったから、誤魔化され続けてやった。

 夫婦としての時間は、穏やかに呑気に過ぎていった。
 ヴィルヘルムはテレシアに約束した通り、あの式典以来、一度も剣を彼女に握らせなかった。テレシアも剣に未練などない。剣神の声はとっくに聞こえなくなっている。

 それでも時々、『剣聖の加護』が顔を出すこともある。
 たとえば料理のとき、包丁を握れば自然と最適な攻撃角度などがわかった。もっとも、切り方だけ達者でどうにかなるのは下準備までで、以降の行程を学んでいくにつれて、剣士より主婦の方がよっぽど辛いと思うようになっていくのだが。

「……ぁ」

 それと、『死神の加護』の制御の仕方を覚えたのもこの頃のことだ。うっかり、料理中に食材の殻で指先を切った。
 自発的に作った傷は、なんであれ加護の対象だ。自分に付けた傷に蒼白になり、どうにか血を止めなくてはと焦ったところで、血はすぐに止まった。

 ――こんな簡単なことだったのか、と呆れたぐらいだ。

 加護の存在を受け入れて、その力を制御する。
 『剣聖』なんて大それた称号に与っていたくせに、実態は自分の持ち物も把握できていない小娘。
 ますます、もっと早ければ――なんて感慨が、兄弟たちの姿を思う胸に込み上げたりもしたけれど。

「テレシア」

「――ん」

 そういうとき、見計らったように戻るのがヴィルヘルムだ。そして彼は、内心を隠そうとするテレシアの弱い衣を剥ぎ取って、強引に中に割り入ってくる。
 そんなところに、救われる。

「私のこと、愛してる?」

「――――」

 その質問にだけは頑なに、答えてくれなかったけれど。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 それから、また、色々あった。
 本当に、色々あった。

 二人の間に生まれた息子、ハインケル。
 そのハインケルが妻に迎えた女性と、彼女が産んだテレシアたちにとっての初孫となるラインハルト。

 ――誰が悪い、ということもないはずだ。

 真っ直ぐ、一生懸命に、誰より剣に真摯であろうと努力し続け、自慢の息子であったハインケルも。
 『眠り姫』という病に冒されて、ハインケルから弁明の機会を奪い、幼いラインハルトを一人にした花嫁も。
 一目で震えるほどの才能に恵まれて、幼い身に不要なまでの宿命を詰め込んでしまったラインハルトも。

 誰も悪くない。
 だから悪いのはいつものように、自分だったのだ。

 ハインケルは歪み、花嫁は夢に囚われ、ラインハルトはそんな父母に愛されようと努力した。
 そのことに最初に気付いて、何もできなかった自分がもっとも愚かで、どうしようもなかったのだ。



「白鯨を落とす戦いが……大征伐なんて戦いがあるんだ。俺はそこに……」

 名ばかりの近衛騎士、名ばかりの重大任務。
 差し出された提案に、震える息子の声が重なって、テレシアは一人、静かに一つの決意を固めた。


 かつて愛用した長剣はずっと、キャロルが手入れしてくれていて、あの頃と同然の状態を保っていた。



「私は反対だ。お前は何を考えている!」

 テレシアの決断に、わかり切っていたことだがヴィルヘルムは反対した。
 鋭く、意思の強い眼光に射抜かれる。

 髪に白いものが混じり、声もかつての若々しさを失ってはいるが、それでもヴィルヘルムの根本は変わらない。
 凛々しさも、情熱も、不器用なところも、全てがテレシアが愛し、愛し続けてきたままだ。

「――もう、決めたことよ」

「勝手に! いったい誰がそんな……まさか」

 頑ななテレシアの態度に、ヴィルヘルムはそれが誰の発案によるものなのか気付いた。
 憤怒に顔を赤く染めて、抑えきれない剣気が弾ける。

「あの馬鹿野郎……恥を知れ……ッ」

「それを、私やあなたに言う資格はないわ」

「――――」

 息子のことで、悔やんでいるのはヴィルヘルムも同じだ。激怒の表情が薄れて、ヴィルヘルムは唇を噛む。
 激情家は変わらないが、それでもその熱を押さえ込んで、冷静さを装う程度には大人になった。

「私も、その任に……」

「あなたにはあなたのお役目がある。わかっているはずでしょう、ヴィルヘルム。――フォルド様の嘆きようを、忘れたわけではないはず」

「――――」

 王弟フォルドの息女が、王城に忍び込んだ何者かに誘拐された。近衛騎士団の団長であるヴィルヘルムには、早急にその身柄を取り戻す義務がある。
 大征伐に剣鬼を同行させることは不可能だった。

 その代わりの要請が、現役で『剣聖の加護』を継承したままでいるテレシアの参戦となったのだ。
 断ることなどできない。安穏と、剣を置いて暮らす日々はわがままの上に成り立っていたものだ。

 これ以上、そのことに甘え続けるわけにはいかない。

「テレシア、こんなことは……」

「ヴィルヘルム」

 なおも説得しようとする夫を、テレシアは呼んだ。かすかに息を詰めたその顔に、微笑みながら問いかける。
 ずいぶん、久しぶりになる問いかけを。

「私のこと、愛してる?」

「な……っ」

 動揺――そこにかつてと同じ感情を見たから。
 テレシアは微笑んだまま、ヴィルヘルムの肩へと手刀を走らせた。風を切り、肌を裂く一撃。
 妻の前で無防備をさらすヴィルヘルムは、その意識外からの攻撃に反応できず、肩の傷が血を噴いた。

「テレシア……何を?」

 浅く裂かれた肩の傷には、『死神の加護』の力が働いている。深手ではないが、血は流れ続ける。テレシアがこうして傍にいる限り、距離が離れない限り。

「テレシア?」

 そっと、その胸板に身を寄せた。
 抱き留める腕のたくましさを感じながら、テレシアはヴィルヘルムの肩の傷に口付ける。
 唇を血が朱に染め、初めて味わう夫の血の味がした。

「これで、あなたは私を追ってこれない。その傷、私の傍にいたら塞がらないんですから」

「そんなことのためにこんな馬鹿なことを……。言っておくが、私は血が止まらなくてもお前を」

「それをされたら意味がなくなるじゃない」

 小さく笑って、テレシアは体を離した。
 そして、ヴィルヘルムの肩の傷を指差しながら、

「その傷、そのままにしておきます。あなたが私を追ってこないように。お互いの仕事が終わったら塞いであげる」

「――――」

「大丈夫、私を誰だと思っているのかしら? この世界であなたの次に強い、最強の剣士よ」

「四十も半ばで若者に張り合っても……」

「余計なことは言わない」

 ぴしゃりと、失礼なことを言おうとする口を塞ぐ。
 まったく、二十年以上も連れ添ってこれだ。

 鋼は今も変わらない。だから、

「愛しているわ、ヴィルヘルム」

「――――」

「ええ、それでいい。その答えは次に」

「次?」

 眉を寄せるヴィルヘルムに、テレシアは頷いた。
 そして、再会を夫の肩の傷に誓いながら――。


「戻ってきたら、あの日、聞けなかった言葉を聞かせてくださいね」



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 記憶が、吹き飛ぶ。
 砂嵐の中にいるように視界が乱れ、周囲の音も疎らで聞き取り難くなっていた。

「――!」

 誰かの怒号が、悲鳴が、絶叫が聞こえる。
 視界に一面の緑色――否、これは地面だ。草原の色だ。周りを見渡せば、十メートル先もおぼつかないほどの濃霧が世界を完全に閉ざしていた。

 討伐軍は半壊し、部隊は壊滅状態だ。

 押し合いへし合いが発生し、濃い霧の中ではどちらへ逃げればいいのかも判然としない。
 ただ漠然と、強大な圧迫感だけは霧の向こうに感じる。故にそれと反対側に逃げるよう、声は飛び交っていた。

「――――」

 何が起きたのか、とっさに思い出せない。
 熾烈な激戦の中、しかし戦況は優位に働いていたはずで、一線を退いていた自分の力でも役立つのだと、そんな風に感じていたはずで――。

「――?」

 そこまで考えて、かすかな違和感に気付いた。
 掌を見下ろす。何か、違和感。

 手足に、目に、足に問題はない。
 でもどこか、翼をなくしたような感覚が――。

「加護が……」

 気付いた。
 『剣聖の加護』の感覚を、今はどこにも感じない。どれだけ剣と遠ざかっても、傍らにいた剣神の存在も。
 あの嘲笑も、今はどこにも。

「ラインハルト――!」

 同時に、自分の体から失われた加護が、誰の下へと至ったのかもテレシアには直感できた。
 それは、テレシアに加護を継承したことを察した叔父と同じ感覚か。あるいは単純に、テレシアがラインハルトの底知れない天賦に気付いていたからかもしれない。

 いずれであったとしても、テレシアは自分の次代の『剣聖』がラインハルトであることを疑わなかった。
 その感覚はもしかしたら、実子であるハインケルへの裏切りだったかもしれないが――そのことを咎める人間も、咎められるような時間も、残ってはいなかった。


「――あら、こんなところに女性が一人で残るなんて、ずいぶんと勇ましいのですね」

 そんなたおやかな、場を弁えていない少女の声がした。
 振り返り、テレシアは濃霧の中に小さな影を見る。

 白い衣、白金の色をした髪。
 親しげに慈しみ、見知らぬ相手への無限の友愛を謳う共感と親交の眼差し――気持ちが悪いほどの、見当違いな愛。

「――――」

「嫌われてしまいましたね」

 長剣を構えて、テレシアは踏み込んだ。
 平時の彼女であれば、その少女のことを心配したかもしれない。だが、ここは白鯨の濃霧が支配する死の世界。
 そこへ顔を出す少女など、奇怪を通り越している。

 『剣聖の加護』が抜けていても、テレシアの体はかつての剣才の片鱗を残している。十分に剣士の最高峰の実力を発揮し、走る斬撃は少女の小さな体を両断し――、

「――あなたを、理解したいのです」

 少女の声が鼓膜をくすぐって、意識が途切れる。
 ぷつりと、音を立てて。

 暗闇の中に、意識が落下していく。
 底なしのぬるま湯に、手足を縛られた状態で沈められるように、テレシアの体はずぶずぶと呑まれていった。

 孫の未来を、息子の心を、二人を繋ぐ花嫁を、駆け抜けるように心配事が駆け抜ける。
 そして最後に、

「ヴィルヘルム」

 愛しい男の名前を呼んで、意識は完全に途切れた。
 そして――。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「情けない、顔……」

 ゆっくりと開いた瞼の向こうに、ぐしゃぐしゃの顔が見えた。
 頭はすっかり白くなって、顔にも年季の入った皺が増えて、これはこれで格好いいと思うのは、仕方ない。

 見間違えるはずもなかった。
 夫の顔だ。あの別れから、かなりの時間が過ぎているようではあるけれど。

「――――」

 長い、息を吐いた。
 近くに他にも、ハインケルと、ラインハルトだろうか。その二人の気配を感じる。
 アストレアの男が三人も揃って、わざわざ迎えに、見送りにきてくれたのかもしれない。

 みんな、優しい子たちだったから。

「テレシア、私は……」

 皺くちゃの顔で、ヴィルヘルムが息を詰まらせる。
 息子と孫の前でみっともないといったらない。
 威厳も、凛々しさも、どこに置き忘れたのだろう。もっとも、思い返せば意外と、こうした弱いところも目立つ人だったけれど。

「ね、ヴィルヘルム……」

 自分の声は掠れていて、なのに妙に若々しい。
 自分のものではないみたいに――否、自分のものには間違いないのだけれど、もうすっかり、お婆ちゃんのはずなのに。
 まるで、初めて恋をした頃みたいな声で、恥ずかしい。

「――――」

 初めて恋をした頃、そんな感覚にこそばゆくなる。
 残された時間もあまりないのに、ただ見つめ合うだけに時間を浪費してしまった。

 でも、それでもいい。

 テレシアから伝えるべき言葉は、十分に伝えた。ヴィルヘルムもそれはわかってくれているはずだ。
 だから時間と、機会と、言葉が必要なのは、彼の方。

 テレシアは静かに、その言葉を待てばいい。
 待たせはするけど、必ず期待には応える。そういう男だから、ヴィルヘルム・トリアスは。
 そんな夫だから、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアは。

「お前に、言わなくてはならないことが……ある」

「――――」

「わ、私は口下手で……自分の考えも、相手にうまく伝えきれず、お前にも苦労を……だから二十年以上も、お前に一度も……」

「――――」

「二十年、不安にさせたかもしれん。だが、私は……」

「――馬鹿な人」

 上手に話せないまま、どうにか言葉を作ろうとする不器用な姿を見ていて、堪えきれなくなった。
 笑ってしまう。本当にこの男、何を言っているんだろう。

「本当に、気付いていなかったの?」

 今にも泣き出しそうな顔で、懸命に心を砕こうとする頬に手を伸ばす。
 ひどく体が重い。もう力なんてほとんど残っていない体だけれど、残された力の全てを指先に注ぎ込んで、その頬を伝う涙を拭った。

「あなたはずっと、言ってくれていたわ」

「――――」

 隠していたつもりだったのだろうか。
 言葉にしていないだけで、隠し通せているつもりだったのだろうか。

「あなたの目が、あなたの声が、あなたの態度が、あなたの行いが、ずっと」

 テレシアに、ヴィルヘルムの向ける全てが。
 この人の心を、何よりもはっきりと伝えてくれていて――。

「私は、お前を――」
「あなたは、私を――」

 だから、十分だったの。

「――愛してる」


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※





 最初から最後まで、きっと恵まれた人生だったわ。
 仲のいい兄弟がいて、親身になってくれる同性の友人がいて、たくさんの人たちに助けられて、ヴィルヘルムと出会って。

 きっと色々、まだまだ問題はあるけれど。
 それはきっとあなたたちなら、大丈夫だって信じているから。

 でも、実は一つだけ。
 最後に一つだけ、聞けなくて心残りなことがあったの。


 ――実は一目惚れだったんですなんて知ったら、あなたはどのぐらい驚いてくれましたか?





※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 互いに、愛の言葉を交わしたのが最後だった。

 満足げに微笑み、愛おしげに頬を染めて、その瞳を涙で潤ませたテレシア・ヴァン・アストレアの姿が、瞬きの間に形をなくして崩れ落ちる。
 膝をついたヴィルヘルムの腕の中で、血塗れの状態で喘いでいた女の姿は見る影もなくなり、残されたのは灰の塊だけ――それだけが、彼女がここにいたという感傷を裏付ける証拠となってしまった。

「――――」

 自分の腕の中で命を燃やし切り、灰の塊となったテレシア。ヴィルヘルムはそんなテレシアの残滓に目を落とし、ただただ黙って俯き続けている。

「……これで、満足か?」

 そして、黙ったまま動かないヴィルヘルムに代わり、男が声を上げた。
 赤毛の中年男――ハインケルは、同じく傍らに佇んでいたラインハルトの方を憎悪を込めた眼差しで睨みつける。
 その視線にラインハルトはゆっくりと向き合い、吐息をこぼした。

「満足、とは?」

「とぼけるなよ、見たままだろうが! 満足か? 満足だろうな、お前は! 名実ともに、これで『剣聖』の座はお前のものだよ、おめでとう! 先代を死なせて奪ったって風聞も、疑いようのない事実ってわけだ。なぁ、満足だろ? おい!」

「何をおっしゃられるのか、意味がよくわかりません」

「すかした顔してるんじゃねえよ! クソガキが!」

 ハインケルが荒い息を吐き、ラインハルトに掴みかかろうとする。しかし、ラインハルトはその指先を避けると、たたらを踏む実父を掌で制した。
 当代『剣聖』のその姿には、先代『剣聖』と斬り合ったことの影響など微塵も残っていない。実際、相手にもなっていなかった。
 その事実を突きつけられたように、ハインケルの喉がかすかな戦慄に鳴る。

「図に乗るんじゃないぞ、ラインハルト……ッ」

 そんな己の心の揺れを誤魔化すように、ハインケルはさらに躍起になって、ラインハルトに指を突きつけて唾を飛ばした。

「お前がどれだけ綺麗事を並べたところで、俺が見たものは変わらねえ。お前がお袋を……テレシア・ヴァン・アストレアをぶった斬ったのは事実だ。公表するぞ。言い触らして、お前が『剣聖』だなんて誰も認めないようにしてやる!」

「――――」

「何のかんの澄ましてても、お前は『剣聖』って名誉が手放せねえだろうが。これまではうやむやにできてたかもしれないが、もうそうはいかねえ。肉親を斬り殺しておいて『剣聖』? 王国の剣? ハッ、笑わせるな! 人殺しがぁ!」

「副団長、何度おっしゃられても意味がわかりません。――僕が先代を斬っただなんてことは、副団長の勘違いです」

「は、ぁ……?」

 顔を赤くして言い募るハインケルに、ラインハルトが静かにそう応じる。その内容にハインケルが目を丸くするが、ラインハルトには誤魔化しや言い逃れの気配はない。
 物は言いようなどという考えではない。ラインハルトは、事実を述べている。

「今の敵は秘術によって動かされていただけの屍です。先代『剣聖』……お祖母様であるはずがありません。何か勘違いされておられるのでは?」

「――――」

 ラインハルトの言葉に、ハインケルは呆然とした顔をした。
 それから彼は自分の赤毛に手を差し込み、乱暴にそれを掻き毟る。かすかに引きつった笑い声が漏れて、ハインケルは狂的な笑みを浮かべながら、

「じゃあ、最後のアレはなんだ? 親父と、話してたアレは!? 俺やお前を恨めしそうに睨んで……アレが、お袋でないなら!」

「――もうやめろ、ハインケル」

 歯を剥いて、憎悪以上の感情に身を焦がすハインケル。そのハインケルの憤激を止めたのは、ここまで沈黙を守り続けたヴィルヘルムだった。
 老剣士はしゃがみ込んだ姿勢のまま、自身の上着の袖を破くと、それで自らの右足の傷――長剣に貫かれた箇所を手当てする。

 『死神の加護』の力で塞がらないはずの傷は、テレシアの存在が失われた瞬間から効力を失っている。――否、それ以前に、最後に正気のテレシアが舞い戻った時点から止まっていた。代わりに疼いたのは、別れ際に刻まれていた左肩の傷。

 正気のテレシアは左肩に、亡骸のテレシアは右足に。
 『死神の加護』で刻まれた傷は、その両者が失われたことで効力を逸したのだ。

「やめろって……親父! あんたはそれでいいのかよ!? こいつは……!」

「やめろ、ハインケル。……やめろ」

 まだ噛みつこうとするハインケルを、重ねてヴィルヘルムは制止する。
 袖をなくした上着を脱ぎ、広げた生地でヴィルヘルムは灰になったテレシアの亡骸を包み込む。このまま風に彼女を委ねるのは、あまりにも寂しい。
 せめてこの遺灰だけでも、墓の中に戻してやらねばならないと思う。

「――っ」

 そんな実父の姿を見て、ハインケルは悔しげに歯を噛んで言葉を引っ込めた。そしてヴィルヘルムは遺灰を回収すると、ふらつく足取りで立ち上がる。
 止血したとはいえ、血の流れた量が量だ。右足の付け根の傷も深く、一人で歩かせるには不安が残る。とっさに、その揺れる肩をラインハルトが支えようとした。
 だが、

「――触るな!!」

「――――」

 その触れかけた指先を、ヴィルヘルムの怒号が突き放した。
 ラインハルトは持ち上げた腕を止め、ヴィルヘルムはそんな彼の方へ顔を向けようとしない。ただ、互いに視線を交わらせないまま、剣鬼は静かな息を吐いた。

「ラインハルト……」

「――はい」

 震えるヴィルヘルムの声と違い、ラインハルトの声は堂々たるものだ。
 その声音に一度、目をつむってから、ヴィルヘルムは言葉を紡いだ。

 ――それは、問いかけだ。

「祖母を……テレシアを斬ったことを、後悔しているか?」

「――――」

 問いかけの返答に、かすかな間があった。
 あるいはそれは先ほどのハインケルとの問答と同じように、無意味な問答であると切り捨てられかねないものだったかもしれない。
 だが、ラインハルトは一拍を置き、答えた。

「いいえ。――僕は正しいことをした。そのことを、悔やんだりはしない」

「……そう、だな。その通りだ」

「――――」

「お前は正しい。私が間違っている。――だから、お前と話すことはもう、何もない」

 静かな声でそう応じて、ヴィルヘルムはラインハルトに背中を向けた。
 祖父と孫は互いに顔を見合わせないまま、決定的な問答を終える。
 そして、ヴィルヘルムは持ち上げた指で都市の中央の方を示すと、

「ガーフィール殿が向かったが、都市庁舎が心配だ。可能なら援護に向かっていただきたい。『剣聖』ラインハルト殿」

「――――」

 ひどく他人行儀な、その礼節の言葉にラインハルトは指の示す先を見る。それから頷いて、最後にハインケルの方を見た。
 いまだ憎悪を燻ぶらせるハインケルは、その青い瞳にかすかに息を詰まらせたが、ラインハルトはそんな些細な怯えを見過ごすと、

「外は危険です。副団長、可能であれば避難所へ。――ヴィルヘルム殿と一緒に」

「お、お前に言われるまでもあるか! 早く消えろ!」

 負け惜しみのような言葉をぶつけられて、ラインハルトは顔を背けた。そのまま彼は水路へ向かって走ると、水面を蹴るようにして跳躍し、建物を飛び越すような勢いで都市の中央へと消えていってしまう。
 その人外の運動力を見届けて、ハインケルは唾を吐いた。それから、ゆっくりと右足を引きずるように歩くヴィルヘルムへ駆け寄る。しかし、

「親父殿、一人でなんて……」

「そっとしておいてくれ。今は誰にも、顔を見られたくない」

「親父……」

「私の心配は不要だ。お前は、自分の安全だけ考えていればいい。適当な建物か避難所へ隠れていろ。……それで、大丈夫なはずだ」

 自分の意見だけ言い残して、ヴィルヘルムはハインケルを置き去りに歩いていく。
 妻の遺灰を包んだ上着を抱えたまま、足を引きずり、背中が遠ざかる。

「――――」

 その背中を呼び止めることも、隣に並んで歩くこともできず、取り残される。
 取り残されて、やがてヴィルヘルムも見えなくなって、ハインケルは――。

「なん、だよ……なんだよ、なんだよ、なんだ、なんだ、クソ、なんなんだよ!」

 誰もいなくなった広場で、石畳を睨みつけてハインケルは激情を吐き出す。頭を掻き毟り、言葉にならない怒りを叫び、腰に備え付けた剣を地面に投げた。
 美しい騎士剣が硬い音を立てて地面に弾かれ、滑るように転がっていく。

「クソクソクソクソ、どいつもこいつも……! どいつもこいつも死んじまえ……! 死んじまえぇぇぇぇぇッ!!」

 誰もいなくなった広場に、血を吐くようなハインケルの絶叫だけが木霊する。
 いつまでも、いつまでも、恨みと嘆きをない交ぜにした絶叫が、高く遠く――。




 祖父と、父と、孫と、アストレア家の揃った戦場は、こうして終わる。

 祖母であり、母であり、妻であった女性。
 テレシア・ヴァン・アストレアの最期は、三者の心にそれぞれの傷を残して。


 ――ここに、水門都市プリステラ攻防戦の全ての戦場が決着した。

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