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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第五章 『歴史を刻む星々』

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第五章71 『剣鬼VS元剣聖』


 都市の各地で繰り広げられる戦闘が、徐々に終息しつつあった。

 戦域となった各所の被害は著しく、都市機能に甚大な影響をもたらすような打撃を受けた地点も決して少なくない。
 その事実こそが、この都市プリステラを襲った事態の大きさ――都市に悪意をもたらした魔女教の、脅威を知らしめる結果になったといってもいい。

 そんな大きな被害が生まれ続けた状況にあって、毛色の違う戦場が一つある。
 あるいはそれは戦場と呼ぶには相応しくないのかもしれない。


 ただひたすらに剣戟が鳴り響き、揺らめく白刃が狙うは互いの命ばかり。
 不要なものの全てを削り落として、最小限、真に欲するところに切っ先を向け合う剣士同士の、不器用な求め合いだけがそこにあった。

「――――」

 閃く剣閃はなおも月光を照り返し、剣士は鋼越しに愛を交わし続ける。
 鋭い響き、飛び散る火花、月下に踊る白髪と赤髪。
 いずれも観衆の目を奪い、あるいは心を絡め取り、剣神さえもうならせるほど美しく洗練された剣舞だ。

 長剣の、水を掻くような流麗な動きからは想像もできない苛烈な威力。
 跳ね返し、風を巻く双剣の連撃も稲妻が突き抜けるが如し。

「――――」

 互いに決まりきった演舞を踊るように、二人の刃は噛み合い続ける。
 ヴィルヘルムは眼前の、若き日の美しいままのテレシアの剣撃を正面から受け、勢いのままに剣撃を浴びせ、掌に感じる手応えに嘆きを得ていた。

 身体の奥底から沸き上がるのは、歳を経ても未熟な己の心の喝采だった。

 ――沸いている。
 ――喜んでいる。
 ――華やいでいる。

 正直に、断言しよう。
 剣鬼ヴィルヘルムはかつての日々を思い返し、若き日の妻と切り結べる今に焦がれていた。その心、焼き尽くさんばかりに。
 このままこの剣戟が、逢瀬が、終わらなければいいと、全てをなげうってしまいかねない願望が脳裏を占め続けるほどに。

「だが――」

 そのような我欲、抱くことすら許されない冒涜だ。

 剣鬼ヴィルヘルムが、剣に捧げた飽くなき日々への冒涜だ。
 剣聖だったテレシア、彼女を下し、奪った誓いへの冒涜だ。
 剣士として、大恩のある主君への忠誠、その想いの冒涜だ。

 ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアの胸を焦がす愛は、盲目的にその愛に従ってしまうことは、今この瞬間を生きる世界全てへの冒涜なのだ。

 ――故に、決着は先延ばしにされてはならない。
 ――如何にこのひと時が、剣鬼にとって心地良い楽園であったとしても。

「――――」
「ぢ、ぁぁぁぁ!!」

 無音の剣閃が嵐のように押し寄せ、無数の剣撃でそれに応戦する。

 紅の長髪を泳がせながら、白い衣を翻すテレシアの動きには淀みがない。
 水流に乗った木の葉のように、あくまで自然体の内側から致死の剣が放たれる。

 上下左右、致命の剣撃は角度を選ばない。
 ただ、斬撃を重ねながら、ヴィルヘルムはかすかな違和感を得ていた。そしてその違和感に対する納得もまた、手応えの中に受け取っている。

 テレシア・ヴァン・アストレアの、剣士としての技量は卓越している。
 それは当時、肉体の全盛期であったヴィルヘルムであっても、純粋な剣技の分野を競えば決して敵わぬ領域だったことは間違いない。

 今、無言で相対するテレシアの刃には、かつてのその技量が確かに宿っている。
 敵対者を容赦なく葬り、庇護者には恍惚を伴う安堵感すらもたらす剣聖の業。

 ――しかし、今の彼女と当時の彼女と、決定的に違う部分がある。

「――軽い」

 双剣と長剣が真っ向から激突し、火花を軋らせながら剣鬼がこぼす。
 鍔迫り合いを演じながら、刀身の向こうに見える青い瞳をヴィルヘルムは睨んだ。

「比べるべくもなく、軽いぞ、テレシア。――重荷を下ろしたお前の剣は、こうも軽くなるものなのか」

「――――」

 ある種、失望すら交えたその言葉に、しかし美貌は眉一つ動かない。
 テレシアは澄み渡る青い瞳に、無感情を灯してヴィルヘルムを見つめ返している。
 反論も、反感も、敵愾心もそこにはない。

 よく笑い、よく怒り、よく拗ねる女だった。

 黙っていれば刃のように美しい女だが、黙っているときなどほとんどない。
 陽の下に咲く、大輪の花のような女だった。

 ――それが今、ただただ哀しい。

「――――」

 無言の妻の抜け殻だけがそこにある。
 愛し続けた姿と剣戟を交わすたびに、ヴィルヘルムの心は千々に乱れる。

 かつての日々に立ち返ったように弾み、かつての日々に戻れないことを理解して移ろい、かつての日々を捨てきれずに泡沫の夢に微睡む。

 ――十五年、テレシアが如何なる日々を過ごしたのか。

 彼女を失い、その敵討ちのために費やした時を思えば、ヴィルヘルムの肩の癒えない傷が己を主張した。

『死神の加護』が傷付けた傷は、決して消えない。

 それは『剣聖の加護』とは別に、テレシアが剣聖から授けられた、あの戦乱の日々を終わらせるための天恵とすら言える加護だった。

 切り傷一つで血河を生み、鮮やかな斬撃が屍山を築く。
 故に命脈を絶つことに、小手先の小細工の一切が不要だ。

 テレシアに勝るには、彼女を越える剣力を得る他にない。
 かつてのヴィルヘルムは極限まで自分を削り落として、自らを剣と化すほどの荒行の果てにそれを達し、成し遂げた。

『剣聖の加護』の下、己の限界まで剣才を引き出されていたテレシアを負かすには、それ以外に方法が存在しなかった。
 そして今、若き日の彼女と剣を合わせて、ヴィルヘルムは理解していた。

 ――剣の技量は卓越し、熟練の域にある。だが、その剣力に甚大な陰りあり。

「剣を握る前に悩んでも、剣を握ってからは悩まない。お前はよほど、私よりわかっている女だった」

「――――」

「別れ際を覚えているか。大征伐の折、お前は止める私を振りほどいて、この肩に癒えない傷を刻んだ。――あのときの言葉を、私は一言一句忘れていない」

 返事はない。求めてもいない。
 これはただ、あの日を振り返るヴィルヘルムだけの儀式だ。

 この肩の痛みとともに、刻まれた記憶が蘇る。
 大征伐に、戻れぬ可能性のある旅路に進むとき、テレシアはヴィルヘルムを文字通り突き放し、言ったのだ。

 ――戻ってきたら、あの日、聞けなかった言葉を聞かせてくださいね。

「あの日の約束を、果たしにきたぞ――!」

 双剣がうなりを上げ、テレシアの長剣が弾かれる。
 元剣聖はその反動すら利用して刃を振るうが、ヴィルヘルムはその反撃を見ることもせず、軌道を読み切って回避した。

 わかるのだ。
 どこに刃がくるのか、愛おしいほどに。

「る、ぉぉぉぉ!」

 癖が同じだ。技が同じだ。
 かつて魂を削る荒行の中、脳裏に描き、追い続けた剣聖の剣技。
 打ち破り、奪うと誓い、あの域に届くと焦がれて、焦がれて、魂を焦がして。

 この胸を熱くした彼女の姿と、同じなのだ。

「――――」

 ヴィルヘルムの訴えにも、紅の美貌は微塵も揺らがない。
 無音と無言と無感情の剣閃が走り、ヴィルヘルムはそのことごとくを撃墜する。

 目をつぶっていてもわかるほど愛した。
 だからこそ、目をつぶらずに見つめて愛し尽くそう。

「――ッ」

 ――上、切り返し、刺突、跳ね上げ、袈裟切り。

 落ちてくる刃を受け、切り返す斬撃を流し、放たれる刺突を避け、跳ね上がる切っ先に身を回し、袈裟切りの刃を掲げた双剣で絡め取り、反撃に転じる。

 流麗な防御を手数で上回り、テレシアの剣速に無理が生じる。
 たまらずテレシアが後退し、その間隙にヴィルヘルムは躊躇せず飛び込んだ。

「――――」

 一瞬、剣鬼を見るテレシアの瞳を感情が過った。
 否、錯覚だ。それはかつて、全く同じ状況になったときの記憶を、女々しいこの心が引っ張り出してきただけだ。

 ――多くの国民が見守る中、ヴィルヘルムは式典の主役である『剣聖』を打ち負かし、テレシアという少女を剣神から奪った。

 あのときと、全く、同じ状況の再現。
 ならば結末も、また。

「テレシア――ッ!!」

 懐に飛び込むヴィルヘルムを長剣が迎え撃つ。
 それを剣鬼は双剣で巻き上げ、負荷に耐えかねた刀身にヒビが入った。が、同時に長剣が真上へ弾かれ、テレシアの半身が大きく開いた。

 大きく半円を描き、ヴィルヘルムの双剣が舞い戻る。
 この逢瀬の始まりから今に至るまで、最大の隙を生じたテレシアが眼前にある。腕の筋肉が膨れ上がり、剣の柄が軋むほど握力がこもる。
 そして渾身の一撃を以て、あり得なかった再会を終わらせようと――。

 ――終わらせ、ようと。

「――ッ!」

 込み上げる激情が喉を塞ぎ、見開いた眼窩に浮かぶいくつもの表情。
 泣き顔、怒り顔、拗ねた顔、笑顔、浮かぶのはいずれも同じ女の、愛しい顔。

 その全てを振り切り、ヴィルヘルムは刃を打ち落とす。
 斬撃は走り、真っ直ぐに女の首と胴を――、

「――――」

 刃の直撃の寸前、ヴィルヘルムの目の端に人影が映り込んだ。

 極限の集中力の中で、本来ならばありえない意識の揺らぎだ。だが、所詮はそれだけのこと。何ら影響などない、無視していいだけの事柄に過ぎない。
 剣士として命懸けで切り結ぶ生死の境で、他人の入り込む余地などどこにもない。
 眼前の存在に全てを投入し、剣鬼に相応しい剣撃で目的を達する。
 そうするべきだった。そうできるはずだった。

 ――そこに映り込んだ人影が、赤の他人であってくれたなら。

「――親父?」

 距離がある。
 疑問の響きがある囁きが、ヴィルヘルムに届くような距離ではなかった。
 それなのに声は、まるで耳元で発されたかのようによく聞こえた。

 こちらを見つめる、青い瞳をした赤髪の男。
 ハインケル・アストレアが、この戦いの最後の瞬間を見ていた。

 自分の父親であるヴィルヘルムと、母親であるテレシアとの命懸けの剣戟を、殺し合いの結末を、ただ呆然と。

 ――途端、剣閃が鈍った。

「――ッ」

 決定的な一太刀が放たれたはずだった。
 勝負の趨勢を傾け、長い夢の時間を終わらせるには十分なはずの剣撃――その一閃が鈍り、反撃の余地が生まれる。

「――――」

 テレシアが大きく身を反らし、手首の返しで戻る長剣が双剣を跳ね返す。
 鋼同士の軋る音が響き、致命傷を約束されていた斬撃は心技体の乱れた雑撃へと成り下がり、目的を遠ざけて火花を散らす。

「く……っ」

 ――何故、気付いた。

 翻る斬撃を受け止め、その重さを全力でいなしながら、ヴィルヘルムは胸中に浮かび上がる疑念と正面からぶつかる。
 ハインケルの存在に気付かなければ、あるいはその存在を無視できていれば、テレシアに集中し切れていれば、今のような無様は晒さなかったはずだ。

 生涯を懸けて、剣神からテレシアを奪うと決めたはずだった。
 その御大層な決意の結果が、今の体たらくだというのか。

 再び、軽やかな剣戟の音が連鎖し始める。
 しかし、先ほどまでの透き通る鋼の打ち合い、その剣舞はすでに失われた。
 不純物が混ざってしまった。

 あらん限りの力を尽くし、一合ごとに鋼としての純度を高めていき、ただ二振りの刃であったはずの幻想は彼方へ失われている。
 残されたのは息子の前で、愛した妻と斬り合う老いた剣鬼が一人きり。

 剣になり切れず、剣鬼ですらあり切れず、父親としても夫としても、剣士としても男としても、未熟、不足に過ぎる。
 いずれ一つも振り切れない、自らの未熟を自覚してしまった。
 剣の中に注ぎ込むべき己の剣気に、邪が入り込むのを止められなかった。

 故に、この結果は必然だったのかもしれない。

「――っ!?」

 二つの刃を打ち落とし、続けざまの衝撃が直剣を揺すぶる。
 剣撃の威力を馬鹿正直に受け止め、足の止まるテレシアとの間で力比べが発生――押し切らんと踏み込んだ瞬間、眼前で細い身が回り、空白が生じた。
 前に足が出て、半歩、隙が生まれる。

「――――」

 直後、背後から死の感覚が迫る。
 真一文字に振られる超威力の斬撃を、間髪入れずに背面に回した剣で受けた。
 つんざく衝撃を止め切れず、受けた剣の腹が自身の肩に深く食い込む。たたらを踏み、前に傾く体が血を噴いた。骨が軋み、筋肉の断裂が脳に雷を轟かせる。

 右の刃で受け止めた。左の刃は残っている。
 口の端から血をこぼし、ヴィルヘルムは右の刃で担ぐように、テレシアの長剣を再び上へと跳ね上げた。

 狙い違わず、テレシアの長剣が頭上へ上がる。
 同時、ヴィルヘルムの右手からも剣がすっぽ抜けた。構わない。右手が空になったなら、残る左の刃に全霊を込めて打ち込むのみ。

 背後のテレシアに、左の剣撃をぶち込む。
 右回りの軌道を描き、苛烈な斬撃は真っ直ぐテレシアへ突き刺さり――、

「――――」

 火花が散った。
 そして響き渡る、甲高い音。

 手の中で鋼の重みが半分になり、ヴィルヘルムは自らの失策と、この戦いの最中に何度も自覚したはずの己の弱さと、またしても向き合わされた。

 テレシアに一撃を打ち込む瞬間、ヴィルヘルムは無意識に行動を選択した。
 左手に握る刃を、左回りと右回りのどちらから放つか。

 些細な、ほんのささやかな違いだ。
 だが同時に、剣士の極みに到達した二人にとって、致命的な差でもある。

 速度を選んで左、あるいは威力を選択しての右。
 その選択に迷った挙句、行いを誤ったのであればまだ救いがあった。

 ヴィルヘルムはテレシアを、正面から見るかどうかを刹那の一瞬で迷ったのだ。

「――――」

 剣鬼の一撃を受けたのは、ヴィルヘルムの手を離れたはずの一振りだった。
 空中にあったそれをテレシアは掴み取り、一撃の軌道に割り込ませた。
 剣を受け、互いの刃が噛み合って静止した瞬間、長剣が勢いよく振り下ろされる。それはヴィルヘルムの剣の腹を渡り、何の抵抗もなく鋼を断った。

 長剣の一撃が剣を割り、ヴィルヘルムは得物の喪失を悟った。とっさに折れた剣の柄を握り込み、次なる一撃に備えたのは剣士としての本能の為せる業だ。

 ただしその覚悟も、剣士としての純度に隔絶した差があればこそ実る程度のもの。
 そしてそういう意味で、目の前の彼女は最悪の相手だ。

 剣をなくした剣鬼と、剣神に愛された『剣聖』。
 その差は歴然で、語るまでもない。

 ――瞬きも忘れた刹那で、ヴィルヘルムは自分の右足を長剣が貫くのを見ていた。

「――――」

 惚れ惚れするほど美しい剣だった。

 刃は老剣士の右足の付け根を貫通し、その刃先を血で最低限しか汚していない。
 不必要な破壊をせず、筋繊維と神経の隙間を通し、ただ足の機能だけを奪い取る卓越した剣技の妙。

 水に刃を立てるような無抵抗感。
 それを自身の右足で実演されて、ヴィルヘルムの背中に身震いが走った。

 その感覚が憧れと、口惜しさと、愛おしさと、いずれに該当するものだったのかは当人にもわからない。
 わかることは、ただ突きつけられる敗北という現実のみ。

「ぐ、ぅ……っ」

 右足に埋もれたままの刃が滑り、膝が縦に割られる。
 長剣が入ったときと同じように、音もなく肉から抜かれれば、ヴィルヘルムは遅れてやってきた痛みに呻いて崩れ落ちた。
 足の傷から血が溢れ出し、下半身に力が入らなくなる。

 『死神の加護』の力が発動すれば、負傷は如何なる治癒魔法を使っても癒えない。加護の所有者と距離が近ければ近いほど効果を増し、それは些細な傷であっても命を蝕む呪いとなって、延々と敵に流血を強いることになるのだ。

「――――」

 ヴィルヘルムの右足の傷は、些少などといえる浅い傷ではない。放置すれば命に関わる深手であり、『死神の加護』は強制的に回復を拒む。
 命の期限は、あまりに短く設定されたと見るべきだった。

「……無念」

 痛みに脳を焼かれていながら、苦鳴より先に嘆息が漏れた。
 痛覚は間断ない激しい刺激に絶叫しているが、ヴィルヘルム自身は眉をひそめる程度にしか面にそれを出していない。

 やせ我慢でも、意地を張っているわけでもない。
 肉体への鋭い刺激は、どうあっても心を覆い尽くす暗闇を上回れない。

 失望と落胆と、己への不甲斐なさが魂を焼き焦がすとき、肉体的な痛みがどれほどこの老剣士に意味を持つだろうか。

「――――」

 手の中の剣を取り落とし、ヴィルヘルムは傷口に手を当てる。
 流血は命の流出だが、敗北者がそれをみっともなく遠ざけるつもりはない。ただ礼儀として、失血死などという終わりだけは迎えるべきではない。

 剣士として戦い、剣士として抗い、剣士として敗北する。
 ならばその敗者の命は、勝者の剣によって奪われるべきなのだ。

「テレシア、私は……」

「――――」

 長剣を担う紅の女剣士が、ヴィルヘルムを見下ろしている。
 その瞳にはやはり、何の感慨もない。彼女は最後まで何も思い出さず、何も思わないまま、ヴィルヘルムの命を刈り取る剣の死神だ。

 見惚れるほど、美しい顔を見上げた。
 テレシアは静かに、ヴィルヘルムの前で剣を振り上げる。その剣が落ちたとき、ヴィルヘルムの命もまた尽きる。
 だが――、

「一人では、決して……!」

 長剣が落ちる瞬間、ヴィルヘルムは右手を伸ばした。そこに、双剣の片割れ――テレシアの捨てた剣が落ちている。
 ヴィルヘルムはそれを指先で拾い、最後の最後まで往生際悪く足掻く。

 敗北、それはいい。それは仕方ない。
 だがここにテレシアを、彼女を残して一人では逝けない。

 無理やりに剣を振るわされる妻を、この手で止めることもできず、大恩あるクルシュやスバルたちの下へ、進ませるわけになどいかない。
 この命を燃やし尽くして足りないのならば、死後の魂を滅ぼされても構わない。

 ――しかして、その覚悟の一閃は。

「――――」

「テレシア……?」

 剣を構えたまま、テレシアは大きく後ろへ飛んでいた。
 右手で掴んだ刃、その刺突すら届かぬ距離へ。足を負傷したヴィルヘルムの届かぬ位置で、テレシアはかすかに首を傾ける。

 無感情の瞳、そこにひどく空虚な色を見て、ヴィルヘルムは初めて怯えた。
 その恐怖は本能に、ヴィルヘルムの剣士としての本能に訴えかけてくる恐怖だ。

 致命傷を負った獲物に、無理にトドメを刺す必要はないと。
 剣士としての誇りなどとうにない、冷徹な死神だけが下す判断がそこにある。

「待て……待て、テレシア!!」

 置いていかれる恐ろしさに、ヴィルヘルムは絶叫した。
 足など痛まない。右足の痛みを忘れて、ヴィルヘルムは遠のくテレシアに追いすがろうとする。だが、痛みはなくとも傷は現実だ。力が入らず、転倒する。強く肩を打ちながらも、老剣士は許されるものかと顔を上げた。

 赤い長髪を揺らして、遠ざかっていくテレシア。
 その彼女の足の向かう先に、棒立ちになっているハインケルが立っている。

 いまだ戦意の衰えない長剣は、次なる獲物を彼へと定めた。
 夫とわからぬ男を斬り、次は息子とわからぬ男を斬る、そのために――。

「やめろ、テレシア! そんなことが……そんなことが、許されると思うのか!? 私と戦え! 私を……俺を見ろ! 俺を、俺を見ろ、テレシアぁぁぁ!!」

 血を吐くような声を上げて、ヴィルヘルムはテレシアを呼んだ。
 何度も、何度でも、彼女を前にして呼びたかった名を、何度も思った形とまったく異なる形で、愛おしさの代わりに怒りを、熱情の代わりに狂気を込めて。

 だが、女は振り返らない。
 死神の宿る剣を構えて、女はゆらりとハインケルへと向かう。ハインケルは歩み寄るその姿に息を呑んで、自らの騎士剣を震える手で抜き放った。

「ま、待てよ、待てって。あ、あんた……テレシアって、嘘だろ? そんなはずがねえ……そんな、お袋のはず……ッ」

「――――」

「違う、お袋じゃなくても……そうじゃない! おや、親父があんなになってて、それで……クソ! なんだよ! なんなんだよ、何してんだよぉ!」

 眼前に迫る、若き日のテレシア。
 その姿と、ハインケルの中で母の姿が重ならない。彼は首を嫌々と横に振り、必死に目の前の光景を否定しようと、とりとめのない言葉を口にしている。

 膝が笑い、視線はおぼつかず、剣を握る姿も弱々しい。
 かつての『剣聖』と向かい合って、あれでは一合たりとも持つはずがない。

 このままではハインケルは、間違いなくテレシアに斬り殺される。
 そんなことだけは、あってはならない。

「テレシア! こっちだ! 私はまだ生きている! 殺すなら私を先に殺せ! ハインケル、お前には無理だ! 今すぐ、逃げろ!!」

 剣を支えに、ヴィルヘルムは石にかじりつく気持ちで立ち上がった。足の傷を押さえておく余地がなく、負荷がかかってさらに血が噴出する。
 石畳はすでに溢れ出た鮮血で真っ赤に染まり、その血の糸を引きながらヴィルヘルムはテレシアの背中を追った。

 遠い。遠すぎる。
 遅い。遅すぎる。
 また、ヴィルヘルムは間に合わない。また、ヴィルヘルムでは届かない。

「ひっ……」

「――――」

 テレシアの長剣が弧を描き、肩をすくめたハインケルの騎士剣がそれを受ける。
 わずかな停滞もなく、呆気なく騎士剣はハインケルの手を離れ、甲高い音を立てながら石畳の上を跳ねていった。

「や、やめて……やめてくれよ、か、母さん……っ」

 無手になり、怯えたハインケルがその場に尻餅をついた。必死に手足を動かして、這いずるようにしてハインケルは逃れようとする。
 だが、震える指先が、怯える心が、テレシアの無感情の瞳が、ハインケルの心と体を恐怖で縛りつけて、その場からほとんど動かさない。

 喉が引きつり、大量の冷や汗を掻き、ハインケルは顔を蒼白にしていた。
 ひょっとしたら失禁もしていたかもしれない。ただ、それを恥に思うほどの余裕すらも奪い去られて、ハインケルは掲げられる長剣の切っ先を見つめていた。

 ――月を割るように、直剣が真っ直ぐ天へと伸びる。

 命の瀬戸際で、ヴィルヘルムは為す術もなく、妻に息子が斬られる瞬間を目の当たりにさせられようとしていた。

 声を上げる。届かない。
 手を伸ばす。届かない。

「テレシア――!!」

 剣に全てを込められなかった剣鬼の、ただ叫ぶだけの声に力はない。
 長剣は無情にも、ハインケルの命を絶つために振り下ろされ――。


「――そこまでだ」


 その声は唐突に、しかし明確に、そのひりつくような緊迫感を切り裂いた。
 凛とした声色には欠片の躊躇もなく、一切の容赦も含まれていない。聞くものにただ圧倒的な存在感を叩きつけ、その意思を伝わせる天性の代物だ。

 ヴィルヘルムが、ハインケルが、そしてテレシアさえも動きが止まった。
 三者の視線の向く先に、一人の青年が立っている。

 燃え上がる炎のような赤い頭髪、澄み渡り、輝く蒼穹を閉じ込めた青い瞳。
 白い装いを血と泥に汚しながらも、真っ直ぐ在る立ち姿は勇壮以外に装飾する言葉の一切を必要としていない。

 青年はゆっくりと、その場に歩みを進めてくる。
 その手には深々と鋭い傷の刻まれた鞘と、その鞘から抜き放たれた騎士剣。

 異常なまでに刀身の磨き上げられた、龍剣レイドが握られていた。




 ――剣神の笑い声が、剣鬼の耳元でうるさいほど聞こえた気がした。

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