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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第五章 『歴史を刻む星々』

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第五章62 『戦士の称賛』


「――ゴージャス・タイガー?」

 その声が聞こえた瞬間、ガーフィールの意識は大きく揺すぶられた。
 咳き込み、大量に呑み込んで水を体中から吐き出す。全身を振るって水を払い、ガーフィールは酸素不足でガタつく頭に視覚情報を叩き込んだ。

 薄暗く、空気の冷たい地下空間だ。
 固い石造りの床を、今は大量に流れ込む水が浸している。背後の壁の穴から濁流が部屋に落ち、澄んだ空気に反響しているのがわかった。

 視線が浴びせられている。不安、警戒、恐怖、反骨心、入り混じる様々な目。
 居合わせた人々の数と視線の色合いから、ガーフィールは意識の端でここが都市避難所の一つであると結論付ける。
 転落した水路はこの避難所と隣接しており、壁が砕かれたことでこの場所と通じていた。その結果、水とともにこの避難所へ流れ込んできたのだ。

「――っ」

 そこまで考えて、ガーフィールは朦朧としていた意識を殴りつける。
 ハッと顔を上げ、ここに流れ込んだ経緯に全身の産毛が逆立った。大慌てで首を巡らせ、即座に視界の中にもつれ合って水路へ落ちた巨躯を探し――、

「……ぁ」

 翠の瞳を潤ませた、幼い金色の髪の少年と視線が絡んだ。
 見覚えのある顔。胸が締め付けられ、心が軋む記憶と隣り合わせの顔。

 一方的な再会を果たした、ガーフィールの母と繋がる少年。
 自分のいたかったはずの場所に収まり、母の愛を受け取る、弟――、

「――っ!?」

 叩き起こしたはずの意識が、またしても余計な感傷に絡め取られた。
 直後、すぐ真横で激しい水飛沫が上がり、浅い水面を爆発させて異形の巨漢が立ち上がる。巨躯は振り上げた腕を、棒立ちのガーフィールに容赦なく叩きつけた。

 振り下ろされる打撃に、ガーフィールはコンマ遅れて反応する。
 遅い、致命的だ。

 一瞬の油断は一合の好機を相手へ譲る。
 そして此度、ガーフィールが相手する闘神の一合は生半な猛攻ではない。

 都合、八の打撃がガーフィールへと降り注ぐ。
 一つ、二つは防げた。しかし、残る六つの打撃はガーフィールを直撃する。

 横っ面が弾かれ、二発の打撃が胴体を持ち上げる。宙に浮かぶ体が重ねた拳槌に打ち落とされ、水面に落ちた頭部に真上から拳が叩きつけられた。
 水中に没した顔面が固い床に挟み込まれて、鼻と牙が甚大なダメージを受ける。噴出する血が水面を血で染め、跳ね起きた瞬間に鼻血と吐血が糸を引いた。

「ぶっ、げほっ……っらァァァァ!!」

 欠けた歯の隙間から咆哮を上げ、頭部への打撃で揺れる残響を追い払う。裂帛の気合いで地下空間の大気を爆ぜ、正面の闘神はそれを歓迎するように踏み込んだ。
 互いの拳が交錯する。首を傾け、顔面の真横を抜ける拳にガーフィールは牙を滑らせ、手首から肘までを一気に引き裂いた。同時に伸びる右腕は巨躯の首元へかかり、そこから腹下までを爪が抉り抜ける。

 鋭利な切り口から鮮血が飛び散り、闘神の肉体にも浅からぬダメージが入る。
 だが、闘神の攻撃はここから七つ続く。その全てに対して、ガーフィールは全身を駆使して回避行動を取らなければならない。

 一合のぶつかり合いで、一手に対して八手。
 圧倒的不利、圧倒的物量差、圧倒的な戦力差――それが火を付ける。

「お、ォォォォォ!!」

 迫る、迫る、迫る、迫る、迫る、迫る、迫る――。
 受け、捌き、避け、流し、屈み、弾き、相打つ――!

 拳と拳が激突し、生じる衝撃波が両者の産毛を闘気で焼き払う。
 豪腕と剛腕の正面衝突は、肉と肉のぶつかり合いとは思えない轟音を上げ、両者の体が堪え切れずに背後へと吹っ飛んだ。

 水飛沫を散らしながら、猛虎と巨躯がもんどりうって転がる。
 クルガンは背後の壁に激突し、ガーフィールは再び水面とご対面だ。即座に顔を跳ね上げると、こちらを睨むクルガンと目が合った。

 言葉は無言、しかし意思疎通は一瞬だ。

 ガーフィールは立ち上がり、足首まで浸る水の中で石造りの床を踏みつけた。
 足裏に感じる『地霊の加護』の力が発動し、ガーフィールの足下の床が四角く切り取られ、浮上する。その浮かび上がる床を蹴りつけてどかすと、生じた大穴に地下を満たそうとしていた水が一挙に流れ込んだ。水位がぐんぐんと下がる。

 そのガーフィールの排水作業と並行して、クルガンは水の流れ込む穴へ向かう。
 二人を地下へ送り届けた穴は大きく、送り込まれる水の量も多い。放置しておけば数分も経たず、地下空間は完全に水没するだろう。
 そんな場所にあって、クルガンは鬼包丁の一本を抜いた。ガーフィールに噛み砕かれたものが減り、残る鬼包丁は都合三本。そのうちの一本を頭上へ掲げ、クルガンの狙いは壁の穴の真上――天井に無骨な鉄塊が突き刺さり、砕かれる。
 兵の眼力が崩落の程度を見極め、崩れ落ちてきた瓦礫が壁の穴を乱暴に塞いだ。無論、塞ぎ切れずに水の侵入はあるが、一挙に地下を満たすほどではない。

 穴が塞がり、排水が完了し、足首まで浸していた水位が失われる。
 無言のままに足場を確保して、二人の戦士は互いに最初の立ち位置へ戻り、向き直った。盾を構えた拳と、引き抜かれる三本の鬼包丁。

 英雄『八つ腕』のクルガンと、挑戦者『黄金の虎』ガーフィール。
 万全の状態で相手を叩き潰す。それはもはや、兵同士の不文律だ。

「――――」

 こんなことをしている場合ではない、その自覚はある。
 ガーフィールに求められている役割は、強襲された可能性の高い都市庁舎へと舞い戻り、非戦闘員である人々を救い出すことだ。
 だが、背を向ける向けない以前のその問題とは、とうの昔に向き合った。

 ――ガーフィールは、場違いな感傷だが、嬉しかった。

 ラインハルトに無残に敗北し、再会した母への信頼は記憶とともに封じられ、自分を庇った心優しい少女の仇も討てず、敵の思惑に乗せられて味方を危険に晒した。
 無力感と喪失感が、自分の掌から多くのものを奪い去るのを感じていた。

 『聖域』を出て、世界を知り、ガーフィールは自分の弱さを知った。
 『聖域』にいたときの自分の方が、きっとずっと強かった。当然だ。あの頃の自分は比べる対象を持たず、磨き上げた武に何の疑問も抱いていなかった。

 『聖域』を出て、世界を知り、ガーフィールは多くの強さを知った。
 『聖域』にいたときと比べて、自分自身の力が衰えたとは思わない。しかし、比べる対象が鏡写しの自分でなくなったことで、自分は相対的に弱くなった。

 その意識の変化、その結果をまざまざと思い知らされた二日間だ。
 無力感と喪失感がガーフィールの心を裸にし、ただの威勢のいいガキであることを思い知らせていく。戸惑いと後悔と疑問が胸をつき、心は揺れて削れて弱くなる。

 ――その摩耗して縮み上がる魂に、熱を入れてくれたのがクルガンだった。

 英雄『八つ腕』のクルガン。ヴォラキア帝国の英雄。多腕族最強の男。
 彼の男が鬼包丁を構え、ガーフィールを一人の戦士と認めて相対した。それが自身の価値を見失っていたガーフィールに、どれだけ大きかったことか。

 もつれ合うように水路へ落ち、慣れない水中戦にガーフィールの意識は朦朧としていた。秘術で死後より戻ったクルガンに呼吸の必要はなく、決着だけを求めるならばガーフィールの溺死を待つだけでよかったはずだ。
 だが、闘神は水路の壁を砕き、避難所へ道を繋げ、ガーフィールを生かした。
 何のためか。

「最初は……また、情けッかけられたのかと思ったぜ」

「――――」

 覚悟の定まらないガーフィールを、当初のクルガンは戦士と認めなかった。
 殴りかかる子どもを跳ね除け、泣きじゃくる姿を足蹴にするのは戦士の行いではない。故に癇癪に身を任せるガーフィールを、クルガンはただただ遠ざけた。

 だけど、違うと。
 立ち上がり、盾を構えて、自分を見据えたガーフィールを戦士と認めたから。
 伝説に名高い鬼包丁が構えられ、戦士を迎え撃つ闘神を目の当たりにした。

 あの姿を見たあとで、ガーフィールへの行いが憐れみや情けであるはずがない。
 クルガンは求めている。ガーフィールとの戦いに、相応しい決着を。

 ――戦士と戦士の戦いは、互いの一撃によって決する以外に終わり方はない。


「よォ、てめェら……いつまでここでジッとしてやがんだ?」

 両腕に装着された盾の感触を確かめながら、ガーフィールは正面のクルガンではなく、周囲に散り散りになっている視線の持ち主たちに問う。
 濁流とともに二人が流れ着いてから、ただ黙ってこの戦士同士の戦いを遠巻きにしている人々――避難民たちだ。

 風体、年齢、人種すらもバラバラな寄せ集め。共通しているのは戦う力がないことで、吹けば飛ぶような非力な非戦闘員の集まりだ。
 もし仮にガーフィールが倒れてしまえば、クルガンに太刀打ちできる人材などいるはずがない。クルガンが非戦闘員を根切りにする、そんな暴挙に出るとは考えにくいが、それがわかるのはこうして相対するガーフィールだけのはず。
 だから、

「見りゃァわかんッだろォが。そうやって離れッて見てよォが、てめェらにできることなんざありゃァしねェ。今のうちにとっとと外に避難して……」

「――ゴージャス・タイガー!」

「あァ……?」

 この場からの退去を促すガーフィールの言葉を、甲高い声が遮った。
 怪訝に眉を寄せるガーフィールに叫んだのは、ガーフィールをそう呼ぶのはこの場にいる中でたった一人。

 少年は目に涙を浮かべ、顔を赤くして、ギュッと自分の服の裾を握っていた。
 そして怪訝に自分を見るガーフィールを、その潤んだ瞳でキッと見つめ返す。ガーフィールが思わず息を呑むほど、強い意思の込められた目で。

「おい、チビ……お前、何を……」

「ゴージャス・タイガー!」

「――――」

「ご、ゴージャス・タイガー!」

 押し黙るガーフィールを、少年は声を震わせてそう呼ぶ。
 それ以外に感情を表現する方法を知らないとばかりに、その名前を叫ぶ。

 黄金の虎の名前だ。ガーフィール・ティンゼルの憧れる、最強の虎の名前だ。
 なぜ今、その名を叫ぶ。自分に何が言いたいのか。

 赤い顔で、少年の頬を涙が伝った。
 叫ぶ少年の声を、地下にいる全員が耳にしている。だからその声に込められた、言葉にできない激情を全員が共有していた。

「いいから、逃げろって言ってんだろォが」

「ゴージャス・タイガー!」

 ガーフィールの吐息が、黄金の虎を呼ぶ声にかき消された。
 叫ぶ少年を背後から、同じ金色の髪の少女が抱きしめる。少年の姉だ。弟を守るように抱きしめて、震える眼差しがガーフィールを見つめた。
 唇が震える。声にならない声が、黄金の虎を呼んでいた。

「勝ってくれ!」

 少年でも、少女でも、もちろんガーフィールでもない。
 地下にいた一人の男が、拳を握りしめて声を上げていた。

「いや、いいから逃げろって……」

「戦って、勝って!」
「負けないで!」
「み、見てるしかできない……けど!」

 唖然とした。
 ガーフィールの退去を促す声は、そのことごとくが別の声にかき消される。

 気付けば、少年の声を始まりとした熱気は地下にいた全ての人々に伝搬し、ガーフィールとクルガンの決闘を見る人々は誰一人動かない。
 常識で考えて、冷静に立ち返って、この場に残ることが正解だなんて誰が思える。全員、熱に浮かされている。何の意味もない意地や信念のために、自分を犠牲にしかねない結論に身を委ねていた。

「――――」

 なんだそりゃ、とガーフィールは思う。
 この場に残って何の意味がある。声を上げ、声援をかけることで何が望める。

 逃げてくれた方がずっといい。巻き添えにする心配がなくなるし、自分が倒れたあとに犠牲が生まれる可能性だって減るはずだし、ずっと合理的だ。
 なのに誰も逃げ出さないのは、なんでだろうか。

「大将……やっぱり、演説が効きッすぎたんだよ……」

 ナツキ・スバルの呼びかけが、都市全域へ伝えた言葉が思い出された。
 都市中の人々の心を巻き込み、スバルの弱さという強さは不安と恐怖に怯える人々を強かに引き上げ、最後の希望に弱々しい火を灯した。
 その燻ぶる種火は胸の内で熱となって残り、機会を得れば燃え上がる。

 彼らにとってのその場所が、今この瞬間であったように。
 ガーフィールにとってのその瞬間が、今この時であったように。

「ゴージャス・タイガー!」

 声援が、止まない。
 率先して黄金の虎を呼ぶのは、知らない間に生まれたガーフィールの弟だ。その末弟を守るように抱くのは、同じく知らない間に生まれたガーフィールの妹だ。

 弟と、妹が、ガーフィールを見ている。
 記憶をなくした母を受け入れてくれた都市、その住人がガーフィールを見ている。

「戦士の決闘……尋常な果し合いにしちゃァ、騒がしすぎるッだろォが」

「――――」

「本当に、悪ィな。あんたにゃァ迷惑かけ通しだ。特に一番騒がしいの、あいつらァ俺様の弟と妹なんだよ。あとでちゃんと、言い聞かせておくから」

「――――」

「だァから」

 無言の闘神の構えが戦意を帯びる。
 言葉はなくとも、その姿勢こそが何よりも雄弁。

 固めた拳を引き寄せ、装着した盾同士を打ち合わせる。
 鋼の打ち合う音が火花を生み、ガーフィールは牙を剥き出して、息を吸った。

「『聖域の盾』……いィや」

「――――」

「『ゴージャス・タイガー』、ガーフィール・ティンゼル」

 戦士同士の決闘、その開幕を告げる名乗り上げ。
 ガーフィールの名乗りに対し、クルガンの声はない。ただ無言で闘神は鬼包丁を擦り合わせ、敵対者への最大限の戦意を表明した。

 それだけで、十分だった。


「が、ああァァァァ!!」

 石床が踏み切りで爆ぜ、ガーフィールの体が前方へ突っ込む。
 同じく迎撃に踏み込むクルガンと、互いの距離は刹那で消失した。

 打撃には鋭く、斬撃には鈍く、その合間を極める迫撃が繰り出される。
 鬼包丁に薙がれる空気が潰れるでも斬られるでもなく殺され、迫る刃に致命の感覚を戦士の嗅覚が嗅ぎ取った。

 一合に対して八手、八手に対して一手。
 ガーフィールとクルガンの手数の違い、それははるか遠き頂を目指すに等しい。
 だがしかし、手をかけなければ届かない。故に挑む、全霊を賭して。

「――――」

 胴体目掛けて放たれた迫撃、直撃を受ければ切れ味はなくとも胴を断ち切られる。ガーフィールは迷わず足を上げ、迫撃の鬼包丁を真上から踏み潰した。
 踵が鬼包丁の腹を噛み、分厚い刀身が石床に突き刺さり、削岩する轟音に都市が揺れたかと思うほどの錯覚が走る。

 まず一手、だが安堵の暇はない。

 踏み潰した鬼包丁が床に突き刺さったのと同時、左の肩口から弧を描く二本目が強襲する。右の耳が風切る鬼包丁の音を捉えた直後、ガーフィールは両腕の盾で頭部をガード。寸分の狂いなく、腕を掲げた瞬間に迫撃が命中し、意識が白んだ。
 受けた衝撃に右腕が肘からへし折れ、二の腕と手首も粉砕される。奥歯を噛み、噛みしめた歯にヒビを入れながら耐える。これで二手。

 三手目と四手目は無手の打撃、これが同時に飛んでくる。

 巨躯のクルガンが拳を握り固めれば、その拳骨は幼児の頭部ほどにもなる。砲弾級の威力がまさしく砲弾めいたサイズで放たれれば、生まれる結果は弩級の一言。
 石壁あるいは鉄板すらも貫きそうな拳が、頭部への衝撃で思考が白むガーフィールを襲う。狙いは胴体と頭部、どちらも直撃すれば消し飛ぶ威力。

 胴体に突き刺さる拳が、ガーフィールの腹筋の表面を焼き尽くす。
 炎に炙られたかと脳が錯覚するほど、拳は熱く、威力は突き抜けていた。

 その拳を身をひねり、腹筋の表面を削られるだけに留める。三手。
 体の半分が持っていかれた感覚に神経を焦がしながら、四手目の顔面狙いの拳に対して右腕を合わせる。へし折れ、粉砕された右腕が、超級の威力に完全に爆ぜた。

 指先から手首、肘までが押し潰されて、腕の原型がわからなくなるほど拉げる。手首で固定されていた盾が飛び、しかし威力の死んだ拳は致命打には遠い。背をのけ反らせ、拳に額を合わせる。頭突きがクルガンの拳を叩き潰し、四手目を回避。

 残り、五、六、七、八。遠い。遠すぎる。笑みが出た。牙が震えた。

「――ぉ、ォォォン!!」

 五手目、六手目も同じく無手。鬼包丁は残り一本、決め手は温存される。
 左の腕が二本、肩下と脇から伸びる二本が同時に殴りかかってきた。防御に回せる右腕は死んでいる。左腕は追いつかない。迷うことなく、右足で踏み込んだ。

 靴裏がかすかな飛沫を立て、同時に大地に意思が伝わる。
 時に力を汲み上げ、時に意のままに動かし、そして今もまた力を借りる――。

 足場が歪み、クルガンの踵が浮かんだ。
 しかし、闘神はその歪みを一瞬の停滞もなく踏み潰す。その動きに躊躇いなし。微塵の揺らぎもなし。だが、全神経の集中は綻んだ。

 クルガンの神経が足場に割かれた刹那、その間隙にガーフィールは飛び込む。
 足を上げ、身をひねり、横殴りの打撃と打撃のわずかな隙間に頭を入れた。そのまま暴風の合間を突くように、胴体と背を掠める一撃と一撃をすり抜ける。

 足を着いた瞬間、ガーフィールは自分の判断に戦慄した。
 何を以ていけると判断したのかすらわからない、思考と決断の間が存在しないコンマ以下の中での判断。脳が焼ける。心が燃える。命が爆ぜていた。

 五手、六手の封殺。そして、七手目と八手目が――。

「――――」

 ぞわりと、ガーフィールの全身の毛が逆立った。
 六手目までを回避されたクルガンが、残る二手で以てガーフィールを仕留めんと欲する。――必殺の一撃がくる。

 ――七手目、飛ばして最後の八手目がくる。

 一手放棄して、鬼包丁が担がれた。
 右腕が鬼包丁の柄を握り、右肩の腕が鬼包丁の刀身を万力で掴む。地上でガーフィールの迎撃に用いた、超威力の斬撃が構えられる。

 全包囲、どこにいたとしても殺されると確信できる覇気。
 ここまで命懸けで防いだ六手、その全てが霞んで見えるほどの最終局面。

 回避できるビジョンが浮かばない。
 後ろへ下がっても、横へ飛んでも、前へ踏み込んでも、迫撃される。
 一撃の前に肉片になる自分を、恐ろしく鮮明に幻視することができた。

 回避は不可能。迎撃もまた無謀。――選択肢は一つ、受けるしかない。

 折れていない左腕を頭上に掲げ、ガーフィールは腰を落とした。
 この瞬間の世界で、今も声が聞こえている。弟と妹と、大勢が声を上げている。

 判断は一瞬、行動は刹那、結果は直後だ。

「――――」

 鬼包丁が放たれた瞬間、ガーフィールは世界から完全に切り離された。
 音が消え、色がなくなり、余計な光景の一切が消し飛ぶ。極限の集中の中でガーフィールの意識に残ったのは、クルガンの存在のみだ。

 異常に緩慢な動きで、鬼包丁の先端がガーフィールに振り下ろされる。
 それを見上げ、受けようと構える自分の動作も緩慢だ。もどかしいほど停滞した世界の中、ガーフィールにできることは奥歯を噛みしめることだけ。
 否、思い出に浸る時間はあった。

 スバルが見えた。ラムが見えた。ミミが見えて、フレデリカが見えて、リューズが浮かんで、エミリアがいて、オットーが出てきて、ロズワールの野郎が浮かんで、ベアトリスやペトラや『聖域』のみんなが、そして母リーシアと弟と妹が見えた。

 『聖域』の戦いで、ガーフィールは自分の弱さを自覚した。
 世界の広さを知って、ラインハルトに敗北したとき、ガーフィールは自分が『聖域』を出る前より弱くなったのではと錯覚した。

 ――そんなはずがない。

 抱えたものの数だけ弱くなるなら、何のために生きるのだ。
 抱えたものを守れるだけ、強く在ろうと思えばいい。

「あァ――すっきりした」

 ストンと、悩みの種が胸を落ちた。
 瞬間、鬼包丁の一撃が掲げた左腕の盾を直撃し、稲妻が全身をつんざいた。

「――ッッ!!」

 左腕の防御は、鬼包丁の迫撃の前に一瞬で砕けた。
 右腕の破壊と同じように、手首、肘、二の腕、さらに肩まで一気にねじくれる。
 見慣れた両腕が悪夢のようにぶち壊れ、激痛が視界を真っ赤に、思考を真っ白に焼いていく。口が開き、絶叫が上がった。
 噛みしめていた顎が開き、ここまでの負傷の全てが絶望の大合唱を始める。

 鬼包丁の勢いは止まらない。
 左腕を砕き、残りの勢いがガーフィールの首に迫る。そのままガーフィールの矮躯を叩き潰し、全身余さず肉片に変えるのに威力は十分。
 断末魔に近しい叫びを上げる若き戦士に、闘神はどう思っただろうか。

 慈悲を抱いたか、哀れみを感じたか――どちらでもあるまい。
 息の根を止めるその瞬間まで、戦士が戦士を憐れむ道理などありはしない。

「――ァァァッ」

 激痛の絶叫、ガーフィールの頭が下がる。悲痛な声が尾を引き、そして。

「――ぁぁ、が」

 叫び声が中断し、顎が閉じた。再び噛みしめた咢、そこに銀の輝きがある。
 破壊された右腕から落ちた銀の盾が、ガーフィールの顎に食いつかれている。

「が、ァォォォ――ッ!」

 首を跳ね上げ、盾をくわえた顔面が鬼包丁の途上に割り込んだ。
 盾による防御の二発目、受けた瞬間に盾で顔面が押し潰されて、ガーフィールの鼻面で血が弾ける。牙が吹き飛ぶ。だが、膝は屈しない。

 強靭な首と顎の力が、鬼包丁の一撃を食い止める。
 鋼と鋼の衝突に火花――炎が噴き、ガーフィールの意識は彼方へ消し飛んだ。

「――――」

 半ば白目を剥きながら、それでも首を傾けたのは何の意思だったのか。
 戦闘本能、あるいは獣の闘争心か生存能力か。

 ふいに、血が噴出した。大量の鮮血が弾け、地下に真っ赤な花が咲き乱れる。
 出どころはクルガンの右腕、鬼包丁を握りしめたその最後の右腕だ。
 そこには一つ前の激突でガーフィールの与えた傷があり、手首から二の腕まで骨が見えるほど裂けていた。その傷が今の一撃で完全に開く。

 クルガンの顔に驚きはない。痛みに呻く姿もない。
 当然だ。彼は死体なのだ。痛覚は生者のために用意された、命の灯火を確かめるための生命線――死者にその機能は必要ない。

 故にクルガンは、不完全な右腕の影響を見逃した。
 真に万全を期すのであれば、最後の一撃は健在な左腕こそが放つべきだった。
 それが勝敗を分けた――などと、断ずることはできない。
 だが、

「――ぁ」

 八手目をしのぎ、ガーフィールは血塗れの顔面で息を吐いた。
 くわえていた盾が落ちる。正面には腕の全てを振り切り、身をさらすクルガン。ガーフィールの右腕と左腕は完全に崩壊し、両足も度重なる衝撃に耐えかねてあちこちの筋肉が断裂している。それでも、あと一歩ぐらいは跳べる。

 跳んで、どうする。腕は、爪は使えない。ならば残されているのは――。

「ぁ、ぁぁ、ァァァアァアアァア――ッ!」

 叫び、大口を開け、クルガン目掛けて飛びかかる。
 棒立ちの闘神の首の付け根に、ガーフィールの牙が食らいついた。固く張り詰めた肌を牙が易々と貫通し、生命維持に必要な重要器官を根こそぎ噛み千切る。
 食らいついたまま身をひねり、牙が筋繊維を引っかけ、巻き込み、首の半分ほどが抉れ、ガーフィールの獣の顎に食い尽くされる。

「が、ぁっ」

 無防備に床の上に落ちて、ガーフィールは食い千切った肉を吐き出した。えずきながら振り返り、その首から大量の血を流すクルガンの後ろ姿を見る。

 両腕を潰され、牙も何本も欠けて血塗れのガーフィール。
 そんなガーフィールに致命傷を受けながら、堂々と立ち尽くすクルガンの立ち姿の勇ましさよ。身震いがするほど、それは英雄の在り方だった。

「――――」

 やがてゆっくりと、クルガンがガーフィールの方を振り返る。
 地べたに横倒しになり、自分を見上げる戦士に闘神は静かに腕を組んだ。
 そして、

「――見事」

 低く、重々しい声が一言だけ、勝者を称賛した。

「ぁ……」

 何か、応じる暇もない。
 目を見開いたガーフィールの眼前で、クルガンの姿は一瞬で崩れ落ちた。

 見上げるほどの巨躯は砂のように崩壊し、異形の面貌は灰の塊へと変ずる。
 あまりにも呆気ない終焉、死者を再び死者へ返す――その結果だ。

「……潔いなんて、話じゃァねェぞ」

 消えて、灰と化した闘神の去り方にガーフィールは憎々しげに口走る。
 みっともなく生にしがみついてほしいとまでは思わない。命の奪い合い、終わり方が呆気ないのは当然のことだ。
 だからこれは、ガーフィールの詮無い感傷でしかない。

「あァ、クソ……やべェ、死ぬ……」

 血を流しすぎた。
 床に寝そべり、全身で『地霊の加護』から力を汲み上げ、かき集めたマナを治癒魔法に乗せて体中の修復に用いる。特に両腕、それと顔面がマズイ。
 地上で受けたダメージも抜け切らないまま、あれだけの攻撃を受け続けたのだ。甚大な被害が残っても不思議ではない。

「ゴージャス・タイガー!」

 治療に全力を注ぐガーフィールを、その泣き声が呼んだ。
 水溜まりを踏んで駆け寄ってくるのは、弟と妹の二人だ。他の人々も駆け寄ってきているが、ガーフィールには二人だけが見えていた。

 二人とも、泣きそうな顔――否、泣いている。
 仕方あるまい。素人目に見ても、今のガーフィールの状態は尋常ではない。玄人目で見ても生きているのが不思議、という状態だ。治癒術師ならば顔を蒼白にして、緊急体制で治療に当たらなくてはと診断を下すだろう。

 生死の境、それだけの死線を越えた証だ。
 当然、それを誇る気持ちはあるが――、

「生きてッけどなァ……足、止めてもらんねェんだ」

 『八つ腕』のクルガンを打ち倒し、戦果を挙げても止まることはできない。
 これはガーフィールの戦いだが、ガーフィールだけの戦いではないのだ。こうして足止めをされている間にも、窮地に陥っている仲間がいるかもしれない。

 都市庁舎に戻らなければと、ガーフィールは体を起こした。
 その行動と言葉を聞きつけて、駆け寄ってきていた弟妹が血相を変える。特に妹の方は烈火のごとく怒り顔で、

「ば、バカじゃないの!? いいから寝てなさいよ! すぐ……そう、すぐに誰か、お医者さんを呼んでくるから……っ」

「医者にかかんなきゃなんねェ奴ァきっと他にいる。俺様ァ、他にやることがあんだよ、チビッ子」

 顔を赤くし、食い下がる妹にガーフィールは頷きかける。血塗れの顔で相当に見映えが悪いだろう。妹はポロポロと悔しそうに涙を流した。
 その間に、ぐしゃぐしゃの両腕の骨が接がれる。肉は修復しきれていないが、走る衝撃で意識が飛ぶほどのことはあるまい。そう判断し、立ち上がった。

「ま、待って……ほ、本当にいくの?」

「……放送、聞こえッただろ?」

「え……う、うん」

 指先から血を滴らせながら、呟いたガーフィールに頷きがある。
 あの声が弟妹に勇気を与えて、ここで最後の一押しをガーフィールにくれた。だからガーフィールは、あの声に応える必要がある。
 大丈夫なのだと、スバルが言ったのだから、大丈夫にしなければ。

「だァから、俺様ァ……」

「ちょっと!」

 血の足りない体がふらつき、その場に膝が落ちた。倒れそうになる体を慌てた妹に支えられて、ガーフィールは舌打ちする。
 すると、そのガーフィールの正面に今度は弟が立った。

「ゴージャス・タイガー」

「……なんだ。悪ィが、お前も止めるってんなら聞いてらんねェぞ」

「ううん、違うよ。ゴージャス・タイガー、服が光ってる」

 弟の指摘に、ガーフィールは視線を落として気付いた。
 ボロボロになった衣服の腰あたりで、淡く布地を照らす光がある。
 そこに押し込んでいたのは対話鏡だ。都市庁舎と連絡を取ることができず、役立たずであると仕舞い込んでいた道具。それが淡く光るということは、

「ぶっ壊れたかと、思ってたが……」

「う、ウチが出してあげるっ」

 荒い息を吐くガーフィール。その懐に手を突っ込み、止める暇もなく妹がその対話鏡を引っ張り出した。鏡の表面から光が溢れているのは、使い方を聞いた話では対となる対話鏡から呼びかけがあった場合のはずだ。
 つまり、都市庁舎かあるいはもう一つの組から呼び出しがかかっている。

「ど、どうすればいいの……?」

「こっち寄せろ。――誰だ?」

 妹がおそるおそる、光り輝く対話鏡をガーフィールへと近付ける。その鏡面を覗き込み、ガーフィールは呼びかけた。
 対話鏡は、ゆっくりと瞬き始めた。

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