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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第五章 『歴史を刻む星々』

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第五章60 『一つの終わりと、一つの戦い』

 白い光が見えた。

 温かで、柔らかな、ひどく心安らぐ光が。
 こんなにも安らかな気持ちで、朝を迎えるのはどれだけ久しぶりなことだろう。
 眠りから目覚めるときはいつでも憂鬱で、終わらない悪夢の中にいた日々には安寧なんてどこにもなくて。
 きっといつまでもいつまでも、その闇は晴れないものと信じ込んでいたから。
 だからこそ、この光はこんなにも心に沁みるのだろうか。

「――ね、起きて」

 誰かの声がする。
 白い光の向こうから、誰かが自分を呼んでいる。その声に導かれるままに、手を引かれるままに、闇を抜ける。
 遠く見えていた白い光が、やがて視界をいっぱいに覆い尽くして――。

「おはよ。お寝坊さんも、目覚めの時間よ」

 瞼を開けた向こうで、銀髪の少女が照れ笑いしながらそう言った。

 ――その言葉にシルフィの頬を、涙が伝った。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 青白い光が天に立ち上り、氷の結界がほどかれる。
 半壊した教会を包み込んでいた氷は光になり、散り散りになるマナは踊る微精霊たちに包まれて消える。

 不可視の幻想が不可視の幻想に呑み込まれる光景は、ひどく物悲しいような感傷を見るものの心に刻む。
 涙腺が刺激されたとしても仕方ない光景だが、泣きじゃくる彼女たちの涙の理由はそればかりではないだろう。

 彼女らの人生、そのもっとも輝かしい時間を縛っていた悪夢――そこからの解放だ。

「それにしても、エミリアたんは大したもんだ」

 思わず唇をゆるめながら、スバルはぼんやり呟く。
 視線の先にあるのはエミリアと、その彼女に泣きついている花嫁――元花嫁たちの、健在な姿だ。
 ドレス姿の女性はその数きっちり五十三名、一人の欠員も出ていない。

「……花嫁と心臓が同化してるって聞かされたとき、花嫁を死なせずに助ける方法はないもんだとばっかり思ってたけどな」

 花嫁たちの命を奪い、『獅子の心臓』の居所をなくす。それ以外の方法で、あの凶人を止める方法はないとスバルは半ば本気で諦めていた。犠牲を覚悟していた。
 そんなスバルと違って、エミリアは諦めなかった。

 レグルス相手に命懸けの鍔迫り合いの最中だったとはいえ、他の手はないと思考停止していたのは事実だ。だが、エミリアは考えをやめなかった。
 自分の持てる手札で、何ができるのか考え、それを果たした。
 だから、

「今回は完全に、エミリアたんに持っていかれたな」

「そんなこと、ないわよ」

 脱力して、壁際にヘたり込むスバル。その安堵の吐息を聞きつけて、エミリアが戻ってくる。白いドレスはかぎ裂きで、死闘を乗り越えた銀髪はほつれている。それでもなお、戦いを終えてそこにあるエミリアは綺麗だった。
 そんな内心の感慨に息を吐き、スバルは顎をしゃくる。

「まだあの人たち、エミリアたんに感謝の言葉伝え足りない顔してるよ?」

「もう茶化さないの。それに私、みんなに偉そうなこと言えないもん。とっさのことだったけど……一度は死ぬかもしれない選択をみんなに無理やりさせたんだから」

「でも誰も死んでない。みんな生きてる。――それが何よりだよ」

 その結果、それが何よりも最上だ。
 求めた答えを得られ、スバルは安堵する。エミリアは腰に手を当てると、相変わらず自己評価の低い自分を棚上げしてスバルに唇を尖らせる。

「ケガだらけになって、いっぱい無理して……スバルが頑張ってくれなかったら、今頃、みんなダメだったわ。『獅子の心臓』だって、スバルが気付いてくれたからだし」

「決め手に欠けるのはいつものこと……って開き直るのもなんなんだよね。でも、よく気付いたね。花嫁さんたちを氷漬けにして、仮死状態にしようなんて」

「私も、凍ってた時間が長かったから」

 てへ、という感じでエミリアが舌を出す。可愛い。
 が、案外、笑って話すような内容でもない。
 とはいえ、エミリアの行動とその機転はレグルス打倒において、無用の犠牲を生まないという最大の効果を発揮した。
 五十三名、尊い花嫁たちの命は救われたのだ。

「ちゃんとうまくできるか、自信はなかったけど」

「でもやってのけた。エミリアたん、自分の力を使いこなすのに努力してたから」

「だけど、凍っちゃったままになる可能性だってあった。うまく解放できてちょっと今ホッとしてるの」

 そして照れ笑いを隠すと、彼女は自分の胸に触れる。
 その掌の下、脈打つ自分だけの鼓動を確かめるように。

「それに、スバルがレグルスの心臓を私の胸から取り出してくれなかったら、私も自分自身に同じ魔法をかけるしかなかったわ。その場合、シルフィたちも私も、溶かすの今よりもっとすごーく大変だったと思うの。また百年かかっちゃったかも」

「またまたー、さすがにそれは大げさでしょ」

「…………」

「大げさじゃないの!? やべ、紙一重のファインプレーだった!」

 無言で苦笑するエミリアに、スバルは仰天する。
 レグルスの挑発で、自分ごと『獅子の心臓』を止めにかかろうとしたエミリア。あれを見過ごしていたら、下手を打つとエミリアと今生の別れだ。無論、そうならないように氷を溶かす方法を探してさまよい歩くとは思うが。

「眠り姫二人とか、俺の疫病神ぶりが半端じゃなくなるから勘弁してくれな」

 ぼやき、しかしスバルは安堵の息を吐いた。
 いずれにせよ、エミリアは無事に救われたし、花嫁たちも無事で済んだ。レグルスとの戦いは、個人との戦いとは思えないほど大規模の破壊を生んだが――最終的な決着として、こちら側が被った被害はほとんどない。

 せいぜい、スバルが肉体的に色々と背負ったことと、魔女教との不必要な因縁。
 それと――。

「ラインハルト、ケガの治療もしないで出ていったけど大丈夫かしら」

 考え込むスバルに、ふとエミリアがそう言った。
 スバルは顔を上げ、ひらひらと手を振る。

「問題ないよ。なんかあいつ、放っておいても勝手に微精霊が傷を治してくれるらしいぜ。自分で言ってた」

「あ、やっぱり。このあたりにたくさんいたはずの微精霊が、ラインハルトがいなくなったらみんなついていっちゃってて……ラインハルト、精霊使いの素質あるのかも」

「俺の個性が死ぬからやめて!」

 それにラインハルトの場合、そんなものなくても十分に強すぎるだろう。レグルスにラインハルトをぶつけたのはスバル自身だが、最後の決闘紛いの状況でのラインハルトの戦いぶりはどん引きの一言である。

 人間、あんな軽々と雲の上までジャンプできるものなのか。同じ人間とは思えないし、だけど同じ王選候補者の騎士なのである。

「エミリアたん、弱い俺だけど見捨てないでね」

「――? 私、スバルのことすごーく頼りにしてるわよ?」

「だよね! そうだよね! これからも尽くすよ!」

「ごめん、ちょっとなんでそんなにぐいぐいくるのかわかんない……」

 いずれにせよ、あっちがこっちがと比べるのはやめよう。それこそ、他人を評価基準にして安心しなければ行動できないレグルスみたいになる。
 見るべき点などない男だとばかり思っていたが、なんだ意外と反面教師としてはなかなか悪くないではないか。

「……他のみんな、大丈夫かな」

「そのためのラインハルト。それにぶっちゃけ、みんな俺より強いからね」

 任せよう、というと他力本願にも聞こえるが、信じているというこそばゆい表現が一番しっくりくる。
 陣営は違うし、いずれは一つの王位を巡って正面からぶつかり合うこともあるはずだけど、スバルは彼女ら彼らを信じていた。人格・能力・信念色々とあるけれど。

 少なくとも、魔女教のような卑劣で救いがたい奴らに負けてほしくないと、そう願えるぐらいには。

「――――」

 それに誰かが敗北し、命に関わるようなことがあれば――あるいはスバルは、『死に戻り』を考慮しなければならない。ロズワールとの契約、それを別にしても救える可能性があるのであれば、きっと救おうとしてしまう。

 痛いのも苦しいのも、嫌だ。
 だけど悲しいのはきっと、もっと嫌なのだ。

「スバル」

「――――」

 死の可能性を考えるスバルに何を見たのか、座り込むスバルの隣にエミリアが腰を下ろした。
 彼女はスバルの左肩に身を寄せながら、俯きかけたその頭を優しく撫でる。くすぐったい。けど、離れ難い。

「エミリアたん?」

「今、スバルとおんなじ気持ち。みんなが心配だけど、もう力が空っぽで、手助けにもいけない。だから私も、スバルと一緒に祈らせて? みんなの、無事」

「――――」

「きっと大丈夫。みんな、だって私たちよりすごーく強くて、すごーく賢くて、すごーく頑張り屋さんだから」

 スバルを安心させるためか、言葉を選んでいるエミリア。その言葉選びのセンスがいかにも彼女らしくて、スバルは少しだけ心が安らかになった。

 信じよう。みんなを。送り出したラインハルトを。
 レグルスの撃破後すぐ、ラインハルトは他の仲間たちの救援に走り出した。彼が辿り着く戦場は何の心配もない。
 誰も欠けずに、朝を迎えたい。そうすれば、スバルの心配事はもう、たった一つでいい――。

「――――」

 祈るように空を見上げるスバルに、エミリアもまた崩れ落ちた教会の天井から夜空を仰ぐ。そのエミリアに見えないよう、スバルは自分の胸をギュッと掴んで、握りしめていた。

 ――レグルスの死の実感とともに、また何か得体の知れない黒いモノが、自分の胸に滑り込んできて、脈動している。

 これはきっと、ペテルギウスのときと同じもので。

 だからそれをエミリアに悟られないよう、ただ静かに。
 空に祈り、己に覚悟を、ただ静かに。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――時間はレグルス撃破よりも、わずかにさかのぼる。

 それはスバルたち制御搭攻略組の出発と、それを見送ったオットーが『叡智の書』の回収のために庁舎を出た半刻後のことだ。
 それはオットーがフェルトたちと戦闘する『暴食』と接触した頃であり、ガーフィールがクルガンと水路に落ちた頃であり、ヴィルヘルムがテレシアのフードを落とした頃であり、ユリウスが身に覚えのない恨み言を聞かされて眉をひそめた頃であり、花嫁に無断で決行された結婚式の最中に教会が半壊した頃であり、都市北部の水路が突如として一斉に燃え上がった頃であり――非戦闘員ばかりが残る都市庁舎の建物を衝撃が襲った瞬間だった。

「じゃっじゃーん! アタクシのお出まし~!」

 五階建ての都市庁舎の最上階、その壁を巨大な質量が容赦なく粉砕する。
 激しい震動に建物の窓はひび割れ、日中にもあったダメージに建物の基礎が致命的に損傷する。プリステラの都市機能、その中枢でもあったはずの建物はたった一日で崩壊寸前にまで追いやられ、見る影もない状態へと陥っていた。

 ただ、それが崩壊寸前で済むかあるいはということは、この場でこれから起きるであろう出来事――その結果次第で決まる。

「四つの塔に四つの水門。どれか一つでも開けられた日には都市の全部が水没確実……当然、全部の塔の可能性を潰さなきゃなんねーわけですから、てめーらクズ肉は嫌でも戦力分散して総力戦に持ち込むっきゃねーわけです」

 ぺちゃくちゃと、耳に煩わしい声が都市の置かれた状況を口にする。
 と、それに対して声が上がった。

「みんな! 必ず生きて戻って、この都市を守ろう!」
「この美しい街並みを、私たちの力で取り戻すのよ!」
「正義のために戦う俺たちが負けるはずがない!」
「善行には善果、悪行には悪果あり。この戦い、我々の勝利だ――!」

 凛々しい青年の声がする。
 年若い少女の勇ましい声があった。
 歴戦を感じさせる厳つい男の兵らしい鬨があり、理知的な妙齢の女の声が奮い立たせるような鼓舞を叫ぶ。
 いずれも、その言葉に恥じないだけの意志と覚悟に裏打ちされた強い言葉の数々――ただし、語った口は一つだけ。

「なーんて、考えちゃったりしたんじゃねーんですか?」

 そして力強い言葉を口にしたものと同じ唇が、それまでの言葉全てを裏切るような侮蔑と嘲弄、拭い去りようのない悪意を塗り固めた声で言い放つ。
 それからその声の主は、自分の小さな体を抱いて嫌々と肩を左右に揺すり、

「きゃははははっ! やだやだやーだぁ、やめてくださいってんですよ! なーんでアタクシがそんな泥臭くて汗くせーに違いねー正義に付き合ってやんなきゃなんねーんですか? てめーらクズ肉、揃いも揃って頭キレーに沸いてんですか?」

 甲高く、けたたましい笑い声が上がる。
 隠しきれない、隠すつもりのない悪意の嬌声、それを上げるのはまだまだ幼い未成熟な体をした童女だ。

 丸い瞳に薄い唇、首丈の金髪に紅い頬を愛くるしさを極めたような容姿で、その顔に童女らしからぬ艶すらたたえた凶相を浮かべている。身につけているのは下着同然の布切ればかりで、まだ女性としてどころか人間としての体が出来上がっていない童女の過剰な露出は、正常な人間に等しく歪な嫌悪感を抱かせた。

 おそらく童女――否、その怪物の狙いはそこにある。
 魔女教大罪司教、『色欲』担当カペラ・エメラダ・ルグニカ、その人間の倫理と尊厳をあらん限りに凌辱する怪物の狙いはそこに。

「アタクシがお行儀よく、塔で待ってるだなんて都合のいい妄想を信じられる精神がもはや謎! どんだけてめーら優しい毎日過ごしてきたんですか、接待か! 戦いって敵にさせたいことをさせずに、敵がやられたくねーことするもんでしょーが。お花畑の住人も大概にしやがれってんですよー、クズクズクズクズクズ肉共が」

 聞くに堪えない罵詈雑言の最中にも、仕草だけは愛らしい怪物カペラ。
 頬に指を立てて体をくねらせる怪物は、都市庁舎への侵入を果たすと即座に人の気配頼りに手近な部屋へ侵入――そこでカペラと遭遇し、これまでの罵声を浴びせられ続けたのは猫耳の騎士だ。背後の寝台には横たわる髪の長い女性がいる。
 ここは庁舎の最上階、フェリスとクルシュの主従に割り当てられた部屋だった。

「あんたが、大罪司教の『色欲』……!」

 怒りに震える声で、カペラを睨みつけるのはベッドを庇うフェリスだ。カペラは自分を睨むフェリスに首を傾げ、その後ろのベッドを覗くと納得した顔で頷いた。

「あーはいはい、恨まれ納得。やーっぱり血に負けちゃいやがりましたか。ダメだろーとは思ってたんですよ。思ってたんですけど、実際に負けるとこ見るとガッカリしちまいますね。そこそこ高貴なルグニカの血だろーから期待してたってのに」

「クルシュ様をこんな目に遭わせて何が目的なの!? どうすればクルシュ様を助けられるの! 答えろ!」

 残念がるというよりは退屈そうなカペラの呟きに、愛らしい顔を怒りで赤くしたフェリスが吠える。その両手に握られているのは、フェリスが持ち歩く短剣だ。
 美しい装飾と獅子の紋章が彫刻されたそれは、実戦用というより観賞用の一品。フェリス自身の未熟な技量と相まって、効果的に振るえるようには見えない。

「それってオモチャ? 大事な贈り物? どっちだったにせよ、細い手でそんなもの振り回してたら危ねーじゃねーですか、お嬢ちゃん。……いや、うん?」

 舌を出して笑うカペラが、そこで言葉を中断して眉をひそめた。

「うっわ、気色悪い。え? てめーはずいぶんと不自然な体してやがりますね。男のくせにその体……取るものも取らずにどーしたらそんな風になるってんですか。ただ女の格好するだけの変態とは根本から違って、アタクシどん引きですが?」

「――っ」

 フェリスの性別を見抜いた上で、カペラはそれが不自然だと嫌悪する。怪物はフェリスを上から下まで眺めて、わざとらしくえずいてみせる。

「その格好、男の油断でも誘うためですか? だってんなら、人間ってもんのくだらなさを理解してやがるじゃねーですか。男は馬鹿だし、女は屑だし、人間は揃いも揃ってゲスばっかり……アタクシ好みの結論ですが」

「うるさい! 余計なことを……質問に答えて! クルシュ様に何をした!!」

「あーもう、うっさいなぁ」

 どこまでも会話の成立しないカペラに、フェリスは恥辱を堪えて再び怒鳴る。それを聞いたカペラは肩をすくめ、瞬きの直後に童女の顔が溶けた。

「――!?」

 息を呑むフェリスの前で、童女の体が溶けながら形を変える。
 小さな背丈が悪夢のように伸び、鮮やかな金髪が変色する。あらゆる人の庇護欲を誘う甘い顔立ちが凛々しいものになり、下着同然の着衣が藍色のドレスへ変わった。

 話に聞いてこそいたが、その変異・変貌をフェリスが目の当たりにするのは初めてのことだ。触れたものの体を自他問わず、好き放題に作り変える悪夢の創造者。
 そしてその悪夢の顕現に、フェリスは呆然自失となる。

「あ、う……」

「――何を驚いているんですか?」

 そう言って、長い緑の髪を撫でつけるのはフェリスのもっとも愛する顔だ。
 正面に立ち塞がるカペラの姿が、フェリスの敬愛する主人そのものに変わる。そのことにフェリスの顔は蒼白になり、握る短剣が小刻みに震えていた。

「ほら、さっきまでの威勢の良さが消えてなくなった。この顔、この体、この声で、目の前に立たれた途端にそうだ」

 見たこともないクルシュの顔で笑って、カペラがゆっくりと前に出る。
 彼女はフェリスのすぐ近く、手を伸ばせば届くような距離まで歩み寄ると、何を考えたのか震える短剣の切っ先に、自分の胸の中心を合わせた。
 クルシュの大きな胸のど真ん中に、剣先がそっと寄せられる。
 突き出せば刺さる、そんな位置に。

「憎い相手が目の前にいますよ。私の仇を取ってください。苦しい、苦しい。息をするのも苦しい。目を開けていられない。心臓が血じゃなく、全身に毒を流しているみたい。だから早く、仇を取って。――そう、言っていますよ」

「ふ、ふぅ……ふうっ……!」

「ぐっと剣を押し込んで、思い切り傷口を抉るようにひねって抜けばいいんです。それで心臓が破壊されて、動脈が断ち切れて血が止まらなくなる。殺せます」

 フェリスの呼吸が早くなり、視線の位置が定まらなくなる。
 値千金の、主君の仇敵の命が目の前に差し出されていた。言われた通り、今ならば確実に攻撃が通る。心臓が潰せる。殺すことができる。
 ただ、敬愛する人と同じ姿形をしているだけで。

「刺せ、刺せ、刺せ、刺せ、刺せ、刺せ」

「――――」

「刺せ――!」

「う、あああ!!」

 呪詛のように命じられて、フェリスの短剣がその胸に突き刺さる。
 刃は人体を容易く刺し貫き、骨の隙間から内側にある心臓を破壊。鋭利な刃がネジられ、筋肉が断たれる残酷な音を立てて、血の噴出とともに短剣が抜けた。

「は、はぁっ」

 跳ねた血を浴びないように下がり、フェリスが荒い息を吐く。その手から短剣が音を立てて落ちて、床に滴る血に浸っていくのがわかった。

「ぐ、ごほっ」

 そして、胸を刺されたカペラは膝をつき、口から大量の血をこぼす。
 外見はクルシュのまま、痛みと苦しみに顔を血で汚し、潤んだ琥珀色の瞳が信じられないものを見たような顔でフェリスを見上げた。

「痛い、痛いです……どうして、どうしてこんなこと……」

「あんたが、刺せって言ったんでしょ……! 私に、クルシュ様を刺せって!」

「苦しい、苦しいよ。……ひどい、許せない。あんなに好きだって、愛してるって言ったくせに……愛し合ったのに……っ」

「――! 馬鹿なこと言わないで! 私とクルシュ様はそんな関係じゃない!」

「あ、そうなんですか? そりゃ、演出上の見解の相違がありやがりましたねー」

 けろっとした顔で、カペラが袖で血を拭いながら立ち上がる。
 ついでに彼女が自分の胸の傷を撫でつけると、確かにあった傷は一瞬で消える。それまでの苦悶に歪んでいた表情もどこへやら、ため息をついた。

「やっぱり、やるなら最初っからやらないと意味がねーんですよね、こういうの。愛し合う主従に、見た目だけ似せたアタクシが殺し合いをさせる。そういうところに愛のカタルシスがありやがるんですが……失敗、失敗」

「こんな茶番……あんたは何がしたいの。させたいの!」

「別に? 意味なんてありゃーしませんし、させたいことなんてねーですよ。夫に妻の姿を殺させるなんて暇潰しみてーなもんですし。騎士に女装させて傍に置いてるなんて、そういう趣味でそういう関係なのかなって思っただけですし」

「私とクルシュ様の約束は、そんな上っ面のものじゃない!」

「性癖とか性愛が上っ面なんて、それこそ浮ついた意見だとアタクシは思ったりしやがりますけどねー」

 声を荒らげるフェリスに、首を傾けたカペラがそう言った。それからカペラが右手を持ち上げると、その形がまたしても大きく変容する。
 掌が巨大な花の花弁のようになり、伸びる触手がフェリスの体を薙ぎ払い、吹き飛ぶ彼を絡め取ると、締め付けながら壁に叩きつけた。

「か、ふ……っ」

「見たまま触れたまんま、弱っちくて細っこい体してるじゃねーですか。そんなに女になりてーってんなら、アタクシが女にしてやりましょーか? アタクシの手にかかればちょちょいのちょいで、すーぐにモノとって穴つけてやりますよ?」

「わ、たしの体なんてどうでも……それより、クルシュ様を……!」

「馬鹿馬鹿しい。自分より他人が大事だなんて、綺麗事言ってくれやがるんじゃねーですよ。それに血に負けた体をどーすれば戻せるか? はっ、そんな方法があるってんならアタクシの方が知りてーくらいですよ」

 触手がうねり、フェリスの細い手足が鬱血する。苦しげに目を剥き、骨の軋む音が部屋の中にミシミシと響く。
 人食い花と化した右手に代わり、掲げられた左手がカマキリの鎌を形作る。クルシュの姿のまま、右腕を花に、左腕を虫の腕にした醜悪な姿。
 それでも顔立ちだけは変わらず、美しいままなのがおぞましい。

「ぐずぐずの肉の塊に変えてやるのも楽しそうなんですが、アタクシも暇じゃねーんですよ。他の誰かが上がってくる前に、お前もご主人もまとめてお片付けしといてやろーじゃあーりませんか」

「――う、く」

「それにしても、底抜けに間抜けな連中ですよ。アタクシがくるなんて想定もしてねーどころか、襲撃されても対応が遅い遅い。いったいいつになったら……」

 そこまで口にして、愉悦にゆるんでいたカペラの表情が曇る。彼女は自分自身の発言に疑問を抱いたように、喘ぐフェリスへ顔を寄せた。

「いくらなんでも遅すぎやしませんか? アタクシが上から入ってきたにしても、上がってくるのに時間がかかりすぎてる」

「……ぁ」

「何を企んでやがるのか、とっとと吐いた方が身のためですよ。さもねーと、大事な大事なご主人様がもっと醜い姿に大変身……」

 カペラの左腕の鎌がベッドに横たわるクルシュへ向けられ、残酷な選択がフェリスに迫られる。その問いかけに、フェリスは震える唇から声を絞り出し、

「――ず」

「あーん? どんな命乞いを聞かせてくれやがんで……」

「こ、の……役立たず」

「は?」

 黄色の瞳が憎悪を宿してカペラを睨み、吐き捨てるようにそう言った。
 直後、フェリスの体を縛っていた触手が煙を噴き、花弁が色を失って腐り落ちる。その自らの右腕の腐食を見て、カペラもギョッとした顔をした。

「あーらら? これはアタクシの手に何を……」

「ま、性格悪いんはそっちの専売特許やないっちゅうことかなぁ」

 触手が腐り落ち、フェリスの体が解放される。
 そのことに首をひねるカペラを、さらに別の声が遮った。可憐な声音に独特のイントネーション。カペラはそれが聞こえた寝台の方を眺めやり――直後、光が走る。

 室内の温度が、一瞬だけ上昇したかと錯覚するほどの白い熱線。その高熱の光はカペラの顔面を焼き、その左半分を消し飛ばした。
 肉の焼ける焦げ臭い臭気と、炭化した傷口の断面をさらして、カペラは大きくその場で後ずさる。蛇のように伸びた舌がその傷の表面を舐り、笑った。

「仲間の顔だってーのに容赦ねーですね。……ま、大して効果がねー奴がいるのはままあることなんですが、ここまでやられたのは驚きじゃねーですか」

「仲間やなんて勘違いやし。ウチらは商売敵……やなくて、競争相手や。そんな相手の顔見て攻め手が鈍るほど、ウチも気楽には生きてへんよ」

「条件付きの協力相手でいずれは敵。それなら、あえて顔を狙ったってーのは憂さ晴らしだってんですか? だとしたら性格歪みすぎだと思いやがりますが」

「言うたやろ、そないな公私混同せぇへんて。頭を狙ったんは単純に、そこ潰したら死ぬんちゃうかなぁって期待しただけ」

 そう言って、ベッドから降りた人物は期待外れと吐息をこぼす。
 クルシュに代わり、ベッドに横たわっていたアナスタシアだ。
 彼女は緑の染料で染めた波打つ髪を撫でつけ、顔を焼かれても健在なカペラにはんなりと微笑み返した。

「期待したのに、死なないんやねぇ」

「笑顔でおっかねー女じゃねーですか。躊躇なしに女の顔焼くとか、合理的を通り越して利己的で、実にアタクシ好みの腐れメス肉!」

「あんたみたいなのに好かれるんはウチも勘弁やなぁ。ほら、ウチの好みは毛深くて触り心地がええ愛され系やって決まってるし」

 堂々と、アナスタシアは怪物カペラとの会話に応じている。彼女はベッドの傍らで咳き込むフェリスへ歩み寄ると、その腕を引いて立ち上がらせた。
 まだ涙目のフェリスに、アナスタシアは「もう十分やな?」と前置きし、

「聞き出せることはない。少なくとも、現状でクルシュさんのことは棚上げや」

「……わかってる。こんな危ない賭け、付き合ってもらったんだし」

「今回のこと、ウチの責任も大きいからお互いさまやね」

 王国最高峰の治癒術師であるフェリスの力でも、今のクルシュを癒せない。
 彼女を救うためには、何が原因でどうするべきなのか当事者から聞き出す以外にない。そのフェリスの訴えを、アナスタシアは断らなかった。
 都市プリステラへ候補者を招待したのはアナスタシアだ。そして現状がある。そのことの責任が、アナスタシアにフェリスの求めを断らせなかった。

「これだけやって、収穫なし言うんはホントに期待外れなんやけど」

「そりゃご期待に添えず、申し訳ねー気持ちでいっぱいなんてことはねーですけど、アタクシがくる保証なんてどこにもなかったはずですが?」

「ナツキくんの放送があったやろ? あれ聞いて、動くと思うたんよ」

 主戦力である攻略組を送り出して、大本営が空になれば必ず敵は動く。正々堂々と魔女教が彼らを迎え撃つ理由はない。まさしくカペラの発言通りだ。

「ナツキくんはそのあたり、ちょっと詰めが甘いわ」

 あえて指摘しなかった可能性だが、襲撃を仕掛けてくるのは大罪司教の性質からして『憤怒』と『色欲』のどちらかだろうというところまでは絞れた。
 故にアナスタシアは罠を張り、都市庁舎を襲わせるに任せた。本物のクルシュは当然、他の負傷者たちもとっくに避難所へ逃がしている。
 誰もこの階へ上がってこないのは当然だ。この建物の中に人がいるのは、この最上階と――。

「……ふーん、へーぇ。頭の回る奴も、少しはいやがるってわけですか。だけど、アタクシを舐めてやがりませんか? そっちの猫耳も、こっちのお嬢ちゃんも、どっちもまともに戦えるようには見えやしねーんですが」

「お嬢ちゃんなんて照れるわぁ。これでもウチ、年長組なんよ?」

 カペラの物言いに、アナスタシアはウィンクしてみせる。
 その堂々たる振る舞いに、カペラは嫌悪と興味を同時に瞳に宿す。と、半分溶けていたクルシュの顔が歪み、カペラの姿は再び下着姿の童女へ舞い戻った。
 まさかこれがカペラの本当の姿だとは思わないが、二度目の童女姿でカペラは残酷な顔を浮かべ、アナスタシアを指差した。

「決めました。その可愛らしい顔、それだけ残して首から下を芋虫にしてやります。そうなってもまだ、アタクシに舐めた口が利けるか試してやろーじゃねーですか」

「そら怖いわぁ……せやから、いったんお別れ」

「――――」

 アナスタシアの拒絶に、凄むカペラは怪訝な顔をする。
 アナスタシアは緑色のままの髪を引っ張り、部屋の中を見渡した。

「ウチはあんたがくるんを待ってたんやって言うたやん。――そしたら、何の準備もせんと待ってるはずなんてないやろ?」

 言い切った直後、アナスタシアが爪先で部屋の床を軽く叩く。
 鋭く二度、まるで何かの合図のように――途端、カペラの足元の床にひび割れが生じて、体勢を崩した童女の体が階下へと落下する。

「おや、まぁ」

 部屋の底が抜け、転落する下の階の床にも同じく穴が開いている。
 カペラはそのままさらに階下へ、都合四階分の高さを一気に落下し、一階よりも底深い地下空間へと落とされた。

 びしゃ、と音を立ててカペラの体が爆ぜる。
 無防備に床に叩きつけられて、冷たい地面の上で童女の体がひしゃげていた。
 顔中から血を噴き、手足のへし折れた無残な姿。が、肉塊になった体はすぐにその手足を蠢かせ、童女の体は不定形の水のように形を変え、立ち上がった。

 そこに現れたのは、妖艶な佇まいの女性の姿だ。
 豊満な肉体を露出の多い衣装で惜しげもなく晒し、珍しい黒髪を長い三つ編みにしている。どことなく物騒な雰囲気があり、心が落ち着かなくなる美貌だ。
 フェリスもアナスタシアも、それが誰を元にした姿なのかは知らない。そもそも四階に残る二人には、彼女が変化したその姿が見えていない。
 だから、その姿を取ったことに驚くものはいなかった。

「ああ、ああ、まったくまったく……色々と楽しませてくれんじゃねーですか。きゃははははっ!」

 瀕死の姿も、臨死の痛みも感じない素振りで、カペラがその喉を弾けさせる。変異後の姿にはあまりに見合わぬ軽薄な嬌声、それが庁舎の地下空間に響き渡った。

 薄暗く、冷たい湿った空気の漂う空間だ。純粋な地下室という風情ではなく、都市中に張り巡らされた水路――その管理用の施設の一部だろう。
 どこかから流れる水の音と、頭上の穴とは異なる場所から風が流れてきている。

「こんな熱烈な歓迎を受けるなんて、アタクシも自由自在に大きさの変えられちゃう胸が弾んじゃうじゃねーですか。早く戻って抱きしめて、アタクシの腕の中でアタクシ以外は愛せないように躾け直して……」

「戻れねぇよ」

「――――」

 頬を赤らめ、興奮に身を震わせていたカペラを、誰かが制した。
 低い、くぐもったけだるげな男の声だ。

 その声にカペラが顔を上げると、地下の暗がりから人影が進み出てくる。
 それを見たカペラは表情を一変。それまで恍惚としていた表情が、憎々しげなものへと歪められ、相手を睨みつける。

「アタクシの美意識は、自分の醜さを隠そうって奴に容赦しねーんですが?」

「そうかい。安心しろや。オレの美意識も、てめぇに容赦する気はねぇ」

 けだるげな声はカペラにそう応じて、気が重くなるようなため息をついた。
 そして、

「上で聞かされたろ? てめぇの動向はこっちの性格悪い面子に見抜かれてやがったんだよ。そんで……性格の悪さで、うちの姫さんより上がいるわけねぇだろ?」

 言いながら、同時に聞こえるのは重々しい鞘走りの音。
 身幅の厚い剣が鞘から抜かれて、鈍い輝きが頭上の穴から差し込む光を映す。

 そこに立つのは隻腕の男だ。黒い兜をかぶる影だ。珍妙な格好の奇人だ。
 奇人はカペラに向かって、片腕で抜いた青龍刀を向けた。

「お出迎え早々だが、今日のオレは機嫌が悪ぃんだ。――オレが死ぬ前に、とっとと帰れや。軟体生物」

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