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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第五章 『歴史を刻む星々』

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第五章30 『月夜に虎と猫』

「ごめんなさいね。お客様をお呼びすることになるだなんて思っていなかったから、あんまり家の中が片付いていなくて」

「んー、気にしなーい! ダイジョーブ! きれー! きれー! ミミの部屋なんかこー、もっとすごーな感じー!」

「あらあらまぁ、ダメよ。ちゃんとお片付けしなくっちゃ」

 ソファの上で足をぱたつかせるミミの頭を、気安い調子で女性が撫でる。ミミは気持ちよさげに喉を鳴らして、すっかり女性に気を許している様子だ。
 それを横目にしながら、ガーフィールは口を噤んだまま女性を眺めていた。

 長く豊かな、腰に届くまでの金色の髪。色白の肌に、華奢だが女性らしいふくよかさは保っている体つき。柔らかな面差しと、穏やかに澄んだ翠色の瞳。
 若々しい見た目は二十代の半ばでもまだまだ通りそうだが、ガーフィールが知る通りであれば三十代半ばに差し掛かっているはずだ。
 とてもそうは見えないことも、ガーフィールの心を惑わす原因であった。

「そちらの、ゴージャス・タイガーさんはお茶はお嫌いでしたか? ごめんなさい。私ったら、好みも聞かないで出してしまって……」

 沈黙を続けるガーフィールに、女性――リアラ・トンプソンと名乗った女性は困ったように眉を寄せる。
 その言葉にガーフィールは、目の前に出されていた紅茶のカップに手も付けていなかったことを思い出し、慌ててカップを手に取った。

「いや、違ェ。ちっとばかッし……その、家のでかさに驚いてッてよ」

「まあ、そうでしたか。確かにうちはとても大きくて……これだと、毎日のお掃除が大変なんですよ。私、とてもそそっかしいもので」

 とっさについたガーフィールの適当な話を、リアラは疑いもせずに受け入れる。
 口元に手を当ててコロコロと上品に笑う彼女は、その大きいと形容した邸宅で暮らすのに見合った、仕立てのいい女性服に袖を通している。

 その笑顔も、猫撫で声も、仕草も、何もかもがガーフィールの郷愁を誘う。
 それなのにリアラは、ガーフィールの視線に対して何も言ってこない。そのことがガーフィールの心を、不自然なほどに痛々しく締め上げていた。

 リアラ・トンプソンと名乗った女性は、ガーフィールの脳裏に焼き付いている実母――リーシア・ティンゼルに瓜二つであるとガーフィールは考えていた。

 無論、ガーフィールが母と別れたのは生まれた直後のことだ。まだ物心もついていなかった頃の別れで、ガーフィールに母との思い出は何もないに等しい。
 それでもガーフィールが母の面影を如実に思い出せるのは、憎たらしくも『聖域』に残り続けていた墓所の『試練』で、母との別れの過去を目にしたからだ。

 母の顔も、声も、愛情も、ガーフィールはあの『試練』で全てを思い出した。
 そして同時に『試練』はガーフィールに、別れた直後に母が悲運の死を遂げたことも伝えてきていたはずだ。
 だからガーフィールにとって、母との再会は叶うはずのない夢でしかなかった。

 それならば、今、こうして目の前にいる女性は何者だというのか。

「ミミさん。お耳のところの毛がふわふわそうね。触ってもいいかしら?」

「どぞー!」

 頭を差し出すミミに、リアラは嬉しそうに手を伸ばして触り心地を堪能する。
 まるで童女のような微笑みと、他人に警戒を抱くことを知らない素振り。見るからに怪しいチンピラ風の男と獣人の少女、それを容易く家に招き入れてしまうところからもそれは明らかだ。

 そんな態度の全てが、ガーフィールに母を感じさせる要因になっている。
 母親であるリーシアは不幸な女だった。実家が借金によって取り潰しになり、幼い彼女は奴隷商へ売られてしまう。その奴隷商も帰りの道中で亜人の盗賊団に襲われ、リーシアはそこで獣人のハーフである男たちの慰み者にされた。
 姉のフレデリカはそこで身ごもり、おまけに母の腹が膨れると盗賊団はあっさりと母を放り棄てた。その後、母は最初に捕まった盗賊団とはまた別の盗賊団に捕まり、そこで長い時間を過ごすことになる。
 姉のフレデリカも、物心がついたときには盗賊団にいたはずだ。その頃のことを姉は語りたがらないが、そこでリーシアがガーフィールを身ごもった途端、盗賊団を離れたことを考えればよい環境ではなかったのだろう。

 不幸に不幸を煮詰めたような時間を経て、リーシアは身ごもった体で娘を連れて放浪することになる。幸運だったのは、その彼女がすぐに物好き貴族であるロズワールに救われたことだ。
 ロズワールは母に子どもたちを『聖域』で育てることを条件に、その身柄を保障して衣食住を整えた。結果、『聖域』でガーフィールはリューズに取り上げられて生まれることになったわけだ。

 言葉だけで語れば、ずいぶんとひどい境遇としか言いようのない母の生涯。
 しかし、母の人柄――そうした箇条書きの物語では知れない、本当の母を知る人々の母の評価はそんな不幸な評価とは全く異なるものだった。

「リーシアは、そうじゃな。どういうわけか、異常に前向きな娘じゃった。死んでもおかしくない辛い日々だったはずじゃ。それなのにあの子はいつも、明日はいいことがあるかもしれないと言っておった。今日は辛くても、明日はいいことがあるかもしれない。自分が子ども二人を授かったように、幸せなことがあるかもと」

「お母様は……人から見れば馬鹿な女なんて切り捨てられる方だったかもしれません。私も本音を言えば、もっと要領よく生きられなかったのかと思うことがありますわ。……でも、お母様は素敵な人だった。それだけは絶対で、間違いないことで。私はお母様が大好きでしたし、お母様の娘でよかったと本当に思ってますもの」

「君の母親……リーシアさんのことかい? そーぅだね。私も直接、ちゃーぁんと言葉を交わしたことはさほど多くないが……不思議な人だったよ。不思議というより、不可解というべきかもしれない。幸せの感じ方が、人より敏感なんだよ。ものすごーぉく小さなことでも、幸せに思える。悪いことの中にも幸せを見つける。そうだねーぇ。嫌いじゃーぁ、なかったかもしれないよ」

 リューズも、フレデリカも、ロズワールですら、母を悪く言うことはなかった。
 そしてそれは『聖域』で母を知る、誰もが同じように語った言葉だった。

 能天気で、幸せな頭の持ち主だったのだろうとは思う。
 そうでなければどうして、辛い目に遭わされただろうガーフィールの父親を探そうだなんて、そんな馬鹿な真似をするために子どもたちを置いて出ていくのか。
 おまけにそのすぐ後に死んでしまうなんて、幸せはどこにあったのか。

 ――今も、母の幸せがどこにあったのか、その答えは見つかっていないのに。

「見つからねェって、諦めきってたってのによォ……」

 爪が掌に食い込み、あわや血が出そうになるほどに拳を握り固める。
 諦めていたはずだった。わからないことなのだと。それは長い時間をかけて、ガーフィールが己の中で消化していかなくてはいけない問題なのだと思っていた。
 それなのにどうして、今さら、今頃になって、目の前にこうして現れたのだ。

 それも、自分のことをまるで知らないとでも言うような態度と顔で。

「――――」

 気付かれないように、その表情と仕草を盗み見る。
 不自然な素振りは何一つない。完全な自然体で、見惚れるほど鮮やかにリアラはガーフィールの存在を見知らぬものであると扱っている。

 それが、彼女の答えなのだろうか。
 自分には新しい生活があると。ガーフィールのことなど知らないと。いつか交わしていた約束など彼方へ追いやり、こうして幸せに過ごしているのだと。
 お前のことなど知りはしないと、それが母の答えだというのか――。

「おかーさん」
「お母さん、お腹が空いたわ」

 黙り込んだままのガーフィールと、じゃれ合っているリアラとミミ。そんな三者が同席していたリビングに、着替えた姉弟が降りてくる。
 姉はガーフィールを厳しく睨みつけ、それからそそくさと母にすり寄ると、

「ねえ、お母さん。もうお客様には帰ってもらって、ご飯にしようよ」

「お姉ちゃんったらなんてこと言うの。ゴージャスさんとミミさんには、フレドがお世話になったって言うのよ? 船で遊んでて、危うく溺れそうになったって」

「ふんっ、どうだか。その船だって、本当はそのゴージャスって人が揺らしたんじゃないの? そうやってうちに取り入って、お金をいっぱい貰おうって」

「こら、お姉ちゃん。ひどいわ、そんなの。でもそうよね。フレドを助けてもらったんだし、御礼はしなきゃ……お金の方がいいのかしら」

「お母さんっ」

 自分の発言が理由で、我が家の家計に大打撃が入る予感に姉が慌てる。一方、リアラは娘が騒ぎ立てる理由がわからないようで困った顔だ。
 そんな親子の微笑ましいやり取りが、今のガーフィールには茨の上を裸足で歩くような苦難に思えてならない。一息に紅茶を飲み干し、音を立ててカップを置くと、

「歓迎されてねェみてェだからよ。このままお暇させッてもらうぜ」

「えー、なんでー?」

「なんでもクソもねェよ」

 出ようとするガーフィールにミミが反発するが、聞く耳を持たずにガーフィールは彼女を連れて部屋を出ようとする。歩き出すガーフィールにリアラが悲しげな顔をして、娘の方はアッカンベーでお見送りだ。
 その気持ちを尊重して――と、思ったときだ。

「いかないで、ゴージャス・タイガー」

 ガーフィールの裾を掴んで、弟の方がその行く手を阻んでいた。
 一瞬、ガーフィールはその小さな指先を振り払うのを躊躇った。どうして躊躇ってしまったのか、ガーフィールには理由がわからない。しかし、

「もう、フレドったらっ」

 不審者を引き止めた弟に、姉はぷりぷりと怒った顔で腰に手を当てる。が、そのまま姉が猛然と弟に飛びかかる前に、リアラが手を叩いて全員の気を引いた。

「ほらほら、みんな仲良くしなきゃダメよ。そうね。お客様をこのまま返すなんてとんでもない。フレドもそうしてほしそうなんだから、お姉ちゃんも無理言わないの」

「お母さん、でも……」

「でもじゃありません。ゴージャスさんとミミさんも、もう少しだけ、ね? できれば夕食を一緒にしてくれると嬉しいわ。今日は自信作なの」

「おかーさん、いつも自信作って言う……」

「ええ、当たり前じゃない。お母さん、いつだってあなたたちのために全力だもの」

 弱々しい力こぶを作ってみせるリアラに、その場の全員が毒気を抜かれた顔をする。ただそれも、一番険しい顔をするガーフィールを除いてだ。
 和やかになりかけた空気が、もっともガーフィールの今の心を傷付けた。

 リアラの言葉に、子どもたちがそれぞれ嬉しそうな顔と仕方なさそうな顔。
 受け入れられてしまいそうで、それが今のガーフィールには恐怖だった。

「誘ってもらえたとこ悪ィが、連れを何人も待たせてんだ。あんまッり遅くなっちまうと心配かけッちまう。だから、帰らせてもらうわ」

「――――」

 胸の痛みを堪えながら、ガーフィールは声に震えが出ないことを祈った。
 その返答に姉弟は顔を強張らせ、リアラは眉根を下げて目を伏せる。しかし、

「わかりました。無理に引き止めて困らせてしまっては、何の意味もないわ。『お客様にはもてなしとソワリエを』って言うものね」

「――っ」

 ひょっとしたらそのやり取りこそが、一番、この日のガーフィールの心を鋭く抉ったかもしれない。
 ラインハルトへの敗北感も、リアラを初めて見たときの衝撃も、この瞬間の衝撃に比べれば可愛いものだった。

 思わず胸に手を当てて、ガーフィールは自分の体が引き裂かれていないかを確かめなくてはならなかったほどだ。そのガーフィールの様子に、

「ガーフ、いこ」

 さっきまで、誘いを断ることに反対していたミミがガーフィールに手を引く。外へ彼を連れ出そうとする少女の気遣いに、ガーフィールは黙って従うしかなかった。
 そのままリビングの戸に手をかけ、外へ向かおうとする。と、

「ただいま。おや、お客さんかい?」

 向こう側から扉を開けて、姿を現したのは立派な髭を蓄えた紳士風の男性だ。
 仕立てのいい服装に、精力的な雰囲気の佇まい。声の調子と顔立ちから、男性がちょっとした出来る人物であることが伝わってくるようだった。
 その男性の登場に、背後で子どもたちが喜ぶのがわかる。
 おそらく男性は――、

「ええと、見かけない顔ですね。どちら様でしょうか?」

「おとーさん、ゴージャス・タイガー!」
「不審者よっ」

「ええ?」

 息子と娘の対照的な態度に、二人の父親は困った声で首を傾げる。そのまま彼の視線が向いたのは、リビングで静かに佇むリアラだ。
 男性の親愛の眼差しに、リアラはそっと頬を緩める。

 限界だった。

「大したことじゃァねェさ。気にしねェでくれ。もう帰るとこだ」

 言い残して、ガーフィールは握ったままのミミを連れて部屋を出る。慌てて道を譲る男性を押しのけて、ガーフィールは逃げるように玄関へ向かった。

「ゴージャス・タイガー!」

 背後から、悲しげな少年の声がガーフィールを呼ぶ。
 しかし、もうガーフィールはその声に答える余裕がない。

 何がゴージャスだ。何がタイガーだ。今の自分の、どこが黄金の虎だ。
 虎は強く、強大で、何にも揺るがない。

 今の自分のどこが、虎だ。
 本物の虎はこんなことで、悲しんだりなんてするものか――!

「ガーフ! 手、痛いってばー!」

「――っ」

 考え事に夢中になるあまり、ガーフィールは痛みを訴える声に気付いていなかった。
 思いっきり腕を引っ張られて、爪を立てられて初めて自分の行いに気付く。ミミの小さな手は、ガーフィールの万力のような手に強く強く握られて、すっかり青くなってしまっているほどだった。

「わ、悪ィ……俺様ァ……」

「ガーフ、家の中で変だった。手も、すごー痛い」

 元気のない声でミミが呟き、ガーフィールは額に手を当てる。
 気まずい二人の沈黙を、水門都市の湿った風が撫でていく。どうやらすっかり周囲は日が落ちてしまっており、都市は転々と並ぶ魔法灯の光に包まれていた。
 水路の水面は日差しに代わり、今度は魔法灯の光を照り返している。そこには静かな幽玄の美しさがあったが、それを楽しむ気持ちは今はなかった。

「もし、お二人とも!」

 そうして立ち尽くす二人に、わずかに息を切らせた声が届いた。
 顔を上げると、魔法灯の明かりから飛び出してくるのは先ほどの男性だ。上着を脱いだ男性は二人の下へ辿り着くと、膝に手を当てて荒い息をついた。

「はっ、はぁ、追いついた。いや、いけませんね……以前はもっと体力があったはずなんですが、すっかり机仕事になってからは運動不足で……」

「……なんか、俺様たちに用があるッてんですかよォ」

 自分を省みる男性の言葉には興味がない。
 リアラや子どもたちほどではないが、この男性の姿も今のガーフィールにとっては毒に違いないのだ。ささやかに険のこもったガーフィールの声に、男性は気付かなかったわけではないだろう。困った顔で頭に手を当てて、

「いえ、妻から聞きました。あなた方は息子の恩人だそうではありませんか。それを何の御礼もせず帰してしまうなんて、とんでもないことです」

「……大したこたァ本当にしてねェよ。大袈裟にされちゃ困るぐれェだ」

「我が子のことは、どんなことでも大事ですよ。危ないところを助けていただいたともなれば、なおさらです。本当に何か、御礼ができればよいのですが。……おっと、申し訳ありません。私はギャレク。ギャレク・トンプソンと申します。こう見えてもプリステラの都市庁舎に務めておりまして、何かあれば……」

「本当に、何にも……」

 かしこまった男性――ギャレクと離れようとして、ガーフィールは言葉に詰まった。もしも彼がリアラの夫で、本当の彼女を知る人物であるのなら、

「一個だけ……聞かせてもらっても構わねェか?」

「ええ、なんでも。私で答えられるようなことならよいのですが」

 人の好い笑みを浮かべて、ギャレクはガーフィールにそう応じる。
 リアラもそうだし、息子のフレドもそうだ。ギャレクも含めて、あの一家は人が良すぎるだろう。娘ぐらいだ。ちゃんとした警戒心を持っているのは。
 そんなことを考えながら、ガーフィールは言葉を慎重に選んで、

「あんたの奥さんだが……リアラってのは、本当ッの名前かよ?」

「――――」

 空気が変わった。
 ガーフィールの問いかけに、それまでのギャレクの笑みが失われる。
 彼はガーフィールの質問を舌の上で転がし、それから静かな声で、

「それは、どういった意味でしょうか?」

「そのッまんまの意味だよ。『レイドはいつでも真っ向勝負』ってなァ。遠回しッなのァ性に合わねェ。聞かせてくれや。あんたの奥さんは本当は、リアラじゃなくてリーシアって名前なんじゃァねェのか?」

「――ッ」

 核心に切り込むガーフィールに、ギャレクの表情が明らかに狼狽を帯びた。
 ギャレクは口をパクパクとさせ、それから音を立てて唾を呑み込むと、

「あなたは……あなたは、妻の何を……知っていらっしゃるんですか?」

「そいつァ、俺様も知りてェことなんだよ」

「――――」

 震えるギャレクの声に、ガーフィールもまた本音で答える。
 その言葉を聞いて、ギャレクはしばし考え込むように黙った。彼の言葉を待つガーフィール。その手を、さっきとは反対の手でミミが握る。
 視線をそちらへ向けると、彼女はいつものように能天気に笑ってみせた。

「……どうやら、あなたには本当のことをお話した方がよろしいようですね」

 ミミの笑みを横目にしていたガーフィールに、嘆息と共にギャレクが言った。
 そこに込められた疲労感と、わずかに入り混じった脱力感。ガーフィールは訝しげに眉を寄せると、彼の次なる言葉を待った。
 そして、

「私の妻であるリアラは……出会った十五年前から、その以前の記憶がないのです」


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ギャレクがリアラと出会ったのは、まだ彼が都市プリステラの有力者となる以前の話で、プリステラに根を張る一介の商人にすぎなかった頃のことだという。

 その日、遠方から商談を終えて戻る道中、竜車を走らせていたギャレクは崖崩れによって塞がれた道に遭遇した。
 商談自体も破談に終わり、借金の返済にも苦しんでいた道中の不幸に、ギャレクは苛立たしさを堪え切れずにいたとのことだ。

 ――その崖崩れの惨状の中で、彼は一人の女性が生き埋めになっているのを発見した。

 奇跡、そう言う他になかったという。
 遠回りするのを拒み、なんとか通れる道がないかとギャレクが悪足掻きをしたこと。
 降り続いていた雨がそのときだけやみ、視界が確保されていたこと。
 崖崩れが起きた直後のギャレクの到着で、生き埋めになった時間が短かったこと。

 あらゆる奇跡が偶然的に重なって、女性は息があるままギャレクに救出された。
 泥だらけの女性、荷物も何もない。意識のない女性を竜車に乗せて、ギャレクはすぐに近くの町へ駆け込み、そこで彼女を治療院へ入れて快復を待った。

「彼女は非常に危険な状態でした。高熱を出していたし、崖崩れに巻き込まれたことで体のあちこちに傷を負い、何ヶ所も骨折していた。治療中、一度は心臓が止まったこともあったほどです」

 予断を許さない状況が続く中、治療院の人間もギャレクも必死で彼女の回復を願っていた。今にして思えば、何故あれほど皆が彼女を救おうとしていたのか、ギャレク自身にもわかっていない。否、ギャレクには理由があったが、他の人々が彼女を救おうと本当に奮闘してくれたことの理由がわからない。
 ただ、その人々の尽力に、心の底から今は感謝している。

「苦労の甲斐あって、彼女は一命を取り留めました。重傷には変わりありませんでしたが、峠を越えたことで本当にホッとしたのを覚えています。彼女が目を覚ましたのはそれから一週間後で……私もずっと、町に滞在して目覚めを待っていました」

 商談は破談し、ギャレクの商会の未来はお先真っ暗。
 そんな状態でどうして、金銭に等しい時間を浪費したのか。はっきりとした答えはわからない。ただ、根拠のないものがギャレクの足をそこに引き止めていた。

 そして、一週間の時間を経て女性は目覚めた。
 彼女の目覚めに人々が喜ぶ中、女性はその口を震わせて、弱々しい声で、

「私は、誰ですか? そう言ったのを覚えています」

 女性は自分の名前を覚えていなかった。否、名前だけではない。全てだ。
 自分がどこの誰で、どこからきて何をしようとしていたのか。何があってあの崖崩れの現場に遭遇したのか、それも全く覚えていなかった。
 家族のことすら思い出せない彼女の扱いに、誰もが途方に暮れるしかなかった。

 わかることは、彼女が事故にあった際に着用していた衣服。そこに縫い付けられていた文字から、おそらく彼女の頭文字か家名が『リ』から始まるということだけ。

「咲き乱れる花の名を取って、彼女は『リアラ』と呼ばれることになりました。そして傷が癒えた後の彼女のことを、私が預かることになったのです」

 傷が少しずつ癒えて、治療院を出るのも遠くない日となった頃。
 行く先のないリアラだったが、それでも彼女は明るい女性だった。事故の悲惨さが嘘のように快活で、接する人々を笑顔にしてしまう力が彼女にはあった。

 不安がなかったはずがない。
 自分の記憶がなくなるということは、自分の存在そのものが消えるのと同じだ。
 そんな状態で彼女が笑顔を保ち続けていた理由は、そうする必要があったからだ。

 周りの人々への思いやりもあったかもしれない。
 しかし最大の理由は、自分が不幸であるなどと、見つめてしまわないためだ。

「一緒にきてくれないかと、そう頼んだときの緊張は今でも覚えています。彼女の返事を聞くまでの時間が、人生で一番、息苦しい時間だったことでしょう。その後にちゃんと求婚したときよりも、私はあの時間が緊張しました」

 かくて、ギャレクの申し出を受け、リアラは彼と一緒にプリステラへ向かった。
 見捨てられなかった理由も、目覚めるのを待った理由も、全ては単純だ。

 ギャレクは最初、崖崩れにあった彼女を竜車へ担ぎ込み、その顔の泥を拭ってあげた直後から、恋に落ちていただけのことだから。

「リアラを迎えて以来、不運の続いていた私の商会は急速に持ち直しました。周りは私の才覚のおかげだと言ってくれますが、とんでもない。全てはリアラのおかげですよ。彼女が私に幸運を運び込んでくれたのです。だから今、私はこうして一端の商人としても、都市の運営に携わるものとしても、父親としてもやっていける」

「――――」

「妻を愛しています。生まれた子どもたちも可愛い。以前は彼女の過去を気にしていたこともあった。ですが、今はそうは思わない。彼女の過去に何があったとしても、彼女は私の妻で、大切な女性です」

 出会いから今までのことを語り終えて、ギャレクは照れ臭げにそう締め括った。
 黙って最後まで、その話を聞いていたガーフィールは空を仰いでいる。

 暗闇に、点在する星々。
 丸い月と星の煌めきは今、自分をどう思って見下ろしているのだろうか。

「こんなことを聞くのはしのびない。ですが、お尋ねしたい」

「…………」

「あなたは……私の妻、リアラとどういったご関係なのでしょうか?」

 それは――それは、なんと残酷な問いかけなのだろうか。

 視線を空から、目の前に立つギャレクへと下ろす。
 ギャレクは穏やかな瞳に、しかし確かな決意を宿してガーフィールを見ていた。そこに込められた感情と、言葉の意味がわからないほど鈍感ではない。

 そして自分が何と答えるのが正しいのか、それもわかっている。

「――――」

 口を開け、閉じる。
 息を吸って、吐いて、吸って、吐いてを繰り返す。

 動悸が早い。目が眩みそうになる。頭がガンガンと痛み、吐気が込み上げる。
 ない交ぜになる感情の渦が胸を締め付け、今にも潰れてしまいそうだ。

 ――そんなガーフィールの手を、ミミの手が優しく握っていた。

「俺様、は……」

「――――」

「あんたの、奥さんと……何の関係も、ねェさ」

 言い切った。
 言い切って、しまった。

 その言葉に、ガーフィールの胸の中を渦巻いていた感情が急速に掻き消える。
 残るのは喪失感と、息苦しい虚脱感。目の前のギャレクが目を伏せて、わなわなと唇を震わせながら、

「申し訳、ありません……」

 そう言って、苦しげな顔で頭を下げる。
 だが、そんなギャレクの対応を、今のガーフィールは見ていたくない。

 もういい。やめてほしい。これ以上、傷付けないでほしい。
 何がいけない。誰が悪い。自分が悪いのか、ギャレクが悪いのか。誰を責めればいいのか。誰を叩き潰し、食いちぎり、ブッ飛ばせばいいのだ。
 どうすればこの心の痛みは、どこかへ消えてなくなってくれるのだ。

「あなた……! ああ、よかった。ゴージャスさんとミミさんも」

「――!?」

 叫び声を上げてしまいそうになった。
 悲痛に裏返った、絶叫を上げてしまいそうになった。
 それほど今のガーフィールにとって、その姿は刃よりも恐ろしいものだった。

「リアラ、どうして……」

「あなたが急いで追いかけたから、きっと引き止めてくれていると思って。私も何も持たせずに帰すなんてとんでもないと思っていたから」

 妻の登場に驚くギャレクに、リアラはウィンクするとその隣を抜ける。
 そして彼女は、愕然と硬直するガーフィールへと手を差し出すと、

「これ、私が作ったお菓子のソワリエです。大した御礼にもならないけれど、味に自信はあるから持っていって。お願い」

「……ぁ」

 悪気のない、笑み。
 ガーフィールは強張ったまま、何も言えずに息を詰まらせる。

 その二人のやり取りに、痛ましげなものを見る顔をするギャレク。
 誰もガーフィールとリアラのやり取りを、止めることなんてできはしない。この空気の意味がわかっていれば、当然。
 だから、

「おー! お菓子うれしー! やった、お嬢に自慢しよー!」

 リアラの差し出すお菓子の袋を横からかっさらい、あっけらかんと笑うミミの姿は空気を読んでいないにも程があるというべきだった。
 ギャレクが唖然とした顔をし、ガーフィールも言葉が出ないままだ。ただ、リアラだけがミミの好反応に嬉しそうに笑い、

「そう言ってくれると嬉しいわ。その、お嬢って人にもよろしく伝えてね」

「はいはーい、かしこまりー! かしこ、かしこまりー!」

 ガーフィールと繋いでいない方の手、つまり青くなっている手で敬礼してみせ、ミミはお菓子の袋を懐へ仕舞い込むと、ガーフィールの背中を乱暴に叩いた。
 思わず咳き込むほどの威力にガーフィールがのけ反り、ミミは笑う。

「じゃ、今度こそ帰るねー! ゴージャス・タイガーと、ゴージャス・ミミはこれにておさらばだぜー!」

「はい、気を付けてね。ゴージャスさんも、水路に落ちないように」

 ミミがガーフィールの手を引き、その背にリアラが小さく手を振る。
 笑顔のミミがそのリアラにぶんぶんと手を振り返して、リアラがさらに元気に腕を振る。そんな微笑ましいやり取りを、男二人だけが悲痛な顔で見ていた。

「――――」

 そのまま、ガーフィールはミミに腕を引かれるままに水路の横を歩き続ける。
 ミミもガーフィールに何も言わず、後ろにいたリアラたちも見えなくなるまでずっとずっと歩いた。それから、

「おい、ちびっ子……」

「――とーや!」

「――!?」

 ミミを呼び止めようとしたガーフィールだったが、それが唐突な彼女の行動によって中断させられる。
 ミミはガーフィールの手を握ったまま、軽やかに跳躍して真横の建物に飛び乗ったのだ。三階建ての石造りの建物の、縁に足をかけてミミは上を目指す。
 引っ張られるガーフィールも、必然的に同じ足場を蹴って追いかけるしかない。そうして二人はほんの三度の跳躍で、建物の屋上へ到達。

「んーっ! 気持ちいー!」

「じゃねェよ。今のはなんだった……」

 風を浴びて気持ちよさげなミミに、ガーフィールは今の行動の意図を確かめようと前に回り込む。だが、そのガーフィールをミミは笑みを消した顔で見つめる。
 丸い瞳に自分が映り込み、ガーフィールは何故か居心地の悪さを味わった。
 押し黙るガーフィールに、ミミはふいに表情を崩して、

「ガーフ、泣きそう?」

「は、はァ? 何を言いッやがんだよ。なわきゃァねェだろが」

「ガーフが強いのは知ってるけど、べつに強がんなくてもいーよ? リアラ、ガーフィールのお母さんなんでしょー?」

「――っ」

 ミミの思わぬ言葉に、ガーフィールは息を詰まらせた。
 話の流れを的確に掴み、ガーフィールの事情を知っていれば当然、辿り着ける結論であるのは間違いない。だが、ミミはガーフィールの家庭事情など知らないし、そもそも察しが良いようになど全く見えない少女だ。
 その彼女が、恐ろしく端的に事実を突いてきたのにガーフィールは動揺した。

「な、んで……そう思って……」

「だって、ガーフとリアラの匂い、すごー似てた。リアラの子どもの二人とも、ガーフィールの匂いちょっと似てたー。だから、そっかなーって」

 理論的なものではなく、野生児丸出しの考えで真実を射抜いたミミだった。
 言葉でなら誤魔化しようがあるのに、変えようのない部分を指摘されてはガーフィールも反論が出てこない。
 へなへなとその場に崩れ落ちて、ガーフィールはぼんやりと空を見上げた。

 星も月も、さっきと変わらず自分を見下ろしている。

「で、合ってた? リアラ、ガーフのお母さん?」

「……わっかんねェ。あの人は、俺様の母さんなのかなァ」

 ミミの言葉に、ガーフィールは顔を掌で覆った。
 わからない。本当に、それがガーフィールの今の心の本音だった。

 リアラが、リーシアであることは間違いないと思う。
 ただ、ギャレクが語ったように、リアラのそれまでの態度が示すように、リアラは自分がリーシアであったことを完全に忘却している。
 何もかも忘れて、リーシアはリアラとしての時間を重ねて、子どもを産んで、幸せそうに暮らしている。

「は、そう考えッと、あの二人って俺様の弟と妹ってことになんのかよォ」

 そこまで頭が回っていなかったが、父親違いの兄弟ならまさに自分とフレデリカの関係と同じ。つまり、あの姉弟は自分にとって可愛い下の兄弟だ。末っ子であったガーフィールにとって、待望の弟と妹。

 ――そんな関係、誰も望んでいないことを除けば。

「俺様が、名乗り出ても何にもならねェ……」

 リアラは、リーシアの時間を忘れている。
 仮にガーフィールが知っていることを全て打ち明けても、リアラとして過ごした十五年間は消えてなくならないし、リーシアとして過ごせるはずだった十五年間が失われたままであることも変わらない。
 リアラは抱える必要のない十五年分の罪悪感と、リーシアという人生の喪失感を味わうことになる。ギャレクも沈む妻の姿を目の当たりにすることになるし、何も知らない子どもたちは母の苦しみを理解することはできない。

 全て、ガーフィールの自己満足だけなのだ。
 ここでリアラがリーシアであることを認めさせても、それによって何かを得たような気分になれるのはガーフィールだけなのだ。

 フレデリカもリューズも、リーシアのこんな形での生存を知らない。ガーフィールが伝えなければ、きっと二人は今後も知らないままだろう。
 リアラ一家も、ガーフィールが話さなければ過去なんて知りようがない。あの幸せな時間は失われず、保たれ続ける。

 ガーフィールが全部を胸にしまって、諦めかけていたことを本心から手放すことができれば、それだけで全てが片付くのだ。
 それなのに――、

「どうして、俺様ァ……」

 投げ捨てる覚悟が、忘れる決断が、仕舞い込む勇気が出てこないのか。
 虎はどこへいった。示してくれ。正しい道を。
 自分だけが何もかもを背負い込んで、何もかもを抱え込んで、それでも立ち上がれる強さを。
 教えてくれ、虎よ、虎よ。本物の虎は、誰にも負けない最強なのだから。

「――――」

 頭を抱えて、込み上げるものを噛み殺して、嘆きに頭の中を掻き回されて、全てを一緒くたに投げ捨てようとして、そしてガーフィールは気付いた。

「よーしよし」

 自分の頭が小さな胸に抱き入れられて、頭を撫でられていることに。

「――――」

 座り込んだガーフィールのことを、ミミが後ろから抱きしめている。
 頭の上に顎を乗せて、小さな掌がガーフィールの頭を優しく撫でる。その柔らかな感触に、頭蓋を掻き回される痛みが薄らぐのを感じながら、

「何の、つもりだァ、こりゃァ……」

「んー、ガーフ泣きたいんじゃないかなーって思ってー。でもほら、男ってなんか泣いていい場所以外だと泣けないんでしょー、めんどくさー! どこだか忘れたけど、お嬢が言ってたー!」

 答えになっているようで、なっていない。
 心を震わせないように、声が震えないように、ガーフィールは慎重に言葉を選ぶ。
 そのガーフィールを抱いたまま、ミミはにへらーと笑い、

「んで、どこだか忘れたんだけどー、たぶん女のムネの中だった気がする? した気がしたよーな? した! 惚れた女のムネで、男は泣いてもいー!」

「……誰が、てめェみたいなちんちくりんに惚れたってんだよォ」

 ガーフィールの想い人は、ちっともこちらを振り向いてくれなくて、優しくしてほしいときに全然優しくしてくれなくて、こっちが予想もしていないときに限って急に優しくて、あとでその倍ぐらいを拳で取り立てる厄介な女だ。
 目の前にいる、この女の子とは重ならない。

 けれど、ガーフィールの答えにミミは笑顔のまま、

「んー、でもダイジョブー! ガーフが惚れてなくても、ミミが惚れてるから! ほらー、ガーフに惚れた女! ミミ! そのムネ! だから泣いてもダイジョブー!」

「――ぁ」

 馬鹿すぎる意見だった。
 なんだそれは。言葉遊びか。子どもの言い訳か。屁理屈以外のなんでもない。
 何でもないのに、ふざけるな。

 虎よ、虎よ、どこへ行った。
 今すぐに、この胸の中に戻ってこい。獰猛な唸り声を上げて、縮こまる背筋を叩いて引っ張り起こして、この感情をどうにかしてくれ。
 でないと、でないと、でないと、間に合わなくなってしまう。

「母さん……」

 やめろ、やめろ、やめてくれ。
 泣き言なんて、弱音なんて、そんな声なんて出したくない。
 自分は虎だ、虎なのだ。最強で、最高で、誰よりも固くて強い盾なのだ。
 それが、

「母さんっ……かあさんッ……があざんッ……!!」

「よしよーし」

「何でだよォ! 何で俺を忘れてんだよォ! せっかく……せっかく会えたのによォ! 呼ぶことも……許して、く、くれねェのかよォ……ッ!」

「ダイジョーブ。ガーフ、いい子いい子ー!」

「があざぁん……かあ、じゃん……お、かあさん……ッ」

 虎よ、虎よ、どこへいった。
 今の自分は何に見える。星よ、月よ、空よ、教えてくれ。

 今の自分は、何に見える。
 吠える虎でないのなら、今の自分は、何に見える――!


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