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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第五章 『歴史を刻む星々』

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第五章23 『掻き回される事態』



「それで? いい加減、何があったのか説明してもらうのよ」

 手を繋いだまま公園を出て、エミリアたちの姿が見えなくなった頃を見計らい、ベアトリスが歩く足を緩めながらそう言った。
 足を止めて話したがるベアトリスに、しかしスバルは繋いだままの腕を引き、

「スバル?」

「悪い。俺も人のいない場所を選んでゆっくりとっくり話し合いたいのは山々なんだが、時間がなくてそうもいかねぇ。――あと、十五分もないんだ」

「……わかったかしら。歩きながらでいいから話すのよ」

 スバルの横顔に宿る焦燥感を見て、ベアトリスが反論なしで方針に従う。
 物分かりのいいパートナーの態度に救われる思いで、スバルは急ぎ足で進みながらまだ整理のつかない頭の中身を慎重にベアトリスへと吐露していく。

「これから向かう広場に魔女教が現れる。そいつの悪さを止めなきゃならねぇ」

「魔女教……っ」

 息を呑むベアトリスに、スバルは言葉を選びながら話を進める。
 難しいのは、『死に戻り』における情報伝達のルールとペナルティだ。ラチンスに明かした内容と同程度ならば、ベアトリスに話しても問題はない――とは言い切れないのが、スバルを縛る影の魔の手の嫌らしいところだ。

 『死に戻り』の情報開示を邪魔するあの魔手は、スバルが話す内容だけでなく、話す相手も見極めた上でペナルティを発動するか判断している節がある。
 そうでなければどうして、秘密を明かされたエミリアの心臓が握り潰されるような事態が発生するのか。説明がつかないではないか。

 だからスバルはいちいち、ベアトリスに対して話す内容にも細心の注意を払う。
 痛めつけられるのがスバルであるならばまだマシだ。怖いけど。怖いけれど。我慢できないことはない。だが、あの魔の手がエミリアやベアトリスに伸びることがあれば、スバルは自責の念に打ちのめされることになるだろう。
 スバルに容赦しても、他の誰かにあの魔手は容赦など決してしないだろうから。

「相変わらず、どこで知った話かは話せないのかしら」

「……すまねぇ。無理だ」

「いいのよ。根拠なんてなくても信じるかしら。スバルが話してくれた、それがベティーの信じる根拠になるのよ」

 不甲斐なさを噛みしめるスバルに、ベアトリスが手を握り返して応じる。
 掌から伝わる温もりに救われながら、スバルは次なる言葉を探した。

 シリウス、『憤怒』、感覚共有、洗魂、伝えられる情報と可能性を吟味し、少しずつでもベアトリスとの危険への認識を共有する。

「まず、現れる魔女教は大罪司教の『憤怒』で、ええっと、変態だ」

「それが何はなくとも伝えなきゃならない情報だと思っているなら、スバルはダメダメだとベティーは思うかしら」

「どこまでセーフか手探りなんだよ。とりあえず、変態ペナルティはなしと。次はそいつの能力だが……感情とか感覚の、共有って感じか?」

「感情と感覚の、共有?」

 ベアトリスが首をひねる。
 イマイチ、具体的な想像がつかなかったのだろう。それも仕方ない。スバルの方もはっきりと、あの権能の効果を把握しているわけではないのだ。

「説明が難しいんだが……大罪司教本人が大喜びしてると、周りにいる奴はどんなに怒ってても、大罪司教と同じように大喜びしてるみたいな」

「……それがどうして脅威になるのか、よくわからないのよ」

「危険を危険と認識できなくなるってのが大きい。どんなに危ない真似されても、危機感が抱けない。大喜びでそれを受け入れちまう。正しい状況把握能力ができなくなるっていえば、わかりやすいか?」

 泣き喚き、死にたくないと懇願する少年を、諸手を挙げて大歓迎する群衆。
 目の前で起きるあらゆる物事に対して、喜びしか感じられないというのは恐怖だ。きっとあの状態のスバルたちは、自分の首が刃で刎ねられたとしても、刃の当たる直前までそれを大喜びで待ち望んだことだろう。

「感情の共有は、わかったかしら。感覚の共有はどういう効果なのよ?」

「そのままだ。相手が痛がれば、こっちも痛い。大罪司教の首を刎ねたら、それを見てる連中の首も吹っ飛ぶ。……お手上げすぎるだろ」

 自分で改めて口にして、その厄介さにげんなりしてしまう。
 首を刎ねればこちらの首が飛ぶ――端的に言って、これほど殺すことを躊躇わせる能力はなかなかあるまい。『死に戻り』があったから事前に方策も考えられるが、苦労して倒したらこちらが全滅ではまったくもって浮かばれない。

「かといって生け捕りにしようにも、あいつと接触しただけで頭がおかしくなる可能性がある。生かしておいても死なせても、相手に迷惑をかける最悪の敵だ」

 二度目の死の際、スバルは恐怖に呑み込まれて発狂した。
 おそらく、助けようとしたルスベルと恐怖を共有してしまったのが原因だ。
 ただその場合、ルスベルはあの発狂に至るほどの恐怖を延々と感じていたことになる。スバルの方があの少年より精神力が弱い、ということにもなりかねない。
 その点に関してはあまり自信を持って『俺の方が上のはず』とは言えないが、直前まで会話が成立していたルスベルがあの圧倒的な恐怖に抗っていたとは考え難い。

 二度目の死は、ただ恐怖を共有させられた以上の何かがスバルを襲ったはずだ。
 単なる感情・感覚の共有だけでない何か――それがわからない以上、シリウスの攻略に際して盤石を作ることは到底不可能だった。

「――――」

 スバルは無言で、ベアトリスの手を強く握る。
 こうしてベアトリスを連れ出したのに、打開策がまるで見えない。これでは勝ち目の見えない戦いに、巻き込む形でベアトリスを呼び込んだだけだ。
 どうすればいいのか。発狂の可能性に目をつぶり、ひとまずラインハルトにシリウスを生け捕りにさせるか。だが、前回と同じように呼び出して、はたしてラインハルトにシリウスを生け捕りにさせる十分な説明がスバルにできるだろうか。

 いっそ、シリウスの登場前にラインハルトを呼び出させてはどうだ。
 広場でいきなりラチンスに襲い掛かれば、命の危機を感じてラインハルトを呼び出したりしないだろうか。呼ばれたラインハルトも、まさか理由も聞かずにスバルを叩き斬りはしないはずだ。緊急で呼び出す必要があったと説明すれば、少なくともシリウスの登場前に数分の時間が――。

「馬鹿か、俺は。いや、馬鹿だ俺は。ラチンスがラインハルトを呼ぶアクションを起こしたら、シリウスが反応しないわけがない。時間が早まるだけで、ラインハルトに説明する時間がないのは一緒だ」

 ラインハルトとシリウスの戦いが始まる直前に、生け捕りを呼びかける。
 できるだろうか。ことシリウスとの相対が始まってしまえば、その後の自分の思考回路にスバルは全く信用がおけない。生け捕りを指示するように言い聞かせても、口では『殺せ』と叫ぶのではあるまいか。前科がある。否定の要素がない。

「スバル。実は話しておかなきゃいけない、悪い知らせがあるのよ」

「……マジか。これ以上、悪い知らせなんて一つも耳に入れたくねぇんだが」

「わかっているかしら。でも、話さなきゃいけないのよ。……もし、ラインハルトを戦力として当てにしてるなら、アレと同じ戦場ではベティーは役立たずになってしまうのよ。ただの可愛い女の子になるかしら」

「は?」

 突然のベアトリスの発言に、スバルは呆気にとられて目を丸くする。
 そのスバルにベアトリスは言いづらそうに目を伏せ、

「ラインハルトの体質の問題なのよ。アレはこの世界の異質の頂点かしら。ただそこに存在するだけで、周囲のマナが盲目的にアレに従おうとする。正常さを損なって、かえってそれがアレの足枷になっているのよ。本人が魔法を使うのはもちろん、周囲の魔法使いも精霊使いもまとめて使い物にならなくなるかしら」

「なん、だ、そりゃ。そんなこと、実際にあるはずが……」

 そこまで口にして、スバルは思い当たることがないわけでもないことに気付く。
 あれはスバルがこの世界に招かれた召喚初日、エミリアの王選参加資格である徽章を取り巻く事件の際、最終ループでラインハルトがエルザと激突したときだ。
 あのとき、ラインハルトが本気を出せば魔法が役立たずになると、ロム爺の治療を行っていたエミリアが口にしていた覚えがある。
 そのときには理解できなかったが、あれはつまりそういう意味だったのか。

「ラインハルト単独で物事が片付くなら、ベティーは役立たずでも構わんのよ。だけどもし、ラインハルト一人じゃ足りないんだとしたら……」

「ベア子が使い物にならなくなる選択は、そもそも選べねぇってことか」

 とんだ幻想殺しもあったものだ。
 そこにいるだけで、周囲の魔法的なものの一切の機能を喪失させる。ラインハルトらしいといえばらしい話だが、今はそれがマイナスに働く場面だ。

 ――まずい。まずい。まずいまずいまずいまずいまずいまずい。

 現状、何一つ光明が見えてこない。
 ラインハルトを呼ぶのが正解なのか、あるいは間違っているのか。ベアトリスにきてもらったのに、何をさせればいいのか。スバルはどう動くのが正解か。
 シリウスの行動如何は無視して、この際、広場の人間の無事を優先すべきか。それをすれば、シリウスが場所を変えて同じことをするだけだ。意味がない。

 考え込むスバルの思考が白熱し、焦燥感が脳の一部を焼き焦がす。
 白目を血走らせて、スバルは必死の思考で答えを探し出そうと苦心する。だが、答えは変わらずスバルの前に姿を見せることがない。
 それなのに、時間だけは無情にもスバルを置き去りにして刻々と過ぎ去り――、

「……広場に着いちゃったかしら、スバル」

「――っ」

 ベアトリスの言の通り、弾かれたように顔を上げたスバルは広場を見た。
 目的の、惨劇が起きる広場に、二人は到着してしまっていた。
 まだ何も見つけていないのに。残された時間だけを削って、ここに。

 白い刻限塔。広場を埋め尽くす群衆。
 惨劇が起きるまで、スバルの考えではおよそ十分を切っている。
 どうすればいいのか。どうするのが正しいのか。何をすれば――。

「スバル、もしかしたらだけど、思いついた案はあるのよ」

 唇をわななかせ、頬を強張らせるスバルにベアトリスの声。
 頭が真っ白になっていたスバルは、その響きの甘美さに目を白黒させた。

「思いついたって、打開策か!?」

「可能性の話かしら。ただ、スバルの話してくれた大罪司教の能力が他者との共有なら……似たような効果を及ぼす高等魔法『ネクト』が考えられるのよ」

「ネクト……!」

 指を立てたベアトリスの言葉に、スバルは喉を鳴らした。
 ネクト――それはかつて、スバル自身も体感したことのある魔法の一種だ。術者と他人の意思や感覚を共有するそれは、確かにシリウスの権能の効果に近い。
 何故思い至らなかったのかと、スバルは自分の頭の中身を疑いながら、

「仮にネクトと同じものなら、どう対処できる?」

「……そもそも、本来、ネクトって魔法は対処が必要な魔法じゃないかしら。ネクトの効果の狙いは、味方同士の意思の統一、言葉を介さない意思疎通にあるのよ。相手に対してネクトを、攻撃的に使うなんて発想からして間違ってるかしら」

 焦って先を促すスバルに、ベアトリスは不機嫌そうにそう答える。
 確かにスバルがネクトを利用したときも、不本意ながらユリウスと視界を共有するという目的で魔法を利用した。ペテルギウスの『見えざる手』に対抗するために、手が見えるスバルの視界を、戦えるユリウスと繋ぐ必要があったからだ。

 ネクトの本領は味方同士の連携に用いられること。
 断じて、敵同士を繋いで、互いの肉体を人質とするような魔法ではない。

「もともと、ネクトで繋がるのにも条件があるのよ。互いの間にマナのパスが繋げる程度の信頼がないと成立しないはずかしら。大罪司教の権能は明らかに、その領分を無視してしまっているのよ」

「それを無理やり達成させるのが権能ってことなんだろうさ。それより」

「対処法、かしら。――端的に言えば、『シャマク』の出番なのよ」

「シャマクさんきた! 相変わらず万能すぎるだろ!」

 ベアトリスの提案に、スバルは思わず声を上げてしまう。
 シャマクはそれほど、スバルにとって馴染み深い魔法だ。苦しいとき、辛いとき、危ないとき、困ったとき、シャマクは常にスバルと共にあった。
 ベアトリスと契約を交わす前、無力なスバルの力になってくれたのは、レムとパトラッシュとシャマクさんと言っても過言ではない。

 スバル自身のゲートの壊滅によって、その繋がりは断たれたものと思っていたが、契約を介してベアトリス経由であっても、シャマクはスバルを助けてくれる。

「そうか、シャマクか……シャマクなら、きっと全部なんとか……っ」

「スバルがシャマクに並々ならない信用を抱いてるのはわかったかしら。本当ならシャマクなんて、陰魔法の初歩の初歩で使い道がほとんどない魔法のはずなのよ」

「いくらベア子でも、シャマクの悪口は許さねぇぞ……!」

「本気で何がスバルにそこまで言わせているのよ?」

 納得いっていない顔のベアトリスは、鼻息の荒いスバルにため息をついた。それから油断なく周囲を見回し、指を一つ立てたまま、

「シャマクは意識の途絶――周囲との繋がりを強制的に断つ魔法かしら。術者がスバルの場合、効果はちょっと怪しいけどベティーなら問題ないのよ。相手が誰だろうと、完璧に意識を切り離してみせるかしら」

「それはつまり……?」

「術中に嵌まりかける群衆、まとめてシャマクで意識を闇の中に放り込めば、それで大罪司教の権能からは逃れられるはずなのよ。スバルが懸念してる、周りの人間を巻き込まないって方向性は守られるかしら」

 スバルの望むところを余さず拾い、ベアトリスは自信ありげに胸を張る。
 その頼れる答えにスバルは拳を固めた。わずかだが、光明が見えた気がする。

「よし、いいぞ。能力が届かなくなればこっちのもんだ。あとは……あとは?」

「ラインハルト抜きで、その大罪司教をブッ飛ばす戦力なのよ」

「…………」

 ラインハルトがいては、ベアトリスのシャマク戦術は使えない。故に戦力の計算からラインハルトを抜くのは必定だ。
 だが、その場合、ラインハルト抜きでシリウスを打倒する必要がある。

「言っておくけど、ベティーはシャマクにかかりきりになるし、倒す瞬間に合わせて戦ってる奴にもシャマクをかける必要があるのよ。戦えないかしら」

「だよな。……やべぇ、結局、振り出しに戻ってきちまう」

 ベアトリスのバックアップなしでは、発狂攻撃に目をつぶってもスバルがシリウスに勝てる目はおそらくない。いまだ見せていない切り札を切っても、まともにやり合えるかどうか。練習した鞭が通用しなかったことに、地味に傷付いてもいる。

「あのとき、広場にいて他に戦えそうだったのは……」

 最初、初回の広場を思い出す。
 刻限塔の上に現れたシリウスに対して、とっさに動こうとした顔ぶれ。確か、獣人の男と、眼帯をした女。それに厳つい顔の男性とラチンスの四人だ。
 ラチンスが戦力に数えられないとしても、残りの三人はどうか。そこにスバルを加えて四人ならば、多少なりとも勝てる目は見えてくるか。

「馬鹿言えよ。実力未知数の相手に、どこまで信頼ができんだ。現状、まだ話もしたことねぇってのに……」

「――それなら、実力もわかってるし話も通じる私の出番じゃない?」

「――!?」

 希望的観測に首を振るスバルに、背後から突然の声がかかった。
 聞き覚えのありすぎるその声に、スバルとベアトリスは驚き顔で振り返る。そんな二人の背後で、腰に手を当てて立っていたのは、

「え、エミリアたん? どうしてここに……」

「様子がおかしいから追いかけてきたら、やっぱり大変なこと抱え込んでるんだから。そうやって私を蚊帳の外にしようとすると、スバルの悪いところだと思うの」

 悪さをした子どもを叱るような言い方に、スバルは口をパクパクとさせる。
 いるはずがない、いてほしくなかったエミリアの登場に愕然。二の句が継げなくなってしまうスバルに代わり、ベアトリスがエミリアを見上げ、

「公園で待っているよう、言っておいたはずなのよ。どうしてついてきたのかしら」

「……ホントは私も待ってようと思ったわ。スバル、私についてきてほしくなさそうだったから。でも、プリシラが」

「あの赤い娘が?」

「今、スバルを追いかけないと後悔することになるかもって言うから。何事もなかったなら、黙って戻ろうって思ってたんだけど、二人とも深刻そうにずっと話してるんだもの。引き返すなんてできない」

 エミリアの決断を後押しし、ここまで追いやった元凶の顔が頭に浮かぶ。
 スバルは奥歯を噛みしめて、この状況を作り出したプリシラの高笑いを頭の中で殴りつけた。どこまでも、状況を掻き回してくれる少女だ。
 その悪辣さと、見計らったとしか思えない致命的な間の悪さが、スバルにとって作り出したくなかった状況を見事に演出せしめている。

「エミリアたん、気持ちは嬉しい。嬉しいけど、その、ここは今から」

「魔女教が現れるんでしょう? ちゃんと聞こえてたんだから。……スバルが戻れって言っても戻らない。私にとっても他人事じゃないんだもの」

「エミリア!」

 何の根拠もなく、エミリアを危険から遠ざけようとしているわけではない。
 声を荒らげ、スバルは頑ななエミリアをどうにか追い返そうとする。

 彼女と魔女教は、会わせてはならない。
 理由はわからない。確固たる理屈はない。だが、理屈も理由も不要なものがある。
 エミリアと魔女教は、決して出会わせてはならないのだ。エミリアにとって魔女教という連中は、出くわしてはならない劇物に等しい。
 この世界を生きる多くの人間にとってそうであるが、エミリアにとってはとびきりそうなのだ。だから、

「俺たちがどうにかする。エミリアは関わらなくていい。関わらないでくれ」

「そうやってまた、私を守ろうとしてスバルたちが傷付くのに目をつむるの? 絶対に嫌よ。スバルが戦うとき、私も戦う。スバルが誰かを守ろうとするとき、私もそれを手伝いたい。スバルが私を守ってくれるみたいに……」

「――――」

「私も、スバルを守ってあげたいの。だってスバル、今にも泣きそうじゃない」

 折れてはいけない心が、エミリアに訴えに折れてしまいそうになる。
 彼女を危険から遠ざけるために、スバルは自分の勇気を奮い立たせなくてはならない。鋼の心で、あらゆる困難に立ち向かわなくてはならない。
 なのにスバルは今、恐がっている。恐怖している。戦いを恐れている。

 三度だ。
 スバルはすでに三度、シリウスとの戦いに敗れて命を落としている。
 それもたったの一時間の間に三度、これほど短いスパンで死を味わった経験など、ナツキ・スバルの死の経験値をしてもあったことなどない。

 『死』はいつだって恐ろしい。慣れることなどありえないし、あってはならない。
 命を奪われるということは、道筋を絶たれるということだ。生き方を否定され、存在を踏みにじられ、魂を凌辱される。それが命を奪うということだ。

 軽薄さで誤魔化そうとしても、抗い切れないものがスバルを苛む。
 守りたいと強く心を保とうとしても、死にたくないという弱い気持ちが顔を出す。
 ナツキ・スバルはいつまで経っても、その弱さを克服できない。

「……スバル。もう諦めた方がいいのよ」

「ベアトリス……」

「エミリアは頑固かしら。知られた以上、きっともうどうにもならないのよ。それにベティーもエミリアの気持ちがわかるかしら。スバルを守りたい気持ちはベティーも同じだし……それを否定するのは、ベティーには無理なのよ」

 作戦の要であり、スバルの意思決定機関でもあるベアトリス。彼女が白旗を上げてしまえば、スバルの方が抵抗し切るのは難しい。
 エミリアが真摯に、ベアトリスが慈しむように、二人してスバルを見ている。

 その二人の注視に、ついにスバルも心が折れた。

「……魔女教の奴らはきっと君を狙ってくる。何かあったらまず、自分の身を第一に考えて行動してくれよ」

「ん、わかった。捕まってもスバルが助けにきてくれるもんね。それを信じて、頑張ってみる」

「縁起でもないこと言わないでくれ……それで、話はどこまで聞いて?」

 スバルが受け入れたことに、エミリアが安堵の微笑みを浮かべる。
 待ち受ける難敵を忘れたような態度に気抜けするスバルに、エミリアは自分の唇に指を当てながら、

「大体は聞いてたはずよ。魔女教の悪い人がきて、その人がネクトみたいな魔法を使う。ベアトリスがシャマクでその効果を相殺するから、その間に頑張って悪い人をやっつけなきゃいけないって」

「低学年の子にもわかる噛み砕き方だけど、それで合ってる。エミリアたん、頼りにしてもいい?」

「任せて。私、ちゃんと強くなってるんだから」

 両手を胸の前に構えてガッツポーズを取るエミリア。
 可愛らしい仕草はイマイチ緊張感に欠けるが、事情の理解はスムーズだ。
 エミリアを頼ることへの不安と不甲斐なさ。それと、ベアトリスの魔法のタイミングの難しさなど、不安要素ならぬ失敗要素は限りなく多い。それでも、

「エミリアたんとベア子がいて、失敗するわけにいかねぇ……!」

 それをかえって、発奮材料にしてやるぐらいに考えるのが男の子だろう。

「それにもう、そろそろ時間だ」

 ベアトリスの提案を受け、エミリアと合流し、すでに残り時間は大半を使った。あとはせいぜい、シリウスの登場に際してどう対応するか。
 できるなら塔の中にルスベルが放置されている間に、シリウスを塔から叩き落とすぐらいの状況が望ましいのだが。

「エミリアたん。もうすぐ、塔の上に見るからに怪しい奴が現れる。そしたら先制攻撃で一発、でかいのをお見舞いしてくれ。塔から落とせれば最高だ。そのあとはベア子がうまいことやって、合図してから戦闘開始で」

「ん、わかった。うまくできるかわからないけど、やってみる」

 スバルの指示にエミリアが表情を引き締め、スバルはベアトリスと頷き合う。
 そうして方針が固まった直後のことだ。

「――きた!」

 刻限塔の窓から身を乗り出し、一人の怪人が姿を見せる。
 細身の体にコートをまとい、その顔を包帯でぐるぐる巻きにした異形。両腕から垂らした鎖の先端を床に擦らせ、耳障りな音を立てながら眼下を見下ろす怪人だ。

 まだ誰も、その異形の存在に群衆は気付いていない。
 大舞台の上に立ったシリウスは、身近に迫る脅威に対して無防備そのものの大衆を愛でるように体を震わせ、それから両腕を大きく広げる。
 それが合わさるとき、爆音のような音を立てて拍手――それを聞いた群衆の目は怪人へ引きつけられ、あの演説が始まる。

「――――」

 固唾を呑んで、その瞬間の訪れをスバルは目の当たりにする。
 勢いを増す両腕が、シリウスの胸の前で激しい音を立てて合わさり――、

「ウル・ヒューマ!!」

 直前に塔の真上に出現した巨大な氷柱が、外縁に立つシリウスを直撃した。
 スバルを五人束ねたような太さの氷の塊は、凄まじい音と衝撃を伴って刻限塔の白い壁を豪快に削り取る。決して脆いわけではない壁が崩壊し、氷柱の先端が塔の中に突き刺さっている光景を見て、スバルは顎を落としそうになった。

「え、エミリアたん?」

「スバルが先制攻撃って言うから、先制攻撃してみたけど……ダメだった?」

「いや、GJ。だけどまさか、名乗る前にぶち込むと思わなかったから驚いて」

 どのタイミングで、と指示しなかったスバルにも問題はあったが、最大の問題はエミリアに一目で不審人物と判断されたシリウス自身の振舞いにあるだろう。
 とりあえず様子見、といった配慮が一切されていない魔法の一撃は、ひょっとすると無防備だったシリウスをそのまま押し潰した可能性がある。だったとしても、騒然となる群衆の中に潰れた死体は見つからないので、ひょっとすると感覚共有云々をすっ飛ばして攻略できたのかもしれない。

 その場合、エミリアが本気で大金星すぎるが。

「ベア子、どう思う?」

「まず、周りの連中の誤解を解くところから始めた方がいいと思うのよ」

 あのままシリウスが倒せたのか、というスバルの質問の趣旨に、ベアトリスが呆れた顔のままで顎をしゃくる。
 見れば、刻限塔を破壊したエミリア含むスバルたちを、群衆がじりじりと囲んでくるのがわかった。その中には獣人の男と眼帯の女が含まれており、一時は共闘することを考慮した相手に警戒される悲しみがスバルを襲う。

「とか言ってる場合じゃねぇや。ええと、どうしよう。とにかくまず、悪意あってあんなことしたわけじゃないって説明するべきか?」

「――ううん。それより、スバルは下がった方がいいわ」

 頭を掻いて、どう説明すべきか迷うスバルの肩をエミリアが引いた。思わず後ろに下がるスバルの前に出て、エミリアがその手を上から下へ強く振る。
 その瞬間、キンと空気が鳴り響き、エミリアの手の中に青い氷の剣が生じた。細身の剣を構えるエミリアは、その先端をこちらを囲む群衆へ向け、

「エミリアたん? さすがにそこまで悪役ロールする必要は……」

「違うわ。よく見て、スバル。みんなの目、正気じゃない」

「――え」

 固いエミリアの声にハッとなり、スバルは周囲の人々の顔を見た。その顔を見て思わず息が詰まる。エミリアの言う通り、それは正気の人間の顔ではない。

 こちらを取り囲む群衆は皆、首から上をまるでトマトのように真っ赤にして、顔中の血管という血管を浮かび上がらせ、血走った目でスバルたちを睨んでいる。
 正気を疑うどころか、疑いようもなく狂気に満たされた形相だ。

「ベア子! シャマクは!?」

「……しくったかしら」

「なに?」

「これ、ネクトとは根本から形態が異なった魔法……ううん、邪法なのよ。これは魔法でもなんでもないかしら。呪い……呪術なのよ!」

 ベアトリスが不快さと怒りに声を上げ、その響きにスバルは眉を寄せる。
 原理の違いがわからないが、シャマク作戦は通用しないものとベアトリスは判断している。その逆境を理解した上で、さらに問題がある。
 こうして群衆が丸ごと狂気に呑まれているということは――、

「――臭い。臭い。臭い。臭い。臭い。臭い。臭い。臭い。臭い。臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い」

 それはひどく粘質的な、この世の全てを呪う怨嗟の響きであった。

「――――」

 音を立てて、刻限塔の外壁が崩れる。
 塔にその巨大な存在を埋めていた氷柱に亀裂が走り、ひび割れるそれが一息の間に粉々に砕け散った。きらきらと、日を浴びる氷の結晶の中、足音がする。

 怪人だ。
 無傷とはいかず、怪人は顔に巻いた包帯の半分を赤く染めている。だらりと下げた左腕からも血が伝い、鎖を引きずって歩く姿もどこかたどたどしい。
 エミリアの先制攻撃は、疑いようもなく効果を発揮している。

 ただそれは、引いてはならない引き金を引いたことも事実であった。

「臭う、感じる……女の臭い。薄汚くて忌々しい、私からあの人を奪う半魔の臭い。殺しても殺しても、蛆虫みたいに際限なく湧いてくる臭い汚物。冗談じゃない。憎たらしい。あれだけ焼いても、まだ足りないのか」

「……何を、言ってやがる?」

「他にも感じる、女の臭い。あの人じゃないくせに、あの人に似た臭い。汚らわしくて卑しくて浅ましい、腐って色が変わって虫が湧いたような女の臭い。ああ、ああああ! あああああ! 腹立たしい! 忌々しい! 憎たらしい!」

 かろうじて残った外縁の上で、怪人は出血する頭を掻き毟りながら金切り声を上げる。唾を飛ばし、地団太を踏み、スバルの知る物腰とは人が変わったように狂乱した素振り。狂乱しているのは同じでも、ベクトルが明らかに違う。

「私の! 夫への愛を試すか、精霊! 私から! 夫を奪っただけではまだ飽き足らないのか、半魔の売女!!」

 歯を剥き、怒りの絶叫を上げながらシリウスが跳躍する。
 塔から落下するシリウスが頭上で両腕を合わせると、そこから真っ赤な炎が上がった。両腕から紅を迸らせるシリウスが、炎をたなびかせながら広場へ着地する。

 四肢をつき、燃える両腕をそのままに顔を上げる怪人。
 氷の剣を構えるエミリアと、スバルを庇うように前に出るベアトリス。その二人の顔を代わる代わる見て、シリウスは怒気に塗れた声で叫んだ。

「私は! 魔女教大罪司教! 『憤怒』担当ぉッ!!」

 立ち上る炎、その熱波を浴びる群衆が両腕を天に掲げて奇声を上げる。
 スバルの知る形とは、全く異なる形の狂乱の渦の中、怪人は名乗った。

「――シリウス・ロマネコンティ!! クソ半魔にクソ精霊、お前らを両方揃って焼き焦がして、夫の墓前にばら撒いてやる!!」

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