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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第五章 『歴史を刻む星々』

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第五章21 『最適の解法』



 ――二度目の『死に戻り』を終えるに至り、スバルはこれまでにない疲労感に全身を打ちのめされていた。


 二度にわたり、自分が発狂したのを確認するのは精神的な負担が大きい。

 特に二度目は死ぬ直前の自分でもはっきりとわかるぐらい、思考から何まで全てが崩壊していったことの実感があるのだ。
 体の芯から震えが止まらなくなるような恐怖の荒波は、ナツキ・スバルという個人を一気に押し流して脆弱な精神ごと魂を粉々にした。

 おそらく今回の死亡原因は、恐怖の発狂による心臓発作。あるいは完全に体液を垂れ流す機械になったスバルに、シリウスが情けをかけてくれた形だろうか。
 ルスベルを救おうと一人で挑んで、とんでもない対価を払ったものである。

 ただ、たったの三十分の間に二度も死んだスバルではあるが、その為す術もない死であっても収穫がなかったわけではない。
 死にゆくスバルへの冥土の土産のつもりなのか、シリウスはわざわざ懇切丁寧にスバルとルスベルの身に何が起きたのかを説明してくれた。
 それはつまり、

「恐怖の感情が、互いの間で高まる……共振、みたいなことか?」

 ルスベルの恐怖をスバルが、そしてその恐怖を感じたスバルの恐怖をまたさらにルスベルが。そうした終わらない恐怖の循環が互いの恐怖を上書きし、究極的には死に至るほどの絶対的恐怖へと成長した。
 今回の死への流れは、そういったことと考えて間違いないだろう。

 最初の死と、今の二度目の死。
 そこに至るまでの流れと、シリウスの発言。そして奴が『憤怒』の大罪司教であることを踏まえて考えれば、その能力にも大まかな想像がつく。
 怒りや嫌悪を感じるべき場面を、歓喜や愉悦を覚えるシーンだと勘違いする。
 少年の感じる恐怖を自らのもののように錯覚し、それが相手にもまた同じように作用する。

 ――『憤怒』のシリウスは、他人の感情を悪辣に操作する異常者だ。

 おそらくはペテルギウスの『見えざる手』と同じように、この世界のいずれの魔法形態にも属さない特殊な異能。魔女教の大罪司教が持つ権能であるだろう。
 『憤怒』らしく、感情に密接に関わる能力というわけだ。

 大罪司教の邪悪さ『らしい』と言わざるを得ない権能といえる。
 だが、二度も死んでそこまで当たりをつけておきながら、スバルがはっきりと断言できるのはせいぜいがその程度の情報まで。
 問題となるのは、その権能の発動条件――つまり、打開策だ。

 ペテルギウスの『怠惰』の権能はある意味、種が割れれば攻略は安易だった。
 ようは『見えざる手』と『他人の行動をキャンセルする怠惰』の二種類が奴の権能だったわけだが、その両方に対してスバルには耐性があったからだ。
 どちらの耐性も、根本のところで何が要因だったのは今でもわからない。インビジブル・プロヴィデンスという、スバルなりの『見えざる手』をいつの間にか習得している現在に至っても、まだわからないままだ。

 『死に戻り』にまつわる魔女の香りや、白鯨の忘却の霧の効き目がなかったことなど、実はスバルはやや楽観視して『実は俺って魔女教の反則技が効かねぇんじゃね!?』などと思っていたのだが、『憤怒』の権能にまんまと殺されているところを考えるとどうやら当ては外れてしまったらしい。

 これまでの『憤怒』との二度の接触を考えると、最悪の場合、奴の権能の発動条件は『シリウスとの接触』の可能性すらある。
 シリウスの言葉を聞いた時点、あるいは奴の姿を目にした時点で術中にはまっている可能性を考えると、攻略の方法は事の他シビアだ。

 激烈に極論を言わせてもらえば、シリウスがいる刻限塔を外から魔法で粉々に吹き飛ばすのがおそらく一番手っ取り早く確実だ。
 シリウスの姿を目にしないまま、シリウスのいる場所を特定して先制攻撃が仕掛けられるのは現状、この『死に戻り』直後の瞬間しかありえない。
 ただし、それには一人の勇気ある少年の犠牲に目をつむる必要があり、本当の本当に極限状態に至るまでスバルはその選択肢を選ぶつもりはない。

 必要な犠牲だったなどと、誰がどの口で偉そうに言える。
 多くを救うために犠牲になった一つの命も、その一つの命の側から見れば世界の全てを失ったのと同じだ。自分自身の命の犠牲を許容できないスバルが、どうして他人の命を身勝手に数字として勘定できる。
 方針は以上だ。ルスベルは助ける。無駄死にも御免。両方やらなくちゃならないのが、ナツキ・スバルの辛いところである。

「ルスベルを助け出して……それから、シリウスを撃破するしかねぇ」

 ルスベルを助け出した時点で、前回と同じ状況になるのが想定される。どう足掻いてもシリウスと単独で接敵するのは自殺行為でしかない。
 ただ、恐るべきはシリウスの単独戦力――両腕の鎖を用いると思われる戦い方だが、スバルの鞭の不意打ちを防いだことからも相当な実力者なのがわかる。

 技量未熟のスバルの一撃、という点を差し引いても、鞭による一撃の速度は素人が目で追えるようなものではない。意図しないところから迫るその一撃に、細い鎖の先端を合わせることがどれだけ卓越した技量を必要とするか。
 想像ができないほど、スバルは相手を過小評価するつもりなどなかった。

 つまり、今スバルに求められるのは、純粋な戦力としてシリウスを圧倒する力を持ち、スバルの言葉を信じて行動を共にしてくれ、その上でシリウスの『憤怒』の権能に耐性を持つシリウスキラーの存在。

「そんな都合のいい奴がいるわけねぇ……」

 ご都合主義の塊のようなことを考えて、スバルは自分で自分に嘆息する。
 しかし、『憤怒』の権能が通用しないシリウスキラー、という考えは案外、的を外していない気がした。

 ペテルギウスの『怠惰』の権能が両方とも通用しなかったスバルのように、シリウスの『憤怒』の権能が通用しない体質の人間もひょっとするといるのではないか。
 その場合、スバルはたまたまのたまたまペテルギウスキラーだったということになるわけだが、その体質のおかげで光明が見えたかもしれない。
 ひとまず、初回の広場では全員がシリウスの演説に呑まれていたわけだから、あの場にはシリウスキラーなる存在はいなかったと仮定できる。

 あの場にいて、シリウスと戦えそうだったのはシリウスに最初に指名されたスバルを含む四名で――と、そこまで考えたところでスバルはようやく気付く。

 あの場に、ラチンスが居合わせていたことの意味を。

「――ラインハルト!!」

 ご都合主義の塊のようなことを考えたことを戒めたスバルだったが、本当の意味でご都合主義の塊のような男がいたことを、ようやく思い出すことができた。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 スバル自身、自分を擁護するつもりはないが、ラチンスとラインハルトの存在を結びつけるのに時間がかかったのは、やはりあまりにも短い『死に戻り』の間隔に原因があったと言わざるを得ない。

 『死』の直後、『死』の前後、そして発狂直後と発狂前後の十五分間だ。
 その状態で差し迫った危機が目前にあるとわかっていて、冷静に全ての手段を模索して最適解を選べるのが当然だと言い張るなら、自分の代わりにそいつが『死に戻り』しろとスバルは声を大にして言いたい。

 別にスバルは『死に戻り』したいわけではないのだ。
 許されるならエミリアやレム、ベアトリスと一緒に屋敷に引きこもって、植物のように過ごしたいのが本音だ。
 だが、そうして雄しべと雌しべを突っつき合わせて怠惰に過ごすような日常はスバルには許されない。ただそれだけのことで、日々を必死に足掻いている。

 だから今この瞬間も、スバルは必死に相手を説得しようとしていた。


「やっと見つけたんだ、逃がさねぇぞ! 頼むから、今すぐにラインハルトをここに呼んでくれ! 緊急事態なんだよ!」

「うるっせえな! なんでわざわざぐちぐち言われるかもしれねえのに、あの赤毛野郎を呼び出す必要があんだよ。ざっけんな!」

 往来で怒声をぶつけ合う二人に、周囲の人々の野次馬のような視線が集まる。
 取っ組み合いになりそうな雰囲気に、見世物を楽しむ囃し立てるような声がまとわりつくのがなんとも腹立たしかった。

 『死に戻り』の衝撃から立ち直り、先の結論に至ったスバルは早速行動に移った。
 前回と同じようにベアトリスをエミリアの護衛に残し、甘いものの買い出しを理由に公園を離脱。その足で問題の広場までやってきて、ラインハルトへの連絡係として有用なラチンスを探し当て、ようやく交渉に入ったところだ。

 最初、ラチンスを探すのに手間取ったこともあり、ようやく見つけた彼の肩を乱暴に掴んでしまったのが、こうして口論になりかけている原因でもある。
 とはいえ、仕返しとばかりに胸を突き飛ばされて、スバルの方も決して心境穏やかならぬというのが本当のところだが。

 ともあれ、口論になってしまったのは今さらどうにもならない。スバルは焦燥感で早口になりながら、こちらを睨みつけるラチンスを指差して、

「いいか? とにかく落ち着いて話を聞いてくれ。遊びで言ってるわけじゃねぇんだよ。死にたくないなら、今すぐラインハルトを呼び出してくれ」

「ああ? ひょろ臭ぇガキの分際で、殺すだのなんだの舐めてんのか? ラインハルトの野郎なんざ必要ねえよ。叩き殺すぞ、クソが」

「ああぁ、そうじゃねぇよ……っ!」

 スバルの言葉を挑発と受け取って、ラチンスの方の怒りは収まらない。
 そもそも、スバルとラチンスとの間に友好関係が成立していないのだ。おまけにどうやら、ラチンスの方も味方であるはずのラインハルトに良い印象を持ってはいないらしい。呼び出すのを渋るのと、スバルのことが気に入らないのと、二つの要因から頑なにこちらの要請を拒否してきていた。

「この分からず屋め……」

 頭を抱えて、スバルはラチンスの態度に奥歯を噛んだ。
 無論、スバルとて話運びに失敗したことの自責の念はある。が、こうまで頭ごなしに交渉を拒否されるとなると、恨み言の一つも言いたくなるというものだ。
 ラチンスの立場からすれば、スバルの言い分に唯々諾々と従うことなど考えられないはずだが、スバルの方にも情報を明かせない理由がある。

 ――だが、こうまでなれば仕方ない。

 スバルは本能的な恐怖を押さえ込みながら、胸に手を当てて、

「ラチンス。これは冗談じゃない。ラインハルトを呼んでほしいのは、俺たちの手に負えない奴らが悪さをするからだ」

「手に負えない奴らだ? テキトーなこと言ってんじゃねえよ」

 小馬鹿にするように鼻を鳴らすラチンス。
 その表情にスバルは目を伏せ、それから一度、深呼吸をしてから口を開く。
 くるな、くるなと願いながら、

「――魔女教、の奴らがくるかもしれねぇんだ」

「――――っ」

 言えた、とスバルが目を見開いたのと、物騒な響きにラチンスが表情を変えたのはほとんど同時だった。
 言い切った直後、スバルは自分の胸を見下ろしたが、変化はきていない。『死に戻り』によって知り得た情報を一部開示しても、ペナルティは発生しなかった。
 まずそのことに、スバルは安堵して肩を落とす。

 ――スバルにとって『死に戻り』自体は一年ぶりのことだったが、その『死に戻り』に関連するペナルティの数々は今も健在だ。

 特に、意を決してベアトリスに全てを打ち明けようと試みたときなどは、スバルは本当の意味でかつてない地獄の苦しみを味わった。
 『聖域』での魔女の茶会での別れ際、おそらくあの黒い魔手の張本人であろう『嫉妬の魔女』が、殊勝に送り出してくれたことなど忘れたような蛮行だ。
 故にいまだにスバルはベアトリスにも他の誰にも、『死に戻り』そのもののことは打ち明けられないままここまできていた。

 もちろん、ペナルティに引っかからない範囲で、パートナーであるベアトリスとの知識の共有は一通りを済ませているつもりだ。
 そのときのことに関しては長くなるため、この瞬間は割愛する。

 ともあれ重要なのは、ペナルティに引っ掛かることなく、スバルはラチンスにラインハルトを呼び出すための正当な理由を伝えられたということだ。
 実際、ラチンスもさすがに魔女教の響きには考えさせられるところがあったらしく、つり目がちの目を思案げに細めて熟考している。

「おい、ガキ」

「ナツキ・スバルだ。いつまでもガキなんて呼ぶなよ、ラチンス」

「ラチンスさんだ。クソスバル。てめえ、その話はどこまで信用できんだ。魔女教の名前をブラフに使おうなんざ、悪党でもやらねえぞ」

 声を低くして、ラチンスはスバルに敵意満々の視線を向ける。
 この世界において、『嫉妬の魔女』と魔女教の名前が持つ意味はどこまでも重い。それほど『絶対悪』として、『魔女』のキーワードが根付いている証拠だ。
 あのラチンスですら、決して見せないような真剣な顔で問いかけてくるほどなのだから、スバルの方も真剣に応じるより他にない。

「冗談でも気の迷いでも嘘っぱちでもねぇよ。魔女教がここにくる。大勢の人が危ない目に遭うことになるんだ」

「どこでそんな話……ああ、クソ。そうだった。てめえらは魔女教の『怠惰』を殺ってんだったな。クソが、信憑性はありやがんのか……っ」

 スバルが根拠を示すよりも前に、ラチンスの方が持ち得る情報で勝手に根拠を探り当てる。実際は的外れの推測だったが、その功績は予想以上にラチンスの中で情報の整合性を助けてくれたようで、

「ここってのは都市か? それともこの広場にきやがるってことなのか?」

「信じてくれるのかよ?」

「遊びじゃねえって言ったのはてめえだぞ、クソスバル。いいか? 俺はラインハルトの野郎の小言も御免だが、死ぬような目に遭うのもよっぽど御免だ。どうにかできるかが俺の機嫌一つなら、てめえも言葉に気をつけろ」

 疑いの余地を残しつつも、最悪に備えて話の詳細を詰める。
 ラチンスが意外なほど合理的な判断を下したことに驚きつつ、スバルは我が意を得たりと足りない部分の話を伝えることにする。

「わかった、悪かった。魔女教の『憤怒』がこの広場を襲う。場所は刻限塔から、狙いはこの広場にいる全員だ。誰か個人じゃない」

「魔女教らしい節操のなさじゃねえか。クソ、時間は?」

「たぶん五分もない。だから本当に、今すぐ呼んでくれ」

「五分!? ざっけんな! なんでもっと早く言い出さねえ!」

「俺はだから五分前にお前に頼んでただろうが!」

 時間のなさに声を上げるラチンスだが、そのことならすでにスバルの方が十分以上に呪っている。スバルとて、可能ならこんな綱渡りのような手段に頼りたくない。
 ラインハルトの名前を呼びながら町中走り回って、彼の存在を探り当てる方がよっぽど確実だ。だが、時間がそれをスバルに許さない。

「とにかく、呼び出せるなら冗談抜きに今すぐ頼む。呼び出す方法は、昨日言ってた話じゃ打ち上げ花火みたいなことだったよな?」

「なんだ、打ち上げ花火って。……ラインハルトの野郎に見えるように、空に向かって魔法を打ち上げるのが合図だ」

「……わかりやすくていいけど、それって何かの拍子に他の誰かが空に撃ってたらどういう判断になるんだ?」

「そんな心配いらねえよ。あの赤毛野郎、打ち上がった魔法を見りゃそれが誰が使った魔法なのか区別つくらしいからな」

 それがどのぐらい規格外なことなのか、詳細はわからなくてもスバルにも伝わる。それから思ったのは、この一年間でラチンスの方も、簡単な魔法が使える程度には自分を高めていたのだという、当たり前の理解だった。
 出会った当初の彼らが魔法を使えたとは、その後のやり取りから考え難いし。

「おら、見世物じゃねえぞ! とっとと失せろ、野次馬共が!」

 スバルの説得を聞き入れ、ラチンスはラインハルトを呼ぶ気になったようだ。
 乱闘が始まるのを今か今かと待っていた野次馬に唾を飛ばして、ラチンスが魔力を練りながら拳を上へ突き上げる。

 そこに赤いマナ――火の魔法であるゴーアが蓄積するのを見ながら、スバルは状況が動くのを音で感じたような錯覚を覚えた。

 これで状況は大きく変わるはずだ。
 説得しておいてなんだが、ラチンスがスバルの言葉を聞き入れて、こうした行動に移してくれたことが嬉しかった。その行動の真意に彼の保身であったり、動かした根拠の推測が筋違いであったりの偶然はあったが、それでも。
 ペテルギウスを倒していたこと、この一年間でスバルが示してきたこと、それにラチンスが多少なり変わったこと、それがこの結果を引き寄せたのだと思えた。

 スバルも、ラチンスも、一年前から変わっていなかったらこうはならない。
 だからこの結果が正答に結びつくと思えるのも、確かな実感なのだ。

 ラインハルトがこの場にくる。
 そうなれば、『憤怒』への対処は容易だ。いかに実力者であろうと、剣聖の前ではその実力も大いに霞む。『憤怒』の権能自体も、ラインハルトには通用しないに違いないという謎の信頼感がスバルにはあった。

「ゴーア!」

 ラチンスが言霊を紡ぎ、突き上げた腕の先から赤い炎が打ち上げられる。
 それは真っ直ぐに上昇し、青い空の中心でやけに乾いた音を立てて弾けた。

 花火というにも、魔法というにもしょぼくさい効果と言わざるを得ないが、その程度の効果であってもかの英雄には十分だろう。

 そんな、漠然とした安心感があったからだろうか。
 当たり前と言えば当たり前すぎる、こんなことに頭が回らなかったのは。
 ラインハルトを呼べば、それで全ての状況が好転すると、周りが見えなくなっていたからだろうか。

「――あら。空の彼方に火の玉が一つ。とても綺麗な輝きでしたね」

 刻限塔の外で騒ぎが起きれば、当然のように敵もそれを察知することぐらい。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 白い塔の上に姿を見せたシリウスは、相変わらず包帯で顔を覆っていてその表情を見ることができない。
 それでもその表情が笑顔だと容易に知れるのは、まるで小春日和に小鳥の囀りを楽しむような、そんな軽やかで弾んだ気持ちが声の調子に表れているからだ。

 シリウスは目の上に手で庇を作り、打ち上がるゴーアの輝きに目を細める。
 まさしく花火を見届ける仕草で赤い炎を楽しみ、シリウスは手を叩いた。

「はい! では皆さん、ごめんね。おはようございまーす!」

 尋常でないほど高く大きな拍手の音が鳴り響き、ゴーアに目を奪われていた群衆の視線は反射的にシリウスの方を向いてしまう。
 スバルですらそうだ。だから、彼らの反応を咎めることはできない。

「ダメだ、見るな!!」

 包帯姿の凶悪な笑みを目の端に捉えて、スバルは即座に警告の声を上げる。
 しかし、その警告に従って視線を逸らすものは一人もいない。当然だ。スバル自身も最初の接触のとき、シリウスに対して同じ感覚を抱いたはずだ。

 顔を背けていても、シリウスの方を向く左の頬が感じている。
 そこに存在する、生命を脅かす悪意の波動を。

 大口を開けて迫る肉食獣から、どうして目を背けることができる。鋭い牙を前に顔を背けるのは、命を諦めて心を折られたときだけだ。
 いまだ死を拒絶し続ける彼らが、シリウスから目を背けることができないのは、彼らが人間である以上は避けられない本能だった。

「あら。思ったよりもずっと静かにしてもらえるまで早かったですね。きっと、私が顔を出す前に皆さんの気を引いてくれていたお二人のおかげかもしれません。ありがと。そんな二人に拍手を送っちゃいます」

 ぱちぱちと口で言いながら、シリウスが鎖を垂れ下げた両手で示すのは、腕を上に突き上げたままのラチンスと、必死で顔を背けているスバルの二人だ。
 ゾワリと背筋に寒気が駆け抜けるのを感じながら、スバルは必死に歯を噛みしめてシリウスの注視に反応しないよう心がける。
 言葉を失い、シリウスの目に囚われているラチンスの意識を引っ張るのはもう無理だ。今さらラチンスに何を言っても届かないし、それ以前にスバル自身、ここから特別なアクションを起こそうものなら、シリウスに囚われる自信があった。

 事実、スバルは今、耳を塞ぐことができない。
 シリウスの存在を知覚した時点で、きっと逆らうことができなくなるとスバルは予想していた。だから最初に目を逸らし、耳を塞ぎ、無防備を晒すとしても精神操作に耐えるための対策を講じるつもりでいたのだ。
 その事前に考えていた対策も、目を逸らした後がもう続かない。

 耳を塞ぐのは何のためなのか。当然、シリウスの声を聞かずに済むためだ。
 だけど、どうしてシリウスの声を聞かないようにしなくてはならないのか。シリウスの声を聞くことは、こんなにも心地よいことなのに。

「――――」

 気付けば、スバルは逸らしていたはずの顔を戻し、シリウスを見ていた。
 シリウスはそうするスバルを見て、嬉しそうに両手を合わせながら体を左右へ揺する。鎖がジャラジャラと音を立てて床に擦れ、金属質なその音はまるでスバルの心の堅固な防備が崩される音のようにも思えた。

「はい! 皆さんが私の方を見てくださるまで、十九秒かかりました。ごめんね。でも喜ばしいです。それになんだか、予想したよりも私のことを愛してくれている子もいるみたいで、それも喜ばしいです。さて、では自己紹介をしないと」

 言葉をなくして自分を見上げる視線の渦、その中でシリウスは丁寧に頭を下げる。
 それから首をもたげ、ぎょろりとした目で周囲を睥睨しながら、

「私は魔女教、大罪司教『憤怒』担当。シリウス・ロマネコンティと申します」

 恐るべき名乗り上げが行われた。
 本来ならば嫌悪と恐怖の象徴として呼ばれ、疎まれ排除されるべき名前。
 その口上をしかし、眼下の群衆はまるで親しい隣人の名を聞いたように受け入れる。

「ふふ、ありがと。皆さんの時間を、こうしていただいてしまってごめんね。でも、すぐに終わりにしますから安心しててくださいね」

「――そうかい。それなら僕の方も、手早く終わらせた方がよさそうだね」

 そしてその声は、シリウスの虚構の親愛よりも深く柔らかく、スバルたち広場にいた人々に染み渡り、心を打っていった。

「――――」

 シリウスの視線が下がり、スバルたちの視線も一斉に横を向く。
 全員の目が向いたのは、広場の後ろを流れていた水路の方だ。穏やかに水の流れるその水路が、凄まじい速度で逆走する何かによって水を打ち上げている。

 それは炎のように赤く燃えていた。
 それは青空のように澄み切った瞳の持ち主だった。
 それはあらゆる存在が見惚れるほどに整った姿かたちをしていた。

 それは全ての人間が心に思い描く、英雄という存在のその具現であった。

「近道を探すのに時間がかかってしまった。到着が遅れてすまない」

 五秒ではなく、三十秒かかったことを英雄は詫びる。
 近道と称して、道なき道――否、水の上を駆け抜けるという離れ業をやってのけて現場へ辿り着いた剣聖は、その場にいる人々の様子に目を走らせ、それから彼らの頭上に佇む『憤怒』を認めると、息をついた。

「なるほど、僕が呼ばれた理由はわかった。判断は正しかったよ、ラチンス。それとも、君が僕を呼んでくれたのかな、スバル」

 水上から陸上へ、広場に足を踏み入れたラインハルトは、硬直するラチンスを労ってからスバルの肩を手で叩いた。
 その掌から伝わってくる存在の実感に、スバルは息を呑んで全身を震わせた。

「ら、ラインハルト……?」

「そうだ、僕だよ。緊急の状態だったのはこれを見れば明白だ。あの頭上にいるのは……大罪司教だね」

 焦点の合った視界に、力強く頷いてみせるラインハルトがいる。
 彼は端正な顔立ちの眉を寄せ、シリウスの方へ顔を向けないよう意識している。どうやらラインハルトも一目で、シリウスの危険性を理解したらしい。

「あいつ、洗脳能力持ちだ。今は多少マシだが……あれの声を聞いたり、目を見たりしてると、そのうちに」

「わかってる。声や姿だけじゃないよ。どうやら、存在を肌に感じるだけでも影響を受ける。僕もあまり、長くは平静を保てないかもしれない」

「嘘だろ、お前が……!?」

 弱気ともとれるラインハルトの言葉に、スバルは絶望感を感じて絶句する。
 根拠もなく、ラインハルトなら大丈夫と信じ込んでいたが、その彼の口からスバルに伝えられたのは、彼をしてシリウスが手に負えない可能性の示唆だ。
 それが事実だとしたら、あの邪悪にどう対処することができるのか、もはや予想を立てることすら難しい。

「間違ってたらごめんね。ひょっとしてあなた、あの有名な剣聖さんじゃありませんか? だとしたら……なんて素晴らしい日なんでしょう!」

「君の言う通り。僕は剣聖を拝命しているラインハルト・ヴァン・アストレアだ。生憎、まだその称号は僕には過分なものだと弁えているけれどね」

「とんでもない! でもいいんです! あなたがきてくれたことが喜ばしい! だってあなたはこの国で、騎士として最大の信頼と最高の期待を一身に背負う方なんですから。誰もがあなたを愛し、あなたもまた皆を愛す。あなたは私の希望の体現、『愛』を示す方そのものなのです!」

「そうかな?」

 まさに狂喜乱舞といった素振りではしゃぐシリウス。一方、ラインハルトはそちらへ顔を向けないまでも、まくし立てるシリウスと会話を成立させている。
 意思疎通することが狂気に通ずるのであれば、ラインハルトのその行いは自らの首を絞めるだけでしかない。
 スバルは焦り、

「お、おい、ラインハルト……そんな風に話し続けちゃまずい。まずい、はず。まずかったと思う。なんでだかは、よくわからねぇが」

「……そのようだね。僕個人の問題じゃない。周りへの影響も考えたら、あまり長引かせるべきじゃないな」

 焦っていたはずなのだが、何に焦っていたのかがわからなくなるスバル。首を傾げるスバルに吐息して、ラインハルトは一歩、前に踏み出した。
 そして、

「ラインハルト?」

「長くは僕ももたない。――だから、すぐに問題を片付けよう」

 言い切った直後、ラインハルトが膝を軽く曲げて跳躍する。
 まるで、目の前にある小さな水溜まりを跨ぐような素振り――だが、それは爆風のような効果を生み、地面を伝う衝撃波に周囲の人間の息を呑ませた。

 その驚きを残し、爆発力をそのまま上昇力へ変えたラインハルトは、

「うふふふ! ああ、なんて規格外――っ!」

 下から突き上げる剣聖の蹴りが、腕を交差して一撃を受け止めるシリウスの体を軽々と、その白い塔のはるか上空へと押し上げていた。


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