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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第五章 『歴史を刻む星々』

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第五章16 『招かれざる客人』


 最高の瞬間を、最悪の方法でぶち壊す。

 赤毛の男の行いは、いわばそういった類の邪悪――否、醜悪だった。
 赤ら顔の男はわずかに酒臭さを漂わせながら、無精ヒゲの浮いた頬をいやらしい笑みを浮かべながら撫ぜる。年齢は四十路前後といったところか。
 そのささやかな仕草と、乱れた身嗜みが必要以上に嫌悪感を誘うのは、その男の素の素材自体は整っているといっても差し支えがないからだ。

 美しいものが、望んだ形とは異なるもので汚されている。
 長身の男の姿には、何故かそういう根源的な嫌悪を呼び起こすものがあった。

「……あんた、誰だよ」

「ああん?」

 座敷の全員が驚きに口をつぐんでいる中、最初に声を上げたのは誰であろうスバルだった。腰の裏に手を回し、スバルはそこにある柄を掴む。
 頭に血が上り、暴力的な衝動がスバルを押し包んでいた。
 そこにはたった今、和解が叶ったはずの不器用な二人の繋がりを邪魔されたことへの憤怒があった。

 どうしてスバルがここまで怒り狂っているのか、それはスバル以外の誰にもわからない。
 友人と、尊敬する人物の和解。違う。
 家族の和解だ。家族がやっと、繋がりを求めた瞬間だった。
 それを――、

「答えろ。あんた、誰だよ」

「……ずいぶんと敵意満々な目つきしてくれんな、ガキ。騎士なりたての分際で、誰にケンカ売ってやがるのかわかってんのか?」

「笑わせてくれんなよ、オッサン。ケンカを売ってんのはてめぇの方だ。言い値で買ってやってんのはこっちの方だぞ」

 いよいよ我慢の限界が近くなり、その場でスバルが立ち上がる。
 隣のベアトリスが、スバルの怒気に反応していつでもこちらの手を取れるように姿勢を傾けたのがわかった。頼りになる相棒は、今のスバルの心に湧き上がる怒りの炎をきっちりと拾っている。
 そんなスバルを見て、男は不愉快そうな顔で乱暴に頭を掻いた。

「うざってえ、ガキだ。おい。剣聖でもユークリウスでもいい。なんならアーガイルでもいいぞ。――この無礼なガキ、ぶった斬れ」

「――――ッ!」

 頭を掻いていた手でスバルを指差し、男は投げやりな声で三人――室内にいたラインハルトたちに横柄に命じる。
 それが戦友、少なくともそう呼べる面々への侮辱にしか思えず、スバルは歯を剥いて男の横っ面を弾こうと動きかけた。

「お言葉ですが」

 だが、その挙動は寸前で割り込むユリウスの声に遮られた。
 いつの間にか立ち上がり、ユリウスはスバルの肩を後ろから軽く掴んでいる。振り向くスバルに軽く顎を引いてみせ、ユリウスは男と向き直る。

「現在、私とフェリス。そしてラインハルトの三名は特務により、本来の役目から離れております。故にたとえ副団長といえど、我々への命令権はお持ちでないはず」

「そそ。フェリちゃんは今、名実ともにクルシュ様の僕をやらせていただいてまーす。ですから、ご命令には従えませーん」

 ユリウスの言葉に便乗し、座ったままのフェリスがクルシュの腕に抱き着いて軽薄な答えを返す。腕を抱かれるクルシュは少し驚いたが、その瞳に強い意思を込めて赤毛の男を睨みつけていた。
 見れば、座敷にいる他の面々の表情も似たり寄ったり、男への敵意を隠していない。当然だ。この場の雰囲気は全員が共有していたもので、その共有していたものをこの男はぶち壊しにしたのだから。
 ただ、

「おーおー、怖い怖い。冗談に決まってんだろうが。いくら俺がお飾りの副団長っていっても、そんぐらいの団則は弁えてらあ」

「お飾りの、副団長……?」

 酒気を纏う男は何がおかしいのか、膝を叩いてユリウスたちの答えを笑う。その会話の中に聞き逃せない単語を見つけて、スバルは眉を寄せて疑問を口にした。
 それを受け、男は再びスバルの方を嘲弄混じりの視線で射抜き、

「そうだよ、お飾りだ。お飾りで嫌われ者の、ルグニカ王国近衛騎士団副団長。『無駄飯食らい』ハインケルってのは俺のことさ」

「無駄飯食らいも嫌われ者も、開き直ってんじゃねぇよ」

「かははっ、こいつは耳が痛え。痛え痛え、痛くて痛くてたまらねえから……その口塞ぐぞ、クソガキ」

「――――ッ」

 細められた瞳に過る昏い闇に、スバルの背筋をゾッと寒気が走った。
 それは強者と相対したときや、白鯨や『魔女』のような圧倒的な存在と接触したときのものとは違う。もっと別の、言葉にし難い感覚だ。
 それをスバルは身近に知っていた気がする。しかし、とっさにそれが何であったのかを思い出すことができない。
 逃れられない嫌悪感だけがスバルを掴み、耳鳴りのような錯覚を呼んだ。

「落ち着きたまえ、スバル。副団長の空気に呑まれてはいけない」

 頭をふらつかせるスバルに、傍らのユリウスが声をかける。
 それを聞いた男――ハインケルは陰気な笑みをユリウスへ向けて、

「はんっ。さすがは最優。模範的で、お行儀のいい回答だ。そこに騎士としての実力も備われば、そりゃあ正統派として尊敬も集めるってもんだ」

「お褒めいただいたものと受け取らせていただきます、ハインケル副団長。……時に今回は、どういった理由でこちらへ? 副団長のお役目は王都王城の守護、そうであると記憶しておりますが」

「嫌味言うんじゃねえよ。俺一人いなくなったところで、王城の警備に何の影響があるってんだ。マーコス団長様がきっちりやってくれるだろうよ。それで追っつかねえってんなら……ああ、それで被害に遭う王族はもういねえんだったな」

「ハインケル!」

 立場を思えば不敬極まりないハインケルの発言。
 それを聞き、ハインケルの名で怒号を上げたのはヴィルヘルムだった。

 剣鬼は凄まじい形相で、立ち尽くすハインケルを睨みつける。わなわなと唇を震わせるヴィルヘルムに、ハインケルは肩をすくめた。

「ハインケル……」

「一回呼べばわかりますよ。耳が遠くなるほど歳を食っちゃいません。まあ、酔っ払いの戯言だと思って聞き流してくださいや。――それより」

 苦々しいヴィルヘルムの声。ハインケルは自分の耳を指でほじりながら、青い双眸の片方を閉じる。そして、開いた方の目でヴィルヘルムを見つめて、

「薄情じゃねえですか。『白鯨』討伐のお祝い、俺からも述べさせてもらいたかったってのに素通りだもんな。十四年もかけた大仕事だ。俺にだって祝わせてもらって、その喜びを共有する権利はあるってもんだ。そうだろ、親父殿?」

「ハインケル、私は……」

「ラインハルト! お前もそうだろ?」

「――――」

 悪意を塗り込んだような顔つきで、ハインケルはヴィルヘルムの心を抉る。
 老人の表情を刃に斬られた痛みが走るが、ハインケルはそれに構わない。抗弁しようとする声を遮り、次に悪意の矛先を向けるのはラインハルトだ。
 それまでずっと、黙って事態の推移を見守っていたラインハルトが、自分の名を呼んだハインケルの方をゆっくりと見上げる。

「お前も親父殿のおかげで肩の荷が下りたんじゃねえのか? 妻の仇、母の仇、祖母の仇を討った偉大なお祖父様だ。労いの言葉の一つでもかけてやったんだろ? なにせ……」

「――――」

「――お前が死なせた先代様の、その敵討ちをしていただいたんだからなぁ?」

 ――前言を撤回しよう。
 ハインケルの形相を、悪意を塗り込んだようなものと表現したがそれは誤りだ。

 【悪意】そのものだ。
 ハインケルの言葉には、形相には、態度には、声には、仕草には、視線には、彼という存在を表現し得るこの場の全ては、ただ【悪意】とそう呼ぶ他にない。
 純然たる悪意だけが、ハインケルの行い全てに込められていた。

「死なせた先代……?」

 ぽつりと、スバルが口にできたのはもっとも耳に印象的に残った言葉だ。
 他にも意識のとっかかりはいくつもあった。だが、物事の順序を理性で選ぶまでの余裕がなかったスバルが、とっさに拾ったのはその部分だった。
 そしてそのつけ込める隙間を、悪意は決して見逃さない。

「そうさ、死なせた先代だ。てめえがどんな物知らずだかは知らねえが、さすがに『剣聖』って立場ぐらいは知ってんだろう? こちらにおわす今代『剣聖』様は歴代最強最高なんて言われちゃいるが、その立場は先代……自分の祖母を死なせて、それで奪ったもんなのさ。ひた隠しにされちゃいるけどよぉ」

「やめろ、ハインケル! お前は……お前という奴はどこまで……っ」

「綺麗事ならやめてくれよ、親父殿。他でもない、あんたにだけは俺を非難する資格はねえはずでしょうが。先代を殺したと最初にラインハルトを詰ったのは、他でもないあんたなんだからな」

「――――ッ」

 ハインケルの言葉には、この世の憎悪と呪詛を煮詰めたような悪辣さがあった。
 そしてその内容もまた、聞くに堪えない罵詈雑言の類に他ならない。

 ラインハルトが先代を殺めた。ありえない。
 ヴィルヘルムがそんなラインハルトを口汚く罵った。ありえない。

 だってラインハルトにとって先代は。
 そしてヴィルヘルムにとってラインハルトは。
 だから、そんなことがあるはずないのに――。

「――――」

 ラインハルトも、ヴィルヘルムも、口を閉ざして否定しようとしない。
 何故だ。一言、違うと言ってくれればいい。出鱈目なんだと切り捨ててくれれば、スバルは迷いなくそれを信じることができる。
 戦友と尊敬する恩師。酒臭い悪漢。どちらを信じるのかなど悩む必要もない。
 だから、二人には一言、スバルを信じさせる言葉を発してほしかった。

「都合が悪くなればだんまりか。十四年もそうしてきたんだ。てめえも、親父殿も何も変わっちゃいねえのさ。変わってねえなら、仲直りだってできるはずがねえ。そんな都合のいいこと、テレシア・ヴァン・アストレアが許すかよ」

 沈黙が落ちる座敷で、ハインケルの冒涜だけが響いている。
 名を出された先代剣聖――ヴィルヘルムの妻にして、ラインハルトの祖母。そしておそらく、ハインケルにとっては、

「死んだ母さんは俺たちを呪ってる。三代揃って、俺たちは許されねえのさ」

 ラインハルトの父親にして、ヴィルヘルムの息子。
 ここまでのハインケルの言動から、スバルは正しくその素性を理解していた。

「ハインケル・ヴァン・アストレア……」

 口にしてみて、その名前の響きにしっくりくるものを感じる。
 間違いなく目の前の男は、アストレアの家系に名を連ねる人物だ。その人間性がどこまでも、スバルの知るアストレア家の真っ直ぐさとかけ離れていても。

「ヴァンを付けるな、ガキ。生憎、俺はその栄誉に与ってねえ。名乗るときはハインケル・アストレアだ」

「……?」

 苦々しく呟いたスバルの声を聞きつけて、ハインケルが舌打ちする。
 その横顔を過ったのは、あるいはこの場で初めて見せるハインケルの痛みだ。家族を罵るときには昏い悦びだけを浮かべていた瞳に、今初めて痛みが走る。
 ――それがなんなのだと、スバルは即座に切り捨てたが。

「それで……あなたは、何をしにここにきたの?」

「エミリア?」

 ハインケルの目に余る言動の数々に、皆が衝撃に震えていた。
 しかし、その場で立ち上がり、最初に彼の行いを非難したのはエミリアだった。

 スバルの前に立ち、背に波打つ銀髪を流す少女の声にはささやかな怒りがある。
 エミリアのことだ。場の空気を壊されただとか、ハインケルの無礼な振舞いだとか、そんなものに対して怒りを感じているわけではない。

 彼女が本気で怒るときは、いつだって他人の感情を推し量ってだ。
 ラインハルトとヴィルヘルムが傷付いたことが、彼女にだってわかっているのだ。

「私たちは今、楽しく食事をしていたところだったの。それをわざわざこうやって台無しにして、あなたは何をしたいの?」

「……これはこれは。あなたがエミリア様で。お噂は耳にしておりますよ。勝ち目のない戦いに担ぎ出された、可哀想な半魔のお姫様なんて」

「あなたが私をどう思ってるか、それはいつかお話したいと思うけど、今はその話はしてないわ。私が聞きたいのは一つだけ。あなたは、何しにここへきたの」

「――――」

 挑発的な物言いでエミリアを乱そうとしたのか、思惑を外されたハインケルが鼻白むのをスバルは見取った。エミリアの冷静な態度には、室内にいた他の陣営のものたちも少なからず驚きを覚えた様子だ。
 昨日から今に至るまで、エミリアが見せた純真無垢な姿との違いを目にすれば当然の驚きだろう。その驚きを誘うために、彼女はあえて天真爛漫な乙女を装っていたのだ。嘘だ。素である。

「ここへ私たちが集まることは、アナスタシアさんが決めたことだったわ。全員が一度に集まれたのは偶然だし、そんな機会をあなたが狙っていたとも思えない。あなたが近衛騎士団の偉い人だったとしてもそう。どういうことか、教えて」

「ちっ。聞いてた話と違うじゃねえかよ……」

「答えて」

 舌打ちし、頭を乱暴に掻くハインケルはエミリアに気圧されている。
 エミリアは怒ってはいるが、決して臨戦態勢にあるというわけではない。発される圧力は魔力とは関係なく、ただエミリア自身が持つ才気によるものだ。

「自信満々に乗り込んできて、女に睨まれたぐれーでへっこんでんじゃねーよ。オッサン、ずいぶん格好わりーな、おい」

「そうやねえ。どんな面白い話が聞けるんかと楽しみにしとったのに、これなら歌姫さん観察してる方がよっぽど奇想天外で面白いやないの」

「まあ、そうなんですか? でしたら無粋な殿方にはお帰りいただいて、ぜひとも噂の歌姫様とひと時をご一緒したいものですね」

「――――ッ」

 エミリアに続き、フェルト・アナスタシア・クルシュの援護射撃が入る。
 ハインケルと向かい合うエミリアと同じように、三人からも同等の覇気が無粋な乱入者へ向けて放射され、四者から威圧される彼は頬をわずかにひきつらせた。

 役者が違う、といえばいいのだろうか。
 肩書きと、関係者としての立場と比べて、ずいぶんと卑小なことだ。

「お気は済みましたか、副団長。もしも仮に他のご用がないのであれば、この場は辞していただくのがお互いのためかと存じます」

 ハインケルの顔色と、部屋の女性陣の態度。
 両方が熟したのを見計らい、ユリウスがハインケルに助け舟を出す。スバルはできればこの場でハインケルの心を折っておくべきだと考えたが、それは今も顔色の優れないラインハルトとヴィルヘルムを見て取り止めた。
 事情を正しく把握していない身で、性急すぎる決断だと己を戒めて。

「う、く……」

「副団長。ご決断を。できるなら、これ以上は何も口にされない方がお互いの……」

「――その必要はないぞ、凡骨」

 その声は異様に艶めいて、そして全てを見下す傲岸さで満たされていた。
 聞いたものを身震いさせるような圧巻の声音は、声の主が自身に抱く絶対の優越感を他者に対して無理矢理に押しつけてくる。
 常識感を押しのけ、新たなルールを刻み込むような蛮行――それがまかり通ってしまうのは、それに反感も反論も許さない傑出した存在感あってのことだ。

 座敷の全員が顔を上げ、ハインケルが立つ襖の向こうに目をやる。
 廊下を踏みしめて誰かがこちらへやってくるのに、皆の意識が集中していた。すでにハインケルのことなど、誰も意識の中にない。
 あるのはただ、廊下を歩いて迫る太陽のような熱への警戒のみ。

「有象無象、顔を揃えておるようじゃな。妾が顔を出す舞台をよくぞ用意した。その点のみ、貴様らの行いを褒めてやろう」

 大胆に胸の開いた、血のように赤いドレスの裾を翻し、扇子で口元を隠すいかにも悪女なその振舞い。豊満に過ぎる胸を抱いた腕で持ち上げ、白い肌を惜しげもなく誇示するような妖しげな仕草。
 真紅の瞳は何もかもを炎で舐るように睥睨し、蠱惑的な雰囲気は常世の雄に類する全てを魅了して虜にする魔性の顕現であった。

 一度見れば忘れない、その暴力的な美貌。
 美しいことも度を過ぎれば暴力となる。彼女の存在は、それを教えてくれる。

 少女の名はプリシラ・バーリエル。
 本来ならこの宴に招かれていなかった、五人目の王選候補者であった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「しかし、アレじゃな。今日も今日とて辛気臭い顔が辛気臭い空気の中で固まっておる。貴様らはこの澱んだ空気が好きなのか? それとも貴様らが顔を合わせると、漏れなくこうした空気が漂い出すものなのか? だとしたら不憫よの」

 部屋の中を見渡して早々に、プリシラは顔をしかめてそんな言葉を漏らす。顔の前を扇子で煽ぎ、こちらを挑発する仕草のおまけ付きでだ。
 その唐突な登場に言葉の出ないスバルたちは、無防備に彼女の侮蔑を正面から受けるしかない。

「反応の悪い連中じゃ。妾がこうしてわざわざ足を運んだのだ。揃って床に額をつけ、妾を崇めて称賛するのが正しい礼儀というものじゃろう」

「……どこの宗教法人の主神気取りだ。そんな光景、お前が実際に王様になったって実現しねぇよ」

「ふむ?」

 プリシラの身勝手な暴論に、スバルは思わず口を挟んでしまう。と、その呟きを聞きつけたプリシラが首を傾げ、スバルを赤い瞳が絡め取る。

「なんだよ」

「……誰じゃ、貴様。ここは身の程知らずにも、妾と王座を競おうという愚か者が集う部屋と聞いている。その者らを除けば、あとはそやつらに臣従する見る目のない連中がおるだけのはずじゃが、何故に貴様のような凡俗が紛れておるのか」

「マジかよ」

 わりと本気で剣呑な敵意を向けられて、スバルは脱力して呟いた。
 冗談めかした素振りもなければ、こちらを嘲笑う気配もない。つまり、素だ。プリシラは心底本気で、スバルという存在を忘却している。
 一年間の空白があるとはいえ、それなりに印象深い出会いや付き合いをしたはずのスバルのことを、あっけらかんと。
 まったくもって、プリシラらしいといえばらしい態度だが、それを心から歓迎できるほど状況も心境も良いものではない。

「姫さんよ。いくらなんでもそれはひどくね? そら姫さん的には取るに足らないかもわかんねぇけど、オレにとっちゃそこそこ兄弟は面白げな相手なんだぜ?」

 と、そんな最悪に最悪をブレンドしかけた空気を割って、軽薄な声が飛び込んだ。
 声はどこかくぐもり、おまけにカチカチと金属的な音を伴っている。のしのしと音を立てて廊下を抜け、プリシラに並ぶのは隻腕の男だ。

 その頭部を漆黒の兜で覆って顔を隠し、山賊のような粗野で荒々しい格好をした奇抜な男。プリシラの従者であり、スバルと同じ異世界からの召喚者アルだ。
 当然だが、主に同行してきたらしい彼はプリシラとスバルの間に割って入り、

「ほら、覚えてっだろ? 忘れてるかもだけど、城での所信表明のときに大勢の前で馬鹿やらかした奴がいたじゃん? あのときの奴だよ。姫さんも散々、腹抱えて大笑いしてたじゃんか」

「記憶にない。そもそもじゃ、アル。妾が腹を抱えて大笑いすることなどあるはずがなかろう。妾の如く貴き存在を、そこらの町娘のような気安さに貶めるでない。貴様であろうと、次は容赦なく首を落とすぞ」

「だってよ、兄弟。悪ぃが力不足だった。また頑張って仲良くなってくれや」

「お前もうちょっと一年間で発言力増やしておけよ!」

 早々と主の意識改革を放り投げ、スバルに詫びてみせるアル。「めんごめんご」と謝る姿にはこの一年の変化が感じられず、スバルはため息をつく他にない。
 軽々しいままに中年を迎えた、といった感じのアルからすれば、一年間で大きく変わることなどどだい無理なのかもしれないが。

「遅いじゃねえか、プリシラ嬢。あんた、いつまで俺に一人でやらせる気だったんだよ。すぐにくるって聞いてたから俺は……」

「囀るな、凡骨。妾が踊れと命じれば、止まれと言われない限り死ぬまで踊るのが凡俗の務めである。それを履き違え、妾を正そうなどという勘違いは死に値する」

「ぐ……」

 一方、場の空気が変わったことを察したハインケルが、すぐ後ろに立つプリシラに向かって食って掛かる。が、その訴えもプリシラ相手では梨の礫だ。
 ハインケルは話の通じないプリシラに窮した様子だが、スバルは彼女らの会話を聞いて目尻をつり上げる。

「プリシラ。そいつを連れてきたのは、お前か?」

「そこな凡俗。貴様、誰の許可を得て妾を呼び捨てにしておる。慈母の如く寛大な妾であっても、度し難さに対する限度は持っておるぞ」

「姫さん」

 スバルを見る目に残酷な色を宿すプリシラを、アルが短く呼ぶ。すると、プリシラは片目をつむり、小さく吐息をこぼした。

「どういうわけか、貴様は妾の従者に妙に気に入られておるようじゃ。その命、繋がることをアルに……いや、アルに感謝の必要はない。妾を崇めよ。それでチャラじゃ」

「……寛大な心遣いありがてぇよ。それで、質問の答えは」

「この凡骨を連れ出したのが妾かどうかか。ならばその疑いは正しい。その通りじゃ。これは妾が呼びつけ、ここに送り込んだ」

「何のために!」

 肯定するプリシラに、スバルは声を上げて目的を問う。
 招かれざる客人と、その客人がさらに引っ張ってきた招かれざるにも程があるほどの客人だ。そこに何の意図が働いたのか、せめてそれだけでも知る必要がある。
 しかし、そのスバルの問いに対してプリシラは首を傾げ、

「しいて言えば、それが面白そうじゃったからじゃな」

「……面白そう?」

「そうじゃ。歪んだ家族模様と人間関係が引き起こす悲喜こもごも。実に醜悪な演目として心が躍る。実際、見物だったであろう? 剣聖と剣鬼が揃って人間の顔を覗かせるなど、そうそうあるものではない」

「プリシラぁ!」

 悪辣を上回る外道の物言いにスバルは激昂した。
 プリシラの言う通り、ラインハルトたちの葛藤は滅多に見れるものではない。そして本来なら、永遠に見る必要のなかったほどの苦界でしかない。
 二人の人間的な顔ならば、ハインケルが割り込まなければそれでよかった。それだけで二人は、祖父と孫という当たり前の関係に戻れたのだ。
 それを――、

「やめろ、兄弟。ここでオレらがやり合っても益がねぇ。姫さんの性格が悪ぃのはいつものことだ。運が……星が悪かったと思って見逃せや」

「主人の性格の悪さがわかってるなら、お前の方でちゃんと手綱を引けよ。暴れ馬を暴れさせておくだけなんて、無責任にもほどがある」

 前に出ようとするスバルを隻腕で押しとどめ、アルがゆるゆると首を横に振る。片腕の彼が腕でスバルを支えれば、とっさに剣を抜けないのは自明の理だ。
 つまり彼はその行い一つで、自分に争う気がないことを表明している。

 それに気付いて長い息を吐けば、スバルは決戦覚悟で血気を逸らせているのが、室内で自分だけであることに遅れて気付いた。
 候補者たちはもちろん、ユリウスやフェリスにも事を荒立てる様子はない。
 当然だ。この場に集うのは、恐れ多くも王国の次代を担うことになる玉座を得る可能性を持つ星々――それが怒りに任せて傷付け合うなど、誰も望みはしない。

「でもそれなら、心はいくらでも傷付けられてもいいっていうのかよ……!」

「スバル……」

 堪え切れない怒りを舌に乗せるスバルを、エミリアが儚く瞳を揺らして呼ぶ。袖を引かれる感触に気付けば、ベアトリスもスバルの手を握っているのがわかった。
 二人のその気遣いを受けて、スバルはがっくりと首を落とす。

「駄犬の遠吠えは終わったようじゃな。妾も今日は純粋に、貴様らの吠え面が見たくて顔を出したまでよ。その目的が果たせた以上、ここにもう用はない」

「そらまたご立派な姿勢やね。……ウチ、あんた様にだけは話はせんかったはずなんやけど、どこでこの集まりのこと聞いたん?」

 掻き回すだけ掻き回して、プリシラはさっさとこの場を後にしようとする。その先手を打ち、足を止めさせたのはアナスタシアだ。
 アナスタシアは口調こそ柔らかだが、そこに明らかな警戒を響かせ、

「うっかりと口にしてまうような子、うろつかせてないはずなんやけど」

「建前で会話するな、耳が腐る。そこそこに頭の回る女狐ならわかっておろうが」

「おや。ウチのことは凡庸だの凡俗だのとバカにせぇへんの?」

「見るべきところのないほど愚図なら、凡俗と一緒くたに括るまで。まさか妾の対立候補として立つ貴様らが、そこまで愚物であるなどと思わせてはくれまい?」

 互いに挑発し合う二人――もっとも、プリシラの方は通常営業で、特段に言葉を飾ってアナスタシアを挑発する意図はないのかもしれない。
 アナスタシアは首元を飾る襟巻きの毛並みをゆったりと撫で、

「情報は洩れんよう、気ぃ使ってるはずなんやけどなぁ……」

「何事も誰ぞの耳に入れば必然、締まりのない口から洩れるものじゃ。知るものが増えれば穴が増えるのも自明の理であろう。他のものの動向に目と耳を傾けておるのは貴様らだけではないということよ」

「あんた様はそういう、地道な諜報活動でウチらを顧みるようなことはしない人やと勝手に思い込んでたわ」

「耳元を飛ぶ羽虫は叩くもの。にしても、位置が知れねばどうにもなるまい? 目と耳で虫を追うのは妾とて同じじゃ。なれば貴様らへの対応も同じである」

 対立候補のことごとくを羽虫扱いして、プリシラは抜かりはないと言外に示す。
 スバルもまた、アナスタシアと同意見だった。プリシラがまさか、敵対陣営に対して的確な対策を練り、実行に移しているとは思わなかった。
 その油断の結果が、今日の最悪を呼び寄せたのだ。

「そのオッサン、ラインハルトの親父だろ?」

 と、それまでの話の流れを無視して、蓮っ葉な声が別の話題を呼びつける。
 一堂の視線を浴び、なおもダイスキヤキにかぶりついているのはフェルトだ。少女は口元をソースで汚しながら、自分を見る視線の中からプリシラのものを選び、睨み合う。

「城で馴れ馴れしくされた覚えがあるし、さっきの会話でなんとなくわかってらぁ。別にこいつの家族関係なんざ興味ねーからどーでもいいよ。ただ、そのオッサンがアンタと一緒にいるのは話が別だ」

「……ほう。たかだか貧民街の小娘風情が、なんぞ気付いたというのか」

「悔しいけど他人事じゃねーからよ。アストレア家の家督ってやつは、アタシらにとっちゃ生命線でもある。なんせそいつはまだ、ラインハルトに譲られちゃいねーんだ。家の実権自体はまだ、そのオッサンの手元にある」

 フェルトが口にした内容に、隣のラインハルトの頬がほんのわずかに強張った。
 そしてスバルたちにも正しく、フェルトの懸念の意味が伝わってくる。

 孤児として育ち、何も持たないフェルトはラインハルトの実家――アストレア家の領地を基盤として活動し、少しずつ結果を出してきている真っ最中だ。
 だが、その領地はどこまでいってもフェルトのものではない。あくまでそれはアストレア家のものであり、ラインハルトからの借り物だ。
 しかしそのラインハルトの持ち物と認識している、アストレア家の領地すらも実は借り物の借り物であるにすぎないとしたらどうなる。

「へっ。どうやら事の重大さにやっと気付いたみてえだな、ウスノロ共が」

 そこで会話に割って入るのは、我が意を得たりとばかりに笑うハインケルだった。彼はまさにその話題を待っていたようで、舌舐めずりしそうな顔つきでフェルトとラインハルトを交互に睨み、

「そういうことだ。アストレア家の家督は、この俺が握ってる。俺はそれをラインハルトへ譲ったつもりも、譲るつもりも毛頭ない。お国のことで大忙しの剣聖様にそんな煩わしいお仕事、お任せするなんてとてもとてもだからな!」

「領主ってのは名ばかりでも成立すんのかよ。アタシらがアストレア領に戻ったとき、ひでー有様だったぞ。少ねー文官と使用人が血眼になって色々やってんだよ。それをほったらかしにしといて、今さら領主が名乗れんのか?」

「名ばかりだろうと無責任だろうと、領主の冠は俺の頭の上にある。それに破綻しかけてても破綻はしてねえんだろ? 領民も使用人も、領主を支えようと必死だったわけだ。はんっ。領民に愛される領主様は本当に嬉しくて涙が出るよ!」

 極力、感情を殺して語るフェルトを、ハインケルは際限なく嘲弄する。
 あまりに下劣で悪辣な言葉に、目の前が怒りで白くなる錯覚さえスバルは覚えた。部屋の中に立ち込める、怒りと嫌悪の視線。
 その嵐の中で、軽蔑の雨を浴びるハインケルは喝采を浴びた顔だ。
 はっきりとそれを見て理解する。この男は、完全にイカれている。

「お前の危機感は正解だぜえ、ラインハルトのご主人様よ。アストレア領は俺の領地だ。そして俺はお前を支持しない。俺が誰を支持するかは見ての通りだ!」

 嫌悪と侮蔑こそが万雷の拍手に値するとばかりに、胸を張って大舞台を演じるハインケル。彼は傍らのプリシラを手で示し、自分が息子とも父親とも異なる相手を王位に推すと高らかに宣言した。

「この一年、お前らの成果は聞いてるぜ。領主の俺に代わり、アストレア領の再興は実にご苦労だった。その成果を見事なものだったと認めた上で、言ってやる。――そこは今後、お前らの居場所じゃない。それがわかったらとっとと……」

「これ、凡骨」

「――ああ? なんだ、プリシラ嬢。俺は今、大事な話を」

「うるさい」

 直後に起きた暴虐に、誰もが息を呑む他になかった。

 短く言い捨てたプリシラは、目を丸くするハインケルに向けて扇子を一閃。畳まれた扇子は風を切り、ハインケルの赤毛の頭頂部を直撃し、その長身の体を床へと凄まじい勢いで叩きつけた。
 ハインケルはその衝撃に白目を剥き、一撃でその意識を刈り取られる。が、プリシラの挙動はそれだけに留まらない。

 地面にうつ伏せに大の字のハインケルを、プリシラは爪先で蹴り上げて宙へと浮かび上がらせる。そしてそのまま腕を引き、その勢いをハインケルの胴体へぶつけようと――。

「姫さん、癇癪もそこまでだ。それ以上は死んじまうよ」

「――――」

 振り切られる直前のプリシラの腕が、手首を掴まれて動きを止めた。それをしたのはプリシラの蛮行を予期していたアルであり、その従者の行いにプリシラは剣呑な目を兜の男へと向ける。
 そのアルが止めた腕には、いつの間にか刀身の赤い真紅の剣が握られている。
 刃渡りの長い西洋剣だが、波打つ炎のような刃紋の入った逸品だ。一目で尋常ならざる出来とわかるその剣は、瞬きの合間にプリシラの手に生まれ、そして消える。

 それを見届けて、アルはゆっくりとプリシラの腕を解放した。

「ったく、勘弁してくれや。陽剣まで抜かれたら心臓に悪ぃ……ぶんどきっ!」

「無礼であるぞ、アル。誰の許しを得て、妾の玉の肌に触れておる。女日照りで情欲を滾らせるのは勝手じゃが、妾を汚そうなどと夢想の果ての夢想よ」

 解放された腕でアルの土手っ腹を打ち抜き、従者を悶絶させるプリシラ。彼女は鼻を鳴らすと、哀れにも床に再び転がるハインケルを見下ろした。
 その瞳を過る感情の酷薄さの、なんと恐ろしいことか。

「じゃが、アルの言葉にも一理ある。殺すのは少し、短慮に過ぎたか」

「そう思ってくれるなら……もっと、優しくしてほしかったかなぁ、オレ」

「言うな。妾とて鬼ではない。あとで褒美に足を舐めさせてやろう」

「オレがそれを喜ぶ性癖があるみたいに言うのやめてくれる!? 誤解招くから!」

 殴られて膝をつきながら、必死で抗弁するアルにプリシラは取り合わない。彼女は血の色をした瞳でハインケルを眺めて、おそらくは捨てるかどうかしばし迷ってから手を叩いた。

「シュルト。そこな凡骨を運び出せ。愚図ではあるがまだ使いようはある。引き入れる手間も考えれば、まだ吐き捨てるには惜しい」

「はい、プリシラ様」

 彼女の呼びかけに応じて、またしても別の人物が座敷に姿を現す。
 どうやらずっと廊下に控えていたらしいその人物は、まだまだ背丈の伸び切っていない幼い少年だった。

 桃色のふわふわした巻き毛に、女性と見間違うほどに線の細い体つきと整った顔。声の高さも声変わりがまだきていないことを証明しており、未発達の体を執事服に包む姿がどことなく背徳感を漂わせている。
 シュルトと、そう呼ばれた少年はおそらくはまだ十代前半。見た目だけでいえばベアトリスと同年代ぐらいだろうか。

「失礼します、ハインケル様」

 気絶するハインケルに律儀に声をかけ、シュルトはその両足を掴んで引きずりながらえっちらおっちら外へと連れ出す。当たり前だが、長身のハインケルを子どもが運ぶのに無理があるのだ。が、シュルトはプリシラの命令に不平の一つもこぼさず、彼女に従うのが当然といった態度でハインケルを引きずっていった。

「シュルトちゃんはいつでも健気だねぇ。姫さんも後で褒めてやんなきゃ」

「当然じゃが、アレは常に妾に全霊で仕えておる。そして妾は忠臣に対して無体にするほど無慈悲ではない。シュルトにも後で足を舐めさせてやろう」

「シュルトちゃんの場合、冗談じゃなしに涙目でやりそうだからやめてやって。もっと常識的にご褒美になることしてあげて」

「ふむ。ならば妾に抱かれて添い寝する栄誉じゃな」

「……まぁ、それならいいか。オレが代わってほしいぐらいだ」

 出ていくシュルトとハインケルを見送り、プリシラとアルが気抜けする会話。
 そうしてようよう、部外者を外して王選の全陣営が顔を合わせたといえるだろうか。

「それで、さっきのオッサンの話はどうなる? テメーらは本気でアタシらをアストレア領から追い出して、そんでアタシらを削ろーってのかよ」

「あのような凡骨の言葉を真に受けるでない。そも、領地の立て直しを実行したのは貴様らであろう? であれば、形だけの領主が屋敷に戻って貴様らを追い出したとしても、付き従うものなどどこにある。民衆は愚かな蒙昧じゃが、情も恩も感じない心のない駒とは違う。乗せるにはそれなりの波がいる。アレに波は起こせん」

「……じゃぁ、なんでアイツを引っ張ってきてんだよ」

「言ったはずじゃぞ。そうした方が面白くなると思ったからとな。いずれ全ては妾の手中に収まることは決まっておる。なれば道筋は愉快かどうかだけで選ぶ。それが妾の決定である。アレを連れ込んだのも、そうするための遊具に過ぎん」

 どこまで身勝手で、決して曲がらない持論。
 プリシラの抱く絶対的な自信は、あらゆる常識を飛び越えて理不尽を押し付ける。それに対してできることは、諦めて臣従か、同等の想いで相対するかのみ。
 そして、

「――――」

 この場にいる彼女の対立候補四人は、後者で相対することを躊躇わない。
 その視線の波を受け、プリシラは心底嬉しげに笑った。

「それでよい。いずれ来る成果は約束されておる。ならば道筋は愉快であればあるほどよい。妾を湧かせよ、凡庸よりはマシなものども。そうして妾の敵になるまで肥え太れば……そのときこそ、妾も全力を持って迎え撃つのみじゃ」

 いまだ敵としてすら認めていないと、そう断ずるプリシラ。
 否、彼女はすでに言っていた。彼女はまだ、エミリアたちを羽虫同然と思っている。敵としてすら認識していない。
 ならば、

「その驕り、泣いて後悔させてやるよ」

 真っ向から啖呵を切ったフェルトの言葉が、この場にいる全員の総意だった。


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