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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第五章 『歴史を刻む星々』

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第五章14 『月下の剣鬼』


 互いが政敵であることなど忘れて、全員が湧いた晩餐会。
 夕食を終えて客室に戻ると、部屋にはすでに留守の間に従業員が敷いてくれた布団が準備されていた。二つ並んで布団を眺めて、スバルは旅館的な手際の良さに内心で舌を巻いたものだ。
 ホテルなどでもそうだが、この手の宿泊施設は滞在者が部屋を空けている間に、こうして布団やシーツ、タオルなどの準備を改めて整えてくれていることが多い。
 不思議なほど無防備な習慣だ、と常々思うのだが。

「スバル。どうやらベティーたちがいない間に、不逞の輩が部屋に忍び込んでいったらしいのよ――!」

「ああ。丁寧に布団敷いて、お前が乱したタオルとかちゃんと畳み直してくれてるな」

「これは……! そう、ベティーたちの油断を誘うための罠に違いないかしら。周到で抜け目がない奴らなのよ」

「たまには相手の無償の善意を信じてみようか。まぁ、無償ではないけど」

 勤勉な職業意識の表れに無用な警戒心を抱くベアトリスを宥めて、スバルは眠そうに目をこすっているベアトリスをさっさと寝かしつける。
 ちなみに、正式に契約を交わして以来、スバルとベアトリスの部屋は同室がデフォルトだ。アナスタシアはベアトリス用の客室を用意すると申し出てくれたのだが、どうせ夜の内にスバルの部屋にやってくるのはわかっているので謹んで辞退した。
 これは別にベアトリスが一人で寝るのができないお子様というわけではなく、純粋に寝ている間にオドから生成されるマナの量が多く、ゲートが不完全なものになったスバルの体調を慮っての計らいであった。

「だから、ベティーがスバルの傍にいたいからではないのよ。誤解したらいかんかしら」

 とは、契約を交わした当初のベアトリスの意見である。
 真意がどこにあるのかはこの際はもうどうでもいい。スバルもこの一年間で、自分以外の寝息が聞こえる夜にすっかり慣れてしまったからだ。

「……この緑の塊は毒なのよ。食べたらタダじゃ済まないかしら……」

 そこそこに楽しみ、そこそこに疲れたからだろう。布団に入ったベアトリスは早々に夢の中に引きずり込まれて、今は夕食の席でトラウマになったワサビにうなされている。
 顔をしかめているベアトリスの額を撫でて、スバルは可愛らしい相棒の寝顔を十分に堪能してから立ち上がった。

「さて。俺も風呂に入って、今日はゆっくり休ませてもらいますかね」

 スバルの布団の枕元には、スバルが着るための替えの浴衣が用意してある。着方がわからない場合は従業員へお気軽に、と部屋へ戻る道すがら言われていたが、こう見えてスバルは浴衣はもちろん、着物の着付けもちゃんとできる。
 何故ちゃんとできるかについては、元の世界で暇に飽かしてとお答えする。

「フェリスとアナスタシアさんがいなけりゃ、俺が女性陣みんなの着付けとか担当して役得ってのもできたんだけどな」

 無論、エミリアの着付けを担当したかったのが本音ではあるが、王選候補者はいずれも見目の整った美少女揃い。性格に多少の難はあれど、その装いを飾り付けることの楽しみはいずれも引けを取らずに得られるはずだった。

「ま、言っても仕方ない。飯の後、エミリアたんの三つ編みができただけで満足しておこう」

 寝る前に解いてしまうかもしれないが、三つ編みを解いたときに発動する『三つ編みウェーブ!』がスバルの二段構えの狙いだ。髪の天然のウェーブ感はアナスタシアのものも美しいが、エミリアの長い銀髪にもきっと映えると思うのだ。

「三つ編みにしても三つ編みウェーブが発生しても可愛い。エミリアたんは罪な女の子だなぁ、まったく。ベア子じゃこれは楽しめないもんな」

 ベアトリスの髪型は、不思議なことに何をしようとしても縦ロールで固定だ。
 おそらく、人工精霊としての生み出された経緯に原因があるのだろう。無理くりに違う髪型をさせるのは不可能ではないのだが、束ねたものを解いた途端に縦ロールに戻る。それはそれで見物なので、何度か遊ばせてもらっているのだが。

 明日の朝を楽しみにしながら、スバルは浴衣を持って静かに部屋を出る。
 ベアトリスを起こさないように注意して、板張りの床で懸命に音を殺しながら。少し不用心な気もするが、今日の旅館の宿泊客を考えれば、侵入を試みようとする悪漢の方がかえって可哀想になるラインナップである。

『何もないとは思うけど、この区画の中で何かおかしなことが起きれば僕が察するよ。夜は安心して過ごしてほしい』

 とは、座敷で別れたラインハルトの心強い言葉だった。
 『旅館の中』に限定せず、『区画』と言い切ったのが心強すぎて逆に怖い。彼の性格からすると、『都市』と言いたいところを謙遜した可能性すらあった。

 なので、スバルはひとまず何の警戒もしないで旅館の中を歩く。心はすでに大浴場の方へ向いており、露天風呂でないことの残念さはあるが、旅館ならではの楽しみが風呂にはあるとスバルは考えている。

「――――」

 その足が止まり、ふやけた顔が表情を変えたのは、庭園を望める縁側を通ったときだ。
 夕方にはラインハルトとガーフィールの立ち合いがあったその庭園は、夜になるとまたその趣を変えて見るものの目を楽しませる。
 丸い月が黒い空に浮かび、月にかかる雲の厚みが妖しげな魅力を空に与える。涼やかな風が吹く庭園、そこに一人の人物が立ち尽くしていた。

「――ヴィルヘルムさん?」

 たくましい背中と、白く染まった頭髪。
 後ろ姿でも浴衣が似合うと一目でわかる老人は、スバルの知る限り一人だけだ。

「スバル殿ですか。驚かせてしまいましたかな?」

 人が通る気配にとっくに気付いていたのだろう。呼びかけに振り返るヴィルヘルムは、その表情を柔らかなものにしてスバルの方を見た。
 浴衣の袂に手を入れて、佇む姿と日本風庭園。何故にこれほど似合うのか。

「これから湯浴みを済まされるところでしたか」

「はい、そのつもりで。ついでに夜の庭が見たいなと思って遠回りしまして。別に見慣れない旅館の中で迷ったわけじゃないんですよ」

「スバル殿がそのようなことはなさりますまい。それに先に庭園の美観に酔い痴れていたのは私も同じ。この光景を期待するお気持ちはわかるつもりです」

「……そう持ち上げられるのもむず痒いものがあるんですけどね」

 掛け値なしの信頼を向けてくれるヴィルヘルムに、スバルは頬を掻いて素直に照れる。
 ヴィルヘルムはこの異世界において、スバルが最も純粋に尊敬する人物の一人だ。並び合いたい、競い合いたいと望む存在は他にも大勢いるが、『見上げていたい』と羨望に近い思いを抱く人物は彼だけかもしれない。
 人としても男としても、ヴィルヘルムはスバルの理想だった。

「スバル殿にとっては悪いことを。夜の庭園の厳粛さに、私のような異物が混じってはさぞや気落ちされたことでしょう」

「んなことないですって。むしろ、剣鬼と和風庭園が似合いすぎて、俺の心のフォトグラフに永遠に刻み込まれる一枚ですよ。月光が映える人、好きなんで」

 スバルの知る限り、月夜が一番似合うのは文句なしにエミリアだ。
 彼女の長い銀髪は、太陽の日差しの輝きとは違う。エミリアの美しさは、儚くも寄り添いたい月光のそれだ。だからスバルは、月に寄り添う星でありたいと思う。
 故に今、月夜に佇む剣鬼の姿は、スバルにはひどく憧憬を思わせるものだった。

「……スバル殿は本当に損な御方だ。そのような心を揺らす言葉、私のような老躯ではなく、女性に囁けばさぞや引き寄せられましょうに」

「俺がこの面構えでキザなこと言っても、蝶々は引き寄せられるどころかバルサン扱いですよ。それに目下のところ、一番女心をくすぐりたい相手にこの手の言い回しはまったく通じないもんで」

「なかなかなびかない女性の笑みを見るために、苦心して言葉を選ぶ……そのもどかしさも恋の楽しみですよ、スバル殿」

 からかうようなヴィルヘルムの口調に、スバルもおどけて肩をすくめる。

「おおう、久しぶりに含蓄のある惚気話に入りそう。ヴィルヘルムさんにもそんな頃があったんですか?」

「聞きますかな?」

「是非に」

 スバルが恭しく作法に則った礼を取ると、ヴィルヘルムは「では、仕方がありませんな」ともったいぶった様子で嬉しげな顔をする。

「今もそうですが、若い時分の私は今以上に口下手で、言葉の足らない男でした。剣を振ることにしか興味を抱かなかったこともあり、剣を振ること以外の話題を持ち合わせてもいなかった。出会った当初の妻には、さぞや退屈な思いをさせたと思います」

「でも、奥さんはそんなヴィルヘルムさんとの話を嫌がったりしなかったんでしょ?」

「妻は懐の深い女性でした。その身に背負った宿業の重さに心を迷わせながらも、責任逃れをしようとも他者を思いやることをやめようともしなかった。最初の頃、妻が私と言葉を交わし続けてくれていたのも、そうした生来の優しさあってのことでしょう」

 思い出に目を伏せるヴィルヘルムは、ただ懐かしむように微笑みを浮かべている。
 スバルは黙って縁側に腰を下ろし、老人の昔語りに耳を傾けた。

「私が口下手だったものですから、妻と会うときはもっぱら彼女が話題を投げかけてくれるばかりでした。その上、最初の私は自分が妻に惹かれていることにとんと気付かず、彼女と話している間、常に感じる胸の高鳴りを忌々しいと思っていた節すらあります」

「ヴィルヘルムさんも、なんだかんだで女慣れしてなかったんですね」

「本当に、剣にばかり己を捧げていました。剣を握った頃の思いも忘れて、没頭することで生きる糧を得るように。――理由を思い出させてくれたのも、妻でしたが」

「奥さんを好きだって気付いたのって、ひょっとしてそのときですか?」

「……スバル殿にはお見通しでしたか」

 力なく口にするヴィルヘルムに、スバルは無言で応じた。
 きっとヴィルヘルムは今、自分がどんな顔をしているのか気付いていないに違いない。そのことがスバルには、その顔を見れることがスバルには、ひどく誇らしかった。

 ヴィルヘルムの瞳が、頬の皺が、声の調子が、仕草が、全てが物語っている。
 彼は今も、出会った当時の妻――テレシア・ヴァン・アストレアに恋をしている。

 老人の顔が、態度が、存在が、妻への愛を惜しげもなく謳っているのだ。
 その顔を見て誰が、彼が恋に落ちた瞬間に気付けないだろうか。
 この世の生きとし生ける、全ての鈍感を集めたとて、誰でもその想いの深さを知る。

 それほどにヴィルヘルムの愛は、あからさまで誇らしいものなのだ。

「――――っ」

 知らず、スバルはヴィルヘルムの顔を見ていて、思わず泣きそうになった。
 込み上げてくるものが堪え切れずに、瞼の奥に熱いものが集まってくる。どうしてこんな風に感じたのかわからない。人の恋する顔を見て、どうしてこんな胸が熱くなる。
 こんなところで泣き出しては、ヴィルヘルムを困らせるだけではないか。

「スバル殿の仰る通りです。私が妻への想いを自覚したのは、そのときでした」

 顔を伏せて、頭を掻くふりをしながらスバルは涙の兆しをヴィルヘルムから隠す。言葉を続けるヴィルヘルムは、スバルの涙に気付いただろうか。
 昔語りに没頭しているのか、それともあえて気付かない素振りを見せてくれているのか、どちらが正解なのかわからないまま、スバルは彼の話に聞き入っていく。

「剣を振ることが、私の全てでした。ですが、剣を振るまでに思ったことも、剣を振ることで思えたことも、私を形作る全てでした。妻は、私にそんな当たり前のことを気付かせてくれた。それからは、剣を握るたびに妻を思い出す」

「それは、今でも?」

「――私と妻を繋いでくれたのは、今も昔も剣でした」

 スバルの質問に、ヴィルヘルムはわずかな間を置いてから言葉を紡いだ。
 月光を背に負って、ヴィルヘルムはスバルと向かい合っている。老人の瞳に過る感情は複雑で、スバルには容易に読み取れない。

 誇らしさがある。悔恨がある。躊躇がある。情熱がある。羞恥がある。勇ましさがある。
 ――でも、その全てに愛があった。

「剣を握る限り、私は妻を思い続けるでしょう。だから私は、死に別れた今でも妻を忘れることはない。私は死ぬとき、剣を握りながら死にたい。私にとってそれは、妻と共にいられるということなのです」

「――――」

 ヴィルヘルムの、それが不器用で真っ直ぐで、それしかできない愛し方なのだ。

 スバルは息を呑み、それから何度も深呼吸を繰り返して動悸を押さえ込む。舌の痺れがなくなり、どうにか口がまともに言葉を喋れるようになったと判断してから、

「死ぬときとか、縁起でもないこと言わないでくださいよ。ヴィルヘルムさんだってまだまだまだまだ若すぎるぐらい若いんだし、隠居することばっか考えられてちゃ困ります」

「スバル殿?」

「クルシュさんだってフェリスだって、ヴィルヘルムさんをすげぇ頼りにしてます。記憶がおぼつかないクルシュさんは大変だし、それを支えるフェリスだって顔には出せないけどきっと必死で、ヴィルヘルムさんが助けてやらなきゃ! それに、俺だって!」

「――――」

「俺だって、ヴィルヘルムさんにはまだまだ教わりたいことがいっぱいある。敵の陣営で、何を甘えたことをって思われるかもしれません。でも、俺は……」

 スバルはヴィルヘルムが好きだった。
 だから、亡き妻への想いを胸に、その仇を討ち果たしたことを男として尊敬している。彼にその気がなかったとしても、繰り返すスバルの経験でもたった十日に満たない師弟関係であっても、スバルはヴィルヘルムに尊ぶべき強さを見たのだ。

 そのヴィルヘルムの口から、『死』を思わせる言葉を聞いたのがことさらに怖かった。
 以前にも増して、スバルは知人の『死』に敏感になっている。それはロズワールとの盟約が理由でもあり、『死に戻り』に対するスバル自身のスタンスが変わったことにもある。
 エミリアやベアトリスが、密かに危ぶんでいる部分でもあった。

「……相変わらず、私は言葉を選ぶのが下手でいけませんな」

 頑なで、必死になってしまったスバル。その声を聞き、ヴィルヘルムが笑った。
 老人は浅い息を繰り返すスバルを穏やかな眼差しで見て、唇を綻ばせたまま、

「大変な失礼と、心労をおかけしました。先ほどはあのように申しましたが、何も死ぬことばかりを考えているわけではありませんよ。一時はそう思い詰めていたことは事実ですが、その峠はどうやら無事に乗り越えられてしまいましたから」

「……ぁ」

 白鯨との一戦のことを言っているのだと、スバルはすぐに気付いた。
 ヴィルヘルムにしてみれば、仇との一戦はまさに命と引き換えにしても惜しくないほどの覚悟で臨んだものだっただろう。あのとき、ヴィルヘルムは死すら覚悟して戦いに挑んでいたのだ。そして、それを乗り越えた今は――、

「調子のいいこととは思っております。あれほど想いを傾けておきながら、命を失わず長らえてしまった。今は生き恥をさらすことすら、恥辱と思えませなんだ」

「ヴィルヘルムさん……」

「必要とされていること、この上なく光栄に思っております。今も昔も、剣を振ることしかできないこの身が、なおも求められる祝福に胸が震えます。お支えしなければならない方々がいて、妻の墓前を参ることができる。私は、恵まれすぎていますよ」

 そう、なのだろうか。
 本当にそうなのだろうか。ヴィルヘルムは、無理をしていないのだろうか。

 穏やかな微笑をたたえる老人の胸の内は、スバルの如き底の浅い若造には見抜けない。その笑みに嘘がないのだと、信じたいと思う自分の弱さを受け入れきれない。
 本当のところは無理をしているのではないか。もしもそうでないのなら、スバルには明かせないような苦しみを抱えているのではないか。
 だが、本当の本心からそう思ってくれているなら、スバルはただヴィルヘルムに不幸な思いを抱えていてほしいと思い上がっているだけなのではないか。

「スバル殿。――あなたのそれは美徳ですが、弱味でもあります」

「…………」

 思い悩むスバルを見て、ヴィルヘルムは静かな声でそう言った。
 そこに笑みの響きはない。だが、不快に思うでも叱りつけるでもない。それはどこか諭すようなもので、年長者が年少者に語り掛けるような。
 もっとありていにいえば、祖父が孫に語り掛けるような声音だった。

「妻にも、そんなところがありました。自分の心を押し殺して、周りにいる人の心を思いやってしまうような、自分を後回しにしてしまうような悪い癖が」

「悪い癖、ですかね。……いや、そもそも俺はそんないい奴じゃないです。みんながみんな幸せになれるようにとか、そんな風に願ったりしたことありません。ただ、俺は俺の周りにいる人だけでも幸せならいいなって思うぐらいです」

「その周りの人、という範囲の問題です。妻は望んだわけではありませんでしたが、一人の女が持つには不必要なほど力を持っていました。そしてその力で届かせることのできる範囲は、彼女が思う以上に遠くまで届いた」

 ヴィルヘルムの妻、テレシアは先代剣聖だ。
 その略歴は簡単ではあるが、スバルもこの一年間で触れることができた。亜人戦争と呼ばれるルグニカ王国内で発生した内乱を、剣聖を襲名して数年で鎮圧した英雄。
 彼女が身に余る力で成し遂げたのは、まさしく国家を救うという功績だ。

 そんな英傑と比較されるほどのものは、ナツキ・スバルにあるはずがない。

「奥さんの話は、わかります。でも、俺にそれを当てはめるのはいくらなんでも」

「平時の妻は、花を愛でるのを好む普通の女性でしたよ。歴史に名を残す英雄、英傑だからとて、常日頃からそうであるわけではありません。そしてスバル殿。あなたの名前も、あなたの手の届く範囲も、今はあなたが思う以上に広がっている。それは今後、ますますそうなってゆくことでしょう」

「そんなこと……」

「私は確信しております。スバル殿は一人で為し得ないことを、一人では為し得ない誰かを集めて、きっと成し遂げてしまう人物なのだと」

「――――」

 絶句した。
 ヴィルヘルムが、どれほど自分を買い被っているのかと、そのことに絶句する。

 そんな大それたことをできる男だと、スバルは信じられているのか。
 スバルは弱くて、頭も悪くて、意思すら弱い半端者だ。一人でできることが何もないから、口八丁手八丁で他人を巻き込んで、その場しのぎを繰り返してきただけだ。
 そんなやり方は、きっといつか破綻する。今はどうにかなっていても、その場しのぎではどうにもならない何かがきたとき、きっと破綻してしまう。

 避けられないそのときがきたとき、スバルは失望されてしまう――。

「申し訳ありません。このようなこと、畳みかけられてもお困りになるだけでしょう。無駄に歳ばかり重ねた人間は、こうした気遣いができずに悔やむことばかりです」

「ヴィルヘルムさん、俺は……」

「今は、まだ自覚が持てないかもしれません。それに気付いていない方々も、あるいは大勢いるでしょう。ですが、いずれ誰もがわかることです」

「俺はちっぽけで、どうしようもないろくでなしですよ」

「ええ。ちっぽけでどうしようもないろくでなしのあなたが、私は好きなのです」

 一拍置いて、ヴィルヘルムは満足げに頷いた。

「そしてそう思う人々は、これからまだ増えることでしょう」

 感じ入るものがあるようなヴィルヘルムの言葉に、スバルは静かに黙り込んだ。
 圧倒されるものがあった反面、それは大袈裟だと笑い飛ばしたい心もある。それでも一方的にそれを切り捨てなかったのは、相手が他でもないヴィルヘルムだからだ。

 頭から信じるわけではない。
 けれど、一方的に否定して切り捨てるようなことでもない。

 スバルは今の話に感じた思いを、消化できるようになるまで抱え込むことに決めた。
 もともと、足りないものだらけを自覚するスバルだ。得たもの、感情、言葉、できる限りは引きずって歩いていこうと、そう決めている。
 このヴィルヘルムの言葉も、その中の一つにしようとそう決めた。

 戸惑いながらも決意するスバルを、ヴィルヘルムが慈しむように見ている。
 その視線に、己を顧みることに必死なスバルは気付かない。

「……少々、喋りすぎましたな。長く足を止めさせてしまい、申し訳ありません」

 スバルの中の葛藤に決着がついたのを見計らい、ヴィルヘルムがそう切り出した。
 それを受け、スバルはこの夜の一幕も終わりへ向かうと判断する。

「俺の方こそ、なんか色々とすいませんでした。奥さんの惚気話、聞きたい聞き出したいって趣旨だったのに」

「いえ。久々に私も満足……には足りませんが、妻のことが語れて嬉しく思っております。最近はクルシュ様にもフェリスにも、なかなか時間をいただけないもので」

「惚気足りてなかった上に、陣営の微妙な足並みの話を聞いてしまった!」

「少し感傷的になりすぎてしまいました。老人の長話、退屈だったことでしょう」

 薄く微笑むヴィルヘルムが、その青い瞳にささやかな感情を過らせる。
 一瞬だけ見えたそれを見逃さなかったスバルは、そもそもの起りに意識を向けた。

 最初、ヴィルヘルムは一人で庭園に立っていた。
 スバルと同じように、庭園の風情を楽しみに降りてきたと最初は考えていた。しかしヴィルヘルムはスバルに言ったのだ。
 景色に異物が入り込んで、申し訳ないと。

 庭園の景色を楽しむという行いで、最善の観覧席はスバルがいる縁側だ。
 逆にヴィルヘルムのいる位置に立ってしまえば、月明かりに照らされる庭園の景観を存分に楽しむ喜びは失われる。
 無論、それは考え過ぎの可能性はあった。だが、他にヴィルヘルムが庭へやってきた理由があるとすれば、それは――、

「……そこ、ラインハルトが立ってた位置でしたね」

「――――」

 ヴィルヘルムが立ち尽くす位置は、ラインハルトがガーフィールとの立ち合いで守り続けていた絶対の領域だった。
 微かに乱れた砂利の中、不動の構えで立っていた赤毛の剣士の足跡はよく目立つ。
 その違和感にヴィルヘルムが気付き、確かめようとしたのも自然な流れだ。しかし、そこに立ち続けた真意は、ヴィルヘルムにしかわからない。

「ヴィルヘルムさん。俺は余所の家庭の事情に首を突っ込むつもりはないし、何があったのかとか軽はずみに聞く野次馬根性からは卒業したつもりなんで、とやかく言うような真似はしたくないんですが……」

「ええ、お聞きします」

「ラインハルトとは、仲良くできないんですか? 家族なんですよね?」

 祖父と孫、複雑なアストレア家の関係に踏み込む無粋。
 スバルはヴィルヘルムとの間に築いた信頼、そこに傷をつける可能性があるとわかっていながらそれを話題にした。
 ヴィルヘルムと、この庭園での話をする前だったならしなかったかもしれない。しかし先の会話と、そして孫の足跡を見下ろすヴィルヘルムの横顔。
 それを目の当たりにしてしまえば、避けることはできなかった。

「スバル殿と話していて、思っていました」

「…………」

「どうして私は自分の孫と、こうして言葉を交わすことができずにいるのだろうと」

 それは苦渋に満ちた、ヴィルヘルムの心からの言葉だった。
 ヴィルヘルムの横顔から表情が消える。無表情、しかし無感情ではない。感情を押し殺しているのは、無様な嘆きを外に見せないための強固な殻だ。
 ヴィルヘルムが抱えているそれは、紛れもない後悔だった。

「私は後悔の多い男です。ですが、私には己の人生の中でも決して言い訳のできない後悔が三つある。その内の一つが、今の私と孫との間にある溝の原因です」

「でも、ヴィルヘルムさんはそれを悔やんでるんでしょう?」

「悔やんだとて許されることではありません。それほど、あのときに私が孫に……ラインハルトに叩きつけた言葉は重い。度し難いほど、許し難いほど、愚かでした」

 無表情を装う横顔に、ヴィルヘルムの身を焼きそうなほどの炎の兆しがある。
 それは長年、ヴィルヘルムの心胆を許すことなく焼き続ける怒りの業火だ。後悔の念が火種となり、炎はヴィルヘルムを焼き焦がして離さない。

「妻の敵討ちを理由に、私はその後悔から目を背け続けてきた。そして敵討ちを果たした今、本当なら歩み寄るべきなのだとわかってはいるのです」

「でも、勇気が出ない」

「お恥ずかしい限りです。孫が今も私を恨んでいる。そう思うと、足が出ません」

 心底、自分に失望したようなヴィルヘルムの嘆きの声。
 急速に小さくなってしまったような老人の姿を見て、スバルは唖然とした。そして唖然とした後で、思わず噴き出す。

「スバル殿?」

「す、すいません。笑うつもりはなかったんですけど、ちょっと無理で」

 ヴィルヘルムが信じられない顔をするが、スバルの方だって信じられない。
 まったくこの老人は、この一晩だけでどれだけスバルを驚かせてくれるのか。

「ヴィルヘルムさんはなんか、自分にラインハルトのお爺ちゃんを名乗る資格はないみたいに思い詰めてるみたいですけど……」

「ええ、その通りです。孫を相手に、自分が悪いとわかっていて踏み出せない。そんな臆病な自分にほとほと愛想が……」

「そんなん、孫に嫌われるのを恐がってるお爺ちゃんにしか見えませんよ」

「……は」

 それまで曇った顔でいたヴィルヘルムが、息を詰めてスバルの顔を見た。
 スバルはいまだ、笑いの衝動が残るまま手を振り、

「俺はヴィルヘルムさんと、ラインハルトがどんな理由で気まずくなったのかちゃんと知りません。だから、見当違いのことを言ってる可能性もあります。でも、その部外者の俺から見たって、ヴィルヘルムさんはラインハルトと仲直りしたがってるし、真剣に謝ろうとしてるように見える。なら、謝った方が絶対にいいです」

「ですが、ラインハルトはそれを許してはくれないでしょう」

「一回で許してもらえないなら、許してもらえるまで謝りましょうよ。第一、許してもらいたいから謝るんじゃなくて、謝りたいから謝るんでしょう? 謝る方の謝りたい気持ちなんて、そのぐらい自分勝手なもんですよ。だって、謝りたい方が悪いことした奴なんだから」

「――――」

 今度はスバルの極論に、ヴィルヘルムの方が絶句した。
 もちろん、スバルだって今のがあまりに身勝手な論説であることは理解している。それでも、今はそれを振りかざして押しつける必要があるのだと思った。
 ヴィルヘルムを動かすために。ラインハルトと向き合わせるために。

「そりゃ、何年も疎遠だったのに急に謝られたら、最初は『なんだこいつ』ってなると思いますよ。でも、何回も謝ってればそのうち、『なんだこいつ』も変化します。それが『しょうがないな、こいつ』か『うぜーな、こいつ』になるかはわかんないですけど」

「悪化しているように思いますが」

「けど、変化してます。最悪で固定の今から、動いた分だけマシだと思いませんか?」

 色んな人間の心証を、最悪でスタートさせることには定評があるスバルだ。
 人間関係最悪に八方を囲まれることなら、スバルにとっては何ほどでもない。

「それに数年ぶりに小遣いの一つでも渡せば、すぐに態度が軟化するかもしれません。ずっと印象が悪かった人だけど、ちょっといいことしたらいい人じゃんって感じるあの法則を利用するんです。案外、ラインハルトもちょろいかもしれませんよ。俺、あいつに友達って言われたのだいぶ簡単でしたし」

「さすがに、ラインハルトもそこまで単純では……」

「――ラインハルト、白鯨のときのこと聞きたいって、言ってましたよ」

 軽口めいたスバルの言葉に、わずかに殻を緩めたヴィルヘルム。
 そこにスバルは、ラインハルトと合流直後、茶室へ向かう途中で彼に求められた言葉をヴィルヘルムへと伝えた。
 それを聞き、ヴィルヘルムの青い瞳が凝然と見開かれる。

「白鯨のことが、二人の気まずい関係と繋がってるかはわかってないです。でも、もしも繋がってるなら、ラインハルトは白鯨のことを気にしてました。白鯨を討伐したのがヴィルヘルムさんだってことも、当然知ってるはずです。ヴィルヘルムさんが十年以上、お婆ちゃんの仇を取ろうとしてたんだって、あいつも知ってます」

「――――」

「きっとあいつも、固まったものが動くのは今じゃないかって、期待してますよ」

 ラインハルトの本心なんて、スバルには到底わからない。
 ラインハルトは完璧すぎるほどに完璧な男で、スバルのように無力や無知を嘆いたことなんてないんじゃないかと勝手に思っている。
 勝手すぎる考え方だ。彼だって人間だ。思い悩むことぐらい、きっとある。

 スバルにしてみれば超人にしか思えないヴィルヘルムだって、一皮剥いてみれば当たり前の男で、当たり前の祖父で、当たり前の悩みと欠陥だらけなのだ。
 ラインハルトもそうであると、そう思って何がおかしいのか。

 スバルの言葉に、ヴィルヘルムは先ほどからずっと驚かされてばかりだ。
 老人はスバルの語った言葉の一つ一つを吟味するように目を閉じ、今は静かに風を浴びながら時を過ごしている。

 そうして、しばしの沈黙が二人の間を流れてから、ヴィルヘルムは言った。

「孫は……ラインハルトは、話を聞いてくれるでしょうか」

「まずはウザったいぐらい話しかけて、振り払われるのもいいもんですよ。俺、エミリアたん以外の女の子には大体、そうやってやられることが多いですし」

「まったく――」

 スバルの答えを聞いて、ヴィルヘルムは首を横に振った。
 それから老人は顔を上げ、背後に浮かぶ月を見上げながら、

「スバル殿には敵いませんな」

 と、そう笑みを含んだ口調で言ったのだった。


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