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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

番外編 『わんでいⅡ』

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番外編 〆 『月下、出鱈目なステップ』


 ――一度は足を踏み入れたことがあるはずの大広間は、スバルの記憶とは全く違うものへとその姿を変えていた。

 敷き詰められた赤い絨毯に、並べ立てられるいくつもの燭台。赤い炎の揺らめきが室内の荘厳さに拍車をかけ、居並ぶ面々の背筋が自然と正される。
 壁際に整然と並んでいるのは、屋敷の関係者のほとんどだ。主要な関係者はもちろん、ミロード家の侍従に至るまで列席させられているのは数合わせだろうか。
 ただスバルの関係者だけ集めては、それはそれは身内だけの集まりになるのは避けられない。こういった行事を、多くの目に触れさせる必要があるのはスバルにも理解ができる。

 もっとも、それでリューズの複製体たちまで揃えているのは大丈夫なのだろうか。
 一緒にいるリューズが、まるで気にするなとでも言いたげに顎を引いたが、気になるものは気になる。特に指示がなければ何をするわけでもないとわかっていても、幼子同然の彼女らが何かしでかしやしないか不安になる。
 たぶん、同等の不安を周囲がスバルに対しても感じているのだと思うけど。

 列席者たちの姿も、一つ一つ見ていけば突っ込みところが多い。
 特に関係者の面々が、揃いも揃って折り目正しく礼服を着込んでいるのが面白い。
 着慣れた風情のロズワールやアンネローゼはともかく、オットーやガーフィールあたりの着こなせていない感はスバルに見劣りしまい。首元のきつさに渋い顔のガーフィールはともかく、着こなせてないのに気付いていない風なオットーの滑稽さが際立って見えてオットーヤバい。笑わせる気か。

 使用人勢はフレデリカとクリンド含め、普段の装いがフォーマルというわけだ。そこにラムも当たり前のようにメイド服で並んでいるのはどうかと思うが、ラムのすぐ傍らを見てスバルは息を止めた。

 そこに、椅子に座らせる形で青い髪の少女がいる。

 もちろん、目覚めているわけではない。彼女は眠ったままだ。それでもこの場所へ連れ出し、ラムが付き添う形で列席させている気遣いが憎らしい。誰の発案であるのか、ドヤ顔でこちらを見るラムが憎たらしいと思った。

 さらに視線が進めば、着飾った自分を誇らしげにするペトラがいる。
 幼いペトラだが、ドレスで華やかさを増した少女はベアトリスにもアンネローゼにも負けない輝きを放っている。ただの村娘のはずが、どういう舞台度胸なのだ。
 その隣のベアトリスもいつもの格好だが、スバルの方を見る表情はいくらか柔らかにもののように見えた。微かに赤らむ頬に、控室の出来事を思い出してスバルの方も小っ恥ずかしくなってしまう。

 そして正面に――、

「――――」

 スバルを待ち構える形で、銀髪の少女がこちらを見ていた。

 礼服に着替えたエミリアは、普段の彼女とは全く違う輝きでスバルを魅せる。
 月光のように煌めく銀色の髪に、宝石を嵌め込んだアメジストの瞳。震えるほど整った表情は唇を結び、大切な儀式を前に緊張しているのが見てとれた。

 その格好は常日頃、スバルがエミリアに感じる清らかさを段違いに強めるもので、巫女服に似たあしらいの神聖さと、金に縁取られた高貴さがこの儀礼の高潔さと厳粛さを痛いほど見る者の意識に焼き付けてくる。

 彼女の姿を視界に入れた瞬間、それまでのどこか浮ついた気持ちが一瞬で静まった。
 心の奥に沸き立つようだった感慨はその名残を失い、エミリア以外の全ての存在が意識の端々から消えてなくなる。
 それは儀式を見守る列席者を軽んじてのことでは決してない。

 ただ、この儀礼の場において何をしなくてはならないのか、誰を見ていなくてはならないのか、自分の心の置き所はどこなのか。
 それが言葉にされなくても、はっきりと心で理解できただけのことだ。

「――――」

 誰に何を指示されたわけでもなく、スバルは導かれるように足を踏み出す。
 毛足の長い絨毯の上を音も立てず、腰に下げた騎士剣の重さも今は忘れて、熱に浮かされたように一心不乱に、しかし凪の海のように平静な心で、エミリアの下へ。

 浴びせられる視線の嵐も、今は何一つ心を揺らさない。
 スバルの心を波立たせるものは、今は目の前のエミリアの一挙一動以外にない。

 エミリアの前、手が届くほど近くへ歩み寄る。
 わずかに高い壇上に立つエミリアが、震えるほど美しい頬を固くしている。その情景を前に、スバルはその場に跪いた。

 片膝をつき、頭を垂れる。
 ガーフィールに言葉で伝えられた儀礼の作法が、恐ろしいほどスッと体を動かしてくれている。瞑目したまま、頭上から降り注ぐ視線の熱を感じる。

 呼吸することを忘れるような感覚の中、スバルは心地よい緊迫感に肌を弾かれながら顔を上げ、腰に下げていた騎士剣を外した。
 ずっしりと重いそれを恭しく持ち上げ、胸の前で横に引き抜く。

 燭台の炎の赤に煌々と照らされる刀身の光を浴び、色が違うスバルとエミリアの瞳が同じ色の輝きを灯した。

「――――」

 鞘から解き放たれた剣の美しさを目に焼きつけながら、スバルは剣をそっとエミリアへと差し出す。
 掲げるようにされた騎士剣を目にし、エミリアの唇が何がしかの感慨に震えた。
 だが、とっさにこぼれ落ちそうになる言霊を自制心で留めて、エミリアは感情の波に押し流されそうになる己を引き留めた。
 そして、伸びてくる白い指先が騎士剣に触れて、思惑以上に重いそれを持ち上げてゆるゆると切っ先が天井を向いた。

 剣を構えるエミリアの美しさ――それを目にしたい我欲を押さえ込み、スバルは再び頭を垂れて両目をつむる。

 エミリアの前に差し出されるのは騎士の誇りである剣と、騎士そのものを示す意味でも体と首だ。

「――――」

 主君に捧げられる、騎士の身命。
 それを示すスバルの姿に、エミリアの唇と瞳が再び揺れる。しかし、今度の逡巡は刹那のことだ。引き結んだ唇も、真っ直ぐ前を見る瞳も、躊躇いはどこにもない。

 降りてくる切っ先が、スバルの左の肩へと触れる。
 剣の腹が肩の上にあり、スバルはその重みに思わず呻き声を上げそうになった。のしかかる重圧は物理的なものではなく、精神的なものに他ならない。
 にも拘わらずスバルを襲った感覚は、騎士の誰もが背負って然るべき『誇り』そのものであったのかもしれない。
 それを今、この瞬間に、ナツキ・スバルもまた初めて理解した。

 左の肩に触れた切っ先が、今度は右の肩へと移動する。
 同じだけの重みを味わい、しかし礼服越しに感じる剣の冷たさは今度は消えない。
 当然だ。儀式の、一番大事な瞬間が、この形で初めて成るのだから。

「――――」

「――――」

 静寂が、大広間の中に落ちる。
 否、それまでも大広間には静けさが満ちていた。だが、それまでの静けさは微かな興奮を孕んだ、うるさいぐらいの熱情を秘めた静けさだった。
 しかし、この瞬間の静寂はそれまでのものとは熱が違う。

 興奮も、熱狂も、全てを置き去りにして訪れる本物の静寂だ。
 エミリアもスバルも、そして見守る列席者全員の心に等しく舞い降りる静けさだ。

 それを破る権利は、この場でたった一人にしか与えられていない。

「――眩い世界を見下ろす太陽に。眠りに落ちる世界を見守る星々に。風に、水に、土に、光に、全てに満ちる精霊に」

 静寂が破られる。
 エミリアの唇が、歌うように儀礼の祝詞を紡ぎ出す。

「――あなたを受け入れ、あなたを育み、あなたを送り出す大いなる世界に」

 震える。心が震える。
 歯の根が合わなくなり始めるのは、スバルの心の何が堪え切れないのか。
 自分の混迷する心を追いかけることすらもどかしい。
 今はただ、彼女の口にする鈴の音のような声に溺れていたい。

「――あなたを支え、あなたを作り、あなたを築いたその誇りに」

 すぐ正面から浴びせられる、視線の熱が増しているのを感じる。
 体の内側から焼け落ちてしまいそうな熱情。
 叫び出したい狂騒を心臓が奏でる中、スバルはただ問いかけの時を待つ。

「――あなたを見守る全てに、あなたを育む世界に、あなたを支える誇りに、恥じない在り方がありますよう。怖じず、竦まず、迷わず、心のままに在れますよう」

 祝詞が終わる。
 問いかけがくる。
 儀礼の作法はここで終わりだ。最後の問いかけは、スバルも答えを知らない。
 だが、

「――その志のあるがままに、あなたを取り巻く何もかもと同じように、この時よりこの身を守ってくれること、誓っていただけますか?」

 ――エミリアの問いかけに、なんと答えればいいのかは心が知っていた。

「太陽に、星々に、世界に、誇りに――そして」

 祝詞が告げた全てに、今ここにあることの覚悟と感謝を述べよう。
 そして誓いを口にする前に、スバルは掛け値なしの感謝を伝えなくてはならない相手を脳裏に思い描く。
 だから自然と、唇はその言葉を紡いだ。

「――父に、母に、二人にかけて誓います」

「――――」

「俺は君を守る。君の願いを叶える。――俺の名前は、ナツキ・スバル」

 顔を上げた。
 剣はいまだ、右の頬のすぐ傍らにある。だが、剣の輝きも目に入らない。
 今はただ、見つめ合う紫紺の輝きだけしか見えない。

「エミリア。――君だけの、騎士だ」

「――うん」

 告げた言葉に、応じる答え。
 エミリアの瞳が、堪え切れない感情の波に潤み出す。

 しかし、今にも溢れそうなそれをエミリアはかろうじて堪えて、スバルの肩に乗せていた切っ先をどけた。
 そのまま剣は向き直され、エミリアはスバルへと騎士剣を差し出す。

 持ち上げた両手でそれを恭しく受け取り、騎士剣は再び鞘へと納められた。
 騎士剣を腰へと戻し、跪いたままスバルはエミリアを見上げる。

 エミリアが微かに顎を引いたのを見て、スバルは立ち上がった。
 そして、

「今さらだけど、エミリアたんのその格好、超エロ可愛いね」

「バカ」

 ――儀式の荘厳な気配が砕けて、エミリアは赤い顔をして舌を出した。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 大広間に運び込まれたテーブルの上には、今は色とりどりの料理が並んでいる。
 立食形式の食事会には身分や立場を問わず、先ほどの騎士叙勲の儀式に列席した面々が顔を合わせており、ちょっとした懇親会のような装いを呈していた。

「こっちが生涯最高レベルの緊張の時間を過ごしたってのに、いいご身分だよ、みんな」

 そんな食事会の様子を遠目にしながら、テラスに出たスバルは夜風を浴びている。
 テーブルから持ち出した料理の載った皿と、飲み物を手近な柵に置いているが、その盛り具合は先ほどから変化していない。
 食事も飲み物も、なかなか喉を通らないのだ。

 まだ、首から上が火照ったような感覚が消えてくれない。
 胃袋は空腹感をひっきりなしに訴えかけてきているのに、どうしてか胸がいっぱいでそれ以上に食事が喉を通らないのだ。

「――――」

 視界の端では、広間の前に出たペトラがドレス姿でちょっとした踊りを披露している。アーラム村の祭りなどでお披露目される類の踊りだが、ペトラがアレンジを加えているのか、彼女自身の堂に入った態度もあって貴族屋敷でも見劣りしない。
 そんな彼女に手を引かれて、赤い顔で拙いステップを踏まされているのはベアトリスだ。必死で無表情と無感動を貫こうとしているが、耳と鼻筋が堪え切れずに震えるのをスバルは見逃していない。

 相変わらず、ペトラには強気に出れないベアトリスが巻き込まれる形だろう。
 物珍しさに頬を緩めながら、スバルは傍らのグラスを手に取った。かろうじて、舌を湿らせるぐらいには心に余裕が生まれる。まだ、ガーフィールとフレデリカの共同制作であるミートパイにまでは手が伸びないけれど。

「――スバル、こんなところにいた」

 手すりに体重を預けて、のけ反るように空を見上げていたスバルを呼ぶ声。視線を下ろせば、正面に立つのは月光を浴びてなお美しさを増す月の妖精。

「じゃなくて、エミリアたんか。天使かと思った」

「また変なこと言って。ひょっとして酔ってるの?」

「俺は未成年だからお酒飲まないよ。酔ってるとしたら、雰囲気と自分に酔ってる」

「ほら、やっぱり酔ってるんだ」

 ころころとエミリアが笑い、スバルは普段と違う彼女の様子に眉根を寄せる。
 そして、清楚なドレスから覗く色白の肌――うなじや頬にかけてがほんのり赤く染まっているのを見て、エミリアの態度に合点がいった。

「なんだ、エミリアたん。俺が酔ってるとか酔ってないとか以前に、エミリアたんの方がお酒飲んじゃってるみたいじゃん」

「飲んでませんー。だって、甘い果物の飲み物って配ってたもの。私、お酒なんて飲んで変な風になったりしないもん」

「もんて、可愛いな」

 唇を尖らせるエミリアは、儀式のときの厳粛さをすっかり見失っている。
 つまりそこにいるのは、ただひたすらに可愛らしいだけの一人の少女だ。

「ね、スバル。なんでこんなところで一人でいるの?」

「んー、さっきも言った通りだよ。雰囲気と、自分に酔ってた」

 軽妙な答えではあったが、満更、的を外した答えというわけでもない。
 実際、胸に込み上げるものを吐き出すことができず、夜風に一人で当たっていたなんて浸っている以外のなんというべきか。
 もちろん、誰にもそんな心の内をはっきり打ち明けるなんてできやしないが。

「もしかして、後悔してるの……?」

「それだけは絶対にない。怒るぞ、エミリア」

「うん、今のは私が悪かったです。ごめんね。でも嬉しい」

 ほろ酔いに頬を赤くしたまま、エミリアはスバルへと一歩、距離を詰める。
 手すりに体重を預けるスバルの隣で、同じように並ぶエミリア。互いの肩と肩が触れ合いそうになり、衣服越しなのにスバルの体はカッと熱くなった。

「スバル。騎士叙勲の儀式、急に言い出してごめんね。私、ずっと準備してたから、スバルもてっきり知ってると思ってた」

「いや、気付かなかった俺がアホだったのかもしんない。今にして思うと、エミリアたんが定期的に『スバル、ちゃんと練習してる?』って聞いてくれてたの、その場その場で適当に誤魔化してたし」

 エミリアはスバルが知っていると思い込み、進捗をちゃんと確認してくれていた。
 スバルだけがそれに気付かず、その場その場を適当にしのいで、エミリアに何を言われたのかよくわからないまま、別の物事を懸命に修めたりしていただけだ。
 それに儀式の内容に関しては、

「ロズワールの野郎が悪い。っていうか、最近の大体のことは全部あいつが悪い。俺に恥かかせるのが目的なのか、ちょっと最近は調子に乗りすぎてるよな」

「ロズワールは前からあんな風だったと思うけど……でも、確かに前よりスバルにちょっかいかけてることが多い気はするわね。スバルに構ってほしいのかも」

「それは恐ろしい想像だよ、エミリアたん」

 さすがにそれはロズワールという男が、さらに救えなくなるので避けたい事態だ。
 案外、冗談では済まない答えにスバルが渋い顔をしていると、笑うエミリアが「冗談だってば」と気楽な調子で手を振って、

「きっとロズワールも、悪巧みがばれたばっかりでどんな風な態度を取ったらいいのかわからないままなのよ。きっとちょっとしたら、前と同じに落ち着くから」

「前と同じに落ち着くのも反省がない気がしてどうかと思うんだが……まぁ、極端に変わられて接し方に迷うよりはマシなのかなぁ」

 ベストよりベター。消極的な選択肢に思えるが、ひとまずはそれで納得しておく。
 そうして話に一段落がつくと、スバルの隣でエミリアがグラスを傾ける。最初から彼女が手にしていたものだが、スバルの予測が正しければそれは果実酒だ。
 さらにエミリアのほろ酔い加減が進む気がして、恐いような見たいような不思議な気分に苛まれる。

「ね、スバル」

「え、なに? お酒が回って暑くなってきたから脱ぎたい? ここじゃまずいな。よし、場所を変えよう。そうしよう」

「ごめん。ちょっと何言ってるのかわかんない。そうじゃなくて」

 妄想が先走ったスバルに、エミリアが少しだけきつい目を向ける。その視線に萎縮して頭を下げると、彼女はテラスから見渡せる大広間の方を顎でしゃくり、

「みんな、楽しそうにしてるわね」

「ええっと、そうだね。貴族屋敷にしちゃ、使用人まで交えて立食会だしアットホームな感じだよね。小市民で庶民派の俺としては、わりと理想的な光景だ」

「うん、私もそう思う。すごーく、これっていい景色だと思う」

 紫紺の瞳が慈しみと羨望を帯びるのを、スバルは横目に気付いた。

 エミリアがその双眸を通して見るものと、スバルが見るものは少し違うかもしれない。きっとエミリアはこの光景に、身分差や種族差のない平穏な時間を見ている。
 それは表層部分だけを掬って見るスバルの物の見方とは、全く異なる視点だ。

 同じものを見ているのに、違うものを思っている。
 そうして違ってしまっていることを、悪いことだとスバルは思わない。

「どうしたの、スバル? なんだかすごーく、優しい顔してる」

「なんだろね。エミリアたんと同じもの見て、いいなぁって思えるのが嬉しいのかも」

「そう? うん、おんなじ風にスバルが思ってくれてたら、私も嬉しい」

「どうかな。そこは違うかもしんない。違っていいって、そうも思うし」

 ちらと、エミリアの視線がスバルの方を向いた。その視線を感じていながら、スバルは正面を見据えたまま、ただうっすらと唇を緩めていた。
 その微笑を見て、エミリアも納得するように頷くのがわかる。

 言葉にし難い何かが伝わり、それでいいと納得できた瞬間だ。

「あー、オットーの野郎。羽目外しすぎだ、別に酒に強くないだろうに」

 大広間の真ん中で、ガーフィールに挑発されたオットーが高そうな酒をグラスいっぱいに注いで一気に呷る。叩きつけるようにテーブルにグラスが置かれて、見事に一気飲みを敢行したオットーに周囲からの拍手。
 だが、次の瞬間にオットーの首から上が真っ赤に染まり、そのままの勢いで今度は首から上が真っ青になる。信号機みたいな色の変化、直後にガーフィールがオットーを担ぎ、慌てて大広間から飛び出していった。

「向かった先は、トイレかな」

「オットーくん、大丈夫かしら。今の、森にある毒キノコを食べた野犬みたいな反応してたけど……」

「一度、限界まで吞み潰して初めて人は大人になった自分を知るんだよ、エミリアたん」

「そうなの?」

「いや、俺も知らんけど」

 未成年ですし。
 それに、オットーが飲んですぐ戻しただろう酒は、いったいいかほどの高級酒だったのだろうか。安酒、量産品の類がこの宴会に並んでいるとも思えない。

 ちらとスバルが窺うように視線を送ると、目敏くそれに気付いたロズワールがグラスを掲げる。今日もピエロメイクの辺境伯は、オットーが目を回したものと同じ酒を難なく体内に飲み下していく。貫禄勝ちか、あるいは慣れの問題だろう。

「……ね、スバル。私、聞いてもらいたいお話があるの」

「奇遇だね。俺もエミリアたんに聞きたい話があるんだ」

 ふっと舞い降りた沈黙を割るように、エミリアがスバルにだけ聞こえるように囁いた。それに顎を引いて、スバルは手すりに体重を預けたまま半身を入れ替える。
 同時に向き直ったエミリアと、吐息がかかるほどの距離で見つめ合い、とっさにスバルは後ろに下がった。が、

「逃げないで」

 離れかけるスバルを、エミリアの手が引き止める。
 一歩、下がるはずの距離は半歩、かえって互いの距離を詰めることになった。つんのめるスバルの胸に、勢いのままエミリアの額が当たる。
 慌てて身を引こうとしたが、礼服の裾を掴むエミリアがそれを許さなかった。

「え、エミリアたん? 俺はこの体勢、嬉しいけど話をするには緊張するっていうか」

「私もこんなに大事なお話、誰かにするのは初めてだから緊張してるの。私たち、きっとお互い様ね」

「お、俺の一人勝ちだと思うけどね……」

 必死に作った苦笑で誤魔化そうとするが、見上げてくるエミリアを遠ざけられない。
 スバルはエミリアの熱い体温を感じながら、せめてかちこちに固まった自分の緊張だけは解そうと、ぎくしゃくした動きで大広間からエミリアを隠す。
 横向きのままでは抱き合っているのが見え見えだ。位置を少し変えれば、大広間からはスバルが手すりに手をついて、夜空を見上げてポエムを紡いでいるようにしか見えないはずだ。

「後顧の憂いも消えたし、なんでも聞かせてくれ」

「……それじゃ、私の騎士様に大事なお話。私がどうして、ロズワールに誘われて王選に参加しているのか。その、お話」

「――――」

 それはこれまで、エミリアの口からスバルに語られてこなかった部分だ。
 そしてきっと、彼女が乗り越えるのに何度も何度も挫かれた墓所の『試練』――彼女の過去の光景に、繋がる内容でもあるだろう。

 息を呑み、スバルは胸の中のエミリアを見下ろした。
 ぶつかり合う視線。見上げるエミリアの瞳に自分が映っているのを見て、覚悟を決めたスバルは顎を引く。

「エリオール大森林にはもともと、凍りつく前に私と母様と……同じエルフの人たちが一緒に暮らしていたの」

 訥々と語られるそれは、優しい記憶と悲しい想いに彩られた物語。
 所々つっかえながらも、拙い昔語りをエミリアは心のままにスバルに伝える。

 両親を知らないエミリア。父母に代わってエミリアを愛したフォルトナ。行き場所のないエミリア母子を優しく受け入れた村の人々。そしてそんな彼女らを人知れず援助していた魔女教を名乗る集団と、ジュースという人物。
 制限のされた世界でも、エミリアは慈しみと優しさに囲まれて日々を過ごしていた。

 その全てを台無しにした、エリオール大森林が凍てついた日の出来事。

 魔女教の暴挙と、姿を現したパンドラを名乗る魔女と大罪司教。魔獣黒蛇の出現にフォルトナやジュースの悲劇。約束を守り続けたことで、母を森を失ったエミリア。そして氷漬けになった長い時間と、覚醒を迎えた瞬間に出会ったパック。

「パックはずっと私を待ってたって、私を探してたって、そう言ってたの。それからはずっと、私を守るって言葉の通り、一緒にいてくれた。今も、この魔鉱石の中で起こされるときを待ってくれてる。……それだけはわかるの」

「パックと、言葉が交わせるわけじゃないんだよね?」

「眠ったまま。でも、それはパックが私との契約を拒んでるからじゃない。この魔鉱石が、目覚めたパックの入れ物としては機能しないからだと思う。もっと上質の、無色の魔鉱石じゃなきゃ受け入れられない。その入れ物を見つけて、あとは切っ掛けさえあれば……また、きっと顔を見せてくれるわ」

 エミリアの首元、そこにはペンダントの形に加工された青い魔鉱石がある。
 リューズ・メイエルを封じていた巨大な魔鉱石の一部だが、パックを封じておくには不十分なそれは、眠る精霊の意思をこちらへ伝えてくることはない。
 ガーフィールとの一戦での手伝いが、本当に最後のお節介だったとばかりに。

「パックのことはわかった。でも、王選のことは」

「パックと二人で、凍った森でずっと過ごしていたの。時々、森の近くの村に顔を出したりもしてたけど、あんまり歓迎はされてなかったかな」

 エミリアの言う『あんまり』が、どのぐらいの隔絶なのかは想像の域を出ない。そしてエミリアも、その隔たりのことを語りたいとは思わないだろう。

「ロズワールがきたのは……まだ、一年は経ってないのかも。でも突然で、私もパックもすごーくびっくりしたわ」

「まぁ、あんな化粧した男が急に現れたら俺もびっくりすると思うよ」

「それもそうなんだけど、誰も入ってこれないはずの森の中に急にいたから。村から戻ってきた私を、当たり前みたいに広場で出迎えたのよ。いつものとぼけた調子で、おかえりなーぁさい……ってね」

「そりゃ……」

 さぞかし驚いたことだろう。
 ロズワールの性格の悪さに今さらコメントはしないが、当時のエミリアやパックの心情を思うと、その瞬間の驚きがしのばれる。

「もうパックが怒っちゃって怒っちゃって……朝から夕方まで、ほとんどずっとロズワールとケンカしてたの。今にして思うと、ロズワールが凍っちゃわなくてよかった」

「笑顔可愛いけど、それ笑うところじゃない気がする」

「そうかしら。それで、パックとロズワールが戦ってる間にお互いの要求を伝え合って、それでようやくお話し合いになって……」

「ロズワールは、森の氷を溶かすのを条件にエミリアたんを誘った……か」

 結論を先取りしたスバルに、エミリアが目を丸くする。
 そのエミリアの反応にスバルは苦笑した。

「さっきまでの話の流れ、聞いてりゃわかるよ。前にさらっと、そんな雰囲気のことも耳に挟んだしね。でもさ……」

 あのときと今のエミリアとで、認識が違う部分があるはずだ。
 以前、エリオール大森林の凍結はエミリアの力量を越えたものであると彼女は言っていた、パックと協力しても、氷を溶かすことはできなかったのだと。
 しかし、

「森を凍らせたのが昔のエミリアたんだっていうんなら、森の氷は自分の手で溶かせるんじゃないか?」

「……うん、それは私も考えた。だけど、きっとできないと思うの」

「どうして?」

「記憶の中の私と同じだけの力、今の私はどうやっても出ないみたいだから」

 不安げな、しかし確信めいたエミリアの言葉にスバルは眉根を寄せる。
 記憶の中のエミリア――語られた通りならば、その力はまさに人知を圧倒していた。パンドラを名乗る魔女すら、その力の前には反撃の隙すら見つからないほどに。
 その力が、目覚めたエミリアに、記憶を取り戻したエミリアにないとはどういうことなのか。

「だけど、大兎には一歩も引かずに戦ってたじゃんか」

「パックや微精霊の子たちに頼らなくても、確かに魔法は使えるようになった。だけどまだそれだけ。あの力は、引っ張り出せない」

「――――」

 無力を嘆くように、エミリアは両の拳を握って、それから力なく首を横に振る。
 力不足を恥じる彼女の表情に、スバルはとっさに自分の中の落胆をこそ恥じた。
 他でもないエミリアが、自分の今を悔いている。それを知ってスバルもまた彼女を責めるような考え、そんなものが許されるはずがない。
 それにスバルは別にエミリアに、強くあってほしいわけではないのだ。

「OK、自分責めはそこまで。話を戻そう。エミリアたんが氷を溶かせないのはひとまず納得して……じゃぁ、ロズワールはどうして溶かせる?」

「…………」

「エミリアたんでもパックでも無理なら、極端な話、ロズワールにだって無理なはずだ。ロズワールがいくら魔法使いとしてすごくても、エミリアたんの力の十倍も二十倍もあるわけじゃない。それなら、どうして」

「別にロズワール本人に、氷を溶かせる力があるわけじゃないわ。ただ、ロズワールは氷を溶かせる可能性を知ってて……それを、私に教えてくれただけ」

「氷を溶かせる、可能性?」

 大精霊の力を借りても、最高峰の魔法使いの力でも、森を氷漬けにした氷結の魔女でも溶かせない森を溶かす可能性――それはいったい、なんなのか。

「ドラゴンの、血」

「――――」

「大地に豊穣の恵みを与えて、正しい在り方を損なった土地を癒す龍の流血。その力ならきっと、森の氷を溶かすことができるって」

「エミリア、でもそれは……」

 龍を殺すと、そういうことなのだろうか。
 ルグニカ王国をずっと見守り続けてきた龍という存在を、自分の故郷である森を救うそのための、生贄に捧げるということなのか。
 一瞬、スバルの脳裏を過った最大級の懸案。だが、

「違うわ、スバル。龍の血は、ほんの一滴で構わないの。以前にもルグニカで飢饉が発生したとき、龍の血で土地が蘇らされたことがあるらしいわ。それは私も歴史書を調べてみたから、間違いないことなの」

「なん、だ……いや、マジでちょっと焦った。だって龍を殺すなんて真似したら……」

 龍の力で封印されている、『魔女』が解き放たれることになるのではないか。

「――――」

 不安に胸の内を絡め取られたように、スバルは呼吸を忘れる。
 エキドナの茶会で出会った魔女たち。そして、最後の瞬間にスバルを送り出した『嫉妬の魔女』。その存在を、スバルは忘れていない。
 別れる瞬間の決意だって、忘れたりしているわけじゃない。

 だが、あれは解き放たれるべきではない存在だ。
 あれはこの世に解放されることなど、あってはならない存在だ。
 そう本能が訴えかけてくるのも、紛れもない事実であるのだ。

「ルグニカの王族には、龍との盟約を交わすときに龍と話をする機会がある。王城にはそのときに神龍ボルカニカから授かった血の滴が、いくつか保存されているらしいわ。私は王様になって、その力を頼りたいの」

「それで、王選に参加か……」

「……前に私、言ったよね。すごーく自分勝手な理由で王選に参加してるって。それが今言った、私の自分勝手な理由」

 笑みを含んだ言葉だったが、それは不安の裏返しのような微笑みだった。
 実際、胸の内でスバルを見上げてくるエミリアの瞳は不安で微かに揺れている。

 スバルが何を言うのか、エミリアの覚悟をどう思うのか、恐がる顔だ。
 そう不安に思われる程度には、スバルという存在がエミリアの中で動かし難いものにはなれていると、そう思っていいらしい。

「大丈夫だよ、エミリアたん。別にそんなこと幻滅したりしやしないから」

「……スバル」

「自分本位っつったって、別に私腹を肥やそうとかで考えてるわけじゃないし。助けたい人たちを助ける手段があって、盗むとかの悪事に手を染めるんでもなく、正当な方法で使える立場を取りにいこうってんなら責められる謂れなんてないじゃんか」

 安心させるように笑いかける。だが、まだエミリアの表情は晴れない。
 スバルもわかっている。エミリアが欲しい言葉は、今のものではない。
 もっと彼女の本心が、求めいる心を差し出すとすれば、

「エミリアたんは自分の切っ掛けが、他の候補者連中より見劣りするとか、そんな風に思って萎縮してるのかな?」

「――っ」

「それこそ、隣の芝生は青く見えるってやつだよ。そりゃクルシュさんなんかは人柄も目的も立派だったりしたもんだけど、アナスタシアさんとかプリシラを思い出してみろよ。褒められた理由じゃなかったぜ、実際」

 強欲と我欲、それを理由に王選に挑んだ二人の候補者。
 スバルはその場にいられなかったが、フェルトだってどんな高尚な理由を掲げて王選に挑んだというのか。
 誰かを救いたいというエミリアの気持ちが、それらに見劣りすることなんてない。

「それに最初はどんな気持ちだったにしても、今もそのまんまなわけじゃないでしょ?」

「……なんでわかるの?」

「さっき、大広間を優しい目で見てたじゃん。それ見てたらわかるよ」

 ミロード家の大広間で繰り広げられていたのは、人と亜人とが、貴族と平民と使用人とが、身分も人種も分け隔てなく触れ合う光景だ。
 スバルはそれを理想的と呼び、エミリアは憧れの眼差しでそれを受け止めた。
 エミリアの心に今、どんな色の炎が灯っているか、スバルは疑っちゃいない。

「あの光景、見るのが目的なら俺も手伝うよ。あれはいいもんだと俺も思う。エミリアたんが頑張る理由に、あれが加わるなら誰も邪魔させやしないさ」

「ホントに……私を、手伝ってくれるの?」

「さっき、俺がエミリアたんに何を誓ったと思ってるの? そんな不安そうにしなくても、他の誰よりも先に俺を頼ってほしいね。手伝えることならなんでも手伝うし、わからないことなら一緒に頭ひねるから」

「――――」

 息を呑み、エミリアの瞳がこれまでで一番大きく揺れる。
 何を言えばいいのか、震える唇ははっきりとその心を言葉にできない。

「――うん」

 だからエミリアは、ただ一言だけ呟いた。
 そして微笑む。

 ――それだけで十分だと、スバルは思った。

「うっし、迷いは晴れた」

 言い切って、スバルは手すりに乗せていたグラスを一気に傾ける。それからすっかり冷めてしまったミートパイを掴み、口へ放り込んで咀嚼した。
 冷めても衰えない美味と、ほろほろと崩れるパイの食感。なるほど、ガーフィールが自信作と豪語するだけあって絶品だ。

「スバル、そんなに急いで食べたら喉に詰まらせちゃうわよ」

「エミリアたんが『あーん』ってしてくれるんなら、一口ずつ味わって食べるよ」

「それ、前にスバルが疲れてたときにやってあげた気がする……」

 エミリアの答えにスバルは微苦笑し、大広間の方へと彼女の手を引いた。
 腕を引かれるエミリアは一度だけ空を見上げ、それからスバルのエスコートに従って大広間へと並んで入っていく。

 宴はまだ途中、主賓が戻って熱も一緒に戻ってくる。

 へべれけのオットーを連れて戻ったガーフィールが、飲酒しようとしてフレデリカとラムの二人に前後から打撃を食らって悶絶していた。
 ペトラとベアトリスの不揃いのダンスもクライマックスで、額に汗するペトラにベアトリスも負けん気を発揮している。

 アンネローゼはスバルがエミリアと一緒にいたことに不満げな顔をし、その膨らむ頬をクリンドが指で突いて主を怒らせる。
 リューズとロズワールが隣り合い、旧知の間柄を復縁するようにグラスを打ち付け合い、グラスを傾けている。

「いい光景だね、エミリアたん」

「ええ。きっと、これが私の理想の光景だわ。私、忘れないから」

 その言葉通り、忘れられない夜にしよう。
 とりあえずは大広間の一番目立つ場所で、ダンスを踊る少女二人に乱入だ。

 ステップも何もわからないけれど、楽しい気持ちはきっと共通のものだから。

 適当で出鱈目なステップを、騎士と魔女――新しい主従は戸惑いと笑みの中で踏み出していった。


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