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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章118 『平家星の笑った日』


 背の高い木々に囲まれる獣道を、エミリアは慣れた足取りで悠々と進む。

 草を踏み、地面を踏みしめ、大樹の根や隠れている花などを踏まないように気を付けて歩く。足裏に固い土の感触があるのが、夢の中なのに不思議だとエミリアは思った。
 普通の夢の場合はどうあれ、この世界では木の皮のざらついた触り心地も、花の蜜の香りも、風の温さも感じることができる。

「夢の世界なのに、ちゃんと色んなものを感じるのはどういうことなの?」

「夢の世界、というのはあくまで比喩表現に過ぎない。実際にはここは『試練』の対象者の記憶を再現した、意識だけを引き込んだ別世界というべき空間だ。挑戦者である君の記憶を引き出したものだから、君自身に世界と接する感覚があるのは当然のことだよ。代わりに、ボクは地面に触れようと木に触れようと、感触は何も得られないがね」

「そうなんだ。……私が大暴れして、この森をハチャメチャにしたりすることは?」

「実に野蛮で魔女らしい発想だね。確かに触れた実感はあれど、干渉することはできはしないよ。さらに言えば、この世界で再現される生き物とは触れ合うことすらできない。『試練』の形式の、もう一つの形ならそれも可能だが」

「もう一つって?」

「聞くばかりだね。少しは自分の頭で考えることを知りたまえよ。求めれば与えられる。甘えて媚びて生きてきた君には、どだい無理な話かもしれないがね」

「むぅ……」

 先を歩くエミリアの後ろを、一定の距離を保ちながらついてくる『強欲の魔女』。
 エキドナは毒を混ぜた講釈を口にしながら、エミリアの無知を無表情に嘲笑う。とはいえ、反感を覚えるものの、彼女の言い分はもっともだ。

 口元に手を当て、エミリアは考える。
 エキドナが口にした、触れられない記憶と触れられる記憶の違い。記憶の中を歩む人々と、今から精神だけを引っ張ってきたエミリアが触れ合う方法。

「考えたけどわからなかったわ。答え教えて」

「…………」

「どうしたの? お腹痛いの?」

「その虫唾の走る態度。ボクに不快感とはいえ、これだけ感情を想起させるのは彼と友人たちを除けば君ぐらいだろうね」

「エキドナ、友達いるんだ」

 いいな、というようなニュアンスのエミリアの呟きに、エキドナが吐息をこぼす。
 どうやらあまりいい意味合いに受け取られなかったようで、エミリアはどう言い換えれば正しく伝わるか逡巡する。と、

「『試練』で垣間見る過去の後悔は、人によっては一場面のことじゃない」

「えっと?」

「ある瞬間を切り取って、それを後悔している過去。それとは異なり、継続的に……たとえば、誰かとの関係を後悔している過去もある。後者の場合、再現される過去は一場面を切り取るのではなく、『試練』の対象者の中にある『その人物』が再現される。言葉を交わすことも、触れ合うことも、愛し合うことすら可能だろうね」

「……そっか。そういうことなんだ」

 エキドナの説明にエミリアは納得して頷いた。
 確かに、『後悔』とはそういった区別も可能な代物だ。誰かとケンカしたことを後悔する人もいれば、ケンカしたまま過ぎた時間を後悔する人もいるだろう。
 どちらを克服すれば、というのはそれこそ当人次第の問題だ。

「でも、ちゃんと嫌ってる私の質問にもちゃんと答えてくれるんだ」

「すごーくいい人、だなんて勘違いだけは絶対にしないでほしいね。君に好意的に思われるほど屈辱的なことはボクにはない。問われれば答えてしまうのは、あくまでボクの性分というだけの話だよ」

「はーい」

 笑う気にはならないが、距離感のあるエキドナとの付き合い方はおおよそ弁えた。
 彼女がエミリアを蛇蝎の如く嫌っていることは間違いないが、エミリアの方はエキドナを嫌うことはできない。それほど、彼女を知っているわけではないからだ。
 逆を言えば、エキドナはこれほど嫌いになる程度にはエミリアを知っているということになるのだが――それを聞き出す機会は、少なくともこの場では訪れない。

「――ふふっ! あはは! こっち! こっちだよー!」
「きゃっ」

 ふいに飛び出した高い少女の声に、後ろに意識を割いていたエミリアは驚く。
 足を止めたエミリアのすぐ横を、回り込むように追い抜いていったのは小さな少女だ。これほど近付かれても気配に気付かなかったことにエミリアは動揺したが、すぐにその原因が自分の油断や慢心でなかったことを悟る。

 エミリアを追い越した少女は、背中までの銀髪を乱して走り回っている。
 紫紺の瞳に、着古した子供服。危なげなく森を走り、無邪気に笑うのは見知った顔。
 そこにいたのは、幼い頃の自分――いまだ『後悔』を知らぬ、過ぎし日のエミリアだ。

「まだ何も知らないとはいえ、呆れるぐらいに能天気な顔をしているね」

「小さい頃の私にまで文句言わないで。それに……それが悪いことなのかどうかは、これからわかることだわ」

 はしゃぐ幼エミリアを、木に寄り掛かるエキドナが偏見丸出しにそう評する。
 それに苦言を呈すエミリアは、意識だけの自分のこめかみに痺れのようなものが走るのを感じて顔をしかめていた。

 パックとの契約が途絶し、エミリアの脳裏には次々と封じられた記憶が蘇っていた。
 フォルトナ母様と過ごした日々。ジュース率いる集団が集落に物資を運び込んでくれていたこと。封印のことと、お姫様部屋から抜け出すのを手伝ってくれた『妖精さん』。そして、会ってはいけなかったジュースと会って、友達になったこと。

「どうして、こんなこと忘れて当たり前みたいに過ごしてたんだろう……」

 記憶のあちこちが抜け落ちて空白だらけにも拘わらず、エミリアはそのことを何もおかしなことではないと補完して生きていた。
 『試練』と無関係にその穴に気付き、自らを疑い出していたらどうなっていただろうか――取り返しのつかないことになる。それがわかっていたから、誰よりエミリアの異常を知っていただろうパックは何も言わなかったのではないだろうか。

 蘇りつつある記憶の数々は、開きかけの扉の中にまだ眠っている。
 『試練』に挑む前にそれを覗き切ることは叶わなかったが、それでも十分だ。

 今、この『試練』の中で、エミリアが封じた記憶の全ては暴かれることだろう。
 そしてそれを見て、自分の中の何かが決定的に変わるだろうことは想像がついている。

「でも、もうそれを恐がったりしないわ」

「泣いて喚いて父親か男に縋る。いやらしい女である君らしい決断はやめるのかい?」

「それをしても許してくれるだろうけど……私は、それをして私にもスバルにも幻滅されたくないもの。弱い私が、弱いままなことを開き直るようではいたくない」

「……好きにしたらいいさ。ボクはせいぜい、結果の一つを記憶に留めるだけだから」

 悪意をどれだけ塗り重ねても、今のエミリアの精神を揺らがせることはできない。
 ここまでのやり取りでそれを悟ったのか、エキドナは諦めた顔で口を閉ざした。

 魔女の口出しがその猛威を収めると、エミリアは息を吐いて過去に神経を注ぐ。
 目の前には無邪気な顔で駆け回るエミリア。そして、

「お待ちください、エミリア様。そう走り回っては、危のうございます」

「危なくないもん、平気だもん。ジュースの方こそ、膝をすりむいちゃうんじゃない?」

「私の方はいくら怪我をしても構わないのですよ。エミリア様のお怪我の方が大事です。玉のお肌に傷がついては、私は死んでも償いきれません」

 やんちゃに跳ね回るエミリアを追いかけるのは、黒の法衣を揺らす長身の男――ジュースだ。彼は厳めしい顔立ちに確かな穏和さと慈しみを浮かべ、注意を聞かずにはしゃぐエミリアをやんわりたしなめている。

「ジュース。今の言い方だと、なんだかかえってすごーくいやらしいわ」

「そんなつもりはないのですが……エミリア様をそのような目でなど、とてもとても」

 そんなジュースに声をかけたのは、エミリアを追う彼をさらに後ろから追う女性――短くした銀髪をかき上げる、鋭い目つきの美女。
 彼女を目にして、エミリアは喉を引きつらせるような呼吸をして、

「フォルトナ母様……」

 母も同然の女性の健在な姿に、それが記憶の中だとわかっていてもエミリアは泣きたくなる気持ちが込み上げるのを抑えきれない。
 大好きだった。誰よりも尊敬していた。今でも、フォルトナ母様はエミリアにとってパックと同じぐらい大切な家族なのだ。

 そのフォルトナは困った顔のジュースに並ぶと、身長の高い彼の横顔を見上げて、

「エミリアだけに限らず、誰に対してもでしょう。ジュースもそろそろいい歳でしょうに」

「私にとって、年齢はあまり意味をなさないものですよ。長い長い時を生きるという意味では、フォルトナ様やエミリア様ですら私にとっては幼子です」

「私はジュースにとって幼子……か」

 ジュースの答えに、フォルトナは目を伏せると不機嫌そうに呟いた。
 彼女の態度にジュースは困ったように眉を寄せるが、フォルトナはそれに応じない。代わりにトテトテ戻ってきたエミリアが、自分を追ってこない二人に頬を膨らませる。

「もうっ! フォルトナ母様もジュースも、どうして追いかけてくれないの! 今、追いかけっこの途中でしょー! ダメでしょー!」

「ああ! 申し訳ありません、エミリア様。このロマネコンティ、一生の不覚……」

「そうやって甘やかすんじゃないわよ、ジュース。――エミリア、そもそもどうして母様やジュースがエミリアを追いかけることになったのか、覚えてないわけじゃないわよね? お母様、反省のない子はすごーく嫌いよ?」

「みゅっ!」

 笑顔の中にも一抹の怒りを忍ばせるフォルトナに、幼エミリアは肩を跳ねさせる。
 自分が追われている理由を思い出し、藪蛇を突いたことに気付いたのだ。顔を青くしたエミリアは「えへへ」と誤魔化すように笑い、そのまま振り向いて走り出す――。

「残念。エミリアはフォルトナ母様に捕まってしまった」

「ふわっ! フォルトナ母様ごめんなさいっ! 違うの、違うんです。妖精さんが遊ぼうって、外に出ようって、だから……」

「人の、じゃなくて妖精さんのせいにする子も母様は嫌いよ。わかる、エミリア?」

 後ろから抱きすくめられて慌てる幼エミリアに、囁きかけるようなフォルトナの声。ジタバタしていた幼エミリアは暴れるのをやめて、しゅんとうなだれる。

「ごめんなさい、フォルトナ母様。お部屋にいてもつまらないし、ジュースとはもうお友達だから会いたいなって、出てきちゃいました」

「それで、それを母様に見つかったから逃げていたのよね? 悪いことをしたって、そういう自覚があったってことでしょう。それはすごーく、いけないことだわ」

「はい……」

「約束を破るのはいけないこと。約束を守るのは、大事なことなの。約束は信じているってことの形だから、それを破るのは信じてくれてる気持ちを裏切ることだから、ダメ」

 泣きそうになる幼エミリアに、フォルトナは語りかける。俯こうとするエミリアの顔を両手で挟んで、しっかりと互いの紫紺の瞳を見合わせながら、

「エミリア、母様と約束して。約束は、今度からちゃんと守るって」

「うん……はい、守ります。ごめんなさい、母様」

「よし。それならいいの」

 涙目のエミリアの誓いを聞いて、フォルトナは愛娘を胸の中に抱きしめる。
 ぐしぐしと嗚咽を漏らすエミリアの銀髪を優しく撫でて、フォルトナは我が子の心の成長を優しい吐息で受け入れた。と、

「ジュース? 何をごそごそやってるの?」

「わ、私には……あ、あまりに眩しすぎる光景で……涙を、涙を堪え切れず……っ」

 呆れた顔のフォルトナの前で、木陰にしゃがむジュースが手拭いを顔に押し当てて号泣していた。母と娘のやり取りを聞いて感極まってしまったらしい。
 蘇った記憶の中でも、『試練』の中でも泣いているジュースを見ると、エミリアは彼が泣き上戸だったことを思い出せた気がして、胸の内が温かくなるように思った。

「それにしてもエミリア。妖精さんって……」

 ちり紙で鼻をかみ始めたジュースのことを放置し、フォルトナは幼エミリアの先ほどの証言から気になるところを抽出。『妖精』のことが話題に上り、フォルトナの胸の中で顔を上げた幼エミリアは「あ、それはね……」と目の赤いまま笑い、

「おいで、妖精さん」

 幼エミリアが手を伸ばし、世界に語りかける。
 すると、幼エミリアの白い指先を止まり木とするように、生まれ出でるいくつもの淡い輝きが揺れながら取り巻き始める。
 その光景を目にして、驚いた顔をするのはフォルトナとジュースだ。

「まさか、微精霊……それもこんなに……どうやって」

「……? お話してたら、たくさんきてくれたの。お姫様部屋で、一人で遊んでる内にきてくれるようになって」

「この御年でこれだけの微精霊を従えているとは……エミリア様にはどうやら、精霊使いとして並々ならぬ適性があるようですね」

「精霊使いの、テキセー?」

 ひとしきり感動を終えて、普段の様子を取り戻したジュース。彼の言葉に幼エミリアが首を傾げると、彼は穏和な笑みをたたえて「ええ」と頷いた。

「エミリア様が妖精と呼んだ彼らは、微精霊と呼ばれる存在です。世界中、至るところにいるこの精霊と心を通じ、彼らと言葉を交わして契約を結ぶ存在。精霊に好かれ、彼らの力を借りて超常をなすものを、精霊使いと呼ぶのです」

「私、それになれるの?」

「ええ。そのまま健やかにご成長なされ、精霊たちに好かれるエミリア様のままでいらしたら……きっと、たくさんの精霊や、もっと力のある精霊をも従えられるでしょう」

 ジュースの説明に、幼エミリアの顔がパーッと明るくなる。
 ただ、それを聞いていたフォルトナが立ち上がると、ジュースの腰を肘で小突いた。

「ちょっとジュース。余計なことを言わないで。少し微精霊を従えてるぐらいで、精霊使いだなんて……そんなの、エミリアには必要ないわよ」

「フォルトナ様はそうは仰いますが、エミリア様もいつまでも幼いままではありません。フォルトナ様がお傍にいられないこともあるでしょう。そうなったとき、ご自分のことをご自分でなさるためにも必要なことと思いますが」

 エミリアの教育方針を巡って、言い争うフォルトナとジュース。
 そのやり取りを傍で見ていて、エミリアは何となく思わずにはいられない。

「なんだかフォルトナ母様とジュース、おとーさんとおかーさんみたい」

「なっ!?」

 今のエミリアが思った通りのことを、幼エミリアが悪意のない顔で言った。
 フォルトナが顔を赤くするのを見ながら、やっぱり昔の私もそう思うんだと納得してしまうエミリア。

「あのね、おかしなこと言わないの、エミリア。母様とジュースはもうずっと長い付き合いで、だからそんな風に言われるような関係じゃないんだから」

「そうですよ、エミリア様。私とフォルトナ様とはずっと長い付き合い……それこそ、エミリア様のお父様とお母様がご一緒だったときから……」

「――ジュース」

 必死に弁明する様子だったフォルトナが、口を滑らせたジュースを低い声で呼ぶ。その声にジュースは自身の失言を悟った顔で、口に手を当てて「申し訳ありません」と謝った。

「お父様と、お母様……?」

「ごめんなさい、エミリア。その話はまた後で。それより、そろそろちゃんとお部屋に戻っていて。勝手に抜け出すこと自体を許したわけじゃないんだから」

「むぅ……フォルトナ母様の意地悪……」

 話を誤魔化された気がして、幼エミリアは頬を膨らませて不服を表明。しかし、フォルトナはそれを頑として受け入れるつもりはないらしく、膨らんだ幼エミリアの頬に両手を当てるとその空気を抜いてしまう。
 ぷー、と息を吐いて頬をしぼませる幼エミリアに、フォルトナは視線を合わせ、

「いい子だから、大人しくしていて。ジュースとだって、これが会えるのが最後ってわけじゃないわ。その……また機会はちゃんと作るから」

「ホントに? 約束してくれる? 裏切らない?」

「やだわ、この子。どこでこういう屁理屈覚えてくるのかしら」

 さっきの約束の話を持ち出す幼エミリアにフォルトナは苦笑し、そっとエミリアを抱きしめると、

「そう、約束。母様とエミリアとの、すごーく大事なお約束」

「……じゃ、わかった。お部屋に戻ってるね」

 フォルトナがしっかり約束してくれたから、幼エミリアはそれを信じて頷いた。
 抱擁から解放されると、幼エミリアはお姫様部屋に戻る前にジュースの前へ駆け寄る。自分を見下ろすジュースに手を伸ばし、幼エミリアは微笑んだ。

「またね、ジュース。また会うための、お約束」

「――はい、必ず。またお目にかかれましょう。そのときを楽しみにしております」

 伸ばされた小さな手を取り、握手を交わすジュース。
 微笑に微笑みを返された幼エミリアは何度も頷き、手を離して別れを告げる。

 そのまま、幼エミリアはお姫様部屋へと戻ろうとして――。

「きたようだね」

 それまで、黙って過去が流れるのを見守っていたエキドナが、小さく呟く。
 やけにはっきりと聞こえた彼女の声にエミリアは顔を上げ、その言葉の示す意味がなんであるのかを確認しようと首を巡らせて、見つけた。

「――――」

 それは、白い青年だった。
 白い髪に色白の肌。簡素なシャツとズボンを身に着けた、飾り気のない人物だ。顔立ちも整ってはいるが、これといって目立つ要素に欠けた凡庸な見た目。
 群衆に紛れれば即座に埋没してしまいそうな無個性の塊だが、それが今、この場にあっては異様な存在感を持つ異分子に思える。

「……誰!?」

 記憶の中、フォルトナも自分たちを見るその青年に気付き、とっさに幼エミリアを抱き寄せて警戒を露わに声を発した。
 その声を受けて、大木の幹に触れる青年は自分の白髪をかき上げる。

「人に名前を尋ねるときは、まずは自分から名乗るのが筋ってものなんじゃないの?」

 その返しにフォルトナの眉がピクリと動く、
 それを見た青年は、その口元をどこか陰惨さを感じる形に歪ませた。

「誰、って聞かれてこういう返しをするのはいかにも陳腐だと思うんだけど、実際にそういう場面に出くわしてみると言いたくなる気持ちってのはなるほど理解できるものだね。お互いに顔を合わせるのは初めて同士。これから関係を築き上げるという意味では間違いなく対等の立場であるはずなのに、どうして一方的に上から目線で名前を問い質されなきゃならないんだろうね。そのあたり、自覚があるのかな。君は無意識に無神経に、勝手に僕のことを見下して扱ったって、そんなことに」

「……男のくせに、ずいぶんと長話が好きみたいね」

「男のくせに、ってのもいかにも比べる男を知らなそうな偏見が垣間見えるよね。そもそも世界中に数えきれないほどいる『男』って生き物と、どういった権利があって僕を比較するっていうんだい? その態度はさぁ……ちょっと、看過できないよね。それはあまりに礼を失している。僕という個人を、その権利を、蔑ろにしてる」

 フォルトナの一言一言に対して、青年の語り口は狂気を増していくようだった。
 これはいよいよ危険度の高い相手と、フォルトナは警戒を露わに身構える。だが、その彼女にストップをかけたのは、フォルトナの隣に立っていたジュースだ。
 彼は白い青年を見上げ、厳しい顔つきで口を開く。

「レグルス・コルニアス! どうしてあなたがここにいる! この件には、私以外の誰も関わらせないと確約してあったはずだ!」

「確約も何も、お前が勝手に言って勝手に決めつけた協定じゃないか。押し付けがましい言い分に他人を従わせようなんて、たかだか精霊風情が偉そうな口を叩くようになったもんだよね。ただでさえ僕の行いを制限するなんて、不実な真似は許されないっていうのに……それが精霊? 僕の身も心も侵害するのはいい加減にしてくれよ」

「答えになっていない! 協定が気に入らないのであれば、教会で話し合えばよいことでしょう! ここへ何しに顔を出した! そもそも、誰に聞いてこの場所を……」

「――それは、私の指示による行いですよ」

 不機嫌に言い放つ青年――レグルスに対し、ジュースも怒りに声を震わせる。
 しかし、その二人の言い争いに割って入ったのは、ここまでで一度も大気を震わせることのなかった、一人の女性の声だった。

 その声に、この光景を見ている全員がそれぞれの反応をする。

 ジュースが瞳に戦慄を浮かべ、フォルトナが怒りに瞳を燃やし、幼エミリアは母の腕の中で涙目になって首を振って、レグルスは禍々しい笑みを作る。

 記憶を垣間見るエミリアはその声の存在に息を呑み、エキドナはただ瞑目した。


 進み出てくる、一人の少女。
 幼エミリアたち三人を見下ろすレグルスの隣に立つ人物は、見るもの全てが震えるほどに美しい少女だった。

 長く透き通る白金の髪は、まるで降り注ぐ日の光に形を与えたように甘く輝き、細い肩を伝って背中に流されている。
 長い睫に縁取られる双眸は世界を閉じ込めたように深い青で、整いすぎた顔立ちは神すら指を触れることを躊躇うほどに精緻な造形美。
 小柄な体は風に抱かれることすら危うげに思えるほどに可憐。その体を包むのはたった一枚の白い布だけで、少女の素肌にそれ以外のものを触れさせることを世界が拒んでいるのだと納得させる雰囲気があった。

 只者ではない存在感と、只者であるはずがない風格。
 紡がれた声は聴いたものの体と心を縛りつける魔法めいた魅力があり、とっさのことに誰一人その場で言葉を継げない。

「どうされましたか? ペテルギウス・ロマネコンティ司教?」

 首を傾け、問いを発する少女。
 視線を向けられ、声をかけられる。少女のその行動一つを自分に向けられるだけで、死んでもいいほどの多幸感が全身を支配することが避けられない。
 少女の存在を見上げて、過去だとわかっているのにエミリアは口の中が急速に乾いていくのを感じていた。

 ――あれは、危険だ。

「なぜ、あなたがここに……違う、レグルス・コルニアス……! なぜ、この方をここへ連れ出した……!」

 自分の内側に膨れ上がる感情を拒絶するように、歯を食い縛るジュースの声。

 ――あれは、危険すぎる。

「連れ出すなんて、誰かの意思を侵害するような真似を他でもない僕が行うはずがないだろ? ご一緒されたのは本人のご意思だよ。何でもかんでも僕のせいにしようっていうのは、さすがに偏見が過ぎる。僕という人間を、勝手に評価しないでほしいな」

「レグルス司教。彼も混乱しているのです。あまり、責めないように」

 ジュースに応じるレグルスを、隣の少女がたしなめる。
 その言葉にレグルスは口の端を震わせ、幸福感を表に出さないように必死に努めながら恭しく腰を折った。

 異常だ。
 レグルスという、圧倒的な異分子。それをああまで意のままに従えているということが、すでにあの少女の異常さをこれ以上ないほどに知らしめている。

 その少女を見上げ、ジュースは困惑と驚愕に瞳を震わせたまま首を横に振って、

「これは……あまりにも、酷い……パンドラ様……」

 息を抜くようなジュースの声に、少女がうっすらと微笑んでみせた。
 世界に祝福される、それ以上の幸福感をもたらす少女の微笑。パンドラと呼ばれた少女は周囲から向けられる視線に対し、全てを許す包容力で応じる。

 両手を広げて、小さな腕で何もかもを抱くように。

「さあ、始めるといたしましょう? ――私たち魔女教の、本懐を果たすために」

「パンドラぁぁぁぁぁ――ッ!!」

 穏やかな少女の宣言に、フォルトナの苛烈な叫びが重なった。
 幼エミリアを後ろに庇い、両手を前に突き出すフォルトナの正面に青い魔法陣が展開。凄まじい勢いで現出する氷の杭が、圧倒的密度で正面からパンドラを狙う。

「あら」

「串刺しになって、兄さんたちに詫びろ!!」

 ぼんやりと口に手を当てるパンドラに、フォルトナの魔法が襲いかかる。
 一本一本が大人の腕ほどもある氷の杭が都合二十本近く。間断ない速度で生成され、次々と射出――呆けた顔の少女の体を穿ち、白い水蒸気が爆裂する。

 氷の砕け散る音の連鎖は止まらず、白い煙が次々と立ち込める中にもフォルトナは攻撃の手を緩めない。幼エミリアがぽかんと口を開ける前で、赫怒に美しい横顔を歪ませるフォルトナは両手を掲げた。

「こぉれで――ッ!!」

 振り下ろされた両手に従うように、森の木々を上から薙ぎ倒すような強大な氷塊が落下する。それは狙い違わず、パンドラのいた地点を真上から叩き潰し、森の大地を白い終焉が墓標を穿つ。

 フォルトナの凄まじい魔法力に、今のエミリアすら声が出ない。
 パックの力を借りたエミリアであっても、あれほどの魔法を練れるものか。母を侮ったことなど一度もないが、その実力が記憶以上であったことに身震いする。
 だが――、

「あのさぁ……今のって完全に僕のこと眼中になかったよね? 眼中になかったのに、それでも僕を巻き添えにするような攻撃をするって実際のところどうなの? それってさぁ……僕の命を、僕の存在を、僕の権利を、踏みにじったってことだよねえ?」

 長ったらしい恨み節が聞こえた直後、巨大な氷塊が真下から粉々に砕かれる。
 粉になった氷の結晶が森の空に散る幻想的な光景の中、悠然と佇むレグルスの姿はあまりにも異質。そして、その隣で同じように無傷のパンドラも。

 軽く上着を手で払ってみせるレグルスは、あれだけの攻撃を受けたにも拘わらず、傷を負うどころか衣服に汚れの一つもついていない。パンドラは、風圧で乱れた前髪を手で少しだけ直している。
 おそらく、パンドラの前に立ったレグルスが彼女を庇ったのだとは思うが、あまりにも尋常でない。何が起きたのか、エミリアには何もわからなかった。

「アレが今代の強欲か。こうしてこの目にするのも、ありえない邂逅だと思えば興味深いものがあるな」

「あなた、今のがなんだったのかわかった?」

 木陰を離れて見やすい位置へやってきたエキドナに、エミリアは声をかける。エキドナはちらとエミリアを横目にすると、その双眸をわずかに細めた。

「想像はつくけれど、確証には遠いね。もう少し事態を見守れれば、どうなるかわかると言いたいところだけど……それは状況が許さないようだ」

「何を……」

「動くよ」

 短いエキドナの言葉に、エミリアは口惜しいものを感じながら前を見る。

 過去の争いは、フォルトナが口火を切ったにも拘わらず成果なし。
 不機嫌そうな顔のレグルスが一歩、前に出るのを見たジュースが腕を伸ばした。

「フォルトナ様、エミリア様を連れてお下がりください! レグルス・コルニアスに対して、今の我々ではあまりにも無力」

「そんな……! あの女を目の前にして、私に下がれとそう言うの!?」

「状況をお考えください! 今、あなたは誰を庇っておいでですか!」

「――――ッ!」

 徹底抗戦の構えを見せようとするフォルトナにジュースの一喝。驚愕に頬を強張らせたフォルトナが背後を見ると、そこには幼エミリアが不安げな顔で母の服の裾を掴んでいた。

「か、母様……」

「エミリア――!」

「お下がりください。そして、すぐに村に救援を。私と共にきた信徒たちは、私と思いを共にしてくれているものたち。きっとあなたのお力になります」

 抱き着く幼エミリアを胸に抱き入れるフォルトナに、ジュースが落ち着いた声で告げる。
それを聞いたフォルトナは幼エミリアを抱いて立ち上がり、不安げな目でジュースを見た。

「私たちがそうしたら、あなたはどうするの」

「――ご安心ください。私とて、無策で残るわけではありませんよ」

 フォルトナの憂う瞳に、ジュースは緊張を滲ませながらも笑みで応じる。
 彼のその笑顔を見て、フォルトナは振り切るように目をつむると、

「必ず、助けに戻るわ」

 それだけ言い残し、幼エミリアを抱くフォルトナは森を走り出す。
 腕の中でもがき、幼エミリアはフォルトナの頭の横から顔を出し、

「ジュース――!!」

「――――」

 幼エミリアの叫びに、振り返るジュースはどこか安堵したような顔で手を上げた。
 それきり、森の奥へ駆け込むフォルトナと幼エミリアには、ジュースの姿が見えなくなる。

「……おかしいわ。私、今ああやって連れていかれたから、この後を見てないはずなのに」

「ボクの構築した記憶の世界を侮らないことだよ。君の記憶を起点にしているが、構築はボクの術式と、叡智の書の記述を参考にしている。ある程度、君の意識が見ていない光景を補完することは容易い。もっとも……」

 エミリアの疑問に応じるエキドナ。彼女は当惑するエミリアの隣で、離脱したフォルトナたちを視線で追いかけ、

「君の『試練』を乗り越えるという意味では、あちらを追う方が正しいのは間違いない。どうしたい? ここの推移を見届けるかい?」

 言外にフォルトナを追うべきだと告げてくるエキドナ。彼女の言葉は論理的に正しい。確かに、『試練』に関わるのはエミリアの過去なのだから、この場で優先すべきは幼エミリアがこの後に何を見て、何を行うのかだ。だが、

「エキドナ……なんだか今、私をあっちに行かせたいみたいに聞こえたわ」

「…………」

「私の考えすぎ……じゃないと思う。今の言い方と態度、変だった」

「……どう思うのも勝手だ。それに、こっちももう動き出す」

 エミリアの問いかけに答えず、エキドナは表情を消したままわずかに下がる。彼女が下がったのは、これから始まる戦いによって余波を浴びるのを避けるためか。
 どれだけ盛大な被害が発生したとしても、エミリアやエキドナには影響はこない。ただし、地形が変わるようなことがあれば、足場の影響を受けることは避けられないのだ。

「なかなか格好いいじゃないか、ペテルギウス。でもさ、誰に断わってああいうことをしているわけ? 僕さ、何しにきたと思ってるの? どう考えてもさ、用事があるわけじゃない。お前にじゃなく、あっちにさ。それをこうして邪魔するってことは、僕のやるべき行いを阻害するってことだ。僕の権利への、侵害だ」

「好きに言えばいい、レグルス・コルニアス。だが、私は私の存在にかけて、ここより先へあなたたちを進ませるわけにはいかない!」

「言うもんだ。魔女教の創設者の一人だかなんだか知らないけど、過去にちょっと貢献したぐらいの理由で今の椅子に座ってるお前が。正しく選ばれてこの座にある、僕と張り合って勝てる算段なんてどうして持てるの?」

「それは……今から、お見せしましょう」

 身勝手な理論で怒りを募らせていくレグルスに、ジュースは静かに応じる。
 法衣の内に手を入れる彼は覚悟の表情で、エミリアにはそれがまるで『死』を覚悟する人間の表情に思えた。

「やだ……ジュース、何をするの……!?」

 過去を追体験することで、エミリアの中には彼への親愛が思い出されている。
 その彼が死を覚悟するほどの状況に、エミリアはとっさに手を伸ばして彼を止めようとした。しかし、過去の物語に今のエミリアが干渉する術などない。
 伸ばした手はすり抜け、幼い頃に握り合ったはずの掌は触れ合うことはなかった。

「それは……」

 ジュースが懐から抜いた黒い小箱。
 それを見るレグルスは眉を寄せたが、すぐにその正体に思い当たったように目を見開く。およそ初めて驚きを顔に浮かべた青年を、ジュースは決意を宿した瞳で射抜く。

「感じるはずです。あなたも、一度はこれを手にしたのだから」

「わかっているとも。わかっているからこそ、お前の馬鹿さ加減には開いた口が塞がらないよ。それを切り札か何かだとでも思って隠し持っていたのかもしれないけどさ、それを手元に置けてる時点でなんでわからないのかなあ? お前に! それを持つ資格はないって! 他でもない、それが決めてるってことなんだよ!」

「……確かに、私はこれと適合しない。故にずっと、ただ託されたものを持つだけでした。ですが、それもこのようなときのため」

「ペテルギウス・ロマネコンティ司教」

 激昂するレグルスに静かな答えを返すジュース。
 その二人の対話を、最初の場所から動かないパンドラが割る。

 名前を呼ばれたジュースが顔を上げると、パンドラは穏やかな顔で、

「良い旅を」

「――――」

 何の悪意も害意も敵意も他意もない、ただの祝福の言葉だ。
 だから、それを聞いたエミリアは怖気立つのを止められないし、それはジュースも同じだった。

 ジュースはまるで今の祝福に全身を切り刻まれたような顔で痛みに堪え、それから小箱を手の中で回して蓋を外す。
 掌に収まる小箱の中、黒く蠢く『ナニカ』がある。

「私を、お許しください。フリューゲル様」

 言って、その黒い『ナニカ』をジュースは小箱ごと己の胸に押し付ける。
 次の瞬間、『ナニカ』は触れたジュースの肉体の上で水を散らすように弾け、爆発的にその体積を増やしてジュースの全身を包み込む。
 まるで、粘性の生物がジュースを取り込むような光景にエミリアは声にならない悲鳴を上げた。『ナニカ』はジュースの体を覆い、締め付ける。

「馬鹿だ」

 吐き捨てるように言って、レグルスは初めて短い言葉で端的に評する。
 彼の侮蔑の視線の先、『ナニカ』に全身を包み込まれるジュースは両手を天に掲げ、口を開けて絶叫している。苦痛とも、快楽とも違う、もっと別の感情に存在を掻き乱されるように。

「――――」

 ふと、絶叫の中に不可思議な音が混じった。
 それは、誰かが手を叩く音だ。

「素晴らしい」

 呟き、拍手を送るのは白金の少女パンドラだ。
 彼女は今も感情の奔流に呑まれて喘ぐジュースを見て、恍惚に頬を赤らめる。
 息がわずかに弾んでいるのは、その光景に興奮しているからに他ならない。

「パンドラ様?」

 その態度に疑問を覚えたのは、エミリアだけでなくレグルスも同じだ。
 白い青年は拍手するパンドラに眉を寄せる。するとパンドラはそのレグルスに頬を赤らめたまま振り向き、拍手を中断してジュースを指差す。

「レグルス・コルニアス司教」

「はい」

「きますよ」

 直後、レグルスの体が突如として逆さ吊りになり、上空へ高々と放り投げられた。

「は――?」

 まるで人形の足を掴み、乱暴に空へ放ったときのような幼い暴力。
 投げられたレグルス自身にも何が起きたのかわかっていない様子で、抜けた声を漏らした彼の体は高さの頂点に達したかと思いきや、そのまま急速に地面へ落下。明らかに自由落下の速度を超えたそれは、『足を掴んだまま』投げつけられたような格好だ。

 なすすべもなく、頭から地面に叩きつけられるレグルス。
 轟音と地響きを立てて大地が爆砕し、衝撃に巻き込まれる木々が次々とレグルスの着弾地点へと倒れ込む。衝撃の追撃にレグルスが下敷きになり、静寂が森に落ちる。

 エミリアは声を失い、今の一連の行いがなんであったのか空白の思考で必死に追う。
 何一つ見えなかった。ただ、唯一わかったことがあるとすれば、

「言ったはず……デス」

 その場に膝をつく黒い法衣の男が、血の涙を流しながら前を見ている。
 もうもうと土煙の立ち込める木々の隙間を睨みつけ、荒い息を吐くのは覚悟を引き換えに賭けに勝利した一人の男。

 黒い『ナニカ』に覆われていた苦悶から脱し、立ち上がる。

 ジュース――否、その男、ペテルギウス・ロマネコンティだ。



「あの二人は、追わせない……ここから先へは、絶対に通さないの――デス!!」


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