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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章109 『誤った選択』



「事前にお話していた通り、村の方たちを避難させつつガーフィールを誘き出します。ナツキさんは時間稼ぎで構わないと言ってましたが、僕はそれ以上を欲張ってしまおうと思ってまして……協力、していただけますかね?」

 スバルと別れて、囮の竜車二台と出発する前に、集落の端でオットーとラムが向かい合って言葉を交わしていた。

 イマイチ、自信のなさげなオットーの問いかけに、腕を組むラムは壁に背を預けながら瞑目している。沈黙を守り続けるラムの姿に、オットーは作戦開始までの時間がないこともあって焦れながら、

「あの、すいません……正直、あんまり時間がないんですが」

「堪え性のない男は嫌われるわよ。前にも言ったけれど、条件次第なのは変わらないわ」

 片目を開け、ラムはぴしゃりと縋るようなオットーの視線を切り捨てる。
 彼女が口にした『前』というのは、このときより三日をさかのぼる。オットーがラムに共闘の申し出をしたのは、スバルがロズワールに賭けを持ちかけた夜のことだ。

 スバルの来訪に、ロズワールはラムに退室を促して二人きりになった。
 そのとき、家の外に出たラムに接触を図ったのが、スバルと協同していたオットーだ。事が福音書に関わる重大事となれば、ロズワールはラムを遠ざけるだろうという彼の読みは的中し、一定時間フリーとなる彼女を捕まえることができた。

 はっきり言って三日前の時点では、オットーとラムの接点は薄すぎるにもほどがあった。
 言葉を交わした回数は片手の指で足りるほどで、そもそもラムはロズワール以外の男にはよほどのことがなければ興味を欠片も抱かない。彼女がこの『聖域』で言葉を交わす相手など、ロズワール邸の関係者を除けばリューズとガーフィールぐらいのものだろう。
 故にオットーはまず、話しかける自分を道の端の石ころを見るような目で見てくるラムに対し、友好関係を築くところから始めなくてはならなかった。

「どうも、その……ラムさん。今夜はいい夜ですね」

「――――」

「あの?」

「――。ああ、誰かと思えばバルスの後ろでへこへこしてた男ね。バルスと一緒にいないと印象が薄すぎて、何の生き物だかわからなかったわ」

「人以下!? その印象は傷付きますねえ。いえ、その、ナツキさんの付属品みたいな扱いはわからなくはないんですが……」

「誰かの付属品であることを良しとする男に価値なんてないわ。消えて」

「辛辣!?」

 取り付く島もないラムの態度に、友好的接触を求めるオットーは早くもボロボロだ。
 彼女はオットーに対して何ら興味のない態度で、扉の脇に背を預けて腕を組む。

「あの、お話しても構いませんかね?」

「覚えるかどうかは別として、話しかけるのなら名乗ってからにしたらどうなの? 覚えるかどうかは別として」

「なんで二回、覚えるかどうか念押しされたんですかねえ。はぁ……僕の名前はオットー・スーウェン。一介の行商人でして、顔と名前だけでも憶えていただければ」

「持ち込む話の興味深さ次第、といったところね」

 力なく名乗るオットーに、ラムはあくまで主導権を譲らない。
 話を聞く姿勢を作りつつも、価値のない話題ならば即座に打ち切ると仰せだ。オットーは交渉相手の予想外の切り口に気合いを入れ直して、

「ナツキさんが今、辺境伯様とお話している内容にも関わるんですが……ラムさん。ナツキさんや僕と協力して、『聖域』を結界から解放するつもりはありませんか?」

「――お話にならないわね。ラムの願いはロズワール様の悲願の成就。ロズワール様の意思を尊重すれば、その方法での『聖域』の解放は何の意味もないわ」

「でも、それはあくまで辺境伯様の想定通りに事が進んだ場合……ですよね? すでにその流れから外れていること、ラムさんはご存知なんじゃないですか?」

「――――」

 スバルとの話し合いの末、ラムを仲間に引き込むと提案したのはオットーだ。
 スバルはギリギリまで渋ったものだが、彼の話を聞く限り、オットーには十分に勝算のある賭けであると判断できていた。

 閉じていた目を開けて、ラムは無感情な薄紅の瞳でオットーを見つめる。
 組んでいた腕を解き、下げた右手の指先がかすかに触れるのは、短いスカートの下に備え付けられている杖だろうか。
 言葉の選び方次第では逆鱗に触れて、彼女の怒りは風の刃をまとうことだろう。

 息を呑み、唇を舌で湿らせて、オットーは商いに挑むときと同じように不敵に笑んだ。
 体の強張りが消えて、鼓動の早さは心地よい速度へと切り替わる。

 さあ、いつもと同じように、『しのぎ』の時間だ。

「辺境伯様の思惑と外れた流れ――その中で初めて成立する、ラムさんの本当の望み。僕やナツキさんは、そのお手伝いができると思うんですがね」

 戸惑うように揺れていたラムの指先――それが、杖から外れたのを見て、オットーは自分の売り文句も、捨てたものではないとそう判断した。


 オットーからの提案を聞き、計画の詳細を知ったラムはいくつかの条件を提示した。
 正直、計画の全貌をラムに打ち明けるのはオットーたちにとってもかなり博打要素の大きなことだった。ラムの心の揺らぎを見違えれば、こちらの思惑の全てはロズワールへと露見する。しかし、その危険を冒すだけの価値が、ラムの翻意には存在したのだ。

 ラムが協力するための条件を引き出し、決して無理な内容ではないとオットーはそれを了承した。
 その彼女が協力する条件の細部は、オットーはスバルには話していない。彼女の協力を最大限得て、その上で起こす行動はスバルに内密にする必要があったからだ。
 話せば、彼は止めるだろう。しかし、情に従って彼がこちらの行動を引き留めれば、それは大枠の問題の成否を狭めることになりかねない。

「損な性分だわ。何を仕事にしているかは知らないけど、商人には向いてないわね」

「あなた、僕が行商人なの絶対に覚えてますよねえ!?」

 オットーの密かな決意に鼻を鳴らしてラムが言ってのけるのに、悲痛な叫び声が『聖域』の空に木霊していた。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――その猛獣の圧倒的な威圧感を前に、オットーは自分の体が震えていないことを不思議に思った。

 眼前に佇む異貌は、全長を四メートルはしのごうかという強大な肉体を持つ猛獣だ。
 歪で鋭い牙が巨大すぎる口から剣のように伸び、獣爪はまるで死を司る神が命を刈り取るために用いる鎌のような極悪の曲線を描いている。全身を覆う金色の体毛は一本一本が針金のようで、生半可な切れ味の得物ならば逆に絡め取ってしまいそうな厚みがある。
 体毛と同じ、金色の瞳の輝きだけに変貌する前の面影が残っているように思えて、瞬きする以前との共通点の少なさにかえって現実感を見失いそうだ。

 人間の体を脱ぎ捨てて、猛虎の姿をさらしたガーフィールがそこにいる。
 喉から漏れ出す生臭い吐息には唸り声が入り混じり、心胆から底冷えするような圧迫感が森の端々まで席巻するのがわかった。

「――――」

 口元に意識して笑みを作り、オットーは軽口の一つでも叩いて気を紛らわそうとする。
 しかし、喉は凍りついたように音を漏らさず、そもそも笑みを浮かべたはずの頬すらも意識を無視して固まったままだ。
 そして遅まきに失して、オットーは自分の体が震えていない理由を悟る。

 ――恐怖を感じていないのではない。絶対的な『死』の存在を目の前にして、オットーの肉体が生存するための機能を先んじて放棄したのだ。

 恐怖に体が震えるのは、肉体が魂を生かすために生存本能を焚き付ける防衛本能だ。
 そうやって肉体が魂に諦めるなと、そう呼びかけるために起きる現象――それをする意味がないほどの状況に置かれれば、肉体が震えないことなどかえって当然のことだ。

 話には聞いていた。だから想像だけはしていた。
 ガーフィールは獣人と人間族の混血であり、獣化する能力があるとは聞いていた。
 しかし、現実はオットーの薄っぺらい想像力をぶっちぎり、人智を超えた存在を顕現させて精神を根こそぎ食らい尽くしていった。

 これを、この存在を前に、自分は『時間稼ぎはいいが、倒してしまっても構わないだろう』などとのたまっていたのか。構うに決まってる。できるものか、そんなこと。
 なのに、

「ガーフが獣化した……これで、条件は全て達成したわね」

 隣に立つ小柄な少女が、その圧倒的な存在を前にしても変わらぬ声音で言った。
 何を、と問い返すことすらできない。それでも、音が鳴りそうなほど機械的に首を動かして、オットーはどうにか少女――ラムを見る。
 ラムは、その口元をかすかに緩めて、初めてオットーに微笑めいた表情を見せた。

「ガーフはわかりやすく判断を間違った。――この勝負、ラムたちの勝ちよ」

「――――」

 ホントかよ、とオットーは敬語も忘れて内心でそう突っ込んでいた。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――ラムがオットーに提示した、自分が協力する条件は大まかには三つ。

「ロズワール様の思惑……福音書の記述を外れて、それでもロズワール様がこの世界を生き続ける気力を何らかの形で維持し続けること」

 これは、スバルがロズワールに賭けを持ちかけることで成立した。
 一度は何もかもを投げ出しかけたロズワールは、再び戦化粧をその身に施し、生気みなぎる瞳で世界に改めて挑む覚悟を決めている。

「それとは別に、エミリア様が『試練』へ挑む気概を失わないこと。ロズワール様の思惑を外れた世界をそれでも継続するのなら、あの方が立つことは避けられない。……決行の日までに、試す場をこちらで用意することにするわ」

 こちらは完全にエミリアと、そのエミリアのケアをするスバル任せの条件であったが、少なくとも話を聞く耳を持ってくれた以上は、ラムの中ではクリアしたものと捉えてくれていたのだろう。
 エミリアがいなくなったと聞いたとき、オットーは完全に何もかも終わったと思ったのだが、ラムはそう考えていないようだった。詳しく聞いて心変わりされるのが怖いので、深く追及はしていないが。
 そして、

「今の二つを達成したなら、ラムもそちらに加担してもいいわ。……バルスには内密にする計画の方に協力するには、もう少し細かい条件がいるけれど」

「お聞かせいただけると、僕個人としても攻略の糸口が見えるかなと」

「ガーフと戦うのにラムが参戦するなら、勝ち目を少しでも広げてからよ。まず、ガーフの鼻を封じること。ある程度はダメージを負わせて、冷静さを奪うこと。決定的な場面になるまでは手出ししないから、そこまでは自力で到達なさい。わざわざこんな計画を持ち掛ける以上、切り札の一つぐらいはあるんでしょう?」

「それは、まあ……多少なりとは」

「そう、当然ね。それを踏まえて最後の条件だけど」

「はい」

「ガーフを獣化させること。――これが、勝ちを得るための最後の条件よ」


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「嗅覚は、潰したままね」

「…………」

「情けない」

「ぐえっ!」

 問いかけに言葉を返せないほど萎縮するオットーに、ラムが容赦なく肘を打ち込む。脇腹を抉る鋭い痛みに苦鳴を上げ、呼吸を思い出したオットーは喘ぎながら、

「あ、あふっ……し、死ぬかと……今、圧迫感だけで死ぬかと……!」

「薄くて柔い肉の盾でもないよりマシよ、気張りなさい。嗅覚は、潰しているはずね?」

「聞き捨てならない発言は聞き捨てるとして、はい、潰してあります。マコイルの花粉は超強力な害獣除けですから、間近で嗅いだら人間だって意識なくしますよ」

「嗅覚が何倍もあるガーフならなおさらね。これで、獣化した利点の一つは無効化。あとは時間と、それから獣化前のダメージ……どちらも、想定通り」

 軽く息を吐き、ラムがその場で軽く踵を浮かせて爪先立ち。そのまま踵を下ろし、それを何度か繰り返す、簡単な足の運動を始める。
 彼女のその奇行にオットーは眉を寄せ、「えっと?」と首をひねる。

「ら、ラムさん? 何をしてるんです?」

「準備運動よ。始める前に軽く体を解す。癪だけど、バルスの言う通り効率的だわ」

「いえ、そうでなくて……何のためのそんな運動を?」

「簡単よ」

 いまだに声から震えを消し切れていないオットーを尻目に、上下運動を終わらせたラムが瞑目。それから目を開くと、ラムはその足を前へ――軽い調子で、まるで散歩にでも出るような緩やかな足取りで、眼前の巨獣へと距離を詰め始めた。

「ちょっ!?」

「黙ってなさい」

 その豪胆な行動に目を見張るオットー。だが、ラムはその声を拒絶して、速度を緩めることもなく猛虎の前へ。
 身を低くし、目の前の獲物を睥睨していた猛虎は、その小さい存在の行動に一瞬だけ虚を突かれたように固まったが、すぐにそれを自分への侮辱ようなものと判断。

 金色の瞳に憤激を浮かべて、もはやラムの胴体よりも前足を振りかぶり、薙ぎ払うように爪が放たれる。爪の一本が華奢な少女の腕ほどもある一撃は、掠めただけで少女の四肢を一瞬で肉片へと変貌させるだけの威力があった。

 風をうならせ、爪の形をした死神の鎌が、ラムの命を力ずくで現世から引き剥がす。
 ――その直前、

「温いわ、ガーフ。――誰を相手にしていると思っているの?」

 屈み、豪腕に頭上を通過させるラムが哀れむように猛虎へ話しかける。
 渾身の一撃を空振りする形になった猛虎の体が泳ぎ、ラムの小さな体はその懐へと入り込んでいた。そして、膝を曲げたラムは体を伸ばす要領で構えた拳を突き上げ――、

「殴り合いでラムに勝てたことが、一度でもあったかしら?」

「――――ッ!」

 胴体にめり込む拳が、数百キロを下回らない獣の体を真下から打ち上げた。
 打撃の威力に体が曲がり、巨獣のだらしなく開いた口から苦鳴じみたものが漏れる。衝撃波が森をつんざき、オットーは空気が弾ける音を鼓膜に聞いた。

「う、っそ」

 自分より頭一つ分は背の低いだろう少女が、見上げてもなお足りないほどに強大な獣を拳で殴りつけた。そのまま、ラムは猛虎の胴体に拳を当てたまま、反対の手をさらにその体へと叩きつける。
 交互に射出される乱打が巨躯を打ち、猛獣は絶叫しながら後ずさった。そのまま、牙を剥いて強大な顎がラムを狙うが、翻る彼女は猛虎の鼻面に足を乗せて、逆に獣の顔面を地面へと脚力で踏みつける。

 地面を削り、吶喊を潰された巨獣は身をひねり、自分を翻弄する少女を手足を振り乱して砕こうとするが、まるで風に踊る木の葉のように振舞うラムの体は、猛獣の動きを嘲笑うように回避し、次々と体毛の薄い場所へと鋭い一撃を突き込んでいく。

 喉に踵が。脇腹に貫手が。足の甲を拳が打ち抜き、空いた顔面に蹴りが直撃する。

 猛獣の存在を圧倒的な近接戦闘力で打倒する姿は、まるで絵物語を見るような非現実さでオットーの心を捉えていた。

 自分は今、何を見ているのだろうか。
 人の姿を捨てたガーフィールを見て、オットーの肉体は生きることを諦めるほどの絶望感を味わった。だというのに、目の前のこれは何だというのか。

 少女が腕を振るうたびに、猛獣の体は打撃の威力に弾み、咆哮だけで生き物を殺しかねないほどの巨躯は、空回りするばかりで一撃も少女へ届かせることができない。
 暴れる腕は見当違いに木々を薙ぎ倒し、大地を削り、森の形を乱暴に変えていくが、刻一刻と変わる足場の状態をラムはものともしていない。

 勝てる、これならば。
 戦いに挑む前、ラムの言葉を疑った自分が愚かに思える。
 あえてガーフィールを獣化させると語った彼女の言葉に、今は確かな信憑性があった。

 猛獣と化したガーフィールの存在感は圧倒的だが、その蹂躙力は多対一のときにこそ発揮される類のものだ。もちろん質量差はそのまま武器であり、本来であれば個と相対したとしても後れを取ることなどあるはずもない。
 ただその相手をする個が、人域を超えた戦闘力を持つものの場合は話が別だ。

 分厚い肉の体は巨大な的になり、大木を薙ぎ倒す豪腕は隙の大きな得物となり、全てを踏み荒らす強大さは攻めるにも逃れるにも偏り切らない鈍重さを生む。

 冷静に、状況を分析すればそれを察することはできる。
 だが、簡単に攻略できるように思えるのは、その『圧倒的な個』という前提が用意できて初めて成立する論法だ。
 獣化したガーフィールに対し、これ以上ない友好的な鬼札――得難いそれを自陣営に引き込めたことこそが、この戦い最大のオットーの貢献だった。

「いけ……いける! これなら、ガーフィールを……!」

 拳を固めて、オットーは勝利の展望が見えたことに喝采を上げる。
 その希望を裏付けるようにラムの拳が猛虎の顔面を横殴りに打ち抜き、猛獣の体が土煙を上げて地面を大袈裟に吹っ飛んでいく。
 そして――、

「――ぶ」

 堪え切れなかった呻き声を上げて、額から大量に流血するラムの体が大きく揺らいだ。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 流血に視界が真っ赤に染まるのを感じながら、ラムは自分の体が崩れ落ちそうになるのを懸命な足取りでどうにか堪えた。

 鋭い痛みが突き刺さるように走るのは、額の少し上――頭の中央。かすかに白い傷の名残があるそこを端とする痛苦に、ラムは忌々しいものを感じて舌打ちする。

 背後で、裏返った声でオットーが悲鳴を上げたのがわかった。うるさい。
 状況が一気に悪い方向へ傾いたことぐらい、他でもないラム自身が一番よくわかっている。別にガーフィールの攻撃が当たったわけではない。あんな考えなしで隙だらけの大振り、当たろうとする方が難しいぐらいだ。叫び声がうるさい。叩いてやりたい。

「――ふっ」

 短い息を吐き、ふらつきそうになる足で地面を蹴る。
 直後、ラムが跳躍した足下を、猛虎の爪が抉り飛ばした。土塊が跳ね上がり、泥の散弾を身を回すラムが鮮血を散らしながら踊るように回避。
 目に見える時間制限は課せられたが、まだどうにかこうにか体は動く。隙だらけの猛虎の顎を下から蹴り上げて、苦鳴を上げる顔面をもう片方の足が追撃。蹴りの勢いで後方回転し、距離を取る体が着地の瞬間に体勢を崩した。

「――ぁ」

「――――ッ!」

 間一髪。爪が回避の遅れたラムの髪を一房刈り取り、桃色が宙を散り散りに舞う。
 今の回避は完全に偶然の産物だ。たまたま足を滑らせていなければ、ラムの首から上が赤い果実のように弾けていたことは間違いない。
 臨死の感覚を間近に味わい、背筋を得も言われぬものが駆け上がるのを味わいながら、ラムは赤い唇を綻ばせながら小さく吠える。

 戦いの高揚感。額の傷跡が疼き、痒みと痛みの狭間のような感覚を全身に送り込む。
 折れた角。鬼の証。ラムの体のポテンシャルを全て発揮するには、角という器官が周囲から無尽蔵にマナを掻き集めることが必須だ。その角という器官を失ったラムの肉体は、その本来のスペックを十分の一ほども発揮できない。
 こうして無理に肉体を酷使すれば、即座に反動が襲いかかってくるのはわかっていた。

 それでも条件を整えて、短期間の殴り合いに終始すれば負けないつもりだったのに。

「――強くなったのね、ガーフ」

 ぽつりと、そう呟くラムの声には滅多に他人に覗かせない感情が溢れていた。
 オットーはもちろん、スバルですら稀にしか見れないそれは、彼女の記憶からは消えている肉親に対して見せていた類の感情だ。

 柔らかな微笑を刻んだまま、繰り出される拳が猛虎の鼻面を容赦なく叩き潰す。
 拳に跳ね返る固い体皮の感触。硬化の作用が消えた拳にダイレクトに衝撃が跳ね返り、拳の骨が砕けたのがわかった。快い感触。戦っている。生きている。殺したり、殺されたりしそうな高揚感。圧倒的な多幸感が全身を支配している。もっと、もっとだ。もっと先がある。もっと辿り着ける次元がある。

 右拳は砕け散り、握り拳を固めることもできない。鼻面を潰された猛虎が咆哮を上げる。暴風が吹きつけるように息吹が正面から迫り、左の手刀で風を割って虎の薄い首の皮を抉る。血が噴き出し、指先に掴んだ肉を引き剥がして鮮血が噴き出す。斑点が壮絶に白い頬に散り、舐めとる舌が甘い鉄の味で酩酊感をもたらす。
 砕けた右手が使えないならば、相手の首に腕を回す。自分の胴体をはるかに上回る首の太さは、腕の一本では到底絡めとれない。飛びつき、組みつき、足も使って猛獣の動脈を締めにかかり、こちらを引き剥がそうと迫る爪を回避。全体重をかけて、指の一本をへし折る。絶叫が心地よい、故郷に帰った気分だ。

「ぶ、ふ、あぶ」

 こんなに楽しい踊りを続けているのに、朦朧としてくる頭が腹立たしい。額からの出血は止まる気配がなく、ついには鼻からも口からも血が流れ始めた。
 限界を超えた挙動に、肉体の崩壊が始まっている。ラムの肉体を操る神経のポテンシャルに、マナによる補強を受けられない肉体がついてこれないのだ。
 依然、猛烈な速度で動くラムの肉体はガーフィールの爪を回避し続けている。一撃すらかすらせない圧倒的な戦闘力。しかし、崩壊の魔の手は確実に終わりを目指して彼女の肉体を蝕んでいる。爪や牙が届くより先に、終わりが彼女を捉えるのが早い。

「――ぅ、ふ」

 深く息を吸い、深く息を吐いた直後、込み上げてくるものが大量に口から溢れた。
 血の塊が音を立てて地面に落ち、排出されたそれがまるでラムの活力そのものであったかのように全身の力が抜ける。
 肩が落ち、膝が崩れる。その瞬間を、猛獣は今度こそ見逃さない。度重なる打撃を受けてボロボロの形相が、牙を剥いてラムの細い体に腕を叩きつける。

 だがそれを――。

「うわあああ! ドーナ!!」

 裏返る声で詠唱が上がり、地面から突き出すように土壁がせり上がる。
 それは叩きつけられる猛虎の腕とラムの体との間に割って入り、ほんの一瞬だけその威力を減衰させ、即座に破壊されて粉微塵になる。
 しかし、その一瞬の間に、ラムの体は強引な挙動に引き寄せられ、そして思い切り後ろへと投げ捨てられていた。

 ――戦いの場で、こうして誰かに放り投げられるのは二度目な気がする。

 宙を飛び、ぼんやりと空を仰ぐラムは場違いにもそんな感慨を抱く。そして、背中から地面に打ち付けられて息を詰めながら、とっさに顔を上げて状況を把握した。
 正面、ラムがいた位置に、代わりに割り込んだのは震えて縮こまっていたはずのオットーだ。彼はラムの様子がおかしくなり、状況不利と判断して飛び込んできたらしい。
 だからといって、何ができるはずもないが――。

「――――ッ!!」

 猛獣も、自分とラムとの戦いの間に非力な存在が割り込んだことに激高し、森を揺るがすような咆哮でなまっちろい青年を威嚇する。すくんでしまえば、その時点で牙の餌食になるのは確実。即座に動くことが求められる場面で、何を考えたのかオットーは握り拳を作ると地面を踏みしめて、

「――――っ!」

 猛獣が上げたものと全く同じ咆哮を、その細い喉から言い放っていた。
 事前に聞いていた『言霊の加護』の力だ。知能ある生き物であれば、地竜や小動物はおろか、虫とすら対話することができるとうそぶいたその力は、『理性を失った獣』である獣化したガーフィールとすら意思疎通を可能にしたのだ。

 ガーフィールの咆哮が、オットーになんと聞こえたのかはわからない。
 オットーの咆哮のような返事に、ガーフィールが何を感じたのかはわからない。

 ただ、咆哮のぶつかり合いは、爪と牙が繰り出される前にわずかな隙間を生んだ。
 その時間はラムに、オットーが自分を放り投げた真意を気付かせるには十分な時間だった。

「――――ッ!!」

「――っ! ああ! もう、喉が限界……っ!」

 文字通り、血を吐くような絶叫に耐え兼ねて、喉を押さえるオットーが咳き込む。
 言い合いに終止符を見出し、猛獣が腕を振り上げ、薙ぎ払う一撃でオットーを狙う。それを前にオットーは両手を正面に構えて、覚悟を決めた顔でヤケクソ気味に叫ぶ。

「エルドーナぁ!!」

 分厚い土壁がオットーの正面に展開し、それを見届けない内にオットーは後ろへ飛ぶ。それを追うように猛獣の腕が壁を砕き、粉塵を巻き上げ、逃げるオットーの胴体に迫り――直撃、細い体が大人に蹴られた枯れ枝のように軽々吹っ飛び、木々の茂みの中へとノンストップで突っ込んでいく。

 生き残ったか死んだか、完全にオットーの耐久力任せだ。
 ラムは彼の判断と行動の結果に対して意識を割かない。そうしないことこそが、オットーの行動に報いる最適な行いであると判断した。

「ガーフ。――やっぱり、獣化したのは誤りだったわ」

 オットーを吹き飛ばし、次こそはラムを狙い撃つとこちらへ向き直る猛獣へ告げる。
 木々にもたれかかるようにして、血の高揚感から解放されたラムは徐々に冷静さを取り戻しつつ、かろうじて健在な左手に握った杖を先端をガーフィールへ向けた。

 マナが、変質する。

「もしもガーフになけなしの判断力が残っていたなら、今のラムを見逃しはしなかったでしょう」

「――――」

 ラムの言葉に、猛獣は警戒するように鼻面に皺を寄せる。
 しかし、猛虎はそれ以上の行動を起こせない。何が起きるのか、わかっていない。
 理性をなくした猛獣の目には、『白い光の中に佇む』ラムの姿の意味がわからない。

 獣化し、ラムへと襲いかかる過程で大地を、木々を、森を大いに荒らした猛獣は、森の住民たちにとって性懲りもなく暴れる悪い奴扱いで――。

「ラムは、あの男のようなヘマはしないわ」

「――――!」

 何かに気付き、猛獣が姿勢を低くしてラムへと突撃する。
 遅い。

「――アルフーラ」

 森の住民たちの怒りが集束したマナが、ラムの構えた杖の先端に宿り、光が爆発する。


 ――そして、『聖域』の森の攻防戦が終結した。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 獣の咆哮が聞こえたような気がして、スバルは足を止めて振り返った。

「いや、まさかな」

 いくら何でも早すぎる、というのが単純なスバルの感想だ。
 時間稼ぎを頼んだオットーと別れて、おおよそ二十分ほどだろうか。まだオットーの竜車が出発したかどうかすら怪しいぐらいで、状況の進展がそこまで進んだはずがない。

 不安がスバルに幻聴をもたらしたものと結論付けるが、その方がかえって恐ろしい想像だった。自分がどれだけ、この状況を無意識に不安がっているのかということだから。

「信じろ信じろ。オットーは時間稼ぎに徹するって話だ。ガーフィールに捕まったら、すぐに種明かしするようには言ってあるし……アーラム村の人たちだって、余計なことは知らせてねぇんだから襲われる対象にはならねぇはずだ」

 ガーフィールが村人、ひいては外へ脱出しようとするスバルを襲撃する経緯は、スバルの推測では『リューズの複製体のことをガーフィールと話した回』だ。つまりガーフィールは、外に複製体の話を持ち出されたくないのだ。
 それがどういった理由に根差すものかはわからないが、それを知る可能性のある存在を根絶やしにしなくては奴は安心できない。以前のループでスバル以外の住民たちを皆殺しにしたケースは、脱出に同道した彼らの誰にスバルが情報を漏らしたのか、ガーフィールが判断できなかったことが要因だろう。

 話していない、との断言をガーフィールがどれだけ信じるかは賭けではあるが、真摯に訴えかければ通じるのではないか、という謎の信頼がそこにはあった。
 小難しいことを考えるのが苦手そうなガーフィールだから、考えなくて済むような判断材料を与えてやればいい的な発想かもしれない。

「オットーの話じゃ、ラムの協力は取り付けられたって話だしな。最悪、よっぽど切羽詰ってない限りは、あいつがラムに手を上げることはないはず……」

 懸案材料があるとすれば、ラムが必要以上にガーフィールを挑発した場合か。
 付き合いが長いという二人は、微妙にスバルの行き届いていない過去の感情を共有している。そこを発端に亀裂が広げられると、予想外の展開を見せる可能性もある。
 ただ、今回の話にラムが乗った経緯は、ロズワールが福音書の記述を外れた世界でも生きていく、そのための道筋を自らがつけるためのはずだ。少なくともスバルはそう解釈しており、それを成し遂げるためにはスバルたちとの協同が不可欠。
 オットーの仕切りに不満があったとしても、きっと従ってくれるはず。

「信じてるぜ、姉様。オットーがいかに頼りなくても、話は聞いてくれよ」

 合掌し、スバルは二人の安否に最大限の祈りを捧げる。
 自分の知らないところで、その二人が勝手に死線を越えるほどの決断を下している事実には気付かず、スバルはひとしきり祈りを終えると、

「じゃ、こっちはこっちで、役割を果たすとしますかね」

 気合いを入れるように頬を張り、スバルは頭を振ってから満を持して進み出す。
 正面、ぽっかりと口を開けた入口へと足を踏み入れた瞬間、スバルはまるで宙を落下するような浮遊感――内臓が浮かび上がるような不快感を全身に味わった。

「うぶ……」

 口元に手を当てて、スバルは込み上げる嘔吐感を無理やりに飲み下して前に踏み出す。
 消えない浮遊感。足を踏みしめるごとに段階を踏んで内臓を掻き乱していく感覚。血液が逆流し、眼球が空気に舐め回されるような圧倒的な不快感。
 世界がナツキ・スバルを全霊で拒むような拒絶感を味わいながら、スバルは深呼吸を繰り返し、壁に手をついて顔を蒼白にしながら足を引きずって進む。

「そんな、つれなくすんなよ……傷付くんだぜ、俺だってさぁ……」

 胃の中身は、これを予期して先に空っぽにしておいた。それでも、内臓を絞り上げるような吐気は口の端から胃液を溢れさせることを要求している。
 それをねじ伏せ、目を押し開き、暗がりの中をスバルは懸命に必死に這うように歩く。

 そして――、

「ああ、よかった。――やっと見つけた」

 永遠にも思えるほど、長く感じた短い距離を進み終えて、スバルは安堵に肩を落とす。
 スバルの正面、年季の入った壁に寄り掛かり、泥と埃で汚れた通路に腰を下ろして膝を抱えた少女が、呆然とした目つきでこちらを見ていた。

「すば、る……?」

 その声が、たどたどしくではあるけれど、自分の名前を呼んでくれたことに満足。
 それからスバルは、座る少女の隣に腰を下ろして――、

「じゃぁ――話をしようか、エミリアたん」

 かつて、自分の過ちを認め切れなかったときの相対と同じ切り出しを、スバルの方から今度は持ち掛けた。
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