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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章99 『閉じた場所でひとり』



 ――重要人物の二人が、同時にその行方をくらますという事態。

 当然、これまでのループで一度も起きていない経験を前に、スバルの内は焦燥感に焦がされるばかりだった。
 『聖域』を駆け足で通り抜け、スバルはリューズが住まっていた仮宿へ向かう。エミリアに家を貸している間、リューズは村外れの小屋を生活に利用しているという話だったが。

「……きやがったか」

 乱暴に扉を押し開けて踏み込むスバルを、建物の中で仁王立ちしていたガーフィールが出迎える。彼は腕を組み、鼻面に皺を寄せて苛立ちを露わにしながらスバルを睨み、

「遅ェ。どんだっけ人を待たせやがんだ、てめェ」

「い、急いできたっつんだよ……それより、リューズさんがいなくなったってのは?」

「見た通りだろっがよ」

 顎をしゃくり、狭い部屋の中を示してみせるガーフィール。見渡す、というほどのスペースがある場所でもない。リューズの仮住まいは掘っ建て小屋のような場所で、手狭な部屋にベッドがぽつんと置かれているだけの簡素なものだ。
 そしてそのベッドの上にリューズの姿が見つからないのであれば、留守にしているというのは疑いようもない。

 息を整えながら、スバルは顎に伝う汗を乱暴に袖で拭う。

「いないのは見りゃわかるが……行方不明、ってのは大げさなんじゃないのか? リューズさんだって見た目の幼さに反して立派に大人だ。別段、散歩に出歩いてるぐらいのことで騒ぎ立てることなんか……」

「ざっけんな! てめェに何がわかるってんだよォ! ババアはな、これまで一回こっきりも、朝飯に理由も言わずに顔を出さなかったこたァねェんだ。寝坊したとこも病気で寝込んでたとこも見たこっとねェってのに、散歩だァ? 食い殺すぞ」

「語調が乱暴なのに、どんだけアットホームな付き合いなんだお前とリューズさん……」

 事情が事情なのに、リューズ行方不明を決定づけた根拠がほのぼのしいもので力が抜ける。だが、ガーフィールはこちらの脱力など眼中にない。
 彼はようやく背筋を伸ばしたスバルに詰め寄り、牙を剥き出しにしながら、

「今までに一度もなかったことが、今朝になって急に起きた。今、この集落で何かこれっまでにねェことが起きるってんなら、それはてめェらが関わってるからだって馬鹿でもわかるぜ。――てめェ、ババアに何か余計な真似したんっじゃねェだろうなァ」

 言いがかりのヤマ勘ではあるが、今回に限ってはガーフィールの疑いは正鵠を射ている。
 リューズ――今日の担当はθのはずだが、θの失踪はほぼ確実にスバルが原因だろう。エミリアと同様にθもまた、誰かに連れ去られてしまったとは考え難い。
 自らの足で、ガーフィールに言伝も残さずにこの場を去った。彼女もエミリアと同じで『聖域』の結界に阻まれ、外へ逃げ去ることは叶わない。となれば、θの目的は逃げ隠れすること。――それも、こちらはエミリアよりさらに切迫した時間制限がある。

「θさんの場合、今日中に見つけ出せないと……」

 役割が譲られて、また明日は別のリューズ――α、β、Σのいずれかに切り替わってしまう。そうなってしまえば、二日後のリミットまでにθと話し合いの場を持つことはおそらく不可能となり、それはそのまま『聖域』の完全攻略の頓挫をも意味している。

「しーたぁ……?」

 リューズをそう呼ぶスバルに、ガーフィールは疑問符を顔に浮かべている。
 θを探し出す協力を仰ごうと思ったスバルは、そのガーフィールの表情を見て、ふとそれを思いとどまった。
 湧き出した疑問が、スバルに先の言葉を詰まらせたのだ。

「――――」

 それは単純な疑問で、それなのにこれまで一度も確かめてこなかった質問だった。

 ――はたしてガーフィールは、リューズの代表人格が四人いることを知っているのだろうか。

 森の奥の廃棄実験場と、クリスタルの中のリューズ・メイエルを知るガーフィールだ。『試練』にも挑み、エキドナとも邂逅している彼は『強欲の使徒』としての資格の所持者でもある。複製体の指揮権の現所有者でもあるガーフィールは、当然だがリューズが本体の複製体であること、そして瓜二つの存在が数多くいることを知っている。
 だが、その先は? ガーフィールはリューズの代表格が、α・β・Σ・θの四人の存在を、知っているのだろうか。

「んだァ? てめェ、急に何を黙り込んでっやがる。何か心当たりでもあるってんなら、キリキリ白状しやっがれ。『正直で素直なリブリブは騙されても幸せ』っていうだろうがよォ」

「それ、リブリブ最後まで騙されてるだろ……」

 幸福の王子様的なストーリーを描きつつ、スバルはガーフィールの追及に対してどう応じるべきか頭を悩ませる。
 ガーフィールとの相対は、『聖域』攻略の最後の関門だ。正直、θの腹の内を聞き出せていない内から挑むことになるのは、準備不足も甚だしい。しかし図らずも、ここでの応じ方によってはそこに触れなくてはならなくなる。
 ――どう、応じるべきか。思い悩んだ挙句、スバルは、

「なぁ、ガーフィール。お前、その気になればリューズさんを呼び出せるはずなんじゃないのか?」

「――――ッ!!」

 言い切った直後、スバルはガーフィールの表情が激変するのを見た。さらにガーフィールは動揺に瞳を揺らしてすぐ、スバルの胸倉を掴んで思い切り引き寄せる。
 額と額がぶつかりそうなほどの至近で、ガーフィールは金色の瞳に怒りを、視線だけで相手を焼き尽くせそうなほど、強烈な怒りをたたえていた。

「いったい、てめェが何を言いたいのかが、俺様にはさっぱりこれっぽっちも欠片もミューフラムほどもわっかんねェなァ、オイ」

「み、ミューフラムってのが何だかわからねぇけど……これっぽっちも心当たりがねぇ奴の反応じゃ、ねぇよ……離せ、バカ」

 頭に血が上ってスバルの胸倉を掴み、そこで冷静さに立ち返ったのか。言ってはならないことを隠そうとするガーフィールの言葉は支離滅裂だ。
 スバルの指摘に図星を突かれたガーフィールの手が緩み、スバルはその間に体を振って彼の拘束から逃れる。よれよれになった衣服を正し、一歩、距離を開けてから、

「俺の言いたいことは、言葉通りの意味だ。それがわからねぇほどお前は頭残念じゃねぇだろ。手段はある。一番、手っ取り早い解決法が。なんで、それを選ばない」

「気楽に、言ってくれやがって……ッ」

 忌々しげに頬を歪めて、ガーフィールは心底憎らしげにスバルを睨みつける。
 だが、双眸に宿る感情は憤怒と敵意の割合を強めながらも、スバルにもはっきり見て取れるほどの悲嘆の影が差しているのがわかった。
 その悲しみの感情に気付いたスバルの表情が変わると、ガーフィールは自身の中に浮かんだ感情の影が見られたことに、舌打ちして顔を背ける。

「資格持ちはこれっだから油断ならねェ。あの性悪の魔女に、中でどんだっけのこと吹き込まれてきてやがるか得体が知れねェよ。っざっけんな、っざっけんな」

「――――」

「ババアの実験場のことも、知ってやがるって面してやがる。なら、石の中のババアの大元のこともわかってやがんだろうが……これは、そうそう使えねェ」

 ガーフィールは右手を胸の内に抱え込み、スバルの視線から隠すような仕草。直接的にそこにあるわけではないだろうが、『指揮権』という目に見えないものを自分が所持しているということを示しているのだろう。
 今の仕草をそう解釈するスバルに、ガーフィールは腕を抱え込んだまま、

「俺様ァ、てめェやロズワールたァ違う。そこにあるのがわかってても、それをいいように利用してやろうなんざ……絶対に、思わねェ」

「……ガーフィール」

「俺様一人で十分だ。俺様一人いれば、他の何も必要ねェ。この力も、土壇場の土壇場の土壇場がくるまで、使ってやるもんかよォ。――婆ちゃんは、俺の婆ちゃんだ」

 ぽつりと、最後にこぼした呟き。
 以前にも一度だけ彼が、リューズのことを『婆ちゃん』と呼んだことがあった。今回はそれに加えて、自分を誇示するように『俺様』とも言わなかった。
 意図せず漏れ出したそれこそが、ガーフィールの本音なのだろうか。

「――ちっ」

 自分が余計なことを口にしていることに気付き、ガーフィールは苛立たしげに床を蹴りつける。過剰な威力に掘っ建て小屋全体が揺れて、パラパラと埃が舞い落ちてくるのを頭や首筋に感じながら、スバルはガーフィールのアクションを待つ。
 熱くなっているのが自分ばかりと理解し、ガーフィールはさらに居心地悪そうに表情を歪めると、部屋の扉の前に立つスバルを乱暴に腕で押しのけた。

「どけ。もうてめェに用はねェ。すっぐにババアの行く先に当たりがつかねェってんなら、俺様が先に見つけ出すだけだ。それでもう、てめェには触らせねェ」

「俺が原因、俺が原因ってずいぶん決めつけてくれるじゃねぇか」

「てめェが……てめェらがくるまで、ここは何事もなくて平和だったんだ。俺様ァ、その時間を取り戻す。中にも外にも、もう何もいらねェ。……いらねェんだ」

 弱々しく言い残して、ガーフィールが大股で小屋の外に出ていく。外へ出た彼はすぐにその膝を軽くたわめると、獣じみた脚力で一気に加速――一本道だというのに、ものの数秒で見えなくなるほどの速度で走り去ってしまう。
 ガーフィールの蹴り足が起こした土煙を腕で払い、スバルは彼の後を追って外に出る前に改めて部屋の中を確認する。

 短絡的な結論に至ったガーフィールはともかく、本当にリューズは何の痕跡も残さずにここから立ち去ったのだろうか。ひょっとしたら、行き先のヒントの一つでも残していっているのでは――。

「なんて、そんなもんがあるんなら俺より付き合いの長い奴がとっくに気付くっつの。俺はあいつより鼻も利かなけりゃ、目つきも悪いってのに」

 五分ほど探し回ってみて、何も見つからなかったことに自虐交じりに嘆息。それからスバルも小屋の外へ出て、集落の方に視線を送りながら、考える。

「――――」

 エミリアとリューズθ、二人がほぼ同時に姿をくらましてしまっている。
 おそらくはそれぞれが、自発的に建物を出て、スバルや他の人たちの目から逃れている形だ。二人が一緒に行動している、という可能性はあるだろうか。

「俺の見たとこじゃ、エミリアとリューズさんが親しげにしてた記憶はねぇが……」

『聖域』では王選や『試練』の問題について常に頭を悩ませていたエミリアだ。彼女が心安らかに誰かと交流を持っていた記憶は、今のところ思い当たらない。
 せいぜいがスバル、ラム、オットーあたりととりとめのない会話をしていただろうかといったところで、リューズやガーフィールといった『聖域』の代表者とも交わした言葉は少なかったように思う。

 今にして思えば、そうした外側との触れ合いの少なさが、エミリアの孤独な使命感の責任を内側に求める結果に繋がったのではないかと、自分の配慮の足りなさが浮き彫りになる。スバルがもっとうまく立ち回っていれば、エミリアは感情を持て余すようなことにならず、もっと明瞭な解決法を探すこともできたのではないだろうか。

「それもこれも、今さらすぎるな……」

 今はエミリアがいなくなった原因、遠因の反省をしている場合ではない。何より、突き詰めていけばその理由は、スバル自身の自己否定にしか繋がらないのだ。
 とかくネガティブ思考に浸りやすい自分に、そんな自己嫌悪をさせている暇は今はない。

「ガーフィールにエミリアが行方不明だってことが知られなかったのは、不幸中の幸いだったか……リューズさんより優先して探すようなことはしちゃくれねぇだろうけど、それを理由に何を言い出されるかわかったもんじゃねぇしな」

 だが、その安堵もスバルがエミリアを早々に確保できなければ無意味になる。そして、リューズθについても、先送りにしていい問題ではなかった。
 θもまた、ガーフィールより先に確保できなければ、今後は過保護なガーフィールの保護下となり、接触が難しくなってしまう。
 つまり、スバルがやらなければならないことを明文化すると、

「エミリアとリューズθをガーフィールより先に確保。それもどっちも半日以内に確保して、θからは『聖域』解放反対の理由を、エミリアには立ち直ってもらって、『試練』に挑んでもらわなきゃいけない……か?」

「……ナツキさん、どんだけ茨の道を歩き続けたら気が済むんですか」

 気が重くなるというより、お先真っ暗としか言いようのないスバルの結論。それを口にしたタイミングで、ちょうど小屋の入口へやってきたオットーが口を挟んできた。
 駆け足のスバルにだいぶ遅れて到着したオットーは、痕跡を求めてスバルが散々に荒らした部屋の中を見回して眉をひそめる。

「家探しにしたって、もうちょっと品位が欲しいとこですよ。ガーフィールとの話し合いは、無事に済んだみたいですね」

「無事には済んだけど、収穫があったかって言ったら厳しいな。とりあえず、状況の再確認ができたのと、それを踏まえた次の行動予定がさっきの呟きだ」

「僕には問題が解ける前に、別の問題が重ねられてしっちゃかめっちゃかになってたようにしか聞こえなかったんですが」

「…………」

 オットーのもっともな感想に、スバルはもはや軽口も叩けずに肩を落とす。
 それでもいくらかさっきより気が楽になったのは、オットーの存在に『一人で悩み続ける必要はない』と力づけられたからか。

「……そうやって、露骨に安心した顔されると困るなあ、ホントに」

「――? なんだよ?」

「こっちの話ですよ。自覚ないんだろうなあ。ないんでしょうね。あってやられてるってんなら、これもう完全に僕は手玉ですよ、ああもう」

 がしがしと灰色の髪を掻き毟っているオットーに、スバルは首を傾げる。が、彼はスバルの疑問の表情に答えを返さず、「とにかく!」と声を大きくして、

「手詰まりだった状況がさらに悪くなったのは間違いないですよ。どうしますか。ただでさえ逃げ出したかった条件にさらに悪条件が重なって、どう打開します。今ならまだ、全部投げ出して逃げても許される気がするんですけどね」

「ここまで見聞きして関わってきたもんを全部置き去りにして、か? そんな無責任な真似は、俺もお前もできる性格じゃねぇだろ」

「……エミリア様は、それをやってしまったかもしれませんけどね」

 視線をそらし、吐息まじりに呟くオットー。
 悪気はなく、胸の内に溜まった不満を表に出してしまいたかっただけだろう。スバルは殊更、彼のその姿勢を責めるようなことはしない。
 ただ、彼の言葉に対して、スバルは小さく首を横に振って、

「エミリアだって、自分の背中に乗った問題から尻尾巻いて逃げるような子じゃ……」

「ないって、言い切れるんですか? ナツキさん。ちょっと前から言おう言おうと思ってたんですが、エミリア様の綺麗な部分ばかりに目が行き過ぎでは?」

「……どういう意味だよ。確かにエミリアは、目が潰れそうなぐらい美人だけど」

「それは素直に認めますけど、そういう意味じゃないことぐらいわかってるでしょうに」

 程度の低い軽口は容易く流されて、スバルは唇を曲げてオットーの視線を浴びる。
 痛ましげなものでも見るようなオットーは、「いいですか?」と指を立てて、

「惚れた相手ですから、良い面ばかりを見たいと思う気持ちはわかりますよ。そういうこともままあるでしょう。相手に理想を投影することは責められることじゃありません」

「――――」

「けど、エミリア様だって完璧なお人じゃない。むしろ、色々と問題のある方です。それはエミリア様ご本人の力及ぶところじゃない部分含めて、そうです。出自、立場、色々なしがらみがエミリア様には付きまとっていますから」

 流暢に言葉を並べ立てるオットーに、スバルは彼が以前からこれに近い内容の説教を自分にするつもりで、言葉を準備していたのだろうなと思った。
 そして確かに彼の言葉は、反論の余地を許さない正論だけで構成されていた。

「もちろん、そういった外的な要因はエミリア様自身の内面の高潔さとは無関係です。お美しい容姿のことも、素直に美点といっておきましょう。でもね、ナツキさん。エミリア様だって人類種……普通の、一人の女性です。普通の女性らしい悩みや弱さ、醜い部分だって相応に持ち合わせていらっしゃるでしょう」

「そんなのは、エミリアに限って……」

「そうやって、エミリア様は別枠であると盲目的に考えるのがおかしいってんですよ。ナツキさん自身、この『聖域』で嫌というほど、エミリア様の足りない部分を目にしたでしょう? それはこの場に限ったことじゃなく、今後もいくらでもありえることです。とかくエミリア様の求める場所は、凡人では届かない高いところにあるんですから」

 王位。エミリアが目指すべき高み、その頂をオットーはそう評する。
 エミリアと同じように、その頂を目指す顔ぶれをスバルは知っている。

 高潔で誠実で、高い理想と確かな実行力を持つクルシュ・カルステン。
 傲慢で悪辣で、しかしそれ故に決して揺れることのない自己を抱くプリシラ・バーリエル。
 欲深く計算高く、己の夢を叶えるために全てを注ぎ、無類の勝負強さで今の地位に上り詰めたアナスタシア・ホーシン。
 貧しく弱い立場から一挙に成り上がり、それでもその場に立ち止ることを許さない上昇志向と、年齢に見合わぬ器を示したフェルト。

 いずれの候補者も、他人に譲らぬ強い志と美徳を持って王選に臨んでいる。
 その好敵手たちと肩を並べるにあたり、エミリアにはふさわしいものがあるのか。
 ただ優しい、誰よりも心優しい。それだけでは、足りないのか。

「今をもって、エミリア様には色んなものが足りていない。完成されていないんです。そんなエミリア様だから、降りかかる苦難を前に物怖じし、逃げ出したくなってしまうことだってあるでしょう。今がそうして、逃げてしまいたくなるときだと、ナツキさんはどうして思えないんですか?」

「……それは。それは俺が、エミリアは絶対に……」

 絶対に。その先を言葉にすることが、スバルにはなかなかできない。
 見つからないのだ。この胸の内に確かにくすぶっている、エミリアへの気持ち。この場でオットーへの言葉に反論すべきそれが、どんな言葉で飾れば説明ができるのか。

「――――」

「……強情、ですねえ」

 唇を噛んで、ただはっきり反抗の意思だけを宿した瞳で自分を見るスバルに、オットーの方が言葉なしの視線に根を上げた。
 彼は肩をすくめて、呆れたように首を振ってから集落を仰ぎ、

「この話の結論は、この場で出さなくてもいいでしょう。僕らが言い合っていても、事態は進展しませんからね。エミリア様とリューズさん、どちらも探し出さなくちゃならないって苦境も変わらないわけですし」

「……悪い。ホントはお前にはもっとちゃんと、色々話さなきゃいけないってのに」

「大目に見ておきますよ、友達ですんで。――それで、どうします?」

 顎で外を――『聖域』を示して、オットーは行動方針をスバルに委ねる。
 逃げるか、抗うか。行方不明の二人の内、どちらを探しに行くべきか。そういった様々な諸問題を放り投げてくるそれは、オットーのスバルへの信頼そのものだ。
 軽々しく扱うつもりもないが、恵まれた話だとスバルは自分を笑う。
 そして、

「ガーフィールの奴はエミリアが行方をくらましたことは知らない。エミリアの方も、ガーフィールに見つかったからってどうなる問題でもない。――最悪なのは、ガーフィールが先にリューズさんを確保した場合だ。リューズさんと話し合いの機会が作れなくなったら、そのままベストエンディングは遠ざかると思っていい」

「……つまり」

「――リューズさんを探そう。ガーフィールより先に見つけ出して、話を聞く」


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「――エミリア。みんなはちょっと大事なお話があるの。だから、いつものところで大人しく待っていてちょうだい」

 そう言って、森の奥にある大樹の洞の中――通称『お姫様部屋』に押しやられるのが、幼いエミリアにとってはたいそう不満な出来事の一つだった。

 エルフたちが隠れるように住まう森の集落で、エミリアは誰からも可愛がられて育った。
 大人たちは揃ってエミリアに優しくしてくれたし、少しぐらいのわがままだったら嫌な顔もせずに付き合ってくれたものだ。同年代の子どもたちと接する機会が少なかったことにはいくらか寂しい思いもしたが、言いつけは守らなくてはならない。そういった決まり事はしっかり守るものだと、母代りのフォルトナ母様にはきつく言われていた。

 フォルトナはエルフの集落でエミリアの世話をしていた、母代りの人物だ。
 銀髪に紫紺の瞳と、エミリアと身体的特徴を同じとしていたが、長い髪の毛は煩わしいと短く切り揃え、鋭い目つきをしていたのがその後のエミリアと大きく違う。

 いつ頃からフォルトナと一緒に暮らしていたのか、エミリアは覚えていない。ただ、彼女は実の母ではなく、叔母にあたる血縁なのだとは聞かされていた。

「私はあなたの、お父さんの妹なのよ。兄……エミリアのお父さんと、お母さんは今は忙しくて一緒にいられなくて……だから、あなたは私が預かっているの」

 フォルトナのその説明に、エミリアは大きな衝撃を受けた。といっても、マイナスなイメージでのショックではない。事あるごとに実の母ではない、と主張するフォルトナではあったが、エミリアにとっては疑いなく彼女こそが母親だ。
 そして、そんなフォルトナ母様がいるにも拘わらず、自分には父と本当の母親の二人までいるという。普通、親はお父さんとお母さんが二人だけのはずだ。なのに、自分にはお父さんが一人と、お母さんが二人。なんて、幸せなのだろうと思った。

「エミリアの銀髪は、兄譲りね。瞳の色も、私たちの家族の影響が大きく出たみたい。……でも、優しい顔立ちはお母さん譲りだわ。うちはみんな、目つきが悪いもの」

「……わたし、フォルトナ母様の目つき、好きだよ?」

 きつく、厳しい目つきは日常的なものだ。たまに言いつけを破ってフォルトナを怒らせてしまうと、その厳しい目つきはさらに鋭さを増し、エミリアを大いに震え上がらせた。
 けれど、そんなご機嫌ナナメな場合を除けば、フォルトナはエミリアにとって理想的な母親だった。その鋭い目つきも、愛おしい気持ちで触れ合うことができる。

 フォルトナは厳しいが、優しい母親だった。
 幼いエミリアには過剰とも思えるほど、振舞いに対して厳しい躾を施したが、それらは全てエミリアのことを思ってだったのだと、幼い時分からエミリアは理解していた。
 躾に暴力が伴ったことはないし、理不尽に叱られたことも当られたこともない。稀に悪さをしたエミリアを叱りつけて泣かすことがあっても、仲直りした夜には同じベッドで一晩中、抱きしめて一緒に寝てくれた。

「すごーく、後悔してることがあるの。もっと、色んな人に優しくしていればよかったって。もっと早くにそう思えてたら、きっと兄も私を頼るのは最後にはしなかったはずなのに」

 すごーく、と言葉にしたとき、フォルトナは横顔に寂しさを浮かべていた。
 それが強く強く、エミリアの中に残っていたから、エミリアは殊更に自分でもそれを真似することにした。悲しいときではなく、嬉しいときや笑ったとき、使うことにした。
 自分の母親が悲しさや寂しさを背負っているようなことはないのだと、彼女にとって象徴的な母親の口癖を、良い思い出で塗り潰そうという、子どもの浅はかな願いだった。

「むぅ……つまんない」

 話は冒頭に戻り、エミリアは一人、『お姫様部屋』に閉じ込められている。
 お姫様、という呼ばれ方はあまり好きではないが、村のみんながこぞってそう呼ぶものだから、今ではすっかり慣れてしまった呼び名でもある。
 馬鹿にされているのではなく、親しみを込められてのものだとわかっているから、やめてほしいと申し出たこともなかった。けれど、それを閉じ込める部屋にまで引っ張ってこられるのは、幼いエミリアにとって数少ない不満の一つだった。

「みんな、なにしてるんだろ……」

 エミリアが『お姫様部屋』に閉じ込められるのは、決まって集落に誰かが訪れてきたときだ。少なくない人数が森に入り、エルフの隠れ里を訪れているのだと、エミリアは誰から聞かされるでもなく肌で感じ取っていた。
 実はこの感覚は、エミリアが意識せずに森の微精霊たちに干渉し、人ならざる存在たちから情報を得ていた結果なのだが、このときのエミリアはそれに気付かない。

 ただ狭い小部屋の中で膝を抱えて、時間潰しにと与えられた本のページをめくったり、フォルトナが作った下手くそな人形で遊んだりして時間を過ごす。
 大人たちにしかわからない秘密のお話合い、と聞かされてはいたが、自分以外の子どもたちはそこに混ざっているらしい、というのも最近のエミリアの不満ではあった。

 嘘や隠し事はいけないこと、とエミリアに教えたのはフォルトナ母様だ。そのフォルトナ母様や大人たちが、エミリアに隠し事をしたり、嘘をついているのは悪いことではないのだろうか。

 十数日に一度、そのぐらいの頻度で訪れるお姫様部屋でのひと時。これまでのエミリアは不満に思っても、それを表に出すほど悪い子ではなかった。
 しかしこのとき、もう何度目になるかわからないお姫様部屋での時間と、前日の夜にフォルトナと小さな言い争いをしたこと。何より、フォルトナからもらった人形を部屋に持ち込むのを忘れて、自室に置いてきてしまったのが決定打だった。

「おそと、いきたいな」

 ぽつりと、それは誰に聞かれるでもなく、ただ呟いただけの一言に過ぎなかった。
 しかし、エミリアのこぼしたそれは彼女の知る誰かに聞かれることはなかったが、彼女を知る『彼ら』にはちゃんと聞こえていた。

「――?」

 洞の中、ラグマイト鉱石の白い光に照らされていた部屋に、ふいに青白い燐光が混じる。目を瞬かせ、エミリアは突如として湧いたその光に目を奪われた。
 燐光はエミリアの目の前をゆらゆらと踊り、幼い少女の好奇心をくすぐって虜にしたまま、お姫様部屋の端っこの方へ移動して――壁に吸い込まれるように消えた。

「――――」

 立ち上がり、エミリアは光が消えた場所へとたどたどしい足取りで向かう。少しの恐怖はあったが、それ以上の好奇心が幼い少女の胸を焦がしていた。
 光が吸い込まれた壁の前に立ち、手さぐりに木の感触を確かめていたエミリアは、ちょうどすっぽりと、小さな腕が通るぐらいの穴が壁に空いているのを見つけた。
 さっきの青白い光は、ここから外へと抜け出したのだ。

 お姫様部屋の正面の扉は、外から閂がかかっていて中からは開けられない。エミリアが逃げ出そうとしても、外には出さない仕組みになっているのだ。
 今にして思えば、その扱いは決して平時のものとはいえない過剰なものだったが、それを当たり前に思っていたエミリアには疑問の余地がなかった。
 ただ、外には出られないはずの場所から、外に出られるかもしれない可能性を見つけてしまったとき、エミリアは好奇心と母の躾の間で心を揺らした。

 自分がいない間、外で集落のみんなが何をしているのかを知りたい。
 けれど、フォルトナ母様から言いつけは守るようにと厳しく躾られている。お姫様部屋へフォルトナが戻ってくるまで、自分はここで待っていなくてはならない。
 でも、こっそりと外に出る方法を試してみて、みんなが何をしているのかをのぞき見してから、改めて戻ってきてもばれないのではないだろうか。

 それに、嘘や隠し事はいけないことと、約束事を先に破ったのは大人たちの方だ。
 一個ぐらい、エミリアがそれを破ったぐらいで、おあいこではないか。

「――――」

 それは幼い少女が一生懸命に考えた、小さいなりの大義名分だった。

 腕を突っ込んだ穴は、よく見れば絡まり合う木の根の隙間の一つだ。懸命に力を込めてみれば、その隙間が少しずつだが、広がる手応えが確かにあった。
 その感触を頼りに、幼いエミリアは木の根を押しのけ、自分が通れるスペースを確保しようと躍起になる。額に汗して、服を泥だらけにして、今さら「何事もありませんでした」とフォルトナに言ってもバレバレになってしまう痕跡を残しながら、それでもエミリアはどうにかこうにか木の根の隙間を広げて、洞から外へと這い出すことに成功する。

「――――ぁ」

 外に出て風を浴びたとき、エミリアは奇妙な達成感を胸に抱いていた。
 ばれたら怒られる悪いことをしたというのに、今すぐにでもフォルトナのところへ行って、「えっへん、できました」と自慢してきたい気持ちでいっぱいになる。
 もちろん、そんなことをすれば火の如く怒られることは確実だったので、走り出す直前にエミリアは自分にストップをかけた。危ないところだった。

 でも、エミリアはこうも思う。

 ――自分はこのときのバカな結論に従って、フォルトナ母様に褒めてもらいにいって、そこで全力で怒られて、泣いて喚いて後悔して、木の根の隙間のことなんて、忘れてしまえばよかったのだと。
 そうなってしまえば、後々の悲劇の引き金は、引かれずに済んだはずなのだと。

 ――悲劇って、なんだろう。

 疑問の声は幼いエミリアに届かないままで、お姫様部屋からの脱出を果たしたエミリアは、意気揚々とみんながいるだろう方へ向かって小走りに駆け出す。
 悪いことをしている自覚が、エミリアにこそこそと隠れながらのぞき見することを強要した。みんなのいる場所は、微精霊たちの協力のおかげでぼんやりとわかる。

 程なく、エミリアは集落の広場に皆がいるのを発見した。そしてそこに、エミリアの見知らぬ黒い衣装の集団が一緒にいるのも見えた。

「――――」

 一際、大きな木の後ろに隠れると、幼いエミリアは身軽にその枝の上へといそいそ上り詰める。小さなエミリアは結構なやんちゃもので、小動物のように木から木へと移っては、捕まえようと躍起になる大人たちを困らせたものだ。
 ともあれ、そんな経緯で身に着けた軽業が、大人たちの死角から話し合いを見届けさせるという、その結果を招いた。

 エルフの村の皆は、全部で四十名ぐらい。大人から子どもまで、エミリア以外は全員が集合している様子だった。そして、黒衣の集団はそれより少ない二十人ぐらいか。
 真ん中で数名が話し合いをしており、それ以外の面々は荷物の受け渡しなどをしている。黒衣のものたちが荷車を運んできたようで、そこから渡される荷物を受け取る村のみんなの顔は明るく、何度もぺこぺこと頭を下げているのが見えた。

「――いつもいつも、世話になってばかりですまない」

 何をしているんだろう、何を話しているんだろう。
 エミリアが疑問に思い、身を乗り出そうとしかけたところで、その声は急に耳元で囁かれたように間近に感じた。
 思わず背筋をびくりとさせるエミリアだが、あたりを見回してみてもそれらしい声の主はいない。それ以前に、今の声は間違いなくフォルトナ母様のものだった。
 そして件のフォルトナは今、エミリアの眼下――集団の先頭で、黒衣の人物と言葉を交わしている真っ最中だった。

「森では手に入らないものを都合してもらって、みんなも助かっているし喜んでいるわ」

「そのお言葉こそありがたく。我々の方こそ、こうした形での支援しかできないことを悔しく思っております。フォルトナ様にはいつも、ご負担ばかりを」

「それこそ、お互い様というものね」

 二人分の苦笑した気配と、会話の内容がはっきりと聞こえた。
 眼下のフォルトナの仕草から、今の会話が間違いなくこの瞬間に交わされていたものだとエミリアは理解。どういうわけか、今の自分はとんでもない地獄耳になったらしい。
 実際は微精霊がエミリアの意思に従って気を利かせたのだが、当然幼いエミリアは微精霊のこの計らいにも気付くようなことはない。

 フォルトナの正面、向かい合うのは黒いローブを羽織った精悍な顔つきの男だった。
 筋肉質で上背のある体格は、線の細いものが多いエルフの里の中では際立って目立つ。しかし男はそんな武張った見た目からは想像できないほど、腰を低くしてフォルトナと接しているようだった。
 屈強な男から惜しみない敬意を向けられるフォルトナを見て、のぞき見している立場なのにエミリアは誇らしい気持ちになる。

 大の男をぺこぺこさせてしまう立派な人が、自分のお母様なのだぞ、と。

「それと、毎回のことではありますが……封印は、いかがですか?」

 そんな見当違いの誇らしさに胸を張っていたエミリアだったが、次に男が話題を口にした途端、その感慨はどこへなりと吹き散らされてしまった。
 そう感じるほどに、今の男の一言には、重々しく複雑な感情が込められていたのだ。

「心配性、と笑う気にはならないわね。大丈夫、変わりなく盤石よ。万が一にも解かれるわけにはいかない。――兄にも、義姉さんにも顔向けできなくなるもの」

「兄上と奥方のことは、非常に残念でした」

「……兄は、覚悟していたはずだもの。義姉さんがどうだったのかは、今になってもわからないままだけど。でも、私は私に委ねられた責任の重さは理解してる。それを放棄することも、半端にすることもしたくない。あなたも、そうでしょう?」

「私は……私はそれしかない身の上です故。フォルトナ様のような使命感や責任感といったものとは、また違うものでしょう。執着、未練……それが近いかと」

 息を吐くように男が笑い、フォルトナが切なげな目をするのがわかった。
 だが、今のエミリアにはそれらの様子は意味を持たなかった。

 ――兄上と奥方のことは、非常に残念でした、とはどういう意味だろうか。

 フォルトナ母様の兄というのは、エミリアの父親のことだ。そしてその奥方というのは、奥さん。お嫁さん。エミリアのお母さんのことだろう。
 その二人が残念だった、というのはどういう意味なのだろう。フォルトナはそう聞かされて、どうしてそれを聞き返すことをしないのだろう。

 枝にしがみつき、少しでも集団の会話を近くで聞こうと、首を伸ばしながらエミリアは耳を凝らす。微精霊の力の恩恵で、それらの行いが無意味であることに気付かないまま、エミリアは必死の形相で一言も、一片も聞き漏らすまいと歯を食いしばった。

「動機と、行いの尊さとは無関係だわ。あなたの行動は、万民に誇れることよ。大っぴらに言って回れないのが、すごーく悔しいぐらい」

「ふ、ふふふ。慰めの言葉、痛み入ります。ですが、確かにそれは難しい。何せ我々の行いの真意を世界が知れば、落ち着き出した世情はまたしても混迷の海に沈むでしょう。私もあなたも、何より彼女がそれを望まない」

「……ええ、そうでしょうね」

 顎を引き、男の言葉に同意を示すフォルトナ。
 それきり、話題はエミリアの聞きたい部分をそれてしまったらしく、その後に交わされる会話は当たり障りのない世間話といった風情のものばかり。
 フォルトナと男がそうして言葉を交わす内に、集団同士の物のやり取りも終わったらしい。大人の一人がフォルトナに声をかけ、それに頷き返したフォルトナが男に向き直る。

「精霊のご加護で、季節の移り変わりはあまり森に影響はないんだけど……それでも、衣類や布団なんかは差し入れてもらえて助かるわ。ありがとう」

「本来であれば、あなた方はもっと厚遇されるべき功績のある方々です。このような場所で不便を強いられるなど、あってはならないことですよ」

「このような場所なんて言わないの。私たちは森が大好きなんだから」

 冗談めかして言って、フォルトナは小さな笑みを浮かべる。男もその口元に微笑を刻み、しばし二人の間に穏やかな雰囲気が流れる。
 そして、

「司教様。荷物の受け渡しおよび、帰還の準備が整いました。お急ぎを」

「ええ、わかっています」

 黒衣の人物がそう声をかけると、男は名残惜しげに集落を一瞥する。それからフォルトナに一礼し、フォルトナや大人たちも黒衣の集団に対して、胸に手を当てて瞑目する敬礼で応えた。
 背を向け、荷車を引いて立ち去る黒衣の集団――その最後尾で、男が立ち止まり、

「そうだ、これだけは聞かなくてはなりませんでした」

「…………」

 指を立てて振り返った男に、フォルトナは無言でその先を促す。
 男はフォルトナのその態度に一度、瞑目してから森の奥を覗き込むような目で、

「――エミリア様は、息災であられますか?」

「――っ」

 自分の名前が男の口から出たことに、枝の上のエミリアは思わず喉を詰まらせた。小さく悲鳴を上げずに済んだのは、息を吐いた直後だった幸運のおかげだ。
 幸い、そのかすかな声は誰の耳に届くこともなく聞き流されて、そして問いかけを受けたフォルトナは男にゆっくりと頷いて、

「大丈夫よ。エミリアは元気で、いい子のまま育ってる。私たちにはもったいないぐらいに、いい子に。……でも、ごめんなさい。あなたに会わせるわけには」

「それ以上は、大丈夫です。わかっています。ただ、エミリア様の息災さえ確かめられればそれで十分。それ以上を望むのは、この罪人たる身には過ぎた願いです」

「…………」

 自嘲、とは違う男のそれは自戒だろうか。
 いずれだったにせよ、それを聞くフォルトナは安易な慰めを口にはしなかった。
 男の方も、フォルトナのその無言にかえって救われたような表情で顔を上げる。しばし、二人は無言のまま見つめ合っていたが、

「司教様、どうされました? ――ロマネコンティ司教様」

 男を置いて先を進んでいた集団から、一人の人物が戻ってくる。その呼びかけに男は両手を広げて、

「なんでもありませんよ。さあ、去りましょう。フォルトナ様、また近いうちに」

「いつもありがとう。……ごめんなさい、ジュース」

 フォルトナの最後の言葉に小さく微笑み、ジュースと呼ばれた男は今度こそ集団を伴って森を立ち去っていく。
 彼らの姿が完全に見えなくなるまで見送って、フォルトナは肩を落として吐息をこぼした。それから彼女は手を叩き、その場にいた全員の注目を集めると、

「さあ、荷物を早くに運び込んで分配しましょう。振り分けはいつも通りにお願い。私はエミリアを出してあげにいくから」

「――――!」

 フォルトナの指示に従って、大人や子どもたちが荷物を担いで移動するのを目に、エミリアは転がるように木から飛び降りると、全力疾走でお姫様部屋まで舞い戻る。
 脱出に使った木の根の隙間に小さな体をねじ込んで、体のあちこちに引っ掻き傷を作りながらなんとか戻ったエミリア。しかし、中に入ってすぐ、自分の格好が大人しく待っていた子どもの格好ではないことに気付き、愕然とする。

 ついさっきまでは、外へ出たことが見つかって叱られても、反省すればすぐに許してもらえるような悪さだとばかり思っていた。
 しかし、さっきの話を聞いてしまった後では、どう楽観的に捉えようとしても、そう思うことがエミリアにはできない。ましてや、さっきの話はエミリアにだけは聞かれたくない類のものだったように思えてならなかった。

「どうしよう、どうしようどうしようどうしよう」

 フォルトナ母様が戻ってきて、閂を外してしまうまでに時間がない。光の下に出てしまえば、エミリアの格好から芋づる式に脱走がばれてしまう。
 さっきの話を聞いていたことがフォルトナに知れれば、それは幼いエミリアにとっては身の破滅を意味するように思えてしまっていた。

「せめて、擦り傷だけでも隠せたら……」

 あちこちに引っ掻けてしまって、膝の頭や腕を何ヵ所もこすってしまい、うっすら血が滲んでいるところがある。目ざといフォルトナは見落とさないだろうし、それにお風呂に入るときに沁みてしまいそうでそれも怖い。
 何とかしないと、とひたすらにそればかりに没頭する。

「――え?」

 だから再び、お姫様部屋の中に青白い燐光が生まれたのを見たとき、エミリアにはその光が救いの導きか何かのように思えた。
 光はゆらゆらとエミリアの視界を揺らめき、先のような動きで彼女の意識を翻弄した挙句に、今度はエミリアの体にその光を振りまき始める。

「――ぁ、あ」

 壁の中に光が吸い込まれたように、青白い燐光がエミリアの体に吸い込まれる。それらは幼い少女の体の傷、擦り傷の各所を責めたてるように集まり、淡い輝きで傷口を白く染め上げ――光が消えた後には、擦り傷はかすかに赤みが残るだけになっていた。

「――――」

 自分の体に起こった異変に、エミリアは言葉もなく硬直した。
 肘や膝、体中のあちこちで痛みを主張していた傷口は消えてなくなり、今やエミリアの体は脱走前の状態そのままだ。
 これならば、と考えたエミリアは着ていた服を頭から脱ぎ捨てて、お姫様部屋の中にあった着替えに袖を通す。そして、引っ掛けて穴が空いてしまった服の処分に困ると、

「これで……!」

 お絵描き用のインク壺をひっくり返し、それで着ていた服を乱暴に彩色する。洗っても落ちない汚れで服が汚れきってしまったタイミング。そこに、

「――エミリア? 起きてる?」

 扉の外からフォルトナの声が聞こえて、エミリアはぴんと背筋を伸ばした。
 間一髪のタイミングに心臓の鼓動の高鳴りを覚えながら、どうにかこうにか返事をしようとして、最初の一声がなかなか出てこない。

「エミリア? 寝ちゃったの?」

「お、起きて、るよ? 起きてる、フォルトナ母様。でも、今は……」

「なんだ、起きてるのね。ごめんなさい、待たせちゃって……」

 返事をしたエミリアに安堵した様子で、外の閂を外したフォルトナが部屋の中へ。笑顔だったフォルトナは、しかし部屋に入った途端に表情を変えて、その形のいい鼻に皺を寄せると、

「……なあに? すごいインクの臭いがする」

「えっと、ごめんなさい。お絵描きの色、いっぱいこぼしちゃって……服にも、いっぱいかかっちゃったの」

 部屋の真ん中に転がるインク壺と、その前で途方に暮れた様子のエミリア。その二つを見比べて、フォルトナは「あちゃー」と顔に手を当てると、

「そう、やってしまったのはしょうがないわ。着替えが置いてあってよかった。そうじゃなきゃ、裸のエミリアを家まで連れて戻らないといけないものね」

「あの、フォルトナ母様……わたし……」

「大丈夫よ、エミリア。そんな怖がらなくても、やろうと思ってやったわけじゃないんだから怒ったりしないわ。それより、怪我はしてないわよね?」

 おずおずと歩み寄るエミリアに視線の高さを合わせ、フォルトナは愛娘の体を上から下まで確認。目立った怪我がないらしいことに安堵の吐息をこぼし、そっと抱きしめる。

「母様?」

「ううん、なんでもないの。ただ、すごーく……エミリアに会いたくなってて。ごめんなさい。ちょっとだけ、こうさせててね」

 フォルトナはエミリアを抱きしめたまま、そういって頬を寄せてくる。
 普段は照れてこういった仕草を敬遠しがちなフォルトナだけに、エミリアにはひどくそれが珍しく、そしてフォルトナが心細そうにしているように思えた。
 だから、

「……生意気」

 抱きしめたエミリアに短い銀髪を撫でられ、片目を開けたフォルトナがそう呟く。
 しかし、やめるよう言われたわけではないと判断したエミリアは、そのままフォルトナの頭をゆっくりゆっくり、思いやりを込めて撫でることをやめない。

 色々と、聞きたいことはたくさんあった。
 けれど、それらを全て言葉にするには、幼いエミリアには足りないことや知らないことが多すぎて、何も言えないままで。

「ね、エミリア」

「……ん」

 静かに頭を撫で続けるエミリアを見つめて、フォルトナはその目を細める。ふと、エミリアは自分と同じ紫紺の双眸に、涙の粒が浮かぶのを見た。
 瞬きの瞬間、その涙はフォルトナの頬を伝って流れ落ち、フォルトナはそれを拭うこともしないままエミリアに微笑みかけて、

「――愛しているわ」

 聞きたいことも、知りたいことも、たくさんあった。
 ――けれど今は、母のその言葉一つで、満足しておこうと幼いエミリアは思った。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 足を引きずって、青白い燐光を周囲に浮かべながら、エミリアは暗がりを歩いている。

 気力の消耗が、歩く力を彼女から奪い、足を引きずらせている。けれど、意思の健在がエミリアに歩くことをやめさせず、今も進ませ続けている。

 脳裏を過る、幼い頃の記憶の数々。
 今になって、そんな過去を思い出したのはどうしてなのだろうか。

 『試練』でエミリアが見た過去は、いましがた思い出した過去とは少し違う時間だ。思い出した過去は、『試練』の出来事よりも少しだけ前のこと。
 もしも仮に、その時分に戻れたとしたなら――きっと何もかも、やり直せる過去。

「フォルトナ、母様……」

 優しくて、温かで、力強くて、フォルトナは今でもエミリアにとって理想の女性だ。
 フォルトナ母様のようになりたい、フォルトナ母様のようでありたいと、いつもいつも思ってきた。それなのに、自分はいつだって、小さなことで悩んで悔やんで怖がって、そして取り返しのつかない結果を招いてしまう。

「ぅ……ふぅ……っ」

 取り返しのつかない結果を思うとき、エミリアの胸には収まりきらない痛苦が走る。
 悲しみと後悔と痛みと、ないまぜになった感情に打ちのめされるエミリアは、自分の愚かしさと足りなさが恥ずかしくて泣きそうになる。

 いつもそうだ。いつでもそうだ。
 必死で、全力で、懸命で、手を抜いたことなんてないつもりなのに、それでもエミリアの手は本当に欲しいもののところに、届くどころか掠りもしない。
 確かにあったはずと、この手の中に掴んでいたはずのものさえ、指の隙間から砂粒のように零れ落ちていって、一瞬のきらめきにエミリアを魅せて消えてしまうのだ。

 フォルトナも、パックも、スバルも、全部そうなのだ。

「私が……悪いんだ。私が言いつけも守れない、悪い子だから……みんな……」

 すすり泣きのようにこぼしながら、足を引きずるエミリアは前へ進む。
 鬱蒼とした緑の中を、ゆっくりゆっくりと、それでも進み続ける。

「だからみんな、いつも私に隠れて……隠して……でも、違う。知らないままで、教えられないままで……気付かないままで、いたらよかったのに……なのに……」

 森の木々の中。青白い燐光。黒衣の男たち。フォルトナ母様。大きくて黒い蛇。閉じた扉。雪。白い世界。銀世界。終わる、終わる世界。お父さん、お母さん。

「だから、私は……」

 頭の中を、とめどない単語の渦が駆け抜けていく。
 それらに翻弄されながら、エミリアは顔を上げ、前へ進む。

「――――」

 弱々しい声。たどたどしい足取り。
 ――しかし、その瞳には、涙は欠片も浮かんではいなかった。


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