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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章94 『おいてけぼり』


 ――目が覚めて最初に感じたのは、空の右手からくる寂しさだった。

 寝覚めの血の巡りの悪い頭でぼんやりとそう思い、意識が覚醒するに従ってそれがあまりに身勝手な感傷であることに気付き、頬が憤怒と羞恥で急速に赤くなる。
 体を起こすより、寝台の中で丸くなることを選び、タオルケットを巻き込むようにして体を小さくする。目覚めと同時に自覚した自分の浅ましさに、一日の始まりだというのに早くも己を見損なってしまった。

「――ひどい、ひどい、ひどすぎる。私……なんて身勝手なんだろう」

 寝台の中で丸くなる少女――エミリアは呟き、自分の醜態に長い長いため息をこぼした。

 布団の中で何度も開閉する掌に、眠る直前まで確かにあった感触を覚えている。
 ごつごつした太い指、指先はわずかに肌が固くなっていて、自分の細くて弱々しい指とは全く違うもののようだと、何度となくあった手を握る機会のたびに思う。

 エミリアを気遣い、優しい言葉をかけ、意識を手放すそのときまで、寝台の横に腰掛けて手を握り続けてくれる少年――スバルの、その無骨で繊細な掌の感触だ。
 寝覚めの無意識で最初に思ったことが、そのスバルの掌の感触が失われて、指が空を切ったことへの寂寥感なのだから、どこまでも自分は救えない。
 あれほど寄りかかり続けてなお、自分の性根はあの少年に重荷を背負わせることを望もうとしているのか。すでに自分の弱さと罪で、取り返しがつかないほどに周囲に迷惑を振りまいているにも拘わらず。

 『聖域』を訪れてすでに四日目――初日をまたぎ、一昨日と昨日、エミリアは『聖域』の奥にある墓所で、『試練』にその身を投じている。

 王選を勝ち抜き、ルグニカ王国の王位を目指しているエミリアにとって、この『聖域』の力は得ていかなくてはならないものの中で、最初の一歩目にあたる。
 この土地を統治するロズワールがエミリアの後援者であり、訳ありの住人たちはハーフエルフであるエミリアと立場を近くするものたちだ。これだけ好条件を揃えた場所で、自分を示して彼らに認められることができずして、この先に何ができるというのか。
 王選におけるエミリアの立場は、他の候補者たちと比較しても不利な面が否めない。非力なエミリアが勝ち残るには、周囲の協力が必要不可欠だ。そしてその協力を取り付けるための信頼は、エミリア自身の行いでのみ立たなくてはならない。

 正しく自分の立場を理解しているエミリアにとって、『聖域』でやるべきことと示さなくてはならないものは明快だ。その点で迷うことは何一つない。
 ただ、前を向く彼女の瞳に影を差すのは――。

「……『試練』」

 『聖域』の住民たちに認められるための、唯一にして絶対の条件が『試練』の突破だ。
 墓所から張り巡らされた結界によって、『聖域』を囲う周囲の森から外へ出ることのできない住民たち。彼らと外の世界で共に戦っていくためには、『試練』の踏破で結界を消す必要がある。心情的な問題としても、せめてそれぐらいができる相手でなくては彼らもエミリアを認めようとはしてくれない。

 物理的な問題も、心情的な問題も、『試練』の突破で攻略できる状況はシンプルだ。問題が一極化されている以上、小難しい理屈や不要な弁論を並べることはない。
 問題となったのはその『試練』の内容が、エミリアにとって猛毒であったことだけだ。

 ――墓所に響く無機質な声は、己の過去と向き合えと告げていた。

 瞼を閉じれば鮮明に、あの白い世界を思い出すことができる。
 途端、エミリアの体は極寒の中に裸で放り出されてしまったように、止めようのない寒気を感じて震え出していた。
 体中をひた走る怖気は、あの日の寒さを思い出したからか、それともそのときの恐怖を今も忘れていないからなのか。

 たどたどしく、自分の口から語られた過去の話を聞いて、スバルはどう思ったろう。

 忘れ難く、今もこの身を罪悪感の鎖で縛りつける過去――それをエミリアがスバルに打ち明けたのは、昨日の昼頃のことだ。
 その前の日の晩に初めての『試練』に挑み、エミリアの心は文字通り打ちのめされた。自分を揺り起したスバルの腕の中で泣いて、喚いて、取り乱して、優しく背を撫でる彼の声にようやく落ち着きを取り戻して、エミリアは墓所の外で待ってくれていた皆に挑戦の失敗を告げた。
 その言葉を聞いた皆がどんな表情をしていたのか、エミリアは覚えていない。
 皆の顔を一つ一つ、確認している余裕などなかった。軽蔑や落胆の視線にさらされていたかどうかもどうでもいい。ただ気丈に振舞い、皆と別れて宛がわれていた民家の中に転がり込み、一人きりになったことを自覚した直後、エミリアは耐え難い恐怖に呑まれかけた。
 そのまま閉じこもっていることができず、建物を飛び出して夜風に震えていたとき、月光の下を歩いてくるスバルと再び出会ったのだ。
 その後、エミリアのために自分を惜しまないと覚悟を告白するスバルに、エミリアは理想論に過ぎない決意を並べ立てて逃げた。
 それを聞いたスバルがどれほど打ちのめされていたのか、同じように自分の言葉で追い詰められていたエミリアは気付けない。

 その後で、自分がどんな風に仮宿へ戻ったのかをエミリアは覚えていない。

 次に目覚めたのは、床に倒れていたエミリアに顔を蒼白にしたスバルの呼び声だった。
 そうして心配をかけてしまったスバルと、そうなった原因である『試練』の話――ひいてはエミリアの過去の話をすることになるのは、必定の流れであった。

 スバルに語った過去の内容には、脚色も嘘も一片もない。
 エミリアの犯した罪はそのままに、まざまざとそれを見せつけられたばかりなのだ。忘れようもないそれを、記憶の瘡蓋を剥がし、生傷を風にさらすようにして打ち明けた。
 それは同時に、王選に参加して王位を目指すエミリアの、あまりに私的で身勝手な動機を告白することでもあった。

 恐怖や、怖気づく感情がなかったとはいえない。
 幼さが慰めにならない過ちの結果、エミリアはあまりに多くを犠牲にしてしまった。そしてその代償を払うこともなく、今ものうのうと一人だけ時を刻んでいる。
 挙句に贖罪に選んだ方法が、さらに多くのものを巻き込んだ上で完遂されるものなのだ。

 呆れて、軽蔑されて、遠巻きにされて当然だと思う。
 そう思う一方で、きっとスバルは自分を見放しはしないだろうと、心のどこかで確信めいた感情を抱いている自分にも気付いていた。
 ナツキ・スバルはきっと、エミリアが今さら、どれだけ残酷な過去を持ち、身勝手な願いでそれを贖罪しようとしていたと知っても、自分を突き放すことはできない。

 これまでスバルが傷付き、嘆き、その上で守り抜いてきた様々なものを、彼の行動の結果をエミリアも見届けてきた。
 優しく、義理堅く、情が深い少年だ。あまりに多くを抱え込んで、抱え込んだそれらを放り出すことなんて考えもせずに、傷だらけになっても彼は走り続ける。
 その抱え込んだ荷物の中に自分の存在もあるのであれば、きっとエミリアがどんな醜い性根をしていたとしても、きっと彼は手放すことはできない。

 ――それは真の意味で残酷で、悪辣ともいえる打算だった。

 そんな風に思ってなどいない、と首を振って否定したところで、一片たりともその考えが頭を過らなかったといえば嘘になる。そして心のどこかでその結果に期待する自分がいたというのなら、それはエミリアという存在の全てが肯定したも同じだ。

 嫌わないでいてくれるに違いない相手と信頼するから、嫌われるかもしれなかった過去を打ち明けることができた。
 言葉にしてみれば、それだけのことだ。

 結果、スバルは打ち明けられたエミリアの過去に驚きと動揺を隠せずにいたものの、エミリア自身の犯した罪を責め立てるようなことはしなかった。
 告白に精神的な疲労が祟り、眠気を訴えるエミリアの手を握ってくれた感触も、思いやりに満ちていたそれまでと何ら変わらない。

 業腹すぎるほどに、スバルの想いはエミリアの醜い部分が期待した通りに働いた。
 普段は鋭い眦を心配げに下げて、エミリアの身を心から案じてくれるスバル。彼のその優しさは、エミリアにとってあまりに甘い毒だった。
 心を溶かし、覚悟を溶かし、醜悪な本音を露呈させてしまいかねないほどに。

 何もかもを委ねて、自分の心をすり減らす苦難を肩代わりしてもらえたらと。嫌なことから目を背ける子どものような嘆きをもしも口にしてしまったなら、きっとスバルは自分のことなんか惜しまず浪費して、エミリアのために尽くしてしまうだろう。

 ――そんなこと、許されるはずがない。

 出会って以来、エミリアはずっとスバルに助けられてきた。
 王都の盗品蔵で、魔獣の脅威にさらされた屋敷の中で、候補者たちに睨まれた王選の広間の最中で、得体の知れない輩に村と屋敷を一緒くたに狙われる中で。

 エミリアはスバルの手に、ずっと縋ってきた。傷付く彼を見ていられなくて、そんな風にされる資格も理由も自分にはないのだと、その手を振り払ったこともある。
 それなのに、ナツキ・スバルはエミリアを決して見放そうとしなかった。
 それどころか、あろうことか、彼は救われる理由がわからないエミリアに言ったのだ。

「君のことが好きだから、俺は君の力になりたいんだ」

 あんな風に、全身全霊で何の根拠もなく、愛を告げられた経験など一度もなかった。
 エミリアに好意を示してくれたのは、始まりは共に暮らしていたエルフの森の仲間たちだけで、その後は長い時間を親代わりのパックだけだった。

 ロズワールの誘いで森の外に出て、改めてハーフエルフの置かれている状況の悪さを実感し、王都へ二度足を運んだことでさらに理解は深まった。
 ロズワールの提案に乗り、自分の目的を果たす一方で、この世界に根深く残っているハーフエルフ蔑視の風潮――これを少しでも変えられはしないかと、そんな淡い希望を抱いてもいた。ただ、そんな希望を儚いものと思って、心のどこかでは信じ切れていなかったのも他でもないエミリアだった。

 だからスバルが、あのひたむきな少年が、ハーフエルフであることや、何もできない弱いエミリアであることも全部ひっくるめて、自分のことを好きだと言ってくれたことが、エミリアにとってどれほど大きなことだったか。

 同じ種族でもなく、生まれながらにエミリアと過ごすことを定められていた存在でもなく、誰の意図でもなくただただ偶然に出会い、親睦を深めて、感情を交えたことで芽生えた温かな想い――そのことに、エミリアがどれほど救われていたことか。

 だからこそ、エミリアは今度のことでスバルを頼ることはできない。
 エミリアがぶつかる苦難を彼が肩代わりするたびに、彼の体には消えない傷跡が増えていく。肉体だけにとどまらず、心の傷も同様にだ。

 スバルは特別、心も体も強い人ではないと、エミリアは思っている。
 意思を貫徹する強い心を持っていて、周囲を思いやれる優しい心も持っていて、それでも彼は特別な人間ではない。
 悲しいことに傷付き、痛みを感じれば涙を流し、血を流しすぎれば死んでしまう。
 そんな、普通の人なのだ。

 そんな普通の少年に、エミリアはこれ以上の苦難を背負わせるつもりはない。
 ただ隣で、前を向くエミリアの背中を支え続けてくれるなら、それ以上は望めない。それすらも身勝手すぎる願いなのだと、エミリアは自分を恥じているぐらいだ。

 折れてしまいそうな覚悟を彼に支えてもらうことで、エミリアはきっと折れずに障害を乗り越えることができる。
 自分の目の前の障害と戦うのは、自分であるべきなのだ。

「だって、そうじゃなきゃ……」

 頼り続けて、何もかも任せて、縋って寄りかかって押し付けてばかりいたら、いつかスバルだって自分のことを重荷に思ってしまう。
 彼にそう思われてしまう日がくることなど、考えることすら恐ろしい。

 欲しいと思わないようにしてきたものだった。望んでも得られないと諦めていたものだった。意識しないようにして、でもずっと欲しがっていたものだった。
 それが得られてしまったから、与えられてしまったから、差し出された手を取ってしまったから――もうエミリアは、それを失うことなど考えられない。

「――――」

 エミリアの罪が森を白く染めて、雪と氷の下に仲間や家族を閉じ込めた。
 エミリア自身も氷の中で長い眠りに落ち、パックに救われるまでの百年近い時間を罪を自覚することもなく過ごしたのだ。

 目を背けたくなる自分の罪悪。もっとも罪深いのは、その自分の所業の実質的な部分を、エミリア自身が何一つ覚えていないことだ。
 過程が抜け落ち、自分の行いが皆を白い停滞へ突き落したことを自覚していながら、何を思い、何のためにそれをしたのか、何も覚えていない。

 魔女の子と、そう呼ばれて当然だと思った。
 パックに氷の中から目覚めさせられて、エミリアはエリオール大森林で七年の時を過ごした。凍れる森の中では食べるものを作ることも育てることもままならず、食生活の大半は森の直近の村々に足を運んで賄っていた。
 そこで向けられる怯えた視線と、『氷の森の魔女』と呼ばれたことは忘れられない。

 魔女と、そう罵られるのが、自分にはお似合いだった。

 ぽつぽつと、『試練』を乗り越えるために必要な覚悟を、自分でも空々しいと思いながら語った。どうすればあの『過去』を打倒できるのか、エミリアには想像もつかなかった。ただ聞こえのいい言葉でスバルの追及をかわして、エミリアは自分の夢の殻の中に閉じこもり続けることを選んだ。

 スバルの掌の感触を確かめながら、眠りに落ちてしまったのはそれからすぐだ。

 ――そのときもやはり、夢は見ることがなかったと思う。

 目覚めたとき、スバルはエミリアが眠ったときと同じ体勢で彼女の眠りを見守っていた。そのことに胸の内側から堪えがたい感情がこみ上げるのを感じながら、エミリアは彼に手を引かれながら夜の『聖域』へ足を踏み出し――『試練』に挑んだ。

 当たり前の結果だが、『試練』を乗り越えることはできなかった。

 墓所の前で見送ってくれる、スバルやラム。『聖域』の住民であるガーフィールやリューズの視線を浴びながら墓所に踏み込み、しかし明確な打開策や明るい条件の一つも用意していないエミリアのことなど、『試練』は一顧だにしてはくれない。
 変わらぬ『過去』はエミリアの心を苛み、蝕み、跳ね除けて突き返した。

 墓所の冷たく固い床の上で意識が戻ったとき、エミリアは自分の頬が濡れていることに気付いた。涙を流すことすらおこがましい、自分の浅ましさが憎たらしかった。

 『試練』を乗り越えることも、その糸口を掴むこともできず、エミリアは憔悴した様子で墓所を出て、心配してくれるスバルたちに出迎えられた。
 その後は前日の夜と同じように、この建物の中で安眠を言い渡されて、寝台に倒れ込んだところで意識がなくなり――気付いたのが今、この朝ということだ。

「結局、何の進展もしてないんだ……ダメだな、私……」

 昨日のことでわかったことがあるとすれば、それは自分がどうしようもなく性根の甘い子どもで、スバルや周りのみんなに迷惑をかけ通しで、それでも先の光明を一つも見つけることのできない、弱々しい存在であるという変わりない事実だけだった。

「パック……」

 胸に下がるペンダント――その先端を飾る緑の輝きは、エミリアの契約する精霊であるパックの依代だ。
 エミリアがか細い声で彼の名を呼ぶとき、普段と変わらぬ長閑な声で「なんだい?」と返事をしてくれるのがお約束だった。

 その返事がもう、二週間近くも途絶えている。
 最初の間は、数ヶ月に一度訪れる、休眠期というものに入ったのだと思っていた。これまでにもパックの側から反応が得られなくなることは何度かあり、そのたびにエミリアは寂しさを堪えながら彼の帰りと目覚めを待ったものだ。

 しかし、休眠期はいつもは三、四日で終わるものばかりで、今回のような長期にわたるものは初めてだった。何より、これまでのパックはたとえ休眠期に入っていたとしても、エミリアの方から本気で呼びかければ、休眠を中断して応じてくれていたはずなのだ。
 その反応すら、今のパックからは遠く感じられない。

 彼に何があったのだろうか。
 休眠中に何か、取り返しのつかないことがあって、姿を現すことができないのではないのか。仮にそうだとしたら、自分はどうしたらいいのか。
 パックとの長い長い時間を共に過ごしたくせに、こうして一人取り残されてしまえば、エミリアからパックに働きかける方法が何も見つからない。

『試練』のことも、スバルとのことも、自分自身の過去との決着も、姿を見せてくれないパックの存在も、持ち上がる問題はエミリアに明るい兆しを一つも覗かせないのだ。

「……私の、バカ」

 そうやって行き詰まった状態で、普段なら手を差し伸べてくれる存在が傍にいてくれないことに、エミリアは不平を口にしかけて寸前で留まった。
 それをしてしまったらそれこそ、自分という存在は取り返しのつかないところまで落ち込む。――すでにこれ以上ないほど低く自分を見ているエミリアだが、底よりさらに下があるとまでは思いたくはなかった。

「ううん、ダメだ。そんな風に悪い方にばっかり考えて……今は顔を見せてくれないけど、きっとパックにだって理由があるんだから。『試練』のことだって、まだ何にも解決できてない。私が、私がしっかりしなくちゃなんだから」

 持ち上げた両手で白い頬を叩いて、エミリアは自分の気を張るように意識を強く持つ。
 顔を上げた後、手で触れた髪の毛の乱れに櫛を通す。――こんなことにも苦心する自分がいる。いつもはこの作業もパックに任せきりだった。エミリアは自分の身嗜みも、率先して整えたことがない。
 手で触れて、乱れていないかを確認する。鏡を見ることはしない。室内にあった鏡には早々に布をかけて、何も映さないように部屋の隅で放置されていた。

 毛先を指でいじくりながら、エミリアは最低限の下準備はできたと判断する。それから指で髪を手繰り、銀色の髪で房を作りながら束ねていく。
 三つ編みの準備――エミリアの日々の髪型の決定権はパックにあり、それは彼との間に交わされた契約の条項の一つにも含まれた大切なものだ。すでに二週間、エミリアはパックからの髪型の指定を受けていないが、彼がいた最後の朝にされた指定を、その後の二週間もずっと続けている。
 もちろん他の、入浴か水浴び後の運動や微精霊との話し合いなど、快活さとは程遠いながらも細々と続けられていた。それを守り続けなければ、今は見えなくなってしまったパックとの繋がりが消えてしまうようで、恐ろしかったからだ。

「――――と」

 頭の真ん中で左右に分け、二つの三つ編みを作るのがこれまでのやり方。だが、今日は一つの長い三つ編みを作って背に流す形で整えた。
 今日もちゃんとパックとの契約を守って、その契約の継続を願う。
 確かな繋がりが、自分の中にあることを自覚して――。

「……え?」

 ラムが桶に水を汲んで現れる前に、着替えの準備をしようとしたエミリアは小さく声を上げた。
 驚きに見開かれる紫紺の瞳の眼前、見下ろす視界には胸のペンダントがある。
 ペンダントには先も確認した通り、緑の結晶石がぶら下がっており、それがパックが確かに存在する証でもあったのだが――その表面に、ふいの亀裂が生じていた。

「え……や、え……? ちょっと……な、何なの……?」

 予兆なくひび割れた結晶石に手を当て、エミリアは言葉にならない声を漏らす。
 激しい動揺に瞳を揺らめかせ、震える指先で恐る恐る結晶の表面を撫でる。触れた指の先端からひび割れが広がり、小さく詰まるような悲鳴が上がった。

「い、や……いや、嫌だよ……ちょっと、待って……ね、パック、待って……」

 嫌々とエミリアは首を横に振るが、結晶の崩壊は止まらない。
 刺激を与えないよう、結晶を持つ掌に満身の力を込めて現状を維持しようとするが、止めようのない震えが崩壊を早め、エミリアの手の中で依代は形をなくしていく。

 この崩壊が全体に及んだとき、何が起こるのか。
 初めての事態に、想定もしていなかった状況に、エミリアは頭の中が真っ白になる。
 ただ、わかることがあった。それは、

「このままじゃ、パックが……っ!」

 それはエミリアにとって家族同然の存在との、別れを意味しているのだと。

「――――!」

 顔を上げる。周りを見る。誰もいない。まだ早い朝方で、外にも目覚めた誰かが活動している気配は感じられない。声を上げても、きっと誰にも届かない。駆け出して助けを求めようにも、その震動が終わりの引き金を引いてしまいそうでエミリアは動けない。

 声を殺して、呼吸すら止めて、エミリアは手の中で形をなくしていく結晶石を見つめる。
 打開策は、ここにもない。事ここに至っても、エミリアは間近に確実に迫る終わりを遠ざける努力より、遅らせることにだけ懸命になって決断を恐れた。
 そして――、

「――ぁ」

 避ける努力を怠った報いは、結晶が砕け散る乾いた音とともにもたらされた。
 愕然と目を見張るエミリアの掌の上、緑の結晶はその形を完全に失っている。結晶は砕け散り、破片は色を失い、生命力の循環をなくして輝きが翳ってしまう。

「ね、ぇ……パック、嘘……だよね?」

 最後に希望に縋るように、掠れた声でエミリアは掌に呼びかけを続ける。
 しかし、手の中の宝珠――形を失ったそれは、もはやただの緑の粉粒にすぎない。精霊どころか、微量のマナを留めておくだけの力さえ失って、緑色の石屑が風にさらされるのを待っているだけの状況。
 誰の目から見ても、エミリアの儚い希望はすでに絶たれている。

 絶たれていないと、その現実を受け止めきれずにいるのはエミリアただ一人だ。

「違、違う……こんなはず、こんなはずなくて……だって、だってパックは私に、初めてのときに私にだって……か、家族で……もう、一人にしないって……」

 かつての約束を、言葉にされていたはずの確かな絆を手繰るように、エミリアは幼子のような口調でうわ言のように繰り返す。
 ――そんな彼女の嘆願に、砕けた石は沈黙を持って返すだけで。

「……そ、つき」

 だから、その沈黙に耐えかねたように、目の前の受け止めきれない現実を、それでも事実なのだと理解してしまった瞳が、天井を仰いで、涙に紫紺を揺らしながら、

「パックの……お父さんの、嘘つきぃ!!」

 膝を落として、砕け散った破片を壁に投げつける。
 石の欠片が木の壁に当たるかすかな音がして、それが呆気なさすぎるエミリアとパックとの別れを暗示しているように思えて。

 エミリアは掌で顔を覆い、嗚咽の声を漏らし続ける。
 涙は、流れ出してはこなかった。

 ただただ空虚な欠落感だけが、エミリアの胸を重く厚く支配していた。

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