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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章69 『うそつき』



 硬い地面の感触が、相変わらず冷たくスバルの意識を引き起こしてくれる。

 うつ伏せの姿勢で目を開け、スバルは上体を起こしながら口の中に入った土と砂利を吐き出す。土臭さに唾を吐いて周りを見れば、視界がおぼつかない薄闇の中。

 ――墓所の、『試練』の間だ。

 終わったときと、同じ場所で再び始まるスバルの世界。
 戻ってこれたことに安堵する一方で、またしても地獄になるかもしれない世界と向かい合うことへの閉塞感がスバルを絡め取ろうとする。
 袋小路を予感させる思考の先触れに、スバルは頭を振って拒絶を示す。
 それから立ち上がり、体の汚れをはたきながら、ぐるりと視界をめぐらせ――部屋の片隅に倒れている、エミリアの姿を発見した。

「…………」

 呼びかけ、小走りに駆け寄ろうとしたスバルは一瞬、それを躊躇う。
 脳裏を過ったのは舞い戻る直前――失われつつあるスバルを膝に乗せ、その消失に気付かないまま口づけを交わしたエミリアの姿だ。

 知らず、指で自分の唇に触れて、そのかさついた感触に眉を寄せるスバル。
 最後の瞬間も、吐血していたスバルは盛大に顔を汚していたはずだ。口づけしたエミリアの心境などわかろうはずもないが、決して良い思い出に残るようなものではなかったことだろう。

 それは死の淵にあったスバルにとっても同じで、出来事自体は回想することができても、その感触や心境を引き継いでくることはできなかった。
 スバルにとって人生初の、そしてエミリアとの初めての口づけは、『死』という無常に阻まれて、何の感慨も残してはくれなかったのだ。

「――――」

 ただ、躊躇するスバルはそれを残念がっているわけではない。
 口づけの回想は思い出を振り返るわけではなく、それをしたエミリアの変貌への危機感が大きい。――スバルに依存し、現実から逃避してしまったエミリアの姿。

 パックが姿を見せず、村人や『聖域』の住人からのプレッシャーに耐えかね、そしてスバルという支えまで失くしたエミリアの心は割れ砕けてしまっていた。
 その結果があの姿だとすれば、これまでのループでのエミリアはどうだったのか。

「…………」

 スバルが屋敷に戻るために、『聖域』を離れたのは四回。その内、戻って再会できたのは前回の一度だけだが――それ以外の三回で、エミリアはどうなっていたのか。
 それ以外の場合、『聖域』はいずれもすでに大兎の襲撃を受けた後だった。
 エミリアの精神が平衡を保っていたとしても、魔獣の猛威には抗えていなかったことが推察できる。ただ、心はどうなっていたのか。

「どうなっていたもクソも、ねぇよ……俺がいなくてああなるってんなら、俺がいなくちゃダメなんだ……」

 状況を楽観視する要素などない。
 未来に甘えて、見落としそうになるものを誤魔化しても意味がない。
 最善の未来を掴みとるために、常に最悪の未来を想定し続けなくてはならない。

 世界は、スバルにとって最も残酷で、理不尽な運命を用意する。
 ならばエミリアも、ベアトリスも、エルザやロズワールの存在も、当然、スバルにとって最も手強い形で事情が組まれているに決まっているのだ。

「俺が、やらなきゃいけないことは……」

 エミリアの心を救い、『聖域』の関係者を大兎の脅威から救い、屋敷の仲間たちをエルザの暴威から救わなくてはならない。――あまりに、高く険しい道のりだ。

 ――できるのか?
 自分の中で、弱い自分が逃げ道を、言い訳を、予防線を用意するように問うてくる。

 ――できるできないじゃなく、やるしかない。
 そんな自分の弱さに牙を剥き、スバルは誓いを反故にしないための覚悟を語る。

 問題を障害をピックアップして、クリア条件を明確にして、時系列を組み立てて、どう時間を使うのが最適か見極めて、何度でも挑めばいい。
 しくじるたびにスバルの心が摩耗したとしても、それで掴みとれる未来があるのならば本望だ。たとえどれほど、見たくないものを見ることになったとしても。
 だから――、

「――エミリア。大丈夫か?」

 手を伸ばし、横たわる愛しい少女の肩を揺すった。
 スバルの指の感触に閉じた瞼が震えて、エミリアの意識が『試練』の世界から、過去から現実へと引き戻される。

 瞼が開き、紫紺の輝きがスバルを映し出すと、ほんの数秒で涙が浮かび、過去を否定するエミリアがスバルに取り縋る。
 そうして、支えを欲するエミリアを抱き返し、彼女の支えになることを言葉で誓いながら、心にも固く誓いを立てる。

 ――エミリアを守り抜き、誰もかれもを救い出す。
 他の誰でもない。ナツキ・スバルが、それをしなくてはならないのだから。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 前回のループの最後、混乱のあまりまとめ切れなかった情報を整理する。

 中でも最も重要なのは、ロズワール・L・メイザースのことだろう。
 スバルの前で大兎の牙の餌食になり、命を散らしたロズワール。

 ロズワールは、スバルの『死に戻り』を知っている。
 『死』がトリガーであることには届いていないが、『やり直し』をしていることを知っているのだ。
 それを知ったのが『聖域』にきてからなのか、あるいはもっと前からなのかはわからないが、それすらもおそらく、ロズワールの所持する福音書に記されていたのだ。

 前ループでは、ロズワールの所有する福音書を回収することはできなかった。
 懐にしまってあったのだとすれば、ロズワールの肉体と一緒に大兎の腹の中だ。療養していた仮住まいの中にあったとしても、それを確認するために中に飛び込む心の余裕など、スバルには残されていなかった。
 故に、記述の内容にまで触れることはできない。

 ――ロズワールの目的は、究極的には何なのか。

 福音書の記述に従って行動しているのだとすれば、最期に命を投げ出した理由はどこにあるのか。――その答えも、福音書の内容にあるのだと考えられる。
 おそらくロズワールは命懸けで、福音書の記述を遵守しようとしているのだ。

 ロズワールの福音書の記述が、どういった形式でなされるものかはわからないが、記述通りに行動することが、求める未来に繋がる道標であることはペテルギウスなどの福音書とおそらく同一のはずだ。
 魔女教の福音書は記述とずれた場合、ペテルギウスは自分の判断で記述にある程度の幅を持たせた解釈を入れて、最終的に帳尻を合わせようとしていたように思う。
 それに対してロズワールは違う。
 『やり直し』を念頭に入れて行動することができるロズワールは、記述と違ってしまった未来が訪れた場合、自らの命を支払うことで、その違ってしまった時間をなかったことにしているのだ。

 記述と違っても、臨機応変で対処するペテルギウス。
 記述と違うことを許さず、断固として記述を守らせようとするロズワール。

 福音書を持つ、厄介な相手であることは共通していても、福音書の内容を実現させようというモチベーションは同じでも、向き合い方がまるで違う。
 ペテルギウスの依存の仕方と、ロズワールの依存の仕方では、ロズワールの方が性質が悪いようにスバルには思えてならなかった。

 ――問題は、ロズワールの福音書の記述の内容だ。

 そこに、此度の『聖域』と屋敷を襲う事変の結末まで記されているのだとしたら、ロズワールが望む結末に至るまで、何度でも悲劇は繰り返されるだろう。
 前回の『聖域』の雪景色にしても、ロズワールは福音書の記述を現実にするために行動したと考えられる。つまり、あの雪景色は毎回起こるべき現象なのだ。
 これまでにスバルが遭遇してこなかったのは、『聖域』を離れて屋敷に戻った後、再び『聖域』に戻ってこれた経験が一度もなかったからだ。

 ロズワールによる『聖域』への降雪は、エミリアを孤立させるための手段。

 そのことに、いったい何の意味があるというのか。
 周囲からの耐え難いプレッシャーは、そんな回りくどい真似をしなくても十分にエミリアを蝕んでいたはずだ。責任感の強いエミリアは敏感に周囲の期待を察して、不安と無力感に歯を食いしばって挑戦を続ける。
 スバルが傍で寄りかからせてあげないと、拠り所を見失って自暴自棄になってしまうほどに。

 自暴自棄に、エミリアをさせるのがロズワールの目的なのだろうか。
 しかし、エミリアがそうして『誰かのために』行動することをやめてしまえば、『聖域』の解放はなされない。解放されないということは、来る大兎に対して『逃げる』という選択肢を失うことになる。
 ロズワールの行いと、エミリアへの態度には多くの矛盾が生じている。

 そして何より、ロズワールが食い散らかされる直前、最期に投げかけた言葉。

 ――自分にとって本当に大事なもの以外、全てを削ぎ落す。

 ロズワールはそう、こぼしていた。
 それをすれば、自分のようになれるとも言っていた。

 ロズワールのようになりたいかどうかは別として、発言の裏の意味を探れば、つまりはロズワールは大事なもの以外の全てを削ぎ落し、あそこに立っていたわけだ。
 実際、命すら投げ出すほどの覚悟――疑う余地はないだろう。

 記述を遵守させ、エミリアを孤立に追い込み、望む形で事態の収拾がなれば、ロズワールのそのたった一つだけ掲げた大事なものとやらは手に入るのだろうか。
 あるいはロズワールがそれを、スバルに告げた真意はどこにあるのか。

 いずれにせよ――。

「手放すなんざ、絶対にごめんだ」

 エミリアが大事だ。
 だが、もちろん、スバルが守りたいものも、側にありたいものももっともっとたくさん、数えきれないほどにあるのだ。

 スバルの狭い世界は、どこか一つが欠け落ちるだけでずっと殺風景になってしまう。
 欲張りで自分本位なスバルは、どうしたってそれに耐えられそうにない。
 だから、ロズワールの言うことは聞けない。

「ロズワール、俺は――お前みたいには、ならない」


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 泣きじゃくるエミリアを何とかなだめ、眠った彼女を連れてスバルは墓所を出た。

 『試練』の失敗と、エミリアの様子に待っていた顔ぶれが驚く中、まずはエミリアを休ませるためにリューズの家に移動するのはこれまで通り。
 道中、雰囲気を気遣ってかあえて明るい風を装うガーフィールの態度に逆に痛々しさを感じたり、リューズが意味ありげな視線を送ってきているのに気付いたりなどの一幕があったが、スバルはそれらに言及しなかった。

 前者は後々、確かめたいことを確かめるためにあえての放置。
 そして後者については、その視線の意味をすでにスバルはそれとなく知っているからだ。

「ちっとばかし、面ァ貸してもらうぜ」

 眠るエミリアをラムに任せ、今夜は解散となったところで、ガーフィールがスバルを呼び止めた。その呼び出しを予期していたスバルは「ああ」と素直に応じ、前を行く背の低い人影に連れられて、『聖域』の外れの森の中へ。
 その場所が以前の呼び出しの場所と同じかは判別できないが、スバルを見るガーフィールの表情が以前と同じであることには見極めがついた。

 爛々と双眸を光らせ、ガーフィールはスバルを睨みつけている。
 それは墓所を出た直後の雰囲気とは一線を画し、明らかにスバルを敵視しているが故のものだ。
 当然、彼が最初に口にする質問は――、

「てめェ……」
「お前、墓所の中で何を見た……か?」

 出鼻に被せられて額に青筋が浮かんだかと思えば、自分が口にしようとした内容をそのまま言われてガーフィールが目を丸くする。
 意外と、そうして虚を突かれた表情を見せられると、これまでの刺々しい印象が払拭されて、どこか幼いような雰囲気が覗くから不思議だ。

 片目をつむるスバルの姿勢に、ガーフィールはすぐに首を横に振り、気を取り直したように牙を噛み鳴らしながら、

「薄ッ気味悪ィが、わかってるってんなら話ァ早ェ。包み隠さず、正直に話せや。痛い思いしたくなかったらよォ」

「そうだな。俺も確かめたいこととか色々あるし、忙しい身なんでな。――お前の質問に答えるのはいいんだが、代わりに俺からの質問にも答えてもらえるか?」

「交換条件なんざ突きつけられる立場だっと思うのかよ。俺様が一方的にてめェを食らう立場で、てめェは食われないために自分以外の肉を差し出す立場っだろが。『メージェーは兄の後、弟を差し出した』ってやつだ」

「お前が今まで言った慣用句の中で、一番感じの悪い慣用句だな、それ」

 肩をすくめて応じ、スバルはしばし視線を落として沈黙を選ぶ。
 ガーフィールは焦れている様子だが、それでもスバルを急かしたりはしない。スバルは深々と息をつき、応じるべき答えを決めた。

「中で『試練』を受けた。過去を、見てきたよ」

「――! やっぱり、資格を持ってやがったか……ッ。それで、結果は……」

「失敗だ。そうそう簡単に、過去を否定したり受け入れたり、できるもんじゃねぇだろ。……エミリアだって、おんなじはずだ」

 前半で真実を、後半で偽りを、それぞれに告げてガーフィールの反応をうかがう。
 スバルが『試練』を受けたと聞いて血相を変えたガーフィールだが、それが突破に至らなかったと耳にして安堵に肩を落としたのがわかる。

「ずいぶん、ホッとしたみたいな顔をしやがるんだな」

「あんだァ……?」

「エミリアの失敗を、『聖域』が解放されないことを、嬉しそうな顔で受け入れやがるんだなって、そう思ったんだよ」

 スバルの言葉に、眉根を寄せていたガーフィールが勘付いたように鼻を鳴らす。彼は姿勢をわずかに低くし、スバルを下から睨み上げ、

「てめェ、過去で何を……いや、『試練』で何を聞いてきやがった……?」

「この『聖域』の成り立ち、軽い裏事情。それと、お前とリューズさん、かな」

「――ッ! まさ、か……てめェ、俺様の……」

 過去を知ったのか、とおそらく続くだろうガーフィールの態度に、スバルは先回りして首を横に振る。
 彼が懸念する、『試練』の内容にまではスバルは踏み込んでいない。
 ただ、

「お前が過去に何を見たのか、そこまでは知らねぇよ。お前が『試練』を受けたことをなんで黙ってるのか、それには見当がついてるけどな」

「……そんなっことまで」

「推測もあるけどな。邪推が過ぎるって、怒ってもいいぜ」

 スバルとガーフィールの付き合いは、この世界ではまだほんの一日のものだ。
 この後、スバルがガーフィールとの接触で知り得ていく情報のほとんどは、本来ならばまだまだ語り聞かせてもらえる段階にない。
 それはもちろん、実験場に眠るリューズ・メイエル本人のことも同じことで。

 故にスバルはここでも、墓所の中でこうした知識を得る機会であり、便利に使える『試練』とエキドナの存在をちらつかせて乗り切ろうとする。
 現状、ガーフィールと話していてスバルが得られる新情報や、今後の新しい動きは思いつかない。
 今はただ、早くこの会話を切り上げてしまいたかった。
 だが――、

「――なぁ、お前はどうして、『試練』に再挑戦しないんだ?」

「――――」

 押し黙るガーフィールに、スバルは重ねてそんな問いかけを放っていた。
 それを耳にするガーフィールは、顔を俯かせてスバルに表情を見せようとしない。
 腕はだらりと下がり、警戒の姿勢は力をなくしてゆるんでいる。
 だから、即座の攻撃はないと、そう判断してのことだった。

「俺は、俺にはお前の行動に一貫性がないように感じられてならないんだよ。『聖域』を解放させようって、エミリアを押し出すわりには失敗のホッとした顔しやがる。かといって、本気で『聖域』の解放を阻もうってつもりにしちゃやり方が中途半端だ」

 究極的に後先を考えないのであれば、ガーフィールは獣化してスバルやエミリアの命を奪ってしまえばいいのだ。
 当然、避難民やロズワールたちの感情は最悪になるだろうが、ガーフィールの目的が本気で『聖域』の解放を妨害することならそれが確実で手っ取り早い。
 にも拘わらず、ガーフィールはギリギリの時点――それこそ、スバルが避難民たちを『聖域』から逃がしたりするラインを越えるまで、その行為に及ぼうとしない。

 ――何か、まだスバルの知らない、ガーフィールの中の境界線がある。

 それをはっきりと見極めることができたのなら、

「俺は、お前の力も借りれたらと思うんだよ」

「――ば、か言ってんじゃァねェよ」

 スバルの言葉に、ガーフィールが一度、声を途切れさせながら反論する。
 顔を上げたガーフィールは、しかし常の気迫を丸きりなくした表情で首を振り、

「てめェの言った通り、俺様とてめェの利害は一致しねェんだ。俺様ァ、積極的に邪魔こそしねェが、積極的に手伝いもしねェ。中立だ。中立で、いいんだよォ」

「その立ち位置、超似合わねぇ自覚あるか?」

「似合う、似合わねェの話っじゃねェんだ。俺様ァ、必要だからそうする」

 あまりにらしくないことを言いながら、ガーフィールは苛立たしげに地面を蹴りつけ、土埃を巻き上げてスバルに背を向けた。

「あの半魔が、『試練』を越えるってんならそれァそれだ。中に取り込まれた以上、外に出てくために『試練』を越える必要があんなァ俺様だって理解してる。――だが、開いた『聖域』の外についてくかどうかは、また別なんだぜ」

「…………」

「出ていきたきゃ、勝手に出てけ。だけどなァ、中に何もしようとするんじゃァねェよ。てめェもそれ以上、こっち側に踏みっ込んできやがるんじゃねェ。そうすりゃァ俺様も、何もしやしねェ」

「外に、お前の力が必要だって、そう言ってもか?」

「……俺様が欲しがるもんを、てめェらは絶対に用意できねェ。俺様の話ァ、これで終わりだ。余計な真似だけァ、すんな」

 スバルの言い分に耳を貸さず、しかし幾分、理性的に話してガーフィールはその場を立ち去っていく。
 これまで、踏み込んだ会話に対しては強い拒絶の態度を示してきたガーフィールが、今回に限ってはスバルに食って掛かってこなかった。
 その違いは、真意は、どこにあるのか。

「考えたいことが、山ほどある……けど」

 黒髪に指を突っ込んで、スバルは錯綜する情報を頭の中に置くだけにとどめる。
 まとめて、整理して、組み立てて、答えを導き出したいのは山々だが。

「それも含めて、一人で考えてても埒が明かねぇ」

 思考の迷宮に迷い込んでしまえば、ナツキ・スバルは再び負の螺旋に絡め取られる。そうならないためにも、今のスバルに必要なことは。

「また、お前を頼ってもいいのか……」

 この世界で唯一、スバルの悩みを打ち明けられる人物を思うことだけだった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 堪え難い感情に突き動かされるように、スバルの足は逸っていた。

 ガーフィールと別れた後で、歩き出した足はすぐに駆け足へと変わっていた。
 息を荒げ、額に汗し、瞳を震わせながらスバルは走る。
 目指す先は一つ、夜天に浮かぶ月に照らし出される、墓所の中だ。

 先のやり取りの後だ。
 スバルの行いに干渉しないと言った手前、ガーフィールの邪魔は入らない。
 墓所の中に再び駆け込むスバルを、咎め立てるような存在はどこにもいない。

 入口に辿り着いたところで、足を止めたスバルは袖で乱暴に汗を拭う。
 息が切れるのを深呼吸の繰り返しで静め、前を向くスバルは墓所の中の暗闇を覗く。
 用があるのはその中――あるいは深淵ともいうべき夢の城、即ちエキドナの世界だ。

「知りたいって……そう願えば……」

 招かれると、白髪の魔女はスバルにそう説明した。
 縋るような気持ちで、それを信じてスバルはここにやってきた。

 聞きたいことが、話したいことが、一緒に頭を悩ませてほしいことが、答えを出すのを手伝ってほしいことが山ほどあるのだ。
 かの強欲の魔女にしか打ち明けられないことを、打ち明けて道を示してほしい。

 やらなければいけないことと、やりたいことは一致している。
 あとはそれを実現する方法に、一人で悩む以外の答えがほしいのだ。

「――――」

 エキドナの城へ赴き、彼女にスバルの抱える悩みを、迷いを、全て吐き出して、温情に縋ることに情けなさを覚えなくはない。
 エキドナに何もかもを打ち明けて禁忌を破り、再び『聖域』を嫉妬の影が覆い尽くす可能性に足が震えないわけでもない。

 ただそれでも、スバルは希う。

 魔女の導きが、この見えない運命の袋小路を打開する手掛かりとなってくれることを。

「今の俺なら……条件は、満たしてるはずだ」

 これほどまでに道に迷っているのだから。
 これほどまでに、手を尽くそうと志しているのだから。

 今のスバルが求め、欲する強欲の使徒でなくて、なんだというのか。

 何度だって命を投げ出す。プライドだって、差し出して済むならいくらでも捧げる。
 情けなくみっともない、無力で無知なナツキ・スバルの精いっぱいが、それなのだから。

「頼むぜ、エキドナ……!」

 息を整えて、スバルは静かに気合いを入れると、墓所の中へと足を踏み入れる。
 すでに今宵一度、挑戦者を受け入れた『試練』の間に入り、四角い空間を見回してスバルは部屋の中央へ進み出る。

「どこで、どんな儀式が必要かは出たとこ勝負だが……」

 二度目に夢に招かれたとき、スバルは必死で答えを欲した以外、『死に戻り』直後の這いつくばった姿勢のままだったはずだ。
 特別、何かを捧げるような条件があったとも思えない。

 とりあえず、スバルはその場にひざまずき、両手を組んで目をつむる。
 脳裏に描くのは白い魔女の姿であり、彼女に呼びかけるようにしながら自身の感情を並べ立てる。手詰まりの未来を、引き寄せる懸命さを訴えかけるように。

「――――」

 そのまま、時間が経過するのを黙って待ち続けることになるスバル。
 墓所の冷たい空気が素肌を撫ぜ、それなのに額にじっとりと冷たい汗をかいているのが自分でもわかった。

 求めている。必死で。
 欲している。懸命に。

 これだけ求めて、これだけ欲して、それでもなお届かないというのなら。
 ――強欲とは、人の手に余る膨大な欲求に過ぎるのではないか。

「――ぅ?」

 弱気が差し込む寸前、目をつむるスバルは瞼の裏の闇の中にふいに白い光が入り込む錯覚を得た。――否、錯覚ではない。

「――――」

 白い光が視界を犯し、真っ暗闇の世界が徐々に徐々に侵食されてゆく。
 気付けばひざまずいていた体が地面に横倒しになり、意識が現実を乖離して別世界へ引っ張られていくのがわかった。

 ――夢の城への招待が始まる。

 エキドナの待つ城へ、そこで今度こそ、未来を掴むための話し合いを持ちたい。
 朦朧とする意識の中で、スバルはただただそのことだけを念じて――。

『――ありうべからざる今を見ろ』

 意識が落ちる瞬間、そんな声が聞こえた気がした。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 酩酊したような感覚が、スバルの全神経を大きく揺さぶっていた。

 何が起きたのか、わからない。
 意識の覚醒は唐突にやってきた。それはまるで、チャンネルの切り替えだ。

 一つ前のチャンネルと、まったく別の雰囲気のチャンネルに変えられたような、騒々しさを引きずったままでの意識の切り替え。
 『死に戻り』した直後に、スバルはこれと似たような感覚を覚える。

 死亡する直前の世界の凄惨さと、『死に戻り』した直後の状況の齟齬は、スバルの意識や肉体の状態はもちろん、魂にすら違和感を刻み込むものなのだ。

『――――』

 そして覚醒したスバルは、声を出そうとしてその声が出ないことに気付く。
 喉に手を当てようとして、それから喉という感覚も、手という感覚もないことにも遅れて気付いた。

『――――?』

 手も足も、目も口も、それどころか体すら、今のスバルには存在していなかった。
 意識だけが宙に浮かび、まるで視点だけの存在になったように世界を俯瞰している。

 不自然な、まるで夢の中にいるような肉体の欠落した感覚だ。
 なのに、こんな状態になるのが初めてではないように思えるのは、それこそ夢見心地だからということなのだろうか。

 そんな風に考えることで、ナツキ・スバルは目の前の光景から意識を切り離そうとしていた。
 しかし、それは不可能なことだった。
 体のないスバルには、首を別に向けることも、目をつむることすら許されない。

 ただ、目の前にある――意識に否応なく焼き付けられる光景を、見ているしかない。

「――つき」

 小さく、掠れた声だった。
 なんと言ったのか、聞き取ることの難しいほど、弱々しい声。
 なのに、

『――――』

 直感的に悟った。
 マズイと、それを意識だけのスバルは本能で察した。

 聞いてはならない声だった。
 気付いてはいけないことだった。
 知ってはならないものが、そこにあった。

 だが、意識がどれほどそう思ったとしても、焼き付く光景は変わらない。消えてもくれない。ただ、スバルにその『結果』を押し付け、刻み込む。

「嘘つき……嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき……っ」

 繰り返される言葉、聞き取れなかった単語が明確な形を帯び、そして終わることを忘れたように呟かれる音に涙が混じり出す。
 痛々しい光景だ。耳に絶えない悲哀が込められていた。それを目にすることも、耳にすることも、この世の苦しみの中で最も最上のものだ。

『――――』

 なぜ、自分は今ここにいる。
 どうして、こんなことに気付かせられた。
 失敗した。誤った。判断をしくじった。気付くべきではなかった。知るべきではなかった。思い知らされるべきではなかった。

 ――そうでないと思っていなければ、俺は。

「嘘つき、嘘つき! スバルの……嘘つきぃっ! 嘘つ、きぃ――!!」

 滂沱と紫紺の瞳から涙を流し、崩れ落ちるエミリアがそう叫ぶ。
 裏切りを弾劾するように、目の前の悪夢を否定するように、子どものように長い髪を振り乱して、エミリアが狂乱したように叫ぶ。




 ――寝台に横たわるレムの前で、短刀で首を突いて自害したスバルの亡骸が、泣き叫ぶエミリアの前に並んでいた。

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