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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章63 『死の共感』


 紫紺の杭が肉に突き立つ音が連鎖し、衝撃に砕け散る紫の結晶が通路を輝きの乱反射で埋め尽くす。
 無数の杭は全方位からエルザの細い体を狙い、ハチの巣に仕立て上げたはずだ。
 必勝の気配。ベアトリスの圧倒的な魔法力に息を呑み、しかし眼前で殺人鬼を歯牙にもかけない少女の力を見ていながら、胸中で爆発的に膨れ上がる嫌な予感を殺し切れずにいた。

 ――何か、何かを忘れている気がする。抜け落ちてはいけない、何かが。

 それが何なのか、記憶から引き出すまでに色んな感情が邪魔をする。
 エルザは何の目的で屋敷へきたのか。疑ったフレデリカの死に際し、彼女への慚愧の念とその死の原因に心がめちゃくちゃだ。ペトラのことだって消化し切れていないし、扉の向こうにいるはずのレムの安否を確かめろと感情の奥底が叫び声を上げている。ベアトリスをどうするか、彼女と何を話さなくてはならないのか。
 何一つ、スバルの心を迷わせる惑いは答えを出せていない。

「――――」

 だからスバルは、本来なら避けられたはずの機会を逸し、後悔する。

「――づ、あ?」

 輝きを突き破り、飛来した何かがスバルの右肩に深々と突き立っていた。
 痛みの感覚に目をやり、じわりと血が滲み出してくる傷口を見て思考が赤熱。喉を挽くような絶叫が迸り、傷を押さえてのけ反るスバルが廊下に尻餅をつく。

「なんで……!? 直撃したはずかしら!?」

 傷を負ったスバルを見て、ベアトリスがそう叫ぶ。
 痛みに思考を焼かれながら、ベアトリスの叫びを聞いてスバルは気付く。気付いた。そうではない。違う。直撃したのだ。それは間違いない。だけど、

「エルザぁぁぁ!!」

「そう熱烈に呼ばれなくても、ちゃんと聞こえているのだけど」

 激痛に憎悪を刺激されて、スバルの口から絶叫とは別に赫怒が溢れる。それに応じるのは輝きが乱舞する廊下の向こう――おっとりとした声で、まるで命のやり取りをしていることなど感じさせない艶やかさで。

「無傷なんて、ありえないのよ」

「私が裸できていたなら、今ので死んでいたでしょうけれどね」

 首を振るベアトリスに、長い三つ編みを揺らしてエルザが答える。その姿にはベアトリスの魔法の直撃を受けた痕跡がない。直前の姿、そのままだ。
 否、一ヶ所だけ違う。直前まで羽織っていた黒の外套を脱ぎ捨て、今は身軽にその下の黒装束だけの姿になっている。

「魔法無効化の、コート!」

「あなたに見られるのは二度目だったはずね。そのわりに、その女の子に教えるのがずいぶんと遅れたようだけど」

「クソ……!」

 失念、などという言葉では許されない失態に、痛みを押しのけて怒りが沸き立つ。
 エルザの羽織る外套が魔法を一度だけ無力化する。――それを、スバルは王都でエルザとぶつかった際に見て知っていたはずなのに。
 予想外の襲撃や、ベアトリスとの連携が取れていなかった点を鑑みても、あってはならない類の失態だ。

「種が割れれば、そのぐらいのことで驚きはしないのよ」

「――いいわ。すごくいいわね。強くて、可憐で。ただ泣きじゃくる女の子のものと、違う温かさが楽しめそう」

 再び魔力を高めるベアトリスに、手の中のククリナイフを回してエルザは微笑む。血の微笑みと今の言葉――その『ただ泣きじゃくる女の子』というのが誰のことを示しているのかがわかって、スバルは即座に沸騰する。

「てめぇに、ペトラを貶める資格なんざありゃしねぇんだよ――!!」

 右肩に突き立っていた小刀――先端が鉤状になり、引き抜くのを阻害するタイプの投擲具だ。肉に食い込むそれを奥歯を噛み、スバルは一息に引き抜く。
 目の前が真っ赤になる激痛と、右腕全体の機能が致命的な打撃を受ける気配。だがそれらのダメージを全て無視し、引き抜いた小刀をエルザ目掛けて放る。

 手加減抜きの投擲だが、修練も何も積んでいない乱暴な投法だ。
 真っ直ぐにエルザ目掛けて飛んだことが半ば奇跡。速度も重々。しかし、それは人知を超えた技量を持つ殺人鬼の前には何ら効果を及ぼさない。

「意地は買うけれど、こんなものじゃ――」

「絞り尽くしてやる! シャマク――!!」

「――!?」

 迎撃の体勢を作ったエルザに対し、スバルは喉を震わせて三度目のシャマク。
 一度目、二度目で枯渇しかけていた体中のマナをかき集めて、鍛えられていないゲートから己の生命力ごと魔法を放出する。
 目が血走り、鼻血が垂れる。そして、魂の叫びが結実した。

 闇が通路の中央に広がり、スバルとエルザの間の空間を覆う。その中に猛然と飛び込むのは、スバルが投げた小刀だ。無理解の闇に飛び込み、その内部を抜けてエルザを目指して飛び出す――そしてその軌跡が、エルザには見えない。

「当たれ――!」

「少し驚いたわ。でも、弾けないなら射線からずれるだけのこと」

 言い残し、エルザがその場で身を低くしながら滑るように回る。
 小刀の軌道から逃れる動きは、スバルのシャマクがエルザにまで届いていなかったが故の判断を許したためだ。
 漆黒の幕から飛び出した小刀は、持ち主の肉体に突き刺さることなく通路の彼方へ。そのまま、スバルの攻撃は無駄に終わる――かと思われたが、

「ベア子!!」

「とっさにそう呼ぶんじゃないかしら――!」

 この場にいたのがスバルだけならば、攻撃は失敗に終わっただろう。
 しかし、エルザの敵はこの場に二人――そしてそのもう一人の少女は、スバルが稼いだほんの短い時間で、次の詠唱を完成させていた。

「見せてやるのよ。――本物の、陰魔法というものを」

「何を――」

 するのか、と口にしかけたのはスバルだったかエルザだったか。
 それすらも、次なるベアトリスの行動でわからなくなる。
 小さな両手を胸の前で合わせて、エルザを睨み付けるベアトリスがその唇を震わせる。それはたった一言、しかし世界を塗り替える。

「――ウルシャマク」

 ――スバルが放つ紛い物の陰魔法とは桁の違う、本物の『闇』が屋敷を覆った。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 気付いたとき、スバルは闇の中にいた。

「――――?」

 否、気付いたのかどうか、それすらも意識は判然としていない。
 自分がどこにいるのか、立っているのか座っているのか、何もわからない。
 上下左右が、正面背後が曖昧だ。息を吸っているのか、吐いているのか、血は巡っているのか、鼓動は続いているのか、生きているのか、死んでいるのか。
 何もかもがわからない。何もかもに答えが出せない。スバルのシャマクならば、足裏から伝わる感触と、少なくとも自分の体内の変化ぐらいは感じ取れた。外部からの干渉への理解は不可能になるが、代わりに内への目は鋭敏になっていたほどだ。

 だが、この闇の中にはそれすらない。
 影の中に自分が溶けてしまったように、自分がどこにいるのかもわからない。
 人の形を、自分がいまだにできているのかわからない。手の動かし方がわからないから、体に触れて確かめようもない。どこにいるのか確かめようにも、足の動かし方がわからないから歩き出せない。歩くってなんだ。確かめるってなんだ。
 ――そもそも、自分はいったい誰なんだ。

 自分と他人の境界線がぼやけていく。
 自分と世界の境界線がぼやけていく。

 考える力が溶けていく。なくなってしまう。消えてしまう。
 このまま、このまま、このまま――。

 終わる。
 終わ。
 終。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「……いい加減、目を覚ますかしら」

 乾いた音を立てて頬を張られて、スバルは意識を揺り戻された。
 目をしばたたかせ、唐突に戻ってきた視界の眩しさに苦鳴のような音が漏れる。それを聞き、スバルを目覚めさせた痛みが再度、その頬を殴打。左右から、二度。

「か、重ねて殴ってんじゃねぇよ!」

「意識をはっきりさせてやろうと思っただけなのよ。二度目は、なんだかわからないけど反射的に出てしまっただけかしら」

 憎まれ口を叩くベアトリスのすまし顔を睨み付けて、スバルは自分が通路の床に横倒しになっていたことに遅れて気付く。
 体を起こして、自分の肉体が過不足なくついていることを確認。右肩から鋭い痛み。思わず目をやれば、じくじくと血が溢れる真新しい傷が自己主張していた。

「あぁ、痛ぇ……この、部分的にシャマクかけたりできねぇの?」

「できないことはないけど、やってもお前が傷の存在を忘れるだけで傷がなくなるわけじゃないのよ。治療もしないでうろついてれば、普通に失血死するかしら」

 ゾッとしない未来図を告げるベアトリス。掌でその傷を塞ぎながら、スバルは「それより……」と思い出したように目を細めて、

「エルザは、どうした? お前が悠長にこんな風にしてるってことは、撤退したのか?」

「お前、何を言ってるのかしら?」

「何をもクソもないだろ。まだいるってんなら、こんなことしてる場合じゃない。確かにさっきのシャマクは俺のと比べ物にもならなかったけど、あれだけで……」

「節穴も、ここまでくるといっそ哀れなのよ」

 呆れたようなベアトリスの言葉に、スバルは苛立ちで眉根を寄せる。
 ベアトリスはずいぶんと楽観的に考えているようだが、それは彼女がエルザの執念深さと恐ろしさをまだ知らないからだ。あの殺人鬼の異常性を知れば、スバルの警戒もわかろうというものだろう。

 そんな内心をそのまま表情に出すスバルに、ベアトリスは今度こそはっきりと呆れとわかるため息をぶつける。
 彼女の反応の意味がわからないスバル。そのスバルの前で、ベアトリスはゆっくりとその場から横にずれて、

「わからないなら、その目ではっきり見てみればいいかしら」

「――う、お」

 ベアトリスが横にどき、それまで彼女の体が塞いでいた光景がスバルの目に入る。そしてそれを目の当たりにしたスバルは、思わず呻き声を出していた。

「恐ろしい相手が、どうしたっていうのよ?」

 勝ち誇るようなベアトリスの声に、応じることができない。

 彼女の背後――通路の壁には四肢を紫の杭に串刺しにして磔にされ、胸の中央に吸血鬼を仕留めるように杭を打たれたエルザの屍がぶら下がっていた。
 屍――そう、間違いなく、屍のはずだ。

「死んでる……よな?」

「胸に風穴を開けて、これだけ傷だらけにしてやってまだ生きてるなら……それはもう人間じゃなく、もっと別の何かなのよ」

 頭を振り、倦怠感を引きずりながらスバルは立ち上がる。
 立ち上がった瞬間にすさまじい勢いの眩暈に襲われて、上体がふらつく。そっと、横から差し伸べられた手に支えられた。

「わ、悪ぃ……」

「別に……」

 顔を背けてこちらを見ないベアトリス。彼女の掌にいくらか負担を預けて、足を引きずりながらエルザの下へ。
 首をがっくりと下に落とし、杭の一本の長い三つ編みを半ばで切断されたエルザ。四肢は肘と膝を貫通して磔にされており、痛々しさを行いの苛烈さに目を背けたくなる。それでも息がかかるほどの距離まで近づき、顔の見えない殺人鬼が本当に息をしていないかを確かめる。

 呼吸、なし。手を伸ばし、動かない肉体に触れる。まだ温かいが、生き物特有の反応は返ってこない。首筋に触れると、脈もない。
 何よりこれだけ無防備にスバルが振舞っても、不意打ちしてこない。

「ほ、本当に死んでるのか……」

「だから、何度もそう言ってるかしら」

「こいつの地力を知ってる側としちゃ、そう簡単に頷けないとこだったんだよ。……まさか、本当に、やれるなんて……」

 エルザの死体を前に、スバルは達成感のない勝利に呆然としてしまう。
 いずれ打倒しなくてはならない相手だとは思っていたが、ベアトリス単独でこうもあっさり撃破してしまうとは予想外。ガーフィールなしでは、勝利の絵図も見えないという予想だったのだが。

「パックとエミリアの二人がかりでも仕留め損なったんだぜ、こいつ」

「……にーちゃが本気でいたんなら、こんな奴、相手にならなかったはずなのよ。ベティーにとっても、万全の今、そうそうニンゲン如きに負けてやれないかしら」

 パックの本気――それはおそらく、あの巨大な獅子ともいうべき状態だろう。確かに存在するだけで世界を凍らせるあの状態ならば、さしものエルザであっても太刀打ちできたとは思えない。ベアトリスも、それに準ずる力を持つ精霊ということか。
 四百年――生きてきた年季が、違いすぎる。

「そう、だ。レム!」

 ひとしきり、エルザの死を確認し終えたところで、弾かれたように部屋を振り返る。いまだ、フレデリカの亡骸が扉に寄りかかる惨状。
 固くなっている彼女の体をどうにか扉から除けて、スバルはおびただしい血に濡れる扉に手をかけた。息を吸い、覚悟を決めて中を覗く。
 そして、

「――レム」

 呼びかけに、応じる少女の声はない。
 しかし、ベッドの上に横たわり、規則正しい息遣いで眠り続けるレムには、外で起きた惨状の余波は欠片も見当たらなかった。

 エルザは、この部屋の中には踏み込んでいない。
 それはとりもなおさず、扉の前で部屋を死守していたフレデリカの懸命さが、殺人鬼の醜悪さを上回ったということの証左だ。

「……疑って、本当に悪かった、フレデリカ」

 眠る愛しい少女の額を手で撫でて、スバルは通路に寝かせた女性に再び謝る。
 もう、彼女の魂はこの世界のどこにもない。だからスバルの今の言葉は、彼女には絶対に届かないのだけど。

「それで、これからどうするのかしら」

「レムを、このままここには置いておけない。フレデリカと、ペトラが……だから、アーラム村の人たちに預けて、面倒を見てもらうつもりだ」

「お前がそうしたらいいのよ。その娘も、その方が喜ぶかしら」

「俺だって、レムの世話だけしてやれる環境ならずっとそうしてやりたいさ。けど、そうもいかねぇよ。俺は……お前を『聖域』に連れていかなきゃいけねぇからな」

 レムに触れたまま振り返り、スバルは部屋の入口でこちらを見ているベアトリスと向かい合う。少女は小さく鼻を鳴らして、

「勝手を言ってくれるもんなのよ。そもそも、さっきは邪魔が入ったから話を中断しただけで、問題は継続中かしら」

「んなこたぁ、わかってる。だから、それに対する俺の答えがそれだ。――俺はお前を殺したりなんか絶対にしないし、お前を屋敷から引っ張り出して『聖域』へ連れていく。決定事項だ」

「身勝手すぎるのよ。ベティーの言い分は無視して、自分の意見は通そうとする。――どの面下げて、何様のつもりで、そんな戯言が言えるのかしら」

「お前の言い分が、本当にお前の本心だってんなら考えなくもないけどな」

「――どういう意味なのよ」

 低い声で、恫喝に近い威圧感をぶつけてくるベアトリス。スバルは肌に粟立つような感覚を味わいながら、小さく首を横に振った。

「細かい部分は俺もはっきりわかってるわけじゃねぇよ。ただ、お前の本当の根っこの部分を引っ張り出すには、まだ足りないもんがあるって思うだけだ」

「――嫌、かしら」

「お前と『聖域』の関係が、今もちゅうぶらりんのまんまだからな。エキドナが作った実験場と、お前の関係。……正直、あんまりいい予感はしねぇよ」

「詮索するんじゃ、ないのよ」

「断る。……俺でなくて、誰がお前に土足で踏み込んでやるんだよ。ずっと、あんな場所に閉じこもりっきりのくせに」

 喉を詰まらせたように、ベアトリスが言葉を失う。
 それを見届けて、スバルは寝台に向き直るとレムを抱き上げた。アーラム村へレムの身柄を連れてゆき、彼女を預けてベアトリスと『聖域』へ向かう。
 扉渡りで協力してくれれば話は早いが、無理はいえない。パトラッシュに乗って、半日かけて戻ることになるだろう。

「お前が『聖域』にきたがらなくても、俺はロズワールやリューズさんたちにお前のことを問い質す。できるなら、もっと大本の奴にも話を聞いてだ」

 スバルが本気で『知りたい』と渇望したとき、『強欲』の魔女は応えるといった。
 今ならば。以前よりもさらに多くの情報と、それを伴う仮説。そして新たに生じた謎を抱える今ならば、またあの夢の城に招いてもらえそうな気がしていた。
 そしてそのときならば、関係者の誰もが口をつぐんでしまっている『聖域』の秘密と、関係者たちの内情を明らかにしてもらえる気がする。

「早いか遅いかだけの違いだよ。わざわざ、自分の手で早めたくないってお前の気持ちもわかるけどな」

「お前は、どこまでそうやって人を馬鹿にするのかしら……!」

「馬鹿に? そんなつもりは……」

「気軽に人の踏み込んでほしくない場所に踏み入って、散々荒らして掻き乱していくくせに、どの口がそんなことほざくのよ。馬鹿にするのも、いい加減にするかしら。死んだ二人のことも、あっさりと置き去りにするくせに」

「――――ッ」

 ベアトリスの言葉の最後に、スバルは痛烈な痛みを味わって顔をしかめた。
 それを見て、ベアトリスも自身が言いすぎたと思ったのか、一瞬だけ躊躇が表情に出る。が、それもすぐに冷然を装う態度の下に隠されてしまう。

「ペトラとフレデリカは……レムを村に預けたら、ちゃんと弔うさ。ペトラのことだって、黙ってるわけにはいかないんだから」

 言い訳じみたことを口にしてしまう自分に気付き、スバルはその顔をベアトリスに見られまいとしながら歩き出す。
 ベアトリスの言は、鋭くスバルの胸を貫いていた。

 ペトラとフレデリカの『死』に衝撃を受ける一方で、スバルはすでにこの世界をやり直す覚悟を固めている。エルザの撃退、という一つの目標が成ったとはいえ、そのために払った犠牲が大きすぎる。この世界は、続けるには辛いことがありすぎた。
 ベアトリスに「死ぬな」と口にした身で、どの面を下げてといった感慨は確かにある。お前はダメで、俺はいい――身勝手、ここに極まる理屈だった。

「『聖域』行きをどうするかは別としても、とにかく屋敷の問題を片付けてからだ。お前との話し合いはそのあとだな」

 入口に立つベアトリスの横を抜けて、そのまま廊下へ。無言のベアトリスではあるが、どうやら黙ってスバルについてくる姿勢のようだ。
 自死が許されていない以上、ベアトリスは『終わり』を迎えるためには他者の手を借りるしかない。自らそれを求めて働きかけることができないのだから、意思表明はどうであれ、スバルの手の届くところにいるしかないのだ。
 それがわかっていて、こうして振舞う自分はずいぶん酷い男になったものだと、自嘲がわいてくるほどには、後ろめたい感情はあった。

「――お?」

 と、自身の考えの薄汚さに嫌気が差していたスバルが、ふいに声を上げる。
 原因は軽い衝撃だ。背後から、手で押しのけられるような感触があり、レムを抱いたままのスバルは思わず前のつんのめってしまう。
 たたらを踏んで振り返れば、それをしたのは背後にいたベアトリスだ。先の発言への意趣返しか、とスバルは眉間に皺を寄せて、文句を口にしようとし――、

「――ぁ」

 か細い少女の声と、その胸から鈍い輝きが突き出しているのに気付いた。

「――え?」

 背中から侵入した刃が胸から突き出し、ゆっくりとその傷を上から下へ――胸の上部から下腹部へ向かって下がってゆく。
 刃の動きに従い、ベアトリスの小さな体が震える。
 スバルはただ、それを呆然と見ているだけだ。

「……これで」

 ぽつりと、ふいにベアトリスの唇が何事か呟いた。
 目の前の光景に立ち尽くすスバルの前で、ベアトリスが顔を上げてこちらを見る。
 その表情が、その瞳が、彼女の感情のあまりの大きさを物語っていて、

「やっと……」

「待……ッ」

「――――ぅ」

 何を言おうとしたのか、スバル自身もわからない。
 ただ、そのわからない感情が形になる前に、ベアトリスの掠れた息が漏れた。
 そしてその音を最後に、ベアトリスの肉体が淡い光の集合体になり、瞬きのあとには黄色の光の粒となって霧散してしまう。

 小さな体も、クリーム色の縦ロールも、小憎たらしいが愛嬌に溢れた顔も、豪奢で動きづらそうなお似合いのドレスも、全て何もかも、消えてなくなって――。

「――あら、残念。精霊のお腹は初めて切り開いてみたのに、消えてしまうのね」

 消滅してしまったベアトリスの立っていた位置。その半歩後ろに、ベアトリスを貫いた凶器を手にする女が立っている。
 その女の正体が、スバルには獲物と声を聞いた時点ですぐにわかった。すぐにわかったのに、すぐわかれなかったのは、それがあるはずないと脳が理解を拒否したからだ。だが、衝撃に目を回していた意識も数秒で立ち直り、スバルは奥歯を噛みしめる。
 音を立てて、歯が割れる。血の味を感じながら、眼前を睨みつけ、叫んだ。

「――エルザぁぁぁぁ!!」

「もう何もできないでしょう?」

 叫んだ横っ面を、ククリナイフの峰に思い切りに殴打される。
 固い衝撃に即頭部が割られ、威力に抵抗もできずにスバルの体は勢いよく壁に叩きつけられた。腕の中のレムを、投げ出さないことだけがスバルにできた抵抗だ。
 割られた頭部から大量の血が流れ出し、目の前が真っ暗になるほどの衝撃で手足に闘志が伝わらない。それでも、スバルは明滅する視界だけでエルザを捉えて、ククリナイフを両手で器用にジャグリングするエルザに憎悪を吐き出す。

「なん、で……てめぇが生きてやがる。確かに、死んでるのを確かめたぞ……!」

「ええ、そうね。死んでいたわ。あのまま焼かれて灰にでもされていたら、こうはしていられなかったでしょうけれど」

 あっけらかんと言ってのけるエルザにスバルは戦慄。
 磔になったエルザは確かに生命活動を停止していた。死んだのだ。それは間違いない。ならば、目の前にいるエルザはなんなのか。あるいはリューズのように、まさかエルザも複製体を持つという悪夢でも見ているのか。

 だが、スバルを殴り飛ばしたエルザは四肢から今も血を滴らせ、貫かれて破けた胸部分は役目を果たせなくなった外套を切り裂いて作った布で補強している。
 戦いの名残が色濃く残る彼女を見れば、それが先までと同一人物であることは疑いようもない。問題は、生死だけなのだ。

「お前まさか……不死身だとか言うんじゃ、ねぇだろな……」

「それこそ、まさかよ。ちょっと人より、生き汚いだけのことだもの。それより、あの子もずいぶんと無茶をしてくれるわ。ここまで体を破壊されることなんて、私も数えるぐらいしかないのに」

「……奇遇だな。俺も、お前ぐらい痛めつけられて死んだ経験は数えるぐらいしかねぇよ」

 真に迫ったスバルの言葉は皮肉であり、冗談ではない。が、エルザはそれを冗談と受け取ったらしく、微笑を深めてその場でくるりと回る。半ばで断たれた三つ編みを寂しげに指で押さえて、エルザは静かにスバルを見下ろすと、

「その女の子、聞いてないわね」

「……じゃあ、そのまま見なかったことにして見逃してくれねぇか」

 聞き捨てならない発言であることを理解しつつも、スバルはエルザにそう提案。受けえもらえるとは思わないが、手足がスバルの言うことを聞き始めるのにもう少し時間がかかる。馬鹿みたいな会話で、時間稼ぎが必要だ。

「私にとっても予定外のことだから、それは構わないのだけれど……精霊の女の子と、大きなメイドさん。小さなメイドの子は、追加ね」

 標的は三名。ベアトリス、フレデリカ、ペトラが追加という意味か。
 意識を白熱させながらも、聞き落とせない部分には耳を尖らせる。レムが標的に入っていないのは、エルザの雇い主がレムの存在を忘却しているからだろう。フレデリカがそうだとばかり思っていたのだが、彼女の死でその推理も振り出しだ。

「そいや、お前も嘘、ついてやがったな」

「嘘?」

「フレデリカだよ。――禁書庫じゃお前、ペトラしか殺してないみたいな口ぶりだったってのに、ああじゃねぇか」

 視線で通路の端に寝かされたフレデリカを示すと、そちらを見たエルザが「ああ」と納得したように頷いた。それから彼女はスバルを見て、

「美しくない、終わり方だわ」

 とだけ、ぽつりとこぼした。
 殺人鬼の美意識など、理解できるはずもない。命を奪っておいて、そのつまらなそうな言い方はなんなのか。憤激がわき上がるが、ククリナイフを掌の中で構え直したエルザの前にそれも霧散。
 一矢報いてやりたいが、体がエルザに反撃を試みることができるほど回復しない。
 このまま、エルザの凶刃の前に倒れるのは、半ば予定調和だ。

 ――今回は、ここまでになるのか。

 目前に迫る『死』を意識しながら、スバルの脳裏に浮かぶのは今回のループで得た数々の情報と、新たな不可解な謎。そしてベアトリスとのやり取りと、最後に目にしたベアトリスの表情。

 『死にたい』『殺してくれ』と繰り返した彼女が最後に、スバルを突き飛ばしたのは何故だったのか。いち早くエルザの生存に気付き、スバルを突き飛ばしたあの行動に何の意味があったのか。それがわからないほど、愚鈍ではありたくない。

「気に入らない目だわ」

「ああ? ――がぶっ!?」

 言い捨て、直後に峰で再び顔面を殴られた。
 左の頬骨が砕かれて、割れた歯が何本か床に落ちる。崩れ落ちかけると、反対側からさらに一発。右の眼底に激痛が走り、刃の一閃で左耳が斜めに欠けた。
 その後、エルザは刃と峰を交互に入れ替えて、スバルの体を刻み、砕き、痛めつける。すぐ訪れると思った『死』を与えられず、苦痛だけを繰り返し繰り返し与えられてスバルは這いつくばって血と苦鳴を漏らし続けた。

「生ある最後の瞬間まであがく。それでなくて、どうして生きる意味があるの」

「……お前に死生観なんぞ、口出しされたくねぇよ」

 一撃。真上から額を割られて、頭蓋の中身がこぼれる錯覚を味わいながら倒れる。
 固い衝撃に意識が遠のき、スバルはどんどん冷たい世界へと肉体が引き込まれていくのがわかった。

 このまま、死ぬのだろう。
 ただ意識を失うだけだったとしても、『腸狩り』の前で意識をなくすことがどういうことになるのか、わからないわけがない。
 ここで、終わりだ。今回は、ここまでだ。

 次は、しくじらない。次こそは、絶対に。
 最後に見た、あの表情が、忘れられないから、俺は、必ず。

「――ベアトリス」

 『殺して』といったはずの少女が最期に、涙を浮かべていたことを。
 その光景を焼きつけたまま、スバルの意識はゆっくりと、闇に呑み込まれて、消えた。

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