挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

228/441

第四章62 『ロズワール邸の惨劇』



 その女が入口に立っているのを見て、スバルの全身を戦慄が駆け抜けた。
 それは異世界に召喚されて以来、数多くの窮地を経験し、時には命すら落としてきたスバルにとってすら、あまりに異質な恐怖をもたらす存在だった。

 黒い外套を羽織り、起伏に富んだ肢体をぴっちりとした漆黒の装束に包んでいる。スバルと同じで、この世界では珍しい黒髪を長く伸ばして三つ編みにしており、目尻のやや下がる温和な顔立ちに艶っぽい微笑を浮かべていた。
 その手に気楽な様子で持たれた、血の滴る刃物がなければ絵画の一枚といってもいいほどに美しい女――殺人鬼、スバルにとって最悪の災厄。ファーストキラー。『腸狩り』エルザ・グランヒルテだ。

「な、んで……お前が、ここに!?」

「――あら、どこかで嗅いだ匂いだと思ったらあなたなの? その後、体の具合はいかがかしら。お腹の中身、可愛がってくれている?」

 驚愕を舌に乗せるスバル。その存在に今、初めて気付いたといった様子でエルザが眉を上げて小首を傾ける。
 問いかけに対する答えが、すでに会話として成立していない。自分の内臓を可愛がるなんて不可解な行い、常人には到底行えない。つまり、当たり前のようにそれを求めてくる目の前の女は、見紛うことなく狂人だ。
 それも、ペテルギウス・ロマネコンティとは一線を画した、別のベクトルの狂人。

 全身を緊張に強張らせ、スバルはエルザの一挙手一動足に全神経を張り巡らせる。
 眼前の狂人の戦闘力は、『剣聖』ラインハルトをして仕留め損なう次元にある。スバルがいくら神経を尖らせたところで、行動の先触れすら掴める相手ではないだろうが。

「――お前、誰の許可を得てここに入ってきているのかしら」

 ふいに、スバルの背後から声が抜けて、エルザに問いをぶつけていた。
 無感動の疑問を投げかけたのはベアトリスだ。少女は先のスバルと対峙していた姿勢そのまま、表情から涙の気配だけを消して立ち尽くしている。
 少女の問いかけに、エルザはその長い髪を軽く手で払いながら、

「鍵もかかっていないようだったし、ただ開けて入ってきただけのことよ? 大事な話し合いの最中なら、次からは鍵掛けを忘れないようにした方がいいわ」

「そういう意味じゃないのよ。ここはベティーの禁書庫で、許可なく立ち入りは……そこの男以外、そうそうできないようになっているかしら。お前、どうやって」

「ああ、それなら簡単なことよ」

 扉渡りの例外であるスバルをちらと見るベアトリスに、エルザは質問の意味がようやくわかったと頷く。彼女は開いたままの扉を手で示し、

「あなたの空間を隔てる魔法……扉を媒介にしているのでしょう? 閉じた部屋と閉じた部屋を繋げる、扉越しの魔法」

「そうなのよ。ベティーが許可しない限り、屋敷の扉のどことでも繋がる禁書庫には辿り着けないはずかしら。それをどうやって……」

「だから、簡単な話よ。閉じた扉を媒介にするのだから……全ての扉を、開けっ放しにしてしまえば選択肢は勝手に消えていくでしょう?」

「――――!」

 いとも簡単に、ベアトリスの扉渡りの制限を乗り越える方法を提示するエルザ。
 確かに彼女の言は、正しい。ベアトリスの扉渡りは、あくまで閉じた扉同士を繋げる空間転移の魔法だ。それはつまり、開いた部屋に繋げることはできないという意味でもある。屋敷の扉に限定するのであれば、屋敷中の扉を全て開け放していけば、残った扉が禁書庫と繋がるのは自明の理だ。だが、それをするには、

「屋敷全部の扉を開けなきゃいけないはず……それを、誰も邪魔しないわけが……」

 言いながら、スバルは自分の馬鹿さ加減を本当に自覚する。
 あるいは、見たくない現実から目を背けていた結果なのか。

「お前、そのナイフ……誰の血で、濡れてんだよ?」

 エルザの握るククリナイフの刀身には、べったりと血糊が付着していた。先端から滴るそれは、今まさに獲物を切り裂いたばかりといった風情で、先の想像と照らし合わせて、スバルに最悪の想像をさせるには十分すぎた。
 血の気を失った唇を震わせるスバルに、エルザは持ち上げたナイフの腹を指でなぞり、白い指先を汚す血を舐め取った。

「誰の、だと思う?」

「てめぇ……」

「ヒント。メイド服を着ていたわ」

 屋敷に残る面子は三名。全員がメイド服を着ている。否、寝台で眠りにつくレムはネグリジェだ。候補から外れる。残り二人。

「ヒントその二。髪の毛は、長くなかったわね」

 セミロングのペトラと、金色の髪を長く伸ばすフレデリカ。
 ――スバルの喉が、直後の咆哮のために息を吸い込んだ。

「ヒントその三――スバル、スバルって、そう言いながら、泣いて死んだわ」

「エルザぁぁぁぁ――ッ!!」

 牙を剥き、姿勢を低くして、スバルは頭からエルザに突っ込む。
 迎え撃つエルザは細い肢体を緩やかに伸ばし、迫るスバルへ右手に構えたナイフの先端を合わせようとし――、

「――あら?」

「誰が、てめぇみたいな化け物相手に真っ向からぶつかるか!」

 肩透かしを食らったようなエルザの声。
 その正面で、身を低くしたスバルは地面を掠めるような大振りで下から上へ腕を振る。軌道上、巻き添えを食らって舞い上がるのは散らばった福音書のページだ。
 十数枚の白いページが一瞬、スバルとエルザの間の視界を遮る。刹那、息を吸い、スバルは自分の腹の中央に力を込めて、マナを振り絞り、

「――シャマク!!」

 黒煙が噴出し、スバルとエルザの間の距離を無理解が埋め尽くす。
 ユリウスには効果の薄かったシャマクだが、エルザにはそれなりに効果があるのは以前の世界で実験済みだ。体中のマナを吐き出し切ってしまった以前と違い、全身に異常な倦怠感をもたらすだけで済む、マナの運用性の向上も。

「ベアトリス!」

 身をひるがえし、スバルは後ろで今の攻防を見ていたベアトリスの腕を取る。一瞬、強張る腕はスバルの掌を拒絶するように動きかけたが、がっちりと捕まえたスバルの握力から逃れることはできない。
 軽い体を乱暴に引き寄せ、小さな少女を腕の中に抱え込むと、スバルは一も二もなくシャマクの中に自らの体を飛び込ませた。

 ――無理解。何も見えない、聞こえない、感じない、闇だけがあった。

 足裏に感じる感触だけが、今のスバルの全てであり、世界の全てだった。
 右足が地面から離れて、左足が地面に到達するまでの間、完全に世界から置き去りにされる。左足が地面につく。世界との接点を得る。左足が離れる。孤立。右足が到達。接点。孤立。接点。孤立。腕の中、何かが身じろぎする感触。離さない。孤立させない。接点。接点。接点。

「――ぶあ!」

 次の瞬間、水面から顔を出すような唐突さで闇が晴れた。
 露わになった視界、スバルが立っていたのは屋敷の廊下だ。赤系統の絨毯が敷き詰められた廊下にいるのは、禁書庫の扉から外に飛び出したからに他ならない。
 入口のところに立っていたエルザを回避し、そのまま飛び出せたことになる。

「そう、すると思ったぜ――!」

 正面にシャマクが展開すれば、戦い慣れしているエルザならば、その闇の幕を回避して向こう側にいるスバルたちを狙うものと考えた。その逆手をとり、あえてスバルは真正面から闇の中に飛び込み、エルザがわざわざ開けてくれた入口を素通りしたのだ。

「してやったりって、言ってやりてぇとこだが……」

 勝ち誇る時間は許されていない。
 シャマクの持続時間も未知数だが、向こう側にスバルたちがいないとわかれば、エルザは即座に切り返して追ってくるはずだ。
 乱暴に足で扉を閉めて、扉渡りを中断させる。ベアトリス次第だが、これで直接目の前と禁書庫が繋がったかどうかはわからないはずだ。

「ベアトリス! 今の部屋と別の部屋を繋いで……」

「言われなくても、そうしてるかしら。それよりお前も、開いてる扉を閉めて回った方が時間が稼げるのよ」

「クソ、そうだよな!」

 腕の中の少女の憎まれ口に応じながら、スバルは隣とその隣の部屋の扉も乱暴に閉める。扉を閉じる前に、ちらと中をうかがうが目立った痕跡は見つからない。
 エルザの発言を、どこまで信じていいものかわからないが――。

「どうする、どうするどうするどうするどうするどうする――」

 疑問は尽きない。
 何故、今ここにエルザの存在があるのか。今回はこれまでのループの中でも、屋敷に戻ったのは最短の速さだ。六日目、四日目、そして今回が二日目――いずれの機会であっても、エルザはスバルが屋敷に戻った初日に襲撃をしかけてくる。
 このことについては、以前からある考えがスバルの中に疑いをもたげていた。それが今回のことと、禁書庫に踏み込んだエルザの発言から確信に変わりつつある。
 だが、それならばなおさら何故――、

「どうして、あと一日……いや、数時間待ってくれなかった!」

 夜になれば、ペトラは村へ戻す約束だったのだ。
 エルザの来襲は半ば予定されていた悲劇だ。前回、その渦中で命を落としてしまったペトラの姿、それがスバルの瞳に焼き付いて離れない。だから今回は彼女を、その悲劇から遠ざけるために手を打っていた。それなのに、悪意はその対処を上回る速度で迫り、幼い彼女を運命は逃がさなかった。

「まだだ。なんで諦める必要がある。あいつがデタラメ抜かしてる可能性だってある。あるじゃねぇか。希望を捨ててたまるか……!」

「それは希望じゃなく、未練というかしら……」

「うるせぇ! お前は黙って抱えられてろ! あいつはお前も殺す気でいるぞ。あのナイフで相手の腹を割って、中身を見るのに快感を覚える変態だからな!」

「精霊の腸を見たいだなんて、悪趣味にも程があるのよ」

 同感だ、と口の中だけで呟くスバル。と、その腕の中からするりとベアトリスから抜けて廊下へ降り立った。彼女はドレスのスカートを払い、

「それで、お前はどうするつもりなのかしら」

「どうするもこうするもねぇよ。ペトラの安否と、レムの確認が最優先だ。それから……とにかく、お前も連れて屋敷から脱出する。それとも、お前、あいつと戦ってくれんのかよ?」

「……あれがベティーを殺しにきたのなら、無抵抗でいればベティーの望みも叶いそうなものなのよ」

「そう言いそうな気がしたから無理やり連れてきたんだよ。そのつもりが消えないまんまなら、肩に担いで連れていくぞ。どうする」

 身長差のあるベアトリスを見下ろし、スバルは彼女に決断を迫る。といっても、選択権など与えるつもりはない。行かない、と意地を張ってここに留まるつもりなら、力ずくでも引っ張っていくつもりだ。
 そのスバルの考えが伝わったのだろう。ベアトリスはため息をこぼし、

「死ぬ場所は選べなくても、殺される相手ぐらいは選びたいところかしら」

「その話はまた、ちゃんと場所変えて落ち着いてしてやる。行くぞ!」

 ついてくる姿勢を見せたベアトリスに声をかけ、手を繋いで引っ張りながら走り出す。駆けるスバルに、とてとてと小さな歩幅と歩き難いドレスでついてくるベアトリス。十メートルほど進んで、すぐにスバルは耐えられなくなり、

「あー、クソ! とっとと、こい!」

 腕を引き、再び少女を腕の中にすっぽりと収める。
 見た目以上にベアトリスの体は軽い。これは彼女が精霊であることが関係しているのか、それとも発育不良なだけなのかはわからないが。

「……離すかしら」

「お前のスピードに合わせてたら即行で追いつかれるってんだよ! 俺が担いで走った方がまだ早い! それに――」

 胸の内に抱えられたベアトリスは、拒絶の言葉を口にする。が、彼女の手は頼りなげにスバルの服の胸の部分を摘んでいて、それを目に止めたスバルは言葉を切り、否定も肯定も言及もしなかった。
 それでいいと、今はそう思った。

「とにかく、エルザが出てくる前に……ペトラとレムを見つけねぇと!」

「もう一人、メイドが屋敷に残っていたと思ったのよ」

「フレデリカは……今は、会わない方がいい。たぶん」

 言葉尻を濁し、スバルは金髪のメイドの姿を思い浮かべながら首を振る。ベアトリスはスバルの態度に眉根を寄せたが、何も言わなかった。
 今は、フレデリカと顔を合わせるのは避けたかった。二人の安否確認のあと、それからでいい。彼女と会って、話を聞くのは、それからでも。

 スバルの想像が正しければ、きっとそういうことだと思うから――。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――ペトラは食堂のテーブルの上で、食器と一緒に並べられていた。

 白いテーブルクロスが、中央に横たわるペトラを中心に赤黒く染色されている。すでに時間が経過し、流れ出した血が黒々と変色し始めていて、その光景の陰惨さをさらに強く見るものに印象付ける色彩へ変わりつつあった。

「ぺと、ら……」

 よろよろと、ふらつく足取りでスバルはテーブルへと歩み寄る。
 テーブルの真ん中で仰向けになっているペトラ。愛らしい表情は苦悶と恐怖の泣き顔で固まっていて、目は最後に何を見たのか絶望に見開かれていた。開かれた口の端からは溢れ出した血が伝っていて、致命傷となったのは見るまでもなく腹部を深々と切り裂いた刃の傷口だ。
 スバルの前で可憐に、妖精のようにスカートを揺らして見せた給仕服――その胸下から下腹部までを縦に割られて、こぼれた血と内臓が幼い少女の体をさらに軽くしていた。

「――――ぅ」

 喉の奥からこみ上げるものがあった。吐き気ではなく、嗚咽だ。
 瞳の奥に焼けるような熱を感じて、それが溢れ出す前にとっさにスバルはペトラの顔に手を伸ばす。恐怖で、歪んだまま硬直してしまう顔。せめて瞳だけは閉じさせて、いつかのようにスバルは脱いだ上着を彼女の体の上に被せた。
 こうして、救えなかったペトラに、上辺だけの取り繕いをするのは何度目か。

 こうなるとわかっていて、なおも届かなくて、何度スバルはこの子を死なせるのか。
 スバルと拘わったばかりに、この子は何度、こうして苦しまなくてはならないのか。

「ごめん……ごめん、ごめんな……ペトラ……」

 口にする謝罪の言葉すら虚しい響きでしかない。
 ペトラは誰に頼ることもできず、ここで恐ろしい殺人鬼に遭遇して、スバルの名前を呼びながら無残にいたぶって殺されたのだ。
 悲しみで胸が潰れそうだ。憎悪で全身が焼けてしまいそうに熱い。
 憎しみで人が殺せるなら、スバルはエルザを一万回殺しても飽き足らないだろう。
 あいつがしたのは、それほど罪深いことだ。いずれ必ず、思い知らせてやる。

「そのためにも、今回このまま終わるわけにいかねぇ……」

「今回……?」

「独り言だ。ペトラをこのままにしておきたくねぇけど……今はどうにもできねぇ。先にレムのところだ。レムを連れて、そのまま屋敷を出る。扉渡りは使えないのか?」

「禁書庫を経由する必要があるのよ。それにたぶん、今は扉が開けっ放しにされているかしら」

「――そういうことか」

 扉渡りの封じ方は、単純だがそれだけのことでいいのだ。
 屋敷中全ての扉を開けっ放しにすれば、それだけで対象を絞り込める。そして禁書庫そのものの扉を開けっ放しにしておけば、その時点で通じている扉以外からのアクセスを遮断することもできるのだ。
 つっかえ棒の一つでもして扉を開け放たれたままにされてしまえば、ベアトリスであっても禁書庫を呼び出すことはできない。

「今、どこと禁書庫が繋がってるかはわかるのか?」

「当然なのよ。――今は西側の、三階の客室に繋がっているかしら」

 西側の客室となると、中央棟の食堂からは距離を置いている。ただ、そこで扉が開いているということは、少なくともエルザは禁書庫の外に出たということだ。
 あの殺人鬼の嗅覚ならば、遠からずスバルたちを見つけ出すことだろう。
 時間はない。

「まごついてる暇がねぇ。とにかく、急いでレムのとこへ向かう……ッ」

 ジワリと滲み出してくる涙を手の甲で拭って、スバルは目的地の方へ首を向ける。レムが眠るのは、東側の使用人用の私室が並ぶ中の一部屋だ。エルザが西側スタートならば、まだ辿り着いてはいないと判断できる。
 ただし、それはエルザに限った話であり、

「フレデリカが、いる可能性は高いな……」

 スバルがレムの安否を重要視することを知っている彼女ならば、エルザ襲撃を回避した後でスバルがその場所を目指すことには考えが回るだろう。ならば、先回りしている可能性は十分にある。
 顎に手を当てて、考え込むスバルにベアトリスが目を細める。

「さっきから気になっていたのよ。……お前、あのでかメイドを疑ってるのかしら」

「……疑いたくは、なかったけどな」

 ベアトリスの疑問に、スバルは力なく首を縦に振って肯定する。
 ロズワール邸へのエルザの襲撃――これは、おそらくフレデリカの背信であろうとスバルは半ば確信していた。

 スバルがロズワール邸でエルザと対面するのは、これが三度目だ。
 過去の遭遇は六日目と四日目、いずれも日数がもう少し経過してからの遭遇だった。だが、今回は『聖域』へ到達してから二日目での出戻り、そして遭遇だ。
 毎度毎回、エルザはスバルの帰還を待ち構えているかのように出現する。そのカラクリがどこかにあるとすればそれは、内通者の存在を疑う他にない。

「俺が屋敷に戻った日に、エルザが入れるよう手引きされてんだ。てっきり、山小屋に行くのがその流れだと思ったんだけどな……」

 山中の小屋に潜伏させていたエルザを、フレデリカが招き入れているのではとスバルは最初疑った。それ故に今回、帰還した際にフレデリカに「山小屋へは行かないのか」と警戒されるのを覚悟で問いかけたのだ。
 あのときのフレデリカの答えと態度に、取り繕いや不審な点は見当たらなかった。だから思い過ごしだったのでは、と一度は納得しようとしたのだが。

「別に手段がそれに限ったわけじゃねぇし……腹の中身まで透かして見れるわけじゃないんだ。騙されたって、わかりゃしねぇ」

 うまく外面を取り繕われて、スバルの警戒は彼女を察知できなかった。逆に彼女の方がスバルに警戒されていることを悟り、より慎重な行動をとらせてしまっただろう。
 スバルの落ち度であり、結果的にそれは幼い少女の命を二度にわたって奪わせた。
 ペトラが被害に遭ったのは、わかっていて彼女を逃し損ねたスバルの責任だ。ペトラは、スバルが殺したのだ。

「あんなにお前にも、ペトラは懐いてたじゃねぇかよ……!」

 フレデリカ姉様、と先輩メイドを慕っていたペトラの姿が思い出される。
 あれほど慕っていたペトラを、こうして殺人鬼の手にかけることになっても、フレデリカの心は痛まなかったのだろうか。
 彼女はいったい、何を思ってこんなことに加担しているのか。

「極めつけは、ベアトリスの扉渡りの破り方だ。正直、子ども騙しみたいな方法で破れるもんなんだって驚いてるぐらいだけど」

「……ベティーも、あんな方法で破られるとは思ってもみなかったのよ。そうそう、思いつくような方法じゃないかしら」

「時間さえあれば俺も思いつきそうだとは思うが……その時間が問題だ。あれはあらかじめ、お前の存在と扉渡りのギミックを知らなきゃ閃かない方法だ。あの場でエルザが思いついたなんて、そんな都合のいい話はねぇ。それも、内々に話が通ってたからってことだろうよ」

「お前、あの頭のおかしい女と顔見知りのようだけど、どこで会ったのかしら」

「王都でちょっと腹を割られてな。……ああ、お前が一番最初に、俺の治療をしてくれたときの加害者があいつだ」

 思い返せば、スバルがロズワール邸へ担ぎ込まれた経緯にもエルザは拘わっている。ベアトリスはその言葉で「ああ」と納得したように頷いた。
 ともあれ、こうしてリザルトしている時間すらも今は惜しい。

「とにかく、今はレムのところだ。フレデリカがいた場合……お前、当てにしても大丈夫か?」

「惚れた女のことぐらい、自分で守ったりする気概はないのかしら。こんな男に一番に思われるなんて、想像しただけでゾッとするのよ」

「気持ちで鯨が落とせるんなら落としてやるんだけどな、世界はどうもそんな温い作りにゃなってねぇんだよ」

 ベアトリスの憎まれ口は半ば了承の証だ。そしてこうして言い合いに持ち込んだのも、ベアトリスなりにスバルを慮ってのことだろう。ペトラの死から少しでもスバルの意識を遠ざけようと、取り計らってくれているのだ。
 ベアトリスの抱える悲しみにずっと気付かず、今も解決法を提示できないスバルと違い、ベアトリスはあまりにも賢すぎた。だから、頼ってしまう。

「行こう」

「ん、わかったかしら」

 自然な動きで手を差し伸べると、スバルの手を取るベアトリスも反論なしに腕の中へ。軽い彼女を抱え上げ、ここまできたのと同じ体勢で再び走り出す。
 無意味とわかっていつつも、努めて足音を殺しながらスバルは東側の棟へ。エルザが先回りしている気配はなく、階段を駆け上って二階、三階へ到達。恐る恐る通路に首を出し、目的の部屋までに人影がいないか確認しようとして――。

「――――」

 部屋の前に、人影があるのを見つけてスバルは首を引っ込める。
 腕の中のベアトリスが無言でこちらを見上げるのに頷き返し、顎をしゃくってもう一度ゆっくりと確認――扉の前に、寄りかかるようにして背の高い人物がいる。
 遠目だが、その長い金色の髪と給仕服は見間違えようがない。
 フレデリカだ。彼女がスバルの予想した通りに、レムの眠る部屋の前で立ち尽くし、スバルを虎視眈々と待ち構えている。

「どうする……? 気付いてないふりして、何食わぬ顔で声をかけるか? エルザと合流してないんなら、まだこっちが疑ってることに気付く前なら……」

「お前のさっきの予想が正しいなら、敵を招き入れた時点であのメイドもこっちの機嫌を伺う理由がないのよ。それに最後、あのメイドと別れたときにお前は禁書庫に入ったかしら。お前が外にいる時点で、言い訳が立たないのよ」

「そうすると、正面突破しかねぇぞ」

 フレデリカの獲物――スバルの見た限り、確か彼女の武器は両手に装備する鉤爪のような手甲だった。身のこなしといい、ガーフィールの姉であるという立場といい、その戦闘力をはっきりと確認したわけではないが、スバルよりはよっぽど強いことは間違いないだろう。真正面から挑んで、勝ち目があるものか。

「開幕でシャマクをぶち込んで、奇襲が成立すればベアトリスの遠距離魔法でワンチャンあるか……? 戦闘不能までいかなくても、撤退させられればいいんだし……」

「裏切り者相手に甘い話かしら。息の根を止めるつもりでくる相手には、こっちも同じ覚悟でかからなきゃお話にならないのよ」

 ベアトリスの冷淡な発言。それがもっともだとわかっていながら、スバルにはそれをするのが躊躇われた。相手がこちらを裏切っているとわかっていても、それでも親しく接してきた相手だ。その時間が思い出される限り、簡単に割り切ることなどスバルにはできない。
 たとえ結果的に、フレデリカがペトラの死に深く関与していたとしても。

「ベアトリス。俺がシャマクで視界を塞ぐから、何か軽い一発を頼む」

「――その甘さで、今に痛い目を見るかしら」

「聞きたいことがあるからだ。それ以上でも、以下でもないって思ってくれ」

 この期に及んで、とベアトリスは言いたそうな顔をしたが、スバルが頭を下げると小さく鼻から息を吐いて何も言わない。
 彼女に甘えていると自分を諌めながら、深呼吸したスバルは掌を開閉。まだやんわりと倦怠感は残っているが、もう一度ぐらいのシャマクならば――。

「堪えろよ、俺の体。――シャマク!」

 通路に転がるように飛び出し、フレデリカがこちらに振り返るより先にスバルの伸ばした掌から黒煙が迸る。
 それは狙い違わず、スバルとフレデリカの間の空間を覆い尽し、禁書庫と同じ状況を作り上げた。途端、不必要なマナの排出に頭が重くなり、膝をつくスバルが大きく体勢を崩してしまう。
 その隣に歩み出て、両手を前に構えるベアトリスが前進。何事か呟くベアトリスの正面、大気が歪んで空間に穴が空き、そこから淡い紫色の炎をまとった杭が出現する。
 燃える先端で大気を揺らめかせながら、浮遊する紫紺の杭。――明らかに致命傷を狙う類の魔法にスバルは声を上げかけたが、ベアトリスはスバルの様子に目もくれずに、その杭を闇の向こうに撃ち込もうと――。

「……おかしいのよ」

 ぽつりと、ベアトリスがこぼして首を傾げる。
 彼女の反応にスバルは困惑するが、杭を浮かせたままベアトリスは前に伸ばした右手の指を立てて、さっと右から左へ振った。
 それだけで、スバルが放出したシャマクの闇が通路から取り払われる。陰魔法の使い手として、スバルよりはるかに高みにあるベアトリスが干渉した結果だ。
 体のだるさと引き換えに生んだ結果をあっさりと奪われて閉口するスバル。が、そのことへの感慨などすぐに掻き消えた。
 ベアトリスが攻撃を中断した理由が、スバルにもわかったからだ。

「――――」

 闇が晴れた通路を真っ直ぐ、フレデリカに向かって進む。
 マナを絞って億劫な体を引きずり、スバルは亀が這うような速度で彼女の下へ。だが警戒する必要はない。彼女からの反応はない。ないのだ。
 ――もう永遠に、彼女からの反応はないのだ。

「……なんでだ」

 フレデリカは、レムの寝室の部屋の前に立ち尽くしていた。
 その腹部をククリナイフが貫通し、部屋の扉に彼女を串刺しの形で縫い止めている。だらりと下がった両手には手甲。交戦したらしく、衣服のあちこちに乱れが生じていて、激戦であったことはようと知れる。
 フレデリカの体はすでに冷たく、その表情からは魂が抜けて久しい。頬を強張らせた顔つきは無念を噛みしめる悔しげなものであり、そこにはこの扉を死守するために懸命であっただろうことがスバルにも察せられた。
 つまり、フレデリカは襲撃者をこの部屋にいれぬよう、必死で立ち回ったのだ。

 襲撃者が中に入るよう手引きした人間が、そんなことをする理由がない。

「散々疑って……これなのかよ」

 顔を掌で覆って、スバルは目の前の受け入れ難い現実を受け入れる。
 全身に刃物傷を負い、落命したフレデリカ。この姿を前に、どうして彼女が内通者で、こちらを裏切っていたのだなどといえるのか。
 仲間割れの果てに、こんな状況になった? そうまでして、フレデリカを悪者に仕立て上げなければならないのは、疑った自分の罪悪感を減らしたい独りよがりだ。
 認めなくてはならない。

「――俺が、間違ってたのか」

 フレデリカは、裏切ってなどいなかった。
 レムを守るために懸命に戦い、そして果てている。体の冷たさからして、食堂のペトラより前に死んでいる可能性すらあった。
 とても、禁書庫までエルザを案内している暇などない。

「……レムは」

 ぽっかりと、頭蓋骨の中に空白が生まれたように考えがまとまらない。
 混乱する思考をどうにかまとめ上げて、最初にスバルが思ったことが、フレデリカが仁王立ちして背後に庇う部屋の中、眠る愛しい少女のことだった。

 硬直の始まっているフレデリカの体は重く、扉ごと刃を突き立てられた彼女をどけるのは重労働だ。彼女の体のこれ以上の損壊を避けるためにも、細心の注意を払わなければならない。なのに、指先は、心は逸る。
 だが、そんなスバルの意識を裏切るように、

「――ようやく、見つけたわ」

 通路の突き当たりから、黒い影が滑るように現れていた。
 三つ編みを揺らすエルザは低い姿勢で、床に手を突きながら殺意に貪欲に濡れる瞳をこちらに向けている。視線に全身を絡め取られ、スバルは硬直。その隙を逃さず、エルザの影が通路を一瞬で詰めてくる。
 音のない前進。それは紛れもなく、『死』の接近に他ならない。

「そう簡単に、やれると思ったら大間違いなのよ」

 しかし、エルザの前進を阻む存在があった。
 ベアトリスは軽く手を持ち上げ、先ほど出現させて、そのまま消さずに待機させていた紫紺の杭の照準をエルザに定める。
 さっきは発射を中断された杭は、その破壊の力の矛先を見つけて快哉を叫ぶ。

「小さいのに、ずいぶんと過激な玩具で遊ぶのね」

「子どもの玩具で済むかどうか、お前の体で試すがいいのよ」

 凶悪な魔法を前にエルザが微笑。その微笑を嘲笑で上書きし、ベアトリスの手から紫紺の杭が放たれる。
 発射された杭の弾速はいつか見たエミリアの魔法、氷柱の連射の速度を越える。単発ではあるが、真正面から迫る杭は同じだけの速度でこちらへ向かっていたエルザに真っ向から衝突する軌道――が、これをエルザは胸を床につけるほど、うつ伏せに寝そべるような姿勢で避け切る。

「残念。的を穿つには、速度と狙いが甘いわ」

 後頭部を凶器が掠めるのを感じていながら、エルザはそれを欠片も恐れていない態度で呟き、逆手に握ったククリナイフでベアトリスを狙う。
 鈍い輝きがベアトリスの体に迫り、その小さな体を真っ二つに――。

「考えが足りないのはお前の方なのよ、ニンゲン」

 なる直前、ベアトリスが開いていた掌を握る。と、直後に紫紺の杭が膨れ上がった。狙いを外し、そのまま通路の向こうへ消える軌道にいた杭が膨張し、動きの止まるエルザの背後で、風船が破裂するように弾ける。

「――これは!」

 弾けた杭の破片が小さな杭となり、エルザの周囲全方位を囲み込んだ。
 小さな杭といっても、そのサイズはスバルの手の人差し指ほどに匹敵する。それが無数に宙を埋め尽くし、先端をエルザに向けた。
 そして、

「ベティーの禁書庫を荒らした罰かしら。――八つ裂きになって、終わるがいいのよ」

 冷酷な宣言を切っ掛けに、紫紺の杭が発射された。

+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ