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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章44 『禁忌』



 ――肉体が形成される。

 食い千切られた肉が、引き剥がされた皮が、噛み砕かれた骨が、咀嚼され尽した神経が、舐め啜られた血液が、極悪な食欲に踏み荒らされた魂が――元の形に戻る。

 指先に感覚が伝わり、それを起点にスバルの全身が痙攣するように跳ねる。
 埃っぽい、冷たく硬い地面の上で身悶えし、うめき声が漏れるスバルの口の端から白い泡が吐き出されていた。
 痛み、ない。喪失感、ない。四肢は胴体に続き、それを認識する頭もその中身にもなんら物理的な被害は与えられていない。思考は寝起きで曖昧の中にいるが、それもほんの数秒でクリアになる約束された不確実。
 にも関わらず、スバルの肉体は、意識は、舞い戻った現実に回帰することをよしとしない。それほどまでに、戻ってくる前の出来事は凄惨に過ぎた。

 口から体内に侵入されて、腸の全てを食い散らかされる体験を誰がしたことがあろうか。競い合うように全身の皮を剥がされて、その下の露出した赤黒い筋肉、桃色の脂肪を舐め取るようにざらついた舌がこそぎ落としていく感覚。
 脳が痛みを感じることを拒否したそれは、自分の体でありながら他人の体のことのように、客観的に『食われる』現実を認識できる、起きて見る悪夢だった。

「ぶ、ぶ、ぶ……」

 嘔吐感がこみ上げるが、乾いた胃袋から上がってくるのは黄色がかった胃液だけだ。噴き出す泡に酸っぱいものがまじり、横倒しになったままスバルは痙攣を続ける。
 なにかの発作でも起こしたように、あるいは陸に打ち上げられた魚のように、現実を拒絶することをスバルの意思ではなく、魂が選択しているのだ。
 存在を食い荒らされることを、誰が許容できるというのか。食われた事実を理解したまま、こうして舞い戻ったスバルの変調を誰が責められようか。

 なんの因果で、誰の謀で、こんな目に遭わなくてはならなかったのか。

「――――」

 意識は明滅している。
 目を開けているのかいないのか、自分の体のコントロールが戻ってこない。
 現実を生きることを魂が拒絶している。魂は意識に選択肢を選ばせるどころか、その選択の前に立たせることすらスバルに許さない。
 ただただ、スバルの体は『失われた事実』に震え上がることを強制するように、絶望感に溺れさせ続ける。

 ――何故。

 スバルの脳内に、確たる言葉が存在するとすれば、それはただ一つだった。

 ――何故。

 なにが起きたのか。なにがあったのか。どうしてああなったのか。どうしてああなるしかなかったのか。今の自分はどうなっているのか。今の自分はどうなっていかなくてはならないのか。これから自分はどうしたらいいのか。

 ――何故、何故、何故、何故、何故。

 答えの出ない、問題文すら定かでない命題の前で、魂がひたすらに絶叫する。

 ――何故! 何故! 何故!

 そして、ひたすらに答えの出ない問いを投げ続ける、無様で諦めの悪い姿。
 現実に溺れて、悪夢に苛まれて、生きる道を見失って、『何故』と問う姿。
 それこそが――、

『再び、君は資格を得た』

 小刻みに震えるスバルに対し、それは耳元で囁くような声だった。
 高く、弾むような声。今のスバルには聞こえても、意味を噛み砕くには至らない声。だがそれはひどく、今のスバルの内側にも響く声で――。

『招こう――魔女の茶会へ』

 次の瞬間、舞い戻ったばかりのスバルの意識は再び、現実感を喪失していった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 青々とした草の生い茂る小高い丘には、夏を思わせる爽やかな風が吹いていた。

 涼風がスバルの前髪と、背の高い草の緑を大いに揺らし、丘を抜け、草原を行き過ぎ、白い雲の踊る青い空の彼方へと駆け抜けていく。
 見えないそれにくすぐられた前髪に軽く指先で触れて、スバルは日差しの眩さに目を細めたあと、ゆっくりと視線を下ろして前を見た。

 いつの間にか座らされている、安楽椅子のような揺れる座椅子。白い小さなテーブルを間に挟み、こちらの対面に同じような椅子に座って足を組むのは、髪と露出した肌の全てを白で彩色し、その印象を覆すような喪服に身を包む少女――否、その呼び方はふさわしくないのかもしれない。

「なにせ、四百年以上もダラダラしてやがる魔女様だからな……」

「女の子を捕まえて、これはまたずいぶんな物言いじゃないか。ボクの場合、享年十九歳といったところだから、見た目は君とお似合いの若い女の子のはずだけれどね」

「享年十九歳って地味に重い。あと、わけわからん評価で俺の隣にくるんじゃねぇ。俺とお似合いとか、鼻で笑い飛ばしてへそが茶ぁ沸かすぜ」

「おや、これはこれは……振られてしまったかな?」

「ちっげぇよ。てめぇを安く見積もんなって言ってんの。俺は自分が最底辺の野郎だって自覚があんだ。お似合いだとか釣り合いだとか、そんな評価は相手に下ってきてもらうんじゃなくて、俺が上ってって得るもんなんだよ。まだ、俺はそれにふさわしいものはなにも手にしちゃいねぇ」

 膝の上で拳を開閉し、スバルは苦々しい顔で空を仰ぎながらそうこぼす。
 それを聞いた魔女――エキドナは白いテーブルに頬杖をついて、スバルを観察するようにじっくりと上から下まで眺めながら、

「ずいぶんと自己評価が低いようだね」

「自分の周りが大きいと、自然と首を上に向けながら喋る癖がつくもんだ。見上げてることにも気付かない無様さからぐらいは、卒業したと思いてぇけどさ」

 これまでの己を振り返り、スバルは開いていた拳を握りしめる。
 握力で拳の骨を鳴らし、一度、深く息を吸ってから、

「それで……このお茶会のお誘いは、どういう風の吹き回しだ?」

「難しいことじゃないよ。ボクは『強欲の魔女』であり、それも知識欲の権化だ。求め、欲する心はボクにとって快いものであり、それが知りたいという欲求、何故と問いかける嘆きであるのならば最上だ」

 言いながら、彼女はテーブルの上の白いカップを口元に運ぶ。
 喉を鳴らしながらカップの中身を嚥下し、うっすらと微笑みながら、

「しいて言うなら、ボクの城に通じやすい場所でそう願った君自身の行いに原因があるものと理解してほしいね」

「ややこしい言い回しすんな。……まぁ、今はとりあえず茶会にお呼ばれしたことに関してはとやかと言わねぇ。それよりもっと、聞きたいことがある」

 手を振ってエキドナのもったいぶった言葉を切り捨て、スバルは身を前に乗り出す。眼前の白い美貌、それから目を離さないように睨むと、

「俺は、どうなった?」

「それは自分でも、理解しているんじゃないかい?」

「理解と納得はまた違う話だろ。客観的にどんな状態だったのかはわかってるつもりだが、その理解と今の俺の状態が結びつかないんだよ」

「というと?」

「頭、おかしくなって陸で溺れて泡吹いてた俺が、この場所じゃきちんとした格好で少なくとも会話が成立する程度には頭も回る状態になってんだ。なにかしら、お前の手が入ってるって考えた方が自然だろ」

 軽口めいた会話を交わしながら、スバルの頭は現状を理解するためにフル回転していた。
 こうして、茶会と称するエキドナの夢の世界に誘われて、少なくともそれらに頭を巡らせる程度の余裕が心の内に生まれている事実。
 落ち着いて考えを巡らせる余裕を得ている今だからこそわかる、夢の世界に入り込む前の現実世界でのスバルの体の危険な状態。一種のショック症状に見舞われていた肉体を置き去りにして、精神だけでここにいることに不安を覚えないわけではないが、

「前回、お前の茶会に参加したときは目覚めたらベッドの上だったからわからねぇけど、経過時間はどうなる。いや、そもそも外の世界は……」

 そこまで考えて、スバルは自分がこんな場所で落ち着いてお茶を飲んでいる場合でないことに思い至る。

 ――ショック症状で痙攣していただけのスバルは、『死に戻り』をして戻ってきた際の時間を確認できていない。

 それどころか、あの泡を吹いていた場所すらも確認できていない始末だ。
 遅すぎる後悔に身を焼かれながら、スバルは椅子を蹴るように立ち上がり、

「エキドナ! 今すぐここから俺を出せ!」

「魔女の茶会で、お茶に口もつけずに退席しようだなんて恐れ多い。君、もう少し目の前のボクがどんな存在なのか、ゆっくり考えてみた方が――」

「お前のお話に付き合ってやれる余裕がねぇんだよ! 今すぐ、俺を外に出せ! こうしてる間にも外で……」

「そうやってなにも持たないで失敗したのに、またここから手ぶらで出ていって……同じ痛みと喪失感とを繰り返すつもりなのかな?」

 逸る気を抑え切れず、悠長なエキドナに声を荒げていたスバル。その意識にまるで冷や水を浴びせるように、エキドナは感情の凍えた声でそう問いかけてきた。

「……ぁ」

「結果を得るために挑む、という行いをボクは賞賛する。望む結果にせよ、望まぬ結果にせよ、結果を出すための試行錯誤という過程に美しさがあると思うからだ。そうやって挑戦する心を失わないことが、ボクには尊く気高いことに感じられる。だけど」

 口ごもるスバルに指を立て、訥々と続けたエキドナはその瞳を細めて、

「前回の結果も顧みず、同じ道筋を通って同じ結論に至る……そんな知識の蓄積を冒涜するような行いと、それを行うものには軽蔑を持って離別したいものだね」

「お前……は」

「ちなみに、君の質問に答えると……外の時間は今、君が墓所の第一の『試練』を乗り越えた直後の時間だ。幸い、ここと外では時間の流れが違う。ここでボクとお茶したぐらいじゃ、そこまで大きく時間に取り残されることはないだろうさ」

 スバルの知りたかったことと、懸念材料を一つずつ潰すエキドナ。
 彼女の言を信じるならば、外の時間は第一の『試練』直後――つまり、『死に戻り』のリスタート地点に変更はないということになる。
 茶会に置き去りにされたスバルの肉体は墓所の『試練』の間で、今も『試練』と戦うエミリアの傍らに打ち捨てられていることだろう。

 彼女の発言を鵜呑みにするわけではないが、第三者からその事実を知らされたことは少なからずスバルの焦りに冷静さという水を注いでくれた。
 そうして心に安堵で余裕が生まれれば、次に浮上してくる疑問は――、

「エキドナ……お前、どこまで知ってる?」

「知っていることなら、ボクが知っている限りのことを。知りたいことなら、この世の全てを知りたいと思っているけどね」

「茶化すな、大事な話だ。たとえば……そう、さっきお前は、こうしてるのは第一の『試練』のすぐあとだって言ってたけど」

 第一の『試練』――今やそれすらもだいぶ遠く感じる響き。
 夢幻世界での両親との別れを終えたスバルを、無人の校舎で出迎えたエキドナ。彼女との短い問答を経て、スバルは現実に回帰してきた。
 その後、こうして今の状況に落ち着くまでに、言葉では語り尽くせないほどの様々な事情が降りかかるのだが――。

「それ度外視したら、俺とお前の再会は別れてすぐってことに……」

「そうだね。確かに実時間はもちろん、ズレのある体感時間ですら、ボクと君との間の別れの時間は短い。ほんの数分でまた顔を合わせた計算になってしまうね」

 どれだけボクが恋しいんだい、と冗談めいたことを言いながら笑うエキドナ。その軽口を無表情で受け流すスバルに、彼女は残念そうに肩をすくめる。

「どうも、君はボクの求める反応をなかなかしてくれないね。思い通りにならないというのは悔しいようで、嬉しいようで、複雑な気持ちがするよ」

「お前の複雑な乙女心については、時間のあるときにでもゆっくりと付き合ってやるよ。それよりも……」

「早い再会を祝う気持ちがあると、ボクの口の滑りも良くなると思うけどね。まあ、そうして気持ちが逸ってしまうのも仕方がないか。だって」

 そこで一度、エキドナは言葉を切った。
 息継ぎの短い空白、その間に彼女は黒瞳の流し目でスバルを見やる。一瞬、その双眸を過った感情がなんであったのか、今のスバルには読みとれなかった。
 ただ、そのスバルの当惑を歓迎するように嫣然とエキドナは微笑み、

「ほんの数分の別れだったボクと違って、君からすれば何時間、いや何日もの空白を置いての再会――そうなるんだからね」


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 エキドナの発言を頭の中で繰り返し、スバルはその意味が一つの形でしか受け取れないことを噛み砕いて理解。

 今の口ぶり、そして意味ありげな目つきと微笑を見れば、その認識に間違いがあるはずもない。
 彼女は――魔女は知っているのだ。スバルの魂が積み重ねてきた、もうこの世界のどこにも残っていないはずの、手に入れ損ねた未来の残滓を。

「どうして……!?」

「その問いかけにはこう答えようか。ここがボクの城であり、ボクが『強欲の魔女』であるからだ。君にはまだ、見せたことがなかったかな」

 問いを絞るスバルの前で、首を傾けたエキドナが右手を前に差し出す。
 そしてその掌の上に光が舞い降りると、光はやがて形を成し――そこに一冊の、純白の装丁の本を生み出していた。
 タイトルもなにも記されていない、辞典ほどの大きさの本。その色が目が痛くなるほどの真白であることを除けば、その形にはスバルは嫌な思い出しかない。

「まさかそれ……『福音』じゃ、ねぇだろうな」

「おや、この本に頼るまでもなく、君がなにを考えているのかが伝わってくる顔だね。『お前もか』とでも言いたそうな顔だ。外でどんな目に遭ってきたのか、それだけでいくらか推察できそうなものだけど……」

 スバルの内心を顔から読み取って、エキドナは手にした白い本をそっと開く。そして中に目を走らせると、「ふむふむ」と文字を追いながら何度か頷き、

「なるほど、おおよそは理解したよ。追い切れない部分もあるが、それは君自身を読むことで補填させてもらえばいい。……うん、やはりいいな。こうして欠けたピースを埋めるような感覚、答えに近づいている得も言われぬ期待感。これがあってこそ、やっぱり生きる意味がある……!」

「……お前、もう死んでんだろうが」

 熱の入ったエキドナの言葉に、気圧されながらスバルはかろうじてそう突っ込む。それを聞いたエキドナは、自分の白い髪の先を指で弄りながら拗ねた顔で、

「そうやって水を差されてしまうと、事実であってもやる気が萎えるね。ともあれ、不安そうな君の心配を解いてあげよう。……この本は、君の記憶にある『福音』とやらとは違うものだよ。記されるのは未来や最適解じゃない。ただの事実だ」

「事実……?」

「『福音』が予言書のくくりで語られるものならば、ボクの持つこれは歴史書とでも呼ぶべきかな。本としての形を確定しない、常にあやふやで曖昧で茫洋としていて、なんの本でもなく、なんの本でもある、なんの本の可能性もあり、なんの本にでもなれる……空白のページにただ事実だけを記してくれるこれを、四百年前の世界の人間は『叡智の書』と呼んだ。けれど、ボクはこう呼んでいる」

「――――」

「――世界の記憶、とね」

 大仰な呼び名――だが、それに違わないだけの力がある。
 彼女の言葉が事実であれば、その本はどんなものが相手でも、どんなものについてでも、それがすでに起きた過去の歴史であるならばなんでも読み取ることができるのだ。情報収集において、なるほどとんだチート能力である。

「もっとも、ボクはあまりこれに頼るのは好きじゃないんだけどね。なにせ、目にした内容がそのまま直接、記憶に焼きつけられる形だ。『知る』という過程を飛ばして、『知っていた』に書き換える魔本――知りたがりのボクにとって、知る過程が飛ぶこの本の価値は判断が難しいところなんだよ」

「いらないなら俺に寄越してくれてもいいぞ。使い道ならいくらでもある。むしろ、それがあれば問題解決の糸口も……」

「廃人になりたくなければやめておいた方がいい」

 と、調子のいいスバルの提案をエキドナはばっさりと切り捨てると、その白い装丁の『世界の記憶』をスバルの顔の前に差し出し、

「無害そうに思えても魔女の道具だからね。常人は脳に焼きつけられる情報量の多さで脳が焼き切られる。読まない方が無難だよ」

「じゃあこれ見よがしに差し出してくんなよ、おっかねぇ!」

 手の届かない類の打開策であったと知り、気落ちする角度も急角度だ。
 掌でぐいと魔本を押し返すと、エキドナは再び手を振ってそれを光の粒子へ変える。本棚のスペースを取らなくて収納に便利、というポイントは後回しとして、スバルは彼女の知識量に納得を得る。
 この魔本があれば、なるほど確かに『知らないこと』は極限まで減らすことができる。好んでそれをしないのは、魔女特有の考え方かもしれないが。

「だけど、そうとわかってくれてるんなら話は早ぇ。なぁ、エキドナ。お前が俺の事情を……そう死に……」

 『死に戻り』と、そう口にしようとしたスバルの喉がふいに凍る。
 だが、それは禁忌を口にしようとした際に訪れる、問答無用のペナルティが原因ではない。
 凍りつくスバルの前で、エキドナはただただこちらの言葉を待つように、風に白い髪を揺らしながら無言で待っている。

 それが魔女らしくない、思いやりめいたものであると感じれば感じるほどに、拍動は早まり、代わりに舌の滑りは重く遅くなる。

 スバルの声を凍らせたのは、原始的な一つの感情――即ち、恐怖である。

「はぁ……はぁ……っ」

 これまでスバルは幾度も、その禁忌の言葉を口にする機会を得てきた。
 スバルの身に宿る、『死に戻り』の権能。
 権能と呼んでいいかどうかさえ判断の難しいそれは、他者へその事情を伝えようとすることを力ずくで妨害される。それも心臓を直接痛めつけるという、抗いようも耐え抜きようもない理不尽さと強制力をもって、だ。
 そしてその毒牙は一度、スバルの身だけでなく、全てを打ち明けてしまおうとしたエミリアにも降りかかった。そのときの喪失感と慟哭を、スバルは忘れられない。

 あれほど死んでしまいたいと、消えてしまいたいと、そう思ったことは数少ない。
 一度もない、と言い切れないほどの後悔と苦渋を自分の愚かしさで積み重ねてきてしまっている事実。それが情けなくて、悔しくて――それでも、怖気つくスバルの心は前に踏み出すことを恐れている。

 心臓を痛めつけられることが恐いのではない。もちろん、痛みは恐い。だがそれが望む未来を引き寄せるために必要な犠牲なら、いくらでも喉を嗄らして耐えよう。
 スバルが恐れているのは、こうしてこの場でその情報を口にすることで、スバルだけではない誰かに、その黒い指先がかかるのではないかということだった。

 ない、とスバルは首を横に振る。
 白鯨との戦いの際、ペテルギウスとの決着の際、いずれもスバルは他者の介在する場面でその禁忌の言葉を口にしてきた。
 理不尽の中に引きずり込まれるとき、その打ち明けようとした言葉は中断し、続きは時の止まった世界の彼方へ投げ出される。故に、問い質されたことはない。
 消えた言葉の先を求める誰かを、黒の魔手の犠牲にしたことはないのだ。

 ――エミリアを、除いて。

「――――」

 腕の中で軽くなる、銀髪の少女の記憶がよみがえる。
 あの喪失感を、また味わうことになるとしたら、それは今度こそ耐え難い。

 あのとき、よく狂わなかったものだと思う。エミリアを殺して、その亡骸を抱いたまま歩き回って、よく狂ってしまわなかったものだと思う。

 それほどまでに罪深い。それほどまでに恐ろしい。

 故に恐怖がスバルを縛り付けて、この場でそれを口にすることを躊躇わせた。
 目の前にいるのは魔女エキドナ。はっきり言って、エミリアと比べることすらおこがましいぐらいの浅い関係だ。
 彼女の心臓が潰されたとて、スバルはあの瞬間ほどの絶望も喪失感も、味わいはしないだろうという、ひどく打算的な予想を立ててもいる。

 それでも動けないのはスバルが甘ちゃんであるのと同時に、これまでと条件が違いすぎることで、結果が読めないことへの不安感が強いからだ。

 『死に戻り』に無知な相手を交えるとき、禁忌の言葉はスバルの心臓を痛めつけた。
 『死に戻り』を大事な人に打ち明けようとしたとき、禁忌の言葉はその大切な相手の心臓を握り潰した。

 ならばスバルの『死に戻り』を別の方角から見抜いた存在に、それを打ち明けるとすると結果はどうなる。
 苦しむのはスバルだけで済むのか、それとも魔手は目の前の存在にも――。

「試して、みるといい」

「――――!?」

「望みの結果を得るために、行動することは尊い。その考えは変わらない。そしてその行動に出るものにこそ、生きる価値があるとボクは思う」

 スバルの逡巡の結果、あるいはその被害が己に向くかもしれないことも知らず――否、そうではない。

 魔女はおそらく、スバルの懸念している内容を見抜いている。
 そしてその結果が見えないことも、魔女自身わかっているのだ。それでもなお、彼女がそれをやれと口にできるのは、今しがた言葉にしたその信念を、心底信じ切っているからに他ならない。

「後悔する、暇もないかもしれないんだぜ……?」

「そうなったときは、ボクの亡骸の前で泣き崩れてくれることを期待しようか」

 スバルのギリギリまで選択を拒む姿勢に、あくまで気楽な態度で応じるエキドナ。
 その姿勢すらも、スバルの決断に余計な事情を挟ませないための配慮なのだろう。

 それはスバルに対する思いやりというより、決断によって得られる結果――それに対する彼女の誠意なのだろうと思う。

 期待されているわけでも、願われているわけでもない。
 ただ可能性を、答えという可能性を欲する彼女の姿に、スバルは背中を押される。

 己の存在理由と意義に、なんの疑いも持たない生き方。
そうは生きられないとわかっているけれど、その強さに救われたような気がして。

「エキドナ。俺は『死に戻り』をして――」

 そして、禁忌の言葉を口にする――。
 そのとき、世界は。

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