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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章38 『芋虫』


 ――意識の端に最初に引っかかったのは、滴る水滴の連続する音だった。

 等間隔で落ちる水滴が一定のリズムを刻み、静かな部屋に鼓動を送り込むたびに少しずつ少しずつ沈んでいた意識が覚醒へと導かれる。
 眠っていた脳が活動を再開し、血の巡りが全身に行き渡るのを起動間もない神経が感じ取る。身をよじり、うめき声を上げて体を起こそうとして――できない。

 地に着こうとした手足が言うことを聞かず、冷たい地面に顔を擦りつけるより他にアクションができない。同時、舞い戻ってきた五感を頼りに周囲を探ろうとしてみれば、目に映る視界は全てが闇に塗り潰されているのだ。

 ――両目を潰された!?

 とっさに自分の状態を鑑みて早まった答えを出しかけるが、その結論に戦慄する前に顔を、両目をきつく縛る圧迫感があることに気付いてその結論を放棄。すぐにどうやら目隠しされている状態であるらしいと判断し、遅れてその状態の異常さに気付く。
 両目を潰されていなかった代わりに、両目を塞がれているこの状態。付け加えれば身動きが取れないのも同じ理由で、手足を固く縛られているのが原因だ。
 細い縄のようなものの感触が手首に、足首に感じられて、後ろ手にされた状態ではどうにか外そうともがくことさえ困難だった。

「な、なにが……!?」

 幸い、猿轡は噛まされていなかったおかげで声は普通に出る。が、文字通り手も足も出ない状態で口だけ出せてもお話にしかならない。そしてスバルをこの状態に追い
込んだであろう相手が、お喋りだけで満足してくれるほど友好的とは思えないのもまた事実。
 置かれた状況の不可解さと、周囲の情報が全く得られないことへの恐怖。それらをないまぜに抱え込んだまま、スバルは息を殺して思考を走らせる。

 今の自分の状態を整理。両目、塞がれている。手足、縛られている、外れそうにない。声は出せる。大声で助けを呼ぶ? 縛った相手がくるのが関の山。身の回りに拘束を外せそうなものは? 探し回ろうにも這いずり回るのが困難。右側頭部に疼痛、意識した途端にズキズキと存在を主張し始めた痛み。

「頭の、痛み……」

 その側頭部の痛みを意識したことで、スバルは意識を失う直前に自分がどんな目に遭ったのかを思い出した。
 『死に戻り』し、墓所を出てロズワールへ新たに判明した事実と推測を追及しにいき、そこで彼の許せない一言に激昂して飛びかかったところを、スバルのことを見張っていたガーフィールによって叩きのめされたのだ。
 否、叩きのめされた、という言葉ですら足りないほどに圧倒的な力でねじ伏せられた。彼のただ牽制の一撃で頭を潰されて、そのまま死に沈んだと思ったのだが。

「死んだとしたら、俺の状態は『死に戻り』ってことになるが……」

 それが事実ならば、スバルのリスタート地点は『試練』直後の墓所が正しい。ロズワールの寝室へ向かう直前、ほんの小一時間前に退室したばかりの一室に魂が引き戻されるのがこれまでのルールを適用した『死に戻り』のはずだ。
 少なくとも、こうして拉致監禁の有様で転がされていたことなど、スバルの記憶に残る限りではテレビアニメの真似をしてちゃぶ台をひっくり返し、父親にマジギレされてお仕置きの名目で物置に放り込まれたときだけだ。

 まだ小学校に上がるかどうかという頃の記憶なので、まさかそこまで『死に戻り』したなどとは考えられない。そして、リスタート地点に変更がないのであれば、スバルは『死に戻り』直後にこうして縛り上げられたという結論になるが、そんなことがあるはずもなく、出る結論は一つ――。

「死に損なった……か」

 頭部に残る痛みといい、今の状況といい、それが思考の落とし所だろう。
 ロズワールに対し、これ以上ないほど乱暴を働いたのだ。その点を考慮しても、こう扱われることが道義的に正しい。もっとも、感情はそれで納得していないが。

「――てめェの置かれた状況の把握が早くてなにっよりじゃねェか」

 と、そうしてスバルが自身の状況把握に一区切りをつけたのを見計らったように、上から声が降ってくるのを聞いた。顔を上げ、目は見えないながらも声が届いたと思しき方向へ面を向ける。そして、声音の調子から相手が誰なのかわかり、

「ガーフィール、か」

「それも正解だ。おつむの調子がマトモみてェでとりっあえず安心したぜ。ちっとばかし強めに殴りすぎちまったからよォ、悪ィ悪ィ」

 名を呼ばれ、ガーフィールは視界を閉ざされたスバルに対して謝罪を口にする。ただ、その声の調子は内容に見合った沈痛さを伴っていなかったし、「まさか」と彼は言葉を続けて、

「軽く撫でたつもりだったってのに、あんなあっさり死にかけっとは思ってなかったからよォ。エミリア様の騎士だァなんて聞いてたもんだから、もうちっとばかしできるもんだと買い被っちまったじゃねェか」

「期待はずれで悪かったな。俺は肉体派じゃなく、頭脳派で売ってるタイプのキャラ付けなんでな。……ここ、どこだよ」

 嘲弄まじりのガーフィールに軽口で応じて、それから本題に切り込む。それを聞き、ガーフィールは鼻で短く息を吐き出すと、

「安心しろや、『聖域』の中には違いねェ。ただし、大聖堂でも墓所でも、お客人に貸してる家のどれっでもねェけどなァ」

「監禁部屋なんて準備してやがんのか。備えあれば憂いなしとはいえ、この手の施設を用意してるって……正直、引くわ」

「趣味の悪さは作った奴に文句言えや。てめェなら実際のとこ、直接その文句、言ってこられるんじゃねェのか?」

 不満気に、わりと本気で不快感を表明してみせるガーフィール。彼の言葉にスバルは引っかかるものを感じて顔をしかめると、

「直接って、どういう意味だ……?」

「そんだけ魔女の臭い、ぷんぷんさせやァがって白切るんじゃァねェよ。墓所の中でてめェは会ったはずだ。そうでなきゃ、どうしてそんな急に臭いが増すもんかよ」

「墓所で会った……?」

 ガーフィールの物言いになにかが引っかかる。
 墓所。『試練』。そこで出会った人物。空白がある。『試練』で両親と決別し、最後に誰もいない校舎に赴いて、そこで――。

「魔女……!」

 ――エキドナと、『強欲の魔女』と邂逅したのだ。

 違和感を辿って喪失感を取り戻したとき、スバルは再びエキドナの存在を脳に回帰する。その感覚は前ループにもあったもので、思い出した今となってはなぜ再び忘れていたのかの方がおかしく感じるほどの特異点。
 おそらくは、最初の邂逅の際に与えられた『条件』とやらが作用している結果なのだと思うが、『死に戻り』を経ても克服できない事実は驚いだ。

 記憶を持ち越して戻ってくる『死に戻り』であっても、記憶に直接干渉する類の手管に対しては有効打を持たない。つまりスバルは『死に戻り』をするたびに、エキドナのことを忘却して、思い出すところから始めなければならないということだ。

「まさか、ロズワールが言ってた忘れてることって、そのことか……?」

 脳に魔女の存在が蘇ったことでそれを意識するが、それを結論とするには些か早計が過ぎると思わざるをえない。なにせ、エキドナのことを思い出しはしたものの、彼女との会話の中で現状を打開できそうな材料が見当たらない。
 ロズワールの口振りからして、彼がスバルに思い出してほしがっている『なにか』は、それ単体でロズワールの読めない本意すらも明かさせるなにかであるはずだ。
 もっともそれも、彼の所持する完全版という福音が正しければの話だが。

「黙り込んだってェこたァ、疚しいことか思い当たることがあるってことかよ」

「常に喋ってなきゃ死んじゃう女子高生じゃねぇんだから、黙って考え事の一つや二つするぜ、俺。今はちょっと、一つや二つじゃ考えること足りねぇけど」

 対処すべきことが多すぎて、スバル一人の頭では脳細胞が足りないぐらいだ。
 エミリアのこと。レムのこと。ベアトリスのこと。――女性の名前がズラリと並んだあたりで自分を取り巻く状況に自分で突っ込みを入れたい気になりつつ、他にも『聖域』のこと、エルザのこと、ロズワールの真意、『福音』。そして、

「ガーフィールのこと、か」

 彼の説得と協力は、スバルの思い描く屋敷救済の青写真に必要不可欠な要素だ。エルザ撃退において、彼以上の戦力をおそらくスバルは用意できない。彼の実力がエルザ戦で頼りになることは、この目で、そして頭で実際に味わったのだから。

「……俺は確か、お前に殴られるか蹴られるかして頭が潰れたような気がしてるんだが、そのあたりはどうなったんだ?」

「ハッ。しばらく話してようやくその話題が出やっがかよォ。潰れるとこまではいってねェよ、へっこんだだけだ。そのままほっぽっといて死なれても困っから、ちっとばかし治してやったがな」

「治すって……誰が?」

「あの場ですぐそんな真似できたのが、俺様以外にいんのかよ?」

 声の調子の自尊心をひけらかすような響きがあり、スバルは思わず絶句する。
 粗野で粗暴な面の目立つガーフィールが、まさか治癒魔法を修めているなどと思いもしていなかったからだ。スバルは縛られたままの身をよじり、

「俺の頭、元の形と違って四角かったり尖ってたりしてない?」

「次に潰したときは、そんな形に治るように手で支えながらやってやんよ」

 呆れた吐息。おそらくは肩をすくめるような動作とワンセットだったろう返答を得て、スバルは自分の体が少なくとも瀕死の状態を脱していることだけは確認。
 そうなれば、次に問題になるのはそれをしたガーフィールの思惑だが、

「潰したのがお前だから治してくれてありがとうって礼を言うのもなんか違う気がするが……お前、なんのつもりでこうしてるんだ?」

「さァって、なんのつもりだと思うよ」

「状況的に見て、お前視点だとあの場で俺を殴り倒したのは真っ当な判断だったと思ってっからそれに文句はつけねぇ。ブチ切れて突っ走っちまったが、止めてもらってよかったと思わないこともないと言えないこともないこと山のごとしだからな」

「ずいっぶんと複雑な心境じゃねェか。あのニヤケ面をぶっ潰してェ気持ちはわかっけどなァ、それやられて困んのはババア共なんだよ」

 ロズワールに対してやんごとない心情でいるのはガーフィールも同じらしい。もっともスバルにとっても彼にとっても、その感情に任せて切り捨てられるほど、ロズワールという存在に頼っている部分が少ないわけではない。
 スバルにとってはこの世界における後ろ盾として、ガーフィールたちにとっては『聖域』の管理者として必要に迫られて。

 ただ、それを語るガーフィールが最初に言及するのがリューズ――ひいては、『聖域』の住民たちの生活のことであるのがなんともらしくない。
 同時に、前ループでフレデリカが語った親族から見たガーフィール評にも頷けるものを感じる。実際、彼が姉と外へ出る選択肢を選ばず、『聖域』に残ったのは残される住人たちの感情に配慮してとのことであったし。

「リューズさんたちが大事だから、その生活を守るためにロズワールの存在は欠かせない。『亜人趣味』ってまで言われるあいつがいなきゃ、住民が外に出ることもできない『聖域』の生活は立ち行かないから、か」

「訳知り顔で恥ずかしい想像並べ立てってんじゃねェよ。誰がそんな感傷的な理由でいるってんだ。俺様ァ、外に出られねェからここにいるだけで……」

「血縁のフレデリカが外に出られたのに、お前は出られないってのか、ガーフ?」

 前ループで仕入れたばかりの情報。そのカードを切り、スバルはガーフィールの出方を窺おうとする。が、それに対する反応はスバルの想像を超えて苛烈だった。

「――ッ!」

 風が鳴り、次の瞬間に転がされるスバルの頭の横にすさまじい破裂音。空気の爆裂する音が響き渡り、それがガーフィールが瞬速で踏み込んだものであると脳が理解するより先に、踏まれた地面が砕かれて部屋の形が変わる。

 たわむように地が弾み、スバルは小さく悲鳴を上げながら衝撃波に吹っ飛ばされた。そのまま受け身も取れずに固い地面を転がり、転がる勢いがなくなる前に壁に激突して強制的に制止させられる。
 脳が揺さぶられ、背中からの激突に肺の中身が絞り出され、打ち付けた後頭部が激しく痛みを訴えかける。咳き込み、口の端から涎をこぼすスバル。その姿に、

「んなこと、誰の口から聞きゃァがった、クソ野郎。余計なこと言いやがったのァフレデリカ……いや、アイツがそんなこと言うわけがねェ。別れ際にすっぱりと、姉弟の縁は切ってんだからなァ」

「そんなもん、言葉の綾で実際に体の中の血が切れるわけじゃ……」

「この場で今さら、それ言い出したことにも違和感があるっつってんだよ。使うなら使うで、もっと言い出す場面なんざ他にいくらでもあらァ」

 呻きながらも口答えするスバルに、ガーフィールは嫌に鋭い直感を働かせる。まるでスバルが知らなかった事実を、目を離した隙に仕入れてきたと言わんばかりだ。
 もっとも、その想定は外れていないどころかドンピシャの推測なのだが、そこに辿り着くまでの思考が一本道すぎる。
 それこそ異常な勘の良さか、あるいは『思い当たる節』でもあるかのように。

「まさか……お前も……なのか?」

 ――その可能性に思い当たった瞬間、スバルの声は震えを隠すことができなくなっていた。

「――――」

 主語のないスバルの問いかけに、返ってくるのは不気味なまでの沈黙だけ。
 時間にしてみれば数秒であっただろうその沈黙が、しかし今のスバルには無限にも等しい時間に思えた。

 返答がない。なぜ喋らない。今のスバルの質問はあまりにも具体性を欠いている。わからないならわからないとはっきり言って、蹴りの一つでもぶち込まれた方がマシだ。そういう短絡的な反応があるならば、まだスバルはそれに縋れる。
 なのに、

「俺様も……ねェ」

 高い靴音。石畳の床を叩くガーフィールの足音が接近し、スバルのすぐ傍に彼がしゃがみ込んだのがわかる。床の上で首だけを持ち上げるスバル、おそらくはそのすぐ近くまで彼は顔を寄せて、鋭い牙を剥いてみせながら、

「どうしてそう思ったんだよ、あァ、オイ?」

「その嫌な予感を掻き立てるような言い方やめろよ。わけわかんねぇこと言ってるだろ、俺? バッとあっさり、否定してくれて……いいんだぜ?」

「んな泣きそうな声で言われってもなァ」

 懇願じみたスバルの願いを聞き流し、ガーフィールはとぼけた声でそう告げる。彼のはっきりしない答えに焦れるスバル、その内心はすでにしっちゃかめっちゃかだ。

 察しの良すぎるガーフィールに否定を欲した。それなのに、返ってくるのはスバルの胸中の予感を裏付けさせるような意味深な言葉の数々。
 ベアトリス、ロズワールとこれまで味方陣営とみなしてきた相手が次々と『福音』を手にしている場面に出くわしてきたのだ。今のスバルにとって、三番目の人物が現れたとてなにも不思議なことはない。

「だから……! お前も、知ってるんじゃないかって……!」

「――あァ、そういうことっかよ。どこで気付かれたんだかな」

「――!?」

 驚愕に喉が詰まり、スバルは塞がれた視界の中にガーフィールを描く。
 声の調子、物憂げな吐息。なにもかもがこれまでのスバルの知る彼の姿からかけ離れている。だが、思わせぶりな言葉を残す彼は距離を変えないまま、

「驚いてるみてェだが、不思議っなこたァねェだろがよ。俺様ァ『聖域』にずーっといる住人で、長いこと延々付き合ってきてんだ。機会だって、一度や二度どころじゃねェだろうよ」

「だ、けど……お前、お前は『魔女』が嫌いだったはずじゃねぇか。あんなに過剰反応するぐらい……なのに」

「あァ、そうだな。『魔女』は嫌ェだし、魔女臭ェてめェも疑ってるし、半魔のエミリア様もいい目じゃァ見ちゃいねェ。だがな、アレのいうことが間違いだとも思っちゃいねェ。少なくとも、俺様の知りたかったことが知れたことは本当だからな」

「知りたかった、ことって……」

「――それをてめェに教えてやる理由はねェよ。それこそ、てめェの方で聞いてみたらどうだ。そんな機会はもう巡ってこねェかもしれねェがな」

 吐き捨てるように言って、ガーフィールの立ち上がる気配。それから彼はスバルの傍を離れると、どうやらこの監禁部屋の出口――扉に手をかけたようだった。
 木戸の軋む音がして、スバルは離れていくガーフィールに「おい!」と声をかける。

「待てよ! ……お、俺はどうなる。っていうか、どうなってる?」

「ロズワールの野郎が殺されかけたってのに甘々でよォ。とりあえずは結果が出るまではてめェは拘束して軟禁の扱いだ」

 軟禁、とは先日聞いたばかりの単語。それもロズワールの口からだ。彼がされていたはずの状態に、彼への暴行でスバルが陥るとは皮肉が効きすぎている。
 ぐうの音も出ないスバルに、ガーフィールは鼻を鳴らすと、

「飯は朝晩、届けさせる。おかしな真似だけァすんじゃねェぞ。俺様もきっちり、世話係に付き添ってっからよォ」

「そんな心配はして……今はしてねぇよ! それより、結果? 結果って言ったよな? 結果ってなんだ? なにを待つって……?」

「結果って言やァ、決まってんだろが」

 スバルの質問にガーフィールは今度こそ小馬鹿にするように言い捨てて、

「――エミリア様の『試練』の結果だよ。てめェのやらかしたこと聞いたら、その償いだかなんだかって理由でやたら熱心になっちまっててな」


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――ガーフィールが退室し、一人監禁部屋に残されるスバルは思考の海に沈んでいた。

 退室間際のガーフィールの残した言葉が頭から離れない。
 スバルの汚名をすすぐために、エミリアは奮起して『試練』に挑んでいるらしい。『聖域』の解放がなれば、その手柄でスバルの犯した不祥事を塗り潰すことができるだろうという考えらしい。
 エミリアらしい、スバルを全く疑っていない考え方だ。

「でも、俺はあの瞬間……」

 激昂したとはいえ、少なくとも本気でスバルはロズワールの首を締めた。
 この両手でしっかりと人間の首を掴み、鍛えた握力で喉を塞ぎ、首をへし折るか絶息させようと力を込めたのだ。

 後ろ手に縛られて自由にならない両腕だが、自分の指が小刻みに震えるのがわかる。
 あの瞬間の激昂を忘れてしまえば、手の中に残るのは他人の命を脅かそうとした暗い熱の余韻だけ。空っぽの胃袋から嘔吐感がこみ上げる。
 ましてやその殺意の矛先が、身近な人物であったとなればなおさらだ。

「もう、わけわっかんねぇ……」

 いったいもう、誰を信じて、なにを考えて、どう動けばいいのかなにもわからない。

 ベアトリスの立場はなんなのか。彼女の手にした『福音』は。過ごした日々は。
 ロズワールはなにを考えているのか。奴が持つ完成された『福音書』とは。彼はスバルになにを思い出せと願っているのか。不可解すぎる立ち位置の真意は。
 エミリアに『試練』を突破させるにはどうすれば。否、そもそも彼女を『試練』に向かわせることが正しいのか。始まりすら、正解かもうわからない。
 ガーフィールの思惑は、彼は『福音』を手にしているのか。彼の協力なくしてエルザの撃退は叶わない。『死に戻り』するたびに悪化する関係で、どうすれば彼を屋敷にまで連れ出すことができるのか。
 エルザの襲撃をどうする、撃退か避難か。なぜ、一度目と二度目で襲撃のある日に変化が生じたのか。どうして、あの殺人者は知るはずのない脱出路を知っていたのか。エルザの雇い主は。撃退するにはなにが必要なのか。絶対にあの女は許せない。

 他にも『聖域』の成り立ちとその目的。残された『試練』の概要と、『試練』そのものはなぜ存在するのか。墓所に眠るエキドナの目的、もう一度会うにはどうすればいいのか。前ループの最後、無人となった『聖域』になにがあったのか。
 最期の瞬間、スバルを殺して貪ったのはいったいなんだったのか。

「何一つ……答えが、出ねぇ」

 ぐるぐるぐるぐると、頭の中を延々と答えの出ない問題が回り続ける。
 痛いぐらいに締め付けられた瞼は視覚を封じられたままで、世界を認識できない限り人は己の内側にしか問いかける場所を見つけることができない。
 その己の内側に謎と疑念しか詰まっていないのだから、つまりは手詰まり。
 そしてスバルを苛むのは答えの出ない疑念ばかりではなく、こうして答えの出ない考え事に沈んでいる間にも、刻々と過ぎゆく時間への焦りだ。

 目を塞がれた状態では確実なことはいえないが、スバルの体感的にはすでにロズワールの首を絞めた夜から一日は経過している可能性が高い。
 暗い、おそらくは林中にある隠れ家的な建物に監禁されているのだとあたりをつけているが、光源が入ってこないことを念頭に入れても肌寒さが目立つのだ。

 これまでの日中の気温と比較しても、急激な冷え込みと考えざるを得ない。そしてそう考えるよりは、日没後の夜であると考えた方が建設的だろう。続けて今が夜であると推察すれば、自ずと最低丸一日の経過は明らかになる。

 異世界召喚以来、数々の負傷裂傷重傷を負ってきたナツキ・スバルだ。それら程度を松竹梅と揃えた負傷の治療もまた、この体で体験して覚えてきている。
 そしてスバルの経験上、頭の半分を潰される、ないしは割られるといったダメージははっきり言って致命傷であり、フェリスなしで命を拾ったのが正直奇跡と言わざるを得ない。ガーフィールの手際がよほど良かった、ということだろう。

 基本、死んでいなければ治癒術師の実力次第だがたいていの傷が治る世界だ。ただし、負傷の度合いが重ければ重いほど当然、治療にかかる負担は大きい。
 肉体疲労と回復に使われる体力。それらを鑑みて、今回のスバルの傷は治療が始まって数時間、つまりは同じ夜に回復を実感できる程度のものではない。
 十中八九、一晩は経過している。なにより、それらの推論を裏付けるのは、

「腹、減った……」

 ずっと眠っていてなにも入れていない空っぽの胃袋が、痛いぐらいに鳴り続けることで存在を主張していたからだった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 時間の経過が、判然としない時の刻みが、スバルの精神をすり減らせていく。

 あれからどれだけの時間が過ぎたのか、スバルの拘束はなにも変わらないまま、延々と監禁部屋に放置されたまま時間が経過していっていた。

「――――」

 空白の多さに自分で秒数を数えて時間を図ろうと試みるが、一時間も数えている間に感覚が狂い始め、やがて気持ちが折られて諦観に変わる。
 時間がわかったところで、今さらなにになるというのか。だって、

「もう、無理だろ……」

 すでに六度、スバルの下には食事が運び込まれている。朝晩二回のそれが定刻通りに行われているのなら、すでに三日が経過したということだ。スバルが目覚めてからの三日――それはつまり、『聖域』に到着してから五日目以降を迎えたことになる。
 今朝、『聖域』を発って屋敷に辿り着いて、エルザ襲来の想定日時にはギリギリなのだ。その地点を超えてしまった時点で、デッドラインは見過ごしている。

 そもそも今回の場合、スバルは最初の時点でボタンを掛け違えてしまった。
 ロズワールに対し、堪え切れずに飛びかかったことが悔やんでも悔やみきれない。あそこで感情に任せなければ、スバルはもっとロズワールから事の確信を、なによりガーフィールとの関係を悪化させてこうして閉じ込められることもなかった。

 沸騰した感情の熱に身を任せた結果が、こうして今の芋虫の有様だ。
 やるべきことを何一つ果たせず、守りたいと思った人たちの顔を見ることも叶わないまま、無様をさらして刻限が近づくことに怯えている。
 だからスバルはすでに、この『周回』を諦めていた。

「――えらく、なったもんだな、おい」

 スバルがやらかした失態を理由に、屋敷で起こる惨劇を食い止める手段は失われた。それは即ち、屋敷にいる四人の生存の絶望視を意味する。
 レムを、ペトラを、フレデリカを、ベアトリスを、スバルは知っていて見殺すのだ。それをしたロズワールをあれほど、声高に糾弾しておいて。

「……クソだな、俺。死んじまえよ」

 死んでしまいたい。リスタート地点に変更がなく、やり直せるのであればスバルはあの夜に舞い戻り、また挑み直すことができる。もっとも、なにから手をつけていいのか全くわからない手探りの状態に変わりはないが、この無様な醜態に比べればずっとマシなはずだ。ずっとマシに、やれるはずだ。やらなくてはならない。

「でなきゃ、なんのために……」

 諦めることを受け入れて、唇を噛み切りながら終わりを見届けようと決めたのか。

 屋敷の救出が不可能であり、今回の『死』を避けられないものと判断したスバルは、即座に自決して『死に戻り』して――みせることはなかった。
 確かに状況は最悪で、このまま生き長らえてもスバルにとってはなんの意味もない空虚な未来が待ち受けているばかりだろう。『死に戻り』に賭けて世界を巻き戻し、ありうる最善の未来を勝ち取る努力をするべきだ。だが、

「なにもわからないまま戻っても、また元の木阿弥になるだけだ」

 せめて、スバルがいなくなったあとの『聖域』でなにが起こったのか。
 六日目を越えた『聖域』になにが起きるのか、それだけは確かめなくてはならない。そのためにスバルは喉を嗄らすほど叫び、奥歯が割れるほどに噛み締め、それでもなおも届かない屋敷への未練を飲み込み、今回を諦めたのだから。

 今が、五日目であるのなら、明日になにかが起きるはずだ。

 この三日間、この監禁部屋には本当にガーフィールと世話役の人物しか訪れなかった。世話役の人物は寡黙で、ガーフィールの指示に無言で従うばかりで人となりはわからない。ただ、動けないスバルの体を拭いたり、食事を食べさせる手つきから女性だったのではないかと思っている。
 一挙一動足を見張られている環境で、それ以上を詮索する暇は与えられていなかった。故に、ガーフィールの協力者と思しき人物の素性もわからない。

 だが、スバルを助けようと奮起するエミリアが見つけられない場所だ。
 おそらくは本気でガーフィールたちにとっての秘密の場所であり、発見はおろかスバルの側から救難信号を出すことも難しい場所なのだろう。
 そもそも、ガーフィールとロズワールの間でスバルを軟禁する形に話が決している以上、抜け出してもなんの意味もないのだが。

「エミリアが、俺を助けるために『試練』を突破できるなら万々歳だけど……」

 逆の状態ならば自信を持って、スバルはエミリアのために『試練』を越えると言えるだろう。が、エミリアの側がスバルのために『試練』を乗り越えるビジョンはどうにも浮かんでこない。自分の存在がそこまで彼女のモチベーションになるとは思えない、というのが自分への過小評価がすぎるスバルの考え方だ。
 実際、この三日間で朗報が舞い込んでこないということは、エミリアはこれまでのループと同様、挑んでも挑んでも『過去』を乗り越えることができずにいるのだろう。

 つまり、状況は屋敷も、『聖域』も、スバルもエミリアも、行き詰まりのふんづまり。かつてガーフィールがスバルに怒声とともに告げた、それそのものだった。

「やっぱり、俺が……」

 ――どうにかしなくてはならない。

 エミリアも、屋敷も、『聖域』も、生じる問題のなにもかもをこの手で、この体に与えられたたった一つの武器で、乗り越えてみせる。

 静かな決意。諦めの悪さ、それだけがスバルを生かし続けている。
 長い長い思考の時間で、何度も繰り返し達した結論。すでに両手の指では数えるのに足りないほど見つめてきた己の心に頷きかけ、スバルはただ時間を待つ。

 ――状況がふいに動いたのは、眠る体を揺さぶられる感覚を覚えてからだった。

「――ん」

 誰かに肩を掴まれて揺り起こされて、スバルは浅い眠りから現実へ回帰する。
 口元に涎が伝う気配。手が使えないので肩で拭う、というかなり上体に負担のかかる仕草にも慣れが出始めており、濡れた口元を拭いながら、

「誰……だ」

 掠れた声なのは、寝起きであることと叫び過ぎて喉を潰したことが理由だ。
 もはや絶叫で喉を潰すのもお約束で、血を吐くような痛みを半ば無視して過ごすことができるようになっていて嬉しくない。

 そのスバルの呼びかけに、起こした人物は短い吐息。そして、

「うたた寝の真っ最中に失礼しますけどね、動けますか、ナツキさん」

「あぁ?」

 聞こえた声が、あまりにもスバルにとって予想外の人物のものだったから、スバルはとっさに間抜けな声を出すことを堪えられない。
 相手はそのスバルの驚きを寝ぼけているものを勘違いしたのか、「困りますよ」と静かな声でこちらの頬を平手で軽く叩き、

「こっちも危ない橋渡って助けにきてんですから、気合い入れてくださいよ。こんなとこで終わるの、お互いにごめんでしょうが」

 言いながら、スバルを拘束する手枷と足枷を刃物で切る。久しぶりに自由になった手足、それらの感触を確かめつつも、スバルは乱暴に目隠しを外して、

「うわぁ、手も足も、目すらも痛そうですねえ」

 薄ぼんやりと歪んだ視界の中に、判然としない形で嫌そうな顔をする男がいる。


 なぜここにいるのかわからない人物、オットー・スーウェンのまさかの登場だった。

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