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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章24 『待った』



 まず、最初にスバルの意識に割り込んだのは不快感だった。

「うぇっ! おえ! うべげっ」

 口の中で砂利を噛むような異物感、土臭さが舌の上で踊る感触に苦みが重なり、スバルは咳き込むようにそれを吐き出しながら目を開ける。
 視界は闇に落ちており、ひんやりと冷たい感触が体の全体に触れている。固い感触と重力の方向に意識が向けば、自分が横倒しになっている事実を認識。それからゆっくりと周囲に視線をめぐらせ、暗闇にわずか慣れてきた視界で――そこが、何度か見た古びた遺跡の中であることを理解した。

「墓所の中、か……?」

 確かめるように口にして、口内の砂利を吐き出せばその味わいも記憶に新しい。
 以前にも、こうして意識の覚醒と同時にここの砂利を口に含んだ記憶があった。つまり今は、

「最初の『試練』の直後ってことか……? ここまで戻って……いや、それより」

 今が本当に『試練』からの帰還、即ち過去との決別を意味するのであれば、この場所に倒れているのはスバルだけではなく、

「――エミリア!」

 すぐ傍ら、闇の中に倒れる銀色の少女を見つけ出す。
 歩み寄り、横に寝かせた表情が苦悶に彩られているのを見届け、スバルはその寝顔に指先を伸ばすことを一瞬だけ躊躇する。
 すでに何度か、エミリアに付き添って『試練』の様子を見てきたスバルにはわかっている。この眠る状態の彼女に他者が触れると、『試練』がどんな状態であったとしても中断されて戻ってきてしまうのだ。
 それだけに、『試練』の踏破目前で第三者の手による失敗が起きないとも限らない。墓所の中で、エミリアに触れることは細心の注意を要する。だが、

「今回がダメなのはわかってるんだ……」

 首を振って躊躇を殺し、スバルはエミリアの寝顔を目に焼きつけながらその体をそっと抱き起こし、両腕の中に収める。途端、苦しげだったエミリアの表情が急速に遠のき、そのまま意識が覚醒へと導かれて――、

「す、ばる……?」

「ああ、そうだ。俺だよ、エミリアたん。大丈夫か?」

 目覚めたエミリアの、意識の覚醒の遅れる寝ぼけた呼びかけ。それに安心させるように微笑んで応じながら、スバルはエミリアの現状認識を待つ。
 そのまま彼女が自身の置かれた状況を思い出し、『試練』の結果を受け止めて、そして子どものように泣きじゃくり始めるのを待つ。

 泣き崩れてしまうことがわかっていて、なにもできない自分の弱さを。
 それでも気丈に振舞って立ち上がってしまう、彼女の高潔さを。

 せめて壊れないように優しく抱きながら、スバルはエミリアが落ち着くまでずっと固く抱いた腕を離さないでいた。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 『死に戻り』をしたのだ、とスバルが落ち着いて事態の整理に入れたのは、泣き崩れたエミリアをリューズの家へ運び込み、ラムが彼女を寝かしつけたのを確認してからのことだった。

 中での話を聞きたがる周囲――ラムやオットーたちには「まず、エミリアが目覚めるのを待ってから」と断って今は一人にしてもらっている。
 物言いたげだった彼らの側を離れて、リューズの家の外で夜空を眺めながら、風を浴びるスバルの心の内には複雑な思惑が交錯している。

「それにしても……また、か」

 己の左の腹に触れながら、そこに生じたはずの存在しない傷口を指先で確かめる。
 深々と刃に抉られて、内臓を外へとこぼすような傷口だ。自分の内臓を目にする機会など人生でそうそうないものだと思うが、それに関してのスバルの経験値はすでに世界中の大半の人の経験値をゆうに凌駕してしまったろう。

「それが嬉しいかどうかは別の話だけどな。自分のモツ見て空腹感とか恍惚とか覚えるような倒錯した感性の持ち合わせはないし……そんなんがあるのは」

 そこまで口にして、スバルの脳裏を過る言葉。

『――言ったでしょう? 約束をしたでしょう?』

 艶やかな女の声だったと思う。血に濡れることでひどく背徳的な艶やかさが声にのり、失われる命を眺めることで絶頂に達するような異常者の声。
 そしてスバルはその声にも、約束にも、異常さにも身に覚えが嫌というほどあった。

 もっといえば、こうして腹を裂かれたことすら初めてではないのだ。

「ここで『腸狩り』の再登場ってことかよ……勘弁しろや……」

 額に手を当てて、嘆くように空を仰ぐスバル。
 その瞼の裏に浮かぶのは、スバルと同じ黒髪を長く伸ばした漆黒の美女。凶悪な刃物を振りかざし、二度にわたってスバルの命を奪った殺戮者。
 一度目のループの際にもっともスバルを追い詰め、ラインハルトの手で追い払われた脅威――エルザ・グランヒルテだった。

「姿は見えてなかったが、エルザに間違いねぇだろ。っつか、あんなんが他にいるとか思いたくねぇ。エルザでいこう」

 体感時間ではすでに二ヶ月以上が経過しているはずだが、実時間では彼女との邂逅からほんの一ヶ月と少ししか経っていない。あのとき彼女が負った傷も浅くはなかったはずだが、その後遺症はスバルの殺害にはなんら障害にならなかったらしい。
 難易度が低すぎるのか、すでに完治しているのか。

「傷はない、って見る方が無難か。回復魔法のこと考えると、死ぬ以外はどうにかなりそうだもんなこの世界。俺だって、それ言い出したら何回も死んでるし……いや、実際死んでんだけど」

 死にかけて命を拾ったケースと、死にかけてそのまま死んだケースが多すぎて自分の立ち位置がイマイチ把握しづらい。
 ともあれ、屋敷を襲った脅威がエルザであることはスバルの中で結論とされる。そうしてしまえば、問題となってくるのは――、

「エルザが屋敷にいた理由と、フレデリカたちがどうしたのか」

 スバルが屋敷に到着したとき、夜の屋敷には生活感がわずかではあるが残されていた。ペトラの自室の灯りや、玄関ホールの照明などがそうだ。執務室は脱出路を利用するために使われたものであるから除外とするが、その二ヶ所の灯りから考えられるのは、

「少なくとも、あの夜までは何事も起きてなかった……ってことか?」

 そう結論づけることも早まってはいないか考慮する。
 もしかすると、ペトラの部屋や玄関ホール、執務室などの照明は一日中付けっ放しになっていて、スバルがあの夜までは無事と勘違いしている可能性もある。ただ、その仮定を否定する要素として上げられるのは、照明の持続時間だ。

「ラグマイト鉱石と違って、結晶灯は日中に大気中のマナで充電する必要がある。付けっ放しでいると、持続時間は半日ももたないってのは経験談で知ってる」

 屋敷での文字習得の授業の最中、消し忘れていた結晶灯が夜に突然に切れたことがあった。ラップ現象を疑って大騒ぎするスバルをラムが吹き飛ばし、レムが優しく受け止め、エミリアが部屋の隅で小さくなって震えていた記憶はスバルの頬をゆるめる。が、今はその記憶を振り返るのではなく、大事な部分だけを抜き出し、

「昼もずっとついてたなら、夜に灯りが残ってたってのはおかしい。前日以前から屋敷が空って線は消していいはずだ。そうなるとリミットは……六日目の夜。今が二日目の夜だから、四日後。いや、三日と半日の間」

 時間にして、およそ八十四時間がスバルに残されたタイムリミット。
 その限られた時間を使ってスバルに課せられた今回の役割。それは、

「あの『腸狩り』に襲われた屋敷の防衛、もしくは屋敷の奴らの安全の確保」

 あの蛇のような、蜘蛛のような殺人鬼を前に、彼女らが無事に逃げおおせたかどうかは確証が持てない。あの逃げ道がどこに続いていたかはわからないが、屋敷から逃げたフレデリカたちが向かうとすれば、主であるロズワールとの合流を目指して『聖域』であるはずなのだ。
 なのに、スバルたちとフレデリカたちは『聖域』の道筋の途中で遭遇していない。

「あの避難通路がアホほど長いトンネルで、どことも知れない場所に繋がっててそこへ落ち伸びたケース。もしくは……」

 考えたくはないが、逃げ出すこと叶わなかったケース、だ。
 彼我の戦力差を考慮して、スバルは考えたくない後者の可能性の高さに眉を寄せる。
 だが現実、スバルの目にしたエルザの実力はそれほどの高みにあった。異世界で少なくない経験と、幾人もの実力者を目にしてきてなおそう思うのだ。
 あの殺人鬼は純粋に戦闘力という技量のみで計りにかければ、

「ユリウス以上、ヴィルヘルムさん以下……もしくはってとこだ。とてもじゃねぇが、俺がちょっと頑張ったくらいで歯が立つ相手じゃない」

 ただでさえ基礎能力の低いスバルだ。比較してみて比喩表現抜きに猫と虎ほどの力の差が存在するだろう。単体で勝てる可能性などゼロに等しい。
 前回の攻防においても、最終的には偶然に頼った部分の影響が大きい。

「今回も無敵のラインハルトさんがたまたま通りかかってくれれば最高なんだが……いくらあいつが主人公補正バリバリのイケメンキャラでも、この局面に顔を出してくれるってのは虫が良すぎる」

 仮に物語であるのなら、そんな展開はご都合主義すぎてスバルなら投げ出す。ただし、現実として苦難を前にすれば諸手を上げて大歓迎したいご都合主義だが。
 などと現実逃避もしていられず、スバルは吐息一つで弱音を追い払うと、

「エルザが屋敷にきた理由は……やっぱり、前回と同じで王選の妨害か。けっきょく、あいつは誰に雇われてエミリアの邪魔をしてやがんだ」

 王都でのフェルトによるエミリアの徽章盗難。その依頼主はエルザであり、さらにその裏にはエルザを雇った黒幕の存在がある。王選参加資格である徽章をエミリアから奪おうとした経緯を踏めば、スバルは他陣営に違いあるまいと踏んでいたのだが。

「他の候補者見たあとじゃ……そうも言い切れないような」

 まず、暗殺者に徽章盗難の依頼をするという観点。
 その時点でクルシュが候補から外れる。彼女という傑物を実際にこの目で見たスバルは胸を張って断言できる。彼女はそんなことをするような人間では決してない。
 また、状況からフェルトも当然候補から外れる。残るのはプリシラとアナスタシアの二人だけだが――、

「プリシラ……あの傲岸不遜なお嬢様が、こんな暗闘みたいな真似好んですんのか? 俺の見誤りじゃなけりゃ、あれは本気で自分が世界の中心だと思ってる類の人間だぞ。能動的にこんな手を打つように思えねぇ。そうなるとアナスタシアさんだが……」

 浮かぶ紫髪の商人の女性。
 柔和な顔立ちの中に嗅覚の鋭い狩人としてのきらめきがあり、自身の立ち回りを意識して万全な対応が取れる。――その性質をスバルも利用させてもらったほど。
 彼女であればあるいは、合理的に他者を蹴落とす方法を選択するかもしれない。金で外部の人間を雇う、というある種の禁じ手を嬉々として行う突飛な発想力にも長けているだろう。唯一、その論を否定する要素があるとすれば、

「ユリウスの奴がそれを見過ごすとも思えねぇ、か。いや、別にあいつのことを評価してたりするわけじゃないけどね。うん、ただまぁ、そんな気がするだけで」

 あるいはあの『最優の騎士』に隠れてのことかもしれないが、円満な主従関係に取り返しのつかない亀裂を入れてまでやるだろうか、という疑問は消えない。
 結果、アナスタシア陣営の関与も消極的に廃案となり、

「候補者から候補がいなくなる。ただ……それでも、考える余地はいくらでもあんだよな。エミリアの、扱われ方を考えると」

 王選候補者が依頼人でないのなら、純粋にエミリアを王選から排除したいと考える派閥の人間の可能性がある。ハーフエルフである彼女を忌み嫌うものが、短絡的な手段を選んだと考えればこれもまた整合性のある考えなのだ。
 そこまでするだろうか、という考えこそスバルの考えが甘えているということになるのだろう。ハーフエルフであるという彼女の血統への怨念はそれほど根深い。

「ただそうなると事実上、依頼人の身元を暴くのは不可能になっちまうな。エルザ本人が吐いてくれない限りは」

 そして、それを吐かせるには力が足りない――堂々巡りである。
 けっきょく、エルザ来襲に対して対処できる可能性があるのは、

「こっちの陣営の貧弱さが思いやられるな。俺はばっちりダメ。オットーも数えるだけ無駄。エミリアはパックが健在なら善戦できて、ラムは長期戦になる可能性を考慮するとスタミナに不安。ロズワールはケガ人で安定の役立たず。フレデリカがどれぐらいやれるのかわからないのと、ペトラがまさかの隠された力を持ったチートキャラ設定……ってのは無理がある。となると」

 スバルの考え得る打開策は二つ。
 一つは屋敷に舞い戻り、フレデリカを始めとしてペトラ、レム、ベアトリスの四名を連れ出して『聖域』へ逃げ込み、エルザの襲撃を回避すること。
 そしてもう一つは、

「――こんなとこでなァにをうだうだやってやがんだよォ?」

 壁に背を預けて地面に座り込むスバルを、外に出てきたガーフィールが見下ろしていた。背丈の低い彼から見下ろされることは稀であり、少しの新鮮さを味わいながらスバルは「いや」と首を横に振り、

「ちょっと整理したいこととかがあってな、考えごとしてた。エミリアは?」

「お姫様ならまァだグースカと寝てやがんぜ。『モロロクのうたた寝は一昼夜続く』なんてことにならねェといいがな」

「なんだか分からないけど、モロロクはうたた寝すぎ」

 恒例となった伝わらない慣用句に突っ込みを入れつつ、スバルは立ち上がってガーフィールに向き直る。
 スバルより頭半個分低い背丈、短い金髪。鋭い眼に額の白い傷跡。尖りすぎた犬歯と獰猛な獣じみた全身から放たれる鬼気――強者だけが持つ、自身への信頼。
 エルザへの対処として浮かんだ二つの手段、そのもう一つが、この青年だ。

 『試練』を踏破して『聖域』を解放すれば、彼をこの場所から連れ出すことができる。そして彼の実力が豪語する通りならば、エルザへの対抗戦力として期待が持てる。逃走が一時しのぎでしかないことを考慮すれば、撃退あるいは討伐が望ましい。

「なぁ、ガーフィール」

「んっだよ」

「お前は最強、なんだよな。誰にも負けない自信がある、そうだろ?」

「あァ? ったりめェだろうが。誰っだろうと俺様がぶっ潰して、ぶっ飛ばして、ぶち殺して勝ち誇ってやんよ」

 スバルの問いかけに、やや不機嫌に応じながらもガーフィールの自信は揺らがない。スバルはその彼の応答に心強さを感じながら頷き、

「この『聖域』から外に出たら、お前のその力が必要になるときがすぐにくると思うんだ。そうなったとき、お前の最強に頼ることがあると思う」

「あんだと?」

「その言葉、証明してみせてくれよ。それが一番、頼りになりそうだ」

 困惑顔のガーフィールの肩を叩き、スバルはそれからリューズの家の中へ。戸を開けて入ってきたスバルに中の三人――ラム、リューズ、オットーの視線が集まるが、そんな彼らの注視を浴びながらスバルはエミリアの眠る寝室の方へ足を向け、

「バルス、まだエミリア様は……」

「んにゃ、そろそろ起きてるはずだよ。――エミリアたん、顔出しづらいんだろうけど、話をしようぜ。みんなもそれを待ってるからさ」

 扉越しに中へ呼びかけると、かすかな息遣いが向こう側から届いた。
 かすかな逡巡。そして数秒の後におずおずとドアノブが回され、寝室から俯き加減にエミリアが姿を見せる。
 彼女は扉の正面に立つスバルを上目に唇を震わせて、

「その……迷惑ばっかりかけて、ごめんなさい。墓所の中でも、それに今も……」

「エミリアたんにかけられる迷惑は迷惑じゃなくて俺のやりたいことだから平気。それより、どっか重かったり痛かったりしてない? なにか変な感じがするところがあるんなら、俺が優しく撫でて擦って癒してあげるけど」

「ん。ちょっと倒れたときに腰を打ったみたいで少しじんじんして……」

「よしわかった。さっそくそこを入念に……ラムさん? ラムさん? 杖の先端が俺の肝臓付近に突き刺さってますぜ!?」

 セクハラまじりの軽口を叩こうとしたスバルを、背後ににじり寄ったラムが抜いた杖で突いている。指摘を受けた彼女は無言のままさらに先端を押し込み、スバルが子犬のように鳴いて飛び退くまで存分に痛めつけてから、

「エミリア様、お加減は大丈夫でしょうか。バルスの無礼な発言は忘れて、ラムにははっきりとご自分の体調をお伝えください」

「ここまでのことをノーコメントでやり遂げるお前はすげぇな! 見ろよ、ちょっと本気で血がにじんでるぜ。このわりと厚手の服を貫くって、どんだけ力込めてんの?」

 刺激的な痛みの残る腰を擦りながらのスバルの抗議に、ラムが虫でも見るような横目を送って「ハッ」と鼻で笑う。それから彼女はエミリアを再度振り返り、

「それで、大丈夫でしょうか。お加減に問題がないのでしたら……」

「う、うん、大丈夫よ。中の……『試練』の話をしなくちゃだもの、ね」

 ラムの言葉に先んじてエミリアが頷き、部屋の中央へ進み出る。程なくガーフィールも家の中に入ってきて、エミリアを件の面子が囲む形に。
 そうして全員からの注視を浴びながら、エミリアがつっかえつっかえの『試練』説明と結果の発表を行う前回の流れの踏襲。前回と違う点があるとすれば、

「それで、中に入ったナツキさんが無事だったのはなんでなんです?」

 そう、小さく手を上げるオットーが代表しての疑問の声。
 その疑問が上がるぐらいに、スバルは今の話に自分の情報を差し込まなかった。それはエミリアの『試練』に対する考え方を計る意味でもあり、

「言ったろ? 『資格』をもらったから中に入るんだ、って。どこでもらったかって話をするなら、たぶん昼間の墓所でだ。それで、中に入ってどうなったかっていうと……俺もエミリアたんと同じ『試練』ってやつを受けた。結果は、通ったみたいだけどな」

 そのスバルの発言に室内を動揺が走る。
 中でも、同じく『試練』に挑み、失敗したエミリアの驚愕は一際大きい。彼女はその紫紺の瞳に困惑を浮かべながら無言でスバルを見つめている。
 その彼女に頷きかけながらスバルは、

「前もって言っておくけど、別に俺の方が優秀だったから『試練』を抜けたとかってことじゃない。『試練』は過去と向き合うことだった。そこそこ折り合い付けてた俺にとっちゃ、ボーナスステージだったってだけの話だ」

「そのぼーなすとやらはわからんが、スー坊が『試練』を越えたというのなら……ふむ、驚くべきことじゃな」

「でも、さっきのエミリア様の話からすると、『試練』は一つで終わりではないのでしょう? まず、という言葉には続きがあることが予想できるから」

 リューズの受け入れとラムの言葉。それらに頷き返しながら、スバルはちらとエミリアの様子をうかがう。彼女はなおも沈黙を守り、ただただその瞳に複雑な感情の波を浮かべている。
 彼女のその胸中の思いを想像しながら、スバルはしかし甘さを振り切る。
 設定した制限時間と、『過去』を起因とするエミリアの『試練』攻略の難易度。それらを天秤にかけてしまえば、選択肢は多くはとれない。故に、

「俺が『試練』を攻略したときに聞いたんだが……『試練』への挑戦者が二人同時に入ると、次の『試練』には進めないらしいんだ。日を改めなきゃ入れない」

「……ふむ、つまり?」

「俺とエミリアたんが二人で墓所に入ると、エミリアたんの『試練』が始まるばかりで俺は『試練』を……第二のそれが受けられないってわけだ」

「ちょちょ、待ってくださいよ、ナツキさん」

 スバルの言葉を中断させ、早口にオットーが割り込む。彼は胡乱げな自分に向けるスバルの視線に気付かず、その灰色がかった髪に手を差し込み、

「今の話の流れからすると、ナツキさんも『試練』に挑戦する腹積もりなわけですか? もともと、これはエミリア様の功績にするためのものなんじゃ……」

「馬鹿、オットー」

 焦り気味の言葉を舌に乗せるオットーに、その名前を読んで制止を呼びかけるが遅い。彼はその呼びかけで自分の発言を振り返り、言ってはならないことが含まれていたと気付いて慌てて口を塞ぐ。だが、すでに内容は全員の耳に――エミリアの耳にも入ってしまった。
 気まずげなオットーと、そのオットーを蔑む目をするスバル。そして、その二人を遠目から見るエミリアは、

「今のって、どういうことなの?」

「エミリアたん、落ち着こう。今のはその……」

「誤魔化さないで、ちゃんと教えて。――お願い、スバル」

 エミリアが縋りつくような目で、スバルに懇願してくる。
 美少女のその涙声の懇願に答えないのは男の子ではないし、それがエミリアのものであるなら答えないのはナツキ・スバルではない。強靭な精神力でそれをはねのけられればよかったのだが、スバルは肩を落としてその未練を捨て去り、

「エミリアたんが『試練』をクリアすれば、アーラム村の人たちは人質から解放されるし、『聖域』の人たちもこの土地に縛られる生活からおさらばできる。『試練』が攻略できれば、その二つの陣営からの支持を得られるはず……ってのが、事の本当の目論見ってやつだったんだよ」

「……そんな、の。スバルは、知ってたの?」

「いや、言われるまで全然さっぱり気付きもしてなかった」

 動揺を隠せないエミリアの前で、いっそ胸を張って堂々と嘘をつく。そのスバルのふてぶてしさにオットーやラムが苦いものを噛みつぶしたような目をするが、さっと目を向けるだけで言葉を封じた。
 そしてスバルは改めてエミリアに向き直り、

「全部、ロズワールの思惑だ。正直、俺はあいつのケガすらもそのためのパフォーマンスの一環じゃないかって疑ってる」

「いくらロズワールでもそこまで……なんて、言い切れないのよね。今の状況を考えてみたら、それぐらいのことしかねないもの」

「その思惑に乗っかるのが癪……ってのはさすがに理由の本命としては冗談だけど、一端ではある。でもそれより……」

 戸惑い気味のエミリア。わずかに俯く彼女の前で腰を折り、スバルは下からその整った面を見つめる。長い睫毛が驚きに震えるのを見ながら、

「俺は君の力になりたい。『過去』と向き合って君がなにを見たのかわからない。でも、あんなに苦しそうで、あんなに泣きじゃくって、それで心が砕けそうになる辛さを味わうんなら……手を差し伸べてあげたい」

「……スバル」

「『試練』を受けて、『聖域』を解放するだけなら俺がやっても問題ないはずだ。その手柄が必要だってんなら、俺のものは全部君にあげる。俺の功績は君の功績だ。誰もかれもが『過去』を抱えてるけど……その全部が、折り合いをつけなきゃいけないものだなんて決めつけるのはよくないもんな」

 前回の、死ぬ前の世界でガーフィールに言われた言葉だ。
 過去と向き合うのに苦しむエミリアを、しかしそれでも『試練』へ挑ませ続けるスバルたちを前に、ガーフィールは過去を乗り越える必要の是非を説いた。
 それはスバルにとって、まさしく青天の霹靂とでもいうべき考え方だった。

 エミリアが驚きに目を見開き、唇を噛みしめて思案する表情。
 彼女の葛藤の理由はわかる。本音ではきっと、彼女も向き合いたくない『過去』を前に尻込みする気持ちがあるはずなのだ。強く高潔で、人に辛い役目を押しつけるなんて考えることすら浮かばない彼女だからこそ、その葛藤は大きい。

 残る『試練』が自分を襲う『過去』のように、スバルの心を傷付けるようなものでないと言い切れないことが。

「悩んでるならそれでもいい。すぐ決断できることじゃないってのはわかってる。――それならそれでもいいから、せめて明日一日は俺に譲ってみてほしい」

「明日、一日……?」

「どっち道、これだけ疲弊してるエミリアたんを明日も墓所に連れてって『さあ、試練を受けろ!』なんて鬼教官はやれねぇよ。それなら二個目の『試練』を先に予習する意味でも、まだ余裕のある俺が挑んでおくべきだ。その結果、俺がもしも『試練』を突破できるようなら、儲けものって話でさ」

 そうやって一日を稼いで、もう一日をどうにかして稼いで最短距離を突っ切れば、最速ならば明後日には『聖域』を解放することも叶う。
 エミリアに負担をかけず、目的を達成し、屋敷の救援にも間に合う最上の形だ。

 そのスバルの提案にエミリアが揺れているのがわかる。
 今の弱り切った彼女を騙すようで気が引けるが、最初に大きな条件を突きつけ、そのあとで小さな本命の条件を差し出してみせる交渉の一つのテクニックだ。
 最初の条件が受け入れられなかった上での二つ目の譲歩案、これを頷かずに切り抜けるだけの思考力が、今の精神的に不安定な彼女にはない。
 明日も明後日も、『試練』はスバルが受けて乗り越える。エミリアがエミリアとして時間をかけて立つ機会は、きっとまた用意できる。
 今回は時期が悪い。時間もない。まごまごしていては、また理不尽な運命が――。

「黙って聞いてりゃァ、そうやって好き勝手に話進めてやがっけどよォ」

 そのスバルの姑息な狙いが成就する直前、その待ったの声は背後からかかった。
 邪魔者は金色の髪をして、翡翠色の瞳を獰猛に細め、鋭すぎる犬歯を噛み鳴らしながら前に出て――、

「俺様ァ、そのお姫様……エミリア様以外が『試練』を受けるのなんざ反対だ。少なくとも、てめェにだけは絶対の絶対の絶対に、解放してもらいたいたァ思わねェ」

「な――!?」

 思わぬ言葉、思いもよらない発言。
 投げかけられたその言葉の意味を呑み込み、しかし発言者とその内容が繋がらずにスバルは困惑の声を上げるしかない。
 そうして動揺を瞳に浮かべるスバルの前で、なおもその人物は不可解な現実を叩きつけるように前のめりになり、

「いいか? 繰り返すぜ? 俺様ァ、エミリア様以外が『試練』を受けるのを認めねェ。これァ、ババアにも曲げさせねェ俺様からの条件だと思っておけや」

 そう、鼻面に皺を寄せて、不機嫌全開のガーフィールは吐き捨てたのだった。

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