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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章20 『試験結果』



 ――教室の真ん中の席に座ったまま、白髪の少女が小首を傾けている。

 その視線を受けながら、スバルはざっと室内に他の人影がいないのを確認。教室から半身を廊下に出し、左右の突き当たりまでを再確認し――人気がまったくないことを改めて受け入れてから、頭を掻いてため息をこぼした。

「まず、言っておきたいことがあるんだが」

「うん、聞こうじゃないか。君がなにを思い、なにを考え、なにを話してくれるのか。ボクはとてもそれに興味があるな」

「お前、その制服似合ってるな」

 好奇心に瞳を輝かせる魔女に対し、スバルは指差ししてそう感想を述べる。と、それを聞いた魔女は一瞬だけきょとんとした顔をして、それから笑いを堪え切れずに噴き出すと、

「ははっ、ありがとう。そう思ってくれると、ボクも君の記憶から再現した甲斐があるよ。君の記憶の中でもっとも鮮明で、見た回数が多かった格好だ。お気に入りだったりするのかな?」

 席から立ち上がり、灰色のスカートの端を摘まんだ少女――エキドナがその場でくるりと回ってみせる。肩までの白い髪がその動きにつられて揺られ、そうしてはしゃいでいる姿は歳相応の少女にしか思えない。
 灰色のスカートに、濃紺のブレザー。胸元を飾る赤いリボンはスバルと同学年であることを示しており、下に着た白いシャツとのコントラストが鮮やかで眩しい。
 ただ、いくらか不満があるとすれば、

「俺はスカートは短いのより長いのが好きだ。めくる時間が長い方が想像力を掻き立てられるからな」

「なるほど。では、次は君にめくられてもご期待に沿えるよう、長いスカートを穿いておくようにしようじゃないか」

「そんな機会ないけどな! あと、別に俺が大好きだからみんな制服着てるわけじゃねぇよ。ここではその格好する決まりなの。近衛騎士とかもそうだろが」

 くすくすと口元に手を当てて笑うエキドナ。その態度はスバルの言い訳を話半分といった様子で、それ以上を求めても望んだ答えは返ってきそうにない。
 肩をすくめて、スバルは教室の奥――窓際の後ろから二番目、中途半端な位置にある自分の席の椅子を引き、どっかりとそこに腰を下ろす。

 固い木の椅子の感触。以前までの利用者によって彫られた机の端のアルファベット。寝ようと体重をかけると軋む机の足。錆ついた引き出しの中。いずれも、スバルがずいぶんと遠ざかっていた日常の欠片だ。

「もっと、驚いてくれるものと思っていたんだけどね」

「隠す気があるんなら、背景に対してももちょっと手をかけるべきだったな。ここにくるまでの間にも、通学路にも、人っ子一人いないなんて状況そうそうあるわけねぇ」

 平日の昼下がり、という点を考慮したとしても、スバルの歩いた道のりには人の気配が存在しなさすぎた。まるで、世界からスバルにとって必要な情報以外を切り取ってしまったかのように。

「俺にとって都合がよすぎる世界だったよ。お前にとって望んだ姿がおがめなかったのはざまぁみろとしか言いようがないけど」

「いやいや、それもまた一興。試みて、結果を得られることこそがボクにとっての幸福なんだよ。結果の如何はこの際、あまり関係がないのさ。もちろん、その後に繋がるかどうかの点を考慮に入れればまた少し話は変わるけどね」

 思惑を外されたはずのエキドナは、しかし掲げた手を左右に振って負け惜しみでもなくそう言ってのける。そこに本心から負の感情が見当たらないのを見て、スバルは内心で舌打ちしたい気持ちを堪えつつ、

「それで、この世界はなんなんだ? 俺は確か、『試練』とやらが行われてる最中のお前の墓に入って、それで……」

「資格を持つ君が入ったんだ。当然、『試練』が君に対しても始まっただけのことじゃないかな。聞かなかったかい? まず、過去に向き合えと」

 スバルの想像を肯定する言葉を投げかけ、エキドナは手を後ろに組んでゆっくりとスバルの方へ歩み寄る。美貌の少女の髪が風に揺れ、さわやかな涼風の吹き込む教室内で、制服姿の彼女は違和感なく溶け込んでいる。
 その何気ない仕草の一つ一つに、こちらの心を絡め取る罠が仕掛けられている気がして、意識的にスバルは彼女から視線をそらす。と、

「誰しも、過去に後悔を抱えている。日々を生きていれば、後悔を得ない存在などあるはずもない。今日は昨日のことを、昨日はさらに過去のことを、そして明日になればきっと今日のことを後悔している。――人には、後悔する機能があるからね」

「悲観的な考え方すんなよ。その後悔ってやつを反省に換えて、昨日の反省で今日をどうにかして、今日の反省を明日の突破口にするのも人間の機能じゃねぇか」

「――その通り!」

 渇いた音を立てて手を叩き、顔を近づけてくるエキドナにスバルは思わずのけぞる。が、彼女は構わず下がるスバルの顔を追うように前のめりになると、息のかかる距離にその黒瞳を寄せて、

「単なる言葉遊び、所詮はちょっとした考え方の違い。だが、過去を悲観するか楽観するかで答えの出し方は大きく異なる。大抵のものは過去を悲観し、覚えている悪い記憶ばかりを振り返り、歩いてきた道のりを否定してしまう。そして否定したそれを目にすることを嫌がり、蓋をしてなかったことにしてしまう」

「おい、顔が……近いって……っ」

「仕方のないことなんだ。昨日の自分は、今日の自分より絶対に無知なのだから。今日の自分は、明日の自分より絶対的に知っている知識が少ないのだから。知識の総量、思い出の数一つであっても、過去は現在と未来に劣っている。それが事実だ!」

 気圧されるスバルに気付かず、熱の入るエキドナの弁舌は続く。彼女はそれから唐突に体を離すと、両手で机を力いっぱいに叩き、

「故に過去と向き合ったとき、あるいは向き合うべき過去に出会ったとき、人は迷い、惑い、嘆き、苦しみ、悲嘆し、悲観し、その上で答えを出す。その上で出た答えであるのなら、ボクはどんな答えであっても肯定しよう。背を向けて出した答えでも、前のめりに手を伸ばして得た答えでも、過去を乗り越えた証には違いない」

「それが、この『試練』の目的か」

「その通り。己の過去と向かい合い、その過去に対してなにがしかの答えを出すこと。答えを出すことを恐れて、嫌がって、頭を抱えているばかりならば『試練』など永久に越えることはできない。だが、過去を肯定し、あるいは否定し切ることができるのであれば、ボクは賞賛を持って見送ろう。それが、第一の『試練』だよ」

 合点のいったスバルに頷き、それからエキドナはふいに我に返ったらしく、その頬をわずかに赤くしながら小さく咳払いすると、

「す、少しばかり興奮してしまったね。見苦しいところをお見せしてすまない」

「別に気にしやしねぇよ。息が臭かったんならアレだが、幸い柑橘系だったしな。それより……」

 恥じらうエキドナに珍しいものを見た感慨を得ながら、スバルは椅子を引いて前のめりに座る体勢を変えると、

「お前の言ったことが『試練』を越える条件なら、俺は『試練』を乗り越えたって考えていいのかよ」

「一部始終を見させてもらったが……十分な結果を得られたとボクは思っているよ」

 胸に手を当てて、エキドナはまるで芳醇な紅茶の香りを満喫するように深々と息を吸い、ひどく満足げな顔で、

「過去のトラウマの象徴と、過去の罪悪感の依り代と、そのどちらにも対して君は答えを出した。そのことを、ボクは賞賛でもって送り出したい」

「一部始終って……じゃあ、お前は俺が鼻水垂らして泣いてたのも見てたのかよ!?」

「ごべんなさい、にはボクも思わず瞳が潤むところがあったよ」

「うるせぇよ!! 誰にも言うなよ、恥ずかしい!」

 父との別れ、感情を剥き出しにした場面を出歯亀されていたとわかれば、それはそれは面白くない。なにより、あの瞬間のスバルと賢一の感情に対する侮辱だ。
 そんなこちらの感情をわかっているのかいないのか、あくまでエキドナは楽しげな態度を崩さないままくすくすと笑い、

「ただ惜しむらくは、過去と向き合ったことでの君の煩悶をより深く味わうことができなかったことかな」

「あぁ?」

「答えが出ることをボクは好むが、その答えを出すために悩む途上にも知識への礼賛があるとボクは考えるのでね。悩んで、足掻いて、その上で君が答えを出すのを楽しみにしていたんだが……」

 ちらと彼女はスバルを横目にし、その黒瞳の奥を覗き込むように目を細めながら、

「生憎と、それを楽しむためにはこの『試練』は少々、出遅れてしまったらしい。君が己の内側で、過去に対して抱えていた負感情に一つの答えを出してしまったあとだったようだからね」

「ああ……そういうことか。そういうことなら、確かにご愁傷様だったな」

 エキドナの残念がっている理由が理解できて、スバルは深々と鼻から息を吐く。
 彼女の望む『試練』への向き合い方は、スバルが過去のトラウマの原点である両親と再会し、彼らと過ごす日々や時間の中でその弱さを自覚し、煩悶し、逃げるか向き合うかの答えを出し、その上で決着をつけてここへやってくることだったらしい。
 だが、それをするにはスバルはすでに、

「どうしようもなくダメな俺を、英雄って言ってくれた子がいた。今さら過去と向き合うまでもなく、俺は自分のダメさを受け入れてたってわけだ」

「諦観とは別の形で、だね。ボクとしては思惑を外されて面白くない限りだ。君にそうした子と外で会ったら、魔女が恨み言を言っていたと伝えてほしい」

 それはゾッとしない脅し文句だ、と軽口を叩こうとして、ふとスバルは気付く。エキドナの口にした、腑に落ちない発言に。

「お前、さっきは俺の記憶を頼りに再現したとか言ってたけど……俺の頭の中を覗いたんなら、それを言った子だってわかってるんじゃないのか?」

 あるいは、それは気付いたというより縋りつくような気持ちだったのかもしれない。仮にスバルの頭の中を覗いたという理由であっても、あの世界から失われたレムのことを、レムの姿を、あの愛らしい少女の存在を知れるものがいるのではと。しかし、

「期待されているところ悪いけどね。強欲であるボクにだってやっていいことと悪いことの線引きぐらいはあるさ。この『試練』に必要な情報を吸い取りはしたけど、それ以外の部分に関しては手つかずだよ。知識だけごっそりと抜き取って盗み見てなにが面白いんだい? 語り聞かせてもらう楽しみを、自ら捨てる気にはならないね」

 返ってきたのは、スバルには理解できない類の魔女としての矜持だった。
 エキドナの信念とでもいうべきか、盗人猛々しいとしか言いようのない理論であったが、そう言い返されてしまえばスバルはなにも言えない。ただ、

「この『試練』に必要な部分だけ抜き出したって……じゃあ、その制服はなんのために抜き出して……」

「それはもちろん、この学校という建物を再現する上で必要な情報だったから引き出したまでだよ。異世界という未知の光景を知ってしまい、そこを生きる女の子たちがどんな格好をしていて、ボクに似合うだろうかとかそんなことを期待して抽出したりしたわけじゃ決してないんだぜ」

「お前、ひょっとして頭いい馬鹿って奴なの?」

 語るに落ちるを地でいくエキドナのため息をぶつけて、スバルは首を振る。
 なるほど、どうやら彼女から期待している答えを聞けそうにはない。そして、確信を得てしまったこともある。それは、

「聞くまでもねぇけどさ。やっぱり、この世界ってのは……」

「ああ、そうだよ。ここは君の記憶を頼りに、限りなく忠実に現実をなぞらえて再現した虚構の世界だ。だからもちろん――君の本当の両親は、君がどこでなにをしているかなんて知らないまま、行方知れずになった息子を心配しているのだろうね」

「――――」

「君の知らない情報が、いくつかもたらされたかもしれないが……本当に、君はそれを知らなかったのかな? 父と母の共通の知人から送られてきた手紙を、一度も目にしていないと断言できるかい? 父の幼い頃を知る老人と、君は一度も顔を合わせたことがないのかい? 君が思っていたのと異なる父親像を、君は本当に一度も思い描いたことがなかったのかい?」

 畳みかけるように言葉を続けるエキドナ。彼女はさらに「あるいは」と続け、

「知られていないと思っていた心の内を、君は本当に隠し通せていると思えていたのかな? 知ってもらって楽になりたいという本心を、日常の端々から漏らさずに固く封じ込められていられた確信がどこかにあったのかな? それでも愛してほしいという利己的な感情を、虚構の父に、母に求めていないと断言できるだろうか?」

 押し黙るスバルに顔を寄せ、エキドナは最後には囁くような声音で妖しく心をくすぐってくる。そして、吐息のかかる距離で彼女は、

「あまりにも理想的で、都合がよすぎると――そうは、思わないかい?」

「――――」

 スバルの心を、柔らかな指先で優しく抉りながら、エキドナが嫣然と微笑む。
 それまでのどこか歳相応に思えていた微笑と違い、それはどこまでも禍々しく、伝承に語られる『魔女』のあり方そのものに思えた。
 そんな彼女の沁み入るような言葉に脳を凌辱され、スバルは固く目をつむる。瞑目する瞼の裏側。その真っ暗な世界に、最後に見た父と母の姿が浮かび――、

「うまくいかなかった意趣返しで、俺の親を貶めるんじゃねぇよ、魔女」

「……なに?」

「俺の答えは全部伝えた。父さんもお母さんも、それを受け取ってくれた。言えなかったこと全部言って、俺は頑張れって言われたんだ。いってらっしゃいって、そう言われたんだよ」

 椅子から立ち上がり、机に手をついて、こちらに顔を寄せていたエキドナに額を突き合わせる。魔女の黒瞳が驚きに見開かれるのを見ながら、スバルは、

「あのときの声も、笑顔も、全部が全部、俺の想像なんてぶっちぎってた。――俺の親は、俺の想像に収まるような器じゃねぇよ。舐めんな」

「――――」

「俺は父さんとお母さんに、全部伝えられた。そうしてケリつけて戻ってきたんだ。――お前の言葉になんざ、惑わされてやらねぇよ」

 ぶつけた額で押し返し、魔女をのけ反らせてスバルは再び椅子に腰を落とす。思い切り乱暴に足を組み、ふんぞり返ってエキドナを見上げた。
 そのスバルの態度にエキドナは呆気にとられた顔をしていたが、

「まったく……出た答えの正否に悩む姿すらも見せてくれないなんて、君はなんて魔女泣かせな人間なんだろう。まったく、素晴らしいな」

「褒められると照れるぜ。さらに言えば褒められると伸びる子だから、成長しちまうよ、俺」

「口の減らない……ああ、だが十分だ。十分すぎるほどだよ。揺さぶることも許さないほど、確固たる答えが出たというのは喜ばしいことだからね」

 エキドナは諦めたように首を振って微笑し、スバルの前の席の椅子をこちらへ向けるとそこに腰を下ろし、

「本当の意味で『試練』は終わりだ。君は魔女の魔の手をからくも逃れた。それを賞賛して……戻る前に、聞きたいことでもあれば答えようと思うけど?」

「そうか、じゃあとりあえず一個」

「うん、言ってごらんよ」

 頷くエキドナ。その彼女にスバルは立てた指を真っ直ぐに突きつけ、

「お前、『試練』にゃ無関係とか言ってたはずだよな。……どこがだよ! がっつり関わってるどころの話じゃねぇじゃねぇか、首謀者じゃねぇか。なにが関与してないだ、どの面下げてそんな嘘八百並べ立てられたんだよ!」

「魔女の言葉をそのまま受け止めるだなんて、無防備で無警戒にもほどがあるんじゃないかな。別れ際にも言っただろう。ボクは悪い魔女なんだぜって」

「ああ、そうかい。じゃあ、そんな悪い魔女様の言葉なんざ一つも信用ならねぇから聞きたいことなんざねぇよ。……これで、『聖域』の封印は解けるのか?」

「後半で意見をひるがえすあたり、なりふり構わなくて実によろしい。残念だが、これで『試練』が終わるほど易しいものじゃないよ。『試練』は全部で三つだ。この第一の『試練』を乗り越えたのなら、さほど難しくないと思うけどね」

 激昂するスバルの勢いを受け流し、エキドナは指を三本立てるとしれっと答える。それを受けてスバルは「三つか……」と口の中だけで呟き、

「いずれにせよ、『聖域』の封印は解かなきゃならねぇんだ。別に俺が『試練』クリアしても解けるんだろ。そこんとこは保障するよな?」

「そのために資格を与えたんだ。当然だとも。君であれ、他の資格を持つハーフのいずれであれ、『試練』を乗り越えたのであればボクは『聖域』の解放でもってそれを祝福する。代わりに残り二つの『試練』をどう乗り越えるか。君の出す答えを、ボクは楽しみにさせてもらうとするからさ」

 エキドナの肯定の頷きを見て、スバルは「そうかい」と応じると立ち上がる。
 もう、彼女に聞きたいことはこれで終わりだ。虚構の世界であるこの場所にも、長居したところで得られるものはもうない。郷愁めいた感情は後ろ髪を引いていたが、もっとも心残りだったものとの別れは済ませた。
 それが魔女の語った通り、仮初のものでしかなかったとしても。

「なあ、エキドナ」

「なんだい。ひょっとして、最後に一発殴らせろとでも? まあ、それに値する所業をした自覚はあるからね。君がそれを望むのなら、甘んじてそれを受けてあげようと思う気持ちがないではないよ。ただ、ボクもこれでも女の子なものでね。できれば顔は避けてもらいたいんだが……」

「ありがとな」

「――――」

 絶句。長々と無用な釈明を入れていたエキドナが、スバルの言葉に声を失う。
 そんな彼女の態度に、スバルは初めて小気味よいものを感じながら、

「たとえ本物じゃなかったにしても、本当の二人に伝わってなかったとしても、二人に伝えたいことを言えたのはお前のおかげだ。クソみたいに下世話なお前の好奇心の結果でも、もう会えないと思ってたはずの人たちに会って、別れが言えた」

 どうしようもなく、小さくて情けない姿ばかりで落胆させ続けてきたはずの二人に、少しは上を向いて、少しはまともになって、少しは胸を張る姿を見せることができた。

「それだけは、感謝してる。だから、ありがとうだ」

「……君という人間が理解できなくて、とても興味深いよ。恐いぐらいだ」

 冗談でも虚言でもなく、本気で脅威すら感じている目をするエキドナ。その彼女にスバルは口の端をつり上げる笑みを向けて、

「俺みたいにちっぽけな男捕まえて、魔女様がずいぶんと弱気なこった。まぁいいさ。そんで、出口はどこだよ」

「難しいことはない。もうすでに、この世界の消失も始まっている。この建物以外はまともに構築されてもいない。――建物を出れば、そのまま君は元の墓所の中に戻っているはずさ」

「そりゃずいぶんと便利なもんだ。――んじゃ、また次の『試練』のあとでな」

 手を振り、スバルは席を立って教室の出口へ。その背にエキドナの視線を感じながら、もう振り返らないで歩き出した。
 窓の外の世界、青空の広がっていたはずの光景は遠くがぼやけ始めている。虚構の世界はその役割を終えて、どこへなりと消え去っていくのだ。

 スバルの背中を押してくれた父も、スバルを送り出してくれた母も、この世界の消失とともに消えてしまう。どこにも、いなくなってしまう。

「……大事なもんは全部、もう教えてもらったもんな」

 胸中にこみ上げる感情。瞳の奥が熱くなる感覚に、スバルは一度強く袖で瞼を擦る。そして上げた顔、その瞳にはもう涙の余韻はどこにもない。
 ただ真っ直ぐ前を向き、スバルの足は終わっていく世界の出口へと進んでいく。

 向かう先、徐々に徐々に世界は白くなり、遠くなり、そして――。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「――いってしまった、か。やれやれ、思いのほか手強いものだな、彼は」

 ――スバルの立ち去ったあとの教室。
 がらんと無人の机と椅子ばかりが並ぶ室内に、取り残されたエキドナは己の前髪に手を差し込んで、一人楽しげに机に体重を預けていた。

 ぱらぱらと、世界の崩壊が始まっている。
 記憶を頼りに再現した世界が、頼る相手を失って虚構の塵へと還っていくのだ。その失われていく世界を肌に感じながら、しかしエキドナの意識は今にも消えてしまいそうな足元や、大気には一切向けられていない。
 彼女の意識は一点――黒板の前、教卓の位置へと向けられていた。そこに、

「さすがは君が思いを傾ける相手、というべきなのかな」

「――私のあの人に私のあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人に」

「自分の城に閉じこもって、たまに会えても怯えて忘れさせてしまう。そんな体たらくで、よくもまぁそんなに主張できるものだ。ワタシには理解できないな」

「余計なこと余計なこと余計なこと余計なこと余計なこと余計なこと吹き込んで吹き込んで吹き込んで吹き込んで吹き込んで話すな話すな話すな話すな触るな触るな触るな触るな触るな私の私の私の私の私の私の私の愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」

 ひたすらに常軌を逸した言葉が発され、エキドナは嫌悪感に眉を寄せる。
 その彼女の眼前、教卓の前に一つの人影――女性の影が生じていた。漆黒のドレスを身にまとい、長い銀髪を躍らせる影だ。ただ、その胸から上には呪詛ともいうべき禍々しい黒い影が覆い尽くしており、その顔を見ることはできない。
 もっとも、語る言葉と発する狂気から、想像を巡らせることすらおぞましいが。

 スバルの退室後、唐突に降って湧いたその存在を、エキドナは当然のように受け入れる。まるで、ここにそれが現れることを知っていたかのように。

「当然といえば当然だろうね。ご執心の彼の心に土足で踏み込ませてもらったんだ。君の領域には触れないようにしたつもりだったが……それでも、互いに不可侵というわけにはいかないのかな?」

「指先一つでも皮膚一枚でも爪の甘皮一枚でも髪の毛一筋でも汗の一粒でも唾液の一滴でも言葉の一つでも呼吸の一息でも感情の一欠片でも全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て……」

「自分のもの、というわけか。いやはや、君を前にするとワタシも『強欲』の名を返上したくなるよ。一人にそこまで、到底考えられない」

「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」

 それ故に、禁忌に触れたエキドナを『嫉妬』は決して許さない。
 影が一歩前に踏み出した。それだけで、彼女のそれまでいた空間が影の中に呑み込まれて消える。教室の前面、黒板の設置されていた壁と、座席の三列目までがいっぺんに魔女の影の中へと引きずり込まれて咀嚼される。

 かろうじて後ろに飛んだエキドナは被害を免れたが、その彼女を追うように影が腕の形を成して伸び上がるように首を狙う。のたくる漆黒の蛇の牙を前に、エキドナは吐息を一つ漏らすと、

「ここで消されるのはあまりにも未練が残るのでね。少々、卑怯な手を取らせてもらうよ――」

 そう言ってエキドナがかすかに身を沈めた直後、エキドナの喉を狙っていたはずの影が衝撃に打たれて弾け飛んだ。
 その光景に影の進む足取りが停滞。だらりと両手を下げていた影の前、エキドナの立っていたはずの場所に佇むのは、

「こうも頻繁に呼び出されちゃ、はぁ。おちおち寝てもいられないさね、ふぅ」

 気だるげに息をつきながら、地べたにべったりと座りこんだ赤紫の髪の女性――『怠惰の魔女』セクメトの顕現だ。
 それを確認した影は、しかしやることは変わらないと前に進み出ようとする。が、

「はぁ、無駄さね」

 その影の上半身が、すさまじい衝撃に弾かれるようにしてのけ反った。
 打撃の威力に影が後退し、自身が生み出した闇に半身が沈む。その結果にゆらりと首をもたげながら、影がその右腕を持ち上げてセクメトへ向けた。
 途端、教室の半分を呑み込んだ影から一斉に、視界を覆い尽くすほどの黒い魔手が放たれる。四方八方から、全方位を塞ぐ死の黒影――しかしそれすらも、

「無駄だって、言ってるじゃないさね、ふぅ」

 渦巻く黒い魔手の全てが一瞬で消し飛び、なおも留まることのない余波が影の全身に連続して打ち込まれる。衝撃に振動する影の肉体を壁に縫いつけ、それをやる気のない顔で見上げるセクメトは体育座りのまま微動だにしていない。
 だが、それでもなおもセクメトの攻撃は影の全身に叩き込まれ続け、次第に茫洋としていたその肉体を砕き始めている。

 衝撃音と、悶える影の様子を乱暴に髪を掻きながらセクメトは見やり、

「あらかた力を封印された状態で、はぁ。おまけに性悪のエキドナが作った城の中で、ふぅ。地力で負けてる状態で、はぁ、あたしに勝てるわけないさね、ふぅ」

 欠伸を噛み殺すセクメト。その打撃が止み、打ちのめされた影がその場に膝をついて崩れ落ちる――と、それを真上からの衝撃が容赦なく地面に叩き潰した。
 黒い影の中に沈み、消えていく『嫉妬』がセクメトを見上げる。

「どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして私と私と私と私と彼の彼の彼の彼の彼の彼の邪魔を邪魔を邪魔を邪魔を邪魔を邪魔を邪魔を――?」

「はぁ。――答えるのも、面倒臭い」

 辛辣に叩きつけて、セクメトは持ち上げた手を小さく下に振る。
 その瞬間、校舎の半分が衝撃で崩落し、土砂と大地の崩壊が『嫉妬』の影を呑み込んで地の底へと呑み込んでいく。
 すでに消失の始まった世界で、あそこまで崩落した先へ落ちれば戻ってくる方法はどこにもない。

「死んでまでどうして、ふぅ。またあんなのに付き合わなきゃならないんだか、はぁ」

 自身の行いで崩落の早まった世界。失われていく教室の片隅で、崩れていく中を少しでもマシな方へと隅っこに尻を滑らせる『怠惰の魔女』。
 彼女は背を壁に預けて、終わっていく世界と役目の終わりとともに引っ込められる感覚を感じながら、ついに割れ砕けた窓の外の太陽を見上げて、

「ままならないもんさね、ふぅ。魔女も――魔女に魅入られたものも、はぁ」

 そう物憂げな吐息が漏れた直後、世界は光とともに消えてなくなった。

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