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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章19 『宿題』



 ――父との別れを告げて、スバルは見慣れた街並みを心の整理をつけながらゆっくりと歩いて家路についていた。

 歩くスバルの胸中に、こみ上げる感情の数々がある。
 こうして日の出ている時間に外をうろついていることなど、不登校を始めて以来ずっとなかったことだ。ただ、幾度も歩いたはずの景色が違って見えるのは、日差しを感じているからばかりではないだろう。

「まぁ、不登校児があんまり堂々とお天道様の下を歩けるもんでもねぇしな」

 ご近所の噂になってしまったり、おまわりさんに補導されてはたまらない。
 父と母の二人に嫌われてしまいたい、という自分でも気付かない本心を抱えていたスバルであっても、さすがに警察沙汰で嫌われる流れは本意ではなかったらしい。

 家の周りの道々、どこもかしこも思い出がある。
 それらを噛みしめるように、確かめるように足裏に感じながら、閑静――というよりは純粋に人気のない住宅街を通り抜け、ようよう頬の上を渇いた涙の感覚も気にならなくなってきた頃、自宅の門の前に辿り着いた。

 一度、息を吸って、止める。
 瞑目する心中を行き過ぎる数多の感情、それらを全て飲み下し、

「――ただいま」

 戸を開けて、そう声を家の中へかける。
 いくらか緊張する自分をおかしく思いながら返事を待つ。が、いっこうに返ってくるはずのそれが戻ってこない。そのことに訝しげに眉を寄せ、スバルは靴を脱ぐと家の中へ上がり込む。そして、いるはずの母の姿を求めて視線をさまよわせ、

「……おはえい」

 ――冷蔵庫の前で振り返り、口にマヨネーズをくわえた母が帰ってきたスバルに向かってそう声をかけてきていた。

「……ただいま」

 さっきまでの緊張感はどこへやら――スバルは肩を落とし、苦笑しながらどうにかそう応じたのだった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「ただいまって声かけたのに返事がないから、なんかあったかと思って心配になったじゃんか」

「なにかはあったんだってば。ほら、お母さんのマイマヨネーズが空っぽだったの。だからお父さんのマヨネーズをこっそり吸ってたところで……最近、昴とお父さんって声が似てきた気がする。電話だと区別つかないもんね」

「若干話飛んでるけど、俺と父ちゃんの区別がつかなかったから隠れてたわけね。いや、隠れてたっていうならもっとこそこそしてほしいもんだけど」

 マヨ吸引をしていた母とリビングで向き合い、スバルは中身を吸い出されて凹んだマヨネーズの容器を膨らませ、なんとなくテーブルの上に立たせる。
 それを見ながら菜穂子は首を傾けて、

「お父さんには内緒にしてね。お父さんのマヨネーズを吸ってると、ほら。大好きなマヨネーズの味と、お父さんの味を同時に味わえてお得な気がするでしょ?」

「そんなリコーダー舐める奴の証言みたいなこと聞かされても反応に困るよ! 好きなものと好きなものが組み合わさったら最強って、小学生か!」

「それで、お父さんはどうしたの? 置いてきちゃったの? 昴、いつの間にお父さん置き去りにできるぐらい足早くなったの?」

「そもそも父ちゃんとかけっこしても勝てるわけ……いや、そんなはずねぇか」

 母の疑問の声にとっさに反論しかけ、スバルはそれを胸の内に呑み込む。
 父と最後に競走のようなことをしたのはいつになるだろうか。あの頃、スバルは大人げなくも手加減抜きでこちらを置き去りに、遠ざかっていく父の背中を悔しさいっぱいで、憧れ少しで見ていたはずだった。
 けれど、もうあれから何年もたった。きっと今、父と足の速さを比べれば、もうあれほど置き去りにされることも、それどころか負けることだってきっとない。

 憧ればかりが肥大して、スバルの中での賢一の存在は大きすぎた。だからといって、本質を見誤るようでは誰一人救われない。

「けっきょく、なんもかんも中途半端だったんだよなぁ、俺」

 言いながら座る椅子の背もたれを軋ませ、スバルはグッと背伸びをする。と、そんなスバルの様子を見ていた菜穂子が口に手を当てて笑い、

「なに? なんか面白いことあった?」

「その仕草、お父さんそっくりだなーと思って。お父さんも昔から、そうやって背もたれのところで背筋伸ばすの。勢い余ってひっくり返ったりしてね」

「声だけでなく仕草も似てくるか。いいか悪いか、今は判断しかねるなぁ」

「いいことだと思うけど。――やっぱり、あの人の子だね」

 どくん、と胸が一度強く鳴り、スバルは喉から呻き声をあげそうになるのを必死で堪えた。表情を強張らせて目を見開いたスバルの反応に、菜穂子はそのスバルそっくりの鋭い目をぱちくりとさせている。鼻で呼吸し、その高鳴りをすぐに鎮めて、

「長居してると、未練ばっかし残しそうだからな……」

 言って席を立つ。こちらを見上げる不思議そうな母の視線、それを向けられながらスバルは指で頬を掻くと、

「あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「うん、聞きなよ」

 こちらの躊躇や足踏みの気持ちなど素知らぬ顔で、菜穂子はのほほんとした態度のままマヨネーズをちらちらと見ている。息子の話の続きと同じレベルで、マヨネーズを喉に運びたい衝動に駆られているのだろう。
 あまりに変わらないその様子にすっかり毒気を抜かれてしまって、スバルは小さく笑い出しながら、

「――学校の制服って、どこにしまってあったっけ?」


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――アイロンのかけられたワイシャツに袖を通し、綺麗に整えられていたスラックスに足を入れる。ベルトを締めて鏡の前に立ち、深緑のネクタイを苦戦しつつ装着。そして上から紺色のブレザーを羽織り、

「学生ナツキ・スバル、完成……ざっと三ヶ月ぶりってとこか」

 鏡の前に完成した自分の姿を確認し、スバルは一仕事終えたように息をつく。
 姿見に映っているのは、ずいぶんと袖を通すのが久しぶりになった学校の制服。ブレザータイプのそれは毎朝、ネクタイを締めるのが面倒で、朝の貴重な睡眠時間を一分ほど削られている気がして嫌だったものだ。
 二年と少し、毎日締めていたのに一向に上達しなかったそれはやはりどこか不格好で、これが最後の機会だと思うと複雑な気持ちがある。

「最後だから完璧にするべきか、それともいつも通りにするべきか」

 とは言いつつも、答えは自分の中ですでに出ている。
 膨らみの甘いネクタイの頭を軽く指で弾いて、不器用なそれをそのままにしてスバルは姿見に背を向ける。部屋の中をぐるりと見渡し、学生鞄を手に取る。
 これでどこからどう見ても、登校の準備を済ませた模範的な高校生だ。

「残念ながらすでにHRどころか三限が始まりそうな時間だけどな。こんだけ太陽が昇り切ったあとに出てきて、模範的もクソもありゃしねぇ」

 頭を掻きながら苦笑し、スバルはその場で伸びをしてから部屋を出る――その直前に、思い出したように部屋の中を振り返った。
 生まれてから引越しの類を一度もしたことのないスバルにとって、この場所は『自室』と呼べる唯一の場所だった。中学時代入学のときに与えられて以来、六年近い時間を寝起きしてきた部屋だ。――そんな場所とも、これが最後になるだろう。

「――――」

 言葉もなく、スバルはただ静かに頭を下げた。
 ただその一つの仕草に、これまでの六年間の全てを込めて。

 長い長いお辞儀が終わり、顔を上げたスバルは晴れやかに身を回して部屋に背を向けた。そして扉を音を立てて閉じる。そのまま階段を下りて一階に戻ると、リビングで待っていた菜穂子がその鋭い目を驚きに見開き、

「あら。制服とワイシャツの場所なんて聞くから、もしかして燃やすのかもと思って色々準備してたのに……無駄になっちゃった」

「息子が制服の場所聞いて出てくる発想がバーニングな方向にいく? っていうか、燃やすのを想定した準備って、この芋とか串付きフランクとか……?」

 テーブルの上に並べられた食材の数々に、スバルは自分の母の想定を越えた暢気ぶりに言葉を失う。一方で菜穂子はそんなスバルの戦慄も素知らぬ顔で、着替えたスバルを上から下まで眺めると、

「うんうん、似合ってる。そうやって格好を大人な感じにしてると、目つきが相殺されて少しは落ち着いて見えるね」

「現在進行形でお母さんが俺から落ち着きを奪ってるよ!」

「なんでそんなにカリカリしてるの? 落ち着くためにマヨネーズ舐める?」

「今はそんな気分じゃ……」

「そうだよねえ」

 差し出されるマヨネーズ――蓋の部分に『ス』と書いてあるそれは、スバルの所有物であることを示すネームドマヨネーズだ。ただ、今は舐める気にならないと押し返すと、まるで菜穂子はスバルのその反応をわかっていたように頷き、

「だって昴、本当はそんなにマヨネーズ好きじゃないもんね」

「――――」

「お父さんとお母さんが大好きだから、一緒に舐めててくれただけだもんね」

 スバル印のマヨネーズをテーブルに置き、それをくるくると回しながらの菜穂子の言葉。それを受け、スバルは驚きに喉を塞がれてしまう。慌て、息を呑んでから唇を震わせると、

「な、なにをそんな……」

「じゃあ、スバルは世界とマヨネーズ、どっちを選ぶの?」

「いや、それは世界だろ……」

「ほらね」

「たとえ話下手か!! したり顔でなにがほらねだよ! その選択でマヨネーズ選ぶ奴はマヨネーズ好きなんじゃなくて世界が嫌いなんだよ!」

 かなり的を外した菜穂子の発言に突っ込みを入れて、肩で息をしながらスバルはテーブル上のマヨネーズを睨みつける。それから小さく鼻を鳴らし、

「……いつから、そんな風に思ってたんだよ」

「ずっと前。お父さんとお母さんは、マイマヨネーズがなくなったらこの世の終わりみたいに落ち込むのに、昴はそうじゃなかったから」

「求められてるハードルの高さに絶望したよ、俺は」

 母の言葉に脱力するスバル。だが、その内心は穏やかではない。
 スバルは押しも押されぬマヨラーである。そのことに嘘偽りはないし、調味料と言われればなにを差し置いてもマヨネーズ。カラアゲにはもちろんマヨネーズ。スナック菓子のマヨネーズ味にもマヨネーズを塗って食べる筋金入りだ。
 だが、どうしてそうまでしてマヨネーズに執着するのかといえば――、

「二人がおいしそうに味わってるもの、俺もおんなじように味わいたかったってか。つくづく、俺ってファザコンのマザコンでファミコンだったんだな……」

「スーパー付ける?」

「超・家族コンプレックス略してスーファミってうるさいよ」

 益体のない会話を交わし、スバルは首を振りながら長く息をつく。と、それからおもむろに卓上のマヨネーズをその手に取り、

「あ」

「――あふっ。うむ、うまし! 久々の本場のマヨネーズはやっぱり違ぇ! 素材活かした向こうのマヨネーズもいいけど、やっぱり合成着色料ばんばか使って不健康なマヨネーズこそが本物! あっちのはマヨネーゼだな」

 絞るようにして、ほぼ満タンだったマヨネーズを一気に呑み込む。舌の上を酸味のある味わいが通過し、喉と胸に焼かれるような熱が走った。
 これこそ、マヨネーズ中毒者たちが愛してやまないマヨネージング。

 口元に残った白い汚れを手の甲で拭きとり、驚いた顔の菜穂子にスバルは頬をつり上げると、

「二人のマヨネーズ愛にゃ負けるが、俺だってマヨネーズを愛してやまない信者には違いないさ。今まで舐め切った、全てのマヨネーズのキャップに誓う」

 ちなみに、部屋の押し入れの中にはこれまでにスバルが個人で使い切ったマヨネーズのキャップが保管してある。尋常でない量に膨れ上がったそれの数は七百七十六個。ちょうど今、空になったこいつで七百七十七個目だ。

「スリーセブンだぜ。あとで、俺の押し入れにしまっといてちょうだい」

「おー、七が三つなんてめでたいね。この間、お父さんも七が四つで大喜びしてたし」

「文字通り愛のケタが違ったな!」

 楽しげにマヨネーズを受け取った母。達成感を台無しにされたスバルはイマイチ納得のいかない顔だが、すぐにその表情を取り繕うと、

「さて……それじゃ、そろそろ行くわ」

「あ、コンビニ行くならシュークリーム食べたいから買ってきて」

「俺の格好見て想像力働かせてから発言してくれる!?」

 両手を広げて自分の姿をアピール。そのスバルに菜穂子は「冗談冗談」と笑い、

「今から学校行くの? お母さんは嬉しいけど……悪目立ちするんじゃない? 明日できることは明日にしたら?」

「そうやって息子のやる気の出鼻折るのやめようよ。ただでさえ他人に厳しく自分に甘くの舐め切った根性しみついた俺なんだから」

「昴が本当にそんな子だったら、お母さんはこんなに苦労しなかったのにねえ」

 自虐ネタを挟み込むスバルに、しかし菜穂子は相変わらずとぼけた返答。と、目を細めるスバルの前で母は「よいしょっと」と言いながら立ち上がると、

「それじゃ、お母さん上着取ってくるからちょっと待ってて」

「待っててって……まさか、ついてくんの? 引きこもり脱して親同伴で登校って罰ゲームってレベルじゃねぇぞ!」

「学校までは行かないよ。ちょっとそこのコンビニまで、マヨネーズとシュークリーム買いに行くだけ。そんなに甘えたらダメじゃないの」

「あれ!? 俺が一緒にきてって頼んだみたいな雰囲気!?」

 腑に落ちない流れに叫ぶスバルに、母は「はいはい」とおざなりに返事して自室の方へ。なし崩しに途中まで同伴して登校という展開だ。

「いやいや……勘弁してくれよ。ったく」

 そう言いながら、スバルの頬は安堵にゆるんでいた。
 ――母に別れを告げる時間が少しでも先延ばしにされたことを、スバルは己の弱さと向き合いながら自覚していた。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「こうやって昴と並んで歩くのも久しぶりだよねえ」

「そうかな。夜とかだったら、わりと頻繁に買い出しとか付き合ってる気が」

「はぁ。あのね、今の話の流れだったらお昼の話に決まってるでしょ。ちゃんと言葉の裏の意味とか考えて話さないと」

「その手の察しの良し悪しに関してお母さんに言われるだけは納得いかねぇ!」

 菜月・菜穂子の察しの悪さは天下一品、まさに鬼がかった世界有数さ。
 それが、菜月家におけるスバルと賢一の共通見解であり、実際菜穂子相手だとたとえ話であったりやユーモアを交えた会話はほぼ百パーセント説明なしで通じない。
 かといって本人にはその自覚がない上に、自分の一抜けた天然さをまったく理解していない部分があるので、話していてストレスが溜まることこの上ない。
 そうとわかっていても、スバルは母と話すのが好きだったのだが。

「今日はあったかくてよかったよね。お父さんとなに話してたの?」

「おっと、お母さんとの会話初級――前半と後半に繋がりがない、がきたな。別に狙ってないからアレなんだけど、ええっと……」

 学校への道のりを並んで歩きながら、スバルは母の問いかけに首をひねる。
 賢一との話を子細に説明してしまうと、それはそれでスバルの恥ずかしい内面やらコンプレックスやら、泣きじゃくったことやらを話さなくてはならなくなる。
 必要なことだったとは思っているが、あれはあの場限りと思ったからこそ出し切れた感情の波であって、ここでもう一度出すのはいかがなものか。
 そんなわけで、

「大したことは……池田さんの話とか、ちょっと昔話とか」

「ああ、池田くん。万馬券当ててタイに移住して、現地の幼な妻に騙されて身ぐるみ剥がされて、真っ黒に焼けながら肉体労働に打ち込んでるんだよね」

「その後半の悲惨な展開初耳なんだけど!?」

「悪銭はやっぱり身につきませんね。今は体は大変だけど、心は充実してますってお手紙がきてたよ」

「未知の場所での経験で一皮むけたんだ、池田さん……他人事じゃねぇ!」

 異世界か外国かだけの違いで、スバルとそれほど境遇が変わらない池田さん。思わぬところで同士を得た気になり、さりげなく彼の健闘を祈るスバル。
 と、そんなスバルに母は「んー」と首を傾け、

「それで、昔話して学校に行く気になったの?」

「ああ、うん、まぁ簡単に言うとね。色々と、無茶なこととかばっか考えてたんだなぁって振り向く切っ掛けがあってさ。それで」

「なんでもかんでも、お父さんみたいにやろうとするのはやめたってことね」

「――――」

 要領を得ない内容でかわそうとしたスバルを、容赦なく追い詰める菜穂子。
 その横顔に浮かぶ微笑みは変わらず、鋭いながらも穏やかさに満ちた目つきにもなんら変化はない。だから、今の言葉にそんな意図はなかったのかもしれない。が、それでも十分に、スバルにとっては機先を刺されたように感じられた。
 押し黙るスバルの前で、菜穂子は大きく両手を振って歩きながら、

「スバルは頑張り屋さんだったし、なまじ色々とできたもんね。お父さんが無闇に多趣味だったせいで色んな機会もあったし……疲れちゃうよねえ」

「お、母さんは……どこまで、俺を……」

「あのね、昴」

 自分自身にすら隠し続けていたはずの本心。それをまるで昔からわかっていたような母の口ぶりにスバルは二の句が継げない。
 名前を呼ばれ、顔を上げる。前に回り込んだ母が立ち止まり、スバルを真っ直ぐに見つめて、

「よく言うよね。子どもは親が思ってるより、親のことを見てるーって」

「…………」

「でもね、逆もそうなの。親だって、子どもが思ってるよりずっと、子どものこと見てるの。お母さんだって、昴が思ってるよりずっと昴のこと見てるんだよ?」

 まさに、呆然自失とするしかない。
 あれほど隠し通せているとばかり思い込んでいた内情が、その実、まったくの空回りだった徒労感。なにより、誰にも自分の苦悩などわかるはずがないと孤高を気取っていた、引きこもり状態の自分の浅はかさよ。

「小さい頃は座薬だって入れたことあるんだから、お尻の穴まで見てるんです。お母さんが昴の体で見たことないのは内臓ぐらいだよ」

「あのすみません。今ちょっといい流れだったんで天然いらないんですよ」

 それに内臓に関しては親兄弟どころか自分でもそうそう見る機会なんてない。たまたま、スバルはちょっとそういう機会に恵まれたので見たことがあるが。
 ともあれ、

「マヨネーズのことも、引きこもった理由も……」

「お母さんがどうにかしてあげられるんならしてあげたんだけどねえ。お母さんがなにをしても、きっとダメになっちゃいそうだったから。でも」

 小さく笑ってから言葉を継ぎ、母はスバルの黒瞳をジッと見つめて、

「お母さんでもお父さんでもない、誰かがなんとかしてくれたんだよね。それはとてもいいことだと思いました。その人に感謝しなきゃ」

「……うん、そうなんだ。その人が、どうしようもない俺をどうしようもないって教えてくれた。その人が、どうしようもない俺をどうしようもない俺じゃないって言ってくれた。だから、こうして今、歩けてる」

 自分の愚かさを自覚させてもらって、そんな自分を肯定してもらって、スバルは今こうしてここに立って過去に――父と母に向き合えている。
 ああ、まったく。

「すげぇいい子たちなんだ。俺にはホントに、もったいないぐらい」

「でも、誰かにあげたりしないんでしょ?」

「当たり前だし。俺が釣り合うかどうかの問題じゃねぇんだよ。誰かにやるぐらいなら、釣り合わなくても俺のもんにする。それから、俺の価値を積み上げるさ」

「うんうん――やっぱり、あの人の子だね」

 その言葉が、スバルにとってどれだけの意味がある言葉なのか。
 誰にも語ったことのないスバルの内心を知っていた母はきっと、それを知っている。知っていて、こう言ってくれているのだとしたら、

「俺はちゃんと、それができてるかな。俺はちゃんと、あの人の子どもやれてるかな」

「大丈夫だよ。だって、昴の半分はお母さんなんだから。お父さんの半分まで格好良くなったらノルマ達成じゃない」

「俺の体を構成する自分遺伝子が劣勢なのは自覚あんだ!?」

「お父さんの半分格好良くなって……残り半分、昴になったらいいんじゃない?」

 がなるスバルに動じず、菜穂子はそう言って答えを示す。
 その言葉を聞いてスバルは唖然、呆然。

「全部が全部、お父さんみたいになることないの。だって、昴の全部がお父さんと同じになったら、お父さんが二人になってお母さんがふらふらしちゃうでしょ?」

「夫と息子の間で揺れ動く女心って、官能小説か!」

「やだ、やめてよ、もう!」

「ぐーぱん!?」

 余裕のないスバルの発言に照れ隠しに拳で殴られる。
 思いのほかいい右を顔面に食らってよろけるスバル。顎の痛みに涙目になっていると、菜穂子はこちらに背を向けるように反転し、

「そんなわけで、昴は昴らしく頑張ったらいいなとお母さんは思います」

「いい感じにまとめてるけど、ちょっと血が出てるよ、俺」

「血って言えば、鉄パイプって舐めると血と似てる味がしない?」

「そんな極端なシチュエーションなかなかねぇし……やべぇ、お母さんとの会話中級、突然方向を見失った疑問がきた」

 ここで懇切丁寧に、血に含まれた鉄分と鉄パイプを構成する物質が近いからだよという話をしても仕方がない。この類の質問に真面目に応じた場合、「なんで違う話してるの?」と怒られて理不尽な思いをすることになるからだ。
 だから、合間の文脈を無視して、

「俺は俺らしく、か」

「そそ。お父さんみたいになりたいと思いながら、昴になるんだよ」

 導き出した結論に満足した様子の菜穂子。と、ふいに前を行くその足が止まり、振り返った菜穂子は二つに分かれた道の右を指差し、

「じゃあ、お母さんはコンビニがこっちだからここまでだけど……一人で大丈夫?」

「そんな心配されるほど……重傷だったよなぁ、うん」

 菜穂子の過剰な心配ではない。
 へこたれていたスバルはそれだけ情けなくて、母の目から見ても不甲斐ないことこの上なかったのだろう。だからスバルは母を安心させるように、

「大丈夫だよ。やらなきゃいけないことと、やりたいことががっちり噛み合ってるんだ。今はもう、閉じこもる理由なんてどこにもない」

「そっか。それならよかった。それじゃ、頑張って」

 スバルの答えに安心したように頷き、それから菜穂子が弾むような足取りで分かれ道を右へ。スバルの進む先は左で、ここで母とはお別れだ。
 別れになってしまう。それもきっと、母が思うよりずっとずっと長い――、

「お母さん――!」

 その背を見送ることに堪え切れず、スバルは大声で母を呼び止めていた。
 マヨネーズを求めてスキップしていた母の足が止まり、体ごとこちらへ振り返る。そのいつも通りの、変わりのない母の姿を瞼に焼き付ける。

「あ……」

 別れを、別れの言葉を口にしようとして、スバルはそれを躊躇った。
 今、この場で別れの言葉を投げかけなければ、母はスバルとの別れがどれほど長いものになるか知らないままだ。スバルもまた、二度と会うことのない母が泣き崩れる場面を目にする機会を失う。最後に見る母を泣き顔にしたくないのであれば、ここで口を閉ざした方がいいのではないか。
 そんな、自分と相手を思いやるという皮を被った欺瞞を、

「――やらなきゃいけないことがあるんだ。だから、長いお別れになる」

 ナツキ・スバルの心は、許さなかった。

 告げた言葉に菜穂子は無言。そこになにがしかの反応が生まれる前にスバルは畳みかけ、

「ちょっと遠くで、連絡とかもできそうにないんだ。色々、心配とかかけちゃうと思う。危ないことはしない……ってのも断言できない。どっちかっていうと、危ないことばっかりなところから、危なっかしい子を助けてあげなきゃって話だから」

 早口になる。情報を羅列する。語りたい言葉が、溢れてくる。

「父さんとお母さんにはまた心配かけると思う。目のつくところにいた昨日までと違って、今度は目の届かない場所になるから。でも、どんなとこにいても、俺は二人のことを思ってるし、忘れたりしないし……」

「昴」

「もう自分が、二人の子どもでいたくないなんて思わないし、自分で自分が嫌いになるようなこともしたくない。安心して見送ってくれなんて、言えた話じゃないのはわかってるけどさ。でも俺……」

「昴」

 自分でもなにを言っているのかわけがわからなくなり始めたスバルを、戻ってきた母の声が呼び止めていた。
 顔を上げると、すぐ目の前に母が立っている。そして、

「昴。――大丈夫だから」

「……だ、大丈夫って」

「昴がなにを言いたいのか、ちゃんとわかってるから。だからそんなに一生懸命、言葉を探したりしなくてもいいの」

「わかってるったって……どうして……っ」

「だって、お母さんはスバルのお母さんなんだから」

 ――それはなんて、欠片の論理性もない、なのに絶対に逆らえない根拠なのだろうか。

 目の奥が熱くなる。この感覚は、ほんの小一時間前に味わったばかりだ。
 いったい何度、スバルはこうして子どもみたいに泣きじゃくったらいいのか。何度こうして涙を流せば、なににも動じない鋼の心を手に入れられるのか。

「こ、こんな……子どもみたいに……だっせぇ……」

「泣きたいときに泣くのがダサいんなら、生まれてくる赤ちゃんはみんな揃ってダサいってことになっちゃうね」

「そういう……意味じゃ……」

「うんうん、わかってるってば。お父さんとお母さんの前では、昴はいくつになっても子どもなんだから……泣きたいときに、泣くのがいいの」

 世界がぼやける。涙が溢れる。袖で拭って顔を隠して、スバルは母にその顔を見せない。菜穂子も、スバルのその意地を尊重して覗き込むようなことはしない。
 ただ、ゆっくりと、スバルの髪の短い頭を背伸びして撫でながら、

「……ごめん、お母さん。俺、けっきょく、二人になにもできないまま……」

「なにかしてほしいから産んだわけじゃないんだよ? なにかしてあげたいから産んだの。愛してあげたかったから、お母さんはスバルを産んだの」

 ――その言葉通りの愛ならば、スバルはすでに数え切れないほど受けていた。

「お父さんとお母さんになにかしてくれたいなら、その気持ちを他の誰かにあげたらいいよ。それが昴の好きな子で、その子とまた愛してあげたい子どもとかできたら……もう最高じゃない?」

「……あぁ、最高だね」

「でしょう。お母さんの言うことに間違いはそんなにないんだから」

 満足げに笑い、菜穂子はスバルの前髪を指でくすぐる。
 それからこちらの胸を押して一歩下がらせると、顔を上げたスバルを下から見上げ、

「泣いて顔がくちゃくちゃになると、ますますお母さんに似て変な顔になるね」

「……自分の顔引き合いに出して、よくそう言えるな」

「お父さんの好きな顔って自信があるから。だからお母さんの自信の分だけ、昴もお父さんに愛されてる自信持っていいよ」

「顔の部分の話だけどね!」

 思い切りに袖で顔を拭って、目の周りを真っ赤にしながらも涙を止めた。
 泣きじゃくって、本音をさらして慰められて、すっきりしている自分が可笑しい。

「ああもう、泣いてばっかですげぇ情けねぇ」

「泣くのいいじゃない。昴、生まれたときもものすごい泣いてたんだから。最初は誰でもみっともないぐらい泣くの。色々いっぱいあって、色んな場面で泣くの」

「――――」

「それでたくさん泣いて、最後に笑えたら、それで全部大丈夫。大事なのは最初でも途中でもなくて、最後なんだから」

「それって、結果よければオールOKってこと?」

「そういう受け取り方とは違います。これ、お母さんからの宿題」

 答え合わせをする機会はきっとこない。
 差し出された宿題という名の別れの挨拶。それを受け取り、スバルは胸に秘める。いつかその答えが出せたとき、自然とわかる日がくるだろうか。

 どうにも颯爽ととも、潔くともいかない別れの場面。
 父も母も、引きこもった挙句にどこへともわからないところへいなくなる息子に対して、恨み言をぶつけるどころか笑顔で送り出してくれるときている。
 まったくもって、自分には過ぎた両親で、過ぎた環境で、愛していた場所だった。

「――それじゃ、行くよ」

「うん、そうしな」

 首を振り、最後に無理やりに頬を動かして笑顔を作る。
 その不格好な笑顔を母に残して、スバルは背を向けて歩き出した。

 通学路ももう佳境、あとはこの分かれ道を突き当りまでいって、そこから坂を上っていけば校舎が待っていて――。

「あ、そうだ。昴、昴、忘れてた」

 と、これだけ気合いを入れて臨んだというのに、背後からかけられるとぼけた声。
 思わずずっこけそうになりながら、スバルは気落ちを隠せないまま振り返る。

 最後の最後でいったいなにを、と不安なスバルに母は手を上げ、

「――いってらっしゃい」

 そうして、小さく手を振って、微笑んで言ってくれた。

 ――異世界に召喚される前の最後の夜。コンビニに出かけるときに、やはりスバルに母は同じように声をかけていたはずだ。でもあのとき、スバルは虫の居所でも悪かったのか無言で扉を押し開き、

「――――」

 だから、これは、あの日の、後悔を拭う最後の機会で――。

 お母さんとの会話上級――どれだけ脇道にそれても、最後には必ず正しい正解に辿り着く。
 そんなことを思い浮かべた瞬間、頬に無理やりでない本物の笑みが生じて、

「――いってきます!」

 そう高らかに、通学路にスバルの声が響き渡っていった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 誰もいない校舎。昇降口から下足箱に向かい、ずいぶんと開け閉めしていないらしい立てつけの悪い扉を開ける。外履きと上履きを取り替えて、爪先で床を叩いて足に合わせると、スバルは息をついてから廊下へ。
 スバルの学年は三年で、クラスは八クラスある内の六番目。三年六組、出席番号男女混合で二十二番がスバルの番号だ。

 最高学年である三年生の教室は一階であり、階段を横目に廊下を進む。
 音のない廊下、リノリウムの床を叩くスバルの足音だけが響く中を進み、スバルは自分の教室を目指して歩き続ける。
 そして、そう時間もかからずに目的地へ到着。扉の前に立ち、深呼吸。

「――――」

 戸に手をかけて、横にスライドさせて開け放つ。
 途端、ずいぶんと遅くに登校してきたスバルへ非難の視線が集中し――、

「思ったよりもずいぶんと早かったね」

 そんなことにはならなかった。
 開け放たれた扉、教室の中には見渡す限りの空席が立ち並び、座っている席は教室の中央の一席だけ。
 そしてその席に腰掛ける人物は、入ってきたスバルの方を椅子ごと振り返り、

「ようこそ。――自分の過去と向き合う時間は、君になにをもたらしたかな?」

 と、白髪を揺らす『強欲の魔女』は好奇心に満ち満ちた瞳でそう問いかけてきたのだった。

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