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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章18 『親子』



 ――頭の中がクリアになっていくのを感じる。

 つい今まで割れそうなぐらい叫んでいた苦痛の合唱はなりを潜め、今のスバルの頭にあるのはたった一つの思考だけ――目の前の父親と向かい合う覚悟だけだった。

「好きな子、できたんだ。俺にも」

 もう一度、問いかけへの答えを繰り返す。
 再びそれを口にしたことで、スバルは己の心が歩き出したことを意識する。
 眼前、その告白を聞く賢一は何度かまばたきし、それまでと会話の流れを逸した発言であったことに気付きつつも、

「……そうかよ」

 静かな声で、スバルの言葉に耳を傾けてくれた。
 そんな態度に救われる。そんな風に耳を傾けてくれる人だと、知っていたはずだったのに、スバルはこれまで口をつぐみ続けてきた。
 だから、それを終わらせようと思う。

 ――そうしろと、背中を押してくれた人がいたからだ。

「そうだよ。俺はもう、ただ部屋の中で小さくなって丸まってるだけのガキじゃない」

 どれだけ変わったかなんて自分でもわからない。
 ガキじゃないなんて強がっても、自分で自分がガキなことぐらい自覚している。
 顔を上げる勇気も、弱さと向かい合う覚悟も、嫌なことから逃げ出す思い切りも、なにもかもを意識しないようにしていた。
 ガキ以下だった自分が今、ようやくガキであることを認めただけだ。
 それすらも、決して自分だけで認めることができたわけではなかった。

 脳裏に浮かぶ銀色の面影が、スバルの胸を甘くくすぐっている。
 動けずに停滞して冷たくなっていたスバルに熱をもたらしてくれた輝きだ。

 銀色――本来ならば冷たさを感じさせるその色が、今のスバルにはとめどない熱を送り込んで、踏み出す力にしてくれる。その熱に浮かされるように、

「なににビビってたのかも、どうして縮こまってたのかも、全部思い出した。――違う、俺は全部知ってた。知ってて、見ない振りして……俺だけが気付いてる俺の弱さを、俺が知らない振りしていられる間に誰かに……」

 誰か、なんて誤魔化すこともできない。それが誰だったのか、わかっている。

「父さんや母さんに、叩きつけてほしかった」

「――――」

「俺がどうしようもなく小さくて、足りない馬鹿で、独りよがりなクズなんだって、二人に叩きつけられて……諦めさせてほしかった」

 無言でスバルを見つめる賢一の瞳は揺るがない。
 スバルと同じ色を宿した双眸に自分が映る。誰からも不機嫌だと誤解されるぐらい鋭い目尻が、今はどうしようもないほど弱々しく下がっていた。

 ――情けねぇな、とそう思う。

「俺は昔から小器用で、なんでも適当にこなせるとこがあったよな。走るのも、勉強もそれなりだったし……周りの友達がなかなかできないことがすぐにできるもんだから、逆にみんなはどうしてできないんだろうってそれが不思議で」

 幼さ故の思い上がり、可愛い全能感とでもいえばいいのか。
 小さい頃のスバルは運動も勉強も、人並み以上に上達の早い子だった。当たり前のように周りより足が速く、当然のように同年代の子より賢く、わかり切ったことのように周りの中心になって――。

『やっぱり、あの人の子だな』

 そんなスバルを評して、大人たちや近所の人たちは頻繁にそう口にした。
 その『あの人』というのが父であることを知り、その父の息子であることを周囲が認めてくれる。――その言葉をかけられることは、幼いスバルにとって誇りだった。

 父は――スバルの父である菜月・賢一は、息子の目から見ても魅力的な人物だった。
 よく笑い、よく喋り、よく泣き、よく怒り、よく動き、よく働く。
 父はスバルと母を愛していると公言することをはばからず、そんな父の周りにはいつも父を慕う人々がいて、父は常にたくさんの人の笑顔の中心に立っていた。

 そんな父がスバルにとってはなによりの自慢であり、そんな父がもっとも大事にしてくれているのが家族である自分と母であるということは、スバルにとってひどく傲慢なほどの優越感を抱かせるものだった。

 ――父のようになりたい。父のようでありたい。

 幼いスバルにとって、父の背中の大きさは世界の大きさそのものであり、世界とは父の背の上から見通すものでしかなかった。
 だから日々、スバルは幸せの中を、幸せを求めて過ごすことができたのだ。
 だが、

「いつからだったかな……覚えてねぇけど、誰かにかけっこで負けたんだったと思う。その頃から、一番にできてたことが一番じゃなくなっていった。俺より足の速い奴が出てきて、俺より問題を解くのが速い奴も出てくる。俺の一番が少しずつ、でも確かに減ってくのがわかって、こんなのおかしいって思うようになってった」

 むきになればなるほど、スバルの心の空を輝いていた星たちは遠のいていった。
 手を伸ばしても、空の下を走り回っても、あれだけスバルの周りで光を放っていた星たちはいなくなり、スバルを包む夜の暗さと静けさが増していく。
 そんな得体のしれない焦燥感の中でも、

『やっぱり、あの人の子だな』

 その言葉だけがスバルの救いであり、縋りつく希望だった。
 足の速さで負けても、賢さで一番になれなくなっても、その言葉がスバルの幼い矜持を支え続けてくれていた。

 走る練習をするより、宿題を一生懸命に解くより、率先して馬鹿なことをするようになっていった。

 夜の学校に友人とつるんで忍び込んだり、白線を町中に引っ張って回ったり、危ないと有名だった野良犬をみんなの溜まり場から追い出したり――そうやって皆を飽きさせないことで、スバルは自分の少なくなってしまった星を守ろうとした。

「勉強を頑張るなんて馬鹿馬鹿しい。足が速いぐらいのことでなんの自慢になる。俺がこうやって、みんなと笑ってる方がずっとすごいし、ずっと強い」

 そんな勘違いのプライドを守るためには、走り続けるしかなかった。
 誰もが恐れることを率先してやり、誰もが嫌がることに自ら臨み、そうして自分の居場所が失われないように大切に大切に守り通す。

「でも、そうやって自分を守ろうとしてったら、次からはもっとでかいことをやらなきゃならない。前やったことよりも小さい真似なんてできない。そんなことして、小さい奴だなんて思われたら大変なことになる」

 だからスバルの行いはどんどん過激になっていくしかなかった。
 どうしてそんなことをするのかと問われれば、それが菜月・昴だからだと答える。

 ――そう、それが菜月・昴でなくてはならないのだ。
 菜月・昴は誰よりも勇敢で、誰よりも奔放で、誰よりも自由で、みんなが憧れるようなそんな存在であり続けなくてはならない。

 そうして張り詰めて、張り詰め通して、張り詰めていることを隠して、そんな自分にも気付かないで、もっとやれる、まだまだやれると自分も周りも騙していく。
 だって自分は、菜月・賢一の息子の菜月・昴なのだからと。

「なんでもできるんだ、ってそう思ってた。なんでもやるんだって、思い込ませてた。そうやってやることなすこと馬鹿になっていって、なにも考えないで騒ぐことばっかりになってって……」

 そうして火に引き寄せられる羽虫みたいに、焼かれることにも気付かないで熱を求めていた。
 それが本当に虫であったなら、燃えるまで火に魅せられてスバルは終わりだった。
 でも、スバルは羽虫ではなかったし、スバルの周りにいた友人たちも、スバルよりずっと人間だった。

 ――特に、なにかの切っ掛けがあったわけではなかったと思う。

 スバルが言い出した無茶に、同じように悪ガキの顔をした仲間が集まる。
 その集まる仲間の数が、まるで櫛から歯が抜け落ちるように減り始めていった。

「馬鹿な奴らだって、そう思ってたよ。こんな楽しいこと、俺の側にいなきゃ味わえないんだって。そいつらは後悔でもなんでもして、つまんない時間を無駄に過ごしてりゃぁいい。俺はもっと、高いところを見るんだって」

 そうやって星の場所を探し続ければ、自分の頭上にある星々を見失わずに済む。
 あれだけ空を埋め尽くしていたはずの星たちがいなくなって、スバルに残されていたのはその瞬く星一つだけで、そればかりを見つめて走り続けて――ふと、星空から大地に目を向けたとき、

「俺の周りには、もう俺しか残ってなかった」

 当たり前のことだ。
 周りを顧みもしないで、みんなには見えない星を延々と追いかけ続けたスバル。
 最初はそれを面白がっていた仲間たちも、着地点も見えないままエスカレートしていく奔放さについてゆけなくなる。
 そのことに気付かず、離れていったものを馬鹿な奴だと嘲笑っていれば、残ったものもスバルの考え方に不安と疑念を覚える。

 そして一人、また一人とスバルの側からは友人が消えていき、気付けば星空の下に取り残されているのはスバル一人だけになっていた。
 そのことに不貞腐れて腹を立てて、忘れていたように空を見上げれば――、

「あれだけ俺の上で光り輝いてたはずの星も、もうどこにも見つからなかった」

 星の光も見失って、周りにいた友人たちも失って、ただ一人でぽつんと夜の闇に取り残されてしまったとき、スバルはようやく気付いた。

 ――自分はなにも、特別な人間なんかじゃなかった。

『やっぱり、あの人の子だな』

 あれだけ幼いスバルに誇りを抱かせ、あれだけスバルの心に活力をもたらしてくれていた魔法の言葉。
 それがいつからか、スバルにとって呪いの言葉となっていた。

「外に出て、町をうろついてるとわかるんだ。どこに行っても、どこを見ても、父さんの痕跡が残ってるってことに。……当たり前だよな」

 スバルの狭い世界は、まさしく父の背の上から同じ光景を見ていたものだ。
 どこに行くのにも父と同じ高さを求めていたスバルにとって、狭い世界のどこを見渡しても、父の残り香を感じない場所などない。

 次第にスバルにとって、世界は恐ろしいものへと変わっていった。
 それと同時にスバルの心を蝕んでいったのは、自分自身で気付いてしまった己の凡庸さであり、その凡庸さを父母に、父母を知る人々に知られたくないという羞恥心だった。

 誰からも好かれ、誰からも頼りにされて、誰からも笑顔を向けられる。
 そんな菜月・賢一の息子である菜月・昴が、人目を気にしておどおどと縮こまり、世界の広さに怯えて頭を抱えた臆病者であるなどと、思われてはならない。

 自分の悪評は、自分を愛すると断言する父への侮辱であり、それはいずれあの大きな父からの失望に繋がるだろう。それはスバルにとって、なによりも恐ろしい。

 小中学校と、スバルはひたすらに己が目立たずに済むよう徹底して過ごした。
 低学年の頃のスバルを知る級友たちは、そうして大人しくなったスバルの姿に首をひねることもあったが――多感な時期の子どもたちは、同級生の抱く心の闇になど欠片も気付かず、日々を健やかに過ごすことで瑣末なことなど忘れていく。
 そうして埋没していく時間の中でスバルが巧妙だったのは、同級生たちと過ごす時間の中では影に徹していながら、家族の中では変わらず腕白な息子を演じ切ったことだっただろう。

 学校でまるで日陰の雑草のように大人しくなったスバルは、しかし我が家の中ではかつての奔放さを取り戻して別人のように振舞う。
 学校帰りの彼が口にする武勇譚の数々は、家で家事に従事する母の口元を綻ばせ、仕事で疲れて帰ってきた父に笑顔をもたらす類のものであった。

 ――それらが全て、スバルの口から出た出まかせであったことに、両親は気付けていたのだろうか。今のスバルにはわからない。

 そうして小中学校、己の人生の大半を費やす時間を嘘で塗り固めて、菜月・昴という人間は虚像を作り上げていった。
 誰もがかつてのスバルの悪行の数々を忘れて、目立たないクラスメイトのことを名前を知るだけの存在と認識していく。
 そんな希薄な関係に一抹の寂しさを抱いていながらも、スバルの心を覆うのはそれ以上の恐怖。自分の菜月という名字が持つ、ある種の力への畏敬だった。

「今、考えても暗い過ごし方だよな。でもそうやって、俺は小中学校をどうにか乗り切った。そうして乗り切って、高校生になって……地元の学校のくせに偏差値の問題だろうな。同級生がほとんど同じ学校に進学しなかったから……」

 全てを後ろ向きに考える癖がついていたスバルも、環境の激変を機会の一つと前向きに捉えるぐらいの勇気が欠片ばかりは残っていた。
 そのなけなしの勇気を振り絞って、スバルは歯を食い縛りながら顔を上げた。

 高校進学、新たなる場所。知らない顔たちと築く、まったく未知の関係。
 そこでなら、スバルのことを菜月・昴と判断しても、『菜月・賢一の息子』として見るものはきっといない。そしてその場所でなら――かつて取りこぼしてしまった星空の輝きを、また見ることができるかもしれない。

 その勇気の使い道が、決定的にスバルの足を道から踏み外させた。

「我ながら盛大な高校デビュー失敗だったと思うぜ。そりゃそうだろ。小中ってまともに人間関係構築してなかった奴が、知らない顔だらけの場所で鼻息荒くしてテンション無理に振り切って無茶やらかせば……結果がどうなるかなんて、馬鹿でもわかる」

 その馬鹿でもわかることがわかっていなかったのだから、スバルは馬鹿ですらなかったのだと自分を振り返る。

 詳細は語りたくない。結果はお察しだ。
 人と接する関係において、父親以上の見本を持たなかったスバルにとって、新しい環境で誰かと関係を築こうとするなら、参考にするのはその父でしかない。
 ――幼い頃ならばもの笑いの種として切っ掛けになり得たそれらの行いも、第二次性徴期を迎えて精神的に変化しつつある年頃の同窓にとって、毒でしかなかった。

「毒も毒。猛毒だよ。それも、毒キノコみたいに傘の色が白地に赤の斑点が浮いてて、一目で『猛毒、食べたら苦しんで死ぬぜ』ってもろわかりな類の奴だ」

 そんな奴がどうして、うまくやっていけるだろうか。
 新しい環境で踏み出そうとした足を、一歩目から踏み外してスバルは奈落の底に落ちていった。そうして空気の読めない、わけのわからない奴としての地位を確立して孤立した時間を過ごして、ある朝にふと思ったのだ。

 ――ああ、今日は学校に行きたくねぇな。

「ちょうど用事で父さんも母さんも留守にしてた朝だったと思う。そんな風に面倒だって思って、いつもに体を起こす時間に寝っ転がったままでいて……慌てて体を起こしたらもう昼前で驚いて、着替えなきゃって立ち上がろうとしたとき」

 自分の心と体が、ひどく落ち着いていたことにスバルは気付いた。
 登校して、窓際の席に一人座って、寝た振りをしながら無言で時間を過ごす中、スバルの心は常に不安と恐怖に苛まれていた。
 こんな場所にいたくないと、学校に着いた時点から帰ることばかり考えていた。否、目覚めたそのときから、学校から帰ることばかり考えて時間を過ごしていた。

 いじめられていたわけではない。無視をされていたわけでもなかった。
 ただ、スバルの方から壁を作っていただけだ。誰かの優しさに触れて、希望を抱いてしまうのが恐い。また星の輝きを見てしまったらと思うと、気が気でない。

 そんな苦痛ばかりの時間を過ごさずに済んだ一日。その解放感と安堵感、そして脱力感に魅せられて、スバルの足は学校から徐々に徐々に遠ざかっていった。

「週一のサボりが三日に一回になって、その内に二日に一回にまでなっていって……学校に完全に行かなくなるまで、二ヶ月もかからなかったな」

 そこからの日々のことは語るまでもない。
 学校に行かなくなったスバルの心には安堵感で満たされていた。それは苦しい時間を過ごさなくてはならない学校から遠ざかれたことへの解放感もあったが、それ以上にスバルの心を支配していたのは、ある種の諦観と納得だった。

 大した理由もなく、独りよがりを貫いて不登校児となったスバル。
 そんなスバルを見て『やっぱり、あの人の子だな』とそう思う人はいないだろうし、なにより――あまりにも情けないスバルの姿に両親が失望してくれれば、父も母もきっとスバルを『愛する』ことをやめてくれる。

 愛していない息子へのつまらない評価など、あの二人になんの意味も持たない。
 愛している息子がつまらないものだと詰られれば、きっと二人は怒るだろう。悲しむだろう。そんな二人を見て、周囲は哀れだとさらに二人を貶める。
 スバルと両親の間の関係が希薄になればなるほど、そんな心配をしなくてきっとよくなる。

 だから、菜月・昴は――。

「お前なんか愛してない。お前なんか大嫌いだ。お前なんか……俺の子じゃない。そうやって、そう言って、俺を投げ捨ててほしかった。俺を、諦めさせてほしかった」

 あるはずもない星の存在に期待して、儚い希望で空を見上げてしまう。
 そんな女々しくて情けないスバルという人間を、菜月・賢一の息子にふさわしくない愚かな存在を、解放してほしかった。

 ――それこそが、スバルがスバル自身ですら気付いていなかった心の内だった。

 向かい合って心の内をさらけ出したスバルは、口にして初めて自分の心の醜さを思い知った。弱いことを、馬鹿なことを認めたくなくて目をそらして、その尻拭いすらも誰かに押しつけようとする小ささに吐き気すら催す。
 それでもスバルが自分を見限らず、見捨てずに済むのは支えがあったからだ。

『レムは、スバルくんを愛しています』

 瞼の裏をちらついていた銀色の面影に、今度は儚く淡い青の輝きが重なる。
 それはスバルの心に穏やかな風を吹き込み、冷たくなりかけていた手足に温かなものを差し込んで癒してくれる。

『ここから、始めましょう。一から……いいえ、ゼロから!』

 そう言って彼女は、終わっていたはずのスバルの背中を押してくれた。
 もう歩くことができないと下を向いていたスバルの顔を上げさせ、手を取って、背を抱いて、額に口付けて、勇気を与えてくれた。

 銀色の輝きに魅せられて熱を与えられ、青の温かさに背を押されて歩き出して、終わっていたはずのナツキ・スバルは再びゼロから始まっていた。
 そのことに気付けたから、そのことを思い出せたから、ゼロから歩き出すと決めたのだから――ゼロ以前の、マイナスだった過去に決着をつけなくてはならない。

 スバルの長い独白を聞き終えて、賢一は考え込むように目をつむって黙り込んでいる。そんな父の姿を目の前にしながら、スバルは自分の喉の奥から漏れ出してきそうな己の弱さへの不甲斐なさを必死で押し殺していた。

 こうして振り返る猶予を与えられて、少しだけ変わったと思える今の心境だからこそ自分の本心の醜さがわかる。
 けっきょくスバルは今も昔も、他人に自分の行いの尻拭いを押しつけてきたのだ。
 自分で自分を見限る勇気が出ないから、自分の世界で一番の悪人に自分がなりたくないから、悲劇の主人公でありたいから、誰かが悪役を買って出てくれるのを言葉にしないで黙って待ち続ける。

 学校に行かず、日々を部屋で怠惰に過ごし、そうやって愚かな自分であり続ければ――いつか賢一が扉をぶち破って、スバルの世界を終わらせてくれると思っていた。
 心の奥底の無意識で、あの日々の怠惰に、そんな決着を期待していたのだ。
 そんな行き詰まりの心境で辿り着いた異世界。そんな場所でもスバルは独りよがりを発揮して、ついに――、

「――昴」

 考え込んでいた賢一の目が開かれて、スバルの名前を呼んでいた。
 思索の海に沈んでいたスバルはその呼びかけに意識を引き戻されて、ふと回想していた過去から現実に舞い戻り――すぐ眼前に、父の顔。そして、

「ファーザーヘッド!」

「あだぁっ!?」

 すさまじい衝撃に額を殴りつけられて、スバルは火花を散らせながら悲鳴を上げる。鋭い痛みに額を押さえて下がれば、ベンチから立った賢一がこちらを見下ろし、

「見たか、昴。今のが俺の愛情を込めたファーザーヘッド、怒りの一撃だ」

「ヘッドとか言っておいて踵落としかよ! 顔近づけてフェイントとか芸が細けぇ!」

「お前が座ってて俺が立ってたからできた芸当だな。いや、やっぱ体固くなってるわ。昔みたいにゃ全然いかねえ。風呂上がりのストレッチサボってるしなぁ」

 しっくりこない顔で柔軟体操を始める賢一。そんな父を前に、衝撃を受けた頭部を擦りながら半泣きのスバル。さすがに予想外の反応をされてどうすべきかわからない。スバルの期待していたのはもっと別の、

「しかし、昴。お前、アレだな……かなりアホだな」

「うぉえ」

 身も蓋もない発言に真っ二つにされて、思わず喉から嗚咽っぽい音が出る。
 スバルを見下ろし、賢一は腕を組んで鼻から息を出すと、

「いじいじいじいじと悩みやがって……俺とお母さんのどこ受け継ぐと、そんな卑屈な考え方するようになるんだ? お前のそれ、完全に母さんの弟の遺伝だな。ほら、あのチビでハゲでデブの、いかにも悩んでそうな面構えの」

「言い過ぎだろ……いや、確かに俺も人生の目標をハゲないこととデブにならないことを定めたのは叔父さんが理由だけど」

 親子揃って親族に容赦ない発言をして、無関係の叔父さんが火傷する事態に。
 どこか遠い、同じ空の下で親族にこき下ろされたと当人が知らない間に、「そもそも」と賢一は苛立った目で、

「色々と気に食わんことが多いが、一番はアレだ。俺に嫌われようとか思ってるくせに受け身な姿勢なとことか気に入らねえ。引きこもって学校行かなくなって無気力症候群患ってりゃ、その内に親父がぶち切れて叱ってくれるに違いないでちゅー。……アホか、お前。叱られたいって、スキンシップ足りてない勘違い女か。あんだけ朝から俺とくんずほぐれつしといて、それでも足んねえのかよ」

「色んな場所に語弊がある言い方なのに本質が正しくて反論できねぇ……」

「つか、俺に見捨ててもらいたけりゃもっと能動的にやれよ。誰が自分の殻に閉じこもったぐらいで自分のガキ見捨ててやるかよ。嫌われたいんなら、特に理由もなく人類半分ぐらい虐殺したりしろ。そしたら嫌ってやる」

「そんな悪人、少年漫画でもそうそう見かけねぇよ! どんな無茶だよ!」

「――お前が言ったことが、俺にとっちゃそんぐらいの無茶だってことだよ」

 ぴしゃり、と言い切られて思わずスバルは言葉を失う。
 そのスバルに賢一は腰を折って視線を合わせて、「いいか?」と呼びかけ、

「お前がカタツムリみてえに足が鈍間で、九九も解けねえ低脳で、目立ちたいあまりに自傷行為とかしてブログとかで自慢してても……」

「そこまで鈍間でも馬鹿でもアホでもねぇよ……」

「そこまでの鈍間で馬鹿でアホでも、俺はお前を嫌っても見捨ててもやらねえ。当たり前だろ? 俺はお前の親父で、お前は俺の息子なんだから」

 呆れたような吐息とともに言い捨てて、賢一はグッと背を伸ばす。立ち上がった父親を見上げるスバル。その視線を浴びながら賢一は、

「それにしても、お前はどんだけ俺を超人扱いしてんだよ。さっきの話しぶりじゃ、まるで俺がハイテク超絶技巧のパーフェクト完璧スーパー超人みてえだったじゃねえか」

「意味被りすぎ」

「お前が知らないだけで、俺だって色々と悩んだり悔やんだり失敗したり泣いたり喚いたり振られたり……は、あんましてねえや。顔がいいからな。お前は似なかったけど」

「自信過剰乙」

「俺もお前の年頃のときは未熟だったっつー話だ。確かにそれなりに名前が売れちゃいたけど、別に特別だったわけじゃない。ちょっと時が止められるぐらいのもんだな」

「去年、車にはねられたときに使えよ」

 三段オチ。
 気持ちよくボケと突っ込みが決まったことに、賢一が手を差し出してくるので仕方なしにハイタッチで応じる。と、そのぶつけた手をしっかり掴まれ、

「馬鹿でアホで面倒臭い息子を、このまま手首ひねってぶん投げて、その性根を叩き直してやってもいいんだが……」

「痛っ! 痛い痛い! ちょっ、手首極まって……痛いって!」

「――どうも、その必要がねえぐらいへし折られて立ち直ったあとみたいだからな」

 ひねられていた手首が解放されて、スバルは痛みを訴える手を振りながら立ち上がる。そのスバルを片目をつむって見つめて、賢一は小さく鼻を鳴らすと、

「朝も思ったが、ついさっきにまた急に変わったな。その面、どうしたよ」

「……言ったろ。好きな子、できたんだ」

 銀色の輝きが、ナツキ・スバルの手を引いてくれた。

「それに、俺みたいなのを好きだって、そう言ってくれる子がいたんだ」

 青い温かな光が、ナツキ・スバルの背を優しく押してくれた。

「その子たちは、俺のことを菜月・賢一の息子だなんて知らない。俺はその子たちの前では、ただのナツキ・スバルだ。……いや」

 首を横に振り、しっかりと目の前に立つ父親を見据えて、

「誰の前でも、俺はナツキ・スバルだった。俺が勝手に、変な看板背負ってる気になって、ありもしない重さに潰れてただけだ。それがようやく、わかったんだよ」

「超遅ぇな。一家の大黒柱は俺だぞ。家督も譲られてねえくせに、一丁前に勝手に看板背負ってる気になってんじゃねえよ。はたくぞ」

「はたくより痛いことされたばっかだけどな!」

 地面を踏みつけて先の攻撃のやりすぎを訴えると、賢一は「悪い悪い」と他人事のように笑った。それから賢一は「それより」と目を細めると、

「好きな子できたって言っといて、好きだって言ってくれる子がいるとか言い出したってことは、なに? お前、二股とかかけてんの? 昴の分際で?」

「分際とか言うなよ! 贅沢すぎる状態だってぐらい俺もわかってんだよ! でもだからなんだよ! 一番星が二つあったって、別にいいじゃねぇか!」

 開き直るわけではないが、それがスバルの今の正直な気持ちだった。
 エミリアが好きだ。レムも好きだ。二人はスバルを立たせ、歩かせ、こうして賢一を前にしても、過去の自分と向き合っても、逃げない力を与えてくれた。

 かつてスバルの空を覆っていた満天の星空――そのときに見上げた輝く星々。
 そのいずれの輝きにも負けない強い光を、スバルの頭上で二人が放っている。そしてその一番星の周りには、消えたはずの星たちが別の輝きを放っているのだ。

 それはスバルが、こもりきりだった部屋の外で、思いがけず招かれた世界で必死になって、苦しんで、悲しんで、泣いて喚いて、叫んで怒って、笑って走って、喜んで進んで、そうして得た星空なのだ。

「まあ、いいさ。好きにしろよ。法を犯さないように丸く収まるんなら、俺はそこまで反対はしねえさ。お前も、どうも人たらしの才能があるっぽいしな」

「そんなのあったら高校デビュー失敗してダダ滑りして孤立なんざしてねぇよ。父さんみたいにゃ、うまくやれねぇさ」

「そんなことないと思うぜ? お前、俺の息子なんだし。それにお前、色々と勘違いしてると思うけど、一番ひどいのはそこだな」

「そこ?」

 組んだ腕の上で指を揺らしながら、賢一は首を傾げるスバルに「うん」と頷き、

「お前やお母さんの前じゃこんなに弾けてるけど、父ちゃんちゃんとTPO弁えてはしゃいでっからな? お前の前じゃ常にこんなだからわかんないかもだけど、誰とでも父ちゃんの真似して接してりゃそりゃ引かれるぜ、オイ」

「おい、おい、おい……」

「当たり前だろ? 初対面でこんなテンションの奴いたらちょっと近寄らねえよ。そのあたり、仲良くなるまで襟正しとけよ。ボタン外すのはもうちょい暑くなってから。四月スタートなら六月終わりぐらいまで我慢だよ」

 衝撃の事実。実は父が、接する相手によってちゃんと態度を正す常識人だった件。
 そうとは知らず、普段の父を参考にして、父のように振舞っていればきっとみんなの人気者になれるに違いない! とそう考えた自分の浅はかさよ。

「俺の停滞してた時間はなんだったんだ……」

「まあ、無駄だったと思うこたぁねえよ。実際、それまでがあったから今のお前があるわけだろ。お前が見っけた星ってのは、その時間に見合わないもんか?」

 頭を抱えて後悔するスバルへの言葉。それを受けて顔を上げ、スバルは即座に返答できる。それだけは、絶対に違うと断言できたから。

「――いや、そんなことない。俺はきっと何度チャンスがあっても、今の星空を欲しがって走り出したと思う。だから、今の自分でよかったと思ってるよ」

「そうかよ。……そんじゃま、よかったんじゃねえの?」

 そうやって自分の心に決着をつけたスバルに、賢一が安心したように笑った。
 その笑みを正面で見て、スバルの胸の内で重く固まっていたしこりが音を立てて落ちる。抱えていたスバルの闇が晴れていき、鬱屈とした感情が洗われる感覚。

 ずいぶんと身勝手で独りよがりな感慨ではあったが、スバルは今、救われていた。
 こうして過去に向かい合うことができて、それまでの自分と決別することができて、それまでの自分を抱えたまま、今の自分として歩いていけることに誇りが持てて。
 だから――、

「色々、黙っててごめん。自分でも整理つかねぇ感情だらけで、それで不登校とか迷惑かけちまった。本当に反省してる。本当に」

「気にすんなって。お前が偉大すぎる俺にそんな憧れを抱いてるなんて、そう気付けなかった俺のミスだ。俺の方こそ、お前にとって大きすぎる存在でごめんな!」

「事実なのにもう認めたくない気持ちがすげぇ!」

「はっはっは、そう照れんなよ。お前だって、俺の血が入った俺の息子だ。きっと、俺の半分ぐらいは格好よくなれる逸材だぜ」

「半分だけかよ。世代を経るごとに普通は洗練されてくもんだろ」

「お前の半分はお母さんでできてっからなぁ。俺の格好よさとかけ合わせること考えると、菜穂子の要素の部分はマイナス補正が強すぎる気がすんだよな」

「お母さんごめん、言い返せねぇ!」

 スバルがここにはいない母の弁護ができず、手を合わせて虚空に謝罪する。その姿を楽しげに見ながら、賢一はやれやれと首を横に振り、

「でも、これでちっとは肩の荷が下りた。足踏みしちまったことは仕方ねえとして、こっからだよ、こっから」

「ああ、うん。えっと、迷惑かけて……」

「それをごめんって思うんなら、ちゃんと時間かけて恩返ししてくれりゃいいさ。将来、俺とお母さんをしっかり養ってくれよ、長男」

 ――だから、その言葉をかけられたとき、スバルは動けなくなっていた。

「――――」

 これまでの話を謝罪する覚悟と、今の自分の気持ちを告白する決意はあった。
 それをしっかりとやり遂げて、スバルは長年のわだかまりをようやく溶かして、晴れやかな気持ちで父や母と向き合えるのだと思っていた。
 これまでの自分の全てを話して――。

「――っぐ」

 だから――『これから』の話をされた瞬間、スバルの全身にこみ上げたのは、

「……ご、ごべんなさい」

「昴?」

「ごめ……ごめっ、ごめんなさい……ご、ごめん、ごめん……ごぉべん……ッ」

 困惑する賢一の声が正面からする。だが、その顔が見えない。
 滂沱と溢れ出した涙がスバルの視界を塞ぎ、世界の形を曖昧にしてしまっていた。顔を掌で覆い、流れ出す涙を必死で拭う。しかし、拭っても拭っても、涙があとからあとから溢れてきて止まらない。止まらない。止まってくれない。

「ごめんなざいぃ……俺、俺ぇ……もう、二人に……ごめ、ごめんな、さい……」

 ――気付いていた。
 心のどこかで、スバルはとっくの昔に気付いていた。

 招かれた異世界で日の光を浴び、その眩しさに目を細めたあの瞬間から、まるでそうであると啓示されたようにスバルは知っていた。
 ――きっともう、自分は元の世界に戻ることはできない。

 こうして父に己の心を伝えて、その胸の内に溜め込んでいた暗い感情を告白して、それでもなお許しを得てしまって、歩き出す覚悟を支えてもらって、それだけのことをしてもらって、そうできるぐらいまで育ててもらって。

「それなのに、俺……なにも、返せないまま……きっと、もう会えない……ごめん。ごめ、ごめん。……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 涙が止まらない。その場に、今にも蹲ってしまいそうな激情。
 それでもなおもスバルが立ち尽くし、崩れ落ちないでいられるのは、泣きじゃくるスバルを正面から抱きしめてくれる体があったからだ。

 それは固くて大きな掌で、もうほとんど同じぐらいの背丈になってしまった息子をしっかりと抱きとめて、それなのに子どものように泣きわめく背中をあやすように叩きながら、

「――いつまでたっても、お前は手のかかる息子だよ。まったく」

 そう言いながら、泣きじゃくるスバルをいつまでも、いつまでも、あやすように、愛するように、いつまでも抱きしめ続けてくれていた。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「落ち着いたか?」

「――うん。ごめん。本当に、迷惑ばっかかけて」

「まったくだ。俺のシャツを見ろ。もう鼻水と涙で胸のあたりがカピカピじゃねえか。恥ずかしくってご近所もまともにうろつけねえよ」

 泣き止んだスバルの額を指で弾いて、賢一がゲラゲラと下品に笑う。
 その笑みを泣きはらした顔で見つめるスバル。悲しみと申し訳なさの同居した眼差しに賢一は吐息し、

「お前がなんで泣き喚いたのかはわかんねえけど、恥ずかしいだろうから内緒にしといてやる。せいぜい、俺に感謝しろよ」

「……ああ。感謝してる。本当に、心の底から、この世の誰よりも」

「そこまで言われるとさすがに照れるぜい」

 頬を掻きながら照れ笑いする賢一。その顔を長くまともに見ていられず、スバルは目をそらしてしまう。
 そのスバルに賢一は肩をすくめると、まるで虫でも払うように手を振り、

「そら、泣き虫はとっとと帰れ帰れ。父ちゃんはちっと散歩続けたい気分だから、もうちょい遠回りして帰る。泣いてるお前と一緒に歩いてたら変な噂になりそうだ」

「……いい歳した親子が、なにしてんだって話だもんな」

「まったくだ。今のお前と一緒に帰って、友達に噂とかされると恥ずかしいしな」

「それ、人によっては致命傷になりかねない台詞だから使いどころに気をつけようぜ」

 父の発言に思わず突っ込みを入れてしまって、スバルの心に郷愁めいた痛みが差し込む。それを奥歯で無理やりに噛み殺して顔を背けて、スバルは「それじゃ」とどうにか言葉を吐き出し、

「先、帰ってる。職質とかされないように気をつけて」

「期待されてるとこ悪いが、ここらのおまわりさんは全員顔見知りだ。前振りされても応えられねえよ」

「前振りではねぇよ」

 変わらない賢一の態度。そこにもまた救われた気持ちになってしまい、スバルは変わらない自分の弱さに嫌気が差す。どこまで、他人頼りで守られていれば気が済むのか。度し難い。

 それ以上、賢一の前で弱さをさらしていたくない。
 スバルは一度吐息を鋭く吐いて、それから意を決したように背中を向けて足を踏み出す。いくらか早歩きで、少しでもここから早く消えてしまおうと。

「――なあ、昴」

 その背に、賢一の声がかけられて、思わず足が止まった。

「色々と、お前にもあるんだろうよ。だから、俺から言うことは一つだけだ」

「――――」

「頑張れよ。期待してるぜ、息子」

 期待されて、失望されることが恐かった。
 父の期待を裏切っているのではないのかと、そんな不安がずっとスバルを掴んで離してくれなかった。だから、父の期待はスバルにとって恐怖の象徴で――。

「――ああ、任せとけよ。父ちゃん」

 背を向けたまま、スバルは指を天に突きつけて、

「俺の名前はナツキ・スバル。菜月・賢一の息子だ。――だから、なんだってやれるし、なんだってやってやる。あんたの息子、すげぇんだぜ」

「ああ、知ってるよ。なにせ、半分は俺でできてんだからな!」

 ゲラゲラと、そう言い切って笑う賢一の声が背中に浴びせられた。
 それを聞きながら、スバルの口元にもふいに笑みが浮かぶ。

 背を向けたまま、歩き出した。
 膝は震えない。心も揺さぶられない。ただ、しっかりと前を見て歩き出す。

 ――いつも見ていた背中の持ち主に、これからは背中を見られながら歩いていく。

 それだけのことに、こんなにも力をもらえるものなのだと、そう思いながら。
 スバルは止まることなく、歩き続けていった。

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