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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

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第四章3  『再会とすれ違い』

 ――ゆっくりと、ドアノブをひねる瞬間にだけ息を止める。

 なんとなく、感覚があった。
 こうして気を静めて、屋敷の中をまんべんなく歩き回っていると、ふとひとつの扉だけがやけに意識に引っかかるようなことがあるのだ。
 リビングにエミリアたちを残し、少しだけ時間をもらったスバルは邸内をひとりで散策し、本邸の二階通路に足を踏み入れたところでそれを見つけた。

 辿り着き、ドアノブに触れた瞬間に引っ掛かりは確信へと変わり、扉を押し開く瞬間にはなんの疑問もない。
 『ただ、そこにある』ことだけを受け止めて、部屋の中に足を踏み入れれば、

「よぉ、久しぶりだな」

 以前までとなにも変わっていない禁書庫が、スバルの目の前に広がっている。
 その薄暗い部屋の主である少女もまた、変化のない姿でスバルの正面――椅子代わりにしている脚立の段差に腰掛けて、本をめくっているところだった。

「――屋敷が騒がしいと思っていたら、戻ってきていたのかしら」

 ちらと視線を持ち上げ、スバルをその目に映した少女――ベアトリスがそう退屈そうに呟く。彼女はそれからすぐに興味を失ったように本に目を落とし、

「お前が戻っているということは、にーちゃも戻っているはずなのよ。あの娘と、他の余計な虫もついているのを感じるのが気になるかしら」

「パックはエネルギー充電中なのか顔出してこねぇし、エミリアたんをついでみたいに扱うのは気に入らねぇな。オットーの扱いはこの際無視するけどな、虫だけに」

「やかましいのよ」

 スバルのつまらない軽口にベアトリスは鼻を鳴らし、豪奢なドレスのスカートの中で足を組み替えるような仕草を見せる。それを目にしながら、スバルはゆっくりと禁書庫内を彼女の方へ歩みつつ言葉を作る。

「それにしてもけっこう顔合わせんの久々だよな。前回はペテ……いや、あれはなしだから……王都出発前が最後か。十日ぐらいになるよな」

「まだそんなもんなのかしら。ベティーからしたら、この部屋の中で過ごしているうちは外の時間の経過の大小はあまり興味ないのよ」

「イマイチわからねぇ話だな。あと、人と話すときは本から顔を上げろ。十日ぶりに俺と会えたのが嬉しくて、赤面しそうな気持ちもわかるけどさ」

「今すぐにお前のよく滑る口から血を吐かせて、顔面を蒼白にしてやってもいいのよ?」

 苛立ちを隠さない少女の言葉に、スバルは思わず頬がゆるむのを堪えられない。
 この禁書庫の番人である少女と言葉を交わすとき、スバルはどうしても澄まし顔で強情な態度を崩さない彼女のその表情を壊してやろうと思わずにいられないのだ。
 軽口を叩き、行動でおちょくり、憤慨する様子をさらに煽って、叩き出される。
 そんなやり取りですら楽しんでいる節がある自分。どうして彼女にばかり、こんな感情を抱くのか正しく認識はできないのだけれど。

「お前が戻ったということは、ここしばらくの騒ぎは収まったと見ていいのかしら」

「気付いてた……って、それは当たり前か。エミリアたんとかラムもお前を探し回ったって言ってたし、あとでちゃんと謝っとけよ」

「ベティーが? 謝る? 誰にどうして、そんなことする必要があるのかさっぱり見当もつかないのよ」

 形のいい鼻を鳴らし、ベアトリスは音を立てて本を閉じると脚立から立ち上がる。それから彼女は分厚い装丁の本を本棚に戻し、またすぐ隣の本を引き出そうと背伸びする。なかなか高さ的に苦労する様子を見かねて、スバルは彼女の隣に立つと、

「ほれ、これだろ」

「……その隣かしら。余計な世話を焼くなら、ちゃんと焼き切るべきなのよ」

「感謝のねぇロリだな……おら、落とすなよ。足の甲に落とすとシャレにならねぇ重さだぞ、これ」

 引き出した本はスバルが片手で持とうとして少し驚くような重さだった。気楽な様子で慎重に受け渡すと、手にしたベアトリスは本を胸に抱くように受け取る。ちらと本のタイトルに目を走らせたが、『イ』文字以外が駆使されたそれを読み取る語学力が今のスバルにはまだなかった。

「礼は、言わないかしら」

「ツンデレとか無口キャラの常套パターンの台詞だけどさ、ぶっちゃけ俺はそれ言った時点で『ありがとう』って言ったのとなにも変わんないと思うんだよね」

 少なくとも、礼を言うべき場面であると判断している時点で善性が知れる。スバルの指摘にベアトリスは忌々しげに眉を寄せると顔を背け、スバルはそんな彼女の頑なな態度に頭を掻きながら、

「俺への感謝とかは別に金輪際言わなくてもいいけど、二人にはちゃんと言えよ。二人とも、お前を屋敷に残すのは心配してたんだから」

「心配してくれなんて……」

「頼んでないなんてダサいこと言うなよ。世の中の大半の人間は産んでくれなんて頼んでなくても産まれてるし、心配されたくなくても心配される。……後半は、お前云々じゃなく周りの人がいい人だって話だけどな」

 エミリアとラムの性根の善玉ぶりは言うまでもない。エミリアは普段の素行からして満点であり、ラムは普段の素行は劣等生だがその中身は。
 しかし、ベアトリスはスバルのその丸め込もうとする発言に頷かず、それどころか顔を背けたままで小さく唇を噛むと、

「でも、けっきょくは屋敷を出ていったかしら。……ベティーを置いて」

「なんだそりゃ。まさかお前、置いてけぼりにされたくなかったとか言うんじゃねぇだろうな。扉引きこもりで自分から遠ざけといて、面倒臭いとかいう話じゃねぇぞ」

「扉渡りなのよ。勝手に不本意でくだらない呼び名に改めるんじゃないかしら。……それに、そんな憶測をされるのもベティーに対する侮辱なのよ」

 スバルの言葉を認めず、明後日の方向を見たままのベアトリスは強硬な態度だけを崩さない。その振舞いに普段の彼女とは違う危うさを感じて、スバルは眉根を寄せて途方に暮れてしまう。
 本題に入る前からこうして不機嫌になられていては、切り出すべき話題も切り出せない。かといって、彼女の機嫌を立て直す特効薬の持ち合わせなどないわけで。

「まぁいい。お前がそこまで強情なら、エミリアたんには俺の方からお前が感涙しながらありがとうって繰り返してたって伝えておく」

「捏造するんじゃないのよ。涙なんて、もうずいぶん長いこと流してないかしら」

「なんだ、泣くの恥ずかしいとか思ってる口かよ? ガキのうちからそんなこと考えてると大人になってから感情の出し方わかんなくなっちまうぞ。子供のうちぐらい後先考えないでピーピー泣いとけって」

「好きな女の膝の上でピースカ泣いた男の言葉には含蓄があるのよ」

「それ忘れていただけませんかね!?」

 エミリアも気遣ってか掘り起こさないスバルの黒歴史。
 阿呆のようにタガが外れたテンションで本音を押し隠し、無理を重ねた上でのはち切れそうな堤防を見咎められたときのこと。
 エミリアの膝の上で涙の堤防は決壊し、スバルは異世界に召喚されて以来、溜め込んできた感情を爆発させて泣きに泣いた。

 あの時間を思い出すと、顔が燃えてしまいそうなぐらいに熱くなる。その熱と同じぐらいのものが、胸の奥で確かに輝き出す記憶でもあるけれど。

 頬を掻き、それらの記憶を封じ込めながら、スバルはちらとベアトリスをうかがう。相変わらずつまらなそうな顔の彼女は再び脚立に腰を下ろし、スバルが渡した本を開くと内容にゆっくりと目を走らせ始めた。
 明らかなまでに会話を拒絶する態度だが、それで引き下がってはスバルがここへきた意味がなくなってしまう。

「ともかく、泣くとか泣かないとかは置いといて……聞きたいことがあんだけど、いいか?」

「いいも悪いも、言うだけならお前の自由かしら」

 ページをめくる音をかすかに立てるその応答は、言外に「答えるかどうかはまた別の話なのよ」と示していて協力的でない。協力的ではないが、それでも一応の許可は出たと考える。スバルは「よし」とひとつ頷き、この場に足を運んだ本台を切り出そうとして――。

「――そういやお前、外の騒ぎに気付いてたわりにはノーリアクションだったのな」

 だが、スバルの口をついて出たのは思い浮かべていたはずの内容ではなく、先の会話の焼き直しのような発言だった。
 そのスバルの言葉に、それまで本に目を落としていたベアトリスの視線が持ち上がる。彼女の透徹した眼差しに自分が映るのを感じながら、スバルは小さく息を呑み、

「お、お前が知らん顔してる間、外はけっこう大変だったんだぜ? 得体の知れない連中が屋敷を囲って……」

「やめるのよ」

「王都からからくも援軍を連れ帰った俺がいなきゃ、今ごろどうなってたことか。しかも、俺の方も俺の方ですんなり帰ってこれたわけじゃ……」

「やめるかしら」

「聞くも涙語るも涙、泣きっ面にクインビー的な道のりを越えて……っ!」

 乾いた音が炸裂し、スバルの早口がそこで強制的に途切れる。
 見れば、音の発生源はベアトリスの手元――開かれていた本を思い切り閉じた音だ。そのベアトリスの意図したところを察して気まずげな顔をするスバルに、しかし少女は容赦のない鋭い眼光を向けると、

「とっとと本題に入るがいいのよ。――この弱虫」

「……あぁ」

 否定の言葉は出てこない。
 ベアトリスの言葉は正しく、逃げようとするスバルの弱さを見抜いていた。聞くべき問いかけの答えを恐れて、遠回りしようとするその弱さを。

「お前は……」

 息を呑み、目をつむり、心臓の鼓動に耳を傾ける。
 閉じた瞼の向こうに、微笑む愛しい彼女の姿が見えたから。

「お前は、レムを覚えているか?」

 ――問いかけが音になり、引き返せない現実に弾けた。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 白鯨討伐後の世界で、スバルは一度だけ禁書庫でベアトリスと話をした。

 魔女教から避難させる目的で彼女と言葉を交わし、しかしそれは断られ、最終的に屋敷にひとり少女を残す結果を生んだやり取りだ。
 そのときに交わした内容の全てを鮮明に覚えているわけではない。だが、振り返ってみて気付いた見落としてはいけない事実がひとつだけ確かにあった。

 ベアトリスはあのとき、スバルと一緒に戻ってくるはずのレムの身を案じる発言を一度だけ確かにしていたのだ。

 あの時点で、屋敷に帰り着いた時点で親書は白紙になっていた。
 つまりそれはレムが大罪司教に襲われたタイミングのあとであったことの証左であり、にも関わらずレムのことをベアトリスが口にしたということは――、

「答えてくれ。お前は、この屋敷にいたレムのことを覚えているよな?」

 覚えていてほしいから、覚えているはずだへスバルの言葉の終わりが変わる。
 それは蘇る記憶の中で確信を得たことと、弱気に沈みそうになる心に発奮を促すための強がりであった部分も否定できない。

 ベアトリスは静かにスバルを見ている。
 その瞳に感情が宿らず、なにを考えているのか読み取ることができない。
 普段はあれほど、感情のわかりやすい少女なのに、今この瞬間だけはそれがまったく読み取れない。そのことが歯がゆくて、まるで時間が止まってしまったような感覚にスバルの焦れる心が焼かれていく。

「おい……」

 なぜ、なにも言ってくれないのか。
 知っているでも、知らないでも、どう答えるにしても難しくない質問のはずだ。もちろん、欲している答えはひとつしかない。ベアトリスがレムを知っていると、スバルの問いかけの馬鹿馬鹿しさを笑い飛ばしてくれることを期待している。

 記憶を食われ、名前を呑まれ、世界から失われるなんて馬鹿げた話だ。
 それをスバルと同じように味わって、世界の理不尽さに義憤を感じてくれたらいい。あるいはスバルと彼女だけが共通して抱ける感覚の正体を、一緒に探ろうと思ってくれるならなおのこといい。

 だから、知っていると言ってくれ。
 エミリアのように、クルシュのように、ヴィルヘルムのように、他のたくさんの誰かのように、レムを――あの子を忘れたなどと、言わないでくれ。

 答えが聞きたい。答えが聞きたくない。焦れる心が、矛盾した気持ちがねじれる。
 そして、逡巡に心を激しく揺らすスバルにベアトリスは、

「――答えたく、ないのよ」

 ジッとスバルを見ていた視線をそらし、YESでもNOでもない答えを返した。
 「は」と息が抜けて、スバルは一瞬、思考が止まる。それから慌てて手を振り、

「ま、待て。答えたくないって、どういうことだよ。今の質問は、YESかNOのどっちかしか答えがないだろ?」

「イエスもノーも意味がわからないかしら。それにベティーの答えはそれこそ同じなのよ。答えたく、ない」

「答えに、なってねぇって言ってんだよ!」

 腕を上から下へ振り下ろし、スバルはベアトリスの前に一歩、強く踏み込む。
 脚立に座る少女はその激しい挙動にも目を向けず、固く唇を引き結んでいた。その頑なな態度に、焦燥感で焼かれていた心が燃え上がる。止まらない。

「俺がお前から聞きたい言葉は、そんなんじゃないんだよ!」

「お前が聞きたい言葉を、どうしてベティーが言ってやらなきゃならないのかしら。……あまり騒がないでほしいのよ。書庫が、乱れるかしら」

「お前……ッ!」

 勢い込み、スバルはベアトリスに近づく。
 なおもスバルの方を見ようとしないその顔を、こっちへ無理やりにでも向けてやるつもりだった。面と面を向かい合わせて、どうしてそんな薄情なことを口にするのか問い質してやる。そのつもりだった。なのに、

「――――」

 触れようとした瞬間、ベアトリスがスバルを見た。
 そして、その瞳に揺らぐ感情の波を目にした途端、スバルの手の動きは止まってしまっていた。だって、それはまるで彼女が――、

「お前の今の質問は、『暴食』に喰われた誰かのことを問い質す言葉なのよ」

「――! やっぱり、お前は……」

「こんなこと、暴食の権能を知っていれば見当がつくかしら。ロズワールもにーちゃも、シャウラだって知っていることなのよ」

「ロズ……!?」

 思わぬ名前が飛び出し、スバルの喉が思わず詰まる。
 ロズワールが暴食の権能を知っている――つまり、彼もまたレムを覚えている可能性があるということなのか。いや、それ以前に、

「お前らは、魔女教のことをどれだけ知ってるんだ? ロズワールも、エミリアがハーフエルフだって知れ渡れば魔女教が動くってわかってたはずだろ。なのに、俺が動かなきゃこの屋敷も、村も、どうにもならなくなってた。どうなってる?」

「…………」

「なんの対策も打ってないはずがないって、レムもクルシュさんも言ってた。だけど、俺にはなんの対策も打ってなかったようにしか思えてならねぇんだよ。だってそうでなけりゃ、あんなひどいことになんか……」

「ベティーにはロズワールがどこまで考えていたのか計り知れないかしら。ただ……ロズワールがなにも手を打ってなかったってことはないと思うのよ」

 ベアトリスの言い分にスバルは眉根を寄せ、ペテルギウスとの戦いの最中にロズワールの思惑が働いた部分を見つけ出そうとする。しかし、どれだけ記憶を探っても、思いを巡らせても、そんな場面があったようには思えない。

「思い違い、じゃないのか。もしくは買い被りだ。ロズワールがなんかしてたってんなら、俺があんなに苦労したはずが……」

「お前にわからないのなら、きっと誰にもわからないことなのよ」

 吐息に失望の色を乗せて、ベアトリスはスバルの無理解に落胆を示す。その態度に不愉快さを覚えながら、そもそもの話がずれ始めていたことに気付いた。

「待て、それより魔女教の話だ。お前が魔女教のことを知ってるってんなら、知ってることを洗いざらい話してもらうぞ。大罪司教のことも、『暴食』のこともそうだ。聞きたいことは山ほど……これのことだって」

 次から次へと、ベアトリスが知る立場にあるとわかれば聞きたいことが出てくる。パックにはぐらかされ、聞き出すことのできなかった問いかけ。その答えが彼女からなら、聞き出せるのではないかという希望が。
 懐に手を入れ、引き出すのは黒い装丁の本だ。表紙と、内部をわずかに黒ずんだ血で汚したそれは、数日前の強敵との戦いで得た戦利品であり、

「魔女教の、深い部分にこいつが関係してるってのはわかってる。中身は俺には読めねぇけど、禁書庫の番人って立場のお前ならなにか……」

「――福音」

 そうしてスバルの手の中にある本を見て、ベアトリスが目を見開いた。
 彼女はその桃色の唇をかすかに震わせて、スバルが持つ福音書を凝視している。その表紙に記された読めない文字――それに目を走らせ、信じられない面持ちで、

「どうして、よりにもよってお前がそれを……」

「奪い取った、ってほど欲しい本でもなかったんだけどな。言ったろ。魔女教が屋敷を囲って悪さしてたって。その首謀者から取り上げたんだよ。持ち主は……もうこの世のどこにもいない」

「取り上げた……だって、それは」

 ベアトリスが声を震わせ、スバルの持つ福音書に手を伸ばす。
 細かに震えるその指先に戸惑いつつも、スバルは彼女の手にその福音書をおずおずと手渡した。受け取り、彼女は指先で表紙をなぞるように文字を確かめ、

「これの持ち主は……死んだって、言ったのかしら」

「……ああ。死んだよ。車輪に噛まれて……俺が殺したんだ」

 結果を見れば、ペテルギウスの殺害はスバルが直接手を下したわけではない。
 だが、そうなる切っ掛けも、そうなるだろうという覚悟も、全てはスバルの行いの延長線上にあった避けられない現実だ。
 スバルはペテルギウスを殺そうとした。命を奪わなければ、あの男と雌雄を決することは絶対に叶わないのだと魂が理解していた。

 故に、スバルはペテルギウスを殺す『意思』を抱いたことになんの疑いもない。
 躊躇がなかったとも、手を汚したあとで後悔がなかったとも言わない。誰に強がることもしなかったのだから、自分の心にぐらいは嘘はつかない。
 殺したことも、殺されかけたことも、忘れまい。
 あの男の奪った命を背負って生きる――などと、センチメンタルなことも言わない。
 ペテルギウスは死ぬべき存在で、スバルもまたそう信じて奴を殺した。
 それだけの話だ。

 しかし、スバルの万感を込めた一言に対し、ベアトリスからの反応はない。
 彼女はただ静かに「そう……」とだけ呟き、相変わらず福音書に目を落としたまま、

「お前も、ベティーを置いていったのかしら、ジュース……」

「――? 誰だって?」

「お前が知る必要はないのよ。それより、『怠惰』を殺したのがお前だっていうなら魔女因子はどうなったのかしら」

「魔女、因子……?」

 ベアトリスの問いかけに、スバルは眉間に皺を寄せて首を傾げる。
 そのスバルの態度にベアトリスは怪訝な顔をして、スバルの表情から感情を探し出そうとでもするように目を細めた。だが、スバルの方にはそんな目で見られるような心当たりがない。苛立ちを舌打ちに乗せ、

「事情通がなにも知らない奴に専門用語ちらつかせてんじゃねぇよ。なんなんだ、魔女因子ってのは。聞くだにいい印象がねぇぞ」

「知らない……? まさか、本当に? それなら、お前はいったいなんのために『怠惰』を殺したっていうのかしら。意味がわからないのよ」

「降りかかる火の粉を払っただけだ! お前はなにが言いたいんだよ!」

 噛み合わない会話に痺れを切らすスバルだが、勢いの増すスバルと対照的にベアトリスの態度は静寂に近づき始めている。考え込むように唇に手の甲を当て、受け取った本の中には目を向けずに表紙だけをジッと見つめ、

「こんなこと、知らない。……ベティーの判断できる領分を越えているのよ」

「なにを勝手に納得して――うおっ」

 首を横に振るベアトリスが、訝しむスバルの方へ唐突に福音書を投じる。
 投げ込まれたそれを慌てて受け取り、スバルは安堵の息を漏らしてから、

「急になにしやがる。危ねぇ本だなんて言わねぇが、不気味な本には変わらないんだぞ。もっと丁重に扱え!」

「――それはお前が持っておくのが正しいかしら。魔女因子がなにを選ぶのか、選らばないのか。どちらにせよ、いずれ選択は迫られるのよ。そのときに少しでも、それがお前の判断材料になるのなら、ジュースも浮かばれるかしら」

「飲み物が浮かばれるってなんの話だ! お前は俺に……っ」

 なにひとつ、判然としない内容にスバルは縋りつくように言葉を振り絞る。だが、言葉を言い切る前にスバルの背後に違和感が生じた。
 ――それは、空間が超常的な力によってねじ曲げられる音だと、スバルには本能的に察することができた。そう察せた理由はわからないままだったが、

「俺を追い出す気かよ。まだなにも聞けてねぇってのに……これで俺が引き下がるだなんて、本気で思うのか!?」

「お前が聞きたいことを、聞きたい言葉を、どうしてベティーが話してやらなきゃならないのかしら。身勝手を……傲慢に振舞うのはやめてほしいのよ」

「ごうま……! ――知ってることを、話してくれりゃいい! それ以上を俺は望まない! だから、お前の……」

「――ベティーは」

 後ろ髪を引かれる――それは慣用句的な意味合いではなく、文字通りの物理的な力でもってスバルの肉体を背後へ引き倒そうとする。
 空間が歪む――首だけ後ろへ向けてみれば、いつの間にか閉じていたはずの扉が開かれて、真っ暗な空間がスバルを呑み込もうとしているのがわかった。

 風が吹いているわけでも、ましてや手足を引かれているわけでもない。
 だが、言葉にできない圧迫感が正面から全身に圧し掛かり、目には見えない引力が背後から手足を掻き抱くように連れ去ろうとする。
 ――あまりにも強制的な、『扉渡り』の真骨頂。

「ベア子……ベアトリス!」

「出ていこうとしてるのはお前の体、お前の心なのよ」

「なにを――」

「答えを聞きたくない心が、現実から目をそらしたい弱さが、自分の罪を見つめたくない利己心が、この禁書庫からお前の体を遠ざけるかしら」

 バカなことを、と反論したくても声が出ない。
 答えを恐れていたのも、戻ってくるかもしれない現実にビビっているのも、全てを拾い切れなかった己の罪を償いきれないのも、全て自覚していたことだったから。
 それでも、

「俺は――」

「ベティーは……お前の都合のいい、道具じゃないかしら」

「――!?」

「お前が聞きたいことを、聞きたいときに、聞きたい言葉で、聞きたいように、聞かせてやるような……そんな都合のいい存在じゃ、ないのよ」

 絞り出すようなベアトリスの言葉に、スバルは二の句が継げなかった。
 それは図星を突かれた、だなんてことではなく、まったく意図していないところから殴りつけられたような驚愕からだった。
 そして生まれた虚は、そこで立ち止まっていたスバルの体の抵抗を滑らせ、

「しま――っ」

 そのまま、背後の扉に吸い込まれるようにスバルの体が扉を渡る。
 渡ってしまえば、禁書庫から追い出されてしまう。すんでのところで扉の端を掴み、スバルは半ば投げ出されながらも踏み止まった。
 息を吐き、歯を食い縛り、前を見る――正面に、悲しげな顔の少女がいて、

「お前の知りたいことはロズワールに聞くがいいかしら。――にーちゃもベティーも、お前になにも話さないのよ」

「……なんでお前、そんな泣きそうなんだよ」

 スバルの最後の問いかけに、ベアトリスは目を伏せることでなにも応じない。
 そして、伸ばされる少女の指先が扉を掴むスバルの指にかかり――それを外した。

 吸い込まれる。投げ出される。締め出されてしまう。
 扉から、禁書庫から――ベアトリスという少女の、心から。

「――――」

 後ずさり、扉から吐き出されるように廊下へ飛び出す。
 目の前でスバルを追い出した扉が乱暴に閉まり、それを見てすぐにスバルは扉に手を伸ばしたが、もう遅い。

「あのドリルロリ……」

 開いた扉の向こう側は禁書庫ではなく、使われていない客間の一室となっていた。
 ぐるりと視線を巡らせて邸内を見やるが、禁書庫に繋がる第六感に引っかかるような感覚がなにも感じられない。――今日はもう、彼女に会えない。
 そんな確信だけがすとんと、スバルの胸中に落ちてきていた。

 聞きたいことも、知りたいこともなにひとつ聞き出せず、スバルは思わせぶりな少女の言葉に振り回されて、なにも得られないで摘まみ出された。

「なんなんだよ。知ってることがあんなら、話してくれりゃいいじゃねぇか、ケチなガキめ。不貞腐れて引きこもるとか、お前はどこの菜月さん家の長男だよ」

 先ほどまで禁書庫と繋がっていたはずの扉を蹴りつけて、スバルは長く息を吐く。
 頭を振り、脳裏に浮かぶ映像を振り切ろうとして――最後、別れ際に見せたベアトリスの表情が振り切れない。
 だって、あのときの彼女は確かに、

「あんな泣きそうな顔して、ひとりで閉じこもってんじゃねぇよ。バカ」

 そんな顔をさせてしまったのが自分だと思ってしまったら、こんなになにもうまくできなかったそれを、彼女のせいにできなくなってしまうのだから。

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