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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第三章 再来の王都

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第三章83 『答え合わせ』



 ――竜車の速度が上がり、ひどい揺れと風の音が荷台の中に響き渡っていた。

「わ――!」

「大丈夫、しっかり掴まっていて。なにも恐がる必要なんてないから」

 身を寄せ合い、揺れに耐えしのびながらエミリアは気丈に微笑んでみせる。その微笑を見て、不安げに瞳を曇らせていたペトラが唇を噛み、「うん」と頷く。
 強い子だ、とエミリアは少女のその態度に力強さを感じる。周りの子どもたちも年長の少女の強さに従うように、塊を作りながら歯を噛んで恐怖を堪えているのが見てとれた。

 どの子もみんな強い。不安と恐怖できっと今にも泣き出してしまいそうな心境だろうに、誰もその弱さに屈することなく声を押し殺して心を保っている。
 そんな子どもたちの強さを目の前にしているからこそ、エミリアもまたみっともない姿は見せられないと己を保っていられるのだ。

 本来、走る竜車は地竜による『風除け』の加護で守られているはずである。『風除け』の加護は地竜が伴う竜車にも適用され、その庇護下にあるものを外部からの影響――風や揺れなどの抵抗力から守るようにできている。
 だが、今のこの竜車はその『風除け』の加護から外れており、中にいるエミリアや子どもたちにはダイレクトにその移動の負担が圧し掛かってきていた。

 加護が外れた原因は単純に、この竜車が一度停車したことが原因である。
 地竜の『風除け』の加護は地竜の走行が前提条件であり、走行中は延々と展開されるタイプの加護に当たる。しかし、一度走行が止まれば加護の効果は途切れ、再度の展開にはしばしの時間を置くという欠点があるのだ。

 そうした経緯から、一度停車した竜車が走り出すためには、再び加護が展開できるだけの時間を置いてから再出発するというのが常識であるのだが。

「――――ッ!」

 その停車時間すらも惜しんで駆け抜ける竜車には、その常識を守るだけの時間が残されていなかった。
 エミリアは握られた手の温もりを強く握り返しながら確かめて、じっと顔を上げて竜車の外――幌の向こうの状況に耳を澄ませる。

 エミリアたちの乗り込む竜車はもともと行商に用いられていたものであり、御者台を除いた荷を積む荷台側は当然ながら乗り心地などを考慮されていない。積み荷の劣化を防ぐために幌で守られた荷台には小窓のようなものもなく、日差しの差し込まない車内には持ち込んだラグマイト鉱石の淡い輝きだけが光源である。
 毛布を重ねて下に敷き、簡易的な座席を作った上に全員でひと塊になって座っている状況だ。乗員はエミリア以外に子どもが七名、あとは御者をやってくれているのが村の青年団の若者である。

 竜車はエミリアたちの乗り込むこれを先頭に、他にも村人と行商人を乗せたものが四台ほど続いており、それを地竜に単独で跨る騎士が護衛する形であった。
 領内に出た山賊から身を守るため、避難という名目で村を出てから二時間――それまで穏当だった事態が急変したのは、ほんの十数分前のことである。

 森に潜むという集団を刺激しないよう、竜車の群れは出来得る限りの隠密性を重視して屋敷と村をあとにした。全体で十二組に及んだ避難竜車は途中、王都組と聖域組の二手に分かれて行動することになり、ほんの小一時間ほどで聖域組を先導するラムたちの竜車とは道を違っている。
 それからの一時間、外の様子は見えないながらも、街道を進む竜車の道のりはそれなりに平穏だったはずなのだが、

「――エミリア様、少々お時間をいただきたく」

 背に当たる軽い感触に、エミリアは竜車が停車した事実を知る。
 と、それがどういうことなのかと疑問に思うより先に、竜車の後方の幌をまくって白髪の老人が顔を覗かせていた。

 ヴィルヘルム・トリアス、と名乗ったその老人はクルシュ陣営の騎士であり、温厚そうな微笑みを浮かべるその人物の技量が卓越したものであることは、未熟ではあるものの戦いを知るものとして肌で感じることができた。
 それだけに、この人物と接するときにはエミリアは不要な緊張感を抱かずにはいられない。このときも、声をかけられた相手を目にして応答するのが一歩遅れる。

 「はい」と短く答えるのに一拍を要するエミリアに、老紳士はしかしそこを言及しないまま小さく頷くと、

「少しばかり気掛かりが生じました。そのため、騎士を数名連れて『見回って』おかせていただきたく。その許可をいただければ」

「見回り……ですか?」

「ええ、『見回り』です。さして時間をかけはしません。すぐに追いつき、合流するつもりです。よろしいでしょうか?」

 恭しく腰を曲げてのヴィルヘルムの物言いにエミリアは思案。
 『見回る』という老人の言に違和感があり、そしてエミリアはすぐにそれが自分の周囲にいる子どもたちに配慮してのことであると気付いた。
 直接的な言葉を用いず、エミリアたち護衛対象だけを先に行かせる選択をするヴィルヘルム。戦力を連れて『気掛かり』とやらへ向かうとなればそれは、

「私は……」

「――――」

「私は、必要ありませんか?」

 その問いかけを発することは、その気遣いに対する無礼だとわかっていても口にせざるをえなかった。エミリアのその言葉を聞き、ヴィルヘルムが目を細める。予想された類の反応であった。しかし、

「エミリア様はこのまま竜車で避難を。子どもたちをよろしくお願いします」

 口元を綻ばせ、エミリアを見るヴィルヘルムの双眸にはエミリアの予想した負の感情の色は見当たらなかった。あるのはただ、手のかかる子どもを見守るような大らかな慈しみの輝きだけであり、それに気付くエミリアを困惑させた。

 その困惑の理由を追及させないまま、ヴィルヘルムは幌から手をのけるとこちらに背を向けて、

「停車してしまいました故、道中はかなりの揺れが予想されます。どうぞ、子らの手を離さぬようお願いします」

「あ……」

「やはり主従なのでしょうな。――あなた様の目は、彼とそっくりです」

 感慨深げな呟きを最後に、ヴィルヘルムの姿は幌に遮られて見えなくなる。
 その呟きの意味がわからずにエミリアは眉を寄せたが、すぐに竜車の動き出す気配がしてそれどころではなくなった。

 そうして、激しい揺れと風の音に振り回される状況に投げ込まれ、子どもたちと身を寄せ合って固まる現状へと話は戻ってくるのである。

 ヴィルヘルムが数名の騎士を連れて竜車の列を離れ、避難組の護衛には二人の騎士が残っているのみ。先頭を行くこの竜車と同様に、後続の竜車に乗る村人たちも同じような衝撃に――つまりは不安に揺られているのがエミリアにはわかった。
 外の様子は見えないが、彼女にはそれを知る手段があったのだ。それは、

『後ろの方でお爺さんたちと誰かがぶつかったね。戦いになってる』

『数とかはわかる?』

『こっちが八人の、敵が十六人……ちょうど倍だね。でも、問題はないと思うよ? あのお爺さん、冗談じゃなくスゴ腕だったから』

 冗談めかした思念を飛ばしてくるパックに、エミリアは顎を引く動作で応じる。
 今のは実体化していないパックとの思念による会話であり、大気に満ちるマナを通じてパックには外の状況がある程度把握できているのだ。彼を通じてエミリアは外の状況を知り、事態の把握に努めているという構図である。

 高位精霊に当たるパックの存在は、実は実体化させているだけでもかなりのマナの浪費を招く。戦闘に入ればそのマナの消費量は倍増し、長時間その存在を維持するのはエミリアであっても至難の業だ。
 故に現状、差し迫った事態であることも加味して、パックの姿は今は依り代である結晶石の中に封じてある。有事の際、全力で振舞う余力を残すためだ。

『まぁ、子どもたちの前に無防備に飛び出して、オモチャ代わりにされるのを防ぐためって意味もあるけどね』

『パックって子どもが好きそうな見た目してるから、不安そうな子たちの気持ちがやわらげられるならそれもいいかもしれないけど』

『恐いこと考え出すなぁ、ボクの娘。ともかく、外はそんな感じだよ』

 エミリアの軽口――この場合、軽思念とでもいうべき内容にパックがそう応じ、エミリアは「ええ」と内心で頷きながら、己の無力さに唇を噛んだ。
 助力を申し出たエミリアに、その意図を察していながらヴィルヘルムは拒否の言葉を選んだ。それは彼女の実力不足を示しているのではなく、もっと正しくは信頼不足を意味するのだろう。
 好意的に振舞っているヴィルヘルムであっても、エミリアの立場を考慮するのであれば軽々しく彼女の提案を受けるわけにはいかない。同盟関係にあるとはいえ、エミリアと彼らの主は最終的には政敵になる間柄だ。互いの間に純粋に友好的な関係を結ぶことの難しさは、図らずとも理解させられてしまった。

 今はその立場という枷が邪魔で仕方がない。
 その立場に見合った能力を持つわけでもなく、権威を振るえるわけでもない。お飾りであると内外にも知られているし、事実ふさわしいとはお世辞にも思えない。
 そんな足枷のせいで行動の自由を制限され、今もこうして震える手を差し伸べる子どもたちの力になることもできないでいる。
 こんなことではいったい、なんのために自分は――。

「――スバル」

 小さな声で少年の名を口にしてしまった瞬間、エミリアは自分の度し難さに気付く。その名前をこの状況で呼ぶことの浅ましさと、その資格を自ら投げ出したことの愚かしさに目の前が暗くなる思いだった。

 置き去りにしてしまった少年に、窮地に追いやられてまたしても縋ろうとする自分の弱さと浅ましさ。あれだけ自分の行いのために彼を傷付けて消えない傷を残し、心まで抉って遠ざけておきながら、どうして自分が彼の名を呼べよう。
 今の自分に彼の名前を呼ぶ資格があるとすれば、彼の名前を呼ぶことが許される場面があるとするならばそれは――、

「みんな大丈夫だから、心配しないで! なにがあっても、お姉ちゃんがみんなを守ってあげるから!」

 あの少年のように、誰かを守ると心に決めて動けるそのときだけだろう。
 エミリアのその呼びかけに、小さくなって手を繋いでいた子どもたちが顔を上げる。彼らの瞳には涙が溜まり、不安に震えていた唇を噛みしめていた表情があった。しかしそれはエミリアの紫紺の双眸を見た途端にどこかへ引っ込み、彼らは互いに頷き合うと声を揃えて、

「だ、だいじょうぶー!」「お姉ちゃんの方こそ、しんぱいしないで!」「や、約束したからへっちゃらだし、ぜったい手を離さないから」

 強がりとすぐわかる声を出して、子どもたちがエミリアの全身に縋りつく。指や手首、肩や腰にまで縋りつかれ、他者の体温をこれだけ多く感じる経験がなかったエミリアは驚きに身を固くする。だが、決して嫌な感覚ではない。
 ただ、彼らの言葉になぜか言葉にし難い違和感だけがあって、

「約束って……誰かと、約束をしたの? なんて?」

「お姉ちゃんを離さないでって」「一緒にいてあげないと無茶するからーって」「誰かが見ててあげないと、心配なんだって」

 次々に返ってきた答えにエミリアは驚き鼻白む。その言葉に変な反抗心を覚えつつも、しかし子どもたちがいなかったら事実どうしていたかわからない自分に口をつぐんだ。それもまた、ラムの言いつけだったりするのだろうか――ただ、そんな時間が彼女にあっただろうかと思う。それに、その言い方はまるで。

「――――」

 そこまで考えたところで、妙な予感にエミリアの胸がかすかに疼いた。
 一度気付いてしまった疼きはその主張を加速度的に強めて、戸惑いに瞳を揺らすエミリアの忍耐を削り取っていく。
 考え込むように口を閉ざし、それからエミリアは唇を舌で湿らせる。思った以上に渇いていた唇が潤いにゆるむと、吐息とともに彼女は問いを投げた。

「私を心配だって……誰に言われたの?」

「あ、ダメ、それは……っ」

 その問いかけに表情を変えて、とっさに言葉を遮ろうとしたのはペトラだ。彼女は肩までの赤みがかった茶髪を揺らし、エミリアに縋って止めようとしたが、遅い。

「スバルー!」「スバルが言ってたー」「さびしがりのおねえちゃんが心配だってー」「スバルが……あ、これって言っちゃダメだったんじゃ……」

 子どもたちが我先にとばかりにその名前を出し、最後の子が失言に気付いて口を押さえたところで全員が気付き顔。ペトラが掌を顔に当てて「あちゃー」と呟き、何度も飛び出した名前にエミリアは目を瞬かせ、

「すば、る……?」

 予感はあった。子どもたちの口ぶりに、エミリアは彼の姿を回想した。
 でも、そんなはずはないと否定の気持ちが先走った。だってエミリアは彼をとてもひどい言葉で傷付けて、あの王城へ置き去りにしたのだ。
 彼が一番、きっとエミリアの手を差し伸べてほしいと思っていたあの場所で、エミリアは彼に差し出す手を引っ込めて背中を向けた。一番肝心な場面で、一番縋るものを求めていた彼を自分は拒絶したのだ。

 その彼の名前がどうして、この一番自分の無力さが恨めしいときに出てくるのか。
 そんなことはあってはならない。そんなことはあるはずがない。

 エミリアの人生は期待とは無縁の人生だった。
 期待すれば裏切られ、希望はあっけなくすり切れて輝きを失う。数々の経験を経て、エミリアはその悲しい現実を仕方ないと受け入れるようになった。
 故に彼女は周囲の人々へ期待を抱くことを本能的に恐れている。そうしたいと思う場面でも、恐れが先立って手を広げることができない。

 遠ざけられること、遠ざかられること、それは彼女にとって当たり前のことで。
 近づかれること、求められること、それは彼女にとってあり得ないことで。

 だから親しげに振舞い、全てをなげうとうとするスバルのことも拒絶した。
 信じられなかった。彼の行いや態度や言葉ではなく、それを受け止める自分の心のありようが信じられなかったのだ。
 期待して、期待して、期待して、積み重ねたものを崩されるとき、エミリアは身を切られるよりも辛い思いに打ちのめされることになる。

 それを恐れる気持ちが、彼女にスバルと向かい合い続ける時間を拒絶させた。
 いつか遠ざけられるぐらいなら、自分から遠ざかってしまった方がいい。

 二人の間になにか、決定的なものが積み重なって、それが崩れ落ちる前に。
 それなのに、どうして――。

「スバルが、村にきてたの? 戻って、きてたの?」

 子どもたちが気まずげに押し黙る中、エミリアの唖然とした呟きだけが漏れる。
 いまだに竜車は疾走を止めておらず、その原因も振り切ったわけではない。子どもたちを不安から解き放つことはできず、なのに自分はその場から動けなくて。

 そんな状況の真っただ中で、聞いてしまった名前に心がひどく揺さぶられる。
 子どもたちの無言は、それだけで彼女の今の問いかけを肯定してしまっている。

 彼が――スバルが村に戻っていて、この避難行動にも関わっているのだとすれば様々なことの合点がいってしまう。
 村から離れられなかったはずなのに、奇妙なぐらいに討伐隊と話を通じ合わせていたラム。不安と不満の募る日々に緊張感が高まっていたはずの村人たちが、この避難に難色を示さずに従ってくれたわけ。討伐隊の面々だって初めて訪れた土地で、そこに住まう人々と軋轢を生まずにこんな状況を簡単に作れるはずがなかった。

 そんな数々の難点が、その少年というピースをはめることでクリアされていく。

 討伐隊を率いて戻ったのがスバルであったなら、ラムだって彼らとの交渉に先入観を抱かずに臨めただろう。村人も多大な恩のあるスバルの提案なら受け入れる姿勢を示すだろうし、その彼が連れてきた討伐隊を無碍に扱うはずもない。
 なにより討伐隊とともに村に残り、脅威を引きつけて村人やエミリアを逃がす姿勢など、考えてみればあまりにも彼らしい。彼らしすぎる。

 それはエミリアの知る、ナツキ・スバルらしすぎる行いだったから。

「どうして――」

 漏れた呟きは悲壮な色で染められており、紫紺の双眸が感情の震えに淡く揺れる。
 これらの行いがスバルの行いであるのなら、それはあまりにこれまでの彼の行いと変わらなすぎる。あれほど傷付け、遠ざけ、それでもなお、スバルのままで。

「あんなに傷付けて、あんなに苦しめて、あんなに悲しい顔をさせたのに……どうしてまた、スバルは私を……」

 助けてくれようとするのか、わからない。
 王選の場で、練兵場で、身も心もどん底まで落ち込んだスバルに投げかけた問い。

 あのとき、スバルはエミリアに答えを返してくれなかった。
 返ってきた答えは意味の通じるものでなく、言い変えようとした言葉は呑み込まれて吐き出されることはなく、エミリアと彼の別離を招く結果になった。

 問いを差し出し、しかし答えは戻ってこなかった。
 だから今も彼女には、その答えはわからないままだ。

 わからないまま終わってしまうことが、二人にとって正しいのだと信じたのに。

「どうして……!」

「そんなこと……っ」

 エミリアの喉を詰まらせたような言葉に、顔を赤くしてペトラが唇を曲げる。エミリアの問いかけの答えが、まるでわかっているような少女の態度にエミリアは縋るような眼差しを向ける。だが、二人が口を開くより前に、

「――ッ!?」

 凄まじい勢いで竜車が蛇行し、中にいたエミリアたちの体も盛大に振り回される。とっさに壁を掴み、反対の手で傍らのペトラをエミリアが抱きしめる。そのペトラがすぐ隣の少年の抱き、その連鎖が続いてかろうじて全員の体が繋がれた。
 しかし、安堵を差し込む暇もなく、竜車はなおも蛇行を続けている。それはまるでなにかから逃れるような動きであり、

『リア、後ろからスゴイ速度で誰かがくる――!』

『――!!』

 パックの警戒を促す声に顔を上げ、エミリアは顔を後方へ向ける。
 風にはためき、ちらちらと外が見え隠れする幌の向こうに――この蛇行の原因、追いすがるなにかの姿があるのだ。

 迎撃を、とエミリアはとっさの判断で動こうとする。だが、立ち上がろうとする彼女の体は軽い重みに引き止められて動けない。
 視線を落とし、彼女は見る。すぐ側に丸まって、自分の服の裾や手から絶対に手を離すまいと、懸命な顔でこちらを見上げる子どもたちの姿を。

「離さない!」「行っちゃダメー!」「約束、守るの!」

 子どもたちがしっかりとエミリアを掴んで離さない。
 振り払おうと思えば振り払えるだろう拘束を前に、エミリアは動くことができなかった。その彼女の顔を見上げて、ペトラが泣きそうな瞳を大きく開き、

「今度はお姉ちゃんが、スバルを泣かせるの!?」

「――!?」

 その叫びに激震が走り、今度こそエミリアは動けなくなる。
 そして彼女の身じろぎが停止した瞬間、激しい音を立てて竜車が横滑りに止まる遠心力が襲いかかった。
 急制動に旋回する荷重がかかり、軽い体が子どもたちを引き連れたまま浮いて振り回される。が、乱暴に床に叩きつけられる状況だけは敷いていた毛布によって回避。衝撃に呑み込まれながら、顔を上げたエミリアは頭を振り、

「いったい、なにが……」

「リア! すぐ後ろにきてる!」

 緊急事態に実体化したパックが宙に浮き、傾く車内で後方を指差す。その声と動きに従ってエミリアは首を巡らせ、とっさに子どもたちを背後に庇って幌を見る。
 魔力の渦が彼女を中心に高まり始め、冷気が狭い竜車の中をゆっくりと冷やしていく。そして、誰かが駆け寄る気配がして幌がめくられる。
 そして詠唱を口走ろうとしたエミリアの顔が、呆気にとられた。

「どう、して――」

 荒い息をつきながら、肩を上下に揺すってひとりの少年が竜車に上がり込んでくる。その姿に、困惑に、エミリアの紫紺の瞳が激しく揺れる。
 唇を震わせて、状況も忘れて、エミリアはか細く弱々しい声で、その名を呼んだ。

「――スバル」

 その名前を、呼んだ。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――思い返せば、ひどい出会いだったなとスバルは思う。

 異世界召喚されて小一時間、右を見ても左を見てももっかい右を見てもなにもわからない状況に放り込まれて、文字通りに途方に暮れていた自分。
 路地裏に入り込んで、そこでまんまとスバルのような弱者を食い物にするチンピラと遭遇し、あわや異世界トリップ数時間で命を落とす寸前までいった。

 袋叩きにされて、埃と泥塗れになった状態で、もう今にも殺されそうな場面で、スバルはその銀色の輝きに出会ったのだ。

 あのときの彼女の言葉を、振舞いを、気高さを、スバルはひとつ残らず覚えている。

 それがずっとずっと、ずっとずっとずっと、忘れられないから今も、ナツキ・スバルはこうしてこの世界で二本の足で立って生きていられるのだ。

「ナツキさん、あれ!!」

 ペテルギウスの執念の猛攻を断ち切り、リーファウス街道を駆け抜けるスバルを乗せた竜車――見渡す限りの草原の中、視線を走らせていたオットーがスバルを高い声で呼んでいた。
 彼の叫びと視線につられてそちらを見れば、遠く地平線を掠めるような位置にわずかに蠢く影がぼんやりと浮かんでいるのがわかる。
 目の錯覚とは明らかに違う、確かな存在を確かめてスバルは拳を固め、

「あそこだ! オットー! 全力で頼む!」

「言われなくとも、全力ですよ!」

 手綱が振られ、渇いた音が響いて二頭の地竜の嘶きが上がる。
 漆黒の地竜は真っ直ぐに前を見つめ、引っ張る竜車に立つスバルの意を叶えんと全力を振り絞ってくれているのがわかった。


 最初の出会いに救われて、彼女の探しものに付き合ってしばしの探索。役に立たないスバルをそれでも置き去りにせず、自分のことでいっぱいいっぱいだっただろう彼女はスバルも自分も諦めたりすることがなくて。
 意地っ張りで、強がりで、意固地で、優しいのだとスバルは知った。

 そんな彼女の隣を歩きながら、柄にもない気恥かしさと胸の高鳴りを感じていたことを覚えている。
 そしてそれらの甘い感情が、自分の度し難い行いで台無しになったことも。

 腹を裂かれ、血の海に沈み、激痛の熱さと出血の寒さに意識が奪われる感覚。
 それなのに彼女の声と、その彼女の体が引き裂かれた瞬間だけはなにに代えても忘れられないほど心に強く刻み込まれていて。

 あのときに誓ったのだ。スバルは確かに、誓ったのだ。

『俺が、必ず――お前を、救ってみせる』と。

 その誓いを守るために奔走した。死を積み重ねて、運命を切り開き、どうにか苦しみを乗り越えた先で、スバルは彼女と出会い、彼女を救い、笑顔を得た。
 あのときの胸を打つ、万感の思いをスバルは永遠に忘れまい。


 正面、地竜の疾走にぼやけていた光景が像を結び始める。
 それは黒づくめの集団と、地竜にまたがる騎士たちとの戦いの情景だった。すでにいくつもの屍が地に倒れ伏しており、その側を凄まじい勢いで飛び回るのは、

「――ヴィルヘルムさん!!」

「スバル殿!?」

 駆ける竜車からのスバルの呼びかけに、単身でひとりの魔女教徒を斬り捨てたヴィルヘルムが驚きの声を上げる。
 彼は血に濡れた剣を払い、スバルの出現にもの問いたげな顔をしたが、

「エミリアは!?」

 続くスバルの叫びと、その表情に満ちる切迫感を悟ると即座に疑惑を投げ捨てて、剣先でさらに進行方向の先を示し、

「この先へ! 真っ直ぐに! 大樹の方角です!!」

 顔を上げ、スバルはさらに地平線の向こうを見る。
 気付けばリーファウス街道はすでに半ばを越えて王都側――白鯨との決戦を迎えたフリューゲルの大樹の付近にまで到達していた。
 頷き、速度を落とさないままスバルはせめぎ合うヴィルヘルムたちの戦場を一気に通過する。足を止めて、彼らの無事を問うことはしない。そんなことは彼らの奮戦に対する侮辱であるし、なによりスバルは別れ際に交わすべき言葉は交わしている。

 スバルはヴィルヘルムに、エミリアたちのことを頼むと任せた。ヴィルヘルムはそのスバルの頼みに、任せろとそう応じたのだ。

 故に、ここでスバルが足を止める必要も、ヴィルヘルムがスバルに多くを問いかける必要も互いにない。
 視線の交わりすら一瞬で済ませて、スバルたちの竜車はヴィルヘルムを置き去りにする。

 竜車の唐突な出現に魔女教徒は足を止め、数名がその後ろを追おうと地を蹴る構えを見せた。――だが、

「貴様らの相手はこの私だ」

 不用意な隙を見せた二人の黒装束が、真後ろから迫った剣鬼の刃に斬り捨てられる。血飛沫を浴びる剣鬼は半身を血に染めて、遠ざかる竜車の背を満足げに見送り、

「恩人に恩を返す絶好の機会。そしてそれを言葉にせずとも、頼み込んだ本人もわかってくれている幸い。――なんと、光栄なことだろうか」

 主から預かった宝剣を右手に、ヴィルヘルムは部下が投じてきた騎士剣を左に受け取った。両手の剣を交差するように構え、刃の輝きの下から眼光が敵を射抜く。

「男が女に会いに行くのを、誰に邪魔されてたまるものか。貴様らも私も、再会の場面に居合わせるには血生臭すぎる。――全員、屍をさらして終わるがいい」

 その死刑宣告に、感情をなくしたはずの魔女教徒たちが体を強張らせる。
 張り詰めた緊張感の中を、口に笑みを浮かべた剣鬼が前傾姿勢で駆け込んだ。その笑みは血を浴びることを喜ぶ悪鬼のもののようであり、若かりし頃の自身の過ちに苦笑する老人のようでもある、複雑なものであった。


 ――異世界で生きていくことになると、本気で思うようになった日のこと。

 彼女と再会し、新しい顔ぶれとも出会い、スバルは自分の生きる場所を見つけた。
 彼女の傍で、彼女の力になり、彼女のためになにかしながら生きていければ、未来のことは見えなくともそれで満足していられた。

 その日々が唐突に罅割れて、絶望に打ちひしがれる時間が繰り返す。
 信じていたいと思った人たちがいて、その人たちを守りたいと思って無理をして、それなのに信じてもらえない苦しみがあって、なにもかも投げ捨ててしまいそうになって、そんな弱い自分を受け止めてくれたことがあった。
 救われて、守られて、格好悪いところを散々見せて、それでようやく立ち上がる。
 立ち上がって駆け回って、傷付いてやり直して、気合いを入れて理想を望んで、日々の幸いにスバルは再び出会い、同じ時間を彼女と祝福して過ごした。


「ナツキさん、見えました! 避難の竜車、あれでしょう!」

「ああ――間違いない!」

 戦場から全力で遠ざかりつつある竜車の群れを見つけて、スバルは自身の拍動が早まっていくのを強く感じる。
 スバルがその逸る気持ちを言葉にするより先に、意を酌んだオットーが、パトラッシュが竜車を加速させていく。
 ぐんぐんと距離が詰まるにつれて、追いつくこちらに気付いた前方の群れに混乱が広がるのがわかった。

 蛇行し始める竜車の姿に、仕方がないとわかってはいても焦る気持ち。スバルは懸命に声を張り上げ、御者たちに聞こえるように制止を呼びかける。

「止まれ! 俺だ! 敵じゃない! 止まって、止まってくれ――!!」

 必死の呼びかけだが、逃げる方も必死の状況だ。
 互いに思惑はすれ違ったまま、ほとんど並ぶような距離にまで詰め寄ってようやく御者がスバルに気付き、

「スバル様――!?」

「止まってくれ! 緊急事態だ! 中を調べさせてもらいたい!」

 切迫したスバルの顔にただならぬものを感じて、御者が手綱を操り地竜に停止の指示を出す。途端、それまでの勢いを殺し切れずに竜車が大きく蛇行し、激しい音を立てて半ばひっくり返りそうな勢いで竜車が弾む。

「イア、出てこい! オットー、パトラッシュを外しておいてくれ!」

 そして立ち止まるのももどかしく、速度を落とし始めていた竜車からスバルの体が舞い降りる。華麗に着地などできるはずもなく、慣性の勢いに振り回されるように無様に落下――身を転がして衝撃を殺し、すぐさま立ち上がると竜車の傍へ。
 駆け寄るのは先頭の竜車で、衝撃に大きく傾いた幌つきの荷車だ。スバルの呼びかけに髪の毛から飛び出したイアが指先に止まり、チリチリとした熱で存在を主張している。

 その熱に頼もしさを感じながら、スバルは駆け寄った竜車の幌をめくって中に顔を突っ込み、暗がりの中に差し込んだ日差しで視界が開けると、

「――スバル」

 その名前を、銀鈴の声が呼んでくれたと気付いたとき、スバルは今にもその場に崩れ落ちてしまいそうなほどの衝撃に見舞われた。
 視線の先、スバルを呆然とした瞳で見つめるのは銀髪に紫紺の瞳をたたえた美しい少女。その姿を何度も追い求めて、何度も願い続けて、何度も何度もへし折られて、それでも諦められなかったひとりの少女。

 溢れ出す感情が胸を叩き、スバルは堪え切れない激情が口と目の端からこぼれ出しそうになるのを懸命に堪えた。
 頭を振り、それらの迷いを一瞬で切り捨てて、

「イア! わかるか!?」

 指先に宿る淡い輝きが宙を舞い、スバルの呼びかけに応じるように竜車の中を浮かび回る。その幻想的な探索風景、それもすぐに終わりを迎えた。
 目的のものを探して浮遊していたイアの軌道がふいに乱れ、精霊は竜車の端へ身を寄せると、そこになにかあると言いたげに上下に揺れる。

 駆け寄り、目を凝らして、準精霊の示した位置の異変を探る。床板の一枚の色がわずかに変色し、そこだけ目新しい板が使われているのがわかった。

「パック! 周りを傷付けないようにここだけ剥がせるか!?」

「唐突に現れて急になにを……ああ、そういうことか」

 久々の対面ながら一方的なスバルの声に、パックは不満げな顔をしたがそれも一瞬。スバルの指し示した床の下に、準精霊が感じたなにかと同じものを大精霊も感じたのだろう。
 その小さな手を振るい、収束するマナの奔流が床板の一枚を凍結させた。それを上から踏み割り、スバルは生じた穴の中に手を入れる。そして、

「――見つ、けたぁ!」

 生じた穴の底から麻袋を引っ張り出し、スバルは慌てて中を覗き込む。
 そこにはオットーの証言した通り、ぎっしりと魔鉱石が詰め込まれているのがわかった。ぼんやりと薄く光を放つそれは、こうしている今も徐々に熱を高めているようでもあり――否、事実、それは明らかに高熱を発し始めていた。

 ――時間制限付きだったのか、あるいは見つけて取り出したことが原因か、もしかすると今の竜車の衝撃が切っ掛けになったのかもしれない。

 いずれの理由であるにしても、手の中の魔鉱石が熱を持ち――つまり、起爆寸前のシークエンスに入ったことは確かだった。

「パック、これの爆発を止めるのは……」

「止めるのは無理かなぁ。守り切ることなら、できなくないけど」

 懇願にパックは首を振り、しかし切り札の存在をちらつかせてエミリアの無事は保障する。それはつまりパックが真の姿で顕現し、その超大な力で無理やりに爆発から全員を守り切るという荒業の話だろう。
 その原理はわかるし、事実彼ならばそれは可能なのだろう。なのだろうが、

「それじゃ、ダメだ!」

 首を振り、スバルはパックの提案を却下する。
 その案でも確かに、全員を守り切ることはできるのだと思う。しかしそれをしてしまった場合、彼の大精霊の姿をこの場の全員が目にすることになり、あの異貌の姿が全員の記憶に刻み込まれるということでもある。
 強大な力と、それを従える契約者であるエミリアの存在。いまだ根深く村人との関係にしこりを残す彼女にとって、その印象がどれほど深い影響を与えるか。

 額に手を当てて思考を回転させる。
 なにか手段を考えろ。魔鉱石の総量はかなりのもので、下手をすればここいら一帯が焼け野原になりかねない。今にも爆発してしまいそうな状況で、どこか遠くへ捨ててくるという案も実行できるか怪しいところだ。かといってパックに全てを任せきりにしてしまえば、エミリアの道筋に不安の影を落とすことになる。命には代えられないと開き直るにしても、考える前に投げ出すのは早すぎる。命に代えられないことかどうか、それを判断する資格はスバルにはない。だから考える。彼女のために、エミリアのために、今度こそ本当に本当の意味で、彼女のためにできることを。

「――そう、か」

 呟きが漏れた。ひとつだけ、閃いた思考があった。
 実行に移せるかどうかは曖昧で、馬鹿馬鹿しいと言うしかない結論だ。だが、可能性があるとすればこの方法しか思いつかず、勝算は奇跡的に残されている。

 思い立った瞬間、スバルの体は弾かれたように動いていた。
 両手で持ち上げるのもキツイ麻袋を抱え上げて、それを持ったまま竜車から飛び出そうとする。しかし、そんな彼の背中に、

「待って……!」

 震える声で、エミリアがそう呼び止めてきていた。
 止まってはいけない足が止まる。振り返ってはいけない体が振り返る。見てはいけない瞳を、真っ直ぐに見つめてしまう。言葉を交わしている時間のない時間を使って、言葉を交わしてしまいそうになる。

「スバル……どうして……!」

 その『どうして』には、この瞬間だけでないあらゆる『どうして』が込められていた。
 それは今この瞬間に駆け込んだきたこともそうであったし、この状況を作り出したことに対する意味でもあったし、もっともっと前にさかのぼってのことでもあるはずであって、きっとあの王城の一室で交わした問答のやり直しでもある。

 あのとき、スバルは彼女に答えを返すことができなかった。
 あのときの自分の整理のつかない感情の数々が蘇る。そのひとつひとつ、どれもこれもが間違っていたわけではない。でも、正しくもない。

 一度だけチャンスを得て、それをまた失って、先延ばしにした場面だった。
 エミリアと再会し、言葉を交わす場面を得て、伝えたい気持ちや言葉は山のようにあった。星のようにあった。尽くしても尽くしても、尽きないほどにあった。

 たくさんのたくさんの言葉が思い浮かび、口元にせり上がっては消える。
 万感の思いが、積み重ねてきた感情が、この瞬間を全身が全霊で求めていた。

 なにを話そう、なにを伝えよう。
 どんな言葉を選ぼう、どんな態度で向き合おう。

「どうして……?」

 再度の問いかけ。
 小さく息を吸う、そしてスバルは一言だけ、告げた。


「――好きだよ、エミリア」


 ――それがスバルがこうして傷だらけになって生きる、たったひとつの意味だった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ひと息に言って、幌を破るようにくぐって竜車から飛び出す。

 太陽光に目を焼かれて顔をしかめた瞬間、日差しを遮るように黒い体がスバルの前に立った。パトラッシュだ。相棒はスバルの声を聞く前に、その全てを察したかのような素振りで背を向けてきてくれていた。

 手を伸ばし、パトラッシュの背中に飛ぶようによじ登る。熱を持つ麻袋を自分の胸とパトラッシュの背中で挟むように抱え、手綱を握って引き絞る。地竜の嘶き、一拍を置いてパトラッシュが走り出した。一路、太陽の方角へ。

 背後、スバルの行動に驚きを浮かべるオットーがいた。御者をしていた角刈りの青年が呆然としている。そして、幌を抜けて子どもたちが、エミリアが飛び出す。
 声が聞こえる。自分の名前を呼ぶ声が。振り向かない、振り向いていられない。

 伝えるべき思いも、言いたかった言葉も、全てを残すことができた。
 もうあの場でスバルがやるべきことはない。今、やるべきことだけがある。

 風になるパトラッシュ。停止の影響で『風除け』の加護は展開されておらず、揺れも風も容赦なくスバルを振り落とそうと襲いくる。しかし漆黒の地竜は巧みな動きで主を守り、スバルも全ての信頼を預けて身を任せていた。

 揺れと風に振り回されながら、スバルは一心に前を見つめる。
 ここにそれがあるはずだ。確信はすぐに事実へと変わり、スバルは視界に入ったそれを目指してパトラッシュを走らせる。

 魔鉱石が放つ熱、麻袋の向こうで発熱する鉱石が赤く染まり始め、抱きかかえるスバルの腹とパトラッシュの背を高熱が焦がす。歯を食い縛り、決して取り落とすまいと深く腕を回す。苦痛が迫る中、スバルは涙の浮かぶ目の中にそれを見た。

 ――それは、根元からへし折られて横たわる長い長い年月を過ごしてきた伝説の残る大樹であり、その根元に倒れ伏すのは頭部を失った巨大な魔獣の屍だった。

 頭部を運び出すだけで精いっぱいだったのだろう。残った巨躯は腐敗を防ぐために凄まじい密度で氷漬けにされており、至近に寄るだけで息が白くなるほどの冷気があたりに漂っていた。
 その巨大な肉塊の傍へパトラッシュを走らせ、スバルは横たわる白鯨の亡骸の中心へ――そこに、剣鬼の斬撃によって生じた深々とした傷口が存在する。

「――――!」

 パトラッシュの体から飛び下り、スバルは抱え込んだ麻袋を傷口へ押し込む。凍りついた体ながら隙間は大きく、麻袋を覆い尽くすには十分だった。
 即座に切り返し、スバルは駆け寄るパトラッシュの手綱を掴んですぐに転回。ぐるりと死骸を回り込み、倒れた大樹の向こう側へ飛び込む。

 半ばぶら下がる形のスバルを引きずり、パトラッシュは草原を駆けた。マナの収束が背後に感じられ、スバルの喉も地竜の喉も雄叫びを上げる。
 激しい震動と風の音だけが世界を包んでいる。振り回されるままに体が流れ、衝突する感触とともに目的の場所に到達したのがわかった。

 木の幹に思い切りに体を押しつけられ、パトラッシュが丸めた体でスバルの体を上から覆い尽くす。――次の瞬間、

「――――!!」

 激しい衝撃と爆風、耳が聞こえなくなるほどの炸裂音が街道に轟き渡り、熱波が死骸と大樹を飛び越えてスバルとパトラッシュの肌も焼き焦がしていく。
 閉じた瞼を通り越して、赤い輝きが奥に潜む眼球を貫こうと迫る中、スバルは圧し掛かる重みをしっかり掴んだまま、歯を食い縛って苦痛に耐えた。

 衝撃波に体中が持っていかれそうになり、これほど長大な大樹が爆発力に大きく動かされる感触を味わいながら、やがてその衝撃と熱波も収束していき――。

「――?」

 感じるなにもかもが失われたことに気付いて、スバルは呆然と顔を上げた。
 確かめるように声を出したはずが、耳鳴りが凄まじすぎてなにも聞こえない。開いたはずの瞼にもなにも映り込まず、どうやら視神経までひどいダメージを被ったらしい。
 伸ばした手が傍らの地竜の肌に触れて、その体が確かに動いたことだけ掌に伝わり、どうにか安堵に肩の力が抜ける。

 なにも見えない、なにも聞こえない。
 でも自分は生きている。パトラッシュも、どうやら生きている。

 煤だらけの顔が、なんだか湿ったものに何度も撫でられるのがわかった。見えていないが、ひょっとするとパトラッシュの舌かもしれない。犬のようで可愛らしいと思う気持ちと、ざらつきすぎてて肌がヤスリ掛けされているような恐怖が同時に湧き上がる。
 しかし、それを止めようとする声も指もなにも動かない。

 さすがに疲れ切ってしまった。色々と、本当に色々と重なり過ぎてしまったから。
 少しぐらい、今は休んでもいいんじゃないだろうか。

 意識がゆっくりと遠ざかっていくのがわかり、迫る闇に身を任せてしまう。
 視界は晴れない。体は動かない。耳も、相変わらずなにも聞こえない。

「――――!」

 かすかな大気の振動だけが肌を撫で、なんとなく動いた首がそちらを向く。
 なにも聞こえない。聞こえないはずなのに、なぜかひどくいい気分だった。

 なにも聞こえない。今は、なにも――。

「――スバル!!」

 ああ、なんだ。――聞こえたじゃ、ないか。


 その安堵の吐息を最後に、スバルの意識は深い深い眠りの中へ落ち込んでいった。

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