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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第三章 再来の王都

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第三章80 『怠惰の終焉』 ★

 ――押し寄せる漆黒を虹の輝きが打ち払う。

 激突はすでに数合、数十合にも及び、スバルは剣と掌が鎬を削り合うのを、体中に走る激痛に耐えながら見つめ続けていた。

 ユリウスの剣――虹色をまとう刃は『クラリスタ』という六属性の複合魔法によって強化されており、ペテルギウスの放つ『見えざる手』という権能にもその切っ先を届かせる結果をもたらしていた。

 斬撃が繰り出されるたびに両断される魔手が霧散し、塵となって影から消える。原理のほどはわからないが、その虹の剣撃の前には『見えざる手』の修復は及ばないらしく、影をひとつ、またひとつと失うたびに、狂人の表情に激怒が宿るのが見てとれた。

「笑えないのデス、冗談ではないのデス、あってはならないことなのデス! そのような手立てで、ワタシの愛を……忠誠を、蔑にしようなどとぉ……!」

 口汚く苛立ちを吐き捨てながら、ペテルギウスは無尽蔵と思えるほどに膨れ上がる影から腕を伸ばし、ユリウスの腕を、足を、頭を、手当たり次第に狙い撃つ。
 応戦する刃がそれらを迎え撃ち、あるいは身を翻して回避行動をとり、最優の騎士が戦場を踊るように――文字通り、剣舞を舞いながら駆け抜ける。

「――――ッ!」

 空気を切り裂き、迫る『見えざる手』の数は常に十を越えている。一振りでそれら全てを薙ぎ払うことなどできるはずもなく、切り落とす数に対して、避ける動作ひとつに対して、それでも避け切れぬ負傷がユリウスの肉体を傷付ける。
 掴まれ、引き千切られる致命的なダメージは奇跡的に負っていない。否、奇跡ではなく、ユリウスの類稀なる戦闘力があってこそ可能なひとつの結果だ。
 そして、その彼の紙一重の戦果を支えている自覚があったればこそ、スバルもその目の前の光景から目をそらさずにいられるのだった。

 大腿部を漆黒の指先が掠め、腿を抉られる痛みにスバルは顔を歪める。苦痛に歯の根を噛みしめ、肩の裂ける鋭い感覚に声を殺して耐えた。
 『ネクト』によって、感覚の共有――スバルとユリウスの肉体と五感は現在、かなり深い部分でシンクロしている。故にユリウスにはスバルの視覚を通して、ペテルギウスの『見えざる手』を見ることができているし、逆にスバルにもユリウスの握る虹色の騎士剣から迸る圧倒的なマナを感じ取ることもできた。

 しかし、それらの恩恵を度外視すれば、この連携状態は非常に不安定な状況下にあると断言しても言い過ぎではない。
 視覚の同調は複数の光景が時折ダブり、右目と左目でまったく別の景色を見ているような違和感が伴う。肉体の共感はユリウスの全身が帯びる戦闘の高揚感だけでなく、彼の肉体に刻まれる痛みすらも鋭敏にスバルに伝えてきているのだ。

 風が肌を撫でる感触を、足裏が土を踏みしめる感覚を、口の中に入り混じる血と唾の味わいを、脳に感じる鈍く澱んだ耳鳴りを、『二人分』常に浴び続けるのは、精神と肉体にかかる負担が単純に倍、と言えるようなものではない。
 味覚を、嗅覚を、痛覚を、触覚を、今は封鎖できればどれほど楽になるだろうか。むず痒い感覚があるのに、その場所には絶対に手が届かないというジレンマ。他人の後頭部が痒い感覚、とでもいえばいいのだろうか。

「とっとと、終わりにしたいってのはまぎれもねぇ本音だぜ……」

 全身を取り巻く違和感の塊に、スバルは唇を舌で湿らせてそう呟く。おそらくは、今の感覚すらもユリウスに伝わったことだろう。迂闊なこともできやしない。
 弱音に本能的に従えるのであれば、今すぐに全感覚を放棄して意識を閉ざしたい。自分から言い出した策にも関わらず、それほどの嫌悪感が他者との共感にはある。
 だが、それらのどうしようもない弱い気持ちを、今は封印するより他にない。
 なぜなら――、

「少しずつ、体が慣れてきた。スバル、速度を上げるが?」

「ああ、ついていくから安心してろ!」

 言いながら、身を低くするユリウスがおびただしい量の影の中へ突っ込んでいく。滑るように、地を這うように掌を掻い潜り、真下からの斬撃で三本の魔手をまとめて薙ぎ払う。霧散し、塵となる影の隙間を煩わしげに縫い、地を削るような踏み込みで即座に切り返す――行動の終端を狙った掌が、迎え撃つ虹の前に煌めいて散る。

 軽やかに身を翻し、虹の剣についた魔手の妄念を振り切るように振るうユリウス。その凛々しい甘いマスクの中、双眸は閉じられたまま一度も開かれていない。

 視覚の同調により、互いに目を見開いて戦えば、視界は交互にダブって世界を曖昧な形へと誘う。故にユリウスは自らの目をつむり、視覚情報の全てをスバルの視覚に委ねるという決断を下していた。
 事前の打ち合わせになかった事態にスバルは戸惑い、ユリウスの判断に大いに文句を言いかけたが、それら全てを呑み込まざるを得ないだけの理由が生まれた。

 ひとつはユリウスの自身の視覚を放棄する判断が正しかったこと。これで少なくとも二つの光景を前に二の足を踏む愚挙は避けられる。
 そしてもうひとつは、ユリウスの視覚放棄に至るまでの思考の帰結だ。

「馬鹿が、馬鹿が、ふざけやがって……ホントにお前は、嫌な奴だ!」

 自分の視界を放棄し、見える光景の全てをスバルに委ねるということは、スバルが目をそらさないで戦うことを彼が信じていると命で証明したに他ならない。
 さらにさらに付け加えるのであれば、スバルの視覚に全神経を投入するということは単純な話ではない。スバルの目はあくまでスバルの肉体のものであり、ユリウスの肉体に付属するものではないのだ。

 つまりユリウスは今、後ろから客観視点で見える自分の肉体を、第三者の立ち位置から捉えながら動かして戦闘に臨むという荒業を行っているのだ。

「ゲームとかとは違ぇんだぞ……。一度捕まったらそれで終わりのクソゲーだ。それに命預けるとか、どうかしてやがるぜ、俺もお前も」

 鞭のようにしなる腕の軌跡を跳躍して避け、木の枝を掴んでユリウスの肉体が宙を飛ぶ。見失わないよう首を巡らせ、離れ過ぎないようにも気を払う。なにせ、

「こちらにばかり気遣わなくとも、アナタさえ倒せばそれで終わりなのデスから!」

 ペテルギウスの本命は、前線で命を張るユリウスではなく、スバルだ。
 この戦場の要であり、『見えざる手』を打開するために必要な『目』を担う立場。そして彼にとってはなにより、自身の信仰を虚仮にした大罪人なのだから。

「ユリウス、ヤバい! 戻れ! 戻って! フォローミー!」

「いやはやまったく……世話の焼けることだ!」

 木の幹を蹴りつけ、水平に跳躍する人外の業でユリウスがスバルの至近へ降り立つ。同時に両者に迫る『見えざる手』を、ユリウスはまず自身の背に浴びせかけられる掌を完全に無視――最小限の動きで肌に掠めるだけの被害にとどめ、突き出す切っ先でスバルの首をもぎ取ろうとした魔手を貫き、穿つ。
 次いで虹の煌めきは弧を描き、ユリウスを掠めた掌をまとめて伐採。窮地を一転させ、目をつむったままで騎士はスバルに笑いかけ、

「必死なのはわかるが、少しは自衛したらどうだろうか。これではおちおち、敵と正面から向かい合うこともできない」

「その言葉、お前にそっくり返してやるよ! 俺もおちおち落ち着いて見てられねぇよ! 必死こいてる騎士様が俺の瞳越しに見えるか、ええ?」

「目をつむる、憂い顔の美丈夫が映っている。家柄と才能に恵まれていそうな顔立ちだ」

「実は俺とお前じゃ見えてる景色が違う疑惑!!」

 ユリウスの自賛に舌を出し、それから押し寄せてくる掌の波から慌てて遠ざかる。スバルは転がるように、ユリウスは後ろへの跳躍と合わせて斬撃で斬り払い、腕の消失を促してから再び前へ出た。

 ユリウスの恐ろしいところは、その俯瞰して自身の体を操るという所業に戦いの最中でありながら慣れつつあることだ。
 そこにはスバルと違い、自身の肉体を限界まで酷使して痛めつけた経験が、殺意と殺意を交換する戦場で自身を高めていく騎士としての生き様が強く影響している。

 戦いに怯え竦み、実力以上どころかそのものすら出せないのが今のスバルの限界。
 戦いの中で己を高め、実力以上を引き出してくるのがユリウス始め戦士のあり方だ。

 その戦士の戦いの一端に、こうして関わっている事実がスバルの逃げ腰及び腰の弱腰をかろうじて支えているのだ。

 掌に掠められ、抉られた背が腿が、弾けた肩の痛みに脳が殴りつけられる。
 歯を噛みしめて痛みを堪えて、スバルは目をそらさない。

 駆け抜け、跳躍し、滑り込み、切り返し、踏み込み、飛び退き、前進し、掻い潜り、踏み止まり、すり抜け、回り込み、横っ跳びし、身をそらせ、振り返り、突っ込み、跳ね上がり、蹴りつけ、行動を洗練させていく。

 斬り払い、斬り落とし、突き込み、斬り上げ、蹴り飛ばし、流し斬り、殴りつけ、薙ぎ払い、突き穿ち、割断し、閃かせ、振り下ろし、打ち落とし、斬り飛ばし、斬り刻み、剣撃と斬撃の積み重ねが『見えざる手』を塵へと還していく。

 おどろおどろしい闇が視界を覆い尽くさんばかりに広がる中、しかし虹色の剣を手に剣舞を舞う騎士の姿は現実感を失うほどに美しい。
 命の奪い合いであることを忘れかけるほど、どこか幻想的な場面の一幕だ。

 そう感じるのはおそらく、ユリウスを通じて精霊たちの鼓動をスバルが感じ取っているからだろう。そして、それと似通ったものを降り注ぐ掌にも――。

「こんなはずがない……こんなことがあるわけがない……! 何故デス、何故なのデス! どうしてこんな、ワタシの権能を! ワタシは、愛されたはず、愛されているはず、愛されているのデス! 愛しているのデス! これだけ、これほど、これほどまでに! ワタシは、そうでなければ何故! ワタシという存在を、魔女は導いてきたというのデスか!」

「支離滅裂な発言に付き合ってはいられない。黒い魔手も、相応に数を減らした。そしてなにより、スバルの目を通して戦う方法も体に馴染んだ」

 喚き散らすペテルギウスの方へ、聴覚を頼りに首を向けると、ユリウスは小さく息を止めて、それから剣の切っ先を狂人へ向けると、

「――そろそろ、本気で貴様を斬らせてもらおう。長きにわたり、王国を……いや、世界を脅かしてきた脅威の一端、『怠惰』をここで断ち切る」

「できるものか! させるものか! ワタシを……ワタシは! 四百年間、魔女の寵愛を一身に浴びて、魔女の意思を体現するそのために、勤勉に努めてきたのデス! そのワタシを、あろうことかアナタのような……アナタのような、木端精霊を連れているだけの愚か者に、遮られるなど断じてあってはならないのデス!!」

 歯を剥き出して、ペテルギウスはユリウスの口上に憤怒を露わにする。
 だが、彼のその発言の内容に、スバルはユリウスと交わした推測が強く現実感を帯びるのを感じる。ならば奴はやはり――、

「ユリウス――!」

「わかっている! 大罪司教、覚悟――!!」

 踏み込み、地が抉れるほどの蹴りつけをもってユリウスの体が前へ飛ぶ。
 ペテルギウスが口を開け、何事か叫びながら妄執じみた勢いで『見えざる手』を展開する。空へ、地へ、森へ、広がる魔手が四方八方から、隙間なくユリウスの肉体を押し包もうと迫り――、

「――アルクラリスタ!!」

 虹の極光が世界を焼き尽くし、ユリウスを押し潰そうとしていた掌がまとめて消し飛ぶ。
 剣に虹をまとわせたクラリスタの最上位魔法だ。
 一瞬のことではあったが、ペテルギウスが作り上げた包囲網が完全に消失し、ユリウスと狂人との間に一切の障害のない道が切り開かれる――!

 虹の極光の余波で、宙へ浮くために出していた魔手すらも失い、地に落とされる形になったペテルギウスが、痩身を激情に震わせながら立ち上がる。
 その狂人めがけ、駆け出すユリウスの動きには迷いがない。構えた刃を真っ直ぐにかざし、先端が再び虹の輝きを帯びて胸を狙う。

「そうはさせないの、デス!! ウルドーナ!!」

 両手を広げ、ユリウスを迎え撃とうとでもいうかのように立つペテルギウスが詠唱し、直後にマナの奔流が大地に干渉――ユリウスの正面を、ペテルギウスを四方から囲むように土壁が持ち上がり、狂人の身を刃から遠ざける。
 そしてさらに、その遮蔽物の裏手から迂回し、束ねられた強大な黒い掌が抱きしめるようにユリウスの体を狙っていく。

 このままでは壁を突き崩すためにワンアクション必要になり、その動作の分だけ魔手に対するユリウスの行動が一歩遅れる。それはユリウスにとっての致命傷か、あるいはペテルギウスを追い込む機を見失うかの二択である。

 ――もしもここで戦っているのが、ユリウスひとりであったなら。

「燃えろ闘魂! うなれ魔球! ――俺の本気は、百二十キロだぜ!!」

 身をひねり、足を上げ、踏み込みながら肩を回してフルスイング――速球というにはいささか語弊のある速度で、スバルの手から投じられる魔鉱石。
 特別、投球練習を積んだわけでもない凡人の手から放たれた投球は、しかし極限状態の集中力によって狙いに真っ直ぐ叩き込まれる。

「なんデス……!?」

 赤の魔鉱石に秘められた破壊のエネルギーが、ユリウスの背を追い越して障壁となっていた土壁へ激突――そこで光と高熱を発して爆砕し、爆炎を上げてペテルギウスの正面を赤で埋め尽くす。

「まさか、これを最初から……!」

「貴様の敗因は、たったひとりで戦いに臨んだことだ!」

 炎を破るように飛び出し、ユリウスの突きがペテルギウスの胸部に突き刺さる。
 虹の輝きがペテルギウスの体を貫き、極光が痩身を内側から焼き焦がす。

 そのまま背後の土壁に叩きつけられ、串刺しになったペテルギウスがまるで標本に打ちつけられた虫のように手足をばたつかせ、口の端から血泡を吹いた。

「馬鹿な、バカな、ばぁかぁなぁ……こんな、ワタシの、体が……こんな」

「六属性を束ねた刃は、貴様の体を内から焦がす。貴様の正体がこちらの推測通りなら、このまま掻き消えてしまうがいい!」

 突き刺した剣を抉り、ペテルギウスに絶叫を上げさせるユリウス。
 騎士剣の輝きが増し、その光の前にペテルギウスは『見えざる手』を出して牽制することも、詠唱で状況を引っ繰り返すこともできない。
 ただ、ペテルギウスの狂乱の眼差しは、それでも生を諦めておらず、

「終われない! 終われるはずがない! 終わっていいはずがないのデス! ワタシは勤勉に努めてきたのデス! 怠惰な諦めに、怠惰な終わりに甘んじるなど考えることすら許されないのデス! だから、ならば、なんとしても……!」

 喚き、もがき、足掻き、傷口を押し広げて苦痛の根源を拡大するペテルギウス。その動きに合わせ、ユリウスがさらに強く切っ先を押し込み、その心の臓を破壊しようと刃を動かし――そして、

「指先を失い、今もこうして肉体を損なう……デスが、デスが、デスがぁ! まだ! ワタシには! 残された体が、あるの……デス!」

 憑依先は全て先んじて潰されて、ペテルギウスは最後の肉体の終焉に、しかし諦めへの抗いを叫んだ。
 その双眸が、狂気に満たされた目が、スバルの方を真っ直ぐに見つめる。
 ゾッと、背筋に怖気が走る感覚と、ペテルギウスの狂笑が深くなり、

「あぁ――脳が、震える」

「――――ッ!」

 次の瞬間、ユリウスに串刺しにされたペテルギウスの肉体が、まるでぷつりと糸の切れた人形のように崩れ落ちる。目から光を失い、だらりと頭を下げた肉体から生気の一切が途絶えて消える。
 その反応を見てとった瞬間、スバルはくるべきものがきたと判断。即座に胸に手を当てて、懐からあるものを抜き出すと同時、

「ユリウス! 解除しろ!!」

「わかった!」

 スバルの呼び声に応じ、ユリウスがペテルギウスの亡骸を蹴倒し、そのまま振り返ってこちらへ駆けてくる。その双眸は開かれており、直後にスバルの肉体にそれまで圧し掛かっていた倍増した五感の圧迫感が消失する。
 その代わりに、スバルの肉体に別の存在が割り込んできた。それは、

『やはり、アナタの肉体はワタシを収める器としての素養がありマス! さすがのアナタも、こうなることまで想定してはいなかったはずデス! あぁ、あぁ! あぁ! アナタ、怠惰デスね?』

 脳の隣に寄り添ったのではと疑うほど、至近でペテルギウスの狂笑が響く。
 ついで、スバルの肉体はスバルの意に反して、こちらへ向かって走り寄ってくるユリウスへと右手を伸ばす。そのまま、スバルの影が膨れ上がり、その内から噴き出す『見えざる手』が視認の手段を失ったユリウスを目掛け――、

「うぶぇっ」
『――あぁ?』

 ぐらり、とユリウスへの凶行へ及びかけたスバルの肉体が上体を揺らがした。熱に浮かされたような浮遊感がふいに頭蓋を大きく震わせ、姿勢を維持できないままにスバルはその場に受け身も取れずに倒れ込む。
 そうして倒れ込んだスバルの手から、握られていた対話鏡がこぼれ落ち、

『対話鏡越しに位置がわかればこのぐらいは、ネ。それにしてもスバルきゅんてば、自爆覚悟の作戦練るにゃんて、本当にお・ば・か・さ・ん♪』

 もう確認することもできない対話鏡の鏡面から、聞き慣れた悪戯な声が鼓膜に届く。それは鏡越しにこちらの状況をずっとうかがっていたフェリスであり、スバルの指示通り――ペテルギウスの憑依の合図と同時に、スバルの肉体を尋問した魔女教徒と同様の『人形』へと変えたのだ。
 もっとも、スバルの意識は健在であり、肉体の自由を奪うにとどめた限定的な水のマナの暴走に過ぎないが。

「まとも、な……精神状態が保てなきゃ、『見えざる手』も出しようがねぇだろ?」
『まさ、か……まさかまさかまさかまさかささささかかかかかか、ワタシが……ワタシがアナタの体を乗っ取ることすらも読んでこれを!?』

 脳内ペテルギウスが驚愕に声を震わせるのに、スバルは「あたぼうよ」と酩酊したような曖昧な意識の中で敢然と答える。
 そしてスバルとペテルギウスがせめぎ合いを続ける傍ら、駆け寄ったユリウスは倒れるスバルに目もくれず、スバルの足下に寝かされていたミミとティビーを回収、そのままパトラッシュに乗せて二人を戦場から遠ざける。これで、

「『見えざる手』で人質作戦も無理。そろそろ、諦める気になったかよ?」
『諦めなど……このまま、アナタの肉体を奪い、ワタシはワタシをワタシの、ワタシがワタシでワタシをワタシはワタシがワタシワタシワタシワタシワタシぃっ!?』

 狂乱、普段のそれを越えて本当の意味で狂い始めるペテルギウス。
 バグり始めたペテルギウスの言葉を聞きながら、スバルは諦めの悪い狂人に吐息で応じ、それから覚悟を決めたように目をつむり、

「乗っ取られると、フェリスが本気で殺しにかかってきかねないんでな。俺なりの方法で、お前と戦うことにする」
『アナタ、なにを……する気デス、か?』

 息を吸い、スバルは前回のループの世界を回想する。
 平原での戦いで、ペテルギウスに肉体を乗っ取られた最後の瞬間。フェリスの手で体内のマナを暴走させられ、ボロボロになったスバル。あの想像を絶する苦しみと、スバルと同じように絶叫していた狂人の姿を。つまり、

「強制的に他人に同調する――それが、お前の憑依の正体だ。怠惰のペテルギウス……いや、精霊ペテルギウス・ロマネコンティ!」

『ワタシを――!!』

 高らかに推測を叫び、スバルは自身の内側にいるペテルギウスと対峙する。

 ユリウスとの話し合いの中で、スバルと彼はペテルギウスの正体についてその答えに辿り着いた。
 憑依の正体、そのカラクリにある種の推測が成り立ったとき、そうであるとしか思えないという結論に至ったのだ。

 ペテルギウスは他者の肉体に強制的に自らを上書きし、乗っ取ることで肉体を得てきた精霊であるのだと。素養あるもの、それはペテルギウスと契約を結ぶに足る素養の持ち主の見極めであり、憑依は一方的で身勝手な契約の成立によるもの。
 ユリウスの虹の刃――『クラリスタ』は六属性を全て束ね、いずれの属性の庇護も打ち破る究極のマナ破壊術式。それはマナで構成された精神体である、ペテルギウス本体をも切り裂く力を秘めている。故に、彼の剣はペテルギウスへ届くのだ。

『ワタシを! 精霊などと! そのような下等な存在と一緒にしてほしくないのデス! ワタシは精霊を超克した存在デス! 精霊を超越し、たゆたう曖昧な存在であることを脱却し、寵愛によってひとつの意思を獲得した選ばれし存在なのデス! それを! それをぉ! キサマなぞにわかったように語られてたまるかぁ!』

 そして、ペテルギウスはスバルの言葉に激昂し、存在を爆発させて叫ぶ。
 その内容は皮肉にも、こちらの推測を裏付ける結果となるもので、故にペテルギウスはその事実を否定するように、認めないと赫怒を露わに、

『愛がワタシを変えたのデス! 愛がワタシに意思を、存在意義を与えたのデス! それも全てなにもかも魔女の恩恵、魔女の寵愛! ならば、ならばならばならばならばならば! この身は、魂は、全て魔女のために、捧げて然るべきなのデス!』

「ご高説、けっこうだ。――なら、特別にお前に会わせてやるよ」

『なにを! 誰と! なんの話を――!!』

「お待ちかねの、魔女様に――だ」

 その答えに目を見開き、脳内ペテルギウスは愕然と顔を強張らせて言葉を失う。
 驚きの表情を瞼の裏に焼きつけ、スバルは大きく息を吸い、その瞬間を引き寄せる。

 ――さあ、こい。

「――俺は、『死に戻り』をして」

 禁忌の言葉を口にした瞬間、世界の動きが遅滞する。
 そして、それは訪れた――。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 暗闇だけが広がる世界に、その存在は導かれていた。

 なにもない、自分の体すらもどこにあるのかわからない。
 意識だけがあり、それ以外の存在を知覚することができない。

 腕を伸ばそうとしても、腕の存在が見えず、腕で触れられるようなものがこの世界にあるとも思えない。
 そもそも、手足といった体の部位の認識が曖昧になり始めている。肉体の有無が、この世界においてどれほどの意味を持つというのか。

 世界に置き去りにされて、肉体からも切り離されて、意識だけ魂だけで存在する。
 そのひどく頼りない感覚が、その圧倒的な喪失感が、それをひどく懐かしく思う自分がいることに気付き、意識はその事実を認め難いと拒絶の感情を強くする。

 だが、それら自身の感情の行き先が、それら持て余した激情の矛先が、全てどうでもよくなるほどの変化が暗闇の世界に訪れる。

『――――』

 それは、漆黒の世界に漆黒を塗り潰すほどの闇をまとって現れた人影だった。
 女性である、とそれだけは感じ取ることができる。顔も、その肢体も、おぼろげで不確かでなにひとつ判然としていない。

 そんな世界にありながら、意識はたったひとつの真実に辿り着いて、歓喜する。
 目の前に現れたその存在との出会いを祝福し、震えんばかりの感動を理由に。

 この存在と出会うために、今日までの日々はあったのだ。
 思い出すこともできない、それでも長い長い日々――それはすべて、今この瞬間、このほんの刹那の時間のためだけに費やされてきたのだ。

 指先が存在しないのがもどかしい。今すぐに歩み寄り、手を取りたい。
 口が存在しないのがもどかしい。この思いの丈を言葉にしてぶつけたい。
 体が存在しないのがもどかしい。望まれるのなら、肉の身など全て捧げても構わない。

 意識だけであることがもどかしい。捧げられるものが、これだけしかないのだから。

『――――』

 依然、彼女は沈黙を守り続けている。
 だが、その意識が、こちらへ向けられていることだけは如実に感じ取れた。彼女の意識する世界の中に、自分が入っていると思っただけで天にも昇る想いがあった。
 そして、求める『愛』を、その口から告げられて、意識は本当の答えに――。

『――違う』

 それは、ひどく掠れた失望に彩られた声だった。

 それがどんな言葉であっても、天上の美声を聞いたように心を震わせる準備が意識にはできていた。なのに、いざその声を聞き入れたにも関わらず、意識に襲いかかったのは溢れ出ることをやめようとしない不安の影。
 『愛』を語られるはずだった場所で、待ち望んでいたはずの答えに辿り着ける場所であるここで――。

『――あなたは、あの人じゃ、ない』

 声に満たされる失望。そしてそれは、すぐに別の感情に取って代わられる。
 即ち――、

『あの人でない存在が、どうして私とあの人の場所にいる――?』

 怒りが、声に込められていた。

 それはこちらを否定する言葉だった。拒絶する言葉だった。
 そうして扱われることの意味がわからず、意識は彼女の言葉に取り縋るように嘆きを口にしようとする。

 だが、意識には口がない。意思を伝える手足もない。意識にあるのは意識だけで、彼女と触れ合うことも、言葉を交わすことも、ましてや彼女に愛されることもできるはずもなく、

『――消えてしまえ』

 意識の困惑も戸惑いも嘆きも、彼女にはなにも伝わらない。伝わったとしても、それはなんの意味も持たない。
 彼女にとって、意識は無価値であり、無意味であり、無為であるからだ。

 拒絶と否定が、その意識の絶望を肯定する。
 そのまま意識はこの切り取られた世界の枠組みから切り離されて、あれほど望んだ邂逅を前に遠く遠く沈むように消えていく。

 彼女の姿が遠ざかる。
 これほど、あれほど、こんなにも、焦がれた姿が彼方へ消える。

 その意識の嘆きを、もはや彼女は一顧だにしていない。
 ただ静かに彼女は下を向き、

『愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる』

 ――意識ではない、別の誰かへの『愛』をひたすらに、唱え続けているのだった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「――あぁがぁ! 戻ってきたぁ!!」

 心臓を握り潰される感覚、時間の制止した世界でスバルを襲う魔手――おそらくはきっと、スバルに自分の臭いを残す魔女の手であるのだろうと思っている。
 『嫉妬』の魔女――きっと、スバルのこの『死に戻り』ともなんらかの関連性のある存在。ひょっとしたら、それはスバルをこの世界に招いたことにも関係のある存在であるかもしれず、

「いずれ、解き明かしてやるさ……だけど、今は!」

 いまだに自由の利かない手足を震わせて、どうにか岩にかじりつくようにしてスバルは上体を起こす。口の端から伝う涎を肩に擦りつけて拭い、がんがんと耳鳴りが、消えない吐き気に苦しめられながら、散々苦労して立ち上がった。
 岩に手をついて体を支えながら、スバルは正面を見る。

「こん、な……はず、が……ないの……デス……」

 正面、じりじりと血の跡を引きずりながら、ペテルギウスの亡骸が再び動き出している。スバルに憑依し、同調した感覚で魔女の掌を味わったのだ。
 思い出すのも嫌になる激痛を前に、ペテルギウスが折れてスバルの肉体を手放すだろうことは予想された最後の手段だった。

 ――痛みにのたうち回るのに必死で、ペテルギウスの絶叫を聞いた覚えがないのが気がかりではあったが。

「最悪、出ていくまで何回も繰り返すつもりだったが……一回でギブとは、根性なしもいいとこだぜ、てめぇ」

 言いながら、腕の力が抜けて崩れ落ちそうになるスバル。と、そんなスバルを背後から伸びてきた腕がかろうじて引き止め、抱き起こしてくれる。
 ユリウスだ。パトラッシュを伴い、戻ってきた彼はスバルの肉体からペテルギウスが撤退し、死に体の肉体に戻ったことを確認すると、

「今度こそ、終わりにしよう」

 収めていた騎士剣を抜き放ち、再び灯るクラリスタの魔法が刀身を虹色へ染め上げる。
 煌めきを軌跡に描く刃を手に、ユリウスは真っ直ぐにペテルギウスへ向かっていく。

 体を引きずり、もはや命尽きる寸前のペテルギウスは、そのユリウスの接近に対してもなんらアクションを起こすことができない。
 貫かれた肉体のダメージ、それよりもはるかに打ちのめされた表情で、ペテルギウスは絶望に打ちひしがれた風体で体を引きずっている。

 やがてその体は絶壁の前に辿り着き、岩壁に背を預けてこちらへ振り返る。
 狂態を演じる気力すら失い、ペテルギウスは呆然とした顔でユリウスを見上げる。そしてそのまま視線はスバルへ向き――突如、瞳に激情が灯った。

 涙が溢れ出し、ペテルギウスの頬を滂沱と濡らす。
 それは幾度も見た歓喜の涙とは違い、ただひたすらに口惜しさのあまりに溢れ出す救いようのない、救われない類の妄念の証である。
 ペテルギウスは涙を流し、声を震わせ、天上に手を伸ばして、そこにはないなにかを掴み取ろうとでもいうかのように、叫ぶ。

「魔女よ……魔女よ! 魔女よ! 魔女よぉ! これほどまでにアナタに捧げ尽くして! あれほどまでにアナタのためになにもかもを捨てて! 思いつく限りの全てをアナタに捧げたというのに、何故デスか! 何故なのデスか! 何故、ワタシをお見捨てになるのデスか!? 何故なのデス! 何故なのデスか! 魔女よ! それならば……それならば何故、ワタシに愛を……寵愛をぉ……!?」

「お前が捧げたのは信仰でも愛でも、ましてやお前自身でもない。ただ、お前の周りを歩いていただけの通りすがりの人たちだ」

 縋るような、ペテルギウスの嘆きをスバルははっきりと切り捨てる。
 耳を傾ける価値もない、ペテルギウスのそれはただただ独善的な、独りよがりの産物だ。ヴィルヘルムが言っていた、『愛』と呼ぶのもおこがましい。

「――――!」

 ユリウスが疾走し、ペテルギウスの痩身へ迫る。
 振り上げられる刃に対し、ペテルギウスはもはや涙も流れぬ瞳をぼんやりと向けるだけ――その胸を再度、騎士剣の切っ先が貫き、光の奔流が炸裂する。

 肉体に宿るマナの集合体――精霊の存在を根こそぎ焼き尽くし、ペテルギウスという存在を世界から消失させる虹の極光。

 刃が引き抜かれ、血の流れる胸を呆然とペテルギウスは見下ろす。
 それから彼は焦点の合わなくなった目を頭上へ向け、天に手を伸ばしたまま、

「――脳、が、震、え、る」

 影から一本の『見えざる手』が天上に向かって放たれ、それは眩しい太陽に向かってどこまでもどこまでも伸びていく。
 しかし、その掌がなにかを掴むことはなく、虚空へ向かっていく掌はやがて絶壁の表面を大きく削り、岩肌を激しく抉って亀裂を走らせる。

 ――意図した行動ではなかったのだろう。それはペテルギウスにとってもなんの意味もない、ただ妄念を形にしただけの行いであったのだろう。

 崩落がペテルギウスの頭上で発生し、抉られた岸壁が強大な破片となって剥がれ落ちる。その真下には、いまだなにも掴めない天を望むペテルギウスがおり、

「ワタシは、愛されて――」

 岩塊がその肉体を真上から押し潰し、肉と骨がひしゃげる音が盛大に響き渡る。
 地響きと爆煙が連鎖して噴き上がり、一瞬でペテルギウスの痩身は瓦礫の墓標の下敷きとなって自らを埋め立てていた。

 崩落の難を逃れたユリウスが、ペテルギウスがいた地点の上へ足を運ぶ。その彼の視線の先、大岩の下から大量の鮮血が流れ出す。それを見て、彼は首を横に振ると、抜き放っていた騎士剣を鞘に収めて振り返った。

 スバルもまた、一言も言葉もなくそちらへ向かって足を進める。
 足取りは危うく、足場の悪さも相まってひどく遅々とした歩みだったが、墓標の前に辿り着いて、スバルは小さく息をついた。

 感嘆も、達成感も、満足感もなにもない。
 ただただ、空虚な感慨だけがぽっかりと胸の中に広がっていくのがわかる。

 勝利や敗北といった概念を、今ここで口にする無粋をスバルは犯さなかった。
 ただ、なにも浮かばない脳裏に過る言葉、それだけを口にする。

「ペテルギウス・ロマネコンティ」

 その一言をもって、この戦いに終止符が打たれる。

 ――大罪司教『怠惰』担当ペテルギウス・ロマネコンティ。
 ――最優の騎士ユリウス・ユークリウスと、自称騎士ナツキ・スバルの戦い。

 瓦礫の墓標の前で、スバルは小さく息を吸い、言った。

「――お前、『怠惰』だったな」




挿絵(By みてみん)
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