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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第三章 再来の王都

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第三章73 『悪辣なる怠惰』


 ――悪夢と見紛う程の勢いと物量で、空を覆い尽くす黒の破滅。

 歪な笑みを浮かべる女の足下、膨れ上がる影から噴き出す『見えざる手』の量には限界が見えない。
 空に伸び、その掌をこちらへ向けるその数――数えるまでもなく、百に迫る。

「――ペテルギウス・ロマネコンティ!!」

「おやぁ? 名乗る前に呼ばれるとはこれもまた不思議なことデス! アナタの知るワタシの指とは、違う指を動かしているはずデスが?」

 激昂し、土煙がなおも吹き荒ぶ中でスバルが叫ぶと、それを聞いたペテルギウスが言葉の内容は怪訝に、しかし表情はいっそう愉しげなまま足を踏み鳴らし、

「どうやら森に潜ませていた指先のほとんどが殲滅、壊滅、全滅させられた様子デスが、それもまた仕方なし! 敬虔なる信徒たちの大事で大切で無為に扱うことなど許されない命もまた! 今、このとき、この瞬間のためにあったと知るのデス! あぁ! あああ! 愛よ、寵愛よ! 愛しき魔女よ!」

 興奮に、口の中に差し込んだ右手の指を次々と噛み潰し、ペテルギウスは血に染まる狂笑を戦場に飾りつけ、その血の滴る腕を振るい、

「さあ、終わりを始めて、終わりの終わりを宣告するのデス! そしてそしてそしてそしてそしてぇぇぇ! 我が愛の前に、勤勉なるワタシの奉仕の前に! その身を、命を、魂を、捧げるの――デス!!」

 宣告と同時、空を覆っていた腕がこちらに目掛けて降り注ぎ――猛るペテルギウスの周囲を囲んでいた魔女教徒たちもまた、十字架の短剣を手に走り出す。

 対し、こちらの準備は相手に出鼻を挫かれたことで一歩遅れる。
 周囲、討伐隊にはいまだ、背後からの爆発の混乱が色濃く残っており、もうもうと煙の上がる爆心地――そこにいた、主力二人の安否が気遣われる。だが、

「ぼけっとしとる暇なんぞあらへんぞ! 殺らな、殺られる――そうやろが!」

 大ナタを振り、リカードが鋭い犬歯を光らせながらそう怒鳴りつける。それだけで獣人傭兵団の混乱は収まり、団長を筆頭に全員がライガーを走らせる。
 同時、騎士剣を高々と掲げるユリウスが騎士たちの視線を集め、

「卑劣な奴らの行いに心を乱すな! 我らの背後、そこに守るべき国民がいる状況は変わらない。――総員、突撃!!」

 剣が振られて、ユリウスの地竜が真っ先に駆け出す。それに続き、騎士たちもまた己の武器を高々と掲げ、最優の騎士の道に轡を並べた。

 そうして走り出した傭兵団と騎士の連合体――その先頭を走るのは、黒い体色を持つ優美な地竜にまたがり、不格好に縋りつくナツキ・スバルだ。
 二人のリーダーが仲間たちの混乱を鎮めるのに先立って、スバルはパトラッシュに命じて、襲いかかってくる魔女教の脅威へ頭から飛び込んでいた。

 勝算があるわけではない。
 むしろ、戦力的な部分で変化があったわけでないスバルは、短剣を振る魔女教ひとりとやり合っても殺されるほど無力な存在だ。
 だが、それでもスバルが先頭を走らなくてはならない。なぜなら――、

「おらぁ、ペテ公! 俺を狙え! ――てめぇのたくさんのお手々が、俺にはよーーーーーーっく見えてっからよぉ!!」

「――――ッ!?」

 恐怖を押さえ込み、思い切りに煽る笑みを浮かべて中指を立てて、スバルは狂笑を浮かべていたペテルギウスの表情を凍らせてやる。
 その発言を証明するかのように、のたくるように襲いかかってくる見えざる手を、スバルは手綱を操ってパトラッシュに回避させた。

 伸びる腕を右に傾いてかわし、真っ直ぐに突き出される掌に対し姿勢を低く。急旋回で正面を塞いだ腕の群れをやり過ごし、四方から迫る魔手を加速で置き去りに。

 スバルの技量が高いのではなく、パトラッシュが手綱を通してスバルの意思を即座に読みとってくれているのが回避成立の大きな要因だ。
 そして、紙一重ながらも自らの言葉を証明してみせたスバルに、ペテルギウスは純朴そうな女性の表情を憤怒と屈辱で盛大に歪めて、

「なにを馬鹿な……そんなはずがない! なぜ、なぜなぜなぜぜぜぜ……ワタシの、ワタシに与えられた、ワタシだけの寵愛を! アナタはその目に目に目に目にににににににぃ!?」

「魔女が浮気性なんじゃねぇの? おいおいおいおい、遊ばれちゃった? かーわいそー!!」

「なんたる侮辱! なんたる屈辱! なんたる恥辱! ワタシだけにのみならず、我が愛の導にすらそのような口を……許されるはずがない! 許してはならない! 許されることなどあってはならないのデス!!」

 血走った眼を押し開き、ペテルギウスが口の端に泡を浮かべてスバルを追撃。束ねられた黒の魔手が強大な掌となり、握り潰そうと迫るのをパトラッシュを鋭く左に回避させて突破――余波を受けた大地がめくれ上がり、草原に巨人の掌に抉られた裂け目が深々と刻まれる。

「あっぶねぇ! マジ紙一重がこっから連発……でも、これで!」

 憎悪をその双眸に燃え上がらせるペテルギウスは、完全に我を忘れてスバルだけに狙いを定めている。
 狂人の矛先がこちらに向いている状況に、肌が粟立つような怖気を感じながらも、スバルは自身の思惑通りの展開に拳を固めていた。

 前回のループでの状況からして、憑依復活を遂げたペテルギウスの見えざる手の数が増加するだろうことは予測できてきた。
 その常人には見ることすら叶わない必殺の魔手が無数に展開されれば、それだけで数に勝るはずの討伐隊すら壊滅状態に追いやられるだろうことも。
 故にスバルはペテルギウスの狂気的なまでの魔女への執着心を完膚無きまでに煽り、自身にのみ焦点を向けさせることを選択する。

 その間に、後方では魔女教徒と討伐隊の面々の激突が始まっていた。
 初撃は数に勝る討伐隊の当たりが炸裂し、魔女教の先頭集団が血飛沫を上げて宙を舞うのが見える。が、そこから滑るように動き出す魔女教の不気味な挙動に、慣れていない騎士たちが苦戦を強いられるのもわかった。

 引っ張り続けて、即応援が駆けつけてくれる――というのを期待するのは虫が良すぎる。
 せめて、対人戦において無双の実力を持つヴィルヘルムが健在であれば、とスバルは悔やむが。

「俺の考えが浅すぎたのが失敗だ……死んで憑依する能力があるなら、自決の手段があることぐらい予想しておくべきだった!」

 旧ペテルギウスを乗せた竜車の爆裂は、まさしくそれが原因だろう。
 おそらくペテルギウスは、事前に教徒の体に爆弾のようなものを仕掛けておき、状況に応じて起動させるように指示を出していたのだ。
 結果、まんまと旧ペテルギウスの肉体は竜車とその付近にいたこちらの主力を巻き添えに、新たな肉体に乗り移ることを成し遂げた。

 もうもうと、なおも爆心地からは煙が立ち上っており、ヴィルヘルムとフェリスの姿は見当たらない。――あのまま消し飛んだ、などとは思えないが。

「無傷で済んだと思うほど、楽観もできねぇ。――手筈通り、頼むぜ!」

「デスデスデスデスデスデスデスデスデェェェェェッス――!!」

 頭を振りながらペテルギウスが狂乱し、道を塞ぐように見えざる手が展開する。が、それを即座の切り返しで切り抜け、距離を詰めて驚くペテルギウスの顔面に、

「ず、っばーん!!」

「ばふぁっ!?」

 ドリフトをかけるパトラッシュの軸足が地を抉り、飛び散る土塊がペテルギウスの顔を直撃。土に塗れるその顔に中指を立て、周囲をぐるりと誘うように回って、

「へいへい、手が何本もあっても頭が無能じゃ話にならねぇ。俺とパトラッシュの、目と目と手と手と心と心で通じ合うツーカーぶりを見習えよ。あなた、怠惰ですかぁ!?」

「――――ッッッ!!」

 もはや怒りに言葉すら見失い、ペテルギウスは無言で死の掌を送り込む。
 だが、スキル『煽り』に関して飛び抜けた才能を持つスバルに興奮させられ、思考にノイズが走るペテルギウスの攻撃は精彩を欠く。
 即ち、せっかく無数の掌という優位がありながら、

「脳味噌の処理がおっついてねぇ。ソフトの要求スペックに対して、ハード側がおんぼろなんじゃ笑い話だ。脳味噌、震わせすぎたんじゃねぇか!?」

 一歩誤れば即落命のこの状況下で、なおもこうして軽口が叩ける己の精神状態にスバルは笑いを殺し切れない。ふひ、と息が漏れるような笑みがこぼれて、それがさらにペテルギウスに対する挑発の効果を発揮する。

 紙一重の攻防のはずが、慣れすら感じてくる回避行動。
 ほんの数時間前まで息を合わせるのでやっとだったパトラッシュと、呼吸どころか鼓動が噛み合い、互いの意図が手綱を通じて確かに伝わる感覚。
 ユリウスが言っていた、『信頼を預け、風を任せる』のだと。

 ――その言葉の意味が今、言葉ではなく心で理解できた!

「――ル!!」

 生じた土煙を破り、急旋回による遠心力に内臓を掻き回されながら、嘔吐感より高揚感に脳を熱くするスバルの鼓膜がふいにそれを捉える。
 遠く彼方より、届いたそれは自分の名前を呼ぶ声であり、聞き間違えるはずもないその声の主は、

「スバル――ッ!!」

 急激に速度を上げて、戦闘域よりの離脱を試みる竜車の窓から身を乗り出し、長い銀髪を風になびかせて乱すエミリアが遠目に見えた。
 戦域からの避難――それを行っているのはなにも彼女の乗る竜車だけではない。周囲、村の住人を乗せていた行商人たちの竜車も同じように逃走を始めており、護衛に数名の騎士をつけた彼らの避難は全て、前もっての打ち合わせ通りだ。

 ――魔女教の最後の悪足掻き、それは予想された事態だ。

 戦いになったとき、非戦闘員を多数連れていては形振り構わない奴らの戦い方には対応できない。故に、あらかじめ行商人たちには、戦いが始まった場合には避難するよう指示をしていた。村人たちには混乱が広まらないよう、比較的落ち着いて話を聞ける状態にあった面子にのみ説明し、それぞれを分乗させて事態に備える。
 そして当然、別の道から聖域へのナビゲートを行わなければならないラムにもそれは伝えてあったが――、

「どうして……!?」

 エミリアに、スバルはそれを伝えてはいなかった。

 遠ざかる竜車の中から、悲痛に顔を歪めるエミリアの顔が見えている。
 そこに堪え難い裏切りへの衝撃が刻まれているのがわかって、スバルの胸に深々と切り裂くような痛みを叩きつけていった。
 しかし、スバルはそんな内心の衝撃を押し隠し、振動と暴風の最中にも関わらず、慣れぬ手綱から片手を離してサムズアップ。

「任せて楽勝、ナツキ・スバルだ! 先に行ってな、エミリアたん! ――すぐに追いついて、君と感動の抱擁を俺はする!」

「――――ッ!!」

 歯を光らせるところまで向こうが見えていたかわからないが、遠く林道に駆け込んでいく竜車からは声にならない声の響きしかもう届かない。
 そうして彼女らの一団が無事に戦域から抜けたのだけ確認し、スバルは深い息を吐くと改めてペテルギウスへ向き直り、

「大人しく待っててくれるとは意外だったよ。情緒とかわかるタイプだった?」

「黙れ黙れ黙れ黙るのデス! ワタシは行動を止めていなかった、アナタが全て避け続けただけデス! 不遜! 不敬! 魔女の愛を! 抱擁を! 受け入れないその身の愚かしさよ! 何故にアナタはそうまでして……!」

「ああ、攻撃とかしてたんだ? お前の掌って、見えてると遅すぎて蠅が止まるかと思うぐらいだから手を止めてくれてんのと勘違いしちゃった、ちゃった。そのままゆるやかに続けてくれてていーぜ、こっちも……お」

 軽口の本領発揮とばかりに挑発を続けるスバルが、ふいに湧いた戦場の気配に眉を上げる。ペテルギウスとスバルが一騎打ちの形で向かい合う背後、魔女教と討伐隊の衝突の場面に大きな変化が生じた。
 ――まとめて、数名の魔女教徒の体が血霧を巻いて空に上がったのだ。

「ぬううううん!!」

 煌めく宝剣が血と日差しを乱舞させながら切り返し、刃が凄まじい速度で荒れ狂う。斬撃の進路上にあった腕が、足が、首が、胴がその切れ味の前に撫で切られ、吹き飛ぶ敵を次々と騎士たちが追撃で仕留めていった。
 全身におびただしい血を浴び、戦場を駆ける剣の鬼――ヴィルヘルムの参戦だ。

「――ヴィルヘルムさん!」

 その健在ぶりにスバルが喝采を上げ、ペテルギウスが忌々しげに口の端を噛み切る。
 スバルの喝采に応えるように、地を這うような動きでヴィルヘルムはさらに二名の足を膝下から両断。襲いくる火球を身をさばいてかわし、爆炎を背に浴びながら加速して死を量産する。

 ヴィルヘルムの参戦により、一挙に勢いがこちらへ傾く。
 リカードやユリウスも彼の剣鬼に続かんとばかりに猛攻を始め、大ナタが振るわれるたびに肉の弾ける音が、騎士剣が閃くたびにマナの輝きが火花を散らす。

 さらに向こう、爆心地となった竜車の跡地。煙の晴れたそこから這い出すように、焼け焦げた幌布を肩からかけて裸体を隠す人物がいた。
 フェリスだ。間近で爆発の衝撃を受けたと思しき彼もまた健在。それも、女性と見紛うような美貌にも細やかな手入れのされた髪にも一切の影響が見えない。ゆいいつ、衣服だけはそのダメージを免れなかったようだが、

「ああ、もう――一回死んじゃったじゃにゃい! ヴィル爺! もうそいつら許してやんにゃい、バラバラにしちゃえ!」

 小さな拳を突き上げて、半裸の男の娘が剣鬼に高い声で応援を投げる。
 その状態と彼の掛け声にスバルは穏やかでないものを感じつつも、勝ち誇ったような笑みをペテルギウスへ向け、

「決死の自爆も被害者なし……大勢も決した! そろそろ諦めろ!」

「諦める? そんなことが、そんな馬鹿なことが、そんな愚かなことが許されるとでも思うのデスか!? ワタシが、『怠惰』であるワタシがそのような、思考と意思とを放棄した『怠惰』な選択肢に沈むとでも思うのデスか!? この上ない侮辱デス! 屈辱デス! あらん限りの勤勉さで、愛に報いる……! ただそれだけが、この汚辱を雪ぐ理由であるならば――!!」

 両手を広げて、ペテルギウスの全身から迸っていた見えざる手がふいに掻き消える。
 そのペテルギウスの姿勢にスバルは嫌な予感を覚える。が、回避行動のために距離を空けていたことが仇になり、とっさにその距離を詰めるのが間に合わない。
 結果、

「魔女よ! 我が愛の導よ! 捧げマス、捧げさせていただきマス! さあ、愚かにも寵愛に背きし背徳者よ! 愛を知らぬ渇いた俗物共よ!」

「待て、ペテルギウス――てめぇ!!」

「さあ――『怠惰』であれ!!」

 次の瞬間、戦場を黒い波が覆い尽くすように広がり――戦線が崩壊する。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 魔女教大罪司教『怠惰』担当、ペテルギウス・ロマネコンティ。

 スバルにとってはすでにこの男と対峙するのは四度目のことになるが、異世界召喚以来、この男ほどスバルを苦しめた難敵はいなかったと断言してもいい。
 繰り返す都度すでに十一回、スバルはこの世界で命を落としている。その間、一度として同じ道で死ぬことのなかったスバルにとって、全ての死は忘れ難い実感を伴って魂に刻みつけられている。

 途方もない実力差の前に、あるいは回避しようのない理不尽さの前に、時には油断からの意識の隙間故に、そして互いの思惑のすれ違いの果てに、ナツキ・スバルは異世界で何度も何度も命を取りこぼしてきた。

 おぞましい敵がいた。心を砕かれそうな相対があった。圧倒的なまでの強大な存在がいた。それらに対し、無力なナツキ・スバルは幾度も心を折られた。
 それでもなお立ち上がってきたスバルではあったが、この男の悪辣さだけはこれまでのそれら全てと比較しても群を抜いて異質であった。

 目に見えぬ腕を伸ばし、あらゆる全てを引き裂く『見えざる手』。
 死した肉体を捨てて、部下の肉体に魂を移して命を繋ぐ『憑依』。

 そして、多人数戦において最悪と断言できる権能である『怠惰』。

 忘れかけていたその猛威が戦場を覆い尽くし、それまで一気呵成に戦いを押し進めていた討伐隊の戦意が砕け散る。――否、砕かれたのは戦意ではなく、正気だ。

「――――!!」
「――あァ!?」

 悲鳴と絶叫が戦場に木霊し、武器を取り落とすものが多数出る。そして、なによりペテルギウスの『怠惰』の影響を、魔女教徒は一切受けていない――。

「やめ……!」

 叫び、その動きを止めようとするが、言葉などこの瞬間にはなんの意味も持たない。
 スバルの声が届き切るより早く、振るわれる十字の短剣が血を吸う方が早い。噴出する血が悲痛な叫びを呼び起こし、前衛が一気に突き崩された。

 『怠惰』の影響はスバルにはなく、それが巻き起こす精神汚染がどういった症状として汚染された人間を侵しているのかはわからない。だが、その影響下にあるものは誰もがありもしない幻覚に、幻聴に、厳痛に泡を吹き、白目を剥き、発狂寸前にまで追い込まれてしまう。

 かろうじてその精神汚染の影響をレジストできたのは、五十名ほどがいたはずの討伐隊の内の十五名ほど。残りはその場に倒れ伏し、あるいは魔女教の刃の前に血を流して切り捨てられる。――不幸中の幸いは、主力はほぼ残ったことのみ。

「面妖な――! これは、白鯨の霧と同じ……ッ」

 正面から斬りかかる三者の刃を一振りではね返し、倒れる仲間の体を引きずってヴィルヘルムが後退。同じようにリカードが両脇に猫の姉弟を、ユリウスも風の魔法の詠唱で砂塵を起こし、目くらましの援護を行っている。

「ほう、思いのほか残ったようデスね! 素晴らしいデス、喜ばしいことデス! 素養あるものがこれだけ居残れば、教団は安泰と言えるというものデス!」

「素養……? なに言ってやがる! いや、それ以前にこの状況は……」

 マズイ。
 ほんの一度の手で、一気に状況を引っ繰り返されてしまった。
 戦力でいえば精神汚染が広がる前に削った分と合わせ、数はほぼ五分五分。だがこちらには死者ではなく負傷者が多い分、健在なものの手がそちらに割かれる。
 一方で魔女教徒は、負傷した仲間の身などお構いなしだ。手当てすれば助かる仲間の屍を躊躇なく踏み越えて、致命傷を受けながら相討ち覚悟で突っ込んでいる。
 そしてなにより――、

「アナタ、どうやらワタシの目を引き付けるのが目的の陽動のようデスね?」

「――ッ!」

 スバルの狙いがペテルギウスに看破され、その動揺が表情に思い切りに出る。
 それを見取り、ペテルギウスは両手を叩いて実に愉しげに頬を歪めると、

「なぁるぅほぉどぉ! 実に、実に実に実に実に実にぃ、勤勉な考えデス! どういった手段でワタシの見えざる手を、そして指先のことを知ったのかはわかりませんデスが、知った上でなら今の、今までの、これまでの動きに納得デス! そして……それがわかってしまえば、アナタに構う理由もまたないのデスね?」

 言い切り、ペテルギウスが踵を返す。視線が向くのはぶつかり合う騎士と魔女教徒たちの戦場であり、影から伸びる指先がそちらへ伸びれば、さらにこちらが劣勢を強いられることは避けられない。
 その悪辣な行為にスバルは息を呑み、パトラッシュに命じて狂人の背中へと突貫を図る。せめて、体当たりでもって殺さない程度にダメージを与えれば――、

「――アナタ、怠惰デスね?」

「――ぅあっ!?」

 しかし、その焦りに駆られての勢い任せこそ、ペテルギウスにとっては掌の上の出来事でしかなかった。
 影を伸ばし、スバルの視界の外――真っ直ぐ背後から接近した見えざる手が、風に速度を乗せていたパトラッシュの尾を掴み、地竜の巨体を軽々と宙へと放り投げる。

 凄まじい勢いと風に全身が殴られる浮遊感の後、スバルは前後左右がわからないほど大気にもみくちゃにされながら落下――背中から草地に叩きつけられた。

「か――はっ」

 全身が軋む音を立て、目の前に火花が散って視界が真っ暗になる。
 打ちつけた背中から内臓に衝撃が入り、痙攣する肺が酸素を拒み、喉をせり上がる吐瀉物が熱く焼いていく。
 そしてそれらに一拍遅れて、頭鳴りと手足を雷に打たれたような痛みが駆け抜け、身悶えるスバルの喉から苦鳴がこぼれ落ちた。

 ――痛い、ヤバい、マズイ、痛い、痛い、ヤバい、ヤバい!

 痺れる手足と痙攣する内腑、それらの苦痛に意識を支配されながら、回らない頭の中でスバルは呪われたようにそれらの危険なシグナルを並べ立てる。
 とっさの判断でなにかをしなければならないのに、それが確かな意味として、正しい形としてスバルの中に形成されてくれない。

 蔑にされる理性を押し退けて、ただひたすらに本能だけが主張する。
 動かなければ死ぬ、死にたくない、生きるためになにかしなければと。
 だが、体は本能に従いたくても動いてくれず、スバルは荒れる息を繰り返してかろうじて呼吸を繋ぐしかできない。そこへ――、

「――ぉ、う?」

「なんと、勤勉なることデスか……」

 突然の感覚にスバルが無理解の呻きを漏らし、結果を見届けたペテルギウスがその表情に敬意を浮かべて感嘆を漏らす。
 いったいなにが起きたのか、と浮遊感に揺すぶられる感覚で全身を翻弄されながら、首をめぐらせてスバルは気付く。

 ――パトラッシュがその口にスバルの腰辺りをくわえて、ペテルギウスの魔の手からの離脱を試みていたのだ。

 背に乗せる手間すら惜しみ、動けなくなった主の身を案じる漆黒の地竜。その揺らぐことのない忠節に救われて、スバルはペテルギウスとの相対から逃走に成功。
 ペテルギウスもまた、指示なく騎乗者を守ったパトラッシュの判断にはいくらか感じ入るものがあったらしく、掌で顔を覆うその瞳から涙が流れ出す。

「地竜……おぉ、地竜! 素晴らしいことデス! 愛、愛、愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛あぁあぁぁぁぁぁぃっぃぃぃぃぃっぃいいいいいい!!」

 滂沱と涙をこぼすペテルギウスが、狂乱したように足踏みしてその場で回る。遠ざかる地竜の背に掌を向け、しかし攻撃するでもなく、指先は上を向き、まるで遠のく愛しいものに差し伸べるように、

「愛! 無上の愛! 無償の愛! 無垢なる愛! なんと素晴らしきことデスか! なんと美しきものデスか! 主の身を案じ、ただひたすらに駆けるその志の、意思の、在り方の、愛し方のなんと目覚ましきことデスか! おぉ、おぉ、おぉぉ! 勤勉デス! アナタこそ、勤勉なる愛の徒! いぃ、いぃ、素晴らしいぃぃぃぃ!」

 感激する狂人はひとり舞台に夢中で、逃走自体にはなんら関心を持っていない。
 そのまま、スバルの身柄は草原を駆け抜け、戦場を迂回して後方へ。そこには負傷者の救援に当たるフェリスが残っており、

「スバルきゅん!? やられたの!? 死んだ?」

「かろうじて……生きて、るよ。全身すげぇ痛いけど、パトラッシュのおかげで……って、おぶっ」

 手酷い出迎えの言葉に苦笑で応じるスバル。その身が、フェリスの傍に到達した途端に草地に乱暴に投げ捨てられた。
 顔から地面に突っ込み、口の中に葉っぱと土の味が雑じる感覚にスバルは唖然。それから文句のひとつでも言おうとパトラッシュを振り返り――、

「お前、ここまで運んでくれたんならもうちょっと扱いが……」

 その無残な地竜の姿を前に、喉が凍りついた。

 見えざる手によって放り投げられたとき、パトラッシュは尾を掴まれていた。その尾に当たる部分が根元から引き千切られ、おびただしい量の血が溢れ出し、今も草原を赤く染めている。それ以外にも横腹を二ヶ所抉られ、投げられて地面に叩きつけられたときだろうか。左の前足が先端からぐしゃぐしゃになっていた。

 文句なし、文字通りの満身創痍だ。
 スバルを後方へ連れてきたことで余力を使い果たしたのか、パトラッシュはその巨躯を地響きを立てて草原に横たえてしまう。そのまま、まるで死んだように浅く低い呼吸を繰り返すばかり。
 思わず、その体にスバルは取り縋り、

「おい! 嘘だろ……パトラッシュ! おま、お前……俺、俺のは、判断ミスで、こんな……おい!」

 呼びかけて手で触れても、パトラッシュから返る反応はない。むしろどんどん呼吸の感覚が狭まり、生気は弱まる一方で。

「ふぇ、フェリス! パトラッシュが……頼む、助けて……」

「この子は立派に、君を守る役目を果たしたんだよ。そのことだけ、誇ってあげな」

 振り返り、震える声で嘆願するスバルにフェリスは鋭い声でそう言い切る。
 その返答の意味が一瞬、スバルにはわからない。求めている答えと違う。まるでそれでは、パトラッシュのことを諦めろと言われているようで。

「その地竜は命を全うしたの。君も私も、全ては拾えない。わかるでしょ?」

 酷薄に、とこのときのスバルには感じられるほど、フェリスはばっさりと言い捨てる。その彼の態度に反論しかけるが、なにを口に出すべきかスバルにはわからない。
 ただ、今も触れているはずのパトラッシュの存在が遠く、ぼやけていくような喪失感だけが掌の中にあり――、

「それに君が抜けたから……大罪司教が、動く!」

「――ッ!」

 その声に顔を向ければ、戦場に向かって伸びる見えざる手がスバルに見えた。
 掌の進路上には騎士が二人、汚染されておらず奮戦する老騎士と若い騎士がいたが、

「そこの二人、危な――!」

 声が届くより、掌が二人の騎士の頭を首からもぎ取る方が早い。
 血が噴出し、黒い掌に掴まれた首が宙を浮遊し、唖然とした表情のそれが次の瞬間には果実のように握り潰される。遅れて、胴体が痙攣しながら崩れ落ち、哄笑。

「さあ! さあ! さあさあさあさあさあさあさあ!! 終わりの始まりデス! 終わるのデス! 終わりを終わりを終わらせて、全てを捧げるのデス! ワタシは今、ひどく感動して感涙して感激しているのデス! 故に手ずから、アナタ方へ愛を込めて、安らかな終わりを差し上げたいのデス!」

 ペテルギウスの哄笑と、身勝手な口上は止まらない。
 無数の見えざる手が影から伸び、獲物を舌舐めずりするように選んでいるのがスバルには見える。

 ヴィルヘルムたちも、目に見えないそれを警戒して身構えているが、触れれば終わりの不可視の魔手――それを防ぐ手立てなど、あるはずもない。

「どう、する……」

 必死で、スバルは頭を回転させる。
 この状況で、事態を把握しているのはスバルだけだ。なにかを引っ繰り返す策を打てるとすればスバルしかいない。
 なのに沸騰するほどに頭をひねっても答えは出ず、それどころか意識は今も失われつつあるパトラッシュの方に半ば持っていかれている次第だった。

 ――どうする、どうする、どうする、どうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするるるるるるるる。

 脳が焼けつきそうなほどに思考を回し、しかし掠れた息以外が出てこない。
 自身に失望してしまいそうになる状況、その中でこちらの決断を待たず、時間切れを宣告するようにペテルギウスが両手を振り上げ、

「――むぅ!?」

 とっさの判断で矮躯が飛びずさり、一瞬遅れてペテルギウスがいた地点にマナが集束――生まれる氷の杭が真下から突き出し、惜しくも狂人を仕留め損なう。

「いったい、誰デスか!?」

 声を荒げて振り返り、ペテルギウスは丘の上を仰ぐ。
 つられてその場にいた誰もがその視線を追いかけ、その存在に気付いた。

 風が吹き、銀色の髪が風になびき、美しい少女が日差しを背に立っている。
 息を切らし、額に汗を浮かべ、それでも紫紺の瞳は力を失わず、

「――そこまでよ、悪党」

 銀鈴の声音が、鋭く凛々しい響きを草原の風に乗せた。

 その姿に、ペテルギウスの瞳が歓喜に、スバルの瞳が動揺に押し開かれる。
 出会わせてはいけない狂人に、出会わせてはいけない少女を会わせてしまった己の無念さに、スバルの喉が絶望感に満たされる。

 ――終局が近い。光明の見えないまま、終わりが近づいている。

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