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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第三章 再来の王都

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第三章59 『絶望に抗う賭け』

 高く高く、遠く遠く、重なり合うように哄笑が響き渡る。

 霧の蔓延する世界で、その巨体を揺らして遊泳する魚影が合わせて三つ。
 全身に歪な無数の口を開き、そこから甲高い鳴き声を発し続ける異形の存在。数多の旅人を食らい、数え切れないほどの命を無に帰してきた悪意の産物。

 ただの一匹ですら人々に絶望を与えるのに十分な脅威を持つそれは今、その魚影を三に増やして抗おうとする人間たちを嘲笑っていた。

 頭上に浮かぶ白鯨の巨躯を見上げ、誰かが膝を着く音が小さく届く。次第にそれは連続し、高い音を立てて武器を取り落とす音も続いた。
 見れば、討伐隊に参加していた騎士のひとりがぐったりと肩を落とし、下を向いて顔を覆いながら蹲っている。肩を震わせ、喉を嗚咽が駆け上がるのを誰にも止めることはできない。

 その騎士の周囲にいた仲間たちもまた、誰ひとりかける言葉を持たなかった。
 万全の装備を持ち込み、機先を制して火力を叩き込み、これでもかと攻勢をかけた上での――この理不尽な状況だ。

 精神汚染による兵力の半減は深刻で、残った主戦力もまた新たに出現した白鯨の奇襲により粉砕されてしまった。
 残る力を結集しても、それは最初のこちらの戦力の半分にも満たない。その上で相手にしなくてはならない魔獣の数は三倍――勝ち目など、あるはずがない。

 誰もが一瞬でそれを悟り、自分たちの命が、目的が、ここで潰えるのだと思い知らされた。
 魔獣の恐ろしさとおぞましさ。そしてその魔獣に奪われた大切な絆の重み。その絆に報いることのできない、自分たちの無力さに、どうしようもなく。

 積み上げてきたものが崩れ落ち、支え続けてきた心が折られたとき、その場に膝を屈することを誰が責めることができるだろうか。
 理不尽で、動かしようのない現実が迫るとき、誰に諦めを否定することができるだろうか。

「――呑み込ませるな!!」

 ふいに、怒号が沈黙の落ちかけた平原に轟き渡る。
 声に思わず顔を上げれば、地を蹴って白鯨の一体に飛びかかる影――給仕服の裾を翻し、手に凶悪な棘付きの鉄球を握る少女の姿が見えた。

 豪風をまとい、うなる鉄球が動きを止めていた白鯨の鼻面を直撃。固い外皮を易々と打ち砕き、露出する骨と肉を抉って貫いて、なおも破壊を伝播する。
 絶叫が上がり、首を持ち上げて空へ上がろうと尾を振る白鯨。その白鯨の尾が地面から延びる氷の刃に貫かれ、停滞したところを旋回してくる鉄球が再び殴打。小柄な少女の一発に、白鯨の巨躯が大きく揺らいで血がぶちまけられる。

「腹に呑み込まれる前なら、まだなんとかなるはずだ――!」

 痛む肩を押さえて、額から血を流して叫んでいるのは少年だった。
 前に出て、鉄球を振るう少女に指示を出し、戦いに参戦することのできない己の無力さを歯がゆく思う気持ちで顔をしかめ、それでも彼は足を踏み出す。

 傍らに倒れていた地竜が体を起こすと、その背にゆっくりとまたがり、明らかに乗り慣れていない不格好な姿勢で、しかししっかり力強く手綱を握り締めて、

「まだだ!! ――まだ、なにも終わっちゃいない!!」

 諦めに支配された騎士たちの前で、己の心を奮い立たせるように、顔を上げて、歯を剥き出し、目を見開いて、白鯨を睨みつけて、少年は叫んだ。

「――このぐらいの絶望で、俺が止まると思うなよ!!」


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――絶望の足音がゆっくりと近づいてくるのを、スバルははっきりと実感していた。

 頭上に一匹、背後に一匹、目の前に一匹――合計で三匹、冗談じゃない。
 一匹だけでどれだけこちらの戦力を注ぎ込み、あそこまで傷を負わせたと思っているのか。それで都合が悪くなれば、仲間を二匹呼んで本番開始? ふざけるな。

 運命はいったいどれだけ、理不尽にこちらを翻弄すれば気が済むというのだろうか。

 リカードに庇われる形で地に投げ出されて、倒れたままの姿勢でスバルは歯を食い縛る。そうして奥歯を噛みしめていなければ、弱音が、嗚咽が、こぼれ出そうだ。
 スッと、目の前が暗くなるような錯覚。受け入れ難い事態に脳が負荷に耐え切れず、そのまま意識が落ちてしまいそうになる失望感。

 見慣れた絶望が嘲笑を浮かべて、馴れ馴れしく肩に手を回してくるのがわかる。

 ――なぁに、そろそろ今回も諦める頃合いだろう?

 顔も見えない薄暗い影が半月の形に口を開き、聞き慣れた誰かの声でそう諦めを促してくる。その言葉にはっきりと、スバルは目の前の事態の重さを受け入れる。

 周囲、騎士たちもスバルと同じように、膝を屈している姿がちらほらと見えた。
 彼らにも、目の前の状況がどうにもならないと理解できたのだ。抗うことを始める気概さえ奪われて、誰もが瞳から力を失い、武器を握る気力を吹き消されている。

 ふと、それらの視線をめぐらせ、肩を組む絶望の声に沈みかけて、気付く。

 すぐ傍らに、スバルと同様に地竜から投げ出されたレムがいる。横倒しになった彼女は半身を起こし、その整った横顔に悲痛な感情を浮かべていた。
 強張る頬に青ざめた唇、震える瞼。こうしてじっくり見てみると、まつ毛が長いんだな、と何気なく思う。
 ――笑っている方がずっと似合うと、そうも思った。
 だから、

「てめぇの出番は、もうずっとこねぇよ」

 馴れ馴れしく、肩に回っていた腕を乱暴に解く。
 そのスバルの行動に驚いたようにへの字に口を曲げる影へ、笑顔を向けてから思い切りに右ストレート――黒い影が粉々になり、同時に体の震えが止まった。

 くだらない。情けない。迷っている暇も、足を止めている時間もどこにもない。

 鯨が二匹、増えたからなんだ。
 手足は動く。顔も上がるし、目も見えている。声は出る、声は届く。レムがいる。レムが生きてる。なにもかもまだ、拾うのを諦める場面じゃない。

 ――立て。

 幾度も、何度も、繰り返し繰り返し、心をへし折られてきた。

 ――立て。

 理不尽な運命に振り回されて、そのたびに絶望の終焉を押しつけられてきた。

 ――立て。

 もう駄目だと全てを投げ出し、なにもかもを打ち捨てた先へ逃げ出そうとして、それすら許されないと、自分の心に向き合わされた。

 ――立て。

 なんのために?

 ――立て!

「このときの、ためだろうがぁ!!」

 拳を地面に叩きつけて、起こした半身に勢いをつけて立ち上がる。
 吠えて、顔を上げるスバルの方を、驚いた顔でレムが見た。その彼女を見下ろし、手を差し伸べて、スバルは眼前の白鯨を睨みつける。

「まだ終わらない。――終わりにしない」

「……スバルくん」

「やるぞ、レム。見せ場だ」

 おずおずと、伸びてくる手をもどかしく掴み、引き上げる。
 起き上がった少女を胸に抱きとめて、スバルは間近に迫るその顔と向き合い、

「諦めるのは似合わねぇ。俺も、お前も――誰にでも!」


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 吠えたけるレムが白鯨に猛然と飛びかかり、右の拳を岩肌に突き刺して体をよじ登る。途上で振り回される鉄球が激しい音を立てて削岩し、血飛沫を散らせながらの猛攻に大きな体をよじって、白鯨が苦鳴を上げている。

 レムが飛びかかるのは、背後からヴィルヘルムをひと呑みにした一匹だ。咀嚼のために顎が動いたのは確認できたが、まだ喉を通す場面まではいっていないはず。
 最悪の場合、あの石臼のような歯に引き潰された可能性があるが――、

「頭が潰れてなけりゃ、どうにか引っ張り出してやらぁ――!」

 手綱を引き、スバルはあまりに頼りない感覚の中で地竜の背に体重を預ける。
 レムが操るのではなく、スバルが手綱を手繰るのはほとんどぶっつけ本番だ。フリューゲルの大樹到着までの道筋と、到着してからのほんの二時間ばかり――スバルが地竜をひとりで扱うのに、練習できたわずかな時間がそれだ。

 元の世界での乗馬の経験なども一切ないスバルにとって、ほんの数時間の練習では地竜を自在に操ることなどできるはずもない。
 方向と速度を指示し、あとは振り落とされないようしがみつくのが精いっぱいだ。それでも知能の高い地竜はスバルの意図と実力を把握して、背に乗る未熟な騎乗者を落とすまいと気遣ってくれているのがわかる。

 いい地竜だ。足が速くて、体力もあって、なにより賢い。今からお前の名前はパトラッシュだ。忠義に厚い相棒、と考えたらそれしか思いつかなかった。

「行くぜ、パトラッシュ! 鯨の鼻先でくるくる回れ!」

 高らかに叫び、手綱を弾いて地竜を走らせる。応じるパトラッシュが前のめりに駆け出し、強大な白鯨目掛けて本能を押さえ込んで突っ込んでくれる。

 体に取りつくレムを振り落とそうと必死に身をよじっていた白鯨が、しかしスバルの接近を察知して首をこちらへ思わず向ける。その横っ面に、

「スバルくんの臭いを嗅ぐのはレムの特権です――!」

 飛び上がり、砲弾のような威力の蹴りをレムがぶち込んだ。
 巨大な顔面がわずかにぶれ、そこに追撃の鉄球が大気を押し退けて飛来――頬をぶち抜いて口内を蹂躙し、反対側の頬を数本の歯を巻き添えにして突き抜ける。
 黄色い体液と鮮血を大量に吹きこぼし、絶叫を上げる白鯨。その身がついに地に落ちると、まるで陸に上がった魚のように見境なしに暴れ回る。

 大地が抉られ、土塊が激しく散乱する。振り乱される尾が地を割り、風を薙ぎ、不意打ち気味にスバルの真横へと接近――あわや直撃というところで、

「ばばんとミミさんじょー!!」

 子猫の獣人が打撃の寸前に割り込み、手にした杖を振ると魔力の防壁が展開。
 黄色の輝きが打撃を跳ね返し、生まれた間隙をライガーと地竜が一気に駆け抜ける。

 息をつき、スバルはすんでで救ってくれた子猫――ミミを振り返り、

「助かった! 反撃開始とかかっこいいこと言っていきなり終わるとこだぜ!」

「ふふーん、もっと褒めてもいいよー! でも、きょーのところはおにーさんが頑張ったからおあいこにしてあげる!」

「頑張った……?」

 胸を張って、それからスバルに笑いかけてくるミミに首をひねる。すると少女はその頬のヒゲを指で軽く弾いて、

「みんなブルって立てなくなっちゃったとこなのに、一番早く立ち直ったでしょ? えらいぞー、すごいぞー、ミミの次だけどね!」

「大したことじゃねぇよ。このぐらいで絶望なんて、してやれねぇってだけだ」

 大声で賞賛してくるミミにそう応じて、スバルは唇を噛みしめる。
 そうだ。賞賛されるようなことではない。ここまで、スバルがどれだけの辛酸を舐めて、味わってきたと思っているのか。
 それまでの抗えない絶望と比べれば、まだまだ戦いようのある現状――どうして、諦めに浸っている余裕などあるだろうか。

 諦めと遊んでいる暇があるなら、希望を探して血反吐を吐いている方がいい。

 諦めるより抗う方が、ずっとずっと、楽なのだから。

「――――ッ!!」

 弾み、真っ直ぐに駆けるパトラッシュの正面、唐突に現れる魚影が大口を開く。
 喉の奥、赤黒いグロテスクな内臓まで見えそうな至近で、スバルはとっさの回避行動をとろうと身を傾ける。が、その行動よりも白鯨の口腔に充満する霧が噴き出される方がわずかに――、

「口を閉じろ――!!」

 大上段から振り下ろされる見えない刃が、横合いから白鯨の大口を縦に切り潰す。斬撃の威力に口を閉じ、悶えながら地を滑る白鯨の横をスバルとミミが抜ける。間一髪の危機回避に顔を上げれば、戦場の向こうから駆けてくるクルシュの姿がある。
 彼女は走るスバルに並ぶと、白鯨を忌々しげに見ながら、

「一見して、事態は最悪にあるな。ヴィルヘルムはどうした」

「あんたが覚えてるってことは、少なくとも霧にかき消されちゃいねぇ。……レムの奮戦次第ってとこだ」

 首をめぐらせ、反転してこちらを追おうとする白鯨を警戒しながらスバルは答える。それを受け、同じように視界をさまよわせるクルシュ。彼女の視線が止まった先にあるのは、地響きを立てて跳ねている白鯨と、その上で懸命に鉄球を振るって血の海を作り出しているレムの姿だ。

「どう見る、ナツキ・スバル」

「どう見るってのは、どういう意味だ? 勝ち目って意味なら、俺の生死が色々と分けるって自分可愛さまじりに言ってみるが」

「そうではない。おかしいとは思わないか?」

 背後から近づこうとする白鯨の鼻先に、腕を振るうクルシュの斬撃が入る。咆哮が上がり、大気の鳴動を背中に感じながら、スバルは「おかしい?」と彼女を見る。

「白鯨の数が三体に増えた。単純に見れば絶望的な状況にある。だが、もし仮に白鯨が群れを為す魔獣であるのだとすれば、いくらなんでもそのことが誰にも伝わっていないなどあるものか?」

「言いたいことがイマイチわからねぇ」

「なにか、カラクリがあるはずだ」

 はっきりと断言し、クルシュはその凛々しい面差しをスバルへ向ける。
 自然、その強い眼差しに射抜かれて、スバルは背筋を伸ばし、

「それを、見つけろってことか」

「時間稼ぎは卿の逃げ足と、それを援護する形で我々が行う。いずれにせよ、そう長くはもたない。なんとかするぞ――撤退など、もはや選択肢にないのだから」

 言い切り、クルシュの地竜が方向を変えてスバルから離れていく。
 彼女は大きく迂回し、睥睨する白鯨を回り込みながら、次々と散り散りになっていた討伐隊の各隊の下へとめぐり、声を上げる。

「立て! 顔を上げろ! 武器を持て! 卿らはなんのためにここまできた!」

「――――」

 絶望と悲嘆に暮れて、顔を俯けていた男たちが視線を上げる。
 彼らの前でクルシュは堂々と、抜き放った宝剣を天にかざしながら、

「あの男を見ろ! あれは武器もなく、非力で、吹けば飛ぶような弱者だ。打ち倒されるところを、私もこの目で見た無力な男だ!」

 剣で走る背中――地竜にまたがるスバルを示し、クルシュは声をさらに高く上げる。

 他の誰よりも、あの男が一番弱い。
 戦う力がない。生き残るだけの能力もない。何度も何度も挫かれて、そのたびに打ちひしがれてきた敗北だらけの男だ。
 そんな一番弱い男が、まだやれると誰よりも早く吠えている。

 この場の誰よりも無力な男が、まだ戦えると歯を食い縛り、痛みに耐えて、涙を堪えて、血反吐を吐きながら、それでもまだ抗おうと上を見ている。

「それでどうして、我らが下を向いていられようか」

「――――」

「我々の力は弱く、束ねたとて魔獣の喉元に届くかわからない。だとしても、もっとも弱い男が諦めていないのに、どうして我らに膝を折ることが許される!」

「お、おお……」

 士気を折られた男たちが顔を見合わせ、震える膝を鼓舞して立ち上がる。
 取り落とした武器を手に持ち、主の騎乗を待つ地竜がその傍らに寄り添った。

 手を伸ばし、手綱を握り、膝を屈したはずの騎士たちが地竜の背にまたがる。地竜が嘶き、その背の上で騎士たちもまた、剣を抜いて喉を嗄らした。
 雄叫びが上がる。自らの心を奮い立たせるように、己の魂を誇るために。

 戦う弱い少年の後ろで、蹲って下を向くことの愚かしさを、吠えて猛って追い払う。
 その感情を『恥』という。『恥』が恐れを、諦めを、負感情を切り開き、騎士たちに顔を上げさせ、前へ踏み出す力を与える。

「行くぞ――総員、突撃!!」

「おおお――!!!」

 屈したはずの魂にかけて、騎士たちが再び前進する。
 地を蹴る地竜の足に土煙が立ち上り、総勢で五十を下回る数になった討伐隊が街道を突き抜け、刃の届く位置を泳ぐ二体の白鯨に猛然と襲いかかった。


 その討伐隊の膨れ上がる士気と、それをやってのけたクルシュの一喝を聞き、スバルは口の端に苦笑が上るのを堪え切れない。

「弱者だの負け犬だの、好き放題言ってくれやがって……」

 否定する気にもならないのだから、それこそ重傷だといえる。
 好きに呼べばいいし、好きに利用してくれればいい。スバルが無力で、負けっ放しで、折れっ放しの投げ出しっ放しでここまでやってきたのは事実だ。
 それがわかっているから、スバルは今、ここで吠えることができる。

 負けっ放しでは終わらないし、折れっ放しにはしておけないし、投げ出しっ放しはやめ時であるし、無力であることは許されない。

「頼むぜ、パトラッシュ。もっぺん、鼻先まで行って即離脱だ!」

 地竜が斜めに傾いで地を削り、鋭いターンを切って再度、白鯨目掛けて突貫する。
 眼前、体に取りつくレムを振り落とそうと躍起になる白鯨に、クルシュと別れた混成小隊が援護の攻撃を入れている。騎士剣で火花を上げて白鯨の外皮を削り、距離をとりながら巨躯と並走する騎兵が魔鉱石による爆撃を加える。

 絶叫を上げ、地べたを白鯨がのたうち回る。その痛みに悶える挙動ですら、間近にいる人間にとっては避け難い暴力だ。一騎の地竜と騎手がその一撃に吹き飛ばされ、超重量の下敷きになって骨の砕け散る音が鳴る。
 血が噴き出し、命がひとつ潰える。――それをスバルは目に焼きつけた。

 背筋に寒気が走る。間に合わず、救えなかったそれはスバルの決断の結果だ。
 この戦いを始めようと、スバルが言ったその結果。目をそらすことはできない。それをして、受け入れることを拒絶した瞬間、スバルは『恥』の感情に負ける。
 己の心に負けたとき、もっとも唾棄すべき自分の弱さと向き合ったとき、それを深く優しく、拒絶してもらったことがあったのだから、それ以上は甘えられない。

 暴れる白鯨が、スバルの接近を察して全身の口を開ける。
 ゾッと血の気が引く感覚を味わいながら、地竜の全力に信頼を預けて風を切る。――その真横を、無数の口から放たれる『消失の霧』がかすめていく。
 仮に指一本にでも触れれば、そこから掻き消されてスバルの存在は終わりだ。全身を『死』とは異なる、喪失感に取り巻かれる想像が心胆を震え上がらせる。
 だが、

「エルフーラ!!」「させてたまるか!!」「どこを見てやがるんだよぉ!」

 風の魔法が霧を払い、怒号を上げる刃が槌が、霧を放つ口を叩き潰す。
 騎士たちの援護で霧の弾幕がわずかに薄まる。が、それでもなお絶望的な火力。全身に迫る消失の感覚に、スバルの神経が終焉を察して研ぎ澄まされる。

 走る順路は地竜に任せ、地竜の背の上でスバルの肉体が回避運動。腕を跳ね上げてプッシュアップ。地竜の背の上で倒立するように後ろから迫る霧を避け、完全にバランスを崩して背から落ちるが――、

「こん……じょぉおおおお!!」

 握りしめた手綱と、鐙に膝をつっかけてかろうじて堪える。元の世界でひたすらに理由なく木刀を振り続けて鍛えた握力が、振動と揺れと焦燥感で滑りそうになる掌を寸前で引き止める。
 半ば足を引きずりかけながらの逃走――弾幕を抜ける。

 視界が晴れて、速度をゆるめる地竜に合わせ、スバルは後ろから見ればこれ以上ないほど無様な動作で再び騎乗。元から少ない体力の上限をさらに減らし、そのまま今度はもう一方――クルシュたちが攻勢をかける白鯨へと足を向けた。

「掻き回して……はぁっ。クソ、命張ってるばっかりじゃねぇぞ、頭も回せ!」

 荒い息を吐き、再び命懸けの囮行為に身をさらしながら、スバルは先ほどのクルシュとの会話で持ち上がった『カラクリ』について思考をめぐらせる。

 三体の魔獣――白鯨について、スバルは寡聞にして無知なままだ。故に『霧』の脅威についても、その存在の長きにわたる歴史についても、この世界を生きてきた彼女らにはまったく追いついていない。
 しかし、そんなスバルにでも疑問に思えることはある。十四年、妻の仇として白鯨を追い続けてきたヴィルヘルムが、『白鯨は複数存在する』というような致命的な情報を見落とすものだろうか。仮に知られていなかったとすれば、これまでの同時に出現するような状況はあり得なかったのだろうか。

「どうして急に増えた……もとから三匹、なのは前提に合わねぇ……!」

 なにか、とっかかりが掴めそうな気がする。が、その前にパトラッシュの懸命な疾走が白鯨の嗅覚範囲に到達。
 宝剣の斬撃で下腹を切り裂くクルシュを追っていた白鯨の視線が、ぐるりと大きくめぐってスバルの方へと向けられる。同時、開かれた口腔に溜め込まれた濃霧が、大気を打ち破る咆哮とともに膨大な破壊となって吐き出された。

 鋭く角度を変えて踏み込むパトラッシュ。迫る霧の暴威からその体を逃れさせるが、勢力範囲から逃れるには半歩足りない。――そのスバルたちの足りない半歩を、

「それはボクたちが!」
「さっせないぞぉー!」

 割り込んできたミミとヘータローの二人が稼ぐ。
 逃れ切れないスバルの隣で、双子の獣人が口を開き、「わ」と「は」の咆哮を重ねて放つ――高い音同士の交わりが波紋を生み、それは距離をとって破壊に変換、膨大な震動破が波打つように平原の大地を耕し、迫る霧すらをも正面から吹き散らす。

「うおおおお!! すっっげええええええ!!」

「そーだろーそーだろー! もっと褒めろー!」

 スバルの端的な賞賛に、ミミが胸を張って満足げに頬をゆるめる。その隣で息を切らすヘータローが「お姉ちゃんてば……」と小さくこぼし、それから駆けるライガーでこちらの左右を囲みながら、

「援護します。スバルさんの存在がないと……この戦いの勝ち筋が見えませんから」

「ばーっとやって、どかーんってやって、ずばばんばーんってやるんじゃダメなの?」

「ばーどかずばばーんってやるのに、スバルさんの協力が必要なんだよ、お姉ちゃん」

「へー」

 と、スバルを挟んで緊張感に欠ける会話を続ける双子。
 スバルは事態の困窮ぶりの触りも理解していなさそうなミミをさて置き、話の通じそうなヘータローの方へ顔を向けると、

「さっきの合体攻撃、途中で白鯨にぶち込んだやつだよな。まだいけんのか?」

「ギリギリまでマナを絞ってやるので、あと一回がボクは限界です。――団長の回復が済むまで、ボクとお姉ちゃんでスバルさんを守りますから」

「リカードの奴、生きてるのか!?」

 思わぬ朗報にスバルが声を上げると、ヘータローは「はい」と頷く。
 その態度にスバルの内心に安堵が広がる。彼の乗っていたライガーが無残に殺されたのと、大量の鮮血に下手したら形も残らないぐらい消し飛んだものと思ったのだが。

「瀕死の団長から、スバルさんに伝言もあります」

「伝言……高くつくぞ、とかじゃねぇだろな」

「それはあとで本人が直接言うと思いますけど……こうです。こほん、『なんや、軽ぅなっとるで。ワイが死なんかったんがその証拠や』。以上です」

 律儀に関西弁――カララギ弁まで踏襲して、リカードの声真似を行うヘータロー。そのモノマネのクオリティには言及せず、スバルは伝えられた言葉の意味を考える。
 文字通り、リカードが命懸けでこちらへ差し出したメッセージだ。そこに込められた意味と、その真意に意識を向ければ――。

「モノマネ全然似てないな」

「うん、ちょー似てない! 才能ないぞー!」

「そんなこと言ってる場合じゃないよぉ!」

 空気を読まないスバルの物言いにミミが追従、ヘータローが泣きそうな声で反論するが、スバルはそれを聞き流して空を見上げる。

 二手に分かれた討伐隊と揉み合い、いまだ激戦を繰り広げる二頭の白鯨。
 空に浮かぶ白鯨は三頭の魔獣の中でも最初に出現し、猛攻の前に上空へ逃れた一匹だ。依然、戦いに加わるでもなく高空からスバルたちを見下ろしている。

 その態度がどこか不自然にスバルには思えた。
 戦力が減少し、減らした数をさらに二つに分けて抗っているのが現状の戦局だ。スバルによる撹乱の効果があるとはいえ、空に浮かぶ白鯨がどちらかの戦場に加勢すれば、それだけで戦局は一気に傾く。片方が食い破られれば、それで終わりだ。
 それなのに、あの白鯨がなにもしないわけは――。

「リカードの伝言……」

 軽い、とリカードはスバルに伝えた。
 命懸けで、死ななかったのはそれが理由だと。そこにどんな意味があるのか。軽いとはなにが軽かったのか。命か。確かに戦場ではそれが軽い。だがそういう意味ではなかったように思える。軽い、軽いとは。

「このヘビーでベリーハードな状況で、なにが軽いってんだよ……!」

 地竜の揺れに身を預け、再び白鯨の鼻先を突っ切る。クルシュたちに取りつかれていた白鯨が口腔をこちらに向けるが、開いた口の中にクルシュの見えない斬撃が、魔鉱石が投げ込まれて血霧が飛び散る。
 騎士たちの雄叫びが上がる。ひとり、またひとりと確実に数を減らされながら、尽きることのない士気だけが今や戦線を支えていた。

 死を目前にしながらも、抗う覚悟を決めた人間はここまで強くなるものなのか。
 討伐隊のフルメンバーで挑んでやっとだった白鯨に、主力を失って兵力すら減らした武力が拮抗しているのだから。――これを意思の力と言わずして、

「いくらなんでも、意思の力万能説は言い過ぎだろ」

 そこまで考えて、スバルはハッと顔を上げる。背後、置き去りにしてきた白鯨を振り返り、目を凝らして遠ざかる魔獣の顔面を睨みつけた。
 そして、気付く。

「だとしたら……!」

 歯を噛み、わき上がった可能性の奔流にスバルの全身を震えが走る。
 意思を握る手綱に伝え、パトラッシュが鋭い切り返しで猛然ともう一頭の白鯨へ。奮戦するレムが鬼の力を解放し、ライガーの一頭にまたがりながら鉄球で白鯨の胴体に次々と風穴を作っている。彼女はそのエプロンドレスを魔獣の返り血でドロドロにしながらも、接近するスバルに気付くと気丈にも微笑む。
 鮮血に彩られた微笑みはただただ凄惨さを際立てていたが、不謹慎にもスバルにはレムのその姿が気高く、愛おしくてたまらなかった。

 この劣勢そのものの戦況で、それでも彼女は無謀なスバルの覚悟を信じている。
 その信頼に、親愛に、答えなくてはならない。

「――――!」

 言葉を交わすこともなく、スバルの地竜とレムのライガーが交錯し、スバルは白鯨の鼻先へ、レムは白鯨の尾の方へ向かって騎獣を走らせる。
 足を止めて、対話する必要などない。スバルにはスバルの役割が。そしてレムにはレムの役割があることを、互いがすでに知っているのだから。

 白鯨の頭部側へ回り込むと、スバルの接近に気付く魔獣が頭をこちらへ向けた。頭部の真横、目の下あたりに出現する複数の口が牙を剥き出し、涎を垂らしながら白い霧を噴出する。遅い。牽制にもならない。

「どどーん! ばばーん! ずんばらばー!」

 八の字にパトラッシュをまたぎながら、ミミの操るライガーが縦横無尽に飛び回る。大犬の背中で決めポーズをとるミミが、抜けた効果音を口にするたびに掌の中の杖の先端が輝き、生じる魔法壁が霧を遮断。スバルへの着弾までの時間を稼ぐ。

「これはたかくつくんだぞー、おにーさん!」

「これが終わったら百回ぐらいありがとうって言ってやらぁ!」

「ならよーし!」

 安上がりなミミの返答に背を任せ、並走する白鯨を追い抜き、追い越し、前へ出たスバルは首を傾けて魔獣を睨みつける。スバルの方へぎょろりと、『隻眼』を向けてくる白鯨を確認し、スバルは間違いないと確信に頬を歪めた。

「思った通りだ。てめぇら、三匹いたんじゃなくて――分裂してやがるな!」

 クルシュたちと一戦を交える白鯨にも、左目が存在していなかった。
 今、こうして真横を駆け抜けた白鯨もそれは同じ。当然、その傷を負った空に浮かぶ最後の一匹も同様だろう。――左目の欠落は、即ちヴィルヘルムの斬撃だ。

 同じ傷を一匹だけでなく、他の二匹も共有している理由など、はっきりしている。
 空に浮かぶ一匹が分裂し、もう二匹を生み出したからに他ならない。

「一発が軽いのも、ある程度戦えちまってるのも、そういうカラクリだろうが!」

 不意打ちにも関わらず、尾の一撃でリカードを殺し損ねたこと。
 あれほどの戦力で拮抗していたはずの白鯨が、兵力の激減した討伐隊である程度戦えてしまっていること。
 ――奇跡や意思の力といったご都合主義を信じられない、捻くれ者のスバルはそこにこそ複数の白鯨の出現の根幹を見た。

 『消失の霧』という一撃必殺を持つが故に、白鯨は耐久力を犠牲にして手数を優先した。数の暴力――その威容が増えたことで、討伐隊の心が折れるのであればそれで戦いそのものすら終わっていただろう。
 魔獣という存在が人間の機微を理解してそんな作戦を打ったとも考え難いが、事実としてそれだけの効果が『分裂』には存在した。

 もし仮にあの場で、スバルが吠えていなかったらどうなっていただろうか。
 吠えていなかったら、なんてことは今のスバルにはわからない。吠えずにいた場合の未来を見れる可能性がスバルにはあるが、そんな未来は見たいとも思わない。
 もう二度と、お前らの面を長時間見るのなどご免被る――。

「――なんだ!?」

 ひとつの結論に結びついたスバルの前で、こちらを追おうとしていた白鯨の動きに変化が生じる。宙に浮かぶ体を地に擦りつけて、下腹で地面を削りながら滑空。まるで異物感に耐え切れずにいるような仕草に、

「お姉ちゃん、今!」
「痒いのに手がないなんて大変だぁー!」

 好機と見たヘータローが飛び出し、囲むように動いたミミが白鯨の動きに誤解した感想を漏らす。双子は意思の疎通はともあれ、息の合った動きで左右から白鯨の胴体を挟み込み、同時に口を開くと――、

「わ――!」
「は――!!」

 左右からの共振攻撃に白鯨の胴体が大きくたわみ、くびれの生まれた白鯨の体内で圧迫感に耐えかねた内臓がいくつも押し潰される。硬質の外皮も歪み、亀裂が走り、傷口の至るところから再出血し、白鯨にこれまでで最大のダメージ――そして、

「――ずぁぁぁああああ!!」

 地面に擦りつけられていた下腹の一部が内側から膨らみ、血肉をぶちまけて切り開かれた。赤黒い体液が地面に濁流のように噴出する中、その流れに乗って外に吐き出されるのは――、

「ヴィルヘルムさん!?」

 白鯨の顎にひと呑みにされ、そのまま生存が絶望視されていた老剣士の帰還だ。
 暴れる白鯨を討伐隊が押さえる中、駆け戻るスバルは倒れ込むヴィルヘルムの下へ。全身をおびただしい血で汚すヴィルヘルムは片膝を着き、突き立てた剣を支えに半身を起こしながら、

「……未熟。油断を、しました……」

「喋らなくていいって! ああ、クソ、どうしたらいいかわかんねぇけど、とにかく生きてんならなによりだ。すぐにフェリスのとこに戻ろう!」

 手を差し伸べようとして、スバルは剣を握る右腕と反対――ヴィルヘルムの左腕が、肩から先がほとんど千切れかけていることに気付いて、地竜の背を降りる。そのまま肩を貸してヴィルヘルムをパトラッシュへ乗せようとするが、

「ま、だ。まだまだ、私は……」

「言ってる場合かよ! 鯨の前にあんたが死ぬぞ! このぐらいじゃ死なねぇとか眠たいこと言うのも聞かねぇ! 生き死にに関しちゃ俺の方が先達だ!」

「なに、を……」

 満身創痍でありながら、その双眸から戦意の灯火を消さないヴィルヘルム。その彼の無謀を一喝して黙らせ、スバルは無理やりにその体を抱き起こす。と、

「おじーさんが出てきたぞー!」
「ヴィルヘルムさん、生きてるんですか!?」

 駆け寄ってきた双子が老人を抱えるスバルを見て、すぐ傍らまでやってくる。二人は顔を見合わせて頷き合うと、

「スバルさん。ヴィルヘルムさんをフェリックスさんのところまで?」

「ふぇりっく……ああ、フェリスか。そうだよ。瀕死の状態で今にもヤバい。ホントなら俺が連れていきてぇんだが……」

 首を傾け、スバルは再起動を始めようとしている白鯨を睨みつける。
 腹の傷は深く、そこからとめどない体液の流出はあるものの、全身の口を開閉して淡い霧を生み出す魔獣の姿からは戦意が喪失する気配がない。

 現状、戦力の拮抗に少なからずスバルの撹乱が貢献していることは間違いない。ここでスバルがヴィルヘルムを担いで抜けるのは戦力ダウン――。

「だけで済めばいいけど、下手したらケガ人集まってるとこに鯨を引っ張っていきかねねぇ。ヴィルヘルムさん、任していいか?」

「それはボクらのライガーでやりますけど……なにか、思いついたんですか?」

 スバルからヴィルヘルムを受け取り、体格差に苦労しつつも大犬の背中にどうにか乗せるヘータロー。彼はそれからスバルを見上げると、能天気に「がんばんなきゃー」と手を叩いている姉の手を引き、

「勝算があるならお聞きします。もしもダメなら、ボクはお姉ちゃんの手を引いてここから逃げなきゃいけませんから」

「えー、どーしてだよー。まだあいつをやっつけてないのに……」

「お姉ちゃんは黙ってて」

 ぴしゃりと告げる弟にミミが不満そうに唇を尖らせる。
 そんな双子のやり取りを目にしながら、スバルは「そうだよな」と納得の頷き。

「お前らは傭兵だ。俺やクルシュ、鯨に恨みがある騎士たちと違って金で雇われてるに過ぎない。……命まで賭ける義理はねぇよな」

「命を捨てる義理がないだけです。誤解されたく、ないので」

 気弱そうな顔と態度だが、毅然と言わなくてはならないことを言うヘータロー。自分の腰ほどまでしかない小さな獣人を見下ろし、スバルは「悪い」と前置きしてから、

「時間がねぇ。勝算は、あると思う。とりあえず、ヴィルヘルムさんを後方送りにして……レムとクルシュか。主だった奴らに声をかけなきゃな」

 傍らのパトラッシュの背に飛ぶようにまたがり、スバルは顔を上げる。
 見上げた空、悠々と泳ぐ魚影を忌々しげに睨みつけて。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「白鯨が分裂している、か」

「ああ、間違いないと思う。傷の位置と、その強さがな。ぶっちゃけた話、多少なりとも直接やり合ってるそっちの方が感じてるだろ?」

「レムは無我夢中でしたけど……でも、確かにそうかもしれません」

 合流したレムとクルシュが、スバルの説明の前に首肯して納得を表明。
 ヴィルヘルムをヘータローが乗っていたライガーに任せてフェリスの下へ送り、相乗りする双子とともに彼女らを拾ってきた状態だ。

 白鯨二体との戦闘が討伐隊と獣人傭兵団に委ねられている状況だが、士気の高さと連携の妙が主力の欠如をかろうじて補っている。
 数分――スバルが鼻先をうろつき回る撹乱を続行していれば、少なくとも作戦会議の時間ぐらいは稼げるだろう。

 走る地竜とライガーで並走しながら、スバルの考察に頷いたクルシュは顔を上げ、

「奴が元の一体より弱っている、というのは同意だ。だが、それを理解したところでどうする。手負いで弱体化しているとはいえ、その脅威は依然こちらを上回っている。いかにフェリスの治療といえど、下がったものの戦線復帰は望めないぞ」

「ヴィルヘルムさんとリカードの合流がないのは痛いが、無茶は言えねぇよ。それは抜きで勝ちにかかるしかない」

「三頭の白鯨を殺す。口で言うのは易いが、高い壁だ」

「三匹も殺す必要はねぇよ。――一匹だけで、いいはずだ」

 ぴくり、とスバルの言葉にクルシュが眉を上げる。
 興味深げにスバルを見る彼女に頷き返し、スバルは指を天に差し向け、

「自分の分身の二匹にバシバシ戦わせて、高みの見物決め込んでやがるあの野郎は、いったいなにをしてやがるんだと思う?」

「加勢もしないで、傷を癒している……?」

 スバルの言葉に自信なさげにレムが答えるが、スバルは首を横に振る。
 見たところ、魔獣といったところでその生体機能に関しては通常の生物から逸脱し切ってはいない。高速の自動治癒――などとふざけた機能は少なくとも、白鯨が完備している絶望要素はなさそうだ。
 ならば、

「奴が本体、か」

「そうだと、俺は睨んでる」

 思い当たった、とクルシュが顔を上げる答えに、スバルも同意を頷きで示す。

 はっきり言って、想像に過ぎない。
 ただ、三頭の白鯨が一頭が分裂したものであることはもはや疑いようがない。問題は三頭に増えた白鯨の倒し方であり、その考察に一役買ったのが、

「あいつが降りてこないのは、どっちの自分にも加勢したりしてこないのは、自分がやられるわけにはいかねぇからだと俺は思う」

「道理には合っている。しかし、逆を言うなら……」

「下にいる二匹は、殺しても本体の痛手にならないかもしれねぇ」

 苦労して白鯨を倒したとしても、その屍が霧となって霧散し、すぐさまに新たな個体となって複製されないとも限らない。そうなれば終わりのない無限ループに突入、コンティニュー制限のあるこちらが早々に音を上げるのは目に見えている。

「あれが降りてこない理由と、倒し方の部分は繋がりました。でも、それでどうするんですか? あそこまで高いところに飛ばれると、攻撃する手段がありません」

 話を静かに聞いていたヘータローがスバルを見上げ、その黒目がちな瞳を潤ませながら問いかけてくる。愛らしい猫の瞳を向けられるスバルに、クルシュが空に浮かぶ白鯨の姿を見上げ、

「私の加護でも、あそこまで届かせるのは並大抵ではない。一太刀ならばあるいはと思うが……それで落とせるなどとは思えない」

 上空へ逃れた白鯨の高度は、おおよそ雲と同じ高さまで達している。
 最初の出現時よりさらに高いその場所取りに、白鯨の性質の嫌らしさが表れているようでスバルは苦い顔を堪えられない。
 あの位置では砲筒を利用した魔鉱石の砲撃も、命中率を大きく下げるだろう。

「レム。あの野郎のすぐ近くに氷の山を浮かべるとか……」

「ごめんなさい。マナは手元から離れれば離れるほど、扱いが難しくなります。ロズワール様なら可能だと思いますけど、レムの腕では」

 状況を打開できるかもしれない可能性が見えたのに、そこに手を貸せないことを心から悔いる顔のレム。その彼女にスバルは手を振り、仕方ないと首を曲げる。

 考えていた、作戦はある。
 クルシュの答えと、ヘータローたちの答えと、レムの答えを待って、それで最善策が出るのであれば、採用したくなかった次善策が。

「ちっとばかし、賭けの要素が強すぎる作戦があるけど……乗るか?」

 片目をつむり、スバルはその次善策を披露する前に彼女たちの覚悟を問う。
 だが、それはそれこそ無粋な問いかけだったと言えるだろう。

 ――この場にはせ参じた時点で、彼女らがその手の賭け事に躊躇などするはずのない、大馬鹿者であることをスバルは知っていたのだから。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――はるか高空から、眼下の争いを白鯨は静かに見下ろしていた。

 戦場を左右に分けて観察するのであれば、平原を二つに割る戦いはちょうど、天を突くような大木を頂点に綺麗に分断されている。
 どちらの戦場においても、小さな人間たちが魔獣の巨躯に取りつき、その手に握った鋼を突き立て、炎を生み出す石を振りかざし、小賢しく抗っている。

 炎が立ち上り、魔獣の苦鳴が下から届くたびに、空を泳ぐ白鯨は白い霧を吐く。
 戦場に立ち込める霧は眼下の同位存在に味方し、争う小さな存在たちを確実に劣勢へと追いやっていた。

 ちょこまかと動き回る影は時間の経過につれて、ひとつ、またひとつと確実に数を減らしていく。『霧』の中に呑まれ、その存在を掻き消されることで。

 全てを呑み尽し、この無益な戦いが終わるのもそう遠いことではない。
 戦力バランスが崩れ出し、瓦解が始まるまで時間の問題だ。

 白鯨が人の知能を持っていればそう考え、自身の勝利を確信したことだろう。
 だが、実際には白鯨にはそのような知能はない。ただ白鯨はその本能に従い、自身が滅ぼされずに済むための、相手を滅ぼし尽くすための行動をするだけ。

 なぜ、そのような判断をするのかなど、獣の本能に問うだけ無粋だろう。
 故に白鯨は本能に任せた判断で、冷静で的確に、獲物をなぶり殺しにしようとしている。

「――――」

 霧を吐き、地上を白く染め上げていく。
 邪魔が入って中断しているが、霧を広げて眼下の世界を覆い尽くさなければならない。それもまた本能の指令であり、そうすることが生きる意味だ。

 そうして、眼下の光景から意識を切り離していた白鯨は、ふいにその巨大な隻眼をぎょろりと動かし、下に意識を向け直す。
 すさまじい勢いで収束するマナを感知し、その流れの根本を見たのだ。

「アル、ヒューマ」

 膨大なマナの渦、その中心に立つのは青い髪の少女であった。
 跪き、時間をかけて練り上げたマナに指向性を与える少女の傍らで、ゆっくりと構築されるのは鋭い先端を覗かせる長大な氷の槍だ。

 十メートル級の凍てつく凶器が、その鋭い穂先を白鯨の下腹へ向けている。
 その狙いは明らかで、そしてそれを目に見える形で行ったのは致命的な失敗だ。

「――お願い!」

 少女の祈るような叫びを受けて、氷の槍が地上から空へ向けて打ち上げられる。
 穂先が狙うのは当然、宙を行く白鯨の胴体の中心だ。

 ぐんぐんと加速し、空を突き破る勢いで迫る氷の殺意――だが、それは加速を得るための距離と、発射の瞬間を見られていた失策により、呆気なく頓挫する。

 白鯨が尾を振り、風を薙ぎながら空を泳ぐ。
 それだけでその巨躯は氷の槍の射程から外れ、白鯨の体を外れた氷槍はすぐ横を通過し、その狙いをあっさりと取りこぼした。

 巨体をくねらせ、その行き過ぎる氷の槍を見送る白鯨。
 ついにその氷柱の尻部分までもが真横を抜け――ほんのささやかな、なにかが砕け散る音が白鯨に聞こえたのは、まさに奇跡であったといえるだろう。

 ――それが取り返しのつかない音であったと報せるための、神の悪魔めいた奇跡だ。

「――よぉ。間近で改めて見ると、超気持ち悪ぃな、お前」

 巨躯の岩肌に、あまりの軽い感触が圧し掛かる。
 頭部の先端に着地したそれの存在を感じ取るのと同時、白鯨は通り過ぎるはずだった氷柱が跡形もなく消失、マナの拡散する波動を嗅ぎ取った。

 ――ついで、鼻先に浮かぶ、堪え難い悪臭の源にも。

「ついてこいや。――言っとくが、俺はシカトできねぇぐらい、ウザさに定評のある男だぜ?」

 悪臭が、悪意に満ちた笑みを浮かべて、そうこぼすのを白鯨は聞いた。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 レムが作り出した氷の槍に掴まって上空へ向かい、そこで『霧払いの結晶石』を砕いて離脱――白鯨に取りつく、というのがスバルの立てた乱暴な作戦の序章だ。

 レムの猛烈な反対を受けたものの、そこは「俺はレムを信じてる!」の連呼で押し切り、切り札である結晶石――『退魔水晶』の譲渡をクルシュから受けた。
 見え見えの必殺技ならば白鯨は軽々と避けるだろうと予測し、そこにスバルという罠を仕掛けてのことだ。逆に白鯨が避けなかった場合、氷柱の尻に掴まっていたスバルは衝撃で粉々になった可能性がある。ある意味、紙一重。

「それを言い出したら、この状況も紙一重……ってか、マジ恐ぇぇぇ!!」

 白鯨の鼻先に必死にしがみつき、スバルはそのざらつく肌と体毛の感触を掌に味わいながら、高空の風と強大な生き物の生臭さに拒絶感を露わにしていた。

 取りついたスバル――つまり、魔女の残り香を放つ存在に、白鯨の様子はみるみる変貌する。それまで静観を保っていたはずの魔獣は明らかに興奮状態に入り、全身の口から霧と涎、哄笑を垂れ流して荒々しくスバルを歓迎していた。

 もちろん、このまま白鯨に身を預けたまま、スバルがこの巨体を墜落させるための必殺技を放てるわけではない。覚悟ひとつで開眼できるほど現実は甘くないし、この場で身を削る覚悟でシャマクをぶちかましたところで、前後不覚になった間抜けが手を滑らせて墜落死するだけの話だ。
 だから、スバルが白鯨に取りついて、することは、

「ってわけで、ついてこいや。――覚悟決めて、な」

 手を離し、白鯨の攻撃行動が始まるより前に、スバルの体が岩肌を滑り――自由落下の軌道に入った。前後不覚ではない間抜けが、地上へ向けて墜落を始める。

 白鯨はその大がかりな自殺を行うスバルの姿に首を向け、それを追いかけようとわずかに身を動かしたが、なにかを躊躇うようにその尾の動きを止める。
 このままスバルを見過ごしてしまえば、自分に対して先ほどまでと同じアクションしか起こせないであろうことを、おそらくは本能で察しているのだ。
 なるほど、手強い本能だ。しかし、それでは困る。故に――、

「この高さなら他に聞こえる心配がねぇ。大サービスだ、よく聞けや! てめぇのせいでレムが死んで、俺はすげぇトラウマ背負ったぞコラァ!!」

 言い切った瞬間、風を受けていたスバルの肉体が世界から切り離された。
 全身の感覚が遠ざかり、それまで内臓が上へ持っていかれそうになる浮遊感に支配されていた意識が現実を見失い、時間の概念が存在しない場所へ誘われる。

『愛してる』

 なにか、耳元で囁かれたような気がした。
 次の瞬間――激痛がスバルの全身を、稲妻で焦がすように駆け抜けた。

 見えない位置、背中側から侵入した掌がスバルの胸骨をすり抜けて心臓を掴み、荒々しく、しかし大切なものを確かめるかのように、きつくきつく締め上げる。
 血のめぐりを司る命の器官が手荒に扱われる現実感のなさ。致命的な部分を他人に自由にされることの異物感――絶叫を上げることすら叶わない世界の終焉は、風の音と自分の苦鳴によって知らされる。
 そして、

「戻って……きたぁぁぁぁぁ!!」

「――――ッ!!」

 眼前、大口を開いた白鯨が猛然と、スバル目掛けて直滑降してくる。

 告白によって増大した魔女の香りに誘われ、魔獣の本能がそれを上回る憎悪によって塗り替えられた。
 咆哮を上げ、もはや眼下の争いなど失念したかのように正気を逸した目で、白鯨はスバルの存在だけを消し去ろうとばかりに襲いくる。

 風を穿ち、間にあった距離をぐんぐんと埋めてくる白鯨にスバルは恐怖。
 自由落下に任せる他にない状態で、この突進をかわす術はスバルにはない。このままでは地面到達前に白鯨の顎に咀嚼され、BADEND10『魚の餌』まっしぐらだ。
 このまま、では。

「――レム!!」

「はい、スバルくん!」

 風にかき消されそうなスバルの怒号に、しかし確かに少女の声は応じた。
 同時、スバルだけに囚われた白鯨の横っ面に、真横から飛び出す氷柱が激突。顎の中を蹂躙し、幾本もの歯をへし折り、その動きに遅滞を生んだ。
 その隙を突き、自由落下の途上にあったスバルの体を、パトラッシュにまたがるレムがモーニングスターで絡め取る。

 腰あたりを鉄の鎖に締めつけられ、強引に軌道を変えられる感触に「ぐげ!」とスバルは苦鳴を上げて懐かしい感触。こうして、落下しかけた状況をレムに救われるのは二度目。一度目は、王都に向かう途中の竜車での悪ふざけだったが。

「なんでも、経験しとくもんだ……」

 今度は、気絶せずに済んだのだから。
 鎖が手繰られ、スバルの体はいささか乱暴にパトラッシュの背中に落ちる。そこには当然騎乗していたレムがおり、スバルの体は彼女の胸の中に飛び込む形だ。

「助かった!」

「ごちそうさまです」

「なに言ってんの!?」

 手を合わせて礼を述べるレムに端的に突っ込み、スバルは顔を上げる。
 すぐ傍らを、白鯨の顔面が通り過ぎ――、

「――――ッ!!」

 勢いを殺し切れず、白鯨が頭部から地面に激突。轟音と土煙が爆砕された地面から立ち上り、その威力に大地が大きく弾むように揺れた。
 その揺れを背に受けながら、スバルはパトラッシュに指示して全力前進――その背後から、土煙をぶち破って白鯨が飛び出してくる。

 すさまじい威力にその頭部をぐしゃぐしゃにして、なおも白鯨は我を忘れた絶叫を上げながらスバルに追いすがる。
 そのあまりの勢いに悠然としていた泳ぎはむちゃくちゃになり、風を追い越すようだった速度は見る影もない。だが、気迫だけは圧倒的だ。

 地面を削り、尾で大地をはたきながら、猛然と白鯨が背後に迫る。
 前傾姿勢で体重を全て預けて、スバルはパトラッシュの底力に命をかける。ここまで必死で懸命に、スバルに尽くしてくれた地竜だ。短時間ではあるが、命を乗せて走ってもらうにふさわしいだけの信頼をスバルは持った。

「頼むぜ、パトラッシュ! ドラゴンなんだろ!? かっこいいとこ見せてくれ――!!」

「――――ッ!!」

 パトラッシュが嘶き、速度が一段と上がったのを風に感じる。
 白鯨の咆哮が轟き、鼓膜が乱暴に揺すられて世界がぼやけるのがわかった。

 真っ直ぐ、真っ直ぐ、ただひたすらに走り、走り、駆け抜け。
 泳ぎ、泳ぎ、猛然とスバルを食らい尽くそうと迫りくる白鯨。
 そして――、

「食らい、やがれぇ――!!」

「――――ッ!!」

 轟音が二連発で鳴り響き、直後に続くのはなにかを引き剥がすような音の連鎖。無視できない音の間隔は狭まり、近づき、やがてそれは、

 強大な影を生み、真っ直ぐに白鯨へと――フリューゲルの大樹が倒れ込む。

「――――ッ!!!」

 魔鉱石、見えない刃、振動破砕――束ねた破壊の力に根本を抉られて、賢者の植えた大木が数百年の月日を経て、人に仇なす魔獣の巨躯を押し潰す。

 樹齢千年クラスを上回る大木の重量に、真っ直ぐ突っ込んだ白鯨が真上から叩き潰された。それまで受けた破壊とは根本的に異なる次元の威力に、その巨躯を覆う強靭な外皮すらも防御の意味を持たない。

 絶叫が上がり、すさまじい衝撃波がリーファウス街道を駆け抜け、霧を爆風が打ち払う。
 大樹の下敷きになり、身動きを封じられた白鯨の苦しげな雄叫びが尾を引く。しかし、それだけの威力を身に受けて、なおも命を潰えることのない生命力。

 もがき、超重量から逃れようとする白鯨、その鼻先に――。


「――我が妻、テレシア・ヴァン・アストレアに捧ぐ」


 主より借り受けた宝剣をかざし、ひとりの剣鬼が舞い降りていた。

 この生死を賭けた激闘と、十四年にわたる執念と、四百年にも及ぶ人と白鯨の争いの歴史に、幕を下ろす――そのために。

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