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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第三章 再来の王都

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第三章45 『遭遇』




 ――死にたくない。

「はっ、はっ、はぁっ、はぁ、はっ――」

 息を切らし、無様に足をもつれさせ、転んだときに口に入った草と土を吐き出し、涎と血反吐を唇の端から垂らしながら、先を見通すことのできない闇を駆け抜ける。

 結晶灯の光は彼方に消え、月明かりすら遮られる街道には闇が落ちている。
 うるさいほどの静寂が頭蓋に反響し、頼りになる音はなにも聞こえない。自分の息遣いも、鼓動の音さえも、なにも聞こえない無音の世界に取り残されている。

 ――死にたくない、死にたくない、死にたくない。

 地を蹴り、闇の中で確かに前に向かって進んでいる。なのに、一向に晴れない闇は自分の立ち位置すら定かにせず、地を踏む足がどこを目指しているのかすらわからない。
 すでに足をもつれさせ、転んだ回数など覚えていない。そのたびに最初の道から外れていたとすれば、今、こうして自分はどこに向かっているのか。

 行かなくてはならない場所があったはずだ。
 会わなくてはならない人たちがいたはずだ。
 一緒にそれを目指した人たちがいたはずだ。

 それなのに今、終わりの見えない闇に取り囲まれる自分はどこまでもひとりだった。

「誰か――!」

 視界を覆い尽くす闇が、世界を途絶する静寂が、恐ろしくて声を張り上げる。
 嗄れ切った喉で、血の味を感じるほど震わせた声は夜の彼方まで届いたはずだ。が、その絶叫に対する返礼は、繰り返される痛みを伴う無音という仕打ち。

 誰もいない。取り残されてしまった。
 戻ってくる気配もない。当たり前だ。誰だって、死にたくない。
 ここにいれば、ここに戻れば、この闇の届く範囲にあれば、命を失うと知っていて誰がここへ戻ってこれる。

 絶望が、スッと心に差し込んでいくのがわかる。胸の内が冷たくなり、全身に通う血の代わりに氷水を流したように手足が動かなくなり始める。
 終わりを自覚し、体が抵抗を拒否しているのだ。
 だが、

「嫌だ……死にたく、ない……」

 心が、感情が、魂が、終わりを受け入れようとする肉体の反応を拒絶する。
 首を振り、終焉を押しつけようとする運命とやらに駄々をこねて、闘志の伝わらない手足を、鉛を詰められたように重たい手足を引きずって進む。
 進む――否、逃げる。逃げ続ける。目的がない。逃げ惑う。どこまでも、惑い続ける。

 ――遠く、遠く、闇の彼方から音が聞こえる。

 空気を震わせ、闇を押しのけ、終焉が形を持って近づいてくる。
 背後に迫るそれから遠ざかろうと、必死の形相で、亀のような遅さで逃げ続ける。

 無様で情けない醜態をさらしながら、スバルは考える。

 ――どうして、こんなことになったのだろうか。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「ここにいる商人と竜車――足を金で売ってくれる奴は、全員俺に買われてくれ!」

 スバルの『商談』に顔を見合わせた行商人たちは、揃ってそれが冗談かなにかだとでも思ったのか、頬を厭味ったらしくゆるめてみせた。
 が、スバルの意思を体現するように、預けられていた路銀の入った袋を掲げ、その口を開けて中身を見えるように巡らせるレムの姿に全員の顔色が変わった。

 そこからはオットーを筆頭に、押し合いへし合いの立候補が始まる。
 結果として、その中継地点にいた十四名の行商人の内、十名がスバルたちに同行することが決まった。
 最初は話し合いも難航したが、オットーの提案でそれも綺麗に着地した。全員に損のないそのやり方は――、

「大型の竜車と車両を持つ四人に、それぞれの荷の運搬を委託。後日、王都での組合経由でアガリを分配します。この場合、運賃と売上をすり合わせて、ですね」

 うまいこと異なる主張を取りまとめたオットーは、ほくほく顔で同行する十名の先頭に立ちながらそう説明した。一番の年少でありながら、全員が納得に至る道筋を即座に用意し、さらに言葉で言い聞かせた部分には商人としての天分が見える。
 もちろん、当人としては商人人生を左右しかねない在庫を、うまいこと処分できる千載一遇のチャンスを逃すまいと躍起になった結果なのだろうが。

「僕の油を買い取っていただけるのは嬉しいんですが、その他にも竜車の足が必要ってのはどんな理由なんです?」

 荷を移し替える同業者たちの様子を眺めながら、オットーは腕を組んで出立時間を気にするスバルにそう問いかけてくる。
 それを受け、スバルは「いや」と前置きしてから、

「これから俺たちはメイザース領に戻るとこだ。一応、ロズワール辺境伯のとこの下男って設定なんでな」

「存じ上げてますよ。『亜人趣味』のロズワール・L・メイザース辺境伯。爵位持ちのルグニカ貴族の中でも、かなり変わったお人とはうかがってますが」

 ちらちらと、上目にこちらを見ながら反応を気にしているオットーに苦笑。今のを聞いたのがラムだったら怒り心頭といった評価だが、

「ま、否定はしねぇところだよ。変態っぽいのは事実だ」

「雇い主に言いますねえ。いえ、そういう答えが期待できたからこその話の振り方でしたけど。それにしても、ナツキさんは貴族の使用人には見えませんね」

「まだ見習いなんで。及第点もらってるのは裁縫とベッドメイキングだけだよ」

 ともあれ、

「その辺境伯のお使いなのは信じるとしまして……竜車がご入り用なのはどうしてです? 正味、辺境伯でしたら自前の竜車もお持ちでしょう?」

「言った通り、数がいるんだよ。乗せるものの量が多いんで、できたら車両の中は空っぽなのが望ましい。……オットーの場合は油も買い取りだから仕方ないけどな」

「感謝してますって。それで、運ぶ品物っていうのは……」

 口元で笑い、手はこちらのご機嫌をうかがうようにすり合わされている。が、細めてゆるめた瞼の奥、その瞳は感情を凍えさせてこちらを覗き込んでいた。
 スバルの語った辺境伯の使い、という身分を頭から信じてくれているわけではないらしい。その上で、身分の真偽に関わらず、運ばされるものの危険度が気にかかる様子だ。

 それも当然の懸念といえるだろう。
 辺境伯の従者であるという身分が真実であれば、外部の人間を雇って持ち運ばなければならないようなものを運ばされる。
 逆に語った身分が偽りだとすれば、辺境伯の関係者を騙る連中の行いの片棒を担がされる羽目になる。最大限、彼が注意を払うのは当然だ。

 そして、そんな疑念が理由で話を断られてはたまらない。
 故に、スバルは彼らを雇った理由を包み隠さず話すことにした。

「運ぶ品物っていうのはだな、人だ」

「ヒト?」

「イエス。つまり、人間だ。辺境伯の屋敷の近くに村がある。小さい村で、村民は全部合わせても百人はいない。その人たちを乗っけて、移動したい」

 それが、スバルが閃いたオットーたちを雇った理由だ。
 スバルとレムの二人が乗る竜車はかなり大型のものであり、重量級の荷物運搬を目的としているだけあって、竜の引く車両もかなりのサイズだ。店の人間の話では、車両に人間が十数名乗っても楽々引いてくれるとの話。

「人間……ですか。まさかまさかですけど、死体を運べってんじゃないですよね。でしたら、非常に残念ながらお断りさせていただきますが」

「……そうならないように、お前らを連れていきたいんだよ」

 それならば、複数台の竜車があれば、村人全員を脱出させることも可能なはずだ。

 当初、オットーたちと遭遇する前の、エミリアとの合流を焦るスバルは完全に村人たちの逃げ足のことを失念していた。
 これに気付くのが遅れていれば、最悪、エミリアを含めた屋敷の人間と、村の子どもたちだけを竜車に乗せて安全地帯へ運び、危険覚悟で複数回の往復を迫られたかもしれない。

 そういう意味ではここでオットーたちと出会えたのは運命の悪戯であり、珍しくスバルに対して好意的に働いた偶然であったといえた。

 スバルの言葉に不信感が否めないのか、困惑に眉を寄せるオットーにスバルは組んだ腕を解き、「実はな」と前置きしてから、

「近々、辺境伯の屋敷の周囲一帯で大規模な山狩りを行うつもりなんだ」

「山狩り、ですか?」

 思わぬ単語が出たことに身を乗り出すオットーに、スバルは肯定の意を込めて顎を引き、神妙な顔つきを作ると、

「あのあたりは昔から魔獣、ジャガーノートが生息しててな。これまでは結界を張って、人と魔獣とで住み分けしてどうにか過ごしてたんだが……先日、結界を越えたジャガーノートで被害が出た。けっこうな騒ぎだ」

「それで、山狩りってお話になったわけですか? しかし……」

 引っかかる点があるのか食い下がろうとするオットーに、スバルは無言のままでぐいと自分の右腕の袖をまくってみせる。と、それを見たオットーは「うっ」と喉の奥で驚きを噛み殺した。

 彼の震える眼が捉えたのは、牙と爪による裂傷の名残が色濃いスバルの二の腕だ。その他にも、衣服の下には消せない傷がいくつも刻まれたままになっている。

「辺境伯の好意で、死にかけた俺は王都で治療を受けさせてもらった。んで、その治療もひと段落したんで、帰路の途中ってわけだ」

「な、なるほど……それで。いやでも、ならどうして、辺境伯が直々に振れ回らずに、ナツキさんが道中で竜車の手配なんて」

「辺境伯は住民は移動させず、さっさとお片づけになるつもりだ。けど、俺の体を見てわかる通り、魔獣が万が一のおいたをする可能性がある。だから俺は保険をかけておきたいのさ。主人を信用しないわけじゃないけどな」

 目を伏せて申し訳なさそうに告げると、オットーは「ううむ」と小さくうなり、それからしばしの沈黙を経て、

「わかりました。聞かれたくないことまで踏み込んで聞いて、すみませんでした。傷の件には触れず、みんなにはうまく説明しておきますので」

 気遣わしげにスバルの方を見ながら、オットーは人の良さそうな顔に苦いものを浮かべている。意図せず、スバルの傷に踏み込んだことに罪悪感を覚えているのだろう。
 そのへんは商人として、少しばかり甘すぎる気がする。

「気にしなくていいさ。みんなにもそのまま伝えてもらってかまわない。変に疑われてるよりずっとマシだ」

 根っこが善人らしいオットーは、それで納得したのか「はい」と頷いた。
 それを見ながら、内心で小さく拳を固めた自分の方が、ずっと悪人なのだと思う。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 行商人たちの集まっていた野営用の宿営地をあとにしたのは、交渉が終わってから小一時間が経過した頃だった。

 四台の竜車にそれぞれの積み荷を移し、荷台の軽くなった竜車と商人が九人。油を積んだままのオットーを加えて十人が同行者だ。スバルとレムが乗る竜車を合わせて十一台――かなり窮屈になるが、村人全員を乗せることも可能であるはず。

 宿営地に残り、朝方になってから王都に向かうという残留組と別れ、スバルたち十一台の竜車は夜半の内に街道を出立する。
 残留組にはスバルにオットーを紹介した痩せぎすの商人――ケティが残っており、手を振っている彼とはつくづく縁がないのだなと思う。

「夜半の間も走り続けて、メイザース領に入るのは朝方過ぎってところですかね」

 竜車で並走するオットーが、こちらを横目にそう声をかけてくる。
 それほど声を張っている様子がないのに、それでもこちらに声が届くのもどうやら地竜が持つ風の加護とやらの効能らしい。風や揺れの影響を受けないということは、こういったことにまで干渉するのだろう。
 防砂布を口元に巻き、呼吸が難儀なスバルにとっては声を張る必要がないのは素直に助かる。頷き、「休憩なしで悪いな」とスバルが答えると、

「いいええ! 文句なんてありませんとも。在庫処分ができる上に、運賃も弾んでもらえるとなれば僕は無敵です。三日三晩、走り通したこともありますよ!」

「交渉終わった直後にぶっ倒れて寝込んでそうだな」

「あれ!? 心とか読みました!?」

 鉄板ネタのオチを先に言われてうろたえるオットーに苦笑し、それからスバルは手綱を握るレムの方へ視線を送る。
 スバルが巻き直した防砂布で顔の下半分を覆い、真っ直ぐに前を見るレムの表情はいつも以上に見えない。無表情ながらも、それなりに彼女の感情の動きがわかるようになってきたと自負していたスバルにとって、それはいささか愉快でない状況だ。
 特に、彼女がなにを考えているのか気になって仕方がない今などは。
 と、

「――スバルくん」

「……! あ、ああ、どした、レム。なにかあったか?」

 ジッとその横顔を見ていたところに本人から声をかけられ、スバルは喉の奥で驚きを噛み殺してから、わざとらしいぐらいの穏やかさを装って声を出す。
 それを聞き、レムは「いえ」と小さく首を横に振ってから、

「静かになったので、お疲れなのかと思ったんです。少し揺れと砂が酷いですけど、眠たかったら眠っていて大丈夫ですよ。レムが見ていますから」

「お言葉に甘える、と言いたいとこなんだけど、目は冴えてんだよ。それにレムにばっか働かせるってのも格好悪すぎる」

「でも、スバルくんは病み上がりなんですから」

 こちらを気遣い、立てるレムの姿勢にスバルは閉口させられる。
 言い方こそ柔らかだが、意思は固くて頑なだ。少なくとも、レムがこの竜車上においてスバルに負担がかかるような役目を振ることは絶対にあり得ない。
 そうして優しく接されるたびに、スバルの胸には抜けない棘が突き刺さる。

 こうまで誠心誠意尽くしてくれる、レムの真意がどうあるのかがわからなくて、それを知りたくて、知りたくなくて、矛盾する心がねじくれていく。

「レム、は……」

「はい」

 ふと、その不安が口をついて出て、彼女の名前を呼んでいた。
 はっきりそれが彼女には伝わってしまったらしく、すぐに応答した彼女は次なるスバルの言葉を待っている。
 思わず、踏み込んでしまった不安の源泉。今ならば「なんでもない」の一言で引き返すことができるし、レムも追及してくることはないだろう。だが、追及してこないだろうレムがなにを考えてそうしないのか、それがわからずに煩悶とさせられることになるのは目に見えていた。
 それならばいっそのこと、はっきりとさせてしまうべきだ。

「レムは、俺のやってることに疑問はないのか? 俺はお前になんの説明もしてないんだぞ。魔女教がどうとかってことにも、こうして商人を雇ったことにも」

 歯を噛み、弱音を押し殺し、不安で揺らぎそうになる声を押さえつけて問いを発した。ずっと、聞きたくて恐くて仕方がなかったことだ。
 それを聞き、レムは一度だけ目をつむると、

「ロズワール様より、言付かっています。王都での行動は全て、スバルくんの意思を尊重するようにと」

 と、感情を凍らせた、使用人としての顔を覗かせてそう答えた。
 その答えを聞いて、スバルは凝然と顔を強張らせる。

 ロズワールがそう命じたから、スバルの言葉に従う。
 それではまるで、

「言付かってた……ロズワールから……?」

「はい。具体的になにかをしろ、と命じられているわけではありませんけれど。王都ではなにをするにも、スバルくんの方針に従うようにと。レムも、できる限りそうするつもりでいました」

 補足してくれるレムの言葉が、どうしてかうまく頭に入ってこない。
 ただ淡々と、スバルの頭の中に響き続けるのは、

「ロズワールの、命令……」

 彼女がスバルの行動に異を唱えず、それに従うのは主人である彼の命があるから。
 それはつまり、ここまでの彼女のスバルへの追従は、彼女の真意ではないということになるのではないか。

 いや、それどころか、レムがこうしてスバルの隣にいてくれることでさえ。

「スバルくん?」

 押し黙ってしまったスバルを不審に思ったのか、首をこちらへ傾けるレムはかすかに眉を寄せている。その心配げにスバルを見る眼差しすら、今のスバルには素直な気持ちで受け止めることができなくなっていた。

 こうして心配そうに気遣ってくれることも、倒れそうになるスバルをそっと支えてくれることも、孤独で発狂しそうになるスバルの傍に常にいてくれることも、正しいと信じることをするスバルを肯定するように付き従ってくれることも、全てはロズワールの命令が念頭にあるからなのではないか。

 もっと極端なことを言えば、レムは本心ではスバルの行いを認めてくれてはいないのではないだろうか。

「――――ッ」

 吐き気がこみ上げてきて、スバルは思わず胃を駆け上がる酸っぱいものを飲み込む。体内にせき止められた嘔吐感は行き場を失い、そのまま全身に怖気を伝染させる爆弾となって体中を荒れ狂った。
 手足が痺れ、視界が明滅し、脳味噌が痒くてたまらない。今すぐに頭蓋を叩き割って、中に指を突き入れて掻き毟りたくなる衝動が息を荒くする。

 だが、頭皮に刺さる指が頭蓋を突き破ることなどついぞない。ただ、収まらない痒みに歯軋りし、胃を鷲掴みにされるような圧迫感に耐え続けるしかなかった。

 なにも考えたくない。考えたくない。
 考えれば考えるほど、思い返せば思い返すほど、求めれば求めるほど、欲しかったものは遠ざかり、理想は夢想へ姿を変え、希望は絶望と失望に塗り替えられる。

「スバルくん?」

 嫌だった。もううんざりだった。
 考えたくない。疑いたくない。信じたくない。裏切られたくない。

 頭を抱え込み、外界からの反応の全てを遮断して内に閉じこもる。
 レムは幾度かスバルの名を呼んだが、その体勢を取ったスバルが眠ろうとしていると思ったのか、それ以上に声をかけることをやめて再び前を見た。

 このとき、スバルはついに、本当に自ら、たったひとりになっていた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「――ルくん。ごめんなさい、起きてください。スバルくん」

 呼びかけに、意識が揺り起こされる感覚があった。

 肩に誰かの手が触れる気配。顔を持ち上げて、ぼんやりとした瞼を手で擦って視界を確保すると、晴れ始めた視界に映り込んだのは見慣れた少女の顔で。

「レム、か。どうした?」

 無意識から意識が浮上し、彼女を認識した途端に胸の奥が鈍く痛む。が、堪え切れないほどではない。
 顔に出さないように苦心しつつ、スバルはこちらに手を伸ばしていたレムの答えを待つ。彼女はスバルを起こしてしまったことを申し訳なさそうに詫びたあと、

「そろそろ、街道の分岐点に着くはずなんです。明るければ間違えるはずのない道なんですけど、今は結晶灯の明かりだけが頼りなので」

 言いながら彼女が指差すのは、今も一心不乱に地を蹴る地竜――その太い首下に取りつけられた、光を放つ結晶灯の灯火だ。
 外灯などの照明装置が存在しないこの世界において、夜の視界確保はラグマイト鉱石の輝きか原始的な松明などの炎の光。あるいはもっと自然的に月明かりといった頼りないものに委ねる他にない。

 夜目の利く地竜にとっては、そのラグマイト鉱石だけで十分に道を誤らずに走れるのだとは思うが、

「生憎、俺にはほとんど見えないも同然なんだよな。御者台にも小さいのがついてるっちゃついてるが、手元しか見えないし」

 竜車の車両内には専用のものがあるが、それも御者台にまで光を届かせるほどのものではない。ともあれ、

「それで、道がわからなくなったって話なのか?」

「いえ。道がわからなくなる前に、地図を確認したいんです。スバルくんの足下の荷の中に、地図が入れてあるので出してほしいんですけど」

「足下、これか」

 暗がりをごそごそと爪先で探り、足に当たったそれを手繰り寄せる。
 けっこうな重さのそれを膝の上に抱え上げ、中に手を突っ込んで物色してみるが、

「う……ちょっとどれが地図だかわからない。てか、地図が見つかってもこの暗さだと見えないんじゃないか?」

「鬼の夜目を侮らないでください……と言いたいんですけど、夜目に関しては別にそこまで自信があるわけじゃないので……」

 どうしたものか、とレムが表情を曇らせる。と、ふいに暗がりの中でスバルの頭に閃くものがあった。そういえば、

「ちょっと待ってろ」

 レムに声をかけて、スバルは自分の私物の入った方の小袋を持ち出す。中にはレムに持たされた手拭いや小遣いの入った袋などが収納されている。その中を求める感触を探して手を掻き回し、

「見つけた」

 抜き出したスバルの手の中にあるのは冷たく固い感触。
 取り出しても暗がりでそれを確認できないレムは首を傾げるが、スバルは久々に手に取ったそれを手の中で開くと、電源ボタンを押し込んだ。

「しばらく電源入れてなかったけど、切れてるなよ。……お」

 しばしの沈黙のあと、画面に浮かび上がる『起動』のエフェクト。それからきっかり一秒のあと、スバルの手元が眩い光によって一気に照らし出された。
 パッと明るくなる光景に、レムが驚いたように眉を上げて、

「スバルくん、それって?」

「失われたロストテクノロジー、いや未来テクノロジーのケータイ電話だ。かろうじてだが、健在でなによりだぜ」

 異世界召喚初日以来の起動に、切れかけの電源ながら携帯は眩く輝いていた。
 スバルがこの世界に落ちてきたとき、持ち込めた元の世界の物品のひとつだ。他にもいくつかの私物を持ち込んだものの、利用性はおそらく群を抜いてこの携帯電話が高いだろう。もっとも、それもバッテリーの持つ限りという限定条件付きだが。

「使う場面がいつくるかわからないから切っといたんだけど、まさか明かり扱いで役立つ日がくるとは思わなかった」

 本来とは異なる使い方で文明に感謝し、スバルは荷物の中を照らし出す。光を当てられた鞄の中、丸められた地図をすぐに見つけて取り出すと、スバルは地図をレムの膝に差し出して、

「照らしておくから、地図見てみ」

「はい、ありがとうございます」

 視線を落とすレムの視界を照らしてやりながら、スバルは彼女に見えないように小さく息をつく。
 どうやら、この震える内心のボロを出さずにうまくやれているようだ、と。

「ナツキさん、なんですか、それ。見たことありませんけど」

 裏返りそうな声を出し、スバルの持つ携帯に興味津津でいるのはオットーだ。こちらの竜車の左につけたオットーは、身を乗り出すようにしてそれを覗き込み、

「見たことない結晶灯……いえ、結晶じゃないような。というか、そもそも素材が見たことなんですが」

 興奮しながら見分するオットーに誘われ、右側には少し遅れていた別の竜車が取りついてきた。同じく、首を伸ばして覗いているのはバンダナを頭に巻いた年嵩の人物だ。が、彼もその年齢に見合わぬ子どものような輝きを瞳に灯して、スバルの手の中の携帯に釘づけになっている。

 普段ならば、彼らのその反応を好ましく思って軽口のひとつでも叩くところだが、生憎今のスバルにはそうしてやれるゆとりがない。
 首を横に振り、説明を欲しがっている二人にスバルは「悪いが」と前置きし、

「辺境伯に持たされてる秘密の道具でな。詳しいことを知られると行方不明になるかもしれない一品だ。見たことは忘れた方がいい」

「うわぁ、なんですか、そのお金の臭いしかしない裏事情は」

 かえってオットーの興味を惹いてしまった様子に、スバルは内心で歯を噛んだ。しかし、その会話は「わかりました」と声を上げたレムに遮らる。
 彼女は地図から顔を上げると、進行方向の先を指差し、

「もう少し走った先に、フリューゲルの大樹があります。そこから北東に向かう街道に沿っていけば、メイザース領に入れるはずです」

「フリューゲルの大樹?」

 聞き覚えのない単語にスバルが首を傾げると、いまだ鼻息の荒いオットーが「あのですね」と指を立てて、

「フリューゲルの大樹っていうのは、リーファウス街道の真ん中にそびえる雲を突くような大木の名前ですよ。雲を突くは言い過ぎですが、実際にかなりの大きさです。なんでも数百年前、フリューゲルって賢者が植えたって伝承が残ってるそうで」

「それでフリューゲルの大樹ね。なんで植えたのかとか、そのあたりの事情は伝わってないのかよ」

「いやぁ、数百年前の話ですしね。それにフリューゲルさんも、樹を植えたって話以外になにをしたのかイマイチわからない人でして」

 それのどこが賢者なのだろうか、とスバルは思ったが口には出さない。
 そうしてしばらく真っ直ぐ走っていると、次第にスバルの目にもはっきりと、夜の向こうにそびえ立つ大きな樹木があるのが見えるようになってきた。

「なるほど……これは、すげぇな」

 元の世界で比較するのならば、テレビの特集などで見たことのある『樹齢千年』クラスの大木がそれに匹敵するだろうか。
 こちらの樹齢はオットーの話が正しければ数百年という話だが、植物の成長速度に違いがあるのか、短い期間ながら彼らに匹敵する雄々しさが大樹にはある。

 見上げても頂点が見えないほどの高い幹。天に突き立つように伸びる枝の数は膨大で、生い茂る葉もそれに相応しい量を誇る。太くたくましい幹を支えるのは、のたくる大蛇のように地を這い、大地に沈む根の数々だ。
 大森林の中にあるのではなく、これだけの大樹が平原の中に一本だけ立っているのだから、それはそれは目印としてこれほど目立つものはあるまい。

 その大きさに呆気に取られるスバルを横に、レムはクールに手綱をさばいて竜車の進路をわずかに変える。これで地図通り、北東方面に走ってメイザース領へ入るのだろう。近づき、やがて遠ざかる大樹を目にしたままスバルは、

「電池が残ってて、気持ちに余裕があったら写真残しておいたな」

 電池残量がひとつしか残っていない画面を覗き込み、悔しい気を堪えて呟く。そんなスバルの呟きを聞きつけ、「え、なんです!?」と聞き返してくるオットーに、「なんでもねぇよ!」と不機嫌に返し、浮いていた腰を御者台に下ろす。
 そして、意識を大樹から切り離して、ふとスバルは気付く。

「あれ、さっきまで右側走ってたバンダナの人はどこいった?」

 視線をめぐらせても、そこにいたはずの人物が見当たらなくなっていた。
 急に遅れたのか、とスバルはわずかに後方を確認したが、そこにはバンダナの人物の後方を走っていた竜車があるだけで、ぽっかりとその部分だけ抜けている。

「まさか、樹を見上げててはぐれたんじゃねぇだろうな」

「どうしました、ナツキさん。なにかお探しで?」

「お探しもなにも、お前らの仲間だよ。さっきまでこっち側を走ってたバンダナの似合う渋い旦那はどこいった。童心に帰って木登りとかしてんのか?」

 呑気なオットーに苛立たしげに皮肉をぶつけて、スバルはその手落ちを責める。
 が、スバルの苛立ちをぶつけられたオットーはきょとんとした顔をすると、まるで言っている意味がわからないとばかりに首を傾げ、

「なにを言ってるんですか、ナツキさん。僕の反対側なんて、誰も走ってませんでしたよ」

 ――は?

 かけられた言葉の意味がわからず、スバルは声にも出せずに呆然とする。
 そうして一時停止するスバルを見つめるオットーに、冗談を言っているような素振りなどは見当たらない。彼は心底不思議そうに、スバルの発言を受け止めた上でそう答えている。
 だが、それこそスバルには意味がわからない。

「なに言ってんだ、お前。さっき、一緒になって携帯を興味津々に見てただろうが。涎垂らしそうな顔でじーっと」

「あ、携帯って言うんですか、それ。っていうか、それを聞いてしまった僕の身柄の安全は保障してもらえるんですかね」

「茶化してるんじゃねぇ!」

 あくまでスバルの言葉を軽く流そうとするオットーを一喝し、スバルは右を見る。そこには相変わらず空白が広がり、いたはずの存在が見当たらない。
 しかし、いなかったはずがないのだ。彼の顔も声も、スバルは覚えているのだから。

「――?」

 と、ジッとなにもいない空間を睨みつけていた最中、視界がぼんやりにじんだ。

 まるで霞が目の前にかかったような不鮮明な感覚に、スバルは何度か瞬きする。が、それでもその違和感は拭い去れない。
 ぼんやりとした闇は変わらずスバルの隣を並走しており、それがあまりにも不気味で不安感を煽るものに思えてならないのだ。

 だから、スバルは畳んでいた携帯を開き直し、右の空間を照らし出す。
 本来、そこにいたはずの人物の名残を求めて、どこか消し去ることのできない得体の知れない感覚の正体を知りたくて、

 そして、照らし出される光の中――、

「――――あ?」


 スバルは闇の中に浮かぶ、あまりに巨大な眼と目が合った。



 咆哮が轟き渡り、リーファウス平原に霧がかかる。

 ――リーファウス平原に、霧がかかる。

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