挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第三章 再来の王都

117/441

第三章40 『殺意の裏側』



 ――気付けば、意識は深い深い闇の中にあった。


 昏々と広がる暗黒の中、意識は変化を求めて視線を巡らせる。
 どこまでも続く漆黒は世界の終端まで続いているようで、あるいは世界は手の届く範囲までしか広がっていない箱庭のような閉塞感を与えてきている。

 ここがどこなのか、どうしてこんなところにいるのか。

 そんな疑問が浮かぶが、そもそれすらおかしなことだ。
 そんな風に考える自分がいったい何者なのか、それすらわからないのに。

 意識だけが虚ろに漂い、それを支える肉の器には意思が伝わらない。
 立っている。地に足がついている。しかし、足下と意識するそれは視界を覆い尽くす闇と同化していて、文字通りに足場すら不確かなものとしていた。

 ――ふいに、闇ばかりが広がる世界に変化が生じる。

 陰影が歪むようにひしゃげ始め、目の前の空間がひび割れ始める。
 ほんの刹那の異常のあと、その場所から現れたのはひとつの人影だった。

 女性の影だと思う。そして、それを認識した瞬間、胸の内に広がった言葉にしようのない感情をなんと名付ければいいものか。

 爆発的に膨れ上がる感情に急き立てられるように、その影へと駆け寄りたい。が、足は変わらず意思に従わず、遠い影に対してできることはない。
 声を掛けたくても、なにを言っていいのか、そして言葉の作り方がわからない。
 無念さに涙を流したくても、感情の発露の仕方もわからない。

 わからない、わからない、なにもわからない。

 だが、影はそんなこちらの思考を理解してくれたかのように、ゆっくりと両腕を伸ばして、縮まらない距離を向こう側から縮めてきてくれた。
 その両手が、ゆっくりと、確実に、抱きしめ合える距離にまで近づき――、

『――愛しているわ』

 触れた指先から伝わる多幸感、そして全身を歓喜が包み込み――、


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 意識が時間をさかのぼり、肉体に宿った瞬間にスバルは派手に転倒していた。

「うおお!? ど、どうした、兄ちゃん!?」

 前触れなく路上に素っ転んだスバルを見下ろし、カウンターの向こうでカドモンが慌てた素振りで両手を上げたり下げたりしている。
 思い切りに倒れ込んだ衝撃に息が詰まり、無意味な擦り傷を作ったスバルはその痛みに顔をしかめながら、

「いや……ちょっと、足滑らせた」

「滑らせたっていうか、片足なくなったんじゃねえかって勢いだったぞ? 立ち方とか歩き方とか大丈夫か? 常識以外の部分もなくしたらもう付き合ってらんねえぞ」

「いらねぇ心配だよ……てか、常識以外ってなんだ? 俺が常識知らずの無頼漢みたいな言い方じゃねぇか」

「まさにその通りだよ。あぁ、お貴族様に厄介になってるってとこ考えると、もっと扱いづらいなにかな気はするが」

 散々な言いようのカドモンに舌を鳴らして不服を表明。
 と、ふいにスバルは袖を引かれる感触を覚え、直後に温かい波動が肉体に伝わるのを感じた。振り返り、その温もりの方へ首を向けると、

「――大丈夫でしたか? スバルくん」

 言いながら、倒れたスバルの傷口に掌を当てるレムの姿がそこにあった。

 触れた指から伝わる水のマナがスバルの擦り傷に干渉し、その治癒の力を高めて止血と癒しを施している。
 痛みが薄らいでいくのを実感しながら、同時にスバルの胸に去来したのは、

「れむ……」

「……? はい、レムです」

 弱々しい掠れた声で名を呼ぶスバルに、レムは不思議そうに首を傾げたあと、

「どうしたんですか? まるで死人に会ったような顔をしていますよ。心配されなくても、レムはちゃんとここにいます。スバルくんのレムですよ」

 彼女にしては珍しく、冗談めかすような口ぶりで微笑んでみせる。
 それほど、今のスバルの憔悴し切った姿が彼女には痛々しく見えたのだろう。そして、彼女の口にした『死人に会ったような』という言葉はまったく笑えない。
 本当に、まったく、全然、笑えるような言葉ではないのだ。

「レム、俺は……」

「難しいですね。お顔を曇らせているより、笑っている方がずっとスバルくんらしいと思います。だからどうにか笑ってもらおうと思ったんですけど」

 困ったようにかすかに眉を寄せるレム。と、そうしている間にスバルの擦り傷が完全に癒えていた。それを見届けたレムが「終わりました」とひとつ頷き、触れていた指を離そうとしたのだが、

「――――」

「スバルくん?」

 その遠ざかろうとした指を上から掴んで、スバルは温もりを逃がすまいとしていた。
 強引なスバルの挙動にレムは驚いた顔でこちらを見上げている。が、彼女はスバルの表情に痛切な感情が色濃く浮いているのを見取ると、

「本当に、どうしたんですか? スバルくんの方から……その、こうやってくれたりするのは嬉しいですけど、あまりいきなりだと驚いてしまいますから」

「細い。小さい。……あったかい、よな」

「小さいのは少し気にしているので、あまり言われたくないことです。スバルくんにならいいですけど、それに温かいのは当たり前ですよ。――生きてるんですから」

 その一言に、スバルはハッと顔を上げてレムを見る。
 正面から、彼女の瞳と視線が絡み、レムはそこに慈愛を宿したまま、

「不安になったんですか? でも、レムはここにいますから。スバルくんが命懸けで助けてくれたんです。だから、大丈夫ですよ」

 ――違う。違うのだ。

 スバルはレムを死なせた。殺した。二度も、無慈悲で残酷に。
 一度目は、あるいは根本的にはスバルとは無関係だったかもしれない。だが、二度目は違う。二度目は一切の言い訳の余地なく、レムはスバルのために死んだのだ。
 スバルを守るために、スバルを救うために、スバルのために、命を使い果たし、使い果たした命をなおも絞り尽くして、スバルのために死んだのだ。

 目の前のレムはそれを知らない。
 自分がどれほどの苦痛と屈辱を与えられ、その果てに無残に死んでいったのかを。

 スバルだけがそれを知っていた。
 そして、もしもまた同じ状況になったとしたら、レムは躊躇わずにまったく同じ方法でスバルを守ろうとして、同じように凌辱されて命を散らすことを。

「――――」

 気付けば、スバルは内側から溢れ出そうとするそれを押し隠そうとするように、レムの小さな手を握りしめて、顔を見せないように俯いていた。
 そんなスバルの反応に、レムは自分がなにかスバルを困らせるようなことを言ってしまったのかと不安に指先を震わせる。しかし、それも一瞬のこと。彼女はそんな態度がスバルを余計に恐がらせると思ったのか、

「大丈夫。大丈夫。大丈夫ですよ」

 優しく、子どもをあやすように、空いている方の手でスバルの背を叩いた。
 撫でるように、慈しむように、スバルが顔を上げられるまで。

 ずっと優しく、ずっと愛おしむように。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「お忙しいとこ悪いんだが、そこでいちゃつかれてると商売にならん」

 店先での一幕を眺めていたカドモンが、二人を追い払うときに言った言葉だ。
 普段のスバルならば「別に俺らがいるとかいないとか関係なしに、そもそも商売として成り立ってねぇだろ!」などと言って逆鱗に触れるところだが、今のスバルにはそこまでの精神的な余裕がない。
 手を引くレムに従って、そそくさとその場を離れるばかりだ。

 即座にこちらを遠ざけるでもなく、少なくともスバルが落ち着くまで場を乱そうとしなかったあたりに店主の良心的さが表れていたのだが、残念なことにそれに気付く余裕もまたスバルにはなかった。
 今、スバルの胸中を支配していた感情はただひとつ。


 ――殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す。


 死を経て、時間を巻き戻しても消えることのない、圧倒的な憎悪だけなのだから。

 ペテルギウス・ロマネコンティ。
 それが今の、スバルの運命の敵の名前だ。決して許されざる大罪を犯し、レムや村人を虐殺せしめた最悪の殺人者。
 その男を殺すことこそが、今のスバルに与えられた使命だった。

「必ず、息の根を止めてやる……俺の手で」

 あの凶相を自らの手で歪めてやる。そう考えるスバルの胸中に暗い喜びが生まれ、口元にはこれまで浮かべたことがない歪な類の微笑が宿る。

 突き刺し、引き裂き、叩き潰し、捩り切り、命乞いをさせて殺すのだ。
 それを想像するだけで、喉の奥から堪え切れない笑いの衝動がこみ上げる。

「……スバルくん、ちょっといいですか?」

 と、そんな鬱屈とした愉悦に浸るスバルを、半歩遅れて続くレムが呼び止めた。
 その声に足を止め、スバルは「どうした?」とレムに振り返る。彼女はスバルの顔をジッと見つめて、その形のいい鼻を小さくすんと鳴らして、

「いえ……レムの勘違いかもしれません。ただ少し、スバルくんからその……良くない香りが強まった気がして」

「良くない香り、か」

 彼女の指摘に鼻を腕に擦りつけ、その臭いを嗅いでみるが判別はできない。
 レムが語る以上、スバルから漂う濃い臭いというのは『魔女』の香りに違いあるまい。思い返せば、ペテルギウスの発言にもそれに近いものがいくつかうかがえた。以前に考察したきり忘れていた考えであったが、

「やっぱり、俺の死に戻りは魔女と関係があんのか……?」

 死に戻りを打ち明けようとするたび、スバルを取り巻く魔女の気配は強くなる。
 魔獣の森ではそれを逆手に取るなどもしたものだが、その後の忙しさなどにかまけて深い追求はしてこないで放置してきてしまった。
 その結論を出すことへの無意識的な忌避感も、あるいは魔女という単語が持つ強い力の一部だったのかもしれない。

 これまで一度もやろうとはしてこなかった思考に入り始める前に、スバルは押し黙る自分を不安げに眺めるレムに笑いかける。そして、

「変な顔すんなよ、レム。可愛い顔が台無しだし、先行き暗くなんぜ」

「ごめんなさい。レムは心配性なので、どうしても……」

「安心しろって。なにがどうあっても俺って人間は変わらねぇし、その臭いとやらに負けたりもしねぇ。逆に利用でもなんとでもしてやるさ」

 スバルの持てる手札は決して多くはないのだ。
 この世界においては、普通の人でも持っているような手札をスバルは持ち合わせていない。ならば他者と異なる手札となり得る特色は、それがどんなものであれプラスになるものと考えて持ち札にしなくてはならない。
 魔女の香りがなんだというのか。魔獣の森ではその悪意をまんまと出し抜いて、都合よく扱ってやったではないか。今後も、あの手この手でそうしてやればいい。

 スバルの笑いかけにしばしレムは沈黙し、どういった態度を取るべきか悩むように視線をさまよわせていた。その彼女の煮え切らない態度を後押しするため、スバルは頭を掻いたあとで手を差し出し、

「ほれ、いこうぜ。俺がどっか行きそうで不安なら、捕まえといてくれ」

「え?」

「力比べなら絶対勝てねぇし、それなら安全な気がすんだろ?」

 言外に照れ隠しを含みながらの発言に、レムはスバルの顔を手を見比べ、

「はい」

 微笑みながらその手を取り、半歩ではなくスバルの隣に立つ。
 そうして、並び立ちながら歩き出す二人。小さく俯き、じっと握った手を見るレムは口を固く閉じ、なにも言わずにスバルの歩みに速度を合わせる。
 そんないじましい彼女を連れて、王都の下層区を貴族街の方へ進みながら、スバルは温かい掌の感触を味わいつつ――殺意をたぎらせ続けていた。

 手と手は繋がっているのに、その心は正反対の方を向いている。
 ナツキ・スバルの心はどこまでも、暗く、澱み、深みへと深みへと魅入られていた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 今回のループはスバルにとって、都合三度目となるループであった。

 一度目が召喚初日の徽章盗難の際のループ。
 二度目がロズワール邸での魔獣騒ぎを発端とするループ。
 そして今回が三度目、いまだ全貌のはっきりとしない魔女教と関わるループだ。

 その三度目のループにおいて、すでに二回死亡しているはずのスバル。
 以前までのループの際には、こうして死に戻った暁にはそれまでの状況を整理し、どうにか方策を練ることへの肥やしとしたものだが。

「情けねぇ話だが……」

 今回は一度目と二度目、その両方の記憶が判然としないという欠陥があった。
 一度目の世界のことはぼんやりとではあるが覚えている。
 レムとともに竜車で屋敷を目指し、途中で置き去りにされたスバルはオットーとともに屋敷に向かった。そして途中でオットーと別れ、村に辿り着き――そこからは記憶にかなりの不鮮明な靄がかかっている。断片的に思い出せる情報は、レムの死、ラムの死。その上で、自分が屋敷の中のどこかで死亡した、という点だけ。

 二度目の世界においてはもっとひどい。
 舞い戻った際の記憶がまったくなく、記憶がはっきりし始めるのはペテルギウスとの対面、それもレム殺害の前後にまで時計の針を進めなくてはならない。
 そこに至るまでのスバルの壊れた精神状態を思えば仕方ないといえるかもしれないが、その時点までの記憶は断片的よりさらに細かい破片的なものしか残されていないのだ。ゆいいつ、その記憶の欠片を寄り集めて思い出せたのだが――、

「ペテルギウス・ロマネコンティ……ッ」

 憎き狂人の名前であり、今のスバルの行動力の源泉たる全てだった。

 自身の置かれた境遇の不甲斐なさを理解した上で、スバルは思考をさらに深いところまで進めなくてはならなかった。
 即ち、その散りばめられた一度目と二度目の記憶の中から重要なものを選び出し、三度目となる今回でループを突破――ペテルギウスを殺し切らなくてはならない。そのために、脳が焼けつくほどに神経を働かせるしかないのだ。

 まず、考えなくてはならないのが正式なタイムリミットだ。
 ロズワール邸の襲撃、および屋敷直近の村が魔女教徒に襲われるのは、おそらくはスバルが村に到着した半日前後となるだろう。
 一度目の世界と二度目の世界で、日付が大きく変動した事実はないはず。一度目の世界でスバルがクルシュの邸宅を出たのがカドモンの店でのいざこざから三日、その後は約二日がかりでメイザース領へ戻ったことを考えると、

「制限時間は五日、いや四日半ってとこか……?」

 時間がなさすぎることに歯噛みするしかない。
 移動の規模が違いすぎるというのに、用意された時間は前回の屋敷でのものとほぼ変わらないのだ。その限られた時間で、魔女教徒を殲滅――あるいは、ペテルギウスだけでも確実に仕留めなくてはならない。

 制限時間の確認が済めば、次はループ突破に必要な事項の確認だ。
 屋敷と村の襲撃の回避、そして魔女教の殲滅。ペテルギウスの確殺。それらが、今回のスバルが行わなくてはならない問題。
 そのいずれも、純粋に突き詰めていけば最後のひとつ――ペテルギウスの殺害が成れば、自ずと回収される条件に他ならない。
 つまり、此度の運命がスバルに突きつけた条件は、

「ペテルギウスをぶっ殺すってことだ」

 奴を、諸悪の根源を、彼の悪辣な殺人者を殺すことで全てが救える。
 ひどくシンプルで、わかりやすい今回のルールといえる。あとはそのシンプルな条件を達成するために必要な答えを出せばいい。

 ペテルギウスの率いる魔女教徒――その戦力は、少なくとも単独で抗える規模ではない。鬼化した状態のレムですら、個々の力で圧倒しても最終的には殺害されている。そこにペテルギウスの異能『見えざる手』とやらがどこまで関わっているかは不明だが、そもそも彼女ひとりにそこまでの問題を押し付けるなどできるわけもない。

 集団に対抗するために必要なのは、やはり集団の力だ。
 そういった数の暴力に対して、メイザース領が持つ力はかなり低い。そも、領主であるロズワールが私兵を率いている姿を見たことがない。普通、領主ともなれば一端の戦力を自陣に抱えているはずだが、ロズワールの場合はなまじ本人の集団殲滅力が高すぎるのが要因なのか、その手の戦力の蓄えが未知数だ。
 少なくとも、過去二回の襲撃に対してその未知の集団が抗った様子はない。この選択は頭から消していいだろう。
 否、思い返せば、

「そもそも、ロズワールはあの襲撃のとき、どこにいたんだ……?」

 一度目でも二度目でも、スバルは彼の姿を目撃していない。
 二度目に至っては屋敷の崩壊の現場に居合わせ、レムと村人を除いた三人と一匹の安否は不明だったといえる。が、少なくともロズワールは自分の領地である村の襲撃に関しては見過ごしており、魔女教徒を殲滅した形跡はない。
 考えられるのは、

「即行でロズワールが暗殺なり、奇襲なりを受けて戦闘不能。もしくはいなくちゃいけない大事な場面で、不在……か?」

 前者ならば魔女教徒の周到さに、後者ならば間の悪さに吐息を漏らすしかない。事実、ロズワールは前回の事件の際には屋敷を留守にしており、肝心な場面にいなかったという実績を持つ男だ。可能性はないとはいえない。
 さらにそれらを思い出す過程で、スバルは前回のループの最期を回想。それは、

「屋敷をぶっ壊した、あのわけのわからねぇでかい生き物か」

 屋敷と見間違うほど、信じられない巨躯を持った四足獣であった。
 周囲に吐き散らした冷気で世界を凍らせていく姿は圧巻で、はっきりとはいえないがスバルが死亡したのもその冷気による凍死であったのだろう。
 あれがもしも、魔女教の持つ切り札かなにかのひとつであったとすれば、

「なおさら、戦力が足りなすぎる」

 魔女教と一戦交えるだけでも、レム単独では戦力として不足が目立つ。にも関わらず、その背後にラスボスが控えているとなれば問題外だ。
 よって、スバルにとっての急務はなにを差し置いても戦力。それも、魔女教や超大型のボスキャラと渡り合えるだけの戦力であった。
 そして、その戦力にスバルは当てがあるのだった。
 それは――、


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 スバルがレムを連れてクルシュの邸宅に帰り着いたとき、時刻はすでに夕方に差しかかり、日の色は朱が濃くなり始めた頃だった。

「お帰りになりましたか」

 と、門前で二人を出迎えたのはヴィルヘルムだ。
 遠目に軽く腰を折ったあと、彼は寄り添って歩く二人を見て目を細めると、

「ふむ。スバル殿、浮気心があるのは男児故に仕方のないことですが、私個人としてはあまり感心しませんよ」

「なにを仰るやらだよ、ヴィルヘルムさん。俺が迷子にならないよう、レムが手ぇ握ってくれてるだけ。だべ?」

「はい、もちろんそうです。迷子にならないよう、目と手を離さないようにしていないとレムはとても心配です。お屋敷の中でも油断できないと思います」

「いや、それはさすがに大丈夫だと思うけど……」

 ヴィルヘルムのからかうような声にスバルが応じると、レムが変な頑なさで握った手に力を込める。それに苦笑しつつ、スバルはヴィルヘルムに改めて目を向け、

「誰か、またクルシュさんに会いにきてる感じですか?」

 問いかけは、ヴィルヘルムの傍らに停車している竜車を見てのものだ。
 豪奢な飾りつけが目立つ車両を引くのは、これまた毛並み――ではなく、硬質な肌がどこか艶めいて見える気品のある黒い地竜であった。
 馬のように血統などがあるのか不明だが、少なくともこれまでに見てきた地竜とは一線を画する風格が備わっている。
 御者台に座る御者も礼服を折り目正しく着込み、こちらに目礼した以上は無駄口ひとつ叩く素振りも見せない。

 スバルの問いかけと視線の意味を察し、ヴィルヘルムは顎を引くと、

「ええ、そうです。王選の参加が表明されて以降、クルシュ様に謁見を求められる方があとを絶えません。もっとも、クルシュ様の方から招かれる方もおられますが」

「未来の王様かもしんない相手にゴマすっておこうって連中なわけね。まぁ、そのあたりは色々と苦労もあんだろうな」

 口さがなく事実を端的に表現すると、ヴィルヘルムは苦笑を浮かべる。と、それから彼はふと、スバルの目を見てその表情を引き締めた。
 その彼の態度にスバルはどうしたのか、と首をひねったが、

「スバル殿。なにか、下で心境の変化でもありましたか?」

「ええ? 急にどしたってんですよ。なんか変わって見えます?」

 鋭い声におどけて肩をすくめ、スバルはその場でくるりと回ってみせる。手を繋いだままのレムも一緒に回らされる中、ヴィルヘルムはその様子に目をつむり、

「目の中に闇が巣食っておられる。本物の、紛い物でないものが」

 ぴたり、と足を止めて、スバルは顔から腑抜けた笑みを消した。
 そして、曖昧な笑みの下から浮かび上がるのは、『ホンモノ』の笑顔だ。

「嫌だな、ヴィルヘルムさん。俺になにかおかしな変化があったみたいじゃないスか」

「小さな変化であるとはいえないでしょうな。そのほの暗い光を宿すのには、それなりとはいえない理由が必要だ。――私はそれを知っております」

 低い声でそう応じるヴィルヘルムの方も、口元にかすかな微笑を刻んだ。
 そこに明るい兆しのものがなく、あるのが純然と塗り固められた『なにか』への研ぎ澄まされた感情であることを察し、スバルは胸の内で納得を得る。
 ヴィルヘルムもまた、なにか許し難いものへの殺意をたぎらせている人物なのだ。それ故に、スバルにわかったように彼にもスバルのことがわかったのだろう。

「俺を、遠ざけますかね?」

 ヴィルヘルムの立場からすれば、今のスバルの危うさは主に近づけることを躊躇うものがあるだろう。だが、スバルはそうならないと半ば確信していた。
 そして事実、

「いいえ。スバル殿の為されたいようにされるがよいでしょう。つい先刻までの、なにもかもを見ようとしていなかったときのあなたと比べれば、今のあなたの方がずっと私には好ましい」

 スバルの投げかけた言葉に、ヴィルヘルムは首を横に振って答えた。
 自然、スバルの口にもヴィルヘルムと同じ類の笑みが浮かぶ。二人、お互いの内心の深い部分まではわからずとも、上辺だけは知り合った仲だ。
 そうして、どこか暗い笑みを交換する二人だったのだが、

「スバルくん。悪い顔をしていますよ」

「へへへ……って、痛い痛い痛い痛い! レム、ちょ、千切れるってば!」

 唐突に耳を引っ張られて、あくどい密談が中断される。抗議するスバルにレムは細めた目を向けると、

「レムを、不安がらせないでください」

「おいおい、超珍しくレムの方から要求かますかと思えば漠然とした内容だな。安心しろって、レム。全部うまく、俺がどうにかしてやるから」

 やるべきことがわかっている以上、今のスバルに不安な要素はない。
 やらなければならないことがあり、そのためにやるべきことがわかっていることのシンプルさが今は心地よい。
 殺さなければならない相手を殺すだけでいいなんて、なんと気が楽なのだろう。

 笑いかけ、優しい言葉を紡ぐスバル。
 なのに、それを受けたレムはその表情の無感情さを強め、なにかに怯えるように握った手の力をさらに強める。
 それから、彼女は戸惑うようになにかを口にしかけたのだが、

「どうやら、お客様がお帰りになるようです」

 ふと、邸宅の方に目を向けたヴィルヘルムがそう呟き、門扉の向こう――玄関の扉を開けたクルシュ邸の方から、ひとりの人物が歩いてくるのが見えた。

 長身で、くすんだ金髪を長く伸ばした人物だ。仕立てのいい礼服に身を包み、装飾品で飾り立てた姿はパッと見、スバルの脳裏に成金というイメージを植え付けた。おおよそ、三十前後というところだろうか。金遣いの荒い放蕩貴族が初見の印象。
 仮称・成金はそんなイメージを持たれたとも知らず、門前までくるとそこに集まる三者に目を留めて、

「ほほう。物珍しい顔ぶれですね」

 本人的にお洒落で伸ばしているらしき顎ヒゲに触れて、成金は眺めたこちらをそんな風に評する。まるで素姓を知られているような不可解さにスバルが眉を寄せると、彼の人物は丁寧に腰を折り、

「これは失礼を。私はラッセル・フェローといいます。以後、お見知りおきを。――ナツキ・スバル殿」

「……ご丁寧に、どうも。ついでに、なんで俺の名前知ってるかとか聞いても? 自分で言うのもなんだけど、俺ってば没個性が売りの小市民なんで名前売れてるのとか恥ずかしいから」

「ちょっとしたツテ、ですよ。王選の会議中、候補者であるエミリア様の騎士を名乗った人物は有名だ。もっとも、今その人物がクルシュ様の邸宅で療養されている点まで知っているものは多くはないでしょうが」

 警戒を高めるスバルに対し、口も軽く応じるラッセルは嫌味のない顔で笑う。が、その内容がすでにさらなる警戒を呼び込むものであり、意図してやっているらしき相手の性格の悪さが如実に伝わってきた。

「ラッセル殿。クルシュ様との話し合いは、うまくゆかれましたか?」

 が、そんな剣呑な視線を発し始めるスバルの牽制を、横合いから口を挟んだヴィルヘルムがかっさらう。視線をスバルから老人へ移したラッセルは肩をすくめると、「いえ」と首を横に振り、

「クルシュ様は苛烈なお方です。やはり、あの方が我々に対して向ける目は鋭く、意思は手厳しい。これまでのことを思えば、簡単にはゆきますまい」

「そうですか、残念です。あなたが折れぬのであれば、他の方々の首を縦に振らせるのも至難となりますからな」

「公爵家の地位とヴィルヘルム殿がおられるのならば、王選の出だしとしては条件が良すぎるでしょう。……今は、ヴィルヘルム・トリアスと名乗っておられるのでしたか」

 名前を呼び、スバルにとっては不可解な会話を続ける二人。
 ヴィルヘルムはラッセルの言葉に顎を引き、皺の深い顔を俯かせると、

「今の私が妻の家名を名乗るのは、あまりにおこがましいですからな」

「あなたもまた、苛烈なお方だ。そうは生きられない私共からすれば眩しいほどに。とはいえ、あなた方のことは応援させていただきますよ」

 目を伏せる老人に上辺だけの言葉を放り、ラッセルは竜車――彼の持ち物なのだろう。己の竜車に足をかけ、無言の御者に指示を出しながら、

「此度のクルシュ様の狙いが成るのであれば、それは私共にとっても喜ばしい話だ。ヴィルヘルム殿にとっても悲願となりましょう。期待しております」

 乗り込んだ竜車の扉が閉められ、御者の手綱が締められると車体が動き出す。繰り手と同じく、沈黙を尊ぶ地竜は嘶きひとつせずに走り出し、門前を離れていく竜車を見送りながら、スバルはヴィルヘルムの傍らに歩み寄った。

「ヴィルヘルムさん。今の人ってのは」

「ラッセル・フェロー。王都の、商業組合を取り仕切る算盤役ですよ。肩書きは一商家の主に過ぎませんが、都での財貨の表と裏の動きに携わる辣腕です。スバル殿も、名前が知られている以上のことを知られていると思った方がよろしい」

「うへぇ。女の子じゃなくて、あんなオッサンに知られてても心踊らねぇな」

「ふむ、それは同感です」

 軽口に厳かに応じ、ヴィルヘルムは居住まいを正すとスバルに向き直り、「さて」と前置きをした上で、

「今日の訪問者も今のラッセル殿で終わりでしょう。中に入るとしますが……スバル殿、なにかあるのでは?」

 ヴィルヘルムの問いかけに、スバルは頭を掻いて唇を曲げる。
 あまりに物分かりがよすぎるのも、先読みされているようで面白くない。もっとも、話が通るのが早いと思えば悪いことなどなにもない。
 スバルはそう考えると、ヴィルヘルムの前で背筋を伸ばし、顔を真面目なものへと引き締め直してから、

「悪いけど、今日の最後の訪問者は俺だ。クルシュさんと話がしたい。議題は、俺に力を貸してくれないか的なことでな」





+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ