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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第三章 再来の王都

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第三章39 『奇跡』



 ――殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す。


 煮詰めたような憎悪だけが、殺意だけが、昏々とした暗闇の中、募っていく。


――殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す。


 幾度呟き、幾度吐き出し、幾度絞り尽くしても、尽きることのない憎悪の螺旋。

 誰かを、他者を、人間を、ここまで憎んだことは一度もなかった。
 この世界にきて以来、形のない運命とやらを憎んだ経験は何度もある。スバルをどん底へ叩き落とし、何度這い上がろうと無慈悲な現実を突きつけ、誤った選択を選ぶたびに命で代価を支払わせる非情な世界――それを憎んだことは数え切れない。

 だが、個人を、ここまで憎悪したことはこれまでの人生で一度もなかった。

「ペテルギウス……ロマネコンティ……ぃっ」

 その名を口にし、その姿を瞼の裏に思い出し、その金切り声を鼓膜が反芻し、その存在を脳が意識するたびに、体の中を荒れ狂う怒りが火を噴き出す。

 あの男は、あの狂人は、いったいなんだったというのだろうか。

 素姓が一切わからない。スバルにわかるのは彼の人物が常軌を逸した狂人であり、こちらとまったく意思の疎通ができない欠陥を抱えた人間であり、自分の価値観に従って他者を虐げることをなんとも思わない卑劣漢であり、スバルを救い出そうと身をなげうったレムを無慈悲に傷付け、その命を、魂を、凌辱し尽くした悪鬼であるという事実。その全てが、あの男を生かしておくのは許されないと叫んでいる。

 だから殺す、殺さなければならない。この手で、他の誰に委ねることもできない。スバルの手で、ペテルギウスは殺されなければならないのだ。

 そうでなければどうして、レムの死に報いることができるというのか。

「殺す、殺す、必ず……俺が、殺す……!」

 口に出して殺意を肯定し、スバルは身をよじって手枷を鳴らす。
 力任せに腕を、足を振り回し、枷から逃れようと何度も試みている。もともと、肉が締めつけられるほどきつくはめられた枷だ。度重なる乱暴な動作にスバルの肉体の方が耐えかね、腕の皮は破れ、その下の肉が抉れて流血している。

 焼けつくような痛みが傷口から走り、脳を沸騰させる。だが、その痛みが神経を犯すたびに、レムが味わった苦しみを思って歯を食いしばった。
 仮に手がもげるのであれば、それでも構わない。枷から逃れることさえできれば、動くのが指の一本、歯の一本だろうとペテルギウスの息の根を止める。

 必死に身をよじり、そのたびに痛みと血を口の端から垂れ流し、スバルは憎悪を爆発させる場を求めて、殺意の矛先を求めて暴れ続ける。


 ――すでに、ペテルギウスがスバルを置き去りに洞窟を去ってから、四時間以上が経過していた。

 洞窟の壁の各所に設置されていた光源――ラグマイト鉱石はその輝きを失い、今はぼんやりとその所在が明らかになる程度の弱々しい光を漂わせるのみ。
 衝撃を加えられることで光を放つそれは役目を失い、洞窟の中には淡い青の薄闇が延々と広がるばかり。
 手枷、足枷を外そうと必死にもがくスバル自身も、自分の手元すらはっきりと見ることは叶わない闇の中だ。ある意味では、はっきり自分の腕の被害の状況が見えない闇の中だからこそ、自傷をいとわない行為に出られているともいえたのだが。

「ペテル、ギウスぅ……ッ!」

 憎き男の名を歯軋りとともに吐き出し、スバルは己の意思を高く保つ。
 なにも見えない闇の中、自身の存在以外の気配すらない世界。荒い息、心臓の鼓動、枷が擦れる鎖の音、滴る血の音――それらの外界の変化がない場所で、孤独であることは急速に人間の心を弱らせる。

 ふと、ひと思いにあらゆる音を取り去ってみればと想像してみる。

「――ああ! 殺す、殺す、殺してやるぅぁ!」

 だが、すぐにその想像に耐え切れなくなり、スバルは口の端に泡を浮かべて怨嗟の怒号を張り上げた。

 あらゆる外界から隔絶された世界で、その世界で孤独でいることは、容易に人間の精神を破壊し、腐らせ、終わらせる。
 自らが動かなければ、なにも始まらない世界で、スバルは取り残される恐怖を振り払うように、その事実から目を背けるように絶叫を上げる。

 憎悪を叫んでいる限り、正気でいられる。
 狂ったように殺意を抱き続けることで、狂わずにいられる。

 狂わずにいるために、スバルには憎悪が必要だった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――それからさらに、何時間が経過したのかスバルにはわからない。


「ひゅぅ、ひゅぅ……こ、ひゅぅ……す」

 意識は覚醒と、無意識の狭間を虚ろに漂っている。

 疲労が、衰弱が、摩耗が、スバルの精神と肉体をじわじわと絞り上げた。
 あらん限りの憎悪を口にし続けた喉は当の昔に嗄れ果て、なおも尽きない怨嗟はもはや人の言葉の体を為さずに掠れた息が出るだけだ。

 枷に挑み続けた肉体も、限界を越えて酷使された体は脳の指示を受け付けない。肉が裂け、骨まで削れた手首。足首はくるぶしのあたりまで赤黒い肉が露出し、地を擦れるたびに痙攣するような痛みが襲いかかってきていた。

 ――ころす、ころす、ころす、ころす、ころす。

 それでも、なおも、心の奥底の源泉からは、殺意だけが湧き続けている。

 体も、頭も言うことを聞かなくなった今、心だけが今のスバルを支えていた。
 置き去りにされ、孤独の世界に追いやられてからおおよそ丸一日。肉体と精神は限界に達していたが、スバルは意識を閉ざすことをしていなかった。
 今、ぷつりとこの意識が途絶してしまえば、もう目を覚ますことはできない。そして、この憎悪を忘れてしまえば、現実を認識し続けることもできない。

 憎悪をだけが、殺意だけが、スバルの正気を証明してくれている。
 これを忘れてしまえば、スバルはまたしても壊れた自分の世界に閉じこもり、狂ったように泣いたり笑ったりする怠惰になり下がるしかない。

 怠惰、怠惰、怠惰、怠惰、怠惰、怠惰、怠惰、怠惰、怠惰。

 頭の中を繰り返し、繰り返し、その三文字が響き続ける。
 ペテルギウスの耳障りな笑い声が、狂ったような仕草が、狂人そのものの行いが、その三文字に連結している。

 弱さに負けて怠惰に沈めば、それはあの男の言った通りの醜態をさらすことになる。それだけは絶対に受け入れられなかった。

 『怠惰』のペテルギウス。魔女教。大罪司教。指。右手。左手。見えざる手。人差し指。薬指。小指。勤勉。怠惰。怠惰。怠惰。

 羅列されるのは、ペテルギウスが声高に叫んだ妄言の中で特徴的な単語。
 抜き出したそれらにどんな意味があるのか、死んだ頭に思い浮かべながら、スバルは少しでも、わずかでも、消えかける意識を繋ぐためにペテルギウスにまつわる記憶を掘り起こす。
 もっと鮮明に、もっと明確に、もっとはっきりと照らし出すように、あの男の顔を思い出さなくてはならない。声を、姿を、影を、歩き方を、話し方を、考え方を、触れ方を、愛しい愛しい人を思うように具体的に記憶から掘り起こし、魂に憎悪とともに焼きつけて、覚醒の燃料として燃やし続けなければならない。

 枷を外す体力は尽き、助けを呼ぶための喉は裂け、足しにもならない意識の消失を先延ばしにするためだけに全ての気力を注ぎ込む。
 傍から見れば、すでにスバルのその精神は狂気の次元に到達していた。
 意識を保つことに、憎悪をたぎらせることに、なんの意味もないことに本人だけが気付けない。そして本人だけしか存在しない世界で、本人が気付けないことは永遠に理解できない問いかけが発されているのと同じことだ。

 精神が摩耗し、心が消失するのが先か。
 あるいは意識の覚醒に体が追いつけなくなり、肉体が衰弱するのが先か。

 ただただ、定められた終わりの終着点のどちらを選ぶか。
 意識を繋ぐことに、そんな意味しか本来ならば残されていないはずだった。

 その無駄で無為な悪足掻きに意味を持たせたのは、スバルの諦めの悪さではなく、

「――?」

 ふいに、漆黒の闇の中で、スバルは自分以外の誰かの気配を感じて息を詰めた。

 わずかに動かすのも億劫な首をもたげ、スバルは感じた気配の方を見やる。が、洞窟に満ちる闇の深さは目を凝らした程度でどうにかなるものではない。手近なところにラグマイト鉱石も見当たらず、闇を払う手段のないスバルは、突如として生じた気配に息を殺して身を小さくするしかない。

 生じた気配の友好、あるいは敵対的かどうかの判断がつかない。
 仮にスバルを助けようと善意の第三者が現れたのであれば声をかけてくるはずで、それがなしで何者かが現れたのだとすればそれは怪しすぎる。

 息を止め、心臓の鼓動すら意識的に静めて、スバルはその気配を殺す。
 なのに、生じた気配はゆっくりと、本当にゆっくりと、少しずつ、這いずるような速度で、しかし確実にスバルの方へ忍び寄ってきていた。

 完全な暗闇で、気配を殺しているはずのスバルの方へ、まるでわかっているかのように気配は近寄ってくる。

 その存在に危機感を、焦燥感を、戦慄を覚える。
 が、すぐにそれらの感覚とは正反対の、別の感覚がスバルの脳裏を過った。

 ――そもそも、この気配はどこから生じた?

 誰かの気配を察する、というような訓練を受けた経験はスバルにはない。それ故にスバルが今、こうして闇の中に誰かの気配を感じているのは、それまで生じていなかった自分以外の存在による生物的な音を理由としている。
 そして、それらの音は距離的にかなり近く、少なくとも入口付近のような遠距離から届いているものではない。なにより、出だしがそちらではなかった。
 この音は突如、洞窟の中央付近から出現したのだ。

 そこまで考えて、スバルは信じられない気持ちで唇を震わせ、

「れ、れむ……?」

 音の、気配の可能性として、もっとも高いであろう少女の名前を呼んだ。

 そんなはずがないと、理性はスバルに訴えかけている。
 スバルが最後に、まだ洞窟の中に光源が残されているとき、目視したレムの姿は正視に堪えない無残な状態だった。

 手足を千切られ、耳を落とされ、体中を刃で何度も貫かれたのだ。
 その状態で治療を受けることもできず、さらには体温を容赦なく奪う冷たい地面の上で、数十時間も放置されていたのだ。

 生きているはずがない。死んでいるのが当たり前だ。
 だが、だとすれば、他にどんな可能性があるというのか。レムが倒れていた場所から、這いずるような速度でスバルに迫るこの気配の正体が。

「レム、レム……?」

「――――」

 縋るような呼びかけには、しかし沈黙だけが戻ってくるばかりだ。
 それでも、気配はスバルの声に目的の確信を得たのか、ほんの少しだけ這いずるスピードが変わったように思える。それも、ほんのささやかな変化でしかないが。

 ゆっくり、ゆっくりと、冷たい地面をなにかが引きずられる音がする。
 立って歩けるはずがない。仮に彼女だとすれば、残された四肢の二つを懸命に動かして、芋虫のように這いながらこちらへ向かっているはずだった。

 身を起こし、手枷と足枷を引き、鎖の音を立ててスバルは自身も動こうとする。だが壁の拘束は頑健で、十数時間も挑んだそれが唐突にそれをゆるめることなどない。もどかしさに、情けなさに、胸の奥が熱いものでいっぱいになりながら、スバルは這い寄ってくる気配が辿り着くのを泣きそうになりながら待ち続けた。

 そして――、

「れ……」

 ついに、這い寄ってきていた気配がスバルの体の到達した。
 それを受け止め、歓喜をもって叫ぼうとしたスバルの喉が、凍りついた。

 その感触があまりに軽くて、冷たくて、生者のものとは思えなかったから。

「れ、レム……?」

 膝立ちに座るスバルの足下に、レムの体がうつ伏せに転がっている。小刻みに震える彼女の体はすでに血の温かみを失い、氷のように冷え切っていた。
 そんな終わっているはずの体を引きずり、レムはなおもスバルの体に取り縋る。左手の感触はない。右手だけがスバルの足を、腰を、胸を上り、正面から抱きつくように覆いかぶさってくる。

 無言で、その死者の抱擁を受け止めるスバルは、なにが起きているのかわからない。
 目の前で、自分を抱いているのがレムであることは間違いないのだと思う。だけれど、こうして触れた彼女の肉体は明らかに死んでいて、まるで消えかけた命の火の燻りだけで動いているような非現実的さだけがあって。

 しばし、そのまま抱擁は続いただろうか。

 ふいに、その冷え切った逢瀬はレムの方から終わらせられた。
 片腕だけでスバルを抱いていた彼女の体から力が抜け、崩れるように膝に落ちる。スバルは慌ててそれを支えようと手を伸ばしたが、その手がレムの体を支えることはなかった。なぜなら、

「――うぅ!?」

 差し出した手がレムの体に掴まれ、地面に押しつけられる。
 前のめりに引き倒される形になったスバルは、その急なレムの挙動と想像を越えた力強さに唖然となり、その彼女の次のアクションにさらに驚愕する。

 地に置かれたスバルの両腕に、真上から大量の液体が降り注いだ。
 粘質で、鉄錆びの臭いがする冷たい水――その正体がレムが吐き出した血であるのだと、スバルが気付いたのは跳ねたそれが口に入って味を感じてからだ。

 他人の血を大量に浴びせられることの忌避感がスバルの背筋を粟立てたが、立て続けに起こった変化がその負感情を一瞬で消し去る。

「――マ」

 囁きは、ほんのわずかに大気を震わし、マナに干渉して効果を発した。

「――づぁっ」

 痛みが、手首を鋭い刃物に抉られるような激痛がスバルを襲った。
 思わず首をのけ反らせるほどの痛みは手首を始まりとして、二の腕や肩のあたりまでその勢力を広げていく。

 何事が起きたのかわからない。血を吐きかけられ、唐突に痛みが走り、このままでは両腕が使い物にならなくなる――そんな戦慄が走った直後、

 ――音を立てて、内側からの圧迫に堪えかねた手枷が弾けるように割れた。

 金属が砕け、破片が落ちる軽やかな音が洞穴の床に響き渡った。
 スバルは急激に和らぐ痛みに荒い息を吐き、腕全体に広がった解放感と、肌を覆うような火傷じみた痛みを認識する。
 そして、理解した。

「レム、お前……」

 レムが吐き出した血を魔法で凍らせ、その圧力で手枷を破壊したのだ。
 当然、もろに魔法の影響を受けたスバルの両腕も無事な状態ではない。が、それでも手首は回り、指はスバルの意思に従って動く。痛みさえ度外視すれば、意思の力で普段通りに動かすことは可能だろう。
 つまり、レムの目論見は成功したのだ。

 それを褒め称えようとして、スバルは起こした体に軽い体がぶつかるのを受け止めた。軽い、あまりにも軽い。血が体内から失われ、そして今まさに最後の最後の意識さえも消えようとしている。

「レム……待て、レム。待って……俺を」

 置いていかないで、と言いたかったのか。
 憎んでいるんじゃないか、と聞きたかったのか。

 そのどちらが真意だったとしても、自分本位な自分にスバルは絶望する。
 この期に及んでまだ、自分という弱い生き物を守ろうとする浅ましさに。

 レムが文字通り、死を覆してスバルを救ったというのに。
 それを最後に彼女の命の灯火は、今度こそ本当に消えていこうというのに。

「――ん」

「レム?」

 レムの唇が、死者の冷たい唇が、初めてなにか言葉を紡ごうとしていた。
 言葉ひとつ発することすら惜しんで、動かぬ体で地面を這って、朦朧とした意識で魔力を練って、己の目的を果たした少女が最後になにか残そうとしていた。
 それは、

「い、きて」

「――――!」

「だ、す……きぃ……」


 死んだ。


 今、レムが死んだ。

 スバルの腕の中で、軽い体が重くなる。重くなってもなお軽い体が、完全に魂の抜けてしまった体が、その重みがスバルの全身に圧し掛かっていた。
 最後に、途切れ途切れで、彼女は、スバルに、『生きて』と言ったのだ。

 ――慟哭が、暗い洞窟の中に尾を引いて響き渡った。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 スバルが足枷の束縛から逃れることができたのは、それからさらに数時間後だった

 手枷の外れたスバルは足枷の拘束範囲の中で手を伸ばし続け、レムとの戦いで死した黒装束の手から離れた十字架のひとつを掴むことに成功した。
 刃のへし折れたそれは刃物としては役に立たなかったが、かえってそれでよかったものと思う。仮にその刃が健在であったなら、スバルは自分の足首を切断するような暴挙に出ていたかもしれなかったから。

「……軽い、な」

 肉の大部分が削がれ、骨まで見える足首を回して、痛みとともに動作確認。地を踏みしめるたびに意識が白くなるほどの激痛が走ることを無視すれば、歩くのに支障はどうやらなさそうだった。

 立ち上がったスバルの両腕には、レムの亡骸が抱きかかえられている。
 自由となった両腕の中で、四肢を二つ失った彼女の体はあまりに小さく軽い。胸に掻き抱いてすっぽり包み隠せてしまうその小ささに、そんな小さな姿に命を救われた自分がひどく情けなくて、同時にひどく申し訳なかった。

 刃が不完全な状態だった十字架。その折れた刃元を慎重に、慎重に、足枷の金具の繋ぎ目に叩きつけ続けた。十字架の崩壊と足枷の破壊。先に根を上げるのがどちらになるか、といった根競べはかろうじて十字架に軍配が上がった。
 外れた足枷を思い切り壁に投げつけ、ラグマイト鉱石が衝撃を受けて淡く青い輝きで洞穴を照らし出す。

 冷たい明かりがほの暗い洞窟を浮かび上がらせた。これほどか弱い光であっても、数十時間ぶりに見た光は眩くスバルの瞼に沁み入る。
 痛みに目の奥から涙が湧いてくるのを感じ、スバルはまだ自分の体の中に涙が残っていたのかと妙な感心をした。
 もう喉も嗄れ果てるほど、涙も流し尽くすほどに泣き喚いたと思ったのに。

「いこう、レム」

 衝撃を受けたラグマイト鉱石が輝いている内に、スバルは外を目指して歩き出した。
 一歩、また一歩と踏み出す足から痛みが駆け上がる。駆け上がった痛みが肩に伝わり、レムを抱き上げる腕にもまた甚大な被害が伝染する。

 体中、痛くない場所がない。血の出ていない場所がない。
 だが、もっとも痛みを強く感じる部分は、すでになにも感じていなかった。

 ゆっくりと、亀の歩みでスバルとレムは洞窟の冷たい地面を進んでいく。靴をなくした足裏には直接地べたの冷たさが伝わるが、腕の中のレムの体の方がもっとずっと冷たい。冷たさなど、それに比べれば何ほどでもなかった。

 洞穴の長く細い通路を抜けると、岩に塞がれた入口に差しかかる。
 ふと、その前まで到達してスバルは途方に暮れてしまう。目の前、穴を塞ぐ岩の大きさは縦はスバルと同等で、横はスバルが三人分。重量で比較すれば、スバル十人と比較してもとても足りないだろう。
 動かすことなどできるはずがない。そも、ここに入ったときはどうやって入ったのかと考えるが、現実から引きこもっていたときの記憶は曖昧でぼやけていて、岩のどかし方の手順書は脳のどこにも見当たらなかった。

「一本道、だっただろ……」

 別の出口があるのかもしれないなどと思っても、ここまでの道のりでそれらしきものがあった痕跡は覚えがない。あるいはこの岩のように、巧妙に偽装された隠し通路があるのかもしれないが、あったとしたらそれを見つけ出すのはどれほどの時間と、運が必要なのだろうか。
 閃きも、幸運も、スバルにとってはどちらもあまりに縁がない。

「ここまできて、嘘だろ……頼むから、嘘だと……っ」

 脱力し、スバルは目の前の無慈悲さに力のない声で不服を訴える。その身が寄りかかるように、目の前の岩に触れる――瞬間だ。

 スバルの体を支えて然るべき質量を持った岩が、その存在をふいに消失させた。
 前のめりに岩に寄りかかるはずだったスバルは踏鞴を踏み、転びそうな体をどうにか足を前に出して踏ん張り、降り注ぐ夕焼けの朱色に世界を焦がされた。

「――ッ!」

 思わず苦鳴が漏れるほどに、橙色の日差しは鮮烈な輝きをスバルに与えていた。
 森の彼方、丘の向こうへ沈みゆく夕焼けが水平線を埋め尽くし、一日の役割を終える最後の挨拶に、炎と同じ色に世界を染め上げていたのだ。

 長く、暗闇にいたスバルはしばし蹲り、瞳が光を受け入れるのを待ち構える。しばしの時間が経って立ち上がったスバルは、幾度かの瞬きを経て、光の影響がないのを確認してから周囲を見回した。

 見渡す限り、木々の群れが続くばかりの光景には当然ながら見覚えがない。
 四方を遠くまで見通してみても、林道や街道といった人の営みの片鱗が浮かぶ気配すらなかった。洞窟にこもっていた連中の性質を省みれば当然の話だが、完全に人里とは隔絶した幽閉場所であったらしい。

「でも、歩く……」

 目的の場所はどこかわからず、行き先は定まりようがない。
 それでも、腕の中の軽い重さに背中を押されるように、スバルは森を歩き出した。葉を踏み、根を越え、土を渡りながら、スバルは次第に暗くなる夜を進んだ。

 メイザース領――ロズワールの屋敷の近辺まできていることは、確かなのだ。
 意識が曖昧の淵にあった頃、レムはスバルを連れて屋敷を目指していたはず。竜車に揺られ、彼女の膝で安寧を得ながら、そうしていたのだと記憶を掘り返す。
 竜車が横転するトラブルがあり、それはあの『魔女教徒』とかいう連中の仕業であり、彼らの手でスバルの身柄が連れ去られ、レムはスバルを救うために命を燃やし尽くして、今スバルはこうしている。

 状況の整理のつもりが、思い出される記憶の欠片から憎悪までもが寄り集められ、スバルの内腑が底無しの炎によって焼き焦がされていく。

 レムのことを思い、感謝と申し訳なさで心が締めつけられるように痛む。
 ペテルギウスを思い出し、憎悪と怨嗟で体がはち切れそうな軋みを立てる。

 怒りが、悲しみが、憎悪が、親愛が、スバルを支え、突き動かしていた。

 行く道は定まらず、導くものもまたなにもない。
 それでもスバルの足は止まらず、意識は失われることなく抗い続ける。

 ――そして、それは彼の身に起こった奇跡だったのかもしれない。

 道しるべはなにもなく、頼れるものもなにもなく、ただ足を止めることだけを拒んで歩き続けたその先に、彼の求めたものが、辿り着きたかった場所があったのだ。
 奇跡とは、人の力を越えた不思議な現象が生じることをいう。
 ならば、誰の手を借りるでもなく、最短の距離を踏破して、目的地に辿り着いたスバルに訪れたそれはまぎれもない奇跡だっただろう。

 この世界にきて以来、初めて世界はスバルに対して奇跡を賜わした。
 運命を司る神がいたとすれば、それは初めてスバルに微笑んでくれたのだ。

 そしてその微笑みは、奇跡は、

「――は」

 ――その一度だけしか、降り注がなかった。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 いつか見たものとまったく同じ地獄が、またしてもその村を蹂躙していた。

 焼け落ちた家々に、血に染まる村人。抵抗むなしく命を奪われた亡骸が、村の中央にぞんざいに集められ、死体の山を築いていた。

 刃で切り裂かれ、穿たれ、魔法で焼かれ、潰され、生存者を期待できるはずもない。
 以前と違うところがあるとすれば、それは村人の死体の損壊の度合いがよりひどくなっていることと、

「ペトラ。ミルド。リュカ。メイーナ。カイン、ダイン……」

 子どもたちの無残な死体までもが、その悪辣なオブジェに組み込まれていることだった。

 レムを抱きかかえたまま、スバルの膝から力が抜ける。
 その場に崩れ落ち、腕の中の冷たい体を強く強く抱きしめて、嗚咽を漏らした。

 なにを、やっていたのだろうか。
 どうして、こうなるのを知っていて、見過ごしてしまったのだろうか。

 林道を抜け、村の方向から黒煙が上がっているのを見つけるまで、スバルはこの光景を、心を打ち砕いた地獄の風景を完全に脳から忘却していた。
 否、目をそらしていたのだ。レムの死に心を砕くふりをして、ペテルギウスへの尽きぬ憎悪を言い訳にして。
 起きた出来事から逃げ出そうと、またしてもスバルは自分可愛さを選んだ。

 その結果が目の前の光景だ。
 子どもたちがここで死んでいるのは、前回ならば彼らを守ったはずのレムが、村に到着することができなかったからだ。スバルが生き残ってしまった代わりに、子どもたちは苦痛の果てに命を奪われる結果をもたらされた。

 唾棄すべき現実が、スバルの心を蝕んでいく。
 今、わかった。全て、わかった。

 ペテルギウスだ。

 村人を殺し、子どもたちを殺し、レムを殺したのだ。
 一度ならず、二度までも、奴は、許されないことをしたのだ。

 方針は決まった。やらなければならないことがわかった。
 ペテルギウスは殺さなければならない。殺して、殺して、殺し尽くして、その細胞の一片まで焼き尽くして、存在を消し去らなければならない。
 そうしなければ、死に報いることができない。

 思考が憎悪一色に染まる。
 視界が真っ赤になり、足りない血のほとんどが頭の方へ上り詰め、鼻から溢れ出して伝うのがわかった。
 その鼻孔から滴る血を乱暴に拭い、レムを穢さないように抱き直し、立ち上がる。膝は震えて、足首はガタガタで、立てるのも歩けるのも不思議でならない。

「殺す、殺す、殺す、殺す、殺してやる……」

 けれど、歩けるのならば、進めるのならば、喉笛を噛み千切ってやる。

 殺意に塗り固められた意識を引きずり、スバルは屋敷の方へと向かう。村の地獄は見届けた。次は屋敷。屋敷で何が待ち受けていたのだったか。死ぬ直前、やり直すことになる直前、なにがあったのか記憶はささくれ立っていて判然としない。
 屋敷に辿り着き、決定的ななにかを見て、心が割れ砕けてしまったのだと思った。それがなんなのか、必死に思い出そうと脳神経を焼きつかせ、思い出す。

 レムが死んでいるのを見つけたのだ。

 そして、その経験ならば今回はすでに体験を終えている。レムは死に、その死と献身がスバルにもたらした衝撃は計り知れない。

「くは」

 自然、嗤いが溢れ出した。
 本当に、本当に、なにも変わっていないではないか。

 順序が狂っているだけだ。起きた出来事はなにも変わっていやしない。これほどまでに無為にやり直しの時間を過ごしたことがかつてあっただろうか。
 どんな展開であったとしても、死を経てスバルはなにかを得てきたはずだ。
 だが、精神を破壊されて、なにひとつ救い出すこともできず、再び地獄と巡り合った今の自分になんの価値があると?

 殺意はいつしか、誰に向けているものなのかわからなくなり始める。
 ペテルギウス、その名前だけがスバルを支えていた。それでいいはずだ。殺したいのはそいつであるはずだ。そいつを殺せば、殺して、殺そう。
 そいつを殺したあとで、――も死ねばいいのに。

 思考にノイズが入り混じり始め、スバルの意識は点滅を繰り返す。
 正気と狂気の狭間に再び立ち合いながら、血走る瞳でスバルは前を見る。
 たとえ何があろうと、今は屋敷に向かうことが先決であると、いつものように目の前の事態を先送りにする選択を選んで。

 そして――、


「――――――――――!!」


 丘を上り切った瞬間に、ロズワール邸が崩壊するのをスバルは見た。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 屋根が崩落し、テラスが瓦解していく。
 窓ガラスが一斉に割れ砕けて煌めく破片をまき散らし、ひび割れた白い壁が引き裂かれるように破壊されていった。

 門前にまで到着していたスバルは、その圧倒的な破壊を呆然と見上げる。

 爆弾を使用した解体工事かなにかのように、屋敷は一瞬で輪郭を失った。
 見慣れた建物は形を失い、丁寧に整えられていた庭園にその残骸をばら撒き、屋敷であった痕跡を根こそぎ失っていく。

 記憶を探り、その光景に出くわした経験を探し求める。が、該当する記憶はない。あるいはこの衝撃が大きすぎて、自分は死んだ瞬間を覚えていないのか。

「な、なにが……」

 戸惑いを唇に乗せた脳裏、浮かんだのは痩せぎすの男の嘲笑だ。
 村の殺戮が彼の男の所業であるとするならば、奴はその凶行の矛先を屋敷の方へも向けたことだろう。
 その手段がこの、屋敷の崩壊へ繋がったのかもしれない。だとしても、

「いったい、なにしたらこんな……」

 理解を越えた光景に頭を抱えて、スバルは白い息を吐きながら瞳を惑わせる。
 心細さに腕の中の感触をより強く求めれば、いっそうの冷たさが掌を伝って悲しみを胸中へ吹き込ませるのだった。
 そして、遅まきに失してスバルは気付く。

 ――自分の、荒げた息が白く曇って見えていることに。

 気付けば、肌を刺すような痛みが全身を取り巻いていた。
 吐いた息は白く、大気に散った瞬間から氷の滴へと姿を変える。そして吸い込んだ酸素は冷え切っており、それを入れた肺を凍えさせて、スバルを内側から苦しめる。

 なにが、起きて、いるのか、わからない。

 全身の体温が奪われて、立っていることすら困難になって崩れ落ちる。
 その場にしゃがみ込み、前のめりに地面に体を倒し、レムの体を抱いたまま横倒しになり、そのまま動けなくなった。

 血が足りないであるとか、体力が尽きたであるとか、そんな次元ではない。

 手先に意思が伝わらず、意識が肉体から乖離しかけるこの感覚をスバルは知っている。すでに幾度も、経験したことのある、決して慣れない寂寥感と無力感だ。

 迫る終焉、それに少しでも抗おうと、スバルは動かない体の中で、意思に従う場所を求めて脳神経から指示を全身に伝達する。が、言うことを聞いたのはかろうじて動いた眼窩の中の瞳だけで、それは崩れた屋敷を見上げるだけに留まる。

「――あ」

 そして、その今度こそ動かなくなった固定された視界の中、スバルは見た。


 ――それは、崩壊した屋敷のなれの果ての上に立つ、一頭の獣だった。


 灰色の体毛を全身に流し、金色に輝く瞳を持った獣。
 四肢を着き、長い長い尾を揺らす姿は悠然としており、神秘的に過ぎた。
 そしてなにより、その獣は屋敷と見紛うほどに、あまりに強大な体躯を持っていた。

 その姿を遠巻きに見て、スバルは屋敷の崩落の原因を悟る。
 あの獣が、屋敷の中から突如として現れたのだ。内側からあれだけの巨体が出現してくれば、屋敷は当然だがその圧力に耐え切れない。

 身を振り、周囲を睥睨するのは灰色の体毛をした猫科と思しき巨獣。
 それは口から鋭い牙と、白い吹雪のような吐息を吐き散らし、世界を純白の、生けるもの全てを凍りつかせる地獄に塗り替えていく。

 あれはなんなのだ、と思った目がついに白く陰り、いつの間にか喉が塞がっていることにスバルは気付いた。
 あれほど感じていた冷たさは消え去り、それどころか温かさすら感じる。
 その温もりに全てを委ねてしまいたいという誘惑がちらつき、スバルは身を焦がすほどの憎悪も、魂を引き裂かれるような悲哀も、なにもかもを忘れる。

 忘れて、忘れて、意識は忘却の彼方へ、凍えるような温かさの彼方へ。


《眠れ――我が娘とともに》


 眠りに落ちる寸前、誰かの声が聞こえたような気がした。
 なにもかもが、なにもかもが、どうでもよくなっていく快楽の中へ、ナツキ・スバルは沈むように溶けていく。


 溶けていき、溶けていき、溶けていき、――消えた。




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