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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第三章 再来の王都

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第三章37 『怠惰』



 哄笑が、洞穴のほの暗く冷たい壁に反響していた。

 ケタケタと、嗤うペテルギウスはなにがそれほど面白かったのか、血が付着して赤く斑に染まった歯を剥き出して嗤い続けている。
 止めるものがいなければいつまでもそのままでいそうなペテルギウス。その奇態を前に、嗤われる対象とされたスバルは俯いて地面を睨みつけたままだ。

 スバルの身柄は黒装束に広間の奥へ連れ込まれ、ぞんざいに放り出されて壁に拘束されている。鉄製の枷は手足を色が変わるほど強く締めつけており、血の管が絞られる痺れがじんわりと広がり始めていた。

「ふへ、ひひへ……」

 手足が麻痺する感覚に、スバルは他の表現を知らないかのようにひきつった笑みを浮かべる。それを見て、ペテルギウスはいっそう楽しげに手を叩き、

「ああ、滑稽なりデスね! なかなかなかなかなかなかに、興が乗る光景と言えマスよ。実に、実に実に実に実にぃ、脳が震える……」

 左手の傷口から血を滴らせ、右手の指でそれを拭って自身の額に塗りたくる。
 額に斑の紋様を描きながら、凶笑を浮かべるペテルギウスは常軌を逸していた。

 現実とは違う場所を見てへらへら笑うスバルと、純粋に狂気の世界に浸るペテルギウス。軽く現実感を損なう二人の狂笑が重なる空間に、ふいに影が湧き上がる。
 スバルを担ぎ、洞穴に連れてきたのとは違う人影だ。背の高い影は滑るような動きで音すら立てず、嗤うペテルギウスの傍らに身を寄せ、

「――――」

 ぼそり、と何事かを彼だけに届くような声量で呟く。
 と、それを聞いたペテルギウスはふいにそれまで頬を歪めていた凶笑を消し去り、ひょうきんにおどけていた仕草もぴたりと止めると、

「そう、デス、か! あぁ、それは、あぁ……脳が震えマス、ね!」

 先ほどの凶笑の皮切りとなったのと同じニュアンスで、しかし表情には背筋を悪寒が走りそうな禍々しい凶相を浮かべて、ペテルギウスは左の指の爪を噛む。
 噛み、噛み千切り、爪がめくれて血が流れ、それにも構わずに肉まで齧り、

「……あぁ、痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。脳が、震える。やれ、と。進めと! 立ち止まる暇などないと! 叫ぶ! 呼ぶ! 脳が震えるのデスよ!!」

 腕を振り、爪を噛みちぎられた左手から血が洞穴の冷たい地に落ちる。
 それを無感情に黒影は見届け、わずかに腰を傾け――礼の素振りを見せながら、なおも狂態をさらすペテルギウスに囁きをかける。

「左薬指が壊滅!? あぁ、それはなんと甘美な試練デスか! これほどまでに勤勉に挑んでいるというのに……今日も世界はワタシに優しくないデスね!」

「――――」

「あぁ、それでいいデスよ。左薬指の残数は各々、隣の指に合流。なぁに、まだまだまだまだまだまだまだ、指は九本もありマス。心配ありませんデスよ!」

「――――」

「そう……デス! 試練! 試練! これは試練! 全てはワタシたちが御心に沿うための試練なのデス! 照らせ、輝けぇ……あぁ、脳が震える!」

 歓喜に唾を飛ばしながら嗤い、頭を抱えてその場でくるくると回るペテルギウス。
 黒装束の声はこもり、洞窟という閉鎖空間の中ですら聞きとること叶わない。故にまるでペテルギウスと黒影の会話は、ペテルギウスのひとり芝居のような滑稽さすら孕んでおり、彼の奇行と相まって気味の悪さに拍車をかけていた。

「あぁ、デス、デス、デス、デス、デスデスデスデスデスデスデスデス!!」

「――――」

「デス……あぁ、彼デスか? 気にかかるのデスか? いやいや、いやいやいやいやいやいやいや、わぁかぁりぃまぁすぅとぉもぉ……デス!」

 腰を曲げて身を低くし、さらに体をよじってペテルギウスがスバルの方へ近寄る。ぐいと顔を近づけられ、どこか生臭い息を吐きかけられて、へらへら笑うスバルがその狂態を無感動の瞳で見上げた。
 その黒瞳と向かい合うペテルギウスは、己の灰色がかった双眸を飛び出そうなほど力を込めてぎょろつかせ、

「確かに、確かに確かに確かにかにかに、不思議ぃ、不穏ん、不可解ぃ……この局面で、試練を目前としてぇ、何故にアナタのような存在がぁ?」

「――――」

「竜車! あぁ、竜車はいいデスね! 地竜は可愛げがあって大変によろしいデス! 人間と違って余計な感情も持ち合わせていない。なにより、人の命令に勤勉に従い、勤勉に働き、勤勉にあろうとする姿勢が素晴らしいデス!」

「――――」

「殺した! あぁ、それもまたいいデス! 彼を引き下ろすために仕方なく! あぁ、アナタ方もまた勤勉デスね! よろしい、いいことデス! ワタシの傍で、ワタシの両手の指であるのなら、勤勉であることがなにより重要デス! いぃ! いぃ! すごくすごくすごくごくごくごくごく、いぃぃぃぃぃぃデス!!」

 体をそらし、あわや頭が地面に着きそうなほどの柔軟性を見せるペテルギウス。そのまま恍惚の表情を浮かべる彼は、引き絞った弓のように反動で身を起こし、

「ワタシの指の勤勉さが! 地竜という勤勉の塊のような生き物を下した! あぁ、脳が震える。震える震える震えるえるえるえるえるえるるるるるるる!!」

 常人には理解できない狂気に興奮で顔を赤くし、ふいにペテルギウスの鼻孔から鼻血が一筋流れ出る。
 口にかかりそうなそれを舌で舐めとり、顔面を朱に染めるペテルギウスはうっとりと、陶然とした面持ちで頬をゆるめて、

「あぁ……死んだ地竜は実に、『怠惰』デスね」

 熱のこもった目でそうこぼし、ペテルギウスは絶頂に身を震わせる。
 それから彼は法衣の袖で乱暴に鼻血を拭い、それまでの昂ぶっていた感情をどこへ投げ出したのかと思わせるほど冷徹に、

「即座に竜車を破壊した現場の清掃を。来たる試練の日を前に、ワタシたちの存在が露見することは避けなくてはなりません。人払いは済んでいたはずデスから目撃者の心配はないはずデスが……同乗者は? ちゃんと殺しましたデスか?」

「――――」

「その点で報告? あぁ、聞きましょう。寛大に、雄大に、膨大な愛を込めて。ワタシはワタシの指に、慈悲をもって接しマスからね」

 両手を広げて、法衣の裾を揺らしながらペテルギウスは厳かに頷く。
 司教、と名乗ったその立場に則した振舞いであるそれを見て、黒影は顎を引くとなおも頑なに声をひそめたままで、

「――――」

「同乗者は一名……青い髪の少女。左薬指の指先がかかり、竜車を破壊。彼を確保する際に戦闘に突入……薬指の壊走はその少女によるもの……生死不明」

 黒影の報告を受け止めて、ペテルギウスは首を左右に振って骨を鳴らす。
 彼はそのまま考え込むように、時計の振子のように首を左右に振り、よじり、ひねり、回し、揺らし、最後にかくんと前に傾け、

「生・死・不・明……デス、か」

 言い切り、それから彼はゆっくり、ゆっくりと震える頭を持ち上げて、虚ろな灰色の眼差しを黒装束へと向けた。

「アナタ、『怠惰』デスね?」

 言いながら、ペテルギウスが持ち上げた左手を、その薬指を口に含む。
 そして直後、一切の躊躇なく、その薬指の先端を思い切りに噛み潰した。

 奥歯と奥歯の間で肉がすり潰され、乱暴に引き絞られる嫌悪感が沸く音が響く。ペテルギウスは爪を噛み、肉を咀嚼し、生じた血を口の中に溜め込み、それらを一緒くたにして吐き出し、真っ赤に染まった左手で黒影の顔面を掴んだ。

「試練を、前に、事が露見しそうな状況! それが! それが! それがそれがそれがそれがれがれがれがれが! 福音に対するアナタの真摯な報い方デスか! あぁ、怠惰だ! 怠惰! 怠惰怠惰怠惰怠惰ぁ!」

 骨と皮だけの体のどこにそんな力があるのか、ペテルギウスはスバルを担いで走るほどの相手を、顔を掴んだ状態で右へ左へ振り回す。黒装束が無抵抗な影響もあるだろうが、乱暴に相手を振り乱すペテルギウスは天井を仰ぎ、

「そして! ワタシの指の怠惰はワタシの怠惰! あぁ、寵愛に報いれぬ、我が身の怠惰をお許しください! この身全て、全霊の勤勉さをもって、福音に沿うよう生きることを、在ることを! お許しいただきたいのデス!」

 黒影から手を離し、跪いたペテルギウスは涙を滂沱と流し、血に染まる手を組むと祈るように、縋るように、そこになにかが見えているように懇願する。
 乱暴に扱われた黒装束もそのペテルギウスの祈りに従い、その後ろで同じように天井を仰ぎ、無言でありながら己の不徳を、罪を告白している。

 ――異常、な光景だった。

 喜怒哀楽を見境なく、なんの兆候もなく、ころころころころと切り替えるペテルギウス。情緒不安定などという次元ではない。情緒行方不明な在り方だ。
 それを当たり前のように受け止めて、自身への暴行にすらなんら反応を見せない黒装束のまた異様。司教と名乗ったペテルギウスに従う姿を見れば、あるいは信者と呼ぶべきかもしれない。もっと正しくは、狂信者であろうが。

「愛だ! 愛に報いねばならないのデス! 怠惰であることは許されない! 福音に従わなければ! 与えられた愛に、愛することで返さなければ!」

「――――」

「生死不明の少女を見つけ出すのデス! 生きているなら息の根を止め! 死んでいるのなら死体の頭を切り離し! ここへ連れてくるのデス! ワタシの手ずから後始末し、怠惰であったことをお詫びしなくてはならないのデス!」

 金切り声の命令に黒影が応じ、影は溶けるように洞穴の闇に消えていく。
 そうしてその気配が遠ざかり、ペテルギウスはしばらく呆然と、その場に膝をついたまま荒い息を吐いていたが、

「さて、さて、さてさてさてさてさてててててて……」

 跪いたまま、ペテルギウスが膝立ちの動きでスバルにすり寄る。
 固く、鋭い岩肌が覗いた地面に膝を擦りつける動きは、法衣の下の肌が悪戯に傷付けられるだけの自傷行為だ。
 それらの痛みを、傷を度外視した様子で彼はスバルを覗き込み、

「アナタは、けっきょく、なんなのデスかね?」

「うぅ……あぅ……」

「福音に導かれてきたわけでもなさそうデスが、その体から漂ってくる濃密なまでの寵愛。実に、実に実に実に実につにつにつにつにぃ、興味深い……デス!」

 顔を近づけ、舐めそうなほどの距離で舌を出し、ペテルギウスはスバルを眺める。が、彼の質問にスバルは応じられる状況ではない。
 変わらず、ここではないどこかを見るスバルにペテルギウスは「あぁ、脳が震えるぅ」と恍惚に呟きながら、

「『傲慢』以外の顔は見知っているはずデスがぁ、かといってこれだけ寵愛を受けたものが福音と無関係とも思えませんデスね」

 こぼし、彼は己の法衣の中に手を入れて――一冊の本を抜き出した。

 黒い装丁の本だ。辞典ほどの大きさで、厚みもそれに近いものがある。一見すれば単なる愛読書を持ち出したようにしか思えないが、

「あぁ……福音を、感じマス。脳が、震え、るぅ……」

 愛おしげに黒い背表紙を指で撫ぜ、熱い吐息を漏らす姿にそうでないことは察して余らされるほどのものがあった。
 題名もなにも記されていない本を手に、ペテルギウスはひとしきりその感触を楽しんだあとで、ゆっくり厳かにページをめくり始める。

「福音書に、アナタのことは記されていない。無論、この大いなる試練の前に生じた問題のことも、今のことはなにひとつ! それは! つまりぃ!」

 音を立てて本を閉じ、閉じたそれを掲げながら唾を飛ばし、

「アナタのことは、取るに足らないことであるということデス! 福音書に記されることのないアナタの存在は、ワタシに委ねられているということデス! それほどに深い深い深い深い深かかかかかかかかぁい、寵愛を受けていながら……アナタはなんと矛盾しているのか! あぁ、脳が、脳が、脳がぁぁぁぁ」

 こめかみに指を突きつけ、抉ってしまいそうな勢いで爪を動かす。皮が裂け、血がにじり始める。
 それを見ても、スバルは依然として反応を返さない。へらへらと笑い、ペテルギウスの自傷行為を文字通りに見過ごすだけだ。

「あ・あ・あ・あ・あ・あ……あぁ、無視は、寂しいデスね! こんなにも、こんなにも! ワタシはアナタに好意的に接しているというのにのにのにのにににににに、デス!」

 伸びてきたペテルギウスの手がスバルの顔を鷲掴み、どこを見ているともしれないスバルの顔を固定し、自分の双眸と向き合わせる。
 自失状態のスバルも、さすがのその乱暴な行いに顔をしかめて抗おうとするが、

「――ワタシの目を、見るのデス」

 静かに、これまでの彼の発言でもっとも感情の揺れが少ない、しかし有無を言わせない強い力がその声に、目に込められていた。
 びくり、とスバルの体が震え、呆然としながらも言いつけ通りにペテルギウスの、狂気的な輝きを発する灰色の双眸を見やる。
 そして、

「答えるのデス。応じるのデス。ワタシの問いに、求めに。アナタはどうしてこんなところにいて、どうしてそんなに寵愛されているのか。福音書は持ち合わせていないのデスか? ならば直接、福音を耳にしたことはあるのデスか?」

「あぁ、えぅ……ひはへ」

「埒が明きませんデスね……ならば、順序を変えるとしマスかね」

 立て続けの質問をかわされ、ペテルギウスは首を右へ九十度傾ける。
 顔を横に傾けた状態で、ペテルギウスは顔をさらに近づけてきた。
 そして、

「お聞きするのデスが」

「――あぅぅ!」

 顔を近づけたペテルギウスは舌を伸ばし、それでスバルの左目の瞳を舐めた。
 瞳が他者に舐められる、という日常から逸脱した触れ方に拒否反応を見せ、スバルは手枷の鎖を鳴らしながら身を震わせる。
 だが、それも次の一言を聞かされるまでのことだった。


「――なぜ、アナタ、狂ったふりなどしているのデスかね?」


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 灰色が恐い。

 目の前で自分を見つめている瞳が、目をそらせないそれが恐くてたまらない。
 体を震わせて、顔を背けて、その瞳から逃れようとするけれど、顔を掴んだ両手はとても固くて、体を繋いだ鎖はひどく冷たくて、逃げることはできない。

 体のあちこちが痛くてたまらない。
 横転した竜車から放り出されて、全身に負った擦過傷はなんの治療もされていない。破れた衣服の下、赤く擦り切れた傷口が見るだに痛みを加速し、血のにじむそれはなにかとてつもなく嫌な記憶に直結しているような気がした。

 青は、どこへいったのだろうか。
 いつも側にいてくれた青。優しく触れてくれていた青。ものを食べさせてくれたり、不安なときは手を握ってくれたり、そうしてくれた青。
 青がいないと、青がいてくれれば、こんなに恐いことなくて済むのに。

 緑も、茶色も、白もここにはいない。
 いるのはなにも見えないような真っ黒と、目の前にいる灰色だけ。

 なにも言わない、答えない、いるだけの黒も恐かった。
 でも、灰色はそれよりももっとずっとはるかに恐ろしい。

「直接、福音を耳にしたことがあるのデスか?」

 なにを言っているのかわからない。理解するよう頭が働かない。ただひたすらに嫌なことを拒絶したい気持ちが大きく、体を、顔を、心を背けて拒絶する。
 けれど、相手はそれを許してくれず、灰色はさらに顔を近づけてきて、

「埒が明きませんデスね……ならば、順序を変えるとしマスかね」

 言いながら、顔を近づけてきた灰色。その口から伸びる舌が、異様に長い舌が、滴る血を舐め取ったばかりの赤い舌が、こっちに容赦なく迫ってきて、

「お聞きするのデスが」

 ――左目の表面を、瞳の真上を、舌が虐げるようにねぶってきた。

 湧き出す嫌悪感が、圧倒的な怖気が、鎖を鳴らして拒絶を露わにする。けれど、灰色はそれをやめようとはしない。あまつさえ、もっと楽しげに伸ばした舌をこちらの瞳の裏側に回し、眼球を舌の上で転がすように弄ぶ。

 気持ち悪い、嫌だ、許して、助けて、恐い恐い恐い恐い。
 恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い。
「――なぜ、アナタ、狂ったふりなどしているのデスかね?」
 恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐――?

 なにを、言われたのか、わからなかった。

 瞳を舐められる不快感に、じっと見つめられる気持ち悪さに、目に見える狂気を恐れるが故に拒絶感に、震えていたはずの体がぴたりと止まる。
 呆然と、唖然と、ぽかんと口を開けて、見開いた目を舐められたまま、

「なぜ、アナタ、狂ったふりなどしているのデスかね?」

 繰り返しの、灰色の問いかけを聞いた。

「あぁぅぅああううああ!!」

「いやいやいやいやいやいやいや、実際のところ疑問なんデスよ。なぜに何故になんのために、狂気に染まったようなふりをしているのデスかね」

 聞いてはいけない。耳に入れてはいけない。知ることは許されない。
 頭を振り、手枷を足枷を鳴らしに鳴らし、意識を切り離す。耳から目の前の男の言葉を遠ざける。聞いては、気付いては、知ってはならない。

「無意識に、だなんて都合の良い逃げ道は用意しませんデス。アナタは意識し、自分で自分を理解し、その上で狂気を装っているはずデス」

「あぁっ! ふぐぅ! うぅ、あぅああ!」

「アナタの狂態は理性的に過ぎる。そんな賢しげに、大人しく、同情を買うように、愛されるように、狂うことなどありはしないのデス」

 声を上げ、喉が張り裂けそうなくらいに絶叫し、男の声を消そうと試みる。が、男はむしろそんなこちらの行動を嘲るように、するりと意識の隙間を縫うように言葉を差し込んできた。

「出来損ないの狂人の演技デス。本気で狂うのであれば、本当の意味で狂気の世界に浸るのであれば、他者の目など意識してはいけない。世界はひとりで完結していなくては、狂うということは外れるということなのデスから!」

「――ばああ! ばあああ! ばばばばああ!」

「あぁ、滑稽、滑稽なりデス! なぜ、アナタは狂人のふりなどしているのデスか!? 本当に外れたものからすれば、そんな上っ面はすぐに剥げる、見える、そしておかしくてたまらないというのに!」

 聞きたくない言葉が、知りたくもないことが、鼓膜を叩いて流れ込んでくる。
 苦しい。気持ちが悪い。胸の中でなにかが膨れ上がっている。どす黒いなにかが、外へ出たいと叫んでいる。それを外へ出してしまうわけにはいかない。
 もしもそれが外へ出てしまえば、そんなことになれば、

「憐れむ、哀れむ! 惨めで醜くて卑賎で矮小で罪深いアナタを、あぁ、ワタシは哀れむとしマス! それほどまでに愛されていながら、いったいなにを拒絶する必要があるというのか! ただ、与えられる愛に溺れることもせず、さりとて寵愛に報いることも、拒否することもせず、停滞の中で風化することを望むのデスか」

 灰色の男は頭を振り、掴んでいたこちらの顔を放り投げる。
 投げられた頭が背後の壁に激突し、火花が散り、鋭い痛みに苦鳴が漏れた。
 だが、男はそんなこちらになど微塵の意識も向けず、先ほど噛み潰した指の傷口に別の指をねじ込み、なおも出血を誘発させながら、

「あぁ、あぁ、あぁ、アナタ……『怠惰』デスね!」

 ぱきん、と音を立てて、頭の中でなにかが割れたような気がした。
 なにも聞いていない。なにも聞こえていない。全ては狂人の戯言だ。なにひとつ的を射てなどいないし、なにひとつ真実に辿り着いていない。
 なにもわからない、なにも理解できない。そうであるべきだ。そうあったはずなのだ。そうでなければならない。

 そうでなければ、俺は――。

「あぁ、そこまでデス」

 どす黒いものが胸中で膨れ上がり、それが今にも爆発しそうな瞬間、ふいに男の方がそれまでの勢いを消し去ってぽつりと呟いた。
 途端、それまで生じていた肌を粟立たせるような危機感が、眼前に迫っていた狂気の光が遠ざかり、知らず緊迫していた全身から力が抜ける。

「あまり、そう、あまりあまりあまりあまりまりまりまりまり、追い詰めてしまっても困りマスからね。しばし、じぃっくりと、時間をかけて考えてみるのもいいんじゃないデスか? 真摯に寵愛に向き合えば、自ずと答えが出るはずデス」

「あぁ……うふぐ……」

 いったい、この男はなにを言っているのだろうか。
 一から十まで、男の口にする言葉はなにひとつこちらの理解に届かない。こちら側からは届かないにも関わらず、男の方はまるでこちらの全てを掌握しているかのように、見えない暗がりにいるこちらを理解しているかのように、幼子の手を引く優しい大人のように、吊り橋を渡る迷い人を惑わす悪魔のように、振舞う。

 理解してはいけない。理解しようとしてはいけない。ましてや、そんな風に考えることなど今の自分にはできない。できてはいけない。
 それを理解してしまえば、それこそ後戻りはできなくなってしまうのだから。

「あぁ、願わくば……アナタが怠惰ではなく、勤勉であることを」
+注意+
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