卒業研究
――――子、……り子。依子ってば!!」
音と光が急激に押し寄せてくる。まるで、たった今目覚めたばかりとでもいうような、
衝撃的な感覚。その軽い目眩にも似た症状は、気に留める隙も与えずに消え去っていく。
依子と呼ばれた少女は、何度も瞬きを繰り返しながら、ポカンっとした表情で辺りを
見回していた。同年代の少女が二人、呆れた顔でこちらを眺めている。
「急にぼーっとしちゃってさ。試験が終わったからって、ちょっと気、抜き過ぎだよ」
「勉強してないなんて言っておいて、ホントは徹夜してたんじゃないの?」
そう言って笑い合う二人に、依子は曖昧な笑顔を見せる。
「そんな事ないよ。昨日もここで試験勉強してたでしょ。やったのはそれだ……け……」
漸く状況を思い出してきた。ここは学校近くのファストフード店。試験最終日の放課後。
晴れて試験から開放された記念に、ここで打ち上げをしようって事になったんだ。
今日だけじゃない。毎日このお店に寄っては、三人で試験勉強をしていた……はず?
「どうしたの?」
「私達、昨日もここで勉強してたよね? って言うより、今日の試験って何だった?」
同じ制服を着た少女達。傍らには学校指定の鞄もある。それを開けてみれば、試験科目は
すぐに判明する。それが判っているのに、何故か鞄に手を伸ばす事が出来なかった。
まだそんなに時間が経っていない筈なのに、自分の中に今日一日の記憶がない。
違う。今日だけじゃない。昨日の事ですら、思い出せない。依子はその事に愕然とする。
「なーに、寝惚けた事言ってるの? ホントに眠ってたんじゃないでしょうね」
「そんなに眠いんなら、もう帰らろうよ。私、雨が降り出す前に帰りたいんだ。
傘、持ってきてないから」
「あっ、私もだ」
戸惑う依子を他所に、二人は帰り支度を始めていく。飲み終わったコップをトレーに纏め、
早々に鞄を持って立ち上がる。
「雨?」
視線を窓の外へ向けると、歩道橋に掛かる西日が眩しい、夕暮れ時の風景がある。
雨など降りそうにもない天気なのに、これから雨が降るという確信が、依子の中にも
確かにあった。
二人と別れて家路に着くと、母親がキッチンから出迎えてくれる。
「今日はいつもより遅かったのね。もうすぐお父さんも帰って来るし、着替えたら
お夕飯の仕度、手伝って」
「はーい」
母の言葉に返事をしながら、リビングにある時計を確認する。
時刻はいつもとそう変わらない。たった数分、遅れた程度。
そんなに時間に厳しかったっけ? と不思議に思いながら立ち止まっている依子に、
母がキッチンに戻りながら尋ねてくる。
「夕飯は依子の大好きなものよ。何だと思う?」
好物は幾つかある。母の手料理はどれも美味しくて、普段なら一つに絞ることは難しい。
けれど、今日の依子には何故か答えが判っていた。
「……ハンバーグ」
最近、似たような会話を交わした気がする。その時も、答えは“ハンバーグ”だった。
昨日の事ですら覚えていないのに、何故かその記憶だけが鮮明に残っている。
違和感を伴いながら、依子は答えを口にした。
「当たり。もしかして食べたかったの? それなら調度良かったわね」
「……着替えてくる」
依子の答えに嬉しそうにする母を見て、居たたまれなくなったのか、まるで逃げるように
部屋へと急いだ。
「あっ、雨。もう降りだしてるんだ。それなら、お父さんも帰って来る頃だな」
窓に当たる滴を見付け、何気なく口を吐く。その言葉と同時に、玄関で物音が聞こえた。
―――――目覚まし時計の音が朝の訪れを告げる。
「んー、眠ーい」
布団の中でゴロゴロと伸びを繰り返した後、勢いを付けて起き上がる。
カーテンを開けると、部屋の中に柔らかい光が差し込んだ。
「依子ー。早く食べないと、遅刻するわよー」
「はーい、今、行くとこー」
リビングからの母の声に、慌てて部屋を飛び出した。
「おはよう。お父さん、もう出掛けたの?」
「とっくに出掛けたわよ。いつまでも寝てるんだから。たまには早く起きなさい」
「はいはい、判ってますって。……いただきまーす」
小言になりそうな母の言葉を遮って、早々に食事を始めてしまう。
美味しそうに食べる依子を、母は呆れた表情を浮かべながら見つめていた。
「まったく、そんな調子で大丈夫なの? 昨日まで試験だったんでしょ?」
「ん、平気平気。みんなで勉強した処が出たから、バッチリだったよ」
軽快にお箸と口を動かしながら、依子は安請け合いをする。試験の結果は問題ない。
酷い点数を取って親に怒られるなんて事、あり得る筈がない。そんな根拠のない自信が、
依子にはあった。
「あっ、いけない。また遅くなっちゃった。待ち合わせ、いつも最後なんだよね」
「のんびりしてるからでしょ。忘れ物はないのね?」
「大丈夫。忘れ物なんてしないよ」
先程と同じ自信が、依子の口調を強いものにする。
どうしてそんな事が、言い切れるんだろう? そんな考えが、不意に頭を過った。
けれどその思いは、時間に余裕のない現実が、すぐに拭い去ってしまう。
「いってきまーす」
傍に用意してあった鞄を掴むと、そのまま玄関へと駈け出していく。
待ち合わせ場所にしている近所の公園。ファストフード店でも一緒にいた二人が、
依子の到着を待っていた。
「あっ、来た、来た。依子、遅ーい」
「ごめーん。朝はいっつも時間がなくてさ。最近、お父さんともすれ違いなんだよね」
二人の傍に駆け寄ると、荒い息を弾ませる。言い訳を口にしながら、両手を合わせた。
「そんなに早く出掛けるの? 依子のお父さん、何してる人だっけ?」
「んっと、普通のサラリーマン。……かな?」
友達に父親の事を聞かれて、改めて考えてみる。
お父さんの職業って何だっけ? そんな事より、お父さんってどんな顔してた?
「…………っ!!」
思い出せない。雨が降りだすと帰宅する父。そんな印象が残っているだけで、実際の姿を
見た記憶がない。そんな事はあり得ない。だって昨日、一緒に夕飯を……。
「依子、何ボケっとしてるの。急がないと、ホントに遅刻になっちゃうよ」
驚愕している依子の背中を押すように叩くと、学校のある方へと走りだして行く。
重大な事を忘れているような不安を抱えたまま、二人の後を追う事しか出来なかった。
*****
――――子、……り子。依子ってば!!」
音と光が急激に押し寄せてくる。まるで、たった今目覚めたばかりとでもいうような、
衝撃的な感覚。その軽い目眩にも似た症状は、気に留める隙も与えずに消え去っていく。
依子と呼ばれた少女は、何度も瞬きを繰り返しながら、ポカンっとした表情で辺りを
見回していた。同年代の少女が二人、呆れた顔でこちらを眺めている。
「急にぼーっとしちゃってさ。試験が終わったからって、ちょっと気、抜き過ぎだよ」
「勉強してないなんて言っておいて、ホントは徹夜してたんじゃないの?」
そう言って笑い合う二人に、依子は曖昧な笑顔を見せる。
「そんな事ないよ。昨日もここ―――――
「うわっ!! あーあ、落としちゃった」
カチンっというガラスの打つかる音の後、手にした物が机の下へと転がっていく。
机の下に潜って手を伸ばしても、落し物は向かいの席まで転がっていて届かない。
「斎藤くん? そんな処で何してるの?」
「……っ!! イテっ!!」
急に声を掛けられて驚いた斎藤は、狭い机の中で思い切り頭を打ち付けてしまった。
頭を抑えて机の下から這い出すと、不思議そうな顔で覗き込んでいる女性を見付けた。
「何だ、依子さんか。脅かさないでよ。まぁ、調度良いや。そっちの依子さんの席の下に
転がってるやつ。悪いんだけど、拾ってくれる?」
「何、落し物? 良いけど、ちょっと待って」
グルっと回って自分の席まで戻ると、机の下を覗きこむ。小さなガラス瓶のような物が、
転がっていた。長身を折り曲げるように屈むと、それを拾い上げる。
「何、これ。砂時計?」
そう言って、拾い上げた物を確認する。手にしているのは、ピンクの砂が入った砂時計。
ガラス瓶の中に収まっている砂を軽く振ってから、斎藤にそれを返す。
「そんな物、何処から持ってきたの? だいたい、遊んでる暇なんてないんでしょ。
聞いたわよ。卒研、全然進んでないって」
机に山積みにされている書類の中から、山を崩さないように資料を抜き出しながら、
依子が心配そうな声を出す。
放り出していた椅子を引き寄せて座ると、斎藤は乾いた笑い声を漏らした。
「あはは。依子さんは、相変わらずキツイなぁ。歩みの程は蝸牛、かな。
まったく進んでないってわけじゃないよ。一進一退ってやつ」
「そうなの? 確か“時間干渉と記憶定着”だったわよね、卒研のテーマ。
そんな未知な領域に挑戦して、卒業を棒に振るのか、って皆は言ってたけど。
私は結構、期待してるのよ。もしそれが実現したら、未来の終焉は確実に変わるもの」
「それは買いかぶり。あんまりプレッシャー掛けないでよ。見通し暗いんだから。
それより、そっちはどうなのさ? 依子さんのテーマ、“空間固定”だっけ」
「私の場合、一進一退処じゃないわ。暗礁に乗り上げてる。幾らやっても膨張しちゃって、
空間が固定されてくれないの。方向性、間違えたかなぁ。これから教授に掛けあって、
再調整してもらうつもり。いけない、時間だ。教授にアポ取ってるの。もう行かなきゃ。
斎藤くんも、いつまでもそんな玩具で遊んでないで、しっかりやりなさいよ。
私の期待、裏切ったら許さないから」
じゃあね、と、言いながら軽く手を振ると、依子は足早に部屋を出ていってしまう。
見えてはいない事を承知で、斎藤も手を振り返した。
「“空間固定”なんて簡単だよ。膨張なんて、空間を閉じ込める器の見通しが甘いんだ」
そう独りごちると、また砂時計を手にした。ガラスが割れていない事を確認するように、
砂を光に透かしてみる。
「あっ、変わってる。まーた記録の付け直しだよ。卒研、当分終わらないな」
愚痴とも付かない言葉だけが、静かな研究室に蓄積されていく。
――――子、……り子。依子ってば!!」
音と光が急激に押し寄せてくる。まるで、たった今目覚めたばかりとでもいうような、
衝撃的な感覚。その軽い目眩にも似た症状は、気に留める隙も与えずに消え去っていく。
依子と呼ばれた少女は、何度も瞬きを繰り返しながら、ポカンっとした表情で辺りを
見回していた。同年代の少女が二人、呆れた顔でこちらを眺めている。
「何をぼーっとしてるの? 早くしないと次の授業始まっちゃうよ」
「えっ、授業?」
依子と呼ばれた少女は、何度も瞬きを繰り返しながら、ポカンっとした表情で辺りを
見回していた。同年代の少女が二人、呆れた顔でこちらを眺めている。
「今日の科学は実験だから、理科室に集合って言われてたでしょ。ホラ、早く。
もうチャイム鳴っちゃうよ」
二人の少女に急き立てられながら、依子は教科書を抱えて教室を駈け出していく。
サラサラと、砂が落ちる音が微かに聞こえる。
完(2012.12.01)
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『日常の不可思議』というリクエストをいただいて書きました。
ありがとうございます。