新しい母
とても悲しくて残酷なことだけれど、誰かが誰かの代わりになることはできない。心の中には大事な人々が履いていたガラスの靴だけが残りーー誰も履けやしないのに捨てることさえままならない。
誰しもそんな持て余した靴を持っていて、長く生きれば生きるほどそれらは増え続けていく。
当時の僕といえば、滅多に家へ帰ってこない母親が恋しくて毎日泣いていた。弁護士の父親は「あんな女、放っておけ」とよく言っていたけれど、幼稚園児にそんな割り切り方ができるわけがない。ちょっと前まで母親と臍の緒で繋がっていたのである。
珍しく家に母親がいると嬉しくて、ずっとくっついていた。まとわりつくたびに「ジャマジャマ」と引きはがされる。買い物について回り、ロボ・ジョックス初号機を欲しい欲しいとねだると、母親は「ダメ、あんなのダサいし高い」と却下する。ダサさは却下される要因の一つだと学んだな。
思えば僕の家は比較的裕福だったのに、オモチャは買ってもらえなかった。それは両親の教育方針だった。その時、僕がいかに泣こうが喚こうが地面に寝転ぼうが首を吊るふりをしようが、頑として首を縦には振らなかった。確かに我慢を覚えるのはとても大事なことである。しかし僕はといえば命を賭けてもいいほどロボ・ジョックス初号機が欲しかったのである。
「全く、オモチャぐらいでなんて顔してるのよ」
そう言いながら、自分は高級そうな腕時計を紺色の箱に包んでもらっていた。
家に帰ってから一緒の布団で寝て、母親の胸に顔を埋めると、ひどく香水と煙草の臭いがした。その二つの臭いの奥に、僕はミルクの匂いを嗅ぎ取る。安心してすぐに眠る。
母親が変わったのは長い長い家出の後、記憶喪失になって帰ってきてからだった。僕のことはおろか、自分の好きな食べ物さえ覚えていなかった。とはいえ問題は何もなかった。
毎日家に居るようになったし、寝る前に本を読んでくれる様になった。コンビニの弁当は食卓に上らなくなり、生姜を効かせた手作りの肉詰め茄子は今でも僕の好物である。僕が仲の良かった友達とケンカした時には、詳細も聞かずに頬を叩き「今すぐ謝ってきなさい。どっちが悪いとかじゃなくて大事な友達でしょうが!」と真っ直ぐ目を見て諭した。
――あれはとても痛かった。
小学校の低学年になると、父方の祖母ウメノがぼけ始めた。息子と僕の区別がつかなくなったのである。ウメノの精神は次第に混濁し、彼女の中で息子はいつまでも子供のままとなり、孫の僕がまるで当時の息子のように見えていたらしかった。しかしクローンじゃあるまいし僕は僕であって息子にはなれず、幼い我が子の姿を幻想に追う祖母は幸せそうな分だけ哀愁が漂う。
正直僕はウメノが嫌いだった。祖母は理不尽な不幸の体現者だった。
父親もそんな母親の姿を嫌い、会うことを避けるようになった。夫に先立たれていた祖母は一人ぼっちだったけれど、必死に介護をする僕の母親に毒づくことが多かった。皮肉にもその時だけ祖母は正気に戻り、現世と幻想の境界ーー最後の一線に踏みとどまることができたのだった。
僕が小学校高学年になる頃には、祖母はもうほとんど思い出の底に沈みこんでいた。しかしある時ウメノは必死に現世へ浮かび上がり、僕を呼んだ。
祖母の部屋はいつも以上に片付いていた――というより物が何も無いに等しかった。白檀の香りはどこか神秘的で俗世から離れているように感じさせる。祖母は正座して待っていた。僕も自然とその向かいに正座した。
そして僕は、母親が既に死んでいることを聞かされた。
母親が死んだのは僕が四歳になろうかという頃、つまり長い長い家出だと思っていた時だ。買い物に行った帰り、浮気相手の男の家で仲間達と酒を飲みつつ最新のドラッグを試し、乱交パーティーの最中に心臓麻痺で死んだらしい。どこにも同情の余地はない。
母親は捨てられた子供であり天涯孤独の身であったことや――後に話す理由から――葬儀は内々で秘密裏に行われた。
父親や祖母は「僕のためを思って」、その死を伏せた。それから大金をはたいて母親の遺体からクローンを作った。
クローンは急速に成長させられ、むしろ少し老化し、記憶喪失という設定で帰ってきた。それが今の母親である、と。
――これはおかしい。
クローンはさほど珍しい技術でもないし、別に代わりの母を用意するのもーー言ってみれば再婚して新しい母が来るのとそう変わらない。幼い子供にとっては。
おかしいのは祖母の態度だ。僕に真実を教えるつもりなら母親が死んだ時にそうするべきだったし、代わりに立派な母親を僕に気づかれずに用意したというのならそれを押し通すべきだ。実際、僕は新しい母親にとても懐いていたのだから。
多少混乱しながらも、僕はそう言って祖母を非難した。しかし祖母は穏やかに目を細めて頷くのみでーー何度目かの頷きで全身から力が抜けたように畳に崩れ落ちた。
こときれていた。
要するに祖母はこの秘密を墓場まで持っていくには弱過ぎたのだ。
そして葬式場で母親は泣いていた。何故自分に辛くあたっていた者が死んで泣く必要がある?
「もしかしたら仲良くできたかもしれないからよ」
「でもできてなかった」
僕は鋭く切り返す。
「あんたはまだ誰かがいなくなって、『本当に寂しい』ってことがわからないのよ」
それはわからない。わからないということさえわかっていない。僕はまだ小学校高学年だったから――と、年齢のせいにするのは甘えだろうか。僕より遅く生まれた母がそれを分かっているというのに。彼女は自分のことをクローンだと知っているのかもしれない。知らないのかもしれない。
どちらにしろその涙は複製品ではないのだった。
中学生になった頃、母に祖母の部屋の片付けを頼まれた。僕は命令に文句を漏らしながら従う。とは言っても窓を開けてカビ臭い空気を入れ替え、布団なんかを干すだけだ。外は初夏の乾いた風が吹いていた。
「いい天気ね。あんたの産まれた日を思い出すわー」
その記憶はこの母には無いはずだが、多分残された情報から学習したのだろう。母が言うのなら、それはそうなのだ。
「これ何? あんたの?」
母親が押入れから、祖母のものではない布団一式とリボンで飾られた箱を見つけ出した。箱にはメッセージカードがついている。そっと開いてみる。
「四歳のお誕生日おめでとう! 君が産まれて元気でどんどん大きくなって、母はとても嬉しいです」
すぐに閉じる。
ああ、そうか。合点がいった。
祖母はこれを見つけたんだ。中身はやはりロボ・ジョックス初号機だった。
「ちょ、オモチャぐらいでなんて顔してるのよ。何が書いてあったの?」
「いや、何でもないよ。母さん。ただちょっと、寂しくなっただけ」
布団からはやたらと煙草と香水のきつい臭いがした。
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