エピソード7:頑張りやさんの君へ②
聖人との話を終え、『医療相談室』を出たところで、聖人はユカのところに向かうからと、政宗とは別行動になった。
さて、どうするかと思案して、とりあえず最初のエントランスに戻り、院内の案内板を見ていた政宗に……女性が近づき、後ろから声をかける。
「――佐藤さん?」
「え……あ、透名さん」
そこにいたのは、この病院を運営している透名家の令嬢・櫻子だった。
とはいえ、今の彼女は髪の毛をきっちり1つにまとめ、白いブラウスにジーンズ、という、動きやすさを重視した格好。足元はスニーカーである。首からはスタッフの名札とぶら下げているものの、病院で特殊な資格職として働いているにしては、ラフな格好に思えた。
「お久しぶりです」と頭を下げる櫻子に、政宗もつられて頭を下げる。そして……彼女の珍しい出で立ちに、彼は思わず、その理由を問いかけた。
「透名さん……今日はお休みですか?」
「え? ああ……今日は小児科に、七夕用の飾り付けをすることになっているんです。これから倉庫にある飾りを運んだりするので……確かに休日みたいな格好ですね。スイマセン」
そう言って苦笑いを浮かべる彼女に……政宗はふと、こんなことを思いついた。
「それ……俺も手伝っていいですか?」
意外な申し出に、櫻子が目を丸くする。
「え? でも佐藤さん、お仕事中なのでは?」
「いいんです、今は健康診断の付き添いで……これからやることもありませんから。男手、必要じゃないですか?」
そう言って自分の腕を指差す政宗に、事情を察した櫻子が笑顔で頭を下げた。
「ありがとうございます、助かります。では、ついてきてもらえますか?」
彼が頷くのを確認した櫻子が、率先して歩き始めた。病院の入口から外に出て建物沿いに歩き、裏口の方へ進んでいく。
「健康診断は……山本さん、ですか?」
「あ、はい。そういえば透名さんが書類を持ってきてくださったんですよね。お手数をおかけしました」
先週末、統治から書類を受け取ったときのことを思い出し、政宗が軽く頭を下げる。
そんな彼をチラリと見上げた櫻子は、少し躊躇いがちに……こんなことを提案した。
「あ、あの……私も後で、山本さんにご挨拶をさせてもらっても構いませんか?」
「え? ああ、それは勿論。むしろ、俺からも紹介しようと思っていたところです」
櫻子に対しては、ユカのことを必要以上に隠さない――それは、ユカ、政宗、統治、3人の共通認識でもあった。遅かれ早かれバレてしまうことでもあるし、ユカ自身もまた……櫻子には会ってみたいと思っていたから。
政宗の言葉に胸をなでおろした櫻子が、「そういえば」と、予想外の話を始める。
「この間のお洋服、いかがでしたか?」
「……はい?」
全く意味の分からない政宗が間の抜けた声で尋ねると、櫻子はそれはもう楽しそうに、先日のネタバラシを始めた。
「土曜日に、富沢さんから連絡がありまして……佐藤さんが好きそうな女性の服装について、何か知らないかと聞かれたんです」
次の瞬間、足がもつれて転びそうになった政宗が何とか踏みとどまり、極限まで目を見開いて櫻子を見つめる。
意外すぎる共犯者に、嫌な汗がとまらない。
「ちょっ……ちょっと待って下さい、どうして透名さんのところにそんな話が!?」
「さぁ、詳しいことまでは聞いていませんけど……佐藤さん、過去にご一緒したレセプションの際、肩を出したドレスの女性をよく目で追っているようにお見受けしましたので、そのようにお答えしましたよ」
「……」
どうして彼女はそんな変なことをよく見て記憶しているのか。しかも大正解というおまけ付きである。
無言になる政宗の姿に答えを悟った櫻子は、笑いをこらえつつ……こう言って、話を締めくくった。
「頑張ってくださいね、佐藤さん」
その後、後から合流した他のスタッフと共に小児科病棟へ荷物を運び、天の川のイメージした大弾幕や、仙台の七夕まつりでもよく見かける吹流しなどを取り出した。そして、比較的症状が落ち着いている子どもたちと一緒に、それらを病棟全体に飾り付けていると……櫻子に近づいてきた看護師が、彼女に何か耳打ちした。
それに頷いた櫻子が、病棟で入院している子どもと一緒に飾り付けをしている政宗のところへ近づく。
「佐藤さん、山本さんが終わったそうです」
「あ、はい。分かりました」
そう言って帰り支度を始める彼に、周囲の子どもからは一斉にブーイングがとんだ。政宗は「また来るから、綺麗に飾り付けておいてくれよ」と言葉を残し、櫻子と共に小児科病棟を後にする。
「佐藤さん、本当にありがとうございました。子ども達もすぐに懐いて……ご兄弟がいらっしゃるんですか?」
謝辞を述べつつ尋ねる櫻子に、政宗は首を横に振る。
「いいえ、ただ……仕事で定期的に接することもありますし、俺も子どもは嫌いじゃありませんから」
「そうですか」
「そういえば透名さん……統治とは、定期的に連絡を取っているんですか?」
エントランスがある棟へと続く渡り廊下を歩きながら、先ほどのお返しとばかりに政宗が問いかける。
櫻子はそんな彼に笑顔を向けると、自信満々にこう言った。
「はい、名杙さんは私の先生ですから」
「……」
政宗は脳内で、「そういえば、スマートフォンの先生だった」と情報を付け足してから、「そうですか」と愛想笑いをうかべつつ、自分の聞き方が悪かったと内省する。そして、更に踏み込んでみることにした。
「統治とは……その、付き合ってるんですか?」
「……」
ストレートな質問に、彼女が沈黙する。そして。
「……はい?」
櫻子が目を丸くして、政宗を見つめた。そして……しばらく1人で歩きながら考えて……結果、大きなため息をつく。
「いいえ、まだそこまでは……そもそも名杙さんが、こんな私のことをどう思っているのか……」
こう呟いた彼女の横顔は、どこか寂しそうで、不安げで……これまでの自分と、重なって見えた。
相手が自分をどう思っているのか、自分のことを少しは好きでいてくれるのか――分からなくて、不安になることが幾度となくやってきて。
ユカとの関係で悩んでいるそんな時、政宗を叱咤激励して、背中を押してくれるのは……いつも、統治なのだ。
政宗は隣を歩く彼女に、自分が思っていることを正直に伝える。
「統治は少なくとも……何とも思っていない女性に対して、自分の時間を使うようなヤツじゃないと思いますよ」
これはきっと、ユカも同意してくれるはずだ。櫻子はちらりと政宗を横目で見やり、どこかすがるような口調で尋ねる。
「そうでしょうか……?」
「少なくとも俺は、そう思ってます。統治も統治で掴めないところがあるかと思いますが……長い目で見てやってください。宜しくお願いします」
統治本人が聞いたら「お前に言われたくない」と口を尖らせるような、そんな内容だったけれど。
櫻子は政宗からの言葉を受けてから、彼に「ありがとうございます」と謝辞を述べる。
「佐藤さんにそう言ってもらえると、ちょっと安心出来ます」
「それは良かったです」
「佐藤さんにも、その……大切に思っている人がいらっしゃるんですか?」
この質問に……政宗は、前を見据えて迷いなく返答した。
「はい。心から大切な人がいます。俺も今、その女性に振り向いてほしくて……また頑張ろうと思ってるんですよ」
2人が並んでエントランスに到着すると、長椅子の1つに座っていたユカが、政宗の姿を見つけて立ち上がった。
そして、その隣の女性が立ち止まって会釈をしたことで、顔に若干の緊張を宿す。
政宗は1人でユカのところまで近づくと、「終わったのか?」と上から声をかけた。
「う、うん、とりあえず検査は全部終わった。結果は2週間後みたいやけど……」
政宗の言葉に首肯したユカが、視線の先で立っている櫻子を改めてとらえた。
「政宗、あの女の人って……」
「ああ、透名櫻子さんだ。どうしたんだよ、そんなに緊張して」
珍しいユカの態度に、政宗が顔に疑問符を浮かべる。そんな彼を帽子のつば越しにチラリと見上げたユカは、両手を握りしめつつ、固い表情で、一度、大きく息を吐く。
「い、一応……初対面の人、しかも『縁故』じゃない人に自分のことを話す時は……やっぱ、身構えるよ」
それはある意味、当然の反応。ユカの実年齢と外見年齢が大きくズレていることは、世間的に見ると『異常』なのだ。そんな偏見にこれまで何度となくさらされてきたユカとしては、『縁故』ではない――身内ではない一般人に自分のことを説明して、理解してもらえるのか、どう思われるのか……いくら統治の嫁候補とはいえ、不安が募る。
政宗はそんな彼女を見下ろして、少し意地悪に問いかけた。
「そりゃそうだよな……どうする? 今回はやめておくか?」
その質問に、ユカは強く首を横に振った。そして、少しズレた帽子の位置を整えてから、改めて櫻子を見据える。
「――大丈夫。行こう」
力強いユカの声に呼応するように、政宗の手が、ユカの肩を後ろから軽く叩いた。
突然の行動に肩をすくめたユカは、少し驚いた表情で政宗を見上げる。
「政宗……?」
「必要ないとは思うが……何かあったら俺がフォローする。行くぞ」
力強くそう言って一歩踏み出した彼に続き、ユカもまた、櫻子の方へ歩き出した。
施設内にあるカフェスペースは、2人~4人がけのテーブル席が並び、30人ほどが利用出来る開放的な空間。外来でやってきた人が一息ついたり、お見舞いでやってきた人と患者さんが歓談したり……と、それなりに席が埋まっている。
3人分の飲み物を持った政宗が、店の中でも一番奥の席に座っている2人のところへ近づいた。4人がけの席で、2人は向かい合って座っている。政宗はそれぞれの前に飲み物を置いてから、ユカの隣の椅子を引いて、腰を下ろした。
2人して緊張している様子で、特にこれまで会話もなかった気配。政宗は自分用のアイスコーヒーをすすりながら、これは自分が何かキッカケを作らないとダメかと思い始めた、次の瞬間――
「初めまして、山本結果です。今日はお時間をとっていただき、ありがとうございます」
口火を切ったのはユカだった。政宗がその横顔を見ると――瞳にいつも通りの力を宿し、櫻子から逃げずに向かい合っているのがよく分かる。
だから、やはり自分が口をだすのは最低限にしておこうと決めて、この場の成り行きを見守ることにした。
ユカの自己紹介に、櫻子も我に返る。そして、椅子に座ったまま背筋を伸ばして……綺麗な笑みとともに名前を名乗った。
「初めまして、透名櫻子と申します。本日はお疲れ様でした。何も不都合や不具合はありませんでしたか?」
「はい。本当によくしていただきました。ありがとうございました」
ユカはそう言って、目の前にあるオレンジジュースを飲んだ。ちなみに今の彼女は色々あってカフェイン禁止令が出ているため、体調が落ち着くまではコーヒーを飲むことが出来ない。
櫻子はアイスミルクティーを一口すすってから、一度、チラリと政宗に視線を向けた。そして、彼が無言で頷いたことを確認してから……話の核心にふれる。
「その……山本さんが19歳だということを聞いて、本当に驚きました。お体は……大丈夫なんですか?」
心配が色濃く見える櫻子に、ユカは努めて冷静に返答する。
「この間まで体調を崩していたんですけど、今はもう大丈夫です。あたしの体は……仕事関係で色々あって、成長が著しく遅い状態が続いています。その……色々と信じられないと思うんですけど……」
後半は苦笑いで言ってみると、櫻子もまた、戸惑いを感じる眼差しでユカを見つめていることに気付いてしまって。
「そ、そうですね、正直……内容が理解の範疇を超えていることは……否定出来ません」
櫻子はそう言って、もう一度ミルクティーを飲んだ。ユカもまたオレンジジュースを飲んで……ああ、やっぱりすぐには理解してもらえないな、当たり前か……と、いつも通り諦めようとした、次の瞬間。
「でも……今は山本さんが元気になって、お会い出来て、本当に良かったです」
「え……?」
櫻子はユカに笑顔を向けると、戸惑う彼女にこんな言葉を続ける。
「先日、名杙さんにお会いした時に……山本さんのことを、とても心配をしていらっしゃる様子でした。でも、名杙さんが山本さんのことをお話される時は、とても嬉しそうだったんです。そして、山本さんは『本当に強い女性』だと、伺っています」
「統治が……そんなことを……?」
ユカの言葉に、櫻子は一度、笑顔で頷いた。
「きっと私が詳しく聞いても……山本さんがそうなった経緯に関して、理解するには至らないと思います。でも、私が知りたいのは、山本さんがどんな女性なのか、ということなんです。だから、実際にお会い出来て……本当に嬉しいんですよ」
そう言って、彼女が本当に屈託なく笑うから。
ユカは気恥ずかしくなって、オレンジジュースを飲んだ。そんな彼女に、櫻子が続けて問いかける。
「元々福岡にお住まいだったそうですが……宮城はいかがですか?」
「過ごしやすいと思います。食べ物も美味しいですし」
「それを聞いて安心しました。やはり、食の好みが合わないと、住みづらいですよね」
普段から患者と接している櫻子にしてみれば、年下の女性との会話などお手の物なのだろう。終始穏やかな態度で、ユカの緊張を解していく。
「名杙さんには本当にご迷惑をおかけしているんですけど……でも、分からない私に根気強く付き合っていただいて、本当に感謝しています。一緒に頑張ってくれる人がいるのは、本当に力になりますね」
会話の中で、櫻子がそう言って照れ笑いを浮かべた。ユカと政宗はチラリと互いに目配せをして、互いに笑みを交換する。
そんな、和やかで優しい空気の中……櫻子が唐突に、こんなことを尋ねた。
「そうだ、山本さんは……洋服のサイズっておいくつですか?」
「へ?」
あまりにも唐突な質問に、ユカが思わず面食らった表情で彼女を見た。そんなユカに、櫻子が苦笑いで……その理由を説明する。
「私に兄はいますけど、女の子は1人だけということもあって、両親を含め、色々な人から洋服を買ってもらったり、贈り物としていただくことがあったんです。ただ……その中でもほとんど着ていないものがいくつかあって。保存状態は問題ないと思いますので、もしもご迷惑でなければ、少し活用していただけるとありがたいんです」
まさかの展開に、ユカが目を丸くして櫻子を見つめた。
まるで、仲良しのお姉さんからお下がりを譲ってもらうような……でも、ユカにとっては初めての経験。
しかし……そんなに簡単に、洋服を譲ってもらっても良いのだろうか。櫻子への贈り物なんて、きっと高いものが多いに決まっている。初めてなのでどう判断していいのか分からない。
ポカンとしているユカに、櫻子は慌てて口を開く。
「ご、ご迷惑であればいいんです。決して無理強いしたいわけではなくて……!!」
この反応に、ユカも慌てて返事をする。
「あ!? え、あ、その、えっと……む、むしろ助かります。本当にいいんですか?」
オズオズと返答するユカに、櫻子はホッと胸をなでおろすと、心から嬉しそうにこう言った。
「はい。どうせ処分するしかないんですから……だったら、似合う人に着て欲しいんです。可愛い山本さんなら、きっと着こなしてくれますから」
「かっ……!?」
可愛いという言葉に耐性がないユカが、思わず赤くなってオレンジジュースをすする。そして、そんな様子をニヤニヤと眺めながらコーヒーをすすっている政宗にも、もれなく流れ弾が飛んでくるのだ。
「山本さんは可愛らしいですよ。ね、佐藤さん?」
「はっ!?」
笑顔で同意を求められ、政宗はコーヒーを吹き出しそうになった。寸でのところでこらえる彼を、櫻子が不思議そうな表情で見つめる。
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ……よ、よかったなケッカ。馬子にも衣装って言われないように頑張るんだぞ」
「何をどげん頑張ればよかとね……」
ユカが彼にジト目を向けると……そんな2人のやり取りを見ていた櫻子が、当然の疑問を口にした。
「佐藤さんはなぜ、山本さんのことを『ケッカ』と呼んでいらっしゃるのですか?」
「ああ、コイツの名前を漢字にすると、結ぶの『結』と果実の『果』って書くんですよ。出会った頃から、このあだ名で呼んでいるんです」
櫻子は脳内で漢字を思い浮かべて、「なるほど」と納得しつつ……。
「では……私も、そのようにお呼びした方がよろしいですか?」
真顔で問いかけられ、ユカは思わず政宗を見た。そんな彼は「自分で決めろ」とユカに決定権を委ねる。
しかし、そんなこと言われても困る。
「……呼びやすい呼び方で結構です。好きにしてください」
ユカもまた、櫻子に決定権を委ねた。どうせケッカになるんだろうなーという、宮城でのこれまでの傾向を思い出しながら。
言われた櫻子は、数秒間考えて……「じゃあ」と、何の躊躇いもなくユカを呼ぶ。
「じゃあ、ユカちゃんで。年下なので、『ちゃん』でも構いませんか?」
「え……?」
再び予想外のところから飛んできたストレートな呼び方に、再びユカの方が面食らってしまった。それを拒絶反応だと勘違いした櫻子は、どこか申し訳なさそうに苦笑いを浮かべる。
「ごめんなさい……また、いきなりすぎましたか?」
ユカも再び慌てて首を横にふると、必死に弁明を始めた。
「す、スイマセン違うんです!! その……ちゃんと下の名前で呼ばれるなんて、多分宮城では初めてで……!!」
確か、以前下の名前で呼ばれたのは……4月に福岡へ帰ったときのことではなかっただろうか。もはや『仙台支局』では呼ばれなくなってしまったその呼称にユカが狼狽していると、そんな彼女の反応を見た櫻子が……隣でようやく落ち着いてコーヒーを飲もうとしている政宗を見やる。そして。
「でしたら佐藤さんも、たまにはちゃんと下のお名前で呼んで差し上げてはいかがですか?」
「ぐはっ……!?」
再び流れ弾が直撃して、飲んでいたコーヒーが変なところに入った。政宗は咳き込みつつ……自分を正義感いっぱいの瞳で見つめる櫻子に、引きつった苦笑いを返す。
「いやぁ……俺はもう付き合いが長いので、今更……」
「ですが、そんな小学生みたいなあだ名で19歳の女性を呼び続けなくてもいいと思いませんか? お仕事上の関係もありますし、支局長である佐藤さんが率先して変えていないと、他の方も変えづらいと思います」
「小学生みたいなあだ名……」
櫻子のストレートが、政宗のメンタルを容赦なく打ち砕いていく。隣に座る本人は「あーあ」という哀れみの眼差しを向けており、特に助けるつもりはなさそうだ。
さぁ!! と、自分を見つめる櫻子に、引きつった苦笑いを返す政宗は……今、ユカを下の名前で呼んだら、本当に泣くかもしれないから勘弁してくれ……という心情をひた隠しにして。妙なところに気がつく女性の攻撃をどうやってかわそうか、頭をフル回転させるのだった。
その後、結局ここで昼食までを一緒に食べて……時刻は午後1時過ぎ。
仙台に戻る2人をエントランスまで見送りに来た櫻子に、聖人と彩衣の2人も合流した。
「ケッカちゃん、今日はお疲れ様。検査結果は郵送するか櫻子ちゃんに預けるから、必ず確認してね。あと、個人情報が恥ずかしいかもしれないけど、政宗君と統治君にも見てもらってね」
聖人の言葉に、ユカが「……分かりました」と不承不承首肯する。そんな彼の半歩後ろに立っている彩衣が、ペコリと軽く会釈をした。
そして、櫻子が笑顔で、2人を見送ってくれる。
「じゃあ……今度洋服を持っていきますね、ユカちゃん」
「はい、楽しみにしてます、櫻子さん」
ユカもまた、櫻子を下の名前で呼ぶことにしたのだ。そうなった瞬間を目の当たりにしている政宗は、「この2人、進展が早いな……」と、若干の危機感を抱きつつ、ランチセットのハンバーグと一緒にその感想を飲み込んでいる。
「佐藤さんもお気をつけて。名杙さんにも宜しくお伝えください」
「はい。透名さんもまた来仙の際は、お気軽に『仙台支局』にお立ち寄りください」
政宗の言葉に、櫻子が嬉しそうに頷いて。
車に乗ってからも、どこか名残惜しそうに手を振るユカの横顔を眺めながら、政宗は……彼女が新たな人間関係を築けたことに、心から安堵したのだった。
その日の夜、時刻は22時過ぎ。
スウェット姿の政宗は、自室のリビングで、1人、スマートフォンでニュースを確認しながら……机上においた3通の手紙に視線を落とす。
経過観察中のユカは、廊下の先にある客間で既に休んでいるはずだ。今週のユカは大事を取って仕事も休んでおり、病院から帰ってきてから、ずっとこの部屋で過ごしていた。政宗は彼女をこの部屋まで送り届けてから、自分は『仙台支局』で仕事をして……19時頃、統治と一緒にこの部屋に帰ってきたのだ。
櫻子とユカが友人になったことを改めて統治に告げると、彼はどこか嬉しそうに「そうか」と呟き……自身のスマートフォンを操作する。
「俺に届いたメールは、そういうことだったのか」
「へ? どういうことなん?」
顔に疑問符を浮かべるユカに、統治は答え代わりに画面を見せた。そこには……。
『あした ゆかチャnえの洋服をもつていつても大丈夫でしょうか?』
このメールを見た3人は、無言で顔を見合わせる。
「……ねぇ統治先生、どうして櫻子さんは……このメールにオッケーサインを出して送ろうと思ったとやか」
「送信ボタンを間違えて押したんだろう。とりあえず事情は把握したから返信しておく」
慣れたような口調でそう言った統治が、無言で画面を操作して。
政宗とユカは互いに顔を見合わせて……苦笑いを交換したのだ。
「……さて、と」
政宗はスマートフォンを一旦脇に置いてから、一度、息をついた。
3通の手紙のうち、今日もらったものは、『佐藤政宗様』、その脇にあるものは『政宗へ』、そして……その下にあるものは、『ケッカへ』と、それぞれ宛名が記載されている。
これは全て、ユカが――日曜日までこの部屋にいた彼女が書いたものだ。
政宗は今日、聖人からもらったものを開封して……便箋に綴られた、彼女の思いを辿る。
『政宗へ
今は、土曜日の午後5時です。富沢さんにたくそうと思って、手紙を書いています。
まずは、あたしといっしょにいてくれて、本当にありがとう。
政宗に会えて、本当にうれしかったよ。統治も元気そうで……というか、変わりすぎててビックリ。Σ(゜Д゜)3人で過ごした時間は、あたしの大切なたからものです。
そして、あたしが……仙台でがんばって生きていることが、本当によく分かりました。
山本結果としてがんばっていることが分かって、本当によかった。
この手紙を政宗が読んでいるとき、あたしはきっと、そこにいないけど……でも、ケッカはそこにいるはずだから。ケッカのこと、よろしくね。
ケッカもきっと、政宗みたいに何でも1人でがんばっちゃうから、大人になった政宗が、しっかり支えてあげてください。期待してるよ、支局長さん。
またいつか会える日を、楽しみにしてます。次はあたしにも、牛タン食べさせてね。
政宗のことは、いつまでも……大好きだよ。
山本結果』
少し幼い文字で書かれた手紙に、政宗は目を細め……静かに息を吐いてから、それを封筒の中へ片付けた。
本当に彼女は、誰かのことばかりを考えている。でも、そんな彼女だからこそ……惹かれて、憧れて、追いつきたい、支えたいと強く思えた。
「……頑張らなきゃな、俺も」
自分へ言い聞かせるように呟いた政宗は、無意識のうちに2通目の、『政宗へ』と書かれた封筒を手に取ると……口元を震わせ、涙をこらえる。
脳裏に浮かぶのは、大好きな彼女の笑顔。
「政宗」、と、無邪気に名前を呼んでくれる声を――今でも、探してしまうことがある。
彼女はもう、ここにはいないのに。
「ユカ……」
記載されている自分の名前を指でなぞり、心からの愛しさを込めて彼女の名前を呟いた、次の瞬間――
「――政、宗……?」
リビングの入口から声が聞こえて、彼は目に見えて分かるほど、ビクリと肩をすくめた。
椅子に座ったまま、向けたその視線の先には……パジャマ姿で困惑した眼差しを浮かべている、『今の』ユカが立ち尽くしている。
その姿を見つけた政宗は、慌てて3通の手紙を1つにまとめると、その上にスマートフォンを置いて重しにして、宛名も隠した。
泣いていなくて良かったと内心で安堵しつつ、政宗は冷静に気持ちを切り替えて、戸惑っているユカに声をかける。
「ケッカ、どうかしたのか?」
「あ、うん……ちょっと喉がかわいたけんが……お茶、もらってもよか?」
「ああ」
政宗が頷いたことを確認したユカは、冷蔵庫からお茶を取り出してから、シンクの近くにあるマグカップにそそいだ。そして、チラリと政宗を見やる。
「政宗は……いらん?」
「ああ、俺はいいや。ありがとな」
彼の反応に、ユカがコクリと頷いてから、お茶を再び冷蔵庫に戻す。
そして……マグカップを握りしめ、彼にそっと問いかけた。
「そっちで一緒に飲んでも……よか?」
「え、あ……」
政宗は一瞬戸惑った後……苦笑いを浮かべて、ユカにこう返答する。
「悪い……少し、1人にしてくれないか? それは向こうの部屋で飲んでいいから」
この言葉に、ユカは「そっか、分かった」と頷いてから、カップを持ってリビングを後にする。
そんな彼女の背中を見送った政宗は……机に突っ伏して、1人で肩を震わせた。
「……何をしてるんだ、俺は……」
自問自答を繰り返しても、涙が滲む目では、答えなど見つけられるわけもない。
今はまだ、切り替えが上手く出来ない。
過去の彼女を知らない彼女を目の前にして……自分を保つ自信がない。
窓の向こう、夜の闇の中で……雨が、静かに降り始めていた。
櫻子、ユカをおとす。(違)
彼女の言動が分からない的なことを言っていた約1週間前の霧原ですが、こうしてユカの頼れる(?)お姉さん分として、また、友達として付き合ってくれそうな気配に安心しております。
Q:どうして櫻子さんは、このメールにオッケーサインを出して送ろうと思ったんですか?
A:「送信」を間違えて押しちゃっだだけです。