エピソード2.5:Before the Dawn/2
名杙家の『親痕』である分町ママは、最近、『痕』の間で広がっている妙な噂が気になっていた。
宮城の桜も終わり、4月から5月に移り変わろうという、新緑の季節。場所は、宮城県多賀城市にある私立秀麗中学校、その周辺で……自分たちに積極的に話しかけてくる中学生がいるらしい。
幽霊は――『痕』とはどういう存在なのか、人間から伸びている無数の糸は何なのか、こんな人を知らないか、その他諸々色々と。
中には彼に襲いかかろうとする存在もいるらしいのだが……何故か名札の名前を呼んでも彼の『縁』に上手く干渉出来ず、しかも彼が一切動じないのでコチラが拍子抜けしてしまい、結局、なんだかんだ話してしまうのだという。
「……意味が分からないわね」
今日も無事に1日の授業を終えた中学校上空で、分町ママは紫のワンピースから伸びている白い足を組み替え、ため息を付いた。
自分たちが見えている、しかも人間から糸が出ている、ということは……その少年は恐らく、というか間違いなく、『縁故』としての才能を持っている。
そのことを何となく名杙家現当主・名杙領司に報告した彼女は、彼から「どんな人物なのか確認して欲しい」というお役目を仰せつかって、今、ここにいるというわけだ。
報告するまで新しいお酒をもらえないので、これはもう早急に今日中に何とかする必要がある。
「上手く見つけられるといいんだけど……」
彼女はもう一度ため息をついてから、高度を下げ、彼がよく目撃されているという、学校の裏庭付近をウロウロしてみた。
すると……。
「――あの!!」
背後からいきなり声をかけられる。生きている人間ではない分町ママを見つけ、ピンポイントで声を掛けるとは……あまりの無鉄砲ぶりに、彼女は恐る恐る振り返り、その人物を見てみた。
そこに1人で立っていたのは、身長は160センチ前後、この学校のブレザーの制服を着た、爽やかな風貌の少年だった。この学校には現当主の長男である統治も通っているが、彼とは趣が異なり、非常にとっつきやすそうな印象を抱く。
分町ママは彼に向かって向き直り、営業スマイルで対応を始めた。
「あら、私が見えるのね。こんにちは」
「こ、こんにちは。あの……ちょっと聞きたいことがあるんですけど、時間は大丈夫ですか?」
どれだけ丁寧なんだと驚きつつ、分町ママは「ええ」と首肯する。
「私はみんなから分町ママって呼ばれてるんだけど、貴方のお名前を聞いてもいいかしら?」
「俺ですか、俺は……」
彼のフルネームを、胸元の名札も含めて確認した分町ママは、彼から伸びているはずの『縁』がはっきり認識出来ないことに、眉をひそめた。
これまでは、自分が相手の名前を『正しく』認識していれば、相手の『縁』も見えていたのに。
このようになるのは、親の離婚などで名字が『書類上だけ』変わった場合が多い。恐らく彼も、最近親が離婚して、母親にでも引き取られたんだろうなと思いつつ、分町ママは営業スマイルのまま、彼に本題を問いただした。
「そういえば最近、この辺で『痕』……もとい、幽霊に自分から話しかけてるっていう男の子がいるって聞いたことがあるんだけど、貴方のことでいいのかしら。他に知ってる?」
その問いかけに、彼はしばし考えた後……唇を一度引き締めてから、分町ママを見据えた。
「恐らく俺のことだと思いますが……俺が、何か?」
「いえね、大分面白い男の子がいるんだなぁって思って。単純に興味があるのよ。貴方、どうして私たちに話しかけているのかしら?」
分町ママの問いかけに、彼は表情を真顔にして言い放つ。
「探している人がいるんです」
「探している人……誰のことか聞いてもいいかしら?」
この言葉に、政宗は堰を切ったように言葉を続けた。
「俺には、育ててくれた伯父さんがいました。でも、約1年前に仕事中の事故で死んでしまって……俺は、死に目にも立ち会えず、お別れらしいことは何も出来なかったんです。そのことをずっと後悔していました。でも、こうして今、幽霊や糸が沢山見えるようになったことで、もしかしたら、伯父さんもどこかにいるんじゃないかって……色々と情報を集めているんです」
「……なるほど」
空中で足を組み替え、腕を組んだ分町ママは、彼にこんなことを尋ねる。
「その伯父さんの名前、聞いてもいいかしら? 私もそこそこ顔が広いから、何かあれば教えてあげられると思うの」
刹那、真顔だった彼の表情に明るさが宿った。しかしそれも一瞬のことで、すぐに再び表情を引き締め、その名前を告げる。
「佐藤……佐藤彰彦です」
その日の夜、場所は名杙家敷地内にある別邸。名杙家当主――名杙領司の家族4人が暮らしている家の1階にある、応接用に使われる客間にて。
夕食後、統治は自室で勉強、妻が心愛を寝かしつけている間の時間。彼と机を挟んで座り、対面にいる当主に今日の出来事を報告をした分町ママが……はぁ、と、一度ため息をつく。
「本当、変な子がいたものね……あの子、下手したら『痕』に付け込まれて、死ぬわよ」
あれだけ無鉄砲だと、悪意のある『痕』に干渉されて、自我崩壊などの精神的不調や……最悪、命を落としてしまう可能性も高い。
正直、それを警告した方がいいのかと迷ったが……結局、言い出せなかった。彼の真剣な目は、そのリスクを承知の上で、自分に話しかけているようにしか見えなかったのだ。
「彼は、『佐藤彰彦』と言ったのか?」
領司の言葉に、ママはコクリと頷く。
「漢字までは聞けなかったけれど、そう言っていたわね。確か、1年前に仕事中の事故で死んでしまったって……」
「……そうか」
領司は深くため息をつくと、一度その場から立ち上がり……5分ほどしてから、同じ場所に戻ってくる。
その手にはA4サイズのクリアファイルを持っている。彼は中身を取り出すと、中の書類――『生前調書』を見つめた。
分町ママが彼の前から背後に移動して、肩越しに覗き込み……顔をしかめる。
「そう……既に対処していたのね」
書類のど真ん中に押されている『処理済み』のスタンプが、彼がもうこの世界のどこにもいないことを物語っている。
「1ヶ月ほど前だが、東松島市の海岸で『縁』を切った。恐らくそれが、彼との『関係縁』だったんだろう」
「あの子のこと、何か言ってなかったの?」
「本人は……確か、自慢の息子がいる、と、言っていた。『生前調書』では未婚で、弟の子どもを預かっているという簡単な情報しか記載されていなっかったが……恐らく、彼のことなんだろうな」
「自慢の息子、ねぇ……確かに彼の名前、名字は『佐藤』って書いてあったし、本人もそう名乗っていたわ。でも、『縁』がはっきり見えなかった……まだ、名前が馴染んでいないのかしらね」
領司の背中から再び正面に戻った分町ママは、『生前調書』を見つめている彼に問いかける。
「……あの子、どうするつもり? 放っておくと厄介なことになるわよ」
「そうだな……一度、話をしてみる必要がありそうだ」
彼はそう呟いて視線を上に向けて、一度、深く息を吐いた。
分町ママと彼の邂逅から数日後、放課後の秀麗中学校。
今にも雨が降りそうな、どんよりした曇り空の下。今日も裏庭でウロウロしていた彼は、自分に近づく『生きた人間の』足音があることに……露骨な警戒を示した。
灰色のスーツを着た、大人の男性。年齢は……彰彦と同じくらいだろうか。凛とした顔立ちと立ち姿が印象的な、迫力のある男性だ。
「――くん、だね」
唐突に呼ばれた名字は、中学校に入学する時、彰彦と一緒に消えたものだ。
小学生の頃は名乗っていたので、知っている人間がいてもおかしくはない。ただ、小学校からの知り合いがいないこの中学校に通うようになり、古い名字で呼ばれることなど皆無に等しかったため……彼は顔に困惑を宿し、恐る恐る問いかける。
「あ、の……どちらさま、ですか?」
「この学校に息子を通わせている、保護者の1人です。名杙領司といいます」
低く落ち着いた声で言い放った彼――領司は、視え方を切り替えて彼の『縁』を確認した。今日までに彼のことはあらかた調べてある。勿論、『本当の名前』も調べがついているので、彼の『縁』を正確に把握することが出来た。
自分を古い名前で呼ぶ大人に、政宗は困惑しつつ、露骨な警戒心も崩さず……自分に近づいてきた用件を尋ねる。
「俺に……何か?」
そんな彼へ、領司が淡々と言葉を紡いだ。
「君が、佐藤彰彦さんの『息子さん』だと聞いたもので、一度、ご挨拶させてもらおうと思ったんです」
今の領司の言葉には、彼が決して「言われたくない」ワードが含まれている。
「――違う!!」
次の瞬間、彼は激高して領司を睨みつけた。
そして、大きな声ではっきりと言い放つ。
「俺に父親はいません!! 適当なことを言わないでください!!」
そう言って走り去る彼の背中を追いかけるわけでもなく……領司は裏庭に立ったまま、静かに考えを巡らせた。
「――逃げちゃったわよ、彼。いいの?」
中身の満たされたワイングラスを持った分町ママが、領司の頭上でため息混じりに呟いた。
そんな彼女へ、領司は顔色を変えること無く、こう、断言する。
「……今はあれでいいんだ。私が話しかけ、彼が応えたことで、彼との間に『関係縁』が構築された。恐らく……今の彼には簡単に耐えられる代物ではないはずだ」
要するに、名杙という凄まじい能力がある『関係縁』を自らつなげて、まだ『縁故』として生まれたばかりの彼の体に、目に見えないけれど確実にきいてくる負荷をかけていき、『痕』と接触出来ないようにしていくらしい。
はっきり言って、赤子にひたすら栄養価の高い水だけを飲ませ続け、他のものが入り込む余地を与えないような……そんな強硬手段だ。当然、長くはもたない。彼が耐えられずに壊れてしまうだろう。
それを知っている分町ママは、呆れ顔でグラスを傾け、ため息をつく。
「やることがえげつないわねぇ……息子にもそれくらい、厳しく接してあげればいいのに」
そして……1ヶ月後、木々の緑が輝きを増し、6月になろうかという季節。
彼はあれから、幽霊に――『痕』に接触するのをやめるようになっていた。
最近、幽霊に話しかけようとすると、目の奥に鈍い痛みを感じる。それでも強行すると頭痛になり……気分が悪くなってしまうのだ。
加えて、もう1つ理由がある。どうしても……あの時聞いた言葉が、頭から離れないから。
「君が、佐藤彰彦さんの息子さんだと聞いたもので、一度、ご挨拶させてもらおうと思ったんです」
あの時、名杙領司と名乗った男性は確かにそう言った。クラスメイトに何となく聞いてみると、確かに別のクラスには『名杙』という名字の男子生徒がいるらしい。彼とは一切接点がないので、顔もよく分からないけれど。
そんな『名杙さん』の父親は、一体、何を知っているんだろうか……本当は詳しく問いただしたい。でも、あんなデタラメをいけしゃあしゃあと言われると、どうしても警戒心が勝ってしまう。
自慢の息子だ、なんて……一度も、言われたことがないのに。
自分はずっと……『お父さん』と呼ぶことを、我慢していたのに。
ある日の放課後、彼がそんなことを考えながら、最寄り駅から自宅アパートまでの道のりを歩いていると……アパートの手前に、見たことのない黒塗りの高級車が停まっていることに気付く。
そして――
「――名杙、さん……」
車の前に立っていた、先日と同じスーツ姿の男性の名前を呟くと、領司は彼の方に向き直り、一度、頭を下げた。
「先日は失礼をしました。改めて、お話させていただきたい」
「……何のことでしょうか。伯父のことであれば、もう結構です」
そう言って睨みながら通り過ぎようとする政宗に、領司はこんな言葉をかける。
「君は――幽霊や紐の類が見えるんだったね。最近、目の疲れが激しくなっていないかな?」
「え……?」
部屋へ続く階段をのぼる足をとめ、彼が恐る恐る振り返った。
そんな彼に、領司は優しい笑みを向けると……困惑する彼に向けて、静かに言葉を続ける。
「私も実は、君と同じたぐいの人間なんだ。どうだろう……少しだけ、話を聞いてもらえないかな」
東松島市、野蒜海岸。
県内でも有数の海水浴場として有名な場所だが、シーズンオフの今は人影もなく、ただ、波が砂浜にうちつけるだけ。
防砂林でもある松林を抜けて、海岸の砂浜へとやってきた2人は……雲の隙間から見える夕日を眺めながら、視線をあわせることなく立ち尽くしていた。
遠くを見つめて棒立ちの彼へ、領司が簡単に説明を始める。
「先程の話だけど、私も、君と同じように幽霊の類が見えるんだ。そして、彼らに干渉することを生業にしている」
「生業に……霊媒師ってことですか?」
「霊媒師、とは少し違うかな。私達は、亡くなった人の魂をあの世へ送る、最後の手助けをしているんだ」
亡くなった人の魂を、あの世へ送る手伝い。
そう聞いた政宗の中で……ある言葉がくすぶる。
「――死神、ってことですか?」
彼の問いかけに、領司は彼の方を見つめて、首を横に振った。
「死神とも違うんだ。死神は、生きた人間の魂を奪う。けれど……私たちは、亡くなった人の魂を、あるべき場所へ戻す」
「何が違うんですか……同じですよ」
馬鹿にするように吐き捨てた政宗から、領司はその視線を再び海へ向けた。
「君は、人ならざるものが見えるだろう? 彼らはもう死んでいる。けれど、自分が死んだことを理解出来ず、この世界に留まり続けているんだ。彼らが場所をあけてくれないと、新しい命が入り込む隙間がない……私たちはそんな考え方で、君の伯父さんを――佐藤彰彦さんを、この世界から完全に消したんだ」
「――っ!?」
刹那、彼は息を呑んで領司を見つめた。
領司は海から視線をそらさずに……話を続ける。
「私が彼と相対したのも、ここだった。彼はずっとここで海を見ていたんだ。私が話しかけると……佐藤さんは驚いていたが、息子の話という共通項があってね。懐かしそうに目を細めて、ここでよく、君と競走をしたと……教えてくれたよ」
「やめて……ください……」
「確か……遊んでいる時に、君の友達を泣かせてしまったとも言っていたかな。あと、料理がいつまでたっても上達しないんだと、苦笑いをしていて――」
「――やめてください!!」
激高した政宗は、海を見つめる領司の服を掴んだ。
そして、首を動かして視線のみを自分に向ける彼を、極限まで釣り上げた眦で睨みつけ、感情を吐き出す。
「さっきから黙って聞いてれば……何なんですかあんたは!! ふざけんじゃねぇよ!! 知ったような口で話すな!! 俺の思い出に土足で入ってくるな!! 俺と『父さん』の思い出に――!!」
刹那、彼は、自分が発してしまった単語に気付き、目を見開いて口をつぐむ。
ついに、口に出してしまった。
それだけで……泣きそうになる。
そんな彼を見下ろす領司は……小刻みに震える彼の肩に、そっと、自分の手をのせた。
「そうだ。これは、君と……君の『お父さん』の、大切な思い出なんだ」
「俺、と……俺の……」
「君と佐藤さんは、直接的には血のつながりはないのかもしれない。ただ……この場所で過ごした思い出の全てが、君と佐藤さんとの『縁』を強くした。それは、血のつながり以上に濃い絆だと感じたんだ」
次の瞬間、足の力が入らくなった彼が、崩れるように砂の上に座り込んだ。サラサラした砂を握りしめても……指の隙間から、どんどん落ちてしまう。
――忘れたくない。
でも、思い出したくない。
彰彦との日々を思い出せば出すほど、無力で、何も出来なかった自分のことまで……より鮮明に、思い出してしまうから。
『お父さん』なんて、呼べるわけない。
息子らしいことなど、何一つ出来なかった自分が。
そして、そんな自分のことを……彰彦が息子だと思ってくれているなんて、信じられない。
「……俺は……彰おんちゃんのために、何も出来ませんでした。彰おんちゃんは、俺に『家族』を教えてくれたのに……俺は……俺は……!!」
あれから約1年、最初はがむしゃらに生きた。学校に行って、勉強して、家に帰ると……入れ代わり立ち代わり、彼の様子を見に、顔見知りの――彰彦の会社関係の――大人がやってきてくれた。
そんな彼らに弱い部分を見せると、心配をかけてしまう。だからとにかく顔に一定の表情を作り、同じような言葉を繰り返すことしか出来なかった。
ありがとう。彰おんちゃんの分まで、頑張って生きていくよ。
この言葉も本心の1つであることに変わりはない。そのはずなのに。
――本当は無理なんだ。
頑張って生きたって、彰おんちゃんはもういない。
あの時、死んでしまいたかったんだ。
その後、「学校が忙しい」などと理由をつけて、心配してくれる人の訪問を断った。
食事の味も、よく分からない。けれど、自分が倒れたら誰かに心配をかけてしまうから……体調管理だけは、機械的に気をつけるようになった。
学校にも早めに通い、課題は全て学校で終わらせてから帰宅するのが当たり前になった。
彰彦のことを知っている人に、会いたくなかったから。
頑張りたい、でも、頑張れない。
相反する2つの気持ちがせめぎあい、答えの出ない質問を繰り返す。
お前は生きるのか、それとも死ぬのか、と。
その答えがみつからないまま、1年という時間が経過して……世界が、変わった。
変化していく世界に対応出来ない。誰にも相談出来ず、混乱ばかりが募っていく。
だから――人間ではない存在に、助けを求めた。
彼らの中で、自分を死へ誘う存在がいるならば……喜んで、死神の手を取るつもりで。
「俺は……自分がどうやって生きていけばいいのか、分からないんです。彰おんちゃんのいない世界で……家族がいない、これ以上思い出の増えない世界で、俺はこれから、どうすればいいのか……道が、分からないんです……」
誰のため、何のために生きていけばいいのか、分からない。
心にぽっかり空いた穴は、1年経った今でも……埋まる気配すらない。
領司は膝をついてしゃがみ込み、再び、政宗の肩に手をおいた。
そして、涙でグシャグシャになった顔で自分を見上げる彼に、こんな言葉をかける。
「君のその能力を生かして、新たな生き方をしてみないか?」
泣き顔の中に戸惑いを浮かべる彼へ、領司はゆっくりと、その真意を説明する。
「君は……私達と同じように、死んだ人間が見える。そして、それらをつなぐ糸まで見えるということは、更に深く干渉出来る可能性が高いんだ。どうか、その能力を誇りに思って……この世界で生きて欲しいと思っている」
領司の言葉に、彼は小刻みに首を横に振った。
「俺に……死神になれって言うんですか?」
その言葉にこだわる彼に、領司はやんわりと訂正する。
「死神ではない。死してなお、この世界に留まる魂を……あるべき場所へ戻すんだ。彼らが安らかに眠り、次へつなげるための手助けをして欲しい」
「……」
正直、今の彼には、領司が何を言っているのか理解出来なかった。それは領司も分かっているので、更に言葉を選ぶ。
「理解できなかったり、すぐに答えが出せないのは当たり前だ。ただ、このためにも……もう少しだけ、生きることを選んではくれないだろうか」
「……?」
領司はそう言ってから、一度呼吸を整えて……彼の目を見つめ、優しい表情でこう言った。
「……君が大人になったら、一緒に酒を飲もう。その日までは必ず生きてくれ」
『早く大人になれよ、俺の晩酌に付き合ってもらわないといけないからな』
生前の彰彦が……彼に対して繰り返し言っていた言葉。
楽しかった日々を象徴する大切な一言が、彰彦の豪快な笑顔が彼の脳裏によぎって……消えた。
どうしてこの人は、そんなことまで知っているんだろう。
生前の知り合いだった? 違う、彰彦は自分の知り合いは彼に全て紹介してくれたはずだ。こんなに迫力のある人であれば、忘れられるはずがない。
本当に……本当に、死んだ後の彰彦と会ったのではないだろうか。
領司は呆然とする彼の前に立ち上がると、再び海を見つめる。
気づけば、夕日が沈もうとしている。風も少しずつ冷たくなってきた。
誰もいない海岸で、彼は……もう、そこにいないはずの彰彦の残り香を感じたような気がして、久しぶりに、本当に久しぶりに……胸が、熱くなった。
そんな、彼にとって訳の分からない邂逅から1週間後の放課後……制服姿の彼は、塩釜市内のファミリーレストランで、2人がけのテーブルに腰を下ろし、領司を待っていた。
あの日――海岸で動けなくなった彼を自宅まで送り届けた領司は、彼に、自分の連絡先を記載したメモを預けていた。
「もう少し私の話を聞きたくなったら、連絡して欲しい」――そう、言い残して。
部屋に戻り、もう、何をする気力もないままベッドに倒れ込んだ彼は……久しぶりに、熟睡することが出来た。
そして、翌日に熱が出て……入学以来初めて、学校を休んでしまったのだ。
彼に直接の身内がいないことを把握している学校側が、彼の身元引受人である彰彦の元勤め先の社長に連絡をしてくれて……部屋にやってきた社長夫妻が、まずは彼が1人で無理をしたことを涙ながらに叱りつけた。そして、彼は久しぶりに、誰かと一緒に過ごす時間を持つことが出来た。
そんな日々が続くことで、彼に心境の変化が訪れる。
あの人の――名杙領司の話を、もう少しだけ聞いてみたい、と。
やってきた領司は彼の前に座り、ケーキセットとドリンクバーを2人分注文する。
そして、彼が話を切り出すのを待った。
「――本当に、死んだ彰おんちゃんに……会ったんですか?」
「ああ。仕事の一環として、だけど」
「彰おんちゃんを……消したんですか?」
「ああ。それが私の仕事なんだ」
淡々と、事実だけを簡潔に答える領司。
正直……彰彦が消えたことに、あまり怒りはなかった。むしろ、今の自分と会ってしまったら、益々立ち直れなくなってしまうそうな気がする。
彼は……膝の上で拳を強く握りしめ、一番聞きたかったことを尋ねる。
「彰おんちゃんは……俺のこと、『息子』だって……言って、くれたんですか?」
この質問の答えを聞くのが、怖い。
そんな彼へ、領司は何の躊躇いもなく言い放つのだ。
「ああ。文武両道で気遣いの出来る、『自慢の息子』だと、そう言っていた」
「……」
言ってほしかった。
直接自分に、そう……伝えてほしかった。
でも、彰彦の性格を考えると、それが難しいということも、嫌になるほどわかるから。
……ああ、そうか。
自分は彰彦に、『息子』として、認めてほしかったんだ。
そして、息子になりたい自分を……彼自身もまた、認めたかったんだ。
涙が一筋、頬を伝って流れていく。
心のなかにあいていた穴を埋めるピースの1つが、カチリとはまった、そんな気がした。
「……そうですか」
理由は分からない、けれど、素直に信じてみようと思えるのは、彼の中で何かが変わった確かな証拠。
政宗が腕で顔を拭った次の瞬間、領司が注文したケーキセットがテーブルに並ぶ。「勿体無いから遠慮なく食べて欲しい」と言われた彼は、フォークを手に取り、ガトーショコラを一口、口に入れた。
口の中に、優しい甘さが広がる。なんだか久しぶりに、甘いものを食べたような気がした。
無言でケーキを食べる彼に、領司は、自分たちのことをかいつまんで説明していく。
世界の循環、人間と人間をつなぐ『縁』、そして、死してなお、この世界に留まり続ける『痕』、それらがもたらす弊害と……対処法などなど。
情報としては全て突拍子もない、眉唾ものの内容だ。ただ、彼自身もそういう世界が見える中で生きているので、「空想だ」と安直に切り捨てることなど出来ない。
それに……。
「……俺も、生きることが出来るでしょうか」
ある程度話を聞いた政宗は、最後の一口をゆっくり咀嚼して……ボソリと呟く。
彰彦のいないこの世界で、再び、生きることが出来るのだろうか。
彼が呟いた言葉に、領司はコーヒーを飲みながら、静かに返答する。
「生きるかどうか……それを決めるのは君だよ、佐藤君」
この世界で生きていく覚悟は、まだ、自分には足りないと思う。
けれど……少しだけ、ほんの少しだけ、前を向く気力が、戻ってきた気がしたから。
だから、今は多少強引でも、前を向いて歩いていきたい。
歩き始めることが出来れば、きっと、何か見つけることが出来る。
「男2人になって申し訳ないが……俺のところでよければ、一緒に住まないか?」
あの時、自分を探してくれた彰彦が見せてくれた、教えてくれた、新しい世界。
その世界の中を、今度は……自力で、探していかなきゃいけない。
今、自分が――この世界で生きる、その理由を。
もう二度と、死神へは戻らないために。
相反する気持ちを持った自分が、改めて問いかける。
お前は生きるのか、それとも死ぬのか。
彼は一度呼吸を整えてから、改めて、領司を見据えた。
そして――
「――俺、もう少し……生きていこうと思います。どうすればいいのか、教えてもらえませんか?」
その言葉に、領司は安心したような……そんな優しい笑みを浮かべて、力強く頷いたのだった。
その後、定期的に領司と面会することで知識を深めていった彼に、領司がこんな提案をする。
「夏休み、少し遠いんだが……福岡県で、同じような立場の子どもを集めた研修合宿が開催されるんだ。今年は私の息子を行かせようと思っているんだが……佐藤君も参加してみないか? きっと、新しい出会いがあると思う」
行ったことのない場所、出会ったことのない人達。
――過去の自分を一切知らない人たちの前に出れば、もう少し、変われるかもしれない。
そう思った彼が二つ返事で了承すると、領司がそんな彼に、ある課題を課した。
「では……次に会うときまでに、名前を考えておいてくれないだろうか」
「名前……ですか?」
「私達のような名杙家は例外になるんだが……『縁故』として働く人間は、偽名を名乗るのが当たり前になっているんだ。本名が知れると、『痕』や『遺痕』に干渉されてしまう可能性がある。今の学校生活はしょうがないけれど、まずは、『縁故』として動く時に名乗る、そんな名前を考えて欲しい」
「本名と関係ないものでもいいんですか?」
「ああ。一文字でも違っていれば大丈夫だ」
領司の言葉に、彼は少し考えてから――迷いなく、この名前を告げる。
「……政宗。俺、佐藤政宗って名乗りたいんですけど」
「政宗……伊達政宗公にあやかって、ということかな?」
「そうです。俺の名前はちょっと弱いというか、男らしさが足りないので……この名前を名乗ると、なんか強そうに思えませんか? グイグイ何でも出来るっていうか……」
最初から名字を変えるつもりはなかった。そして、いつまでもつきまとう下の名前にも見切りをつけて、新しい自分になりたかった。
宮城でこの名前を名乗るのは、ちょっとおこがましいかもしれない。
でも――どうせ変えるならこれくらい変えないと、自分は、何もかわれない。
自分の言葉に対して苦笑いを浮かべる彼に、領司は一度頷いてから……改めて、彼を見つめた。
「ではこれから、君は――佐藤政宗だ」
その言葉を受けた彼――政宗は、久しぶりに目を輝かせる。
『佐藤政宗』
後に、杜の都・仙台において、名杙直系でないにも関わらず『東日本良縁協会仙台支局』を立ち上げ、軌道に乗せる、若き指導者が誕生した瞬間だった。
……予想以上に長くなってスイマセン。これでも大分はしょったつもりなんです。
そしてついに、名杙領司――統治の父親であり、名杙家現当主が出てきてしまいましたね。分町ママとのコンビも書いていて楽しかったです。息子より先に政宗と絡ませてしまった……。
ちなみに分町ママにはメモリ機能がほぼありませんので、政宗との出会いはもう覚えていません。