第5章
ところで、この日家に帰った僕を雷が待ち受けていた。べつに塾をさぼったからでも、クーパーの世話をしなかったからでもなく、妹が母さんに
「お兄ちゃんたち、なんかハンカくさいことやってるみたい」
とチクッたためだ。
「まったく、あんたは恥かしいと思わないの!?近所中に物乞いをして歩くなんて……」
「べつに、恥かしくないけど」
僕に反省の色がまったくないのを見て、母さんはますます怒りを募らせた。
「あんたが恥かしくなくても、母さんは恥かしいわ。今日、ミウラさんの奥さんに言われたのよ。『最近だんなさんのことお見かけしませんけど、もしかして……』って意味ありげに。美月の話を聞いて母さん、やっと合点がいったわよ」
美月が母さんのエプロンの後ろでアッカンベーをしている。ようするに、きのうの仕返しというわけだ。
「母さん、べつに僕は自分のことを棚に上げるわけじゃないけど、美月のこともたまには叱ってくれよ。僕がアレしたとかコレしないとか、こいつの密告ぐせは大人になったら大変なことになるよ。人から嫌われて、誰にも相手にされないかもしれないじゃないか。今のうちに直すよう躾けといたほうが……」
のちのちのため、と僕は言いかけたけど、その言葉は美月の泣き声によって阻まれた。
「美月、ちゃんと友達いるもん。お兄ちゃんこそ、新しい友達ができたのなんか、つい最近のくせに……」
「そうね、美月ちゃん。悪いのはお兄ちゃんだから気にしないの」
エプロンで妹の涙をぬぐう母さんの姿を見て、僕は面白くないものを感じた。
(なんだよ、いつも美月ばっかり)ってそう思った。
でもとても不思議なことに――美月は大人になるまでずっと、母さんは僕のことばかりを可愛がるって、そう思っていたらしい。そして僕はといえば、母さんも父さんも美月のことばかりえこひいきするって、そう信じて疑ったことがなかった。兄弟というのは実に不思議なものである。
それと美月の密告を抜きにしても、母さんはここのところ至極機嫌が悪かった。三浦さんの奥さんが『最近ご主人の姿を見かけませんけど……』と言っていたとおり、父さんの生活が八時頃の帰宅ではなく、以前と同じ十二時頃の帰宅になることが多くなったためだ。もちろん休みの日にはクーパーを散歩に連れていってくれるし、「そろそろ閣下を美容室に連れていくか」と言ってわんにゃん美容室へ連れていってもくれた。動物病院で打つワクチン注射の費用も、父さんが貴重な小遣いの中からだしてくれたし――僕や美月の目には、父さんは以前と変わらぬいい父親として映っていた。でも母さんにとってはどうも、少し違ったみたいだ。
「ねえクーパー、あの人のことどう思う?このごろ帰りが遅いけど、あたしは仕事だとは思ってないのよ。近ごろ何を聞いてもうわの空だし……もちろん仕事が大変だっていうのはわかってるわ。あんたの面倒だってきちんと見てくれるしね。でもあたしはちょっとうさんくさいなって思ってるの。たぶんあんたの面倒をよく見てくれるのは、何か自分にやましいことがあるからなのよ。最近あっちのほうもすっかりご無沙汰だしね……」
庭でシャベルを片手に、母さんはクーパーとそんな話をしていた。もちろんベランダの後ろの室内で、僕がひとりと一匹による会話を聞いているとは、ふたりとも気づいていない。
(――父さんが、浮気!?)
こっそりと足を忍ばせて茶の間をでると、僕は急いで二階の子供部屋へ上っていった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
息を弾ませている僕を、怪訝そうに美月が見上げる。妹は港まつりで父さんが釣り上げたヨーヨーを、人差し指にはめているところだった。彼女の机の上には他にも、同じく港まつりの露店で父さんに買ってもらったぬいぐるみやおもちゃのアクセサリーセットなんかがある。
「……いや、なんでもないよ」
ついでにいうと、僕の机の上には、父さんに輪投げや射撃なんかでとってもらった、おもちゃの拳銃や手錠なんかがあった。これでクーパーという名の警察犬を連れて歩けば、僕は完璧ポリスマンだ。そして警察官というものには、大きな役目がある。不正を正しい方向へ導くという職務が。
「あのさ、美月」
カーテンを開けると、僕は美月に思いきって聞いてみることにした。
妹は真珠のネックレスをつけ、イヤリングをし、頭にはティアラのような形をしたヘアバンドを着けている。
「もし――もしもだけど、父さんが浮気をしたとしたらどうする?」「ウワキって、もしかしてプールなんかで使う……」
「それはウキワだろ。僕が言ってるのは『三年目の浮気』のウワキだよ」
「わかってるってば。ただ言ってみただけじゃないの」
美月はポラロイドカメラを僕に手渡すと、ポーズをとりはじめている。お姫さまになった自分を撮れってことだ。いつも馬鹿馬鹿しいと思っているのに、逆らえないのは何故なのだろう。
「あんなでぶっちょりんのおじさん、まともな女が相手にするはずないじゃないの。まあ隣の頭イカレたおっさんが、離婚歴ありってのにもびっくりしたけどね」
さまざまなポーズを五枚ほど撮ったのち、僕はカメラを美月に返した。彼女の将来の夢はモデルだったけど、僕はまず無理だから諦めろと、口をすっぱくして言っている。
「まあ、そうだよな」
再びカーテンを閉めると、僕は自分の思いの中に沈んだ。僕が母さんの話を聞いてしまったのは偶然だけど、これは甲斐家の長男として解決しなければならない問題だと感じた。妹はませているとはいえ、まだ小学一年生だ。もし仮に父さんが浮気してるにしても、真実を知るには早すぎる年齢だ。
(そうか……そうだったんだ。父さんがクーパーの面倒をよくみるのも、僕や美月におもちゃを買ってくれたりしたのも、愛人がいることに対する罪悪感を紛らわすためだったんだ。それで母さんは近ごろ、ずっと不機嫌だったんだ……)
僕は夏休みの課題の絵日記帳を開くと、色鉛筆を手にとった。でも駄目だと思った。とてもじゃないけど、本当のことは書けやしない。
[今日僕が野球の試合の応援から帰ってくると、母さんが庭で犬のクーパーと話をしていた。その話によるとどうも、父さんは浮気をしてるらしい。相手の女の人は同じ新聞社の女性なのだろうか?それとも飲み屋のママさんなのだろうか?このことについて、僕には真相を究明する権利と義務がある。母さんのためにも、また妹の美月のためにも、甲斐家の長男として……]
でも僕は宿題の日記帳には、野球の試合の絵を書いた。上の文章はあくまでも、僕の心の日記帳に書き記された言葉だ。
[今日僕は、野球の応援に行きました。平野くんがヒットを打ったのが、とてもカッコ良かったです。結果は5−3で負けてしまったけど、とてもおしい試合でした。監督のオギワラ先生が、一生けんめい応援した僕や松平くんや井家くんにもラムネをおごってくれたのがとてもうれしかったです]
まあこんなところでいいだろうと思った僕は、絵日記を閉じた。それよりも、と部屋の時計に目を走らせる。五時三十分。父さんがもし今日も、八時と九時の間に帰ってこなかったとしたら――僕はクーパーと一緒に、明日父さんのことを尾行するつもりだった。よくよく考えてみると、何故これまで気づかなかったのだろうと思う。父さんは帰りが遅くなったばかりでなく、休みの日はいつも出歩いてばかりいたではないか。午前中にクーパーを散歩に連れていくと、必要最低限の義務はこれで果たしたとばかり、ワゴン車に乗ってどこかへ出かけていく……。
このごろ僕は友達と遊ぶことが忙しくて、母さんの監視の目をかいくぐることばかりに神経を集中させていたけど、これは甲斐家存亡の危機ともいうベき事態だと思った。
(それに、父さんが浮気しているとまだ決まったわけじゃない。神経質すぎる母さんの勘違いっていう可能性も、十分ありえるんだから……)
明日、父さんがパチンコ屋にでも入っていく後ろ姿を見て、僕は早く安心したいような気持ちでいっぱいだった。でもそんな息子の心配をよそに、この日父さんは――十二時過ぎどころか、午前の二時近くに帰ってきたのだった。
「お父さん、今日は僕がクーパーを散歩に連れていくからいいよ」「ん?そうか?」
自分の会社の朝刊を閉じると、父さんはぼんやりソファーから立ち上がった。やっぱり母さんの言っていたとおりだと思った。父さんは新聞など決して読んじゃいない――どちらかというと、新聞で顔を隠しつつ、いつうまく家からでていこうかと、算段しているような様子だった。
朝ごはんを食べている時も、心ここにあらずといった調子で、父さんの目にはまるで母さんが透明な家事ロボットか何かのようにしか映っていないみたいだった。
「そろそろこのプログラムには飽きてきたから、別のプログラムを施行してみようか」
なんて、そんなふうに父さんが思っているとはもちろん思わなかったけど、透明人間を相手に食事をするというのは、実に味気ないものだ。
「今年のお盆休みは札幌に帰れないけど、お義母さん、気を悪くしたりしないかしら?」
「ああ、そうだな」
「あなた、砂湯へ子供たちをキャンプに連れていってくれるのはいいけど、まだ準備しなくてもいいの?」
「まあ、そのうちやるよ」
ちなみに、砂湯へキャンプに行くのは二日後の十四日だ。キャンプ用品なんかは押し入れからだせばいいだけだけど、薪とか花火とかその他色々、買いだしにいかなくちゃならないものがたくさんある。
「そのうち、ね」
いつもならここで「あなた、先週も同じこと言ってたじゃないっ!」と雷が落ちるところだけど、母さんは珍しく大人しかった。
子供の僕としては、キャンプへ行く二日後までになんとか、父さんと母さんには以前の関係に戻っていて欲しいと願ってやまなかった。何故ならそのキャンプには井家くんや松平や平野も同行する予定だったからだ。
これでは一体なんのために僕が友達も一緒にと必死に頼んだのか、まるでその意味がなくなってしまうではないか。
「ちょっと、出掛けてくるよ」
そわそわした様子の父さんに、母さんはあえて何も答えない。父さんは戸棚からマイルドセブンを一箱と札入れをとりだし、ズボンのポケットにそれらを忍ばせている。
(さあ、尾行開始だ!)
僕は父さんよりも先に外へ出、青色のリードを片手に、ベランダのほうへ回った。ごはんにお味噌汁をかけたものを食べたクーパーは、満足そうに輪になって眠っている。
すずめたちがごはんのおこぼれにあずかろとたくさんやってきていたけど、クーパーは気づかないふりでもしているように、両目をかたく閉じている。
「クーパー、散歩へいくぞ」
青いリードと散歩という言葉に、クーパーのどんよりとした瞳が輝く。まるでこの瞬間のためだけに生きている、とでもいうように。 クーパーがのっそり動くと、すずめたちは四散していったが、べつに心配することはない。彼がいなくなったあと、鳥たちは再び戻ってきて、米粒をひとつ残らず啄ばんでいくだろうから。
ところが、父さんが隣のイカレた親父と――この形容はもちろん美月のものだけど――長い間話しこんでいたため、僕の計画は多少狂った。
クーパーの首輪にリードを繋ぐと、彼は鼻息も荒く、すっかりその気になっている。その彼をレンギョウの木陰にひそませておくというのは、なかなかに至難の業だった。
「今の時期は何が釣れるんですか?」
「ヤマメとかニジマスとかイワナとか、まあなんでも釣れますよ。釣り場のポイントさえ知っていればね」
僕たちと同じ家に住む、鳥の巣頭の親父は、釣竿のリールを巻きながら、得意げに笑っている。そういえば先週おっさんのくれたヤマメの天麩羅は、最高に美味しかったっけ。
「俺も透析さえなけりゃあ、もっと頻繁に釣りにいけるんだけど、何分こんな体なもんだからなあ。そのせいで、女房にまで逃げられちまった」
「きっとまた、何かいいことありますよ」
「だといいがなあ。まあ、たくさん釣れたらまた、おすそわけしますよ。そういえばこの間、お嬢ちゃんに冗談でペンギンを釣りにいくって言ったら、なんか本気にしたらしくて、隣の親父は嘘つきだってお兄ちゃんに大声で言ってましたっけねえ」
「ははは。クーラーボックスから冷えたペンギンがでてくると、信じて疑ってなかったみたいですよ。でも先週のヤマメの天麩羅は本当に美味しかった。今度、一緒にいける機会があるといいんですが」
「休みさえ合えばね。同じ新聞屋でも、俺は夜働いてるからなあ」 ふたりはそのあとも世間話をし続け、父さんがワゴン車に乗りこんだのは、ゆうに二十分も経ってからだった。
隣のおっさんがカリーナのトランクに胴長や釣り道具なんかを積みこんで出ていくのと、父さんのタウンエースにエンジンがかかるのはほぼ同時だった。そして僕もあくまでもさりげなく、レンゲツツジの木陰からクーパーとでていき、父さんの運転する銀の車体を追いかけようと思った。
もちろん、生身の人間が走って一台の車を追いかけるなんてのは、ほとんど不可能というか神業だ。でも実はここからがクーパーが本領を発揮するところなのだ。
「いいか、クーパー。父さんのワゴン車を追うんだ。そう、あの銀色の車だ。さあ行くぞ!」
父さんはサイドミラーに映る僕とクーパーの姿を見て、窓から手を振っていた。たまたま散歩の方向が一緒なだけだと思っているのだろう。車と僕たちの距離は当然どんどん離されていったが、クーパーは父さんの後を追うのをやめはしなかった。
そしてこの中で一番つらいのはもちろん僕で――五分くらいは全速力で走ることに耐えられたものの、それ以上は無理だった。でも僕の手が青いリードを離れても、ノリにのってるクーパーはそのままハッハッと息を弾ませ駆けていく。
「おおい、クーパー!」
最後にはヨレヨレの汗だくになりながら、僕はクーパーの茶色い後ろ姿を追った。実をいうと、あの車の後部席には、きのうのうちにあるものを入れておいたのだ。
クーパー愛用の小屋のざぶとん――僕が夜、それをとりあげると、クーパーは親の仇でも見るような目つきで、それをとり返そうとした。そして僕は彼の目の前で、ざぶとんをワゴン車の後ろへ放りこんだというわけだ。
一晩たったら忘れているかもしれないと思ったけど、どうやらクーパーはしっかり覚えていたらしい。犬は受けた恩を三年は忘れないというが、とられた大事な敷物のことは、一生忘れないものなのだろう。
自分の作戦がうまくいったことを喜びつつも、これでクーパーを見失ったら元も子もない。僕は苦しいブルドックのような顔つきになりながらも、懸命に走り続けた。ただひとつの救いは、父さんの向かった場所が、鳥取の家とそう遠く離れていなかったことだろうか。
当時そこには、子供たちの間で非常に有名な、幽霊屋敷が建っていた。いかめしい門構えの、黒い瓦屋根をした、時代劇にでもでてきそうな感じのする大きな屋敷だ。庭には松の木や杉の木なんかが植えられていて、結構な高さを誇っている。ただし、門にはしっかりと釘と板で封がされているため、おいそれと人が侵入することはできない。
平野や松平、井家くんの話によると、この家では不幸が続いたため、家の主人は屋敷を封鎖することにしたのだそうだ。もちろんこの話はあくまでも、子供たちの間に一般的に流れていた噂話なので、どこまで信憑性があるかというのは極めて疑わしい。
なんでも、この屋敷の主人は大金持ちのヤクザで、その奥さんはノイローゼで亡くなったのだそうだ。子供によっては「ノイローゼじゃなく、あたしは狂い死にしたって聞いたわ」という者もいたけど、まあどちらも似たようなものだと思う。そしてその奥さんがこの屋敷で死んでからというもの、ここでは悪いことが度重なるようになり――犬が窓から飛びおり自殺をするなど――ヤクザの大親分は屋敷を封鎖することにしたというのだ。
犬が飛びおり自殺というのも、なんともいえないものがあるけど、子供たちの間の噂をすべてまとめるとしたら、大体次のようになる。
1.この屋敷の所有者がヤクザだということ。
2.奥さんが精神を病んで、首吊り自殺をしたらしいこと。
3.事故か自殺かわからないけど、とにかく犬が二階の窓から落ちて死んだこと。
この三つについては、どうやら事実のようだった。中にはヤクザの奥さんが自分の愛犬――ー説によるとダルメシアン――を二階の窓から放り投げて殺したのち、自らも首を吊って死んだという者もあったけど、あまりに本当すぎて、かえって僕はそこに作り話の匂いを感じていた。
まあ子供たちの間で有名な、呪われた幽霊屋敷の話については、ひとまず脇に置いておくとしよう。
今大切なのは、僕の父さんが呪われた幽霊屋敷の斜め裏にあるボロアパートへ入っていったということだ。
僕が呼吸器不全で倒れる寸前に陥りながらも、しっぽを振るクーパーになんとか追いつくと、彼はワゴン車のまわりをぐるぐるまわりながら、時々窓のあたりに前足をかけたりしていた。
「しーっ。クーパー、大人しくしろ」
幸い、車の鍵は開いていたので、僕はタウンエースの中からクーパーお気にいりのざぶとんをそっととりだした。
くんくんと匂いを嗅ぎまわるクーパーを、そばにあった棒の杭に留めおき、僕はボロアパートの様子を探ることにした。
愛人を囲っているにしては、あまりにもひどい外装の貸しアパートだと思った。色あせた赤い屋根に、肌色のひび割れた壁……しかもその肌にはしみやしわやそばかすなんかがあまりにも多い。
六つ並んだ錆びた郵便受けの中で名前があるのは、ふたつだけだった。102号室と201号室。でもどちらも父さんの名前ではない。
(まさかとは思うけど、偽名を使ってる、なんてことはないよなあ) 一階は101号室から103号室までで、どうやら一号室と三号室は、その様子からいって空室のようだった。さて、次は二階だ。 僕は赤錆びた階段をゆっくり音をさせないように上っていき、201号室から203号室までをそっと見渡した。
201号室の窓は開いていて、そこからTVの音と風鈴の音色が洩れているのが聞こえる。202号室は空室。そして最後が203号室だ。
ほんの少しだけ開いている窓から、ジーガシャン、ジーガシャンという音が響いてくる。
(いったい父さんは、ここで何を……?)
僕は姿を見られないように、そっと体を屈めて前進した。このアパートのドアはどれも、蹴破ろうと思えばそうできそうなくらいの薄っぺらなドアで――しかも木製だった。
そして僕がドアに耳をぴったり当てていると、ジーガシャンという音がやんだ。今度はニャオンという甘えるような猫の声が聴こえてくる。
「ははは。もうエサはないぞ。ミルクもこれでおしまいだ。昼寝はよそでやってくれ」
ミシミシという床の軋む音が近づいてくる。
(――まずいっ!)
ガラガラっと窓が大きく開け放たれると、父さんはそこから野良猫を二匹、放りだしていた。三毛猫の大きいのと小さいのだ。たぶん母猫とその子供なのだろう。
「……みずほ」
無駄だとわかっていながらも、僕は思わず野球帽で顔を隠していた。でもなんとも罰の悪い思いをしている僕のことを、父さんは快くボロアパートの狭い部屋へと迎え入れてくれ、さらに中古の小さな冷蔵庫からメロンのアイスまでくれたのだった。
「ふうん。父さんが浮気ねえ」
まるで人ごとのように、父さんは事務机の前で腕を組んでいる。さきほどのジーガシャンという音は、旧式のワープロの印刷音だったのだ。
「残念ながら父さんにそんな甲斐性はないよ。まあでも、母さんの言うことは一部あたってはいるな。父さんは家族に対して秘密を持っていることに、後ろめたいものを感じていたから――このアパートはオンボロな上に呪われた屋敷の裏手にあるってことで、家賃が格安なんだ」
「格安って、いくらくらい?」
僕は一組の机と椅子の他には、ワープロと冷蔵庫しかない殺風景な室内を見回した。うわ、隅には蜘蛛の巣まで張ってる。
「月五千円だ。ちなみに他のふたりの住人は、生活保護を受けている人たちらしい。まあ父さんのポケットマネーで借りられる部屋なんて、そんなもんさ」
父さんは肩を竦めると、印刷の終わった原稿を重ね、とんとん整えている。
まさか、父さんがミステリー小説の執筆に集中してとり組むためだけに、こんな秘密の隠れ家を借りていようとは。
奥の七畳ほどの部屋は未使用で、押し入れに布団がしまってあるわけでもなく、当然、愛人が隠れているような気配もまったくなかった。
「まあ、母さんにはこんな話したら、そんなお金にならないもの、家で書けってことになるんだろうけどな」
「まあ、そうだろうね」
正直なところ、浮気疑惑が消失してしまった今、父さんがここで何をしてようと、僕にはどうでもいいことのような気がした。むしろこの場所を僕と父さんの――そしてクーパーの――秘密の隠れ家として愛用するのも悪くないってそんなふうにさえ思った。
「今月の末にはここを畳むつもりでいるから、母さんには黙っていてくれ。べつにやましいことは何もないんだが、まあそのなんていうか、母さんは疑い深い性格をしてるからな」
「わかってるよ。絶対誰にもなんにも言わない」
投げやりな調子で僕は答え、七畳間の埃っぽい窓をガラリと開けた。もしかしたらと思ったけど、やっぱりそうだ。ここの窓からは、呪われた屋敷の一室がばっちり見渡せる。
「ねえ父さん。父さんはここへきてから、この部屋の窓を開けた?」「ああ、一度だけな。でも向かいの屋敷の様子があんまりはっきり見えるんで、なんとなく悪いような気がして、開けないことにしたんだ」
みしみしと畳の床を軋ませながら、父さんが僕の隣にやってくる。
「なんでも、この屋敷に住んでたお嬢さんは、自分の病気が不治の病いであることを悲観して、自殺したんだそうだ。そしてそのことを悲しんだお母さんはやがてノイローゼになり、すっかり気が狂ってしまった。お父さんはそんな奥さんの姿を見ているのがつらくて、娘が首を吊ったこの屋敷をでることにし、娘を思いださせるものもすべて、そのまま置いていったんだって、そう聞いたよ」
「じゃあ、ここから見えるあの二階の部屋が、そのお嬢さんの部屋なのかな」
たぶん、襖がぴったりと閉まっていたとしたら、その部屋の中のものは何も見えなかっただろう。黒い箪笥や桐の調度類、木彫りの熊が魚をくわえている置物や、日本人形。あと何故か昔はやっただっこちゃん人形が床に転がっているのが見える。そして、その部屋を守るように、二匹の大きな陶製の犬がいた。一匹はダルメシアンで、もう一匹はドーベルマンだった。
僕は野球帽をとると、軽く目頭をぬぐった。呪われた屋敷の真実は、あまりにも悲しいものだった。
べつに僕はそのお嬢さんのことを直接知ってるわけじゃないし、泣かなければいけないほどの理由は、どこにもないような気はする。でもその部屋をじっと眺めていると、ある種の寂寥感というか、無念な思いのようなものがじんわり胸に伝わってきて――どうしてか、僕の心を熱くさせた。
父さんは、そんな僕の肩を一度だけ軽く抱くと、また床をみしみし言わせながら隣の部屋へと戻っている。
僕は父さんに、絶対に母さんにも美月にも、このボロアパートのことを何も言わないと、改めて男と男の誓いを立てた。それから心の中で、この部屋の窓から見たことも決して誰にも何も言わないことを自分自身と約束した。
病気でとても苦しんで、最後もとても苦しんで亡くなった人のことを――噂話の種にするようなことだけは、絶対にしたくないと思った。