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第2章

 ところで、僕は学校で友達が全然できなかった。それは当時の僕にとって「甲斐瑞穂、人生最大の危機」とも思えるような出来ごとで――小学三年という幼い僕の知能では、自分に何故友達ができないのかがさっぱりわからなかった。もちろん、大人になった今では、それがどうしてだったのかが少しだけわかるような気もする。それはつまりこういうことだった。セックスという言葉の意味を妹に説明しようとした時もそうだったけど、僕は人と喋る時や何かに答えを返そうとする時、なるべく完璧に近い形で話そうとする癖があった(セックスの時は間違ったけど、僕は人からされた質問に対して、なるべく真剣に答えを返そうするタイプだった)。

 でもそれは他の子供たちにとっては――どうも奇妙な違和感を感じることのようだった。

 うまく説明するのが難しいけど、たとえば僕と母さんと美月が三人で『クイズダービー』を見ていたとしようか。あるいは『クイズヒントでピント』でも『クイズタイムショック』でもなんでもいい。母さんや美月は答えが間違ってようとあってようと、わりとすぐにパッと答えを口にだすタイプだ。でも父さんと僕は違う。これでまず間違いないだろうという解答についてしか、口にはださない。

 つまり、クラスのみんなが僕について感じていたのはそういうことだった。

『確かにコイツ、勉強はできるかもしれないけど、なんかとっつきにくい』

 それでも、小学二年の三学期の時はまだよかった。季節外れの転校生ということで珍しがられ、みんなにちやほやされもした。だが三年になってクラス替えが行われるなり――クラスに顔馴染みがひとりもいなくなった。いや、本当はひとりだけいることにはいるのだ。彼の名前は井家太郎。みんなからはフケツの代名詞として嫌われている。本当のことをいうと僕は彼と仲良くしたくないわけではなかったのだが、そうすることによって仲間外れの仲間入りをしたくないような、奇妙なジレンマがあったのだ。

 井家くんがフケツの代名詞として嫌われている理由をいくつか上げてみよう。


 1.そばに近づくと、なんとなくクサい(どうやら風呂には一週間入らないこともざららしい)。

 2.家が貧乏。

 3.授業中に鼻をほじる。


 ……などなど。一度など、彼の耳の中からうじ虫がでてきて隣の女子の机にちょこんとのったことさえあるという。以来、彼は女子から圧倒的に嫌われ、席替えが行われるたびごとに、彼の隣になった女子は悲鳴を上げた。中にはさめざめと泣きだす女子さえいる。そしてみんなが輪になってこう慰める――「可哀想な〇〇ちゃん。でも大丈夫よ、机をくっつけさえしなければバイキンは移らないから……」

 うちのクラス――三年二組――では、実に「エッタチンキバリア」という呪文が流行った。その呪文は女子たちを井家くんのバイキンから守ってくれるものらしい。また何かの間違いで井家くん及び井家くんの持ち物に触れてしまったとしても――その呪文を唱えれば清められるらしい。

 また男子たちの中には、そのような女子の態度を軽蔑する者も幾人かはいるのだが、何分女子たちがうるさすぎるのだ。もし仮に井家くんと肩を組んで歩こうものなら――次の日には「エッタチンキバリア」の標的にされるというわけだ。

 ところで、そのように神経質な女子たちに対する井家くんの反応はというと、実にクールなものだった。時々鼻をほじる余裕さえ見せていたのだから……というのは、冗談とはいえ少し言いすぎかもしれない。彼も心の中では本当は深く傷ついていたのだから。


 ところで、このような時、三年二組の学級担任は何をしていたのだろう?彼――戸塚湊先生(三十四歳、独身。通称ヨットスクール)は、何もしなかった。ちなみに彼がヨットスクールと一部の生徒から仇名されているのは何も、彼がスパルタ式に子供たちを鍛えていたからではない。たまたま名字が某スパルタスクールの学校名と一緒だったためだ。

 戸塚先生は確かに、女子たちにたびたび注意を与えはした。「井家くんをいじめてはいけない」、「井家くんを笑ってはいけない」、「井家くんをフケツ呼ばわりしてはいけない」……でも結局のところそれは口先だけで、なんら根本的な解決を与えるものではなかった。いや、ヨットスクールはそれでも一度だけ、かなり先生らしいところを見せたことはあった。一学期の夏休みに入る二週間ばかり前のことだったろうか。井家くんの頭があまりにフケだらけで、爪の中も真っ黒なのを見るに見かねて――クラスの男子何人かと一緒に銭湯へ行くことにしたのだ。

 その時先生及び井家くんと一緒に鶴の湯へいったのは、松平や平野、斉藤に宇佐美、笠原といった連中だった。特に松平と平野は以前から女子の井家くんに対するとり扱いに反対しており、また学級委員の宇佐美などは鼻につく優等生らしさで、しょっちゅう井家くんのことをかばっていた。

「みんな、やめろよ!井家くんが可哀想じゃないか」

 でも僕はクラス内で0.1ミリほど浮きながらも――まるでドラえもんの足のように――宇佐美のその科白を聞くたびに、不愉快なものを覚えていた。

(おまえ、本当に井家くんのことを可哀想だなんて思ってるのか。ただ単に自分の優等生的気分を満足させたいだけなんじゃないのか) って、そんなふうにしか思えなかったんだ。

 しかし結局のところ、僕も宇佐美と同罪だったに違いない。僕はクラスの中心メンバーのひとりである松平に「甲斐も一緒にこないか」と誘われた時、その誘いを断ってしまったからだ。

 本当のことをいえば、僕もみんなと一緒に行きたかった――でも何故よりにもよって銭湯なんだ、というのが僕の本音だった。これがもし昆虫採集や釣りをしにいくっていうような話なら、僕は喜んで井家くんと一緒にみんなと出かけただろうに。

 僕は今も昔も、銭湯という場所が苦手なのだ。いわゆる、海パンをはいて露天風呂に入りたがるタイプというのだろうか(実際にそんなことをしたことは一度もないけど)。

 だから、もし松平に誘われたのが銭湯じゃなかったらどんなに良かっただろうと、僕は家に帰ってからも悲しみに暮れた。 きっと松平はこう思っただろう――『とっつきにくい上に、つきあいまで悪い奴』って。もう二度と誰も、僕のことなんかどこにも誘ってくれないに違いない……そう思うと、夏休みも間近だというのに、僕の気分は暗い沼の底にまで落ちこんでいった。


 ところで、井家くんは先生や松平たちと銭湯へいった翌日、こざっぱりとしてフケツのフの字も見当らないような状態だった。しかしそれにも関わらず、女子たちの彼に対する冷たい仕打ちは相変わらずだった。

 それというのも、一緒に銭湯へ行った女子のスパイみたいな笠原が、次の日みんなにこう言って回ったからだ。

「井家、すげぇ汚いぜ。俺もまさかここまでとは思わなかったもんなあ。あいつが風呂に入った途端、ブクブク垢が浮き上がってきてさ、間違いなくあれは一か月以上は風呂に入ってなかったと見たね」 教室の隅で井家くんがその話を聞いていても、笠原はまったく構わないような様子で、女子たちの前で堂々と話し続けた。垢こすりで垢をこすったところ、これでもかというくらい垢がでてきたこと、戸塚先生が風呂上がりに「もう参った」と真っ赤な顔で洩らしたこと、鶴の湯の番頭さんに垢だらけの湯槽について叱られたことなど……。

「やだあ、キタナーイ」

「銭湯も商売上がったりだよな、それじゃあ」

「本人はスッキリしたかもしれないけどさ、まわりにそれだけ迷惑かけるんじゃねぇ……」

 くすくす、ひそひそ。

 聞こえよがしの当てこすりに、僕はいつも以上に腹が立った。それで、小綺麗になった井家くんに何か話しかけようと思って席を立ったけど――その必要はなかった。

「やめろよ、おまえら!とにかく井家は風呂に入って清潔になったんだ。これでもう誰にも馬鹿になんかさせないからな!」

 松平は平野と一緒に井家くんの机を囲むと、隣の女子の机とぴったりくっつけた。

「やだ、やめてよ!あんたたち勝手に……」

 水野沙夜香が悲鳴を上げると同時、みながみな、エッタチンキバリアの姿勢に入る。水野はじわりと泣きだすと、しゃくり上げながら教室を出ていった。

「松平!あんたなんてことするのよ。沙夜香ちゃんが可哀想だとは思わないの!?」

 クラス一気の強い女子、渡辺真奈が松平と平野に詰め寄る。

「へっ。なーにが可哀想だよ。じゃあ井家は可哀想じゃないとでも言うのかよ、おまえら」

「それは……」

 渡辺が言葉に詰まっていると、本鈴が鳴り、戸塚先生が泣きじゃくる水野と一緒に教室へ入ってきた。

「なんだ、おまえら。朝っぱらからまた喧嘩か」

 先生はやれやれというように溜息を着くと、水野に席へ戻るように言った。水野は着席と同時、井家くんから机を十センチほど離している。

「いいかげん、先生を困らせないでくれよ。井家はきのう銭湯へいってつるつるのピカピカになった。これで問題はすべて解決済みだ。もう二度と井家にフケツとかなんとか言わないこと。わかったな?」

 みんながしぶしぶ「はあい」と気の抜けたような返事をすると、先生は出席をとりはじめた。

 廊下側の一番後ろの席に座る僕は、窓際の席に座る井家くんのことをちらと眺め――こう思った。彼はいつも何も言わないけれど、実際のところ、本当はクラスのみんなや先生のことをどう感じているのだろうと。


 そしてこれは夏休みまであと三日となったある放課後に起きた事件だ――僕は何気に物凄い光景を目撃してしまった。いつも通学途中でみかける犬のクーパーが、じゃらじゃらと二メートルほども鎖を下げて、道を闊歩しているではないか。

 放課後、僕は家へと帰る道すがら、いつものようにぼんやり考えごとをしていた。なんとか一学期が終わるまでに友達を作りたいと思っていたけど、このままいくと二学期も三学期も友達がいないままで終わるんじゃないかって、そんな気がして。

 そして大きな土佐犬のクーパーは、暗い顔つきをしたそんな小学生の脇を堂々と歩いていったのである。

 噛まれたらどうしようと反射的に身構えたけど、クーパーは僕にちらと視線をくれただけで、フンと鼻を鳴らして歩み去っていった。

(……うわー、びっくりした)

 同じ形の建売住宅が何軒も並ぶ通りを、ゆっさゆっさと体を揺らしながら、クーパーはのんびり歩いていく。

(でもどうしたんだろう。加藤さん、このこと知ってるのかな……)

 土佐犬のクーパーは、僕と同じ町内に住む、加藤さんが飼っている犬だ。僕は毎朝、加藤さんちを通りかかるたびにこう思っていた ――この獰猛そうな犬がもし後ろ足で立ち上がったとしたら、僕と同じくらいの身長がありそうだな、と。そしていつもこわごわ忍び足で通りすぎるようにしていた。

(あっ!クーパー……!)

 なんと、僕がクーパーの後ろ姿を見送っていると、向こうから三輪車に乗ったガキンチョがやってくるではないか。

(逃げろ!逃げるんだ!あいつには三輪車なんかじゃまず勝ち目はない……)

 ところが命知らずの四歳くらいのガキンチョは、嬉しそうな顔をしてクーパーに近づいてくる。

(駄目だ。もうおしまいだ……)

 思いきって電信柱の影から飛びだすと、僕は四歳くらいのガキを三輪車ごと避難させることにした。

「危ないから、気をつけて遊ぶんだよ」

 ガキンチョは命の恩人に礼を言うこともなく、黙ってキコキコ三輪車を漕いでいく。

(ふー、やれやれ)

 額の汗を拭うと、僕はクーパーの後を引き続き追跡することにした。多分このままいくと誰かが保健所に電話をかけるに違いないが、それまでどんな被害もでないと、一体誰に保証することができるだろう?

 僕はクーパーを見かけたこと及び、またクーパーが自分の見知っている犬であるということに対して、何か責任めいたものを感じた。一番いいのは飼い主の加藤さんに知らせることだが、でももし僕が目を離した隙に、住民に被害がでたとしたら……。

 ごくり、と生唾を飲みこむと、僕は重いランドセルを背負った体で、クーパーの後ろ姿を引き続き追いかけることにした。


 クーパーが一体どこに向かおうとしているのか、僕にはさっぱりわからなかった。彼が行こうとしているのは、自分の小屋のある家とはまったく正反対の方向――学校のある方角だった。

(もしクーパーが校庭やグラウンドに迷いこんだとしたら、小学生たちの間で大騒ぎになるだろうな。そして知らせを受けた先生が保健所に電話をして、クーパーは……)

 僕はぷるぷると首を振った。その前に、なんとか無事加藤さんの家までクーパーを連れ帰らなければならない。

(ああっ!)

 今度は公園の脇を、上品そうな日本猫がやってきた。僕も時々見かける野良で、みんなから「たま」と呼ばれている猫だ。

 このままいくと二匹は数メートルで接触することになる。(逃げろ!逃げるんだ、たま!君のすばしっこさをもってすれば、クーパーが追いかけてきても逃げ切れるだろう……)

 そして僕が一生懸命「しっ、しっ!」と電信柱の影から手でサインを送っていると――ぽん、と肩に手をおく者の影があった。「おまえ、一体なにやってんの?」

 松平はチューインガムをふくらませながら、僕にも一枚、それを差しだした。

「……ありがとう。そうだ!たま!」

 前方を振り返ると、そこには互いにガンを飛ばしあう、犬と猫の姿があった。先に目を逸らしたのはたまのほうで、彼女はまるで何ごともなかったというように、ゆうゆうと道路を横断していく。

「うわー、すげえでけぇ犬。あんなのに噛まれたら、人間の子供なんかイチコロだな」

「そう思うだろ?」僕もガムを噛みながら言った。「でもあの犬、うちの近所の犬なんだ。たぶん何かの拍子に棒杭がすっぽ抜けてさ、それで……」

「あっ本当だ。あの鎖、二メートルはあるんじゃねえか?なんかさー、とうとうやったかって感じもするよな。きっとあの犬、鎖に縛られてる生活が嫌になったんだよ」

「そうかなあ」

 松平と僕は肩を並べて歩きながら、自然とクーパーの後を追う形になった。

「加藤さんて、年金暮らしのおじいちゃんでさ、すごく優しいいい人なんだ。僕や美月に――美月って妹なんだけど――時々、美味しいお菓子や庭に咲いてる綺麗な花をくれたりするんだよ。クーパーのことも物凄く可愛がってたし……」

「ふうん。でもさ、優しさと押しつけがましさってのはまた別ものだろ。犬にしてみりゃあ自由に散歩にいけないっていうのは、相当なストレスだと思うぜ」

「そうかもしれない」僕は松平に同意した。「加藤さん、昔はちょくちょくクーパーのこと散歩に連れてってたらしいんだけど、おととしの暮れに当たっちゃったんだって。今はリハビリで大分よくなったらしいけど、左足もちょっと引きずってるような感じだし……」

「なるほどなあ。ジジイに土佐犬の散歩はつらいわなあ。そんでそのじいさん、独り暮らしなわけ?」

「うん……時々息子さんが様子を見にくるんだけど、わしは一生自分の家を離れないってがんばってるらしい」

「待てよ。ということは……」

 目はクーパーの茶色い後ろ姿を追いつつ、松平はぴたりと歩をとめた。

「まさかそのじいさん、家の中でくたばってるなんてことはないだろうなあ」

「まさか!」

 悪い想像を打ち消すように、僕は首を大きく振った。

「いや、わかんねえぞ。あの犬……クーパーったっけ?多分あいつ、ハラ減ってんだよ。そのカトーさんとかいうじいさんが死んで、エサをくれる人が誰もいないもんだから……」

「やめてくれよ。加藤さんはきっと生きてるよ」

「まあ仮に生きていたとしてもだ」松平は味のなくなったガムをぺっと道端に吐き捨てた。「あの犬をとにかく捕獲しないとな。俺にいい案がある。カイ、おまえもついてこいよ!」

 松平はクーパーと離れた分をとり返すため、突如として走りだした。クーパーはといえば信号機の前で行儀よくお座りしている。信号は今、赤だった。


「あの犬、すげぇ頭いいのな。青になるのと同時に、信号を渡りはじめたぜ」

 ヒューと松平が口笛を鳴らす。

「いや、大したもんだ。感心しちまうな」

「感心するのもいいけどさ」口からガムを吐きだすと、僕はそれを紙にくるんでポッケに入れた。「このままどこまでも追いかけても仕方ないよ。あの鎖をつかんで、加藤さんの家まで連れ戻さないと……」

「へへへ。だから言ったろ。俺にいい案があるって。ジャジャーン!」

 松平はクーパーが信号待ちしている間に、角にある売店でパンを買っていた。五十センチほどもあろうかという、生クリームの入ったスティックパン。

「こいつをだな、こうするわけさ!」

 松平はパンをちぎると、歩道を歩くクーパー目がけて、それを投げつけた。

 頭にパンをぶつけられたクーパーは、一瞬ギロリと振り返ったが、すぐにくんくん鼻を鳴らして、ぱくりとパンに噛みついている。そしてもっとくれ、というような飢えた眼差しを僕らに向けた。

「よ、よーし。この調子だ。俺がクーパーにパンをやり続けるから、その隙にカイは鎖を手にしろ」

「わ、わかった」

 しかし、クーパーの食欲はあまりに旺盛だった。松平がちびりちびりとパンをちぎっているのが我慢できなくなったのだろう、最後には……。

「う、うわああっ!」

 クーパーは松平に大きく前足を上げて飛びかかり、残り十センチほどとなったパンを奪っていた。

「大丈夫か、松平!?」

 草むらに尻もちをついた松平は、パンを持っていた右手を不思議そうに見返している。無理もない。右の手首ごと食べられてしまいそうな勢いだったのだから。

「松平。僕のランドセルに今日の給食のコッペパンが丸ごと入ってるんだ。それを早くとりだしてくれ!」

「わ、わかった」

 松平は僕の背中のランドセルを開けると、急いでパンをとりだした。食料がなくなった時、次に食べられるのは自分たちだと信じて疑いもしなかった。

「カイ。このパンがもしなくなったら……」

 コッペパンをちぎってクーパーに与えながら、松平が僕の耳元にささやく。

「さっさとずらかろうぜ」

「う、うん。でもどうやって?」

 ごくり、と生唾を飲みこみ、僕は鉄の鎖を手から離した。その僕のことを、クーパーが何故かジロリと睨む。

「そこのフェンスを飛び越えて、学校の校舎かグラウンドに逃げこむんだ」

 僕たちは結局、学校にまで歩いて戻ってきており、校庭を囲む緑のフェンスがすぐ真横にあった。でもこういう場合、ギャグ漫画なんかだと――逃げ遅れた人物約一名が、ズボンのお尻のあたりを噛みつかれるんだよな。

 そしてコッペパンもあとほんの一握りという時、緑のフェンスの向こうから、あまりにものんびりとした声がした。

「松平くんもカイくんも、そこで何してるんだい?」

 フェンスから首から上をのぞかせた井家くんに向かって、松平が「しーっ!」と人差し指を立てる。

「助けてくれ、井家!俺たちを救えるのはおまえしかいない!」

 井家くんは声をひそめる松平のことを、訝しげに見つめている。

「頼むからさ、助けてくれよ。俺とカイは今すぐいちにのさんで、フェンスを飛び越える。その間、この犬の気を逸らしてほしいんだ」

 ところが、フェンスをゆうゆうと飛び越えてきたのは、長身の井家くんのほうだった。もう終わりだ、というように松平が僕の顔を見る。

「もしかして、この犬がおっかないのかい?大丈夫だよ。人なつっこそうな犬じゃないか」

 井家くんは少しも恐ろしくない様子でクーパーに近寄ると、彼の茶色の毛並みを何度も撫でている。

「ほら、なんともないだろ?犬ってのは、人間が怖がりさえしなければ、どうってことのない動物なんだよ」

「お、おまえ……度胸あるな」

 松平は井家くんに倣うように、クーパーのビロードみたいな手触りの毛並みを撫でた。クーパーは気分を害した様子もなく、へっへっとだらしなく舌をつきだしているだけだ。そこで僕もおそるおそる、クーパーの背中や頭、眉間の皺なんかを撫でた。

「こいつ、怖い顔してるけど、結構愛敬あるな」

「ハハハ。口の端に葉巻をくわえさせたら、まるっきりマフィアのボスだよ」

「いえてる」

 僕は井家くんが冗談を言うのを初めて聞いた。考えてみたら、彼が笑うのを見たのも、初めてのような気がする。

「それで、この犬どうするんだい?見たところ、どっかから逃げだしてきた犬みたいだけど」

「カイ。おまえから話せよ」

「うん」

 僕たちは三人で肩を並べて歩きだした。クーパーの鎖を握っているのは井家くんだ。

「へえ。それじゃあまあ、このままカイくんがこの鎖を握って加藤さんっていうじっちゃんの家までクーパーを連れていけばいいんだ」

 まるでバトンタッチとでもいうように、井家くんが僕に鎖を手渡す。クーパーは誰が自分の主人でも構わないというように、大人しくのっしのっしと歩くのみだ。

「じゃあ、俺は家の用事があるから、これ以上つきあえなくて悪いけど……」

 井家くんは学校前の信号のところで、僕と松平に手を振った。そして僕たちふたりと一匹が信号を完全に渡り切るまで――彼はずっと手を振り続けていた。


「あいつ、そんなに悪い奴じゃないだろ」

 松平は前をゆくクーパーに目をやりながら、隣の僕に言った。

「確かに井家家は六人も子供を抱えてて、超貧乏だってのは本当だけど、でもそれはあいつには関係のない話だと俺は思うんだよな。いつも月末になると銭湯にいく金がない、メシもいつもの半分以下って状態になるらしいけど――あいつ、えらいと思うよ。俺だったら絶対、そんな生活耐えられないもんな」

 そうだったのか、と思った僕は、松平から井家くんの家の事情を他にも色々聞いた。お父さんは腕のいい大工らしいけど、お酒を飲むと人が変わること、お父さんが賭博で作った借金があること、お母さんの内職を一家全員で手伝っていることなど……。

「えらいんだな、井家くんて」

 僕は感心したように、溜息を着いた。

「そうだよ、あいつはえらいんだ。でもうちのクソッタレ女子どもときたら、頭ごなしにあいつをフケツ呼ばわりするんだからな。ヨットスクールももうちょっとあいつらにガツンと言ってやりゃいいんだ。そうすればロリコン疑惑も消えてなくなるぜ」

 松平は、僕と最初に会った公園――セキレイ公園――のところまでくると「じゃあな」と言って最後にクーパーの頭を撫でた。彼の家は製材所をやっていて、セキレイ公園のすぐ真向かいだった。それでおがくずなんかを拾い集めている時に、僕が神妙な顔つきで電信柱に隠れているのが見えたのだそうだ。

「ありがとう、クーパー」

 前をゆく茶色いでっかな犬に、僕はそっとお礼を言った。うまくいえないけど、とにかくそういう気分だった。もしクーパーが棒杭を力づくで引っこ抜いてなかったとしたら――僕が松平や井家くんと親しい口をきくことはなかっただろう。


 ところが、加藤さんちの前までいってみると、何か様子がおかしかった。どこがどうというわけではなかったけれど、なんとなくお庭が寂しそうというか。大きな花びらを散らしている薔薇や、枯れかかったクレマチス、しょんぼりしている鉄砲百合……そして家自体が何か月も人が住んでいなかったかのようにひっそりとしている。

(まさか、松平の言うとおり、死……?)

 一瞬ぞっとした僕は、隣で大人しくお座りしているクーパーと顔を見合わせた。だが彼の無愛想なぶすっとした顔からは、何も読みとることはできない。

 僕は玄関のピンポンを何度も鳴らし、ドアを何度もどんどん叩いた。「かとうさん!かとうさん!」とおじいちゃんの名字を大きな声で叫んでもみた。だが応答はまったくない。こうなれば、残る手段はただひとつだ。


「おかあさーん!」

 クーパーとともに走って家へ帰ると、僕は息を切らしながら広い玄関に飛びこんだ。

「みずほ?あんた塾の時間……」

 のれんをくぐった母さんは、クーパーの姿を見るなりぎょっと目を大きくしている。

「みずほ。あんた、まさかこの犬……」

 クーパーは母さんにみなまで言わせなかった。何故なら彼は、ぴょんと玄関マットの上に飛びのると、母さんに何かを哀願するように飛びかかっていったからだ。

「いやっ!やめてっ!一体なんなのよ、この犬。なんていやらしい……」

 クーパーは腰くだけとなった母さんのことを押し倒し、その顔を隅から隅までベロベロなめた。上から降りてきた美月も、その光景を見て呆然としている。

「お、お兄ちゃん……」

 クーパーは美月の存在に気づくと、今度は彼女に向かって突進した。妹は二階へ逃れようとしたが、なんと!彼は器用に階段を上っていった。

「いやああっ!」

 バターンと何かが倒れる音がするとともに、じゃらじゃらという鎖の音が続いた。

「みずほ!早くなんとかしなさい!」

 母さんの金切り声を受けて、僕は急いで二階へ上った。そこでは、少女が土佐犬にレイプされかけており――というのはもちろん冗談だけど――僕はやっとの思いで妹からクーパーを引き離した。

 意外なことに妹は、最初は抵抗したものの、途中からはクーパーの愛撫を受け入れていたような節があった。でも美月はクーパーの興奮が納まってくると、プイと顔を背け、

「そんなえっちな犬、早くどっかへやっちゃって!」

 と怒ったように言った。


「つまり、そのいやらしい犬は加藤さんちの犬なのね?」

 クーパーの足の裏を雑巾で拭く僕を、母さんが怖い顔で見下ろす。

「うん、そう。でも加藤さんちへいったら誰もいないみたいなんだ。もし家の中で倒れてたりしたら、大変だと思って……もしかしたらクーパーはそのことを誰かに知らせたかったのかもしれないし」

「この犬がそんなにりこうだとは、母さんには思えないけどね」

 母さんに冷たい目で睨まれても、クーパーにはなんらひるむ様子はない。それどころか、一生懸命部屋中の匂いを臭いでまわっている。

「まさかとは思うけど、もしかして……」

 そのまさかだった。僕は急いでマガジンラックから新聞をとりだすと、それをクーパーのお尻の下に敷いた――間一髪。ボトリ、といい匂いのするうんちが落ちてくる。

「みずほ!早くその犬を外に追いだしなさい!庭の花壇のところにでも、鎖で縛りつけておけばいいでしょ!」

 母さんの癇癪玉が破裂した。本当はもう少しクーパーと室内で過ごしたかったのに……せめて父さんが帰ってくるまでは。


「ええ、そうなんです。うちの息子が偶然見つけまして、今うちの庭にいるんですよ。ええ……それはわかりますけど。はい……はい。ではよろしくお願いします」

 チン、と母さんが黒電話の受話器をおく。話の感じや母さんの表情なんかからすると、何かが芳しくないような雰囲気だった。

「加藤さん、二度目の脳梗塞でついきのう、お倒れになったんですって。今は意識不明の重体で、集中治療室のほうにいらっしゃるんだそうよ」

「そっか……そうなんだ」

 茶の間の窓からそっと庭をのぞき、どこか元気なくうなだれているクーパーを、僕はとても可哀想に思った。

「じゃあ、クーパーはどうなるの?」

 美月は、つい先日加藤さんからもらった紫陽花の花を一房、手にとっている。

「そうね」と母さんが溜息を着く。「町内会長さんの話だと、息子さんと連絡がとれるまで預かってほしいんですって」

「やった!」

 椅子から飛び上がらんばかりに僕はジャンプし、早速とばかり、プラスチックのいらない皿に夕飯のビーフシチューをかけた。もちろん僕が食べるわけではない。クーパーにやって元気をつけさせるためだ。

「あらあら。犬なんかにそんなにやっちゃ、みんなの食べる分がなくなっちゃうでしょ」

「べつにいいよ、僕。晩ごはん抜きでも」

 そうなのだ。僕は今日、クーパーのおかげでいいことがふたつもあった。ひとつ目は松平や井家くんと親しい口を聞けたこと。そしてふたつ目は塾をさぼることができたことだ。

「しょうがないわねえ、まったく」

 肩を竦めつつ母さんはテーブルに夕食の品を並べはじめ、クーパーにおまけとしてチキンナゲットを三つもくれた。

「ありがとう、母さん」

 僕は喜びながらベランダへでると、どこかふてぶてしい表情をしているクーパーに、そのとっても美味しいエサをあげた。


「ふうん、クーパーか。なんだかFBIの捜査官みたいな名前だな」

 その日、八時過ぎに帰宅した父さんが、窓から庭の犬を眺めてそう言った。

「えふびーあいって?」と美月が舌たらずな調子で聞く。

「FBIっていうのは、アメリカの連邦捜査局のことだよ」

 妹はあからさまに「あんたに聞いたんじゃないわ」という顔をしてるけど、僕はあえて気にしない。

「流石、みずほは物知りだな」

 父さんはスーツからパジャマに着替えると、ダイニングキッチンのテーブルに着いた。

 僕や美月は勉強をしてようとゲームをしていようと――とにかく父さんが帰ってくるなり、二階から先を競うように降りてきた。そしてその日あった事件やニュースのこと、父さんが記事にしたことなどを聞くのだ。

 といっても、これは僕たちが札幌から釧路へ越してきてからの習慣といったほうがいいかもしれない。札幌にいた頃は、父さんはほとんど僕たちが起きている間に帰宅したことはなかったからだ。そして夜中の十二時過ぎに帰ってきたにも関わらず、深夜の二時や三時に会社からの電話が鳴る、なんてこともしょっちゅうだった。

 ところが、釧路へ引っ越してくるなり――父さんは大体八時から九時の間に帰ってくることが多くなった。僕も母さんも美月も、そのことがとても嬉しかった。札幌にいた頃の父さんは、家にいてもほとんど半分眠っているような状態であることがあまりにも多かったからだ。



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