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第10章

 僕の父さんの甲斐幸一郎は、今から一年ほど前、五十七歳という若さで亡くなった。原因は一度手術した胃ガンが肺のほうにまで転移したことで、抗ガン剤の治療や民間療法、食事療法など、さまざまな治療を試してみたものの、あの太っていた体が最後には五十キロ代にまでなって亡くなった。

 父さんは母さんと僕たちに、多額の生命保険のお金や退職金などを残してくれたが、それ以上の大きなものを失った悲しみで、僕たち家族は打ちのめされた。

 母さんは父さんが亡くなったことを「馬鹿なこと」だと繰り返し言った。たとえば、こんなふうに。

「あの人が死んで、わたしが生きているだなんて、こんな馬鹿なことがあるかしら」

「あんたたち、よく聞きなさい。お金なんかいくらあったって、そんなことは馬鹿なことなのよ。父さんがもういないのに、こんなお金、いったい何に使えっていうの?」

「ああもう、本当に馬鹿みたいだわ。あの人、一体なんのためにこれまで、年金なんてかけていたのかしら?すべては老後のためじゃない。ふたりで旅行したり、美味しいもの食べたり……母さんひとりで外国にいって、いったい何が楽しいのよ?」

 僕が大学をやめてプロの漫画家になると言った時、母さんは発狂寸前だったが、父さんは何故かまったく反対しなかった。

「べつに、プロの漫画家になってやっていけなくなったとしても、それで人生が終わるわけじゃないだろ?母さんは心配しすぎなんだよ。みずほは中学と高校の六年間、どう見ても勉強のしすぎだった。それがもう嫌になったから、今度は自分の好きなことをしたいって言うんだ。やらせてやればいいじゃないか」

 母さんはそれでも「あとたったの二年じゃないの」とぶちぶち文句を言い続けたが、実際に僕が大学をやめて漫画家になってしまうと、それからは何も言わなくなった。ただ一言、

「みずほの漫画読んだけど、母さんにはさっぱりわからなかったわ」 と言う以外は。

 今時の親の常というもので、母さんは僕が小学生の時から高校を卒業するまで、そして今に至るまでも、僕の好む閉鎖的なカルチャーといったものにまったく関心を示したことがなかった。つまり、僕がゲームの『ファイナルファンタジー』や『ファイアーエムブレム』といったプレイステーション用ソフトを好きなことは知っていても、そのゲームが実際にどういった内容のゲームかについてはまったく知らない、といった具合に。

 べつに僕は母さんに僕の描く漫画の内容について理解して欲しいとはあまり思わないけど――というか、むしろわかってもらうことを絶望的に諦めてるといってもいいくらいだけど――自分に理解できないものを親戚や知人や友人に買ってくれと言ってまわるのはどうかと思う。まあそれが親心っていうものなのかもしれないけど。

 母さんは父さんを亡くしてからというもの、めっきり老けこんでいた。これでもし美月がお嫁さんになって家をでていったとしたら ――きっと空の巣症候群にでもなって、どうかしてしまうんじゃないかというくらい。

 まあ今のところ、美月が結婚する予定はないけど、心配性の彼女は美月が嫁へいっていなくなったあとひとりでどうしようかと、今からかなり心配しているみたいだった。僕にさえ、

「みずほ、父さんの遺産分けてあげるから、何か商売でもはじめてみない?」

 と本気で持ちかけるくらいなのだ。あの堅実な母さんがだ。つまりそうまでして長男の僕のことをなんとかして繋ぎ留めておきたいというわけだ。

 実際のところ、父さんを亡くしたばかりの時の母さんは――というか、この状態は今もまだ続いていたりするんだけど――オレオレ詐欺とかその手の類のものに、コロリと騙されてしまいそうな雰囲気だった。

「オレオレ、オレだよ。わかるだろ?」

 なんて父さんに似た声の人から電話がかかってきたら、

「本当にあなたなの?ええ、わかったわ。だってあなたの遺産ですもの……」

 とか、そんな感じで、指定された銀行口座にお金を振りこんでしまいそうな雰囲気、というか。もっとも本人は

「いくらなんでも、あたしだってそんなに馬鹿じゃないわよ」

 と言って否定してはいるけど。

 確かに母さんは僕の小さな頃から手に負えないガミガミ屋ではあったけど――あるふたつの点で僕は、自分の母親のことを大きく評価していた。

 まずひとつ目は、道徳的に高い水準を持つ女性だということ(母親としても、女としても)。そしてふたつ目は父さん以外の男に見向きもしなかったという点だ。

 もちろん、妹の美月とTVを見ていて、キムタクのことをカッコいいと言ったり、自分の好きな韓国人俳優のことをサマづけで呼んだりはする。でもそういうことではなくて、母さんは結婚してからはとにかく、父さん一筋だった。うまくいえないけど、そういうことって子供にはよくわかるものなのだ。べつにうちの父さんと母さんはアメリカのホームドラマよろしく、仲良く手をつないだりとかキスしたりとか、そんなことを子供の前でしたことはなかったけど ――ふたりは夫婦として、基本的な位置でいつも一致していた。そしてそういうふうにあることが至極自然で当たり前のことなのだと僕たちふたりの子供に思わせたこと――それはやはり凄いことだったのだと僕は思う。子供の頃はそれがあまりにも当たり前すぎて、どこの夫婦も自分たちの親みたいに平凡な感じなのだろうとしか、思ってはいなかったけど。

 そして美月は、そんな父さんと母さんの姿を見て成長し、最後の最後まで父さんから娘として深く愛されたため、結婚相手の理想が高かった。加えて、彼女は三年前に経験した失恋からもいまだに立ち直っておらず、世界のどこかにいるはずの、バカじゃない男と結婚したいと、口癖のようによく呟いている。

 美月は母さんから道徳観念の高さ――つまり、貞淑な妻としてのそれ――を遺伝的に受け継いでいるようなところがあり、実はそれが結婚を阻んでいる一番の理由ではないかと僕は見ている。

 確かに美月は兄貴の僕から見ても美人だし可愛いし料理もうまいしという妹ではあったけど、昔のおませでおきゃんな性格が、どこかへ消えてしまったみたいなのだ。

 妹はその後の人生の中で、対人関係などでつまずき、かなりのところ保守的で堅実な人間になってしまった。つまり、自分がそれで絶対に幸せになれるという保証を見たら結婚するタイプというのだろうか。そして大抵の良識ある人々は、こう思うことだろう――「そういう女性はどんなに美人でも、魅力がない」と。

 もし彼女が昔のおませでおきゃんな頃の自分をとり戻したら(あるいは思いだしたとしたら)、男なぞ長蛇の列をなして美月にひざまずくだろうと僕は思っている。

 美月に松平ことつばさちゃんのことを聞いたのは、つまりはそういう理由でだった。松平が結婚していても彼女持ちでも構わない―― また今現在独身でフリーだという可能性だってある――彼に、美月が昔はどんな女の子だったかということを、思いださせてほしいと思ったのだ。


 しかし、実際に電話の受話器をとる段になると、僕の手はアル中患者のように微かに震えた。もちろん電話をしてすぐに、彼がでると思っていたわけではない。少なくとも実家に両親がいることだけは間違いなかったので(彼の家は釧路で製材所をやっているから、そこがつぶれていない限りは)、息子さんが今どこに住んでるかということを聞きだそうと思っただけだった。

 でも一時間以上も電話台の前をいったりきたりした揚句――僕はやはり、思い出は思い出としてそのまま美しいものとしてとっておきたいような気がした。妹の美月が言っていたとおり、僕がプロの漫画家として売れはじめた頃、結構嫌な思いもしたのだ。しかも裏切った人間の多くは何故こいつが、と安心感を持っていた奴や、こいつにだけは、と信頼感を寄せていた奴ばかりだった。インターネットにひどい書きこみをしたのが高校時代の親友だったことが判明したこともある。

 そのことを考えると僕は――やはり最後のいい思い出を自分の手で壊したくないような、そんな気持ちになったのだ。


 スランプを脱したら、必ず結婚しようという約束を僕が真奈美とした日の夜――僕はこんな夢を見た。

 燕尾服をびしっと着こなした僕が、ウェディングドレス姿のマナミと、向かいあって食事をしているという夢だ。

 その家は何故か僕が小三と小四の二年間住んでいた、釧路のあの家で――僕はこの家の夢を、あれからよく見ていた――僕とマナミはダイニングキッチンのテーブルで、お互い眼差しを交わすこともなく、じっと下を向いて食事をしている。

 食事のメニューはコーンポタージュスープとコッペパン。結婚式にしては、ずい分質素な食事だ。でも僕がパンを裂き、スープにそれを浸して口許に持っていくと――そのパンは果たして、この世のものだろうかというくらい美味しかった。

 ガカッ!ベタフラどころの話ではなく、美食家の海原雄山もよもやこんなに美味しいものを食べたことはあるまいというくらいの、至上の味だった。しばらくの間、僕はマナミのことも忘れて食事に没頭したけど――不意に、とんとん、と腕のあたりを叩く者があった。

 そこで僕とマナミは同時に顔を上げ、初めて目と目を合わせた。 もう一度、とんとんと何者かが腕のあたりをつつく。マナミが白い長手袋をはめた手で指差した先には――クーパーがいた。

 彼は夢の中でも相変わらず不細工な、愛敬のある顔をしていて、僕が手に持っているパンをじっと見つめていた。

 久しぶりに再会したというのに、彼には元飼い主の僕より、食べ物のほうが大切なのだ。

 僕は篭の中から長方形のコッペパンを手にとると、それを裂いて、彼の口許へ持っていった。そして夢はそこで覚めた。


 目が覚めた時、僕は不思議な気持ちで満たされていた。昔はこんな感覚を味わうのが当たり前だったこともあるような気がするけど、なんだかよく思いだせないような、そんな不思議な感覚だ。

 そして何故こんな夢を見たのだろうと分析していく過程で――僕はこんなふうに思った。クーパーは、僕たちにとってかつて、家族も同然の存在だった。つまり真奈美が僕と結婚したとしたら、彼女は甲斐家の新しい家族となるわけで……クーパーは、マナミを新しい家族の一員として認めてもいいと、天国からメッセージを送ってきたのではないだろうか?

 そしてまるでそのことを証拠立てるように、かつての情熱が僕の身内にふつふつと煮えたぎってきた。

(――そうだ!僕がずっと待っていたのはこの感覚なんだ!)

 僕はベッドから起き上がると、いつものようにブラインドを上げず、薄暗い仕事部屋の机へと向かった。僕はスケッチブックを開くとそこに、次から次へとクーパーの絵を描いていった。正面、後ろ姿、右斜め横、あるいは左斜め横から見た姿などを……。

 僕はその日一日中、仄暗い室内のライトスタンドの下で、とり憑かれたように土佐犬の絵ばかりを何十枚となく描いていった。

 次の日には、漫画のネームづくりだ。早く描きたくてうずうずする。漫画のタイトルは『名犬クーパー』。不細工な土佐犬がドジで頭の悪い主人公を助けて、次々と難事件を解決していくという探偵ものだ。

 僕はそれから二週間ほどで第一話を描き上げ――細かい仕上げはアシスタントの後藤くんにやってもらう――第二話、第三話へととりかかった。僕の心の中で突如として、創作の惑星直列が起こったのだ。

 僕はトイレへいったり食事をしたり風呂へ入ったりするのも煩わしいと感じながら、睡眠時間を削ってとにかくペンを握り続けた。どうしてかわからないけど、描けば描くほどネタが浮かんでくる。こんなことは長い漫画家生活の中でも初めてのことだった。

 そして『名犬クーパー』の第一話が『マガジンボーイ』に掲載される頃――僕は真奈美と結婚していた。式はまだ挙げてはいないけど、籍だけ入れて一緒に暮らしはじめることにしたのだ。もちろん仕事と新居は別で、新居のほうは中の島ではなく平岸にある。 さらに嬉しいことに、名犬クーパーを読んだ平野と松平から、ともに電話がかかってきた。彼らは母さんから僕の仕事場の電話番号を聞き、そこにダイヤルしてくれたのだ。

「前からさあ、甲斐瑞穂っていう名前を見て、もしかしたらとは思ってたんだよ。でも小学生の頃の作風とは全然ちがうし、絵に面影もないから――まあよく考えてみたら当たり前なんだけど――偶然の一致だとばかり思ってたんだよな。平野?あいつからも電話かかってきたのか。うん、あいつは今釧路の末広のほうで居酒屋やってるみたいだ。俺も高校卒業してから、かれこれ五年は会ってないな。札幌にいるってどうして知らせなかったって?だってそれは……いや、細かいことは会って話そう。え?彼女はいるかって?いないよ、そんなの。なんでそんなこと聞くんだよ。ああ、それじゃ来週ススキノの『サヴォイ』で会おう。じゃあな」

 松平がまだ結婚もしておらず、彼女もいないと聞いた僕は、心の中でガッツポーズを決めた。彼は電話の中で、美月の話になると逸らしたがったけど――なんのことはない。昔とちがって太ったから、できれば彼女には会いたくないというのだ。

 本当は今日にでも彼に会いにいきたくて仕方ないくらいだったけど、何しろ入稿日は明日だ。でもこの修羅場をアシスタント三人とともに切り抜けてさえしてしまえば、懐かしい友との再会が待っている。

 僕は松平がどんなにしぶろうとも、一度は必ず美月と会わせるつもりだった。彼女はいまや、ヴィジュアルで人を判断しない、心の痛みというもののわかるレディに成長したから心配いらない、と。そして美月には、父さんが遺言でも言っていたとおり、男はハートで選べと言ってやるつもりだ。




   終わり               



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◇オリジナル小説サイト『天使の図書館』
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