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ソノヒガクルマデ

作者: Scrap511

「…何を考えている?」


 遠野幸雄は西園紗枝を引きずり倒した後に、そう呟いた。場所は都内高速道路の路側帯。2人のすぐ脇を時速80キロで自動車が次々と過ぎ去っていく。ヘッドライトが2人の顔を照らしては去り、また他の車の光が2人を照らす。


「止めないと…駄目じゃないですか」


 西園は周りの騒音に負けじと声を張り上げた。肩は小刻みに揺れ、息は荒い。


 その2人の前方では、一つの「それ」が悠々と走り去っていく。


 「それ」は、四肢と一つの頭を持つ人の形をしていたが、人ではない。花崗岩を思わせるような、ぼやけた白と黒の模様を全身に帯びており、足は明確に足の形をしているが、腕は体躯の割に異様に細く、おざなりに取り付けられたような印象を与える。


 そんな生き物なのか、物体なのか、判然としない「それ」が、路側帯をジョギングしていく。


「何で止める必要がある?」


「止めないと…事故の原因になったり…もし、あれが路側帯の外を走ったら大変じゃないですか!」


 路側帯の外はわずか数分の間に何十台もの車が往来していた。その1台、1台には当然ながら最低でも1人、人間が乗っている。


「無理だよ。西園」


 遠野は諦めきった声で、西園に声をかける。だが、その目つきに諦念の色は無く、真っ直ぐと西園を捉えていた。


「無理なんだ。私達には」


 遠野は念を押す様にはっきりとそう言い放つ。


 西園は自分たちのいる、このアスファルトとコンクリートで作られた屈強な道が、砂で出来た城のように頼りなく感じた。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 「LCDM<Local culture distribution map>」は2010年代に、北欧諸国で始まった。元々は各地域の方言の分布状況を把握するだけの地図であったが、のちにインターネット上で共有されるにつれ各地域の伝承や習慣、独特の様式の有無など、様々な情報が統合される。いわば文明の地図となったそれは、学術的研究のみに留まらず、観光振興や、社会サービスの提供方式に対しても有意に参考となる情報となった。


 このケースを元に、欧米や東南アジア各国でも「LCDM」の作成し国家的運用を始めるに至る。日本でも遅れる事2025年、「日本版LCDM」の作成が、文化科学省および観光庁、国土地理局の共同事業としてスタートする。


 しかしながら、統合する情報は過多を極めた。とりわけ地域伝承の分野では、村一つあれば、伝承が10や20は発掘されることが少なくない。それも日本書紀に記されるような、神話時代の伝承から、中世や近代に始まった物まで、時代や分類も様々だった。


 分類が複雑化する中、それを担当する部署、並びに部門に仕分けられる仕事も細分化され、やがて独立行政法人や民間団体の活用まで行われた。


「矢野弘樹記念研究所」もその一つだ。


 そんな折、西園紗枝は国土地理院関東測量課、東京25区測量部より矢野研究所への出向を命じられた。業務内容は、「LCDM作成における測量技術に関する支援」。だが実の所、体のいい厄介払いだと直ぐにわかった。


 矢野研究所は建物こそ立派だが、日中の昼間に人がいて、かつパソコンの電源が入れられた部屋は一つしかない。そしてそのパソコンが起動しているのは、コンピューターゲーム。その画面を男が退屈そうに見つめている。


「あの…」


「今の当たっただろ。バグかよ…くそ」


 男は西園に構わず、パソコンに向かって恨めしそうにそう呟いた。


 これが遠野幸雄との出会いである。


 その後、西園は研究所所長である滝沢直人と面会する。滝沢は仕事に対する自信に満ち溢れた中年男性に見えたが、直ぐにそれが単なる虚勢に過ぎないとわかった。滝沢は良く苦労話をするのだが、その内容が大学受験の事しかない。


「私は地元では麒麟児と呼ばれていたが、いざ東京に出てみると私と同じレベルの人間はざらにいた。大きく絶望したよ。私も若かったね。それで…」


 ちなみに滝沢の言う、東京とは。東京大学の事を指す。滝沢にとっては、東京大学こそ東京であり。それ以外は蔑んでいるらしかった。その後、テンプレート通り官僚になったようだが、それから矢野研究所に配属された間の事は何も言わない。東大合格のみが、人生の成功点らしい。


 西園は苦笑するしかなかった。そしていつしか苦笑すらせず、能面のような顔で研究所に行き、書類を整理し、お茶を飲み、家に帰る日々を過ごす事となる。 


 2人の男は、仕事らしい仕事もせず、たまに書類を真剣そうな顔で見つめ、時間になったら帰っていく。


 西園は思った。ここは人生の墓場だと。他の2人も人間ではない。墓場に巣食う、生ける亡者であると。そして、自分も亡者となると。


 そんな西園は決して、無能な人間では無かった。少なくとも、一般的な官僚と比べると能力や知識は頭二つほど飛び出ていた。問題はその事を、西園が十分すぎる程自覚していた事だ。要は自分の優秀さを正義とし、他の人間のミスを無能と断じた。もちろん、面と向かって言ったわけではない。だが、周りへの人当たりの悪さは、それを雄弁に語っていた。


 傲慢な女。怠惰な男。羨望の中年。7つの大罪のうち、3つが集まり、矢野研究所を体面だけ回している。


 その矢野研究所がLCDMにおける『どの分野』の伝承を担当しているのか、西園が知るには、配属から半年を要する事になる。月日は春を終え、夏を追い出し、秋に差し掛かっていた。


「遠野君、ちょっとこれ見てもらっていい?」


 珍しく、滝沢が遠野を自分の机まで呼んだ。西園はこの2人が会話するところを目にしたことが殆どない。2人共、仕事時間中は自分の世界に閉じこもり、時間が終わればバラバラに帰っていく。


「これは?」


 遠野が滝沢の机の写真に一瞥くれそう尋ねると、滝沢は「首都高、練馬から江古田までの区間」とだけ答えた。遠野はしばし想起の後に答えた。


「昔、そこを調べた事がありましたね」

「うん。私も覚えているよ。結局収穫無しだったことも…」

「でも、こんな写真があるなら」

「やっぱり、何かあるんだろうね」


 無能2人が何をかしこまっているのやら。


 そう思いつつも西園は、2人のやり取りが気になり、机の写真を目にした。なんてことは無い、タンクローリーの写真だ。すぐ横には、高速道路の防音壁が見える。路肩に停車した写真らしい。


「何これ?」


 よくよく目を凝らせば、タンクローリーには穴が開いていた。丁度、タンクローリーのど真ん中を抉る穴。穴と言うが、丸くは無く、人の形をしている。


 西園の脳裏に、昔見たアメリカ製のアニメがチラついた。ダチョウを捕まえようとするコヨーテ。だが勢い余って崖から落ちて、地面にコヨーテの形の穴が開く。


 タンクローリーの穴は、そんな感じに付けられたように思えた。


「遠野君、出張頼む。といっても近場だけど」

「わかりました。調査期間は?」

「今回は物損が出ているし、念入りに。とは言っても深入りせず。2週間ぐらいかな」

「わかりました。このタンクローリーは何処に?」

「練馬署で保管されているらしい。警察の鑑識は終わっている」

「鑑識だけじゃあ。不十分でしょう。科学調査の手配を」

「既に佐用町の方には声をかけた。どれほどの事がわかるかは保証できないと言っていたが」

「無理も無いでしょう」


 そう言って遠野が自分の席に戻ろうとしたところで、写真を覗き込んだ西園に気が付く。


「彼女も連れて行きますか?」


 遠野がそう滝沢に声をかけると、滝沢の顔は曇った。


「彼女は国土地理局からの借り物だよ。あまり危険な場所に連れ込むのは…」

「お言葉ですが」


 西園はそう滝沢の言葉を遮ると、捲し立てるように聞いた。


「何の調査かはよく存じませぬが、これでも一般的な科学知識は持ち合わせているつもりです。連れて行っても迷惑にならないと思いますが」


 文面にすれば謙遜した言い回しだが、声は明らかに私に黙って何かをするのは許せないと言った調子だ。


「…科学と言ってもだねぇ。そういうのが、あまり役に立つ相手ではないんだよなぁ」

「いいじゃないですか。連れて行きましょう。どの道、ここで働くには、遅かれ早かれ触れる話です」


 今日の遠野はよく喋る。西園は単純に、そう思った。


「それで、どんな調査なんですか?」


 遠野と滝沢は、困ったように顔を見合わせる。


「困ったねぇ。はっきり言って、この調査対象には正式名称なんて存在しないんだから」


 遠野は「言えるとすれば」と前置きし。


「まぁ、LCDM上の分類でいうなら…フォークロアかな?」


 そう自分に尋ねるように言った。




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 フォークロアとは民俗学、伝承学を指す単語であったが、近年では都市伝説を指す言葉として、一般化している。遠野が言ったフォークロアも、都市伝説を指していた。


 都市伝説という言葉自体、非常にあいまいな概念であるが、辞書にその言葉の意味を託すならば「口伝される伝承のうち、現代由来の物で、かつ根拠があいまいなもの」とされる。


 「浦安のテーマ―パークの地下施設」や「死体処理のアルバイト」など、一口に都市伝説と言っても、様々な物が存在しており、また社会を通じて誕生していく。


 ここまでが、一般的な都市伝説の取り扱いであるが、社会学者であり近代最高のオカルト学者あった矢野弘樹はこう提言した。


『古事記、または日本書紀に描かれた伝承、あるいは神話が歴史としての出来事を神格化、擬人化したのであるのなら、都市伝説に置いても同じ事が起きてもおかしくは無い』


 そしてこう続けた。


『いや。そもそも、あり得ない出来事。起こるはずの無い物事を全て、神格化、擬人化と判ずることに現代社会の。いや、人類の限界が存在する。未知は確かにあるのだ』


 第2次世界大戦敗戦後、神秘学、呪術学を否定した日本に置いても、その残証は存在している。形は縮小されたが、矢野弘樹記念研究所として。その職員である遠野は、車を走らせながら西園に向かって話を始める。


 話の始まりは都市伝説の定型句だ。『これはある人が、知り合いの知り合いから聞いた話なのだが』


「深夜に首都高第3路を江古田に向かって走っていると、路側帯をジョギングしている人に気が付いた。高速道路だから、当然人が入り込める場所ではない。危ないなと思いつつ、その人間に目をやるが、ぼやけていて良く見えない。ちょうど、モザイクがかかっているようにぼやけて見える。それが車に構わず、悠々とジョギングしていた」

「…なんなんです?それ」

「ジョギングマンだよ」

「は?」

「ジョギングマンっていう都市伝説。それをこれから調べる」

「それがあの写真と何の関係が?」

「あのタンクローリーが見つかったのは、ジョギングマンの出現地点と同じだ」

「ジョギングマンがタンクローリーを壊したと?」

「関連性はあるだろう」

「あるわけないでしょう」


 車は練馬警察署の駐車場に入る。署内の受付で、遠野は自分の名刺を渡すと、直ぐに押収品のタンクローリーの前まで案内された。その前には大柄な制服警官が仁王立ちで立っている。


「どうも、練馬署の飯島です」


 そして、明らかに不愉快そうな顔と声で、2人を出迎えた。


「矢野弘明記念研究所の遠野です。例の車両は?」


 飯島は無言で自分の後ろを親指で指し示した。


 遠野は無言で写真を撮り、西園はその異様を無言で受け入れていた。


 タンクローリーに空いた人型の穴は、一台分を丸々貫通していた。


「この車両の発見時の状況を伺っても?」


 遠野がそう言うと、飯島はふてぶてしく淡々と状況を説明した。


 このタンクローリーを運転していたドライバーは、運転中に異音を感じて、路側帯に停車した。運転手曰く、載せている物がガソリンなだけに、不安になっていったん停車する事にしたそうだ。


 とは言え、高速道路上で車を降りて調べるわけにもいかない。一方、配送時間は差し迫っている。どうした物かと、途方に暮れているうちに、前から白いウェアーを着た人間が、ジョギングしているのを見つけ。


「幽霊みたいにタンクローリーを通過したと思ったら、ガソリンの臭いに気づき、窓から車外を見ると、積載していたガソリンが漏れだして、直ぐに110番通報したそうです。我々が現場確認に向かった時には、路側帯はガソリンまみれでした」


 そのガソリンの池の中にあったのが、この人型にえぐれたタンクローリーだそうだ。


「その運転手と話は出来ますか?」

「もうとっくに自宅に帰しましたよ。九州の方に住んでいるそうです」


 西園が口を挟む。


「でも…事故ですよね。過失の有無とかは調べないと…」

「過失?過失って!」


 飯島は声を荒げた。


「過失認定の取り様がありませんよ!こんな事故車両なんて見たことが無い!もちろん運転手の話を信用しているわけじゃありませんがね。鑑識も、科捜研も事故原因について何もわかりはしない。おまけに署内じゃ緘口令までしかれてる」


 飯島は遠野に詰め寄る。


「なぁ?一体これは何なんだ?総監直々に、お宅らの調査協力を要請されているんだ。あんたら、何か知っているんじゃないのか?」


 飯島は何もわからないこの状況にイラついているのか、声を張り上げた。遠野は首を傾げ思案したのち、きっぱりと言い放つ。


「私達にもわかりません。ただ、これがあるとしか」

「俺達に言えない類の話なのか?」

「いえ、本当にわからないんです」


 飯島ははぐらかされているのか、それとも本気でそう言っているのか判然としないまま、不躾に捜査書類を西園に渡し、そのままズシズシと署内に戻って行った。


「嫌な警官ですね」


 西園は警官の背中を鋭く一瞥した後、渡された書類に目を向ける。書類の束は、国語図鑑ほどの厚みにまで束ねられていた。


「あれが普通の人間の反応だ。自分の理解の越えた物があれば、誰だってビビる。警官は舐められたらお終いだからね。ああして、ビビッてる事を隠しているのだろう」


 そんな事はどうでもいいとばかりに、飯島は人型の穴を覗き込んでいた。


「凄いな。ここから運転席の中まで見える」

「まぁ、穴が開いてますからね」

「身長は165センチくらいか…。もう少し背が高かったら、運転手に触れていただろうな」




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 調査より1週間。といっても、この1週間のうち、遠野が出かけたのはタンクローリーの確認の一回のみ。あとは飯島が渡した、書類に目を通すのに費やした。


 一方、タンクローリーは兵庫県佐用町にある分子工学研究所に運びこまれ、放射光測定を含むあらゆる検証が行われた。その検証結果もまた膨大な書類となったが、文末に添えられた文言がその全てを物語っていた。


『ありとあらゆる検証を行いましたが、タンクローリーの穴を科学的に説明するには至りませんでした。断面の状態から言って、この穴は、切断されたわけでも、溶解したわけでもなく、穴の部分を埋めていた物質は「最初から存在しなかった」としか言いようがありません。お力になれず申し訳ない』


「駄目だな。これを読んでもわからない」


 遠野は警察からの書類から目をあげて、目頭を押さえた。西園は分子工学研究所の、結果に目を通しているが、最後の文言を見るまでも無く、何もわからない事は理解できた。


「一体何なんですか?これ」

「だから、ジョギングマンだろ?」

「何なんですか?ジョギングマンって」

「わからない。噂話じゃ、こんな出来事の事は触れてないんだけどねぇ」


 西園は書類を閉じた。


「この研究所の目的が、こうした特異な現象の調査だという事はわかりました。でも、何もわからず、対策の取り様も無いのなら、調査の意味がないのでは?」

「意味ならあるさ。少なくとも、この出来事はまた書類にして倉庫に仕舞うことが出来る」

「それに何の意味が?」

「我々がこれらの存在を把握する事に意味がある。例え、これらに首輪を付けて、従わせることが出来なくても」


 事務所のドアが開かれた。


「いやぁ、ただいま。ただいま。飛行機があるとは言え、遠いねぇ。九州は。いやぁ、疲れた疲れた」


 所長の滝沢だった。タンクローリーの運転手の話を聞きに、滝沢自らが宮崎まで赴いた。とは言え、気分転換の旅行も兼ねていたようで、両手に土産物を詰めた紙袋を持って、満足げに自分の椅子に座った。


「所長、収穫は?」


 滝沢は満面の笑みで首を横に振る。


「ない。確かにジョギングマンらしき人物の姿は見たようだが。それ以上の話は無かったよ。警察の調書に書いてある通りだった」


 そう言って、紙袋から箱を取り出し、中に入っている饅頭に喰らい付く。


「実際現場を確認しないのですか?」


 西園は棘のある喋りで2人にそう聞く。遠野はその声に不快さを出す事も無く、淡々と答える。


「実を言うと、ジョギングマンの調査はこれで2回目だ。1回目は2年前。首都公団が件の区間の舗装整備中に、ジョギングマンの姿を目撃したという情報が入った」

「作業員は32人がいて、全員がそれを目撃したという証言も取れた。もぐもぐ」

「だが、いざ我々が調査してみても一向に姿を現さない。無人カメラ、遠距離からの望遠撮影、サーモグラフィー。視覚だけでなく集音マイクやモーションセンサーまで使ったが、一度も現れなかった」

「もぐもぐ。どうも出現には条件があるらしいが、その条件もわからず仕舞い。2か月粘ったが、予算が尽きて、存在不明とした」

「その後も目撃例はあるにはあったが、追いかけても無駄と放置していた」


 西園は呆れた顔で2人を見る。


「つまり、諦めたと」

「あの当時、出来る事は全部やった。だが、今回は物証がある。これからジョギングマンの存在を証明できると思ったが…一体何なのかわからない」


 遠野は両手を掲げ、お手上げと示す。


「まぁ、いいんじゃない。今回、ジョギングマンの知られざる特性について知ることが出来たんだから」

「噂話から、てっきり無害と私は思っていたんですが」

「この手合いが、私達の都合のいいように出来ているわけがないよ。存在する事自体、有害だね」

「まぁ、そりゃそうですね。調査は打ち切りましょう」

「ちょっと待ってください!」


 西園が声をあげた。


「せっかく、仕事らしい仕事と期待したのに。何も得る事無く、わからなかったで終わらせるんですか?」


 遠野はうんざりとした様子で答える。


「仕方ないだろう。調べても逆にわからない事が増えるのも珍しくない」

「そうそう、世の中には人知を超えた存在がある。それがわかっただけでも良しとしようじゃないか」


 西園は失望した。この調査を機に、この矢野研究所を見直しはじめていたのだ。


 まるで海外の怪奇ドラマの登場人物になった気分でいた。周りから変人部署と陰口を言われながらも、その実、未知の脅威に勇気と知恵を持って、正体を解き明かす。そんなドラマ。


 だが、矢野研究所はやはり矢野研究所だった。自らの存在理由たる未知の事象の調査にさえ、判明するかどうかわからないからやめにしようという姿勢では、人生の墓場以下だ。


「私は現場に向かいます。何かわかるかもしれません」

「あはは。無駄だよ西園君。おやつにしよう。おまんじゅうおいしいよ」


 滝沢の差し出したまんじゅうを目にも入れず、西園は研究所を出て、問題の高速道路に向かった。




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 現場調査1日目、練馬入り口から、江古田出口まで自動車で往復。一日で8時間、総距離700キロを走りぬいたが、収穫無し。


 現場調査2日目、今度はタンクローリーが停車していた時間帯に3時間走ってみたが、収穫無し。


 現場調査3日目、道交法違反と知りつつも、タンクローリーの停車した位置に2時間停車。本当は昨日同様、3時間粘るつもりでいたが、警察に通報されたため断念。駆けつけたのが事情を知る練馬署の飯島だったおかげで、違反切符は免除された。収穫無し。


 現場調査4日目、時間帯に拘らずとにかく走り続ける。13時間トイレを我慢していたため具合を悪くし途中で断念。収穫無し。


 現場調査5日目。


 調べると息巻いてみたものの、西園の疲労はピークに達していた。練馬で入り、江古田で降りて、一般道路を行き、また練馬で入る。何度も繰り返し、同じ道を走るだけの日々。ハンドルを握る腕にだるさを感じる。


 その上、レギュラー満タンをこの数日で3回も空にした。いよいよ、出費も痛みを帯びだしている。

そして肝心のジョギングマンは一向に出てこない。


 西園は半ば投げやりに、夕暮れの高速道路を走っていた。疲労に負けて事故を起こさないようにはしていたが、路側帯への注意は散漫となっている。


 それよりも2台先を走るベンツがうっとおしかった。随分とゆったり走っている。早く行け。私はまだまだ、この道を走らなければならないんだ。


 そう思った時、視界の隅にちらっと白い影を感じた。路側帯を見る。だが、何もいない。期待しているせいか、何もないのに見えたような気がしたのだろうか。また視線を車の先に戻す。相変わらず、ベンツが悠々と走っている。運転手は中年らしい。どうせ、滝沢みたいな、学歴だけが自慢で、車を高速で走らせる事も出来ない無能か。


 また、ちらっと見えた。今度はさっきよりもはっきりと。だが視線を集中させると何もない。いや、居なくなってしまうのか。


 今度は意識して視線をベンツに戻し、頭の中を滝沢と遠野への罵詈雑言で埋め尽くす。路側帯につい意識が行くが、あの2人への無能さを数えていると、やがてむかつきを覚え、路側帯への注意が散漫となる。


 その時、また見えた。視界の隅にある路側帯に、白い靄がある。この先を走っている。


 西園はその靄を直視しない様に、視界の隅に入れたまま走り続けた。そうするうちに、西園の車は白い靄に接近し、近づく度に段々と輪郭をはっきりとさせていく。


 もう直ぐ、その靄を通り越す。その時、西園は白に黒い斑点をちりばめた、人型の謎の存在をはっきりと視認した。思わず視線を、存在に向けるが、それは消える事無く、路側帯を悠々と走っている。


「見ようとするから、見えないんだ」


 タンクローリーの運転手は、車をどうしようか思案していて、目の前に迫ってくるもやにまで気が向かなかった。そして視界に入れた時すでに、直視しても消えないほど近い距離にいた。


 きっと首都公団の作業員たちも同じだろう。路側帯など気にせず、自分たちの仕事に集中していた。その中で、知らず知らずのうちに接近してきたあの人型を見てしまったのだ。


 この道路を走る一部の人間しか見えないのも納得がいく。あれを見た人間は、きっと疲れた状態で運転していたのだろう。事故を起こさないように、前の車は見れど、何も通る事の無い路側帯にまで注意は注げなかった。だから、視界の隅に浮かぶ人型を直視しないまま接近した。


 出現条件がわかった。私の勝ちだ。


 西園は江古田で、車を一般道に乗せると、コンビニの駐車場に止め、矢野研究所に電話を入れた。


「はい、こちらは矢野弘樹記念研究所。遠野がお伺いします」

「遠野さん!やりました!」

「は?」

「見ましたよ、ジョギングマンを。出現条件もわかりました!これで対策も…」

「その話、明日じゃなきゃダメ?」

「え?」

「時間見ろよ。もう定時だ」


 時刻は18時。矢野研究所はお終いの時間。


「明日は土曜です」

「じゃぁ、来週でいいよ。話を聞かせてくれ」

「あの…」

「じゃっ!またな」


 そう言って電話は切られた。


 着任したばかりの新人が大金星を挙げたというのに、このそっけない態度。いや、もしかしたら嫉妬しているのかもしれない。自分達のお株をとられたのだから。


 西園紗枝は笑った。来週、悔しがるであろう2人の男を目に浮かべながら。


 だが、その笑みも直ぐに消えた。


 追い求めていたとはいえ、見つけ出すと意気込んだとは言え、今日西園が見た物は、間違いなく、この世に存在するはずの無い物。西園の知る世界にあってはならない物だった。


「…何なのよ、あれ」


 ハンドルに頭を預け、西園は考える。しかし考えた所で、出てくるのは形容しがたい、未知への恐怖だけだった。


 喜ぶべきはずが、酷く心細かった。目の前にあるコンビニからは女の子の手を引いた女性が出てくる。気にも留めない様な日常。その日常が広がる車外には、間違いなく理解できない物も同居している。


 西園紗枝を襲った恐怖が、やがて焦燥に変わるまでに然程の時間は要さなかった。


 あんなものが、あんた所を走っていて、いいはずがない。


 その日の夜、西園は再び練馬入り口に、車を走らせた。




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 西園の行動は単純だった。あの高速道路を走行し、発見した手順でジョギングマンを出現させると路側帯に車を止める。


 彼女は車を降りるとジョギングマンを追って、走り始めた。ジョギングマンの走る速さは、然程早くなく、西園でも追いつくことが出来た。


 西園は声をかけたり、その動きをつぶさに観察してみたが、ジョギングマンは彼女には構わず、ただ路側帯を走り続ける。自分の理解の範疇を越えた状態は変わらなかった。


 西園はふと、思い立ってジョギングマンの前に飛び出た。止まるのではないかと。


 その時、いつの間にか後ろを走っていた遠野に思いっ切り引きずり倒されたのだ。


「なんであそこに居るってわかったんですか?」


 西園は高速道路から遠野に先導されるまま、江古田を降りてすぐのファミリーレストランに入る事となった。訪れる客も少ない、深夜、その店のボックス席で遠野と対峙する。


「実は、ずっと付けていた」

「何時から?」

「五日前から、ず~っと」

「でも、今日研究所で電話を…」

「今日、所長は一日外出していて、私もあなたの張り込みだ。だから研究所への電話は、私の携帯に転送するようにしていた」


 遠野の説明を聞いて、西園はホッとしたやら、呆れたやら、崩れるように背もたれに寄りかかった。


「もしかして、遠野さんも見たんですか?ジョギングマン」

「あぁ。2日目ぐらいにカラクリがわかった。あれじゃぁ、どんな調査機器を使ってもわからないわけだな」

「そうか…。遠野さんは私の車に集中していたから、直ぐ仕組みに気が付いたんですね」

「いや…ちがう」


 遠野は一枚、書類を取り出した。そこには「登園岬の幽霊」と題字がなされている。


「ジョギングマンと全く同じ特性を持つ存在を、以前調査していたんだ。確か、去年の事だったか。2年前は、視界の隅で徐々に実体化する存在があるなんて知らなかったから、調査を打ち切ってしまったが、順序が逆だったら、2年前に姿を捉えていただろう」


 登園岬の幽霊。M県S市の観光名所である登園岬にまつわる都市伝説。ある人の知り合いの知り合いが、切り立ったがけから成る海岸線の端に立っていると、他の崖からウェディングドレスを着た花嫁が海に身投げする姿を見てしまう。だが、崖下を見ても落ちた人間などいない。そのような話だった。


「私と所長が見た登園岬の幽霊も実体として捉えると、ジョギングマンと同じような形をしていた。恐らく同種なんだろう。もっとも、ジョギングはしていなくて、同じところから何度も何度も落っこちていた。紐無しバンジーマンだな」

「…他にもいるって」


 西園の顔は青ざめていた。感情は恐怖を通り越して、不愉快さを孕んでいた。一体、何故あんなものが存在するのか。何が目的なのか。何をしようとしているのか。それらが一切、わからない事が不愉快だった。この不愉快な居心地の悪さが、また恐怖を沸き起こす。


「ちなみに同様の特性を持つ物は、都市伝説の中から35体確認している。登園岬の幽霊の仕組みがわかってから、似たようなケースを調査した。ただ、ジョギングマンだけは対象外だった。あんな人目のある道路にも表れるとは思わなかったから、端から除外していた」

「それだけ該当例があるのなら、あれの正体はわかっているんですよね?」


 西園は乞うように遠野に問いかける。他にもいる事は、恐ろしい事だが、同時にそれだけ居るとわかれば、どんな物か把握しているという希望でもある。


 しかし、遠野は西園の希望を吹き消す様に、ため息をついた。


「私達、矢野弘樹記念研究所の目的は、存在の調査で、特定ではないんだ」

「…何もわからないんですね」

「あぁ。今の私達では、あのような存在に立ち向かえるだけの技術や知識が無い。あらゆる角度で調べても、何一つ腑に落ちる説明が出来ないんだ。ただ居る以上は、書き残しておくほかない。この謎は、未来に託す」


 最早、今の人類に、存在するはずの無い物が存在する恐怖に抗う術は無い。だが、何時か、誰かが、この謎を解く日が来る。


 その時を信じて、存在を調査し、保管する。矢野弘樹記念研究所は、全ての存在するはずの無い物を網羅する。


「私は、違うと思います。きっと、ジョギングマンを消す方法があると思います」

「深入りするな。今回の調査で、あれに触れた物体がどうなるかは十分理解できたはずだ。君の体一つで、どうにかできる代物じゃない」


 西園は、あの路側帯でジョギングマンと対峙した。両手を広げ、その走行を止めようとした。そんな事をして、ただでは済まないとわかっていた。だが、何もできないと言う恐怖が、ジョギングマンに触れる恐怖を上回っていた。


「遠野さんは怖くないんですか?私達は何もできないんですよ。あんなおかしなものが存在しているのに…打ち勝とうとは思わないんですか?」


 遠野は首を横に振る。


「あれに打ち勝とうと考える時点で、あなたは恐怖に取り込まれている。あり得無い物が存在するなんて確かに怖い。だが、恐怖に突き動かされるまま、術も無いのに立ち向かおうとするのは、恐怖を乗り越えようとする歩みに見えて、その実、恐怖に足を取られているに過ぎないと私は思う」


 遠野はため息を一つ突く。


 西園の想いは、遠野自身も持っている。不可解な存在を消し、世界を自分の知る真面な形に変える日を夢想する事もある。だから、恐怖を目の前にして、あえて怠惰に振る舞う、心細さはよく知っている。それをする位ならば、狂ったように行動もしたくなる。


 しかし、遠野幸雄は勇気を持って、何もしない。


「受け入れろ。どうしようも出来ない事は、あるんだ」


 西園はその言葉を、釈然としないまま、受け取るほかなかった。


 今のところは。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 週明けを持って、ジョギングマンの調査期間は終了となった。


 本件は、『登園岬の幽霊』と同じタイプの存在による事象と判断。他のケース同様、その動向を定期的に観察し、特別な変化があれば、また調査を行う。また、存在に触れた物証の状況から、直接的接触は厳禁とする。


 ジョギングマンは書類として、矢野研究所に保管される事となる。次にこの書類を誰かが目を通す時は、この存在の解消が約束された時となるのだろうか。それとも、このまま永遠に保管され続けるのだろうか。


「遠野君、おはよう」

「おはようございます。所長」

「一人で大変だねぇ。国も予算をもっとくれれば、人も増やせるんだけど…」

「仕方ないでしょう。政府がお化けや妖怪の類を調べているなんて、大事に出来ませんから」

「あぁ、そうだね」

「所で西園はまだですか?」


 遠野の声に滝沢は首を傾げる。


「西…園?」

「ほら、国土地理局から出向してきたあの性格悪そうな女」

「何を言っているんだね?遠野君」


 所長がボケた。


 いや、そんなことは無い。何時もの所長だ。それに無意味な嘘や冗談を言う人間でもない。


 遠野は、事務所に向かう。事務所には元々、2つしか机が無かったが、西園用に1つ机を追加していた。もう半年以上も、同じ部屋で仕事をしている。卓上のペンケースに猫のキャラクターが描かれている事も、はっきり覚えている。


「馬鹿な」


 西園の机が無い。事務所の中は西園が来る前の状態に戻っている。


 次に遠野は携帯を見た。先週の通話記録には、西園の番号が残されているはずだ。だが、その時間、誰かと連絡を取った履歴すらない。


 狐につままれたような心地で、遠野は自分の机に座る。


 西園が居なくなった。それも失踪したわけではない。机も、携帯の履歴も、滝沢所長の脳裏からも、完全に消失している。


まさか。


 遠野は分子工学研究所の検証結果を取り出した。末文にはこうある。


『穴の部分を埋めていた物質は「最初から存在しなかった」としか言いようがありません』

「あの馬鹿野郎。立ち向かったのか」


 深入りするなと言ったのに、西園はジョギングマンに触れてしまったのか。


 確かに西園は人の話を素直に聞くタイプではないと遠野は思った。プライドが高く、高慢で、きっと今まで通り、ジョギングマンも何とかできる問題だと考えたのか。


 あるいは恐怖のあまり、すでに正常な判断能力を失っていたのかもしれない。一緒に調査を行っていたのだから、西園が自分の行動の結果を理解できないはずは無い。それを忘れる程、正気を失っていたのか。


 いずれかは、わからない。


 ただ、西園紗枝は、最初から存在しなかったことになっている。


 遠野はペンを握る。


 取り出した検証結果の書類の裏に、西園紗枝について覚えている事をすべて書き入れた。忘却は遠野の脳裏にも及び始めている。書き出しつつも、思い出せることがどんどん少なくなっていく。


「例え私があなたを忘れてしまっても、何時か、誰かが、あなたを立証する日が必ず来るはずだ。その日が来るまで、私はあなたを保管する」


 西園紗枝。消えてしまったあるはずの存在は、存在しないはずの存在と同じファイルに綴じられ保管された。


 それが諦めなかった西園へ、諦めた遠野が出来る唯一の手向け。


 矢野弘樹記念研究所は、西園を欠くしたまま、情報が来れば、また『何か』の調査を行う。ただ、彼らに『何か』を制する力は無い。『未知なるものは存在する』。それを立証するのみ。


 誰かが救ってくれることを待ちわびながら。


<了>


あとがき:『作品同様、面倒くさい事は誰かにやらせる』という方針で、自分の兄に書かせたあとがき


Scrap511の兄です。

弟から「あとがき面倒くさいから書け」と言われました。

その上、書くべき項目まで指定されています。

このバカ殴っていいですか?


矢野弘樹記念研究所:弟の自堕落な精神性が反映された研究所。「集めるけど、何もしない。解決は将来の子孫に任せる」とか、どんな放射能保管施設だよ。人気が欲しいなら、研究員は皆十代のかわいい女の子にして、魔法とか使って幽霊殴る話にした方が、よっぽど人気も出るだろうに。


遠野幸雄:読んだ感想としては、まぁ言っている事はかっこいいけど、要は「なにもしない」でしょ?って感じ。弟は否定しているけど、こいつのモデルは弟自身だ。あいつは何時も面倒な事があると、聞こえのいい言い訳ばかりで、結局何もしない。いつもそうだ。


西園紗枝:弟の書く小説では、女性キャラクターが大体酷い目に会うので、冒頭を読んで「あぁ、この女は弟に殺されるんだな」と一発で見抜けた。「存在が消えた」も同じだ。弟はどうも、女性に対し何かの恨みか、被害妄想があるようだ。


滝沢直人:弟の中の東大出身者に対するイメージが反映されているらしい。完全に学歴コンプレックスです。ありがとうございました。


ジョギングマン:別に怖くない。弟は運動が嫌いで、ジョギングをする人たちが理解できないとか昔言っていた気がする。その普段の思考回路が、こんなキャラクターを生み出したのだろう。


今後について:作品紹介欄にCASE:173とあるが、弟曰く、またネタが浮かんだら同じ研究所を舞台にまた何か書くつもりらしい。話が地味すぎると言う今回の反省を生かして、次回は宇宙人とか、異能生存体とかと戦って、レーザーばんばん撃って、銀河を救う物語にするとか。

全く今回の話と別物だ。わざわざ連作にする必要も無いと思うが。


愛する弟について:いっぺん死ね(愛をこめて)。


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