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  まだ見ぬ君に 作者:苳子
第1章 脱出 6
 とっさに受け取ったそれは、ずしりと重かった。黒の服地とその縁取りが、あえかな月光にかすかに光る。
 目を凝らしてみれば、それは銀色だった。銀なら東葉、金なら西葉のもの。他にもいくつか大きな違いはあるかもしれないが、暗がりで、なおかつ畳まれた状態で見分けるには、手掛かりはそれくらいしかない。
 手にしたものの、どういうことか分からず顔を上げる。
 王太子はさらについてきた従者から靴も受け取った。その顔から先ほどの笑みは消え、落ち着いた冷徹さが戻っている。
「それに着替えていただこう。もうじき夜が明ける。女官姿の連れがあっては目立つ」
「――はい」
 青蘭は素直に首肯した。どちらの国の軍にも女性はいない。つまるところ男装ということになり、抵抗感がないわけではない。けれど今は非常時であり、王太子の指示に従うと決めたのは青蘭自身だ。
 王族の衣装と女官のそれを比較するまでもないが、あたりが明るくなれば目立つに違いない。
「一人で着替えられるか?」
「たぶん、できます」
 基本的な形に両国ともに大きな違いはない。ここには他に同性はいない。なんとか自力で着るしかない。ただの姫君育ちならそれすら難しいだろう。何度も入れ替わってきたおかげで、たいていのことは一人でもできる。それをあらためてありがたく思いながら、青蘭は服と軍靴を手に繁みの奥に身を隠した。


 男ものが身の丈にあうとは思っていなかったが、着替えてみればさほど不格好でもなかった。ただし靴は大きかったので、紐をきつく締めた。
 脱いだ女官の服は畳んで下生えの雑草の奥に押しこむ。その形跡を念入りに誤魔化す。多少のことでは見つからないはずだと確認し、一行のもとへ戻った。
 身なりを一変させて戻った青蘭を、王太子は検分するように眺め、数ヶ所直させると納得したように頷いた。
「近習見習いの予備だが、大きすぎることもなかったようだな――まぁ、それらしく見えないわけでもない、か。少々可愛らしすぎるきらいもあるが、これまでこういう見習いがいなかったわけでもなし、な」
 最後の言葉は背後に控える近衛たちに向けられたものらしく、忍び笑いが広がる。それを青蘭は少し意外な思いでみる。
 王太子が生真面目な性格だということは評判でも耳にしていたし、短い時間だが、これまでの出来事で、多少なりとも自分の目でも確かめた。もっと臣下を厳しく律しているような印象があった。それはあくまで思い込みに過ぎなかったらしい。
 皆、一応一歩下がって控えてはいるが、青蘭の男装姿には興味津々らしく、遠慮なく不躾な視線を向けてくる。これまでそんな目に曝されたことのない青蘭は、むっとしつつもいちいち睨みかえす気にもなれず、無表情を装っていた。
 よくよく考えれば、これまでの青蘭に対する王太子の態度は、この臣下たちと共通するものがある。正しくこの主にしてこの臣下あり、だ。
「無理をして男装しているようには見えんな。一応、見習坊やに見えんでもない。安心せよ」
「……はぁ」
 男装ではなく男に見えると云われて素直に安心して良いものか。青蘭は複雑な心境で、それでもひとまず応じる。気のないその声に、王太子は訝しむように眉を上げる。
「女に見えるようでは意味がなかろう。なにが不服だ」
「――」
 男装しているからといって、女には見えないといわれて喜ぶ女がいるとでも思っているのか。腹を立てるのも馬鹿らしくなり、かといってまともに受け答えする気にもなれず。
 青蘭はわざと大きなため息をつき、それから毅然と顔をあげた。
「ともかく、先を急ぎましょう」
「――ああ、そうだな」
 突然、余興の終わりを告げられて、珍しく王太子の方が気圧されたようだった。それでも圧倒した気にもなれず、青蘭はなんとも情けない気分で肩を落とした。
 


 依然、古道は森のなかに続いている。それでも森閑とした暗がりは徐々に薄れはじめ、ようやく長い夜が明けようとしている。   
 一行は行程を稼いでいるようだが、どこへ向かっているのか分からない。青蘭にはそれが順調なのかどうなのか判断のしようはない。
 騎乗する前に、腰当てと称するものを王太子から渡された。毛皮を柔らかくなめしたもので、腰から下げて文字通り臀部を守るものらしい。そのあまりに実用的な形状に、青蘭はさすがに言葉を失った。それはいかにも股から臀部にかけて守るという使用目的に、これ以上なく適しているように思われる。
 王太子はいかにも真面目で、青蘭の身を慮ってくれていることはその表情から知れた。実際、鎮痛剤を用いても痛みはじくじくと続いていて、腰当ての必要性は身をもって理解している。
 それにしても、それにしても、だ。
 王太子その人から、それの装備の仕方を伝授される青蘭を見守る近衛たちの視線は、どう考えても彼女に同情的だった。
 この場にいる誰も、まさか男装の麗人その人が、王太子の妻となるはずだった王女だとは思ってもいない。そう仕向けたのは青蘭自身だが、その“青蘭姫”と従姉妹同士だということは知らせているわけだ。血縁が近ければ、そこに妻となるはずだった女性の面影を重ねてみたりはしないものなのだろうか。
 確実に女扱いされていないことに、青蘭は複雑な思いだ。 
 もし、これが雪蘭と立場が逆だったならば――本当に自分が雪蘭で、雪蘭が青蘭だったなら、この王太子をこの上なく大切な従姉の夫として認められるだろうか。
 認めるも認めないも、問答無用の結婚には違いない。それでも、こうして人となりを知る機会を得れば、考えてしまう。
 相性の問題なのか、彼とのやり取りはむっとすることが多すぎる。一晩だけの短いかかわりで、もう何度そんな思いをしたか数えたくもないほどだ。
 それでも、雪蘭の“予感”が外れているとは思えない。そう思わせないものを、彼は確かに持っている。
 こんな事態が起こらなければ、今日という日に青蘭は彼の妻となっていたはずだった。それはそれで悪くはなかったかもしれないが、もはやこうなってしまっては過去の話だ。
「夜が明けてきたな」
 振り落とされようにしっかりしがみついているので、さほど大きな声を出さなくても話は通じる。それでも耳元で風が切れる。
「はい」
「――どこへ向かっているのか訊かぬのだな」
「きかない方がよいかと」
 ためらいなく答えると、青蘭の体を支える腕がぴくりと動いた。
「何故に」
「知らなければ答えようがありませんから」
 今の青蘭に分かることは何一つない。それならば、事態が明確になるまで、いっそ何も知らずにいた方がよいかもしれない。
 この先一人脱落し、万が一王太子と敵対する方の手に落ちることになったとしても、なにも知らなければ彼らを窮地に陥れようはない。
 逆にいずれ明らかになる事態が、青蘭と王太子の立場を敵対させるものであったなら、敵方との関わりは最小限にとどめておいた方が無難だ。
 王太子はふっと小さく息をつく。
 ちらりと目を上げれば、何とも微妙な形容しがたい笑みを浮かべている。まだ森は続き、暁はここまで届かない。ほの暗さの残る朝のなか、その顔はひどく険しいものだった。それと同時に、あの真鍮の絵姿に偽りはなかったのだと呑気な感慨を抱く。
「そなたは、なにをどこまで知っている?」
「先に云わせていただきますが、私と姫はこの事態にはなんのかかわりもありません」
「それは承知している。それ以外のことだ」
「必要だと思われることを」
 できるだけ表情を殺し、まっすぐに王太子の横顔を見据える。その視線を予想していたように、彼も冷やかな一瞥を寄こした。
「それは姫も同じか」
「はい」
 一瞬、視線が交叉する。
 目を眇めれば、彼は口の端をわずかにつり上げた。
「小憎らしい顔をする――頼もしい限りだがな」
「――」
 言葉を返そうとしたとき、急に強い力で抱き寄せられた。何事かと視線をめぐらせば、他の者たちも一斉に手綱を引いて馬を止めようとしている。驚いて前を見れば、ゆるやかな弧を描く古道の行く手に、武装した東葉軍の姿があった。
 急に静止させられ、いきりたつ愛馬の首筋を叩いてやりながら、彼は低く呟いた。
「ようやくのお出ましか――」
 言葉と同時に浮かんだ酷薄な微笑に、青蘭はびくりと体を震わせる。
「吾に任せておけ」
 彼はそう囁くと、青蘭の頭をぽんと軽く叩いた。


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