絵画展にて
とある地方都市の、空き店舗だらけの商業ビルの三階。私は職場の先輩、遠田さんの紹介で、そこで開催される小さな絵画展へと足を向けた。高校のときに美術部だった私は、先輩の絵が拝見できると知り、わくわくしていた。
遠田さんは、五十代後半。課は違うが、温厚で、人当たりのよい人だ。四角い顔に、黒縁の眼鏡をかけ、もさもさした整わない白髪交じりの髪の毛が、あちこちに無造作に広がっている。芸術家というよりは、普通のおじさんである。
職場の人は口々に、「遠田さんの絵はプロだ。彼の母校にも三百号の油絵が飾ってある。数々の美術展に出品し、賞を貰っている」と言う。とにかく、素晴らしいらしいのだ。職場では、冴えないただの職員の一人に過ぎない彼が描く絵とは、いったいどんなだろうか。就職を理由に筆を置いてしまった私だが、そればかりが頭の中を駆け巡った。
バブルの頃に建てられたらしいそのビルは、殆ど廃墟状態だった。見た目もそうだが、中に入ってみると、更に酷い。一、二階の部分にテナント、三階部分が市民ギャラリーとなっている。テナントといっても、数えるほどしかなく、だだっ広い空間や、ビニルシートで囲われた部分が相当目立つ。若い女が一人で来るには少し勇気がいる。どちらかと言うと、用事がなければ来たくない所と言っても、過言ではない。
エスカレーターを上がり、三階へ。市民ギャラリーの受付が目の前にある。
私は、そこで自分が更に場違いなのに気付く。
二十代の女性は私だけ。あとは揃って、四、五十代のおじさんおばさんばかりだったのだ。
受付で名前を書き、遠田さんを探す。知らないところで絵を見るのは初めてで、誰かにいて欲しかった。ギャラリーの奥で別のお客さんと話していた遠田さんが、私の存在に気付き、近づいて来た。
「いらっしゃい」
仕事場で聞く、そのままの声で私を迎えてくれたことに、ほっとする。
たくさんの絵が飾られ、どこから見たらよいのか、全くわからない。困った私を見かねて、遠田さんは、一つずつ、解説してくれた。どういう人が描いた絵で、どういうところがよいのか。わかりやすく、丁寧に。
水彩画、油絵。小さな空間に、美しい色たちが私を誘う。
仕事を始めてから、めっきり「絵」というものに疎くなってしまっていた。今日は久しぶりに、心が癒される。
「どんな絵が好きなの?」
遠田さんに聞かれ、私は即座に、
「風景画がいいです。あの人の絵は、細かく描写されていていいですね。色も鮮やかだし。あと、この女性の、幻想的な絵も好きです。透き通っていて、癒されます」
と答えた。なるほどと頷き、少し黙る遠田さん。私は何か、余計なことを言ってしまったんだろうか。
「私のはね、こういう絵なんだよ」
彼は私の目を見ると、にっこり笑って奥の絵を指差した。その先に、大きな木の絵が二枚ある。
──私は、一目見ただけで圧倒されてしまった。
(う、うまい……)
正直、それ以外の感想が浮かばないくらい。
襖大の絵。巨木の根っこが、カンバスいっぱいに描かれている。
力強く、荘厳で、迷いのない色使い。
題材があまりに強烈で、私は足が竦んだ。
秋色に彩られたその巨木の正体は、川岸に落ちていた枯れ木なのだ、と彼は言った。
「私は、キレイな景色を描くほどの技術を持っていないからね。こういう、その辺に転がっている、素朴なものの方が、案外味が出るだろ?」
「はい……。そうですね。びっくりしました。こういう描き方もあるんですね」
「大きな木が転がっていたらね、私は喜んで車に積んで、家に持ち帰るんだ。そして、それを覗き込みながら、ああでもない、こうでもないと、仕事が終わってから懸命に絵筆を取って、納得するまで色を塗りたくるんだ。そうすると、ただの木が、違う生き物に見えてくる。自然が作り出した、美しさと言うものが、私にははっきりと感じ取られるんだ」
遠田さんの、絵を語る時の目は、きらきらと輝いていた。
仕事をしているときの遠田さんとは、全然違う人に見える。なんて、ステキなおじさんなんだろう。私は、職場の先輩としてではなく、人間としての遠田さんに、今まで以上の親近感を覚え始めていた。
「私が絵を描き始めたのは、実は、大分遅くてね。三十の頃にね、入院したことがきっかけだったんだよ」
「え……、そんなに、遅いんですか?」
自分の絵を一生懸命に見る私を気に入ったのか、彼は自分のことを語り始めた。
「そう、学生の頃なんて、絵筆を握ったことはなかった。事故を起こして足を骨折してしまってね、暫く入院していたことがあったんだよ。……その時にね、あんまり暇だったもんだから、絵を描き始めた。そしたら、コレが案外、おもしろくてね」
遠田さんは、高校卒業後、今の会社に就職し、それからずっと、仕事一筋だったらしい。でも、その入院のときのちょっとした出来事が、彼の人生を大きく変えていったようだ。
「誰に教わったわけじゃない、本当に、自己流だよ。だから、ここに一緒に飾ってあるほかの人の絵みたいに、上手には描けないんだ。技術がないからね。でも、思いの丈をぶつけるように、カンバスに向かうとね、とても気持ちが落ち着く。そうやって、好きなことをやっているうちに、だんだん、自分の描きたいものが描けるようになってきたんだ……」
言葉の一つ一つが、心に響く。
カンバスに塗られた油絵の具の色は、私の知っているどの絵よりも重く、そして、暖かい。存在感を作り出す陰の暗い色、そして木肌を撫でる、明るい光。様々な色が、折り重なり、そこに、本物の木があるような、臨場感。思わず、息を呑む。
身体全体を使って描かれている。その筆の運び一つをとっても、力強く、滑らかだ。
彼の二枚の絵には、人柄とその生き方が、はっきりと浮き出ているのだ。
私はふと、自分が油絵を描いていたときのことを思い出した。
なかなか、思うように色が出せなかった。特に、影の色。
「一番明るい色の隣に、一番暗い色があるのだ」と、美術の先生は言った。
しかし、私は、その、「一番暗い色」を塗るのが怖かった。どうしても、思うように暗い色を出せずに、どの絵もピンボケしてしまった。せっかくの絵も、色の濃淡が出せないのでは、見ていてつまらない。わかっていながらも、高校生の私には、それが出来なかった。
遠田さんの絵を見て、私は、自分が何故あの時、暗い色が出せなかったのか、漸く答えが出た気がした。──私には、確実に足りないものがあったのだ。
経験。
絵を習ったことがない、と言う遠田さんに出せて、私に出せなかった、影の色。それは、人間として成長して、初めて出せる色ではないのか。幾ら私が、あの時頑張っても駄目だったのは、私に暗い色を出せるだけの経験が、足りなかったのではないのか。
遠田さんは他のお客さんに呼ばれ、私の隣からそっと、いなくなった。
しかし私は、そこから暫く動くことが出来なかった。食い入るように、彼の紡ぎ出す色を見つめていた。
あれから、十年近く経つ。
久しぶりに、しまっていた油絵の道具を出してみた。
ツンと来る油とシンナーの臭いが、懐かしい。
カンバスと、足りない絵の具を新調し、筆を取る。
遠田さんが絵を描き始めたという、三十歳になった私は、高校の頃より、成長しているのだろうか。あの頃出せなかった、暗い、影の色を、今は迷わず塗ることが出来るだろうか。
怖い、と言う思いは、まだある。
それでも、描いてみよう。
私がもし、あの頃より大人になっていれば、きっと、出来るはずなのだから。
<終わり>