第六話・「サークルメーカー」
ああ、そうだ……。
純粋なまでの黒一色のストレート、何かを見透かしているような細目、そしてその神秘的な美貌。
先輩は、生きていたんだ。
ポチャ、
シュウジの手前で水が跳ねた。流れるがままに沈んでいく、一本のカッターが見える。
「それを使って」
シュウジはレイの方を向いた。彼女の手には不気味に血が付着したカッターが握られていた。
握られていた方の腕、その手首は無数の赤い筋が浮き出ている。リストカットの切傷だ。まるで赤色のボールペンで白紙の上をがむしゃらに書き殴ったような傷痕だ。
「……?」
言われるがままに沈殿したカッターを拾い上げる。
レイはうっとりとした微笑みを浮かべていた。
「危ないよ! シュウ……!」
カンナがシュウジに話しかけた瞬間、レイはその細目をかっ開いた。
あの見透かすのような目はどこへやら、業火を写生したように紅く、灼熱を帯びたようなその眼は、紛れもなくレイその者の眼、
その眼でカンナを睨みつけていた。
カンナはその威圧感に押されたのか、一歩一歩と退き下がっている。
「……これで何を?」
シュウジが低い声でそう言うと、レイは表情を元に戻して、
「一緒に死ぬの」
「一緒に死ぬ?」
シュウジが聞き返すと、
「そう、私達二人で死ぬの。でも、ただ死ぬんじゃなくて、愛する人に殺してもらうの」
レイはそう言いながら、うっとりと自惚れたような表情を浮かべていた。
その快楽に満たされたような表情。まるで自慰行為に絶頂に達したような表情だ。
フッ、とシュウジはあからさまに鼻で笑う。
「殺してもらうって……誰が先輩を殺すなんて言いました?」
シュウジは手に握っていたカッターを放り投げる。
「シュウジ……?」
カンナの傍により、安心しろと言うように肩を優しく叩き、
「俺は、“誰も殺さない“」
絶望を垣間見たような驚愕の表情をしたレイに対し、突き放すように告げた。
「……はは、ははっ」
レイは汚水に浸る髪と泣きべそかいたような酷い顔を上げ、
「面白いこと言うね、シュウジ。一度、私を殺しているくせに」
「何を言っているんですか、先輩。俺は、先輩のことを殺してなんか」
シュウジの発言が途切れた瞬間、レイは身を屈め、懐に収めるように握り絞められたカッターとともに突進してきた。
とっさの一撃、シュウジはカンナを遠くへと突き飛ばし、
「シュウ……!」
レイを“受け止めた“。
密着しあう後輩と先輩の二人、まるで臍の緒で繋れたように一本のカッターで繋れていた。
ピチャ、ピチャ、
雨漏りしたように赤い血が垂れ落ち、灰色の海に波紋を生む。
カンナはバシャバシャと音をたて、シュウジの元に駆け寄る。
「……!!」
幸い、腹には突き刺さってはいない。
しかし、その刃先丸出しのカッターはシュウジの手の平の中に包み込まれていた。
刃を直で握っているため、シュウジの手の平からは血がじわじわと溢れ出ていた。
それを間近で見てしまったミナミは一瞬、立ちくらみを起こしてしまい、
「ミナミ……!」
そのままアキラの体に倒れてしまった。――のだが、アキラは面倒くさそうにその体を払い除けた。
非常なまでの行動、とても人がするようなこととは思えない。
カンナはミナミの元に駆け寄り、水面に沈む前に何とか抱えて救い出した。
「ッ……!!」
カンナの体内に痛みが走る。
彼女もまた、怪我を負っているのだ。
次々と起こる問題のせいで、自分の事を忘れてしまっていたのだろう。
カンナは苦悶の表情を浮かべ、アキラを睨みつけた。
「あんた! 自分が何したか分かってるの?!」
アキラは何も口にしない。
ただ、真ん中分けされた長髪を捻っていた。わきに向かって跳ねた茶と黒の入り混じった長髪を、赤い半透明のサングラス越しから眺めていたのだった。
「ねぇ! きいてるの!?」
再び、無視。
一言ガツンと言ってやりたい気分だろうが、シュウジの方も見なければならない。
カンナはシュウジの方を振り向く。
シュウジはレイから距離をおいて立っていた。
徐々に後退りしていっているため、背後に立つカンナにぶつかる。
カンナはそれを支えた。
シュウジは支えられた手に気づき、後ろを振り向く。
「待ってて、シュウジ! 今何かで塞いで……」
もちろん、その場所に傷口を塞げるものなんてなかった。
この場所では、応急手当もできない。
それすらもできないのだ。
「こんなんどうってことねえよ。それよりお前はここから離れてろ」
再び、レイが懐にカッターを収めながら突進してきた。
「やだ! そしたらシュウ……!」
シュウジはカンナを突き飛ばす。
カンナは態勢を崩してしまう。そのまま尻餅をつく。弾かれた泥水に舞う。
突進してくるレイの目にその泥水がかかる。
レイの動きが止まった。
その隙を見て、シュウジはカンナの手を握り、
「ごめん。大丈夫だったか?」
カンナは立ち上がり、
「へっちゃらだよ! これくらい」
シュウジは一息ついたようにホッと笑う。
「歩けるのか?」
カンナは大きく頷く。
シュウジはカンナの手を強く握り、
「よし、行くか……!」
二人は、走り出した。
だが次の瞬間、カンナは立ち止まり、
「待って! ミナミの様子変なの!」
シュウジはミナミのいるほうを向いた。
「ミナミ!!」
ミナミは息を荒だてていた。
とても苦しそうな表情をしている。体中からは尋常ではない汗が溢れ出ているのが分かる。
「シュウジ、待ってよ……シュウジ」
よろけながらだが、レイがこちらに向かってきている。
このままでは、数分前の二の舞になってしまう。
だがしかし、ここでミナミを残すのは非常に危険な行為だ。
誰かのために命を張る意味はあるのか?
そんなことシュウジには関係なかった。
「ミナミ、歩けるか?」
しかし、現実は想像以上に残酷で、熱意ある者を冷酷なまでに弄ぶ。
「はぁはぁ……れる」
「え……?」
「赤ちゃんが、うまれそうなの……」
それはまるで“悪魔の悪戯“ように。
「赤ちゃんって……」
ミナミの腹は変わりなく、少したりとも孕んでいる様子がなかった。
見た目だけでは、完全に妊娠していたなんて分かるはすがない。
こんな平たい腹のどこに、赤ちゃんがいるのだろうか?
――アキラ。
そう、シュウジはミナミの腹の中の子の父親を知っている。
父親のすぐ傍にいるのだ。なのにアキラは動こうとしない。
なんで冷静でいられるのか?
シュウジはアキラの元に近づき、胸ぐらを思いっきり掴んだ。
「お前の子だろ……!!」
アキラは終始冷静な表情をしていた。あからさまに面倒くさそうな態度をしている。
「シュウジ、私と遊ぼうよ。また先輩と一緒に遊ぼう?」
後ろからレイが近づいてくる。カンナはそれに気づき距離をおく。そしてミナミをかばうように立つ。
狂いに狂ったこの時間を、一体どれだけの人が予想できたことか。
「何とか言えよ! アキラ!」
「――いいの、シュウジ君」
シュウジの怒号が飛ぶ中、ミナミの荒々しく乱れた声が聞こえた。
「だ、駄目だって! ミナ……」
ミナミが立ち上がろうとしている。カンナはそれを止めようとするが、
「ありがとう。カンナさん」
ミナミはそれを除けた。
そして、そのままゆっくりとレイの進行方向の前に向かい。
「……何度も死のうと考えていた」
レイがミナミの元に接近してきている。
「手首を切ったりして自殺もはかった。でも、神は私を死なせてはくれなかった。けど――」
ミナミは跪きそうになるが、何とか持ち堪え、
「これで死ねる」
最後の力を振り絞るように、背筋をピンッと立てた。
「――何が“死ねる“だよ」
だけど、その足は人間を訴えるように震えていた。
シュウジは荒々しく突き進み、ミナミの手首を握り締める。
その手首には、無数のリストカットの痕が。
「こんな“浅い傷“をつけたくらいで、よく死にたいなんて言えんな」
シュウジは、精悍な眼差しをぶつけた。
「死ぬなら勝手に死ねよ。それでお前が楽になるっていうなら、俺は止めやしない。だけど、お前の腹ん中の子はおいてけ――」
瞬間、ミナミの体に電流が流れたように震えた。
「お前の自己満足に付き合わされた子を、見す見す死なせるわけにはいかねえからな」
「シュウジ! 危ない!」
シュウジはミナミをかばうように前に出て、向かいくるレイのカッターを身を盾にし受けた。
瞼の上に傷が走り、破けたぬいぐるみのように開いた所から中の物が飛び出る。
真っ赤な血がビュッと勢いよく飛び出てきたのだ。
シュウジは一瞬よろけ、切られた方の目を血濡れた手で押さえ、
「ハァハァ……、どいつもこいつも、どうしてそんなに死にたがるんだよ」
レイがカッターを持つ手を握り、カッターを無理矢理引き離し、
「自分を理解してもらう努力をする前から、自分は一生懸命頑張ったみたいに思って、ただ自惚れてるだけなんじゃねえのか」
その無数のリストカットの傷が残った手首を強く握った。
「死にたいとか思う以上に、もっと強く生きたいって思えよ……!!」
シュウジは血を出し過ぎたのか、立ちくらみが起きたみたいに体を跪きそうになった。
カンナはシュウジの元に駆け寄る。そして、優しく支える。
「――ぼくは、強く生きたいと願ったけど、神に見放されたの」
灰色の霧の向こうから、背丈の低い人影が見える。
その声は幼い女の声だ。
人影が姿を現した瞬間、ミナミは絶句した。
我が目を疑うように、それを何度も目に焼き付ける。
腹を押さえ、窮屈そうな表情と声で、
「“ヒカリ“なの……?」
背丈一三○センチくらいの小柄な少女。髪は両端をゴムで束ねている。カジュアルな服装をしていて、一見男の子のようにも見えなくもない。
「久しぶりだね。お姉ちゃん」
ヒカリは、シュウジの顔を見る。
「きみが“神“、……いや、ぼくを殺した“悪魔“なんだね」
それは、忌まわしき交通事故の日のこと。
あの日、事故現場が慌てはためいている中、“ある車内“の中は事故現場並に慌てはためいていた。
“ある少女“が大量に血を流していたからだ。
“ある少女“が――、
「ヒカリ、どうしてあなたが生きて……、っッ! シュウジ君、私もう……!!」
事故により命を落としたはずの一人の少女、ヒカリが生きていたのだった。
「それも“筋書き“に描かれている事なんだよ。お姉ちゃん」
それは、神の筋書きか、
それとも、悪魔の筋書きなのか……。
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