第一○話・「主人公が死ぬ・(上)」
「――えっ、今日休むの?」
「うん。ごめん」
「いいよ。ゆっくり休むんだよー」
「うん。ありがとう」
インターホン越しからの会話はひどくあっさりとしていた。
まるで、いますぐにでも会話を断ち切りたいような、人との交流を拒絶しているようだ。
いや、実際に拒絶しているのかもしれない。
その事を誰にも知られたくないから。
――殺人があったことを。
シュウジの家は何事もなく日常が過ごされていた。
“殺人“に動じずにだ。
ブラウン管の向こう側で殺人の報道があったとしても大して動じることはないだろう。何故なら自分には全くの無縁であるから。
しかしそれが自分とは全くの無縁ではなかったらどうだろう。
多少は動じるものではないだろうか?
たとえば自分の家の近所で連続殺人事件があったとしよう。大抵の人間なら自分の家にも来てたら――と考えてしまうものだと思う。
シュウジの場合それが家の中で、しかも実の母が実の父を殺害した瞬間を目撃してしまったのに、全く動じずに日常を過ごしている。
まるで人の皮を被った化物のようだ。
シュウジの家は二階建てだ。二階は父の書斎やシュウジの部屋等に使われいる。
部分的に切断された父の死体を黒いゴミ袋に詰め込む。むろん腐敗臭が近所に嗅ぎつけられないように防臭もしてだ。
そのゴミ袋は父の書斎の棚に置いてある。そのためか二階は少しだけ臭う。
知ってのとおり、二階にはシュウジの部屋もある。
ほんのわずかな腐敗臭のするその階で寝たり遊んだりするのは困難以前の問題。もう父の死体がある二階なんて行きたくない。
だから、シュウジは母と一階のみで生活していた。
炊事洗濯はもちろんのこと、睡眠までもが一階で行なわれている。まるで漫画喫茶のような閉鎖的な場所で生活しているようだ。
それでも生活に困ることはなかった。
何故なら、こういう生活に慣れているからだ。
作家という仕事は集中力を必要とする仕事だ。母もシュウジも気を遣って父の書斎とは別の一階で生活することが暫しあった。
シュウジの父は有名な賞の候補に挙がる作品を書いた作家だ。次回作への期待はもちろんのこと、賛否両論の意見が嫌でも耳に入ってくる。
それが当然であることは十分に承知の上だが、なにぶんシュウジの父は作家以前に一人の人間だ。
シュウジの父の性格は簡単に言ってしまえば“俺様主義“だ。
自分の感性に合わない人間を全否定するような人間だ。作家としても人間としても、たとえそれがお世辞だとしても良い性格とは言えない。
その異常なまでの傲慢さに嫌気がさして“ああいう形“で幕を下ろされたわけだが。
その性格がゆえ、子供の見てない所で母に暴力を振るっていただろう。いや、それ以上に酷い事をしていたかもしれない。
だからといって、人を殺していいものなのか?
恨みがありました。暴力を振るわれました。無視されました。イジメられました。だから何だという話だ。
そんなもの殺人の理由にはならない。いや、殺人の理由そのものが存在しないのかもしれない。
そんなもの、ただ自分を肯定しているだけではないだろうか?
まるで断崖絶壁まで追い込まれた人間のように、選択肢がまるで見当たらないその場所で、人は最も進んではいけない道を選んでしまった。
ただ、それだけの話だ。
そこに躊躇いはあったのかは、断崖絶壁まで追いに追い込まれた人間にしか解らない。躊躇いもなくただ一途に殺したいと渇望したのか。
ブラインドが開かれ、そこから光が差し込みテーブルの上を照らす。そこで朝食を食べるシュウジは、髪をバッサリと切り落とし殺伐とした髪型に変わった母へ、こう聞いた。
「……恐くなかったの?」
その問いに対し、シュウジの母は歌うように、
「恐い。なんてないよ――」
こう言い、その“無機質な物体“へと指を向けた。
「本当に追い込まれた人間は、あの“人形“と同じで、人として生きていないの」
シュウジの母は人ではない。人だけど人ではない。それは表面的なものではなく内面的なもの。
人の心を見失った人だ。
シュウジは言葉を失い、ただ朝食を食べることだけに集中した。
その微笑ましい光景にうっとりと眺める母は、
「お願いだからシュウジ、お母さんを、独りにしないでね」
その表情とは裏腹に悲しい声でそう言った。
シュウジはぎこちなく、
「……う、ん」
返事をした。
殺人があったあの日、動物的勘が働いて逃げ出したタマが帰ってきていたのだ。
様々な憶測が嫌でも耳に入る。それは精神的苦痛へ変わり、シュウジにひどい不信感を根付けていた。
そんなシュウジが唯一信じる物、それがタマなのだ。
しかし、そんな唯一信じれるタマが三日前に外に遊びに行ったきり帰ってこなくなっていた。
台所で皿洗いをしている母にシュウジは心配そうな声で、
「タマ、帰ってこないね」
と言うと、母は皿洗いを止め蛇口を締めてエプロンの裾で手を拭いて、その手でシュウジの頭を優しく撫でる。
「大丈夫よ。お腹がすいたら帰ってくるよ」
一本の電話がかかってきた。
母は電話を受けに向かう。
一人取り残されたシュウジは、台所から電話の内容を聞いていた。
「まだ帰ってきてません。父がご迷惑をおかけして申し訳ございません。帰り次第、折り返しの電話を必ず入れさせます」
受話器を置く。
「また担当さんから?」
母は軽く頷き、重く煮詰まった表情をしながら、
「……シュウジ、どこか遠い場所で、二人だけで住んじゃおうか?」
と言ってきた。
シュウジは思わず、
「えっ……」
と、腑抜けた声を漏らしてしまった。
「もう、隠し切りながらの生活は限界だと思うの。今の担当さんや警察の人やお隣さんも――色んな人達が私達を疑ってるもの」
そう、母の言う通り、世間はシュウジの家を疑っているのだ。
中には興味のない者だっているだろう。しかし逆に言えば興味のある者もいることになる。
そういう者からすれば、近場の人間が一番怪しいと目星を着けるのは当たり前のことだ。
シュウジはあまり乗り気ではないのか、しばらくの間顔をうつむせたままの状態で固まっ――、
その時だった。
ブラウン管の向こう側から、女性アナウンサーの堅苦しい声が、聞こえてきた。
それだけを見れば、なんら珍しくも何もない日常的なことだ。
が、それが、何もないわけではなくて、ただ、無視できない内容だった。それならどうだろうか?
例えば、身近な人が殺されたとか。大事に飼っていた猫が、いや、
最も信頼していた物が殺されたとしたら、どうだろうか?
それも、見るも無惨な“一六個の残骸“に変わっていたら。
シュウジは見た。映された現場の地面に落ちる。見覚えのある白黒のリボン付きの鈴を。
刹那。シュウジの目が、死んだ。
世間では様々な憶測が飛び交えっていた。むろんシュウジのいた教室にもだ。
中には核心をついた憶測もあったが、だいたいは執筆に追い込まれ失踪したという、ありきたりな憶測だった。
しかし、そんな小さな憶測でも、
「シュウジが人を殺したって本当かな?」
教室全体に与える影響は、
「かもね。何か変なアニメの影響でも受けたんじゃないの?」
多大なるものだった。
それは同時に、シュウジへの不信感へと変わる。
だが、たった一人、いや二人の友達だけは信じていた。
カンナとアキラだ。
でたらめが飛び交う教室を止めるように、カンナは教卓の前に立ち、大きな声で叫ぶ。
「シュウジは、そんなことしない!!」
「じゃあ何で何日も学校休んでるの?」
途端、カンナは先ほどの勢いが沈んでしまった。
もうかれこれニ週間も経っている。
カンナはシュウジと学校に登校することを楽しみにしているため、毎朝シュウジの家に寄っていくのが日課だ。
そんな些細な日課への期待が薄れていた。
理由は簡単だ。
行っても断わられるからだ。しかも同じ言葉で返される始末。まるで精密機械のように。
威勢を張ったのはいいが、シュウジが何で休んでいるのか、その事が一番分からないのは自分自身だったのだ。
「ほら、やっぱりそうなんじゃん」
根拠のない否定は何の意味も持たない。言い張るからには核心的な証拠がある。だが、カンナにはそれがない。
決定的な切札のない勝負師に降りてくるのは、女神の祝福ではなく死神の洗礼だ。
嘲笑われるカンナを眺めるアキラの顔は悔しがっていた。
その感情は行動へと移され――その日の帰り、カンナとアキラは真相を突き止めることにした。半ば強引でも構わないという強い思いで。
シュウジの家。その玄関前にあるポストには沢山の封筒が入っていた。
そのポストを見て、カンナもアキラも目を丸くしていた。それもそのはずだ。ポストから飛び出るほどの量なんて漫画でしか見たことがないから。
しかし、今はそれに見とれてる場合じゃない。
例外になく、今回の目的はシュウジが学校を休む理由を問いただすためにきたのだから。
地面に埋まる高さが一定の石段が玄関手前へと導くように置かれている。
その周りに生える視界の邪魔にならないほどの小さな雑草の上をカンナとアキラが踏む。むろん、本人達はそこに生えていることも気づいていないだろう。
カンナとアキラは玄関前に立ち、確認をとるように顔を合わせる。
そして、アキラがインターホンを押した。
……何の反応もない。
念のため、もう一度インターホンを押そうとした。まさにその時だった。
目の前の扉が、ゆっくりと開かれたのだ。
「シュウ、――!!」
それを見た。カンナもアキラも、言葉を失ってしまった。
無理もない。
そこには、まるで死刑を下された人間のように、欠片の希望も見えないマネキンのようなシュウジがいたのだから。
ひどい顔だ。目のしたには何重にも刻まれた隈があり、頬に膨らみはなく、口元は青く滲んでいた。
子供もとより、人の形を失っている。
シュウジは枯れほそった声で、
「また、その目だ」
と、呟いた。
カンナとアキラは無意識の内に、
「シュウジ……?」
と、声を合わせていた。
蜩が鳴く初夏の黄昏。燃え盛るような茜色の空は何処へやら。景色は至って青天。ちっとも夕暮れを感じさせない景色をしている。
蜩が鳴く声が、
「みんなそうだ。みんなその目をして裏切っていくんだ」
消えた。
シュウジの瞳に写るものは、無数に立ち並ぶ仮面なのかもしれない。
ありもしない幻を見てしまっているのかもしれない。幻影さながらに。
己から幽閉することを望むように、扉は余韻無くして閉められた。
ありとあらゆるものを突き放すように。
カンナは泣いていた。おびえていたのだ。
「……ッ、馬鹿野郎」
アキラの声はおろか、カンナの泣き声さえも、今のシュウジには届くことさえなかった。
夏休みが迫る。
いや、厳密に言えば今日から夏休みが始まると言っても過言ではない。
土日の休み明けから夏休みが始まるのだが、子供達からすればその土日の休みも夏休みの一部分として扱われているのだろう。
子供達が夏休みを有意義に過ごそうと考えている間、シュウジとその母は逃避の準備を終えていた。
場所なんて決まってない。ただ、誰一人として人のいない。孤独の地へと。
夏休みと言えば、カンナの家はが家族全員で旅行に行くそうだ。
しかし、旅行先は海外らしく、ペットの連れていくのは困難らしい。
カンナはシュウジの家で産まれた猫をもらって、今も飼っているのだ。
しかし、先ほど言った通り、海外にペットを連れていくのは非常に困難なこと。
だからなのか、シュウジに言われた――『裏切っていくんだ』――ことの否定の意味を込めてなのかは分からないが、とにかくカンナはシュウジに猫を預けることにしていた。
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