第55話 野生のフールが現れた
スヴェルへと続く草原。
そこで八人の男達が三十を超える魔物の群を相手に奮闘していた。
黒髪の青年……瀬衣は王より与えられた武器である『カタナ』を振るい、自らに飛びかかる獣を切り捨てる。
地球に生息するハイエナによく似た外見の、だが体毛が毒々しい紫と桜色で構成された魔物、『フール』は平均レベルにして20程度の、鍛えた騎士や戦士ならばさほど苦労しない魔物だ。
しかしそれも数が少なければの話。こうも数が多ければやはり厄介な相手である事に違いはない。
「ふっ!」
だがそれでも瀬衣の心に足を止めるほどの恐怖はなく、剣も淀みなく冴え渡る。
一度、この世界最大の恐怖を同時に二人見てしまった事で逆に耐性が付いてしまったのだろう。
どんな敵や魔物を前にしても、『あのラスボス二人と比べればマシ』と思うようになってしまった。
加えて、武器がいい。
黒翼の王墓にあったという武器は恐ろしいほどによく斬れ、瀬衣の未熟さをカバーしてくれる。
横目で仲間達を見ればクルスは天法で的確に味方を援護し、ジャン達はそれぞれの武器で荒っぽく魔物を切り捨てている。
ガンツは戦斧の一振りで数体の魔物を同時に叩き斬り、フリードリヒは野生の獣さながらの動きでフールを踏み潰し、爪で引き裂き、そして噛み砕いていた。……いや、剣使えよ剣聖。
「グゥオオオオオオオ!!」
剣聖が吼え、それに魔物達が怯えた。
野生の獣は強さに敏感と言うが、彼等もまた己とフリードリヒの差を察したのだろう。
蜘蛛の子を散らすように逃げ、その場には静寂が戻った。
「……うっ、ぷ」
戦いが終わり、緊張感が解ける。
すると瀬衣を襲ったのは、猛列な吐き気だった。
咄嗟に手で口元を覆い、何とか吐き出すのを堪える。
大分慣れてはきたが、それでも己の手で生き物を殺める事にはまだ抵抗がある。
勇者だろうが、ちょっと前までは平和な日本で暮らして、自分が食べる肉ですら既に加工された状態でスーパーなどに並んでいたのだ。
己の意思で殺した生き物など、それこそ虫くらいしか思い付かない。
夏場の蚊を潰しても別に何とも思わないが、それが犬や猫となれば当然そこには嫌悪感と抵抗感が生じるだろう。
それと同じ事だ。
だがそれでも吐き出すという無様は晒せない。
勇者とは名ばかりの道化だという事はとうに自覚している。あの超越者達から見れば自分などそれこそ虫ケラ同然だろうし、文字通り眼中にもない小物だ。
しかし見栄というものがある。
力が足りなかろうが勇者の名に相応しくなかろうが、それでもそういう存在として喚ばれて、それに応えてしまった以上、勇者として振舞う義務が生じる。
こんな自分を勇者と呼んでくれる人達がいて、何も知らずに期待の眼差しを向けてくれる人達がいる。
だから無様は晒したくない。
彼等の中にある、吹けば飛ぶような希望。それを見栄と薄っぺらい外面だけで守る事しか今の弱い自分には出来ない。
だから、せめてそれを今は続ける。それが助けを求めるあの声に応えてしまった己の責務だからだ。
喉を通り越して口の中にまで出てきた胃の内容物を、無理矢理飲み込む。
「おいおい、まだ慣れないのかセイ? そろそろ魔物くらいザクッと殺れるようになんなきゃ、きついだろ」
「……そう、かもしれませんね」
仲間の一人であるジャンの言葉に肯定しつつも、瀬衣の内心は否定していた。
自分はこれでいい、と思う気持ちがどこかにあるのだ。
確かに魔物相手に躊躇するようではやっていけない。それは分かる。
慣れなければいけない。慣れたくないなど我侭だ。それも分かる。
だが同時に、何も感じずに生き物を殺せる人間になりたくないという思いもあった。
矛盾――吐き出すという無様は晒せない。だが何も感じずに生き物を殺せる自分にもなりたくない。
決して両立し得ぬそれを、しかし瀬衣はあえて抱え続けていた。
命を奪う重みをいつまでも恐れ続けていたいと思う。それを忘れてしまっては、それは彼の信じる正義に反する。
いずれ帰る日本は法治国家で、そこには人が人である為の法があり、モラルがあり、常識がある。
そこに帰る時になって、誰かを殺す事に何の躊躇いも持たない自分にはなっていたくない。
警察は確かに悪人を捕らえる。必要ならば発砲して命だって奪う。
だが喜んで銃を向け、嬉々として発砲し、相手を殺す事に悦ぶようでは、それはもう警察官でも何でもない。法を盾にした殺人者だ。
だがこの世界ではそれが正義だ。雄雄しく戦場に立ち、何の躊躇もなく魔物を狩れる者が優れた戦士であり、勇者なのだ。
それは、瀬衣が目指す父の後姿には近いようで、限りなく遠い姿であった。
(わかってはいたんだけど……ゲームの勇者ってのは向かないな、俺……)
甘いという自覚はある。
『優しい』のではない。『甘い』のだ。
覚悟が出来ていないし、心構えもなっていない。
自分の意思で助けを求める声に応えたくせに、今も地に足が付いていない。
己の足は確かにミズガルズの大地を踏んではいるものの、心は未だ平和な日本に置き去りにしたままだ。
だから仲間に迷惑をかけてしまうし、どうしても日本の常識やモラルを優先してしまう。
無鉄砲に飛び出すだけなら簡単だ。正義感に突き動かされるままに前進しようと思えば出来る。
だがそれを可能とする実力が伴っていない。心構えが出来ていない。
そんなのは勇気ではなく無謀であり、故に瀬衣は自身を勇者だなどと考えてはいなかった。
(無謀、なんだよな……今の俺は)
ルファスと魔神王を倒してくれと言われた。
だがそんなのは今の自分では不可能だ。というかあれは生物が戦える相手なのだろうか。
今の瀬衣は絶対に無理と分かっていながら進んでいるに過ぎず、それはただの無謀でしかない。
だから勇者ではない。そう呼ばれるに値しない。
それでも、皆がそう呼び期待してくれるから、それを裏切る事も出来なかった。
だから、まずはせめて勇者になろうと思った。
まだスタートラインにすら立っていないこの後ろ向きな心を、せめて無謀から勇気へと変えたかった。
恐怖から目を逸らして歩くのではなく、恐怖を知ったまま歩きたかった。
そうしなければきっと、何が正しくて何が悪いのかさえ区別出来ない。
都合のいい事ばかりを見て、自分に都合の悪いものから目を逸らす。そんな奴が正しい判断を下せるものか。
(皆、怖がってる……見ようとしていない。
ルファス・マファールは強すぎて怖い。だから悪だ。倒してしまいたい。いなくなって欲しい。
……俺だってそうだ。出来れば二度と会いたくない。
だが……だが、だ)
瀬衣には一つの疑問があった。
とても仲間達には話せない、彼だけが抱く疑念。
異世界から呼ばれたからこそ、先入観なしに辿り着いた一つの仮説。
――ルファス・マファールは本当に敵なのか?
(皆不自然なまで彼女に悪感情を抱く。
あの魔神王との会話だって、そこまで深くは考えずに悪党同士が何か勝手に納得し合ってる、としか捉えていない。
だがあの会話、俺にはどうも違って聞こえた。
200年前の戦いも女神とかいうのが仕組んだ事だって魔神王は言っていた。
……なら、“今もそうなんじゃないのか?”。
その、仲間だったはずの7英雄が彼女を討つほどの不自然さ。
心の操作? 恐怖感の増長? 一体どういうカラクリかは分からないけど、それは今も続いているんじゃないのか?)
このスヴェルに来た理由は、賢王メグレズに出会い、打倒覇王と魔神王のヒントを貰う為だ。
あるいは、勇者の力を伸ばす方法を彼ならば知っているのではないかという期待もある。
何せかつて一度はレベル1000の頂へと到達した生き証人だ。
今の時代の人類が知らない特殊な鍛錬法を知っていると考えた方がいい。
だが瀬衣の目的だけは別にあった。
瀬衣だけは覇王打倒の為ではなく、200年前の事を詳細に知る為にここへ訪れている。
他ならぬ賢王本人に200年前の事を聞く事で、ルファス側の事情も把握したいと考えたのだ。
知らずには進めない。戦えない。
何も知らずに視野を狭くして勝手に悪党と決め付けて。それで発砲した後に『やっぱり間違いでした。御免なさい』では済まないのだ。
かつて警官だった父は瀬衣に語った。
『銃を向ける相手を間違えるな』と。
警察官は法の後ろ盾がある。罪人を捕らえる権力がある。
だからこそ警察官は誰もよりも平等に相手を視なくてはならない。
一方の言い分だけを聞くのではない。双方の事情や言い分を理解し、その上で公平に正しい答えを出す義務がある。
『父さんは間違えたんだ……悪くない人を捕まえて、15年もその人の時間を台無しにしてしまった挙句、その人は自殺してしまった。
なあ瀬衣、もう父さんは正義の味方じゃないんだよ。
だから……お前は俺のようになるな。正義感だけで突っ走って、過ちを犯す男にだけはなるな』
そう言って、責任感とストレスとの板挟みで白髪だらけになった父は、自棄酒を呷った。
父は正義の人だった。
いつだって弱い人の味方になりたいと願い、優しい人達の幸せを願っていた。
その為に毎日働いていたし、そんな父の姿が瀬衣の誇りだった。
自分もいつか、あんな男になるのだと憧れた。
その気持ちは今も変わらない。
(大丈夫だ父さん……俺は何とか冷静だよ。
いや、正直結構テンパッてるけどまだ大丈夫だと思う。多分、きっと、恐らく。
間違えるな、だろ? 分かってるよ。一方の言い分だけで判断なんかしないさ。
向けちゃいけない相手に銃は向けない。……いや、今持ってるの刀だけどさ。
むしろ何で異世界に刀があるのか分からないし意味不明なんだけどさ。
でも大丈夫だ。……俺は、銃口を向ける先を絶対に間違えない)
勇者、と呼ばれながら未だ勇者未満であると自覚する少年は強く思う。
彼等が望む、無慈悲な正義の死神にはきっとなれないだろうと。
この世界で期待される勇者には、きっと自分は力不足だ。
それでも心に建てた柱は揺らがない。父から受け継いだ正義はちゃんと心の中に通っている。
だから見付けてみせる。人々が望む敵を倒すだけの『勇者』ではない、自分だけの勇者の姿を。
この手の中には『正義』という名の凶器がある。
己には『勇者』という名の大義名分があり、大国の後ろ盾がある。
だからこそ間違えない。間違いは決して許されない。
盲目的に与えられた正義を遂行するのではなく、勇気を以て正しい答えを出せる者。
きっと、それこそが本当の勇者なのだと思うから。
(……問題は)
チラリ、と後ろを見る。
そこでは虎が吼えながら、既に戦意喪失した魔物達を追いかけている狩り場が展開されていた。
そこは正義も悪もない。ただ空腹を満たしたいという本能だけがある。
獲物が目の前にいる。背を向けて逃げている。ならば追いかけて喰う! それが全て!
相手の言い分など知らぬ。腹が空いたから喰う。そこに悪も善もあるものか。
野生に――気取った理屈など要らぬッ!
(……矛先を全力で間違えそうなこのパーティーメンバーだよなあ……)
ガフガフと魔物を喰らう虎を見ながら、瀬衣は遠い目をした。
曲がりなりにも人類なんだから、せめて焼いて喰えよ。と思いながら。
書籍の方も何だかんだで無事にそこそこ売れているようで、皆様ありがとうございます。
いくつか売り切れている店もあるそうで、とりあえず爆死は回避出来た感じでしょうか。
……後で時間差で爆死とかなければいいなあ。