茨姫に目覚めのキスを
東の空からほんのりと白味を帯び始めたばかりの早朝。夜の名残で鬱蒼と暗く翳った山に通された細い道路の斜面を、一人の少年が黙々と上っている。そろそろ冬に入り始めたこの時期、山道の辺りは白い霧が立ち込めて視界がとても悪い。ところによっては崖に面した道路のガードレールが壊れ、車通りも限りなく少ないそこは、早朝に来るには危険性の高い場所だった。
しかし、少年の足取りは軽快で慎重を期しているようには見えない。ほんの十メートル先さえも閉ざす白い闇の中を、平然と慣れた様子で進んで行く。
少年は濃紺色のブレザーの制服姿で、肩には膨らんだ学生鞄を重そうに抱えている。少し眠たげに下がった目元を長めの前髪が隠し、パッと見ただけでは表情は分かり難い。こんな山道にさえいなければ、至って普通の特筆すべき点のない少年だった。
やがて寂れた山道の先に鈍色のフェンスが現れた。よくよく目を凝らして近づけば、フェンスの向こうに古ぼけた西洋風の塔が建っているのが分かる。手入れもされず伸び放題の茨や蔦に石壁は覆われ、幽玄に聳える光景は現代日本の山中では非常に不自然で不適合である。
少年は一度だけ足を止めて塔の威容を目に入れ、すぐにフェンスに沿って右方向に向かう。少し行くとフェンスに人が充分にくぐれる大きさの穴をあった。少年は身をかがめてそこからフェンスの内側に侵入する。その時、大きな学生鞄を持ちこむのに多少手間取った。
フェンスの内側は例によって雑草がぼうぼうと生えているが、一カ所だけ草が踏み倒され、道ができあがっている。何度も行き来されて自然と仕上がった道筋を少年は苦も無く進み、塔の入り口に続く段差を上って、頑丈そうな扉の前に立った。
そっと少年が片手の平を扉に押し付ける。すると、それほど力を込めた風でもなかったが、扉はギギィと軋みを上げて内側に開かれる。
塔の中に入ってまず目にするのは、薄闇に映える赤紅色の絨毯である。入ってすぐにある螺旋状の石階段へ訪問者を導くように、入り口から階段の上の方へ伸びている。螺旋階段は塔に造られた最上階の部屋へ直通の構造となっており、目的地まで延々と階段が続く。
少年はちらっと見通せる最上階までの石階段を眺め、はぁと憂鬱そうなため息を吐く。それから肩の学生鞄を抱え直し、絨毯に沿って階段を上り始める。ここまで山道を来たこともあり、長い螺旋階段は少年にそれなりの疲労感を与えるものだった。
ようやく階段を上り切った時、少年はうんざりとした顔を隠さずに木製の扉を見た。錆びた鉄の錠が掛けられ、長い年月で変色した扉に先ほどと同じく片手の平を押し付ける。数秒の間を置いて、脆そうな錠がかちりと音を立てて開錠される。グギィ、と破滅的な音を上げて扉はまた内側に開かれた。
連続する不思議な現象を気にも留めず、少年はあっさりと塔の最上階にある部屋へ足を踏み入れる。部屋の中はこれまで以上に年代を感じさせる様相を呈していた。現代的な電気の明かりなどなく、足元を照らすのは西洋の灯籠に燃える火である。床には幾何学的紋様を描く絨毯が広がり、石壁には色褪せた金縁の絵画が飾られている。白いクロスのかかったテーブルの上には薔薇を象った工芸品が添えられ、脇に寄せられた家具には細かい彫りが刻まれている。
造られたばかりの頃なら優美だったはずの内装は、どれも経過した時間の流れに負け、廃墟然とした虚しい雰囲気を醸し出していた。
少年はそれらの装飾品には一切目を向けず、部屋の最奥に向かう。そこにもう一つ小部屋があり、少年の来訪を喜ぶようにそこへ続く扉は開け放たれている。
小部屋の中には大きな天蓋付きのベッドが設置されていた。この塔唯一の窓にはステンドグラスが嵌められ、そこから外のかすかな日差しが降り、ベッドの付近を明るく照らす。窓から漏れ出す光は脇に立てられた姿見に鈍く反射していた。
そっと少年が息を殺してベッドに近づくと一人の少女がすやすやと心地良さそうに眠っていた。目の覚めるような見事な金髪をシーツに広げ、大きなクマのぬいぐるみを抱えて安眠する少女はとても美しかった。胸がかすかに上下していなければ精巧な人形に見間違えそうである。
重たい学生鞄を床に下し、少年はベッドの端に腰掛けた。そのまま、何やら複雑な表情で少女の寝顔をしばらく見守る。だが年頃の少女の寝顔をじっと凝視する不作法をそう長くは続けられず、はぁと大きなため息を吐いて少女の方へ身を乗り出した。
少女の顔にかかったひと房の金を手で払いのけ、しばしの躊躇の後、少年は少女の頬に顔を寄せて静かに口づけた。そして少女から身を離し、様子を見守る。
すぐに少女は目覚める気配を見せた。かすかな声を漏らし、秀麗な眉を寄せてもぞもぞと動き始める。まだ眠っていたい、と言わんばかりの反応だった。
「おい……、まだ寝足りないのか」
少年が呆れた顔でつぶやくとほぼ同時に、少女はまぶたを震わせて碧玉の瞳を露わにした。何度か瞬きをして、ゆっくりと視線を少年の方へ滑らせる。
二人の視線が交差し、沈黙が流れた。
静かな空気を破ったのは、少女のくすっという小さな笑い声。
「おはよう、王子さま」
「……それ、やめてくれないか」
開口一番に出た台詞に、心底嫌そうに少年は顔を歪める。
それさえも可笑しいとばかりに少女は寝起きにくすくすと笑い続ける。
「ほんっとに、性格の悪い姫さまだな」
「あら、これでも国元では優しいと評判の王女だったのよ?」
「それは単に外面が良かっただけだろ。だいたい、何百年前の話だ」
「さぁ、分からないわ」
さも他人事のように小首を傾げて、少女は華奢な身体を起こす。
「そもそも、わたしの国は本当に存在したのかどうか」
「もし存在しなかったとして、だったらあんたは何者だよ? 魔女に呪われたお姫さま」
「わたしのせいじゃないもの。うっかり金の食器を用意し損ねて魔女をないがしろにしたお父様が悪いのよ」
「そりゃそうだ」
少年は苦笑してベッドから立ち上がり、ベッドから降りようとする少女に手を貸す。少女の方も有り難く少年の手を取り、とんっと柔らかい絨毯の上に立つ。ごく自然な動作で行われたそれは、少年が見目麗しい騎士か王子だったら、とても絵になったことだろう。
少女は手で金色の長髪を梳き、寝巻きの裾を直して少年の方を一瞥する。少年も弁えたもので、ひとつ頷くと学生鞄を拾い上げて隣の部屋を指差す。
「向こうで朝食の準備はしておくから、早く着替えて来いよ」
「ええ。……例の、米とかいう穀物じゃないでしょうね?」
「大丈夫だって。今日はパンを用意してる。にしても、何でお米の良さが分からないかなぁ」
「あんな味のないもの、食べられないわ」
「はいはい」
つん、とそっぽを向いた少女の姿に笑みを零し、少年は大人しく隣の大部屋に移った。寝室を出るとすぐにまた扉は勝手に閉じられる。
少年は部屋の中央にあるテーブルに近づき、学生鞄をそこの椅子の上に置く。それからジッパーを開け、がさごそと学生鞄を漁った。
学生鞄から取り出されたのは、近隣の有名なスーパーのロゴが入ったビニール袋だ。その中には幾つかの菓子パンとサンドウィッチ、紅茶のペットボトルが入っている。次々とテーブルの上に広げられたそれらは、中世的な内装と凝った装飾のテーブルにとにかく似合わない。
しかし、少年はどこかちくはぐに見える光景にはまったく頓着せず、食器棚から必要なものを取り出してくる。時が経っても鮮やかな絵を模様にした割れ物は明らかに高級そうで、少年の手つきも自然と慎重なものになった。
多少食器の準備に手間取ったものの、比較的早くに朝食の準備は終わった。綺麗なテーブルクロスの上に置いた上品な皿にサンドウィッチを乗せ、横の陶器のティーカップに紅茶を入れている。その向かいの席は同じように紅茶を用意してあるだけで、菓子パンが無造作に放り出され、その席に少年は座っていた。
朝食の準備が一段落して暇になった少年は、制服のポケットから薄青の携帯を取り出して操作する。薄暗い部屋では眩しい光を放つディスプレイに、ようやく人々が起き出す時間帯が表示されていた。この塔には窓もろくになく、時計は当然のようにない。決められた一日の予定を持つ少年としては、例えこの塔の中で不思議と電話・メール機能が使えなくても、携帯は必須だった。
それから携帯の時計が約十分の経過を記録した頃、やっと隣の部屋に続く扉が開いた。
姿を現した少女は、塔の内装によく似合う深緑色を基調としたドレスを纏っていた。ドレスの裾はAラインにふんわりと広がり、ひらひらの袖が肘の辺りまである。両手には白いハンドグローブを嵌め、肌の露出はとても少ない。金糸の髪もきちんと結い、先ほどの寝起き姿を微塵にも見せない完璧な出で立ちである。
少女はドレスの裾をつまみながら少年の下まで来ると向かいの席に優雅な動作で腰を下した。それから、にこりと少年に笑みを向ける。
「待たせてごめんなさい」
「いや、もう慣れたよ。女の支度に時間がかかることは知ってる」
「そう。結構なことね」
さながら、中世ヨーロッパに迷いこんだかのような少女の姿にも少年は動揺ひとつ見せない。ぱちん、と携帯を閉じて制服のポケットに直しこみ、椅子にきちんと座り直す。
二人は目を合わせて互いの用意が整ったことを察するとそれぞれの方式で食事を始めた。少年は日本人らしく合掌していただきます、と言う。少女はこぶしにした右手を胸の中心に当て、瞑目して精霊の恵みに感謝を、とつぶやく。
少女の国では神よりも自然に生息すると言う精霊を重要視し、信仰の対象としていた。すべての作物の恵みは精霊の助力に寄るものであり、日々の感謝を捧げる相手もやはり精霊である。それゆえに食事の挨拶もまた、それに沿った形式となるのだ。
ばりっと音を立てて少年が菓子パンの袋を開け、かぶりつく。その対面では少女が三つ指でサンドウィッチを掴み、上品に食べていた。互いの生まれや時代の差を物語るような食事風景であったが、不思議と二人が同席する姿はしっくりと馴染んでいる。
互いが食事を半ばまで終える頃、少年がおもむろに口を開いた。
「なぁ、毎朝のあれは本当にどうにかならないか?」
「そろそろ諦めたらどう? 人間、諦めが肝心だと言うでしょう」
「俺は何でお前がそんなに平然としていられるのかが分からん」
少年は軽く嘆息して、首を横に振る。
その姿に少女は食事の手を止めて、わざとらしく小首を傾げると鮮やかな笑みを浮かべ、おかしそうに言った。
「眠り姫を起こすのは王子さまのキス。物語の定石じゃない」
「……まったく」
ろくな反論もできず、少年は苦々しい表情で目の前の美しき姫君を軽く睨み付けた。
正真正銘、王族の姫君であった少女はただ艶やかに微笑み返すだけである。
「何でお前が眠りの森の『茨姫』で、俺がそれを救う『王子』なんだ?」
*****
むかしむかし、ある国にお妃さまと王さまがいました。仲のよいお二人でしたが、子どもがありせん。二人は子どもができますように、と毎日かみさまにお願いしていました。
ある時、お妃さまが泉で身をきよめていると蛙があらわれて言いました。
「お妃さまの努力はむくわれます。一年いないにお子をさずかるでしょう」
やがてお妃さまは予言どおり身ごもり、うつくしい女の子を産みました。
王さまのよろこびもお妃さまのよろこびも大変なもので、王女さまのために盛大なパーティがお城でひらかれました。
さて、その国には七人の魔女がいました。しかし、お城には魔女たちをもてなすための金の食器が六つしかありません。王さまは魔女たちをパーティに招待しましたが、ひとりの魔女はよばれませんでした。
招待された六人の魔女たちはそれぞれ王女さまに祝福の魔法をかけました。
さいしょの魔女は、せかいじゅうで一番うつくしい女性になれる祝福を、
つぎの魔女は、天使のようにやさしい心を持てる祝福を、
三番目の魔女は、おどろくほど優雅にふるまえる祝福を、
四番目の魔女は、だれよりも上手にダンスを踊れる祝福を、
五番目の魔女は、どんな鳥よりもうくしい声で歌える祝福を、
六番目の魔女は、どんな楽器もみごとに演奏できる祝福をさずけました。
祝福の魔法をかけた魔女たちがテーブルにつくと、それぞれの席には金でつくられたスプーンとナイフとフォークがならべられていました。
そこへ七人目の年老いた魔女があらわれましたが、テーブルの用意はありません。
年老いた魔女は怒って言いました。
「よくものけものにしたな。王女は十五の年に糸つむぎのはりで死ぬことになるだろう」
そこにいたものは皆おどろき、お妃さまはたおれてしまいました。王さまはお妃さまを助けおこし、魔女たちは王女さまのもとへあつまります。
それを見た年老いた魔女はいじわるそうに笑い、突風をおこして去っていきました。
「大変なことなった」
王さまは大変しんぱいそうです。
あるやさしい魔女がすすみでて、王さまに言いました。
「あの魔女の魔法は大変つよくてとくことはできません。でも死なずにすむようにしてあげましょう。王女さまは百年ねむるのです。百年たてば、王子があらわれて王女の魔法をといてくれるでしょう」
やさしい魔女に王女さまの未来はやくそくされましたが、安心はできません。
王さまは国じゅうの糸つむぎをすべて焼きはらい、糸つむぎで糸をあむことを禁じるという触れをだしました。
王女さまはすくすくと育ち、十五の年になりました。
ある日、王女さまが庭にいるとコットン カラカラ コットンとふしぎな音がきこえてきました。
「まぁ、なんの音でしょう」
音はお城のたかい塔のほうからきこえます。
王女さまはながいながい階段をのぼって行き、塔の最上階の戸をたたきました。
そこでは一人のおばあさんがコットン カラカラ コットンと糸をつむいでいました。
「おばあさん、なにをしているの?」
「糸をつむいでいるんだよ」
「わたしにもできる?」
「ええ、きっと上手くできますよ」
王女さまが糸つむぎに近づくと、そのゆびに糸つむぎのはりが刺さりました。その瞬間、王女さまはばったりとたおれてしまいます。
「ひひっ、上手くいった」
おばあさんは笑い声をあげてたち去りました。そのおばあさんは、王女さまに呪いをかけたあの年老いた魔女だったのです。
王女さまがねむりについたことを知り、王さまは大変かなしみました。そして王女さまのために用意していた塔のねむりのへやに王女さまを寝かせました。
そこへ、あのやさしい魔女があらわれて王女さまのねむる塔に魔法をかけました。みるみると塔のまわりを茨がおおい、深い森ができて塔をかくしました。
これでだれもねむれる王女さまには近づくことはできません。
王女さまはこんこんと百年かんねむりつづけました。
ちょうど百年がたったある日、塔の近くを王子さまがとおりかかりました。
近くの村でねむりつづけるうつくしい王女さまのはなしをきいた王子さまは、深い森をわけいり、塔にむかいました。
王子さまがあらわれると塔をおおっていた茨はみるみるとすがたを消し、王子さまは塔の階段をのぼって最上階へたどりつきました。
そこにはせかいじゅうで一番うつくしい王女さまがねむっていました。王子さまがそのほほに口づけをすると、王女さまはぱっちりとめをさましました。
王女さまにかけられていた魔法がとけたのです。
そして王女さまと王子さまは結婚し、すえながくしあわせにくらしました。
*****
「めでたしめでたし、と現実は簡単にいかないものよ」
食後の時間を携帯の操作で潰していた少年は、ぽつりと零された言葉を聞いて携帯のディスプレイから目を離した。怪訝そうな顔は少女に説明を求めている。
その正面で少女が紅茶の入ったティーカップに口を付け、ひと息ついている。少女はティーカップをソーサーの上に戻し、とんとんと指先でテーブルに置かれた一冊の本の表紙を叩いた。
ティーカップ以外の食器は全て片づけられ、テーブルにはいくつか薄い本が重なっている。その中で少女が示したのは、一般に絵本に分類されるもので、表紙には丸みを帯びたひらがなで『いばらひめ』と印刷されていた。
少年は絵本の題名を見ただけで納得の表情を浮かべた。その絵本を手に取り、最後のページを開いてテーブルに広げる。そこには眠りから目覚めた王女と王子が周りから結婚を祝福され、幸せそうに微笑む姿が大きく描かれている。
先ほどの発言からして、少女にこの絵本の結末に思うところがあるのは想像に難くない。
そして少年も、ある程度は少女の不満を理解している様子で、苦笑いを浮かべている。
「確かに、目を覚ましたら百年後でした、なんて悲劇だよな」
「ええ。文字は読めない、常識は通じない、頼れる知人もいない。普通の幸せを掴むだけでも大変なのに、そうそう簡単に幸せになれるわけないわ」
鮮やかな絵柄に添えられた物語の締めの短い文を目で追い、少女は端麗な顔をしかめている。絵本に注がれる視線はどこまでも冷ややかだ。
少年はただ肩をすくめるだけで、肯定も否定も返さなかった。その代わり、絵本をめくって前のページを開く。そこには王女と王子の初めての出会いが綺麗に描かれている。少年はとんとんと王子の絵を指先で叩き、辟易とした表情で指摘する。
「それを言うなら、何でわざわざキスで起こすんだ? 普通に起こせばいいだろ」
「面白みがないからでしょう?」
「ああ……なるほど、そう言うことか」
少年はさらにうんざりとした顔になって嘆息する。
「魔女の美学に付き合わされるこっちは、たまらねえよ」
「ええ。でも美学だけが原因でもないはずよ」
ぱらっと少女は絵本に手を伸ばし、ページをめくる。新たに開かれたページには、年老いた魔女の魔法に掛かって倒れた王女に、優しい魔女が眠りの魔法を掛ける場面が描かれている。優しい魔女の杖の部分の絵をとんとんと指で叩いて、少女は眉をひそめている。
「どう考えても魔法の利き過ぎでしょう。百年どころか、数百年は眠ってしまったようだし……極め付けに毎回『王子』の口づけがないと目覚められないなんて」
「魔法を通り越して、もはや呪詛だな」
「……何にしても、不便すぎるわ」
少年の物言いに複雑な表情をして、少女は目を伏せる。
しばらく二人は黙って『いばらひめ』の絵本をじっと眺め、不意に顔を見合わせた。二人の顔にはそれぞれ、諦念と苦慮の色が濃く表れている。
少年はずっと浮かべている苦笑を深くし、少女は困ったように眉を下げて言った。
「もう、魔女に嫌われてるとしか思えないだろ。お姫さま」
「ええ。そう考えた方が楽そうね」
二人はひとつの結論を弾き出し、目の前の絵本へ視線を戻す。
『茨姫』――別名『眠りの森の美女』として世界的に知られる子ども向けの恋愛物語である。百年の眠りに就いたお姫さまが王子さまの口づけで目を覚まし、幸せになるのだ。
しかし現実は童話ほど優しい終わり方ではないことを二人は身を以て知っている。
何故なら、少女は『茨姫』その人だからだ。かつて糸紡ぎの針によって魔女の呪いに倒れた少女は、優しい魔女に約束された百年が経っても目覚めることはなかった。予言された王子は塔に現れず、眠りの魔法は解かれないまま、少女は延々と永い時を眠り続けてきた。
しかし、三ヶ月前。現代日本に生きる平凡な高校生に過ぎない少年は、何かに引き寄せられるようにして、魔法によって茨に守られたこの塔を訪れた。少年を前に塔を隠していた茨は消え失せ、少女はその口づけによって遅すぎる目覚めを迎えたのである。
ぱたん、と少女がテーブルに広げられた絵本を閉じた。表紙には美しい王子と王女が並んで描かれているが、王女の色彩以外は現実の少年と少女に似た箇所は欠片も見出せない。現実と絵物語の差は苦境に立つ二人にとって、煩わしいものにしか映らなかった。
少女は絵本を他の本と混ぜて視界から取り去り、少年の方を見て尋ねる。
「少し気疲れしてしまったわ。休んでもかまわない?」
「まぁ、少しだけなら。……さっき起きたばかりでよく寝られるよ」
「逆ではない? 今までは眠っている方が普通だったのよ」
「いや……普通寝飽きないか」
少年は怪訝そうに言うが、少女は小さく笑って否定する。
少女はまだ紅茶の残されたティーカップに手を伸ばした。その中身はペットボトルの大量市販品だが、少女のしとやかな動作からはそうと分からない。ゆったりと少女は紅茶を味わった後、ティーカップを元の場所に戻す。それから少女はひと息吐いて器用にドレスをさばき、立ち上がった。
少年は豪奢な天蓋付きベッドを備えた隣室を一瞥して、少女に尋ねる。
「あっちで休むのか?」
「ええ。テーブルも椅子も硬くて、気持ち良く休めないでしょう?」
「贅沢な話だな」
「そう? 傍にあるものは利用しなくてどうするの」
くすっと少女は艶やかな微笑を返し、するりと少年に背を向けて隣室へ向かう。主人を迎えるようと勝手に開いた扉の奥に、深緑色のドレスに彩られた華奢な姿はゆっくりと消えていく。
少年は無言のうちに軽く肩をすくめ、隣室の扉が完全に閉まる前に声だけ届ける。
「しばらくおやすみ、お姫さま」
「おやすみなさい」
ぱたん、と少女の去った部屋に扉が閉まる音だけが響く。
しばらく少年は隣室の方を見ていたが、やがて椅子の背に深く身体を預けた。だらけた姿勢で天井を斜めに仰ぎ、長い前髪に隠れた両目を静かに閉じる。
そのまま、少年も椅子に座ってしばしの休憩に入った。
*****
ぴぴっと中世ヨーロッパを思わせる塔に不似合な電子音が、静謐な空気を見事に破く。薄青の携帯から橙色のランプの点滅と共に発される警告音は、数十秒に渡って部屋の空気を侵した。
仮眠を取っていた少年は不快そうに眉をしかめ、眠たげな目をゆるゆると開く。繰り返される電子音は少年の耳の奥にこびりつき、二度目の仮眠に落ちる意欲を削いでいた。少年は軽い吐息をもらし、気だるげに腕だけ動かす。その手が携帯を開き、特定のボタンを押せば電子音は止まった。
機能に忠実な携帯が知らせたのは、少年の登校時間である。毎朝、塔を出てちょうどよく高校に辿り着ける時間帯に携帯の警告音は鳴るように設定されている。
少年は大きな深呼吸をして、休めていた身体を起こした。頭を横に一度大きく振り、こびりついてくる眠気を振り落とす。手に持った携帯は制服のポケットに直し込み、足元に用意していた学生鞄を拾い上げて肩に掛けた。
「……起こすか」
そのまま塔を出ることはなく、少年は隣室へ足先を向けた。
例によって小部屋へ続く扉は一人手に軋みを上げて開き、少年の来訪を歓迎する。少年が小部屋に入るとやはり扉は勝手に閉まった。
少年は寝起きの鈍い動作で天蓋付きの豪奢なベッドに近づき、中をのぞきこんだ。
早朝に訪れた時と同様に、ベッドには身体を丸めた状態でドレス姿の少女が寝息を立てている。傍には茶色のクマが寄り添い、少女の芸術的な美貌も手伝って、まるで精巧な人形とぬいぐるみがベッドに置かれているようだ。
少年はベッドの端に腰を下し、少女の寝顔をのぞき込んで小さく笑う。
「まだ寝たいのか、お姫さま。――俺は『王子』なんて柄じゃないぞ」
少女は今なお、厄介な魔法の効果に捕らわれている。眠りの魔法は数百年も少女を眠らせただけでは飽き足らず、少女が一度意識を落とせば『王子』である少年の口づけを受けない限り、新たな目覚めを許さない。少女は少年なくして朝を迎えられないのだ。
それこそが、少年が毎日早朝から塔へ通って来る最大の理由であり、少年の悩みの種である。
「……仕方ない」
少年はしばらく悩ましげな視線を少女に送り、やがて諦めた様子でつぶやく。少年の口づけがなくては、少女はこのまま延々とまた眠り続けてしまう。――何年も、何百年も。
ベッドの上で上半身を乗り出し、少年は早朝にしたように少女の頬へ、そっと口づけた。
そのまま傍で少年が見守る先、少女はすぐにまぶたを震わせ、目を覚ました。今朝のような眠気の残滓のない、爽快な目覚めのようだ。
少女はぱちぱちと長いまつげを瞬かせ、ふわりと花が開くような柔らかい笑みを少年に向ける。
少年もまた、小さく苦笑をもらして見つめ返す。
「おはよう、王子さま」
「ああ、おはよう」
――かくして『茨姫』は『王子』の口づけで目を覚ます。