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           第9話
 夏海が働き始めて数週間が過ぎた時のこと。
「私、如月先生の秘書と言われたんです! これ以上、一条先生の仕事もしないといけないなら、辞めさせていただきますっ!」
 主婦で派遣の三沢桃子が、半泣きで、副所長の如月に直訴した。
「両方の仕事をしてるんですよ! それなのに……アレも出来てない、コレも充分じゃないって……。そんなに優秀なら、秘書なんか必要ないと思います! ご自分で全部やられたらどうですかっ!?」
 皆、興味津々で覗き込んではいるが……如月が視線を移すと、サッと逸らせる。誰も、貧乏くじは引きたくないと思っているからだ。


 如月もそれが判るので、深く溜息を吐く。
 ――何人目だろう? 数えるのも煩わしくなる。確かに、そのうちの何人かは、上司である聡に叱られたら、ブラウスのボタンを外して誤魔化そうとするような連中ではあったが……。
 だが、今回は違う。聡の苛立ちの理由は、如月の目には明白だった。彼は、意を決して夏海に視線を向ける。
「織田くん。悪いけど…一条の秘書を兼任してくれるかな? 秘書検定も持ってたよね」

「いえ、それは困ります!」「だったら、秘書なんかいらん!」
 二人の声が重なった。
 だが、如月は言葉とは裏腹に、子供に説教するように聡に言った。
「なに子供染みたことを言ってるんだ。秘書は必要だろう」
 そして、夏海に向き直り、
「雑務は他に分担して、業務管理とサポートだけでもお願いしたい。ワード打ちの清書だけなら、司法書士でなくても出来るしね。それなら、三沢くんもOKだろ?」

 三沢桃子の表情が変わった。如月の妥協案を、頭の中で計算してるようだ。
 ――このご時世だ、他所より明らかに給料の良い派遣先を、自ら辞めたくはない。というのが本音だろう。
「如月先生の秘書に戻していただけるなら……。私では、一条先生のご期待には応えられませんから」
 それでも嫌味だけは言い足りなかったようだ。聡も反論せずに黙っている。
「じゃあ、そういうことで。織田くんは、奥の所長室の次の間で業務を頼むよ」
 人当たりの良い如月に、ソフトな口調でお願いされたら……ノーと言えない夏海だった。


 ホッとした表情で荷物を引き上げる三沢とは対照的に、夏海は重い足取りでフロア左奥の所長室に向かう。
 一つ目のドアを開けると六帖程度個室があり、その奥が所長室だ。抱える仕事は多いが、それほど大人数の事務所ではない。弁護士には個室があるが、派遣をはじめ事務は全て正面の事務フロアで行っている。
 副所長である如月の部屋は、所長室とは事務フロアを挟んだ対面にあり、次の間は、秘書ではなく、経理で如月夫人の双葉が使っていた。

 夏海は秘書のデスクに座り、いざ仕事に掛かろうとして呆然とした。聡が一番仕事を抱えているのは知っている。だが、管理が全く追いついていない。デスクもパソコンも、全てが中途半端なまま雑然としていた。どうやら、聡が秘書を次々追い出すので、仕事は溜まる一方らしい。後回しにしても無難なファイルは、数ヶ月前の案件が放置されたままだった。

「さっさと済ませてくれ」
 いかにも面白くなさそうに、夏海を一瞥もせず、吐き捨てるように言う。
「ご冗談でしょう? これをさっさと済ませられる量かどうかお判りにならないなら、弁護士の看板は下ろされたらいかがですか?」
 売り言葉に買い言葉で、ついつい夏海もケンカ腰になる。
 しかし、それは聡も同じのようだ。
「自分の能力のなさは棚上げか?」
「私はいつ、秘書としてこちらに雇われたんでしょう?」
「……クビにすることも出来るんだぞ」
「されたらいかがです」
 室内に火花が飛び散った。
「……なるほど、三年前は見事に猫を被っていたわけだ。それが君の本性か? 恐れ入ったな」
 いい加減、夏海も限界を超えそうだ。
「また、それですか? あなたが、何を仰りたいのかさっぱり判りませんが……。私は三年前に、見事に一回り年上の男性に騙されて、妊娠した挙げ句に捨てられました。結婚が決まっていたなんて知りもせず。――子供には可哀想なことをしました」
 少し視線を逸らすと、空を見つめ、ハッキリとした口調で夏海は言った。


 自分に一切の非はない……そう言わんばかりの夏海の態度に、聡も、これまで以上の怒りを覚える。
「私に対する面当てなら、見当外れもいいところだ。そんなに言うのなら、DNA鑑定を受けようじゃないか。私は構わない」
「鑑定は拒否します。あなたは息子とは無関係です」
「なら、そんな当てこすりは不愉快だ!」
「私の本性を問われましたので、お答えしたまでのことです。――それとも、一条先生は女性を弄んで捨てた経験がおありですか?」
「……」
 正面からキッパリ言い切られ、聡は言葉もなかった。

 これほどまで、頭の切れる女だとは思っていなかった。父や弟から、夏海は優秀だと聞いてはいたが、聡は夏海の恋する乙女の部分しか知らなかったのだ。
 聡は即座に話を切り替え、
「そっちが一区切りついたら、口述筆記に当たってくれ。速記は?」
「出来ます」
 その後、二人は視線を合わすことなく、個人的な会話はそれぞれの思惑で控えた。

 所長室に戻り、聡はデスクの椅子に腰掛け……無意識でノートパソコンを開き、すぐに閉じる。ドアの向こうが気になり、どうも集中出来ない。
(あんな、生意気な女だったとは……)
 それは、確かに不愉快な応対ではあった。しかし、打てば響くような夏海の反応に、聡は不思議な心地良さも感じていたのだった。

御堂です。ご覧頂きありがとうございます。
この辺りで一番気になったのが如月が夏海を呼ぶ「なっちゃん」……勤務中にコレはないな、と(苦笑)
改訂版では「織田くん」に替えました。
拍手&メッセージお待ちしております。


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