〜第1章 再会〜 第5話
――三年後。
夏海は窓から桜を見つめていた。あの日から、この時期は毎年胸が苦しくなる。大好きだった桜が、あの年を境に大嫌いになった。
「もろともに、哀れと思え山桜……か」
「人生の終焉の歌だね。若い娘が口ずさむ歌には相応しくないな」
「今はそんな心境で……あ、すみません! つい」
「すまないね。事務所がこんなことになって……本当に申し訳ない」
「高崎所長……そんな風に仰らないで下さい。今まで雇っていただけて、本当に助かりました。もうお歳なんですから、体が良くなったら、後はのんびり過ごしてください」
三年前、夏海は一条物産を退職した。しばらくはバイトで繋ぎ、一昨年の秋、高崎の行政書士事務所に雇って貰ったのだった。
高崎は七十歳を越す高齢だ。つい先日、心臓発作で倒れ、病気を機に事務所を閉じることになったのだった。
高崎には一人娘がいて鹿児島に嫁いでおり、退院後はそちらに行くことになった。事務所には六十過ぎのパートの事務員がいたが、これを機に引退するとのこと……。
行政書士は、ほかに夏海ひとりだけだ。彼女はすぐに、新しい仕事を探す必要があった。
「君の再就職先はあたってるから……。娘の大学の同級生が税理士でね、今、法律事務所の経理をやってるらしい。そこが司法事務が欲しいとのことだから、君なら司法書士でもあるからぴったりだろう」
「法律、事務所ですか……」
当然だが、弁護士がいるだろう。まあこの東京には、全国二万を超える弁護士の半数近くがいるのだから、ピンポイントで会うことなど有り得ないが……。
「娘の同級生のご主人が弁護士さんなんだ。如月さんと言ったかな。君の履歴書を廻しておいたから……二,三日中に連絡があると思うよ」
(雇ってもらえたら良いのだけど……)
夏海にはハンディキャップがある。資格があるにせよ……二十六歳でハローワークに通うことはしたくなかった。
〜*〜*〜*〜*〜
築何十年だろう。昭和を思わせる古めかしい、良く言えはレトロなビルの四階に、高崎の事務所はあった。四階建てで、今時エレベーターも付いていない。客は、二度目からは必ず、一階の喫茶での打ち合わせを希望したものだ。
今日で、事務所の片付けも終わりだ。所長が紹介してくれた再就職先から、まだ、連絡はなかった。
入院中の所長を急かすのも躊躇われて……自力で探すしかないか、と思い始めていた時だった。
――カタン。
もうほとんど仕事もないため、ゆっくり出社した夏海だったが……。そんな彼女が事務所に入った途端、奥の給湯室から人が出てくる。
「安部さん? どうして?」
二十年近くもパートの事務を務めたという安部昌子だ。夏海の軽く倍は、横に風格がある。四人の子供を育て、七人の孫がいるという子育てのエキスパートだ。夏海にとって頼れる存在であった。
「ああ……なっちゃん、荷物取りに来たら、お客様でね。お茶出しておいたわよ。所長室のソファに通してあるから、後よろしくね」
「お客って?」
業務関係の引継ぎは全て終わったはずである。新規の客など論外だ。気色ばむ夏海に、
「なんでも、なっちゃんの再就職を所長に頼まれたって。弁護士さんって言ってたかな」
「そう……連絡がないから、履歴書で落とされたんだと思ってたわ。採用されたら、明日からハローワークに通わなくて済むんだけど」
「頑張って!」
安部の声援に笑顔で応え、夏海は所長室に向かう。それでも、違和感は拭えない。面接なら普通呼びつけるだろう。それを、何故……。
夏海は戸惑いながらドアをノックし、中に入る。
「失礼致します。お待たせ致しました。行政書士の織田です」
一礼して正面を向いた時、彼女の視線は凍りついた。
窓から差し込む朝日を背に、一人の男が立っていた。忘れたくても忘れられない男、一条聡、その人だった。
「随分久しぶりだな」
「何を……なさってるんですか」
悔しいが夏海の声は震えていた。会いたくなかった。この男にだけは、二度と、一生会いたくなかった。
「高崎所長の娘さんと、私の共同経営者である如月弁護士の妻は同級生なんだ。君の履歴書を見せられた時は驚いたよ」
なんたる偶然! 最悪だ。何も、一万分の一で神様も引き合わせてくれなくてもいいのに……夏海は頭の中で可能な限りの悪態を吐いた。
「そ、うですか……。わざわざ、不採用を告げに来られたわけですね。ご苦労様です。では……お引取り下さい」
そう言うと夏海はドアのノブに手を掛けた。しかし、聡が言い出したのは信じられない言葉だった。
「そうしたいところだが……司法文書を作成できる人間が辞めてね、人が居るんだ。君も急に仕事が無くなって困ってるんだろう? うちで」
「お断りします!」
聡の言葉を遮り、夏海は即答した。
「なんだと!」
「あなたの元で仕事をするつもりはありません。どれだけ困っても、お断りします。お帰り下さい」
手にしたノブを回し、夏海はドアを開いた。そのまま、聡が所長室から出て行くように無言で促した。
「なら裁判だな」
「は? どういうことです」
「君の長男だ。非嫡出で認知もされてない。あの時、妊娠したと言っていた子供だろう。よくも勝手に産んでくれたな。父親は、私か匡の可能性もある。一条の血を引く子供を、君の手に委ねられるものか! DNA鑑定を要求する!」
心臓が早鐘を打つようだ。まさか、子供を取り上げようとするとは思わなかった。無関係を主張して、追い払われるとばかり思っていた。
「あの子は私の子供です。あなたには何の関係もないわ!」
「それが科学的に立証されれば問題ない。そうでなければ、いずれ君が子供の親権を盾に、財産を寄越せと言って来ないとも限らないからな」
「ふざけないで! 今までだってお金には困ってたわ。でも、どれだけ苦労しても、あなたのお金だけは一円も要らない! 鑑定は拒否します。裁判にしたければしなさいよ。高名な企業弁護士の一条先生が、結婚直前に一回り年下の小娘を妊娠させて捨てたって明らかになるだけよ。それでも良かったらどうぞ!」
三年前のように、聡の怒声に震えているわけにはいかなかった。夏海は毅然と顔を上げ、正面から聡を睨みつける。
しかし、聡の瞳も揺るがない。触れると火傷しそうな、ドライアイスのような眼差しで高い位置から夏海を見下ろした。その奥には紛れもなく、侮蔑の感情が籠められている。
「金目当ての女に引っ掛かったのはこれが初めてじゃない。笑われるのは慣れてるさ。司法に携わる人間には相応しくない、君のふしだらな下半身も同時に明らかになる。私や匡の子でなかったら、君の犯した罪を子供が一生背負うことになるだけだ!」
「私の罪? あなたの罪は誰が背負うの!?」
「君のような女と関係した……その報いはすでに受けてるさ」
聡は夏海を睨み、吐き捨てるように言うのだった。
ご覧いただき、ありがとうございます。
第1章は情景の描写が浅かったので少し追加しました。
それと、かなり視点が飛んでるので、可能な限りまとめてみました。
いや、文章力・構成力がしれてるので、大して変わらないと言えば、変わらないんですけど(苦笑)
拍手&メッセージお待ちしております。
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