第49話
「さあ……どうかしら」
「双葉さん?」
双葉は無条件で同意してくれると思っていた。だが、今度ばかりは違うようだ。
「夫婦って二人で夫婦って言うのよ。家庭もそう――どちらかが頑張って作り上げて、相手に与えるものじゃないの。迷いながら、間違いながら……それでも諦めずに作り続けて行くのが夫婦で家庭だわ」
双葉の言わんとすることは判る。でも――
「……でも、聡さんは一方的に切り離したのよ! 私を信じてくれなかったわ。迎えに来てくれなかった。待ってたのに……ずっと、探し出して迎えに来てくれるって信じて待ってたのよ!」
双葉に言っても仕方ない。判ってはいても、夏海は止まらなかった。
「そうね、辛かったわね。――でも、一条くんも同じだったとは思わない?」
「同じ?」
夏海は心の奥がピクッと震える。
「二人でしっかり手を繋ぎ合って進める時もあるけど……。誤って手を離してしまうこともあるわ。あなたが掴んでくれたら、私も握り返すわって言ってる限り、どんどん離れて行くんじゃないかしら?」
「でも、でも……私は、愛してるって言ったわ! 信じて、って……それなのに」
夏海の言葉に肯きながら、双葉は言った。
「頑固な男よね。素直に自分の過ちも認められないし、頭を下げることも出来ない。前も言ったけど、幾つになっても変わらず、馬鹿ばかりやってるわ。三年前もそうだったはずよ。ねえ、なっちゃん。あの馬鹿の何処にあなたは惚れたの?」
――聡は、自分より遥かに高い所にいる。何でも判っていて、彼に出来ない事など何もない。
そう、信じていた。
双葉の言うように、聡が「馬鹿な男」だなんて、夏海は一度も思ったことはない。聡の心を求めて、上ばかり見て必死に探し続けてきた。でも、彼の愛は何処にもなかったのだ。
でも……聡は、初めから、夏海の思い描いた場所には居なかったのだとしたら?
聡に逢いたい。
逢って、自分は聡の何を愛したのか、確かめたい。そう思う夏海であった。
〜*〜*〜*〜*〜
身辺はあらかた片付いた。最後に、離婚届が夏海に届くように手配すれば、すべて終わり、だ。
家政婦から、夏海が悠を連れて実家に戻ったと聞いた。その時を狙ったように、聡は久しぶりに、我が家に足を踏み入れたのであった。
わずか三ヶ月足らずの結婚生活だった。夏海のいない数週間、出来る限り悠とともに過ごした。これが最後になる、と思ったからだ。
悠の姿を見ていると、知らず知らずのうちに涙が浮かんだ。息子が初めて笑い、立ち上がり、パパと呼ぶ日の感動を、愚かな嫉妬から逃したことを痛感した。次に生まれる子も……そんな奇跡の瞬間に、自分は立ち会えない。
何処で間違えたのか、なぜ信じなかったのか。真実を知ったあの日から、聡は自らに何百、何千回問いかけただろう。
――情状酌量の余地はない。
それが自身に下した判決であった。
人生の最も重要な場面で大きなミスをしてしまった。聡は、良き夫、良き父親の役を降ろされ、その出番は永久になくなったのだ。
今の彼にとって唯一の救いは、お腹の子供が助かったことであろう。夏海は拒むだろうが、自分の持つ全てを子供たちに与えてやりたいと信託財産に替えたのだった。
短かった幸せな日々を脳裏に浮かべつつ、聡はヒルズのマンションに独り、佇んでいた。彼の手元にあるのは、家族三人で撮った、数少ない写真である。これを持ち出すためだけに、彼はわざわざ戻ってきたのだった。
写真の夏海は、ぎこちなくだが微笑んでいた。
その笑顔を見るだけで聡の心が震える……際限なしに幸福を与えてくれる、人生で唯ひとりの女性だった。
そっと愛する妻の笑顔を指でなぞると、
「愛してるよ……夏海」
静かに微笑み、そう口にしたのだった。
「――本当に?」
その瞬間、信じられない声を耳にする。
「!?」
慌てて振り向いた聡の目に映ったのは、写真とは違う、笑顔の消えた妻……夏海だった。
夏海は、スッと聡の隣に立つ。彼が手にした写真を見て、これまでになく、ハッキリと不満を口にした。
「本当は寂しかったのよ。悠をあなたに奪われそうで。あの子は何も知らずに、あなたに懐いてしまうし……」
「判ってる。何も言わなくていい。全てが私の間違いで、私の罪だ。これまでの言葉を全部撤回する。責任は取るよ。だから」
バシンッ!
努めて冷静に、自分の非を詫びて身を引こうとした聡の頬に、夏海の怒りが飛んできた。
「何が判ってるの? お金なんか要らないって何回も言ってるじゃない! あなたはまだ、私のことをお金目当ての娼婦のように思ってるの!?」
「違う! ただ……私には金しかないんだ! 金で詫びるしか」
「そうやって逃げるのね。また、あなたに捨てられるんだわ。私のことも、赤ちゃんも……愛してるなんて、嘘ばっかり」
夏海の怒りの炎は燃え盛り、聡を焼き尽くす勢いだ。これまでずっと、この炎から、偽物の盾を手に持ち、必死に我が身を守ってきたのだ。愚かにも程がある。
最早、身を守るものは何もない。無防備な心を曝け出し、夏海の審判を仰ぐ以外にないのだ。
「そうじゃない! 如月が……全てを調べてくれた」
なぜ、友人まで自分に嘘を言ったのか……そんな聡の疑問に答えてくれたのは、如月だった。
「なあ、聡……友達に聞いた時、織田夏海って名前を出さずに、『弟と付き合ってる秘書』って聞かなかったか?」
「それは……ああ、そうだったかも知れんが」
それが何を意味するのか聡には判らない。
「当時、匡くんには二人の秘書がいた。夏海くんは第二秘書で、社内で『常務とお楽しみの秘書』って言えば第一秘書のほうだったそうだ。彼は勘違いしたんだよ」
如月は、随分言い難そうであった。それもそうだろう。こうなれば、まるで駄目押しである。
「第二……秘書、だと。そんな馬鹿な」
聡は、徹底的に叩きのめされ、己の愚かさを突きつけられ――やり直しの可能性など、口にすることすら出来なくなってしまったのだった。
ご覧頂き、ありがとうございます。
「夏海が聡に逢いに行く」に至る心理描写を、双葉との会話で増やして見ました。
次回、最終回です。
ぜひ、ご覧下さい。
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